仲正昌樹「ネット時代の反論術」 (06年。文春新書)
2009年9月22日 読書
もしかしたらご存知の方もいるかもしれないが、先日私が書いたブログに対して誰かから非難めいたコメントが書き込まれた。名前も連絡先もわからないクズの書き込みなど放っておくのが最も良い対処法なのだが、私もその辺が未熟なもので、ついコメントで返事をしてしまう。
すると、「私はただコメントを述べただけです」などと、いかにも自分が公正中立なことをしているという態度で見当違いなコメントをまた書き込まれてしまった。
「ああ、俺はナメられてる」
そう感じた私は、それに関わるコメントを全て削除し、ブログのコメント機能も停止してしまう。別に第三者の感想を求めているためにブログを更新しているわけでもないし、そんな機能なんかいらねえや、と判断したからだ。
そして、しばらく反省をしてみる。この件に対する私のやり方は果たして妥当だったのかと。そう考えているうちに、部屋に置いてあったこの本を思い出し、ひと通り読んでみた。今日はこの本について書いてみたい。
「ネット時代の反論術」というタイトルをパッと見た限り、上の私のようにブログや掲示板で不快な書き込みをされた時の対処法らしきものが書かれている、と思ってしまうだろう。
しかし、これを書いている人は現代思想などを専門に研究をしている仲正昌樹さん(現・金沢大学法学類教授)である。そんなストレートな内容とはかなり違う。本書の「始めに」でも仲正さんはこう書いている。
全くその通りであるけれど、反論したり人を貶めたりしたいと思った人にとっては冷水をかけられるような指摘である。このような文章が冒頭で書かれている通り、本書は反論だの論争だのと関わることがどれだけ不毛であるかを新書1冊を通じて延々と説く内容となっている。
あとがきの「終わりに」では、
と書いている。反論しよう、相手を潰そう、という考えをどうやって押さえるか、ということがこの本の隠れたテーマなのかもしれない。
この本は、
始めに
第1章 反論するなら目的意識をもて
第2章 見せかけの論争
第3章 論理詰めのパターン
第4賞 人格攻撃するケース
第5賞 土俵が違う場合にどうすればよいか
終わりに
という構成になっている。一見すると「反論術」を具体的に教えてくれる内容っぽいが、やはり実際の中身はそういうものとはかけ離れている。
仲正さんは「論争」というものを3パターンに分けている。
(1)見せかけの論争
議論している相手を倒すのではなく、別に目的のために「論争のふり」をしている場合。自分の周りにいる人から「良くみられたい」、もしくは自分のイメージを回復したい、というためにする。政治家がする論争はこのパターンが多く、世間一般ではあまり見られない。
(2)「相手」をちゃんとみて論争する
論理詰めで、なおかつ形式を整えた論争。仲正さんが言うところの、本当の意味での「ちゃんとした論争」である。ただ、このような論争はめったになく、「見せかけの論争」よりも少ない。
(3)「反論」という形を通じてとにかく相手を潰したい
相手をやっつけて「ぎゃふん」というところを見てみたい、という大人げない動機を持っているとき。具体的には、ブログや掲示板という場で匿名で人を糾弾してくるようなクズを対処したい場合など。
個々のケースを要約するとこういうことだ。しかしながら、仲正さんは各章でいちいちこのような指摘をする。
「第2章 見せかけの論争」の冒頭では、
と書いている。「第4賞 人格攻撃するケース」にいたっては、
とまで言う始末である。
仲正さん自身も論争みたいなものに何度も巻き込まれている。そうした経験から、こういう結論を「終わりに」で述べている。
この本を読んだ人も同じような心境になれば、本書の目的は達成されたことになるのだろうか。
概要はこんな感じだが、「仲正昌樹の本」としての本書の魅力というか特徴も指摘しておきたい。現代思想や法について研究している人なので、仲正さんの著書は全体的に中身は難しい。専門書としては「カンタン系」であるとよく書かれているが、一般の人にはハードルが高めと感じることはしばしばである。しかしこの本はテーマが俗なためか、かなり読みやすい作りになっている。小泉純一郎の「ワンフレーズ・ポリティックス」、日本共産党の政党アピール、「朝まで生テレビ」など「論争」が起きる現場の具体的な例がイメージしやすいためだろうか。そして、仲正さんなりの説明している部分はハッとさせられる箇所が多い。いくつか列挙させてもらう。
いずれも、カーッとなった頭で「批判」や「論争」めいたものをしようとする行為を諌めるような指摘が並んでいる。
だが、私が最も「やられた!」と思ったのは「話の通じない相手」をどうするかという箇所である。仲正さんは最も良い方法を、
これには一本取られた。しかしながら仲正さん本人も、これはなかなかできないと書いてもいる。
やはり、次善の策として出てくる「無視する」というのが最もやりやすい対処の方法な気がする。
すると、「私はただコメントを述べただけです」などと、いかにも自分が公正中立なことをしているという態度で見当違いなコメントをまた書き込まれてしまった。
「ああ、俺はナメられてる」
そう感じた私は、それに関わるコメントを全て削除し、ブログのコメント機能も停止してしまう。別に第三者の感想を求めているためにブログを更新しているわけでもないし、そんな機能なんかいらねえや、と判断したからだ。
そして、しばらく反省をしてみる。この件に対する私のやり方は果たして妥当だったのかと。そう考えているうちに、部屋に置いてあったこの本を思い出し、ひと通り読んでみた。今日はこの本について書いてみたい。
「ネット時代の反論術」というタイトルをパッと見た限り、上の私のようにブログや掲示板で不快な書き込みをされた時の対処法らしきものが書かれている、と思ってしまうだろう。
しかし、これを書いている人は現代思想などを専門に研究をしている仲正昌樹さん(現・金沢大学法学類教授)である。そんなストレートな内容とはかなり違う。本書の「始めに」でも仲正さんはこう書いている。
無論、ちゃんとした教養があって、紳士的に会話することのできる立派な人格者であれば、他人に言われてなくても、きちんと論理的に、相手の言うことを整理し、きちんとした言葉で、反論できる術を身に付けているはずなので、こんな新書を読む必要はないだろう。そもそも、こういう新書を手に取ろうとする気にさえならないだろう。(P.10)
全くその通りであるけれど、反論したり人を貶めたりしたいと思った人にとっては冷水をかけられるような指摘である。このような文章が冒頭で書かれている通り、本書は反論だの論争だのと関わることがどれだけ不毛であるかを新書1冊を通じて延々と説く内容となっている。
あとがきの「終わりに」では、
この本は雑駁な構成になっているという点を差し引いて考えてもらっても、全体的に、「反論する技術」の解説本にはなっていない。どちらかというと、何が何でも相手に勝とうとする反論合戦がいかにバカらしいか、そのためにいろいろな手練主管を使うことが、いかに消耗させられることであるか、アイロニカルに距離を置いてみる内容になっている。もっと端的に言えば、「バカに対して反論するなんて、基本的に同じレベルのバカのやることだから、やめといた方がいいですよ」、というメッセージがこもった内容になっている。(P.214)
と書いている。反論しよう、相手を潰そう、という考えをどうやって押さえるか、ということがこの本の隠れたテーマなのかもしれない。
この本は、
始めに
第1章 反論するなら目的意識をもて
第2章 見せかけの論争
第3章 論理詰めのパターン
第4賞 人格攻撃するケース
第5賞 土俵が違う場合にどうすればよいか
終わりに
という構成になっている。一見すると「反論術」を具体的に教えてくれる内容っぽいが、やはり実際の中身はそういうものとはかけ離れている。
仲正さんは「論争」というものを3パターンに分けている。
(1)見せかけの論争
議論している相手を倒すのではなく、別に目的のために「論争のふり」をしている場合。自分の周りにいる人から「良くみられたい」、もしくは自分のイメージを回復したい、というためにする。政治家がする論争はこのパターンが多く、世間一般ではあまり見られない。
(2)「相手」をちゃんとみて論争する
論理詰めで、なおかつ形式を整えた論争。仲正さんが言うところの、本当の意味での「ちゃんとした論争」である。ただ、このような論争はめったになく、「見せかけの論争」よりも少ない。
(3)「反論」という形を通じてとにかく相手を潰したい
相手をやっつけて「ぎゃふん」というところを見てみたい、という大人げない動機を持っているとき。具体的には、ブログや掲示板という場で匿名で人を糾弾してくるようなクズを対処したい場合など。
個々のケースを要約するとこういうことだ。しかしながら、仲正さんは各章でいちいちこのような指摘をする。
「第2章 見せかけの論争」の冒頭では、
「見せかけの論争」の場合には、自分は相手なんか見ていないんだ、ギャラリーを見て話しているのだということをちゃんと自覚することが大切です。周囲に対する自分のイメージの改善、あるいは回復が目的であって、相手を論理でやりこめるとか、人格的に痛めつけることは目的ではない、と自分の中で割り切っていないとダメです。無論、そういう目的意識を持つというからには、自分自身にもともと”守るべき良いイメージ”があるということが大前提です。周りから何とも思われていないのに、イメージを悪くしないように頑張るのはただのバカです。(P.60)
と書いている。「第4賞 人格攻撃するケース」にいたっては、
この章での主題は、相手の人格を傷つけてぎゃふんと言わせることです。相手の人格を傷つけて、すっとしたいなんて本気で考えているあなた自身、もうすでに人間のクズですから、いまさら、いい子ぶるべきではありません。(P.193)
とまで言う始末である。
仲正さん自身も論争みたいなものに何度も巻き込まれている。そうした経験から、こういう結論を「終わりに」で述べている。
社会的立場上、反論せざるを得ない場合は別として、話の通じない連中は、本気で”反論”する価値のない蛆虫(うじむし)のような存在であり、それに反論したいという欲求を抱いてしまう自分も、人間のクズである、というニヒリズム的な認識を持つようになった。(P.216)
この本を読んだ人も同じような心境になれば、本書の目的は達成されたことになるのだろうか。
概要はこんな感じだが、「仲正昌樹の本」としての本書の魅力というか特徴も指摘しておきたい。現代思想や法について研究している人なので、仲正さんの著書は全体的に中身は難しい。専門書としては「カンタン系」であるとよく書かれているが、一般の人にはハードルが高めと感じることはしばしばである。しかしこの本はテーマが俗なためか、かなり読みやすい作りになっている。小泉純一郎の「ワンフレーズ・ポリティックス」、日本共産党の政党アピール、「朝まで生テレビ」など「論争」が起きる現場の具体的な例がイメージしやすいためだろうか。そして、仲正さんなりの説明している部分はハッとさせられる箇所が多い。いくつか列挙させてもらう。
恐らくみんな勘違いしているのではないでしょうか。 「本音」をぶつければ、何か新しいものが生まれてくるといった錯覚に陥っている。『朝ナマ』あたりから、とにかく本音を言ってトークするのがいいという気分が、テレビ番組で蔓延した。その結果、世の中全般で本音を言えばどうにかなると思っている人が増えているような気がします。語り合いはあってもいいけれど、語り合いは、即「討論」ではありません。そうしたテレビの勘違いが、ネットの世界に拡大された形で映し出され、それがさらに、普通の人同士の日常会話にも及んでいるのです。(P.44)
「論争」についての本を出しておきながら、しかもまがりなりにも、思想史を研究している人間でありながら、こんなことを言うのはヘンですが、私はそもそも「論争」というものをそんなに信頼していません。もう少し正確に言うと、「論争」する主体としての人間の「理性」をあまり信用していないのです。
ある程度、形式を整えた「論争」をする訓練を常日頃からしておくことは重要であると思ってますし、大学での授業や、私のいくつかの著書でそのことは強調したつもりですが、かといって、「論争」を通しての”真理獲得”に過大な期待を寄せると、かえっておかしなことになるとも思っています。人間の”合理的思考”に限界があるのだから、いくら訓練しても「限界」があることを知っておくべきなのです。(P.103)
一見、政治的な力のぶつかり合いから独立しているように見える学問的な論争のようなものでも、人間同士が人間関係のあり方における”正しさ”を追求すれば、いかに”客観的”に見えるルールをつくっても、社会的力関係をある程度反映した”答え”が出てきてしまいます。”客観性”自体が社会的に構築されているのです。論争の結果を、後から検証することが可能な自然科学の場合と違って、ある意味、言葉が全てであるような人文・社会学的な領域に属するテーマに関して、互いに偏見の塊である人間同士の、「問答=弁証法」によって「答え」が形成されるわけですから、出される「答え」に社会的力関係が反映していないはずはありません。(P.116)
いずれも、カーッとなった頭で「批判」や「論争」めいたものをしようとする行為を諌めるような指摘が並んでいる。
だが、私が最も「やられた!」と思ったのは「話の通じない相手」をどうするかという箇所である。仲正さんは最も良い方法を、
もちろん「大人」になって、脊髄反射しかできない可哀想な人を「許す」のがいちばんいい方法です。(P.51)
これには一本取られた。しかしながら仲正さん本人も、これはなかなかできないと書いてもいる。
やはり、次善の策として出てくる「無視する」というのが最もやりやすい対処の方法な気がする。
悲しいことに、私たちは、そんなにまともではないのです。(P.146)
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