本当に久しぶりに、まる1日の休みをとっている。この1か月ほどは、土日も祝日も一度は会社へ行って仕事をしていた。

その間、自分のサイトがサービス終了で消滅していることも気づかず(いつも日記を読んでいる方に教えてもらって初めて知る)、日記もずっと更新できずにいた。とにかく余裕がなかった(今も、ない)

今日は本当に貴重な休みなので、この3ヶ月の間に読んだこの本について書いてみたいと思う。買った時期は覚えていないが(10月か11月)、タイトルを見た時に、

「これは俺が読む本だな」

と直感してレジに本書を持っていったと記憶している。橘玲(たちばな・あきら)さんは1959年生まれの作家で、02年に金融小説「マネーロンダリング」(幻冬舎)でデビューした人だ。公式サイトもあり、ブログの内容も興味深い。

http://www.tachibana-akira.com/

橘さんは本書の冒頭で、

<この世界が残酷だということを、ぼくは知っていた。
この国には、大学を卒業したものの就職できず、契約やアルバイトの仕事をしながら、ネットカフェでその日暮らしをつづける多くの若者たちがいる。
就職はしたものの、過労死寸前の激務とストレスでこころを病み、恋人や友人にも去られ、果てしのない孤独に落ち込んでいくひともいる。
(中略)
いまや誰もがいい知れぬ不安を抱え、グローバル資本主義や市場原理主義を非難し、迷走をつづける政治に不満を募らせている。国家は市場に対してあまりに無力で、希望は永遠に失われたままだ。>(P.9)

こうした「残酷な世界」を生き抜くにはどうすればよいかを本書に色々と書いてあるのだろうと、読んだことのない方は感じるかもしれない。しかし、実際のところはずっと複雑な展開になっている。

「この本は、自己啓発のイデオロギーへの違和感から生まれた」(P.262)

と「あとがき」で書いてあるように本書の構成は、

序章:「やってもできない」ひとのための成功哲学
1章:能力は向上するか?
2章:自分は変えられるか?
3章:他人を支配できるか?
4章:幸福になれるか?
終章:恐竜の尻尾のなかに頭を探せ!

という流れで、「努力すれば報われる」というような言説に対してさまざまな事例を紹介しながら疑問を投げかけることに大半を費やしている。橘さんは遺伝学や心理学の「発見」をまとめ、

・知能の大半は遺伝であり、努力してもたいして変わらない。
・性格の半分は環境の影響を受けるが、親の子育てとは無関係で、いったん身に
ついた性格は変わらない。(P.34-35)

と結論づける。このあたりの指摘は多かれ少なかれ誰もが違和感を抱くところではないだろうか。努力によって能力が向上する、という言説は世の中に広まりきっているのだから。人間の能力や性格は生まれつきで決まってしまう、というのは身も蓋もない話で、これを聞いて絶望する人もでてくるかもしれない。実際、橘さんのサイトにもそのようなコメントが書かれていた(逆に、救われる思いがした、という意見もあったが)

ただ、橘さんは別に遺伝が全てとかいうような極端な話はしていない。ただ、「やればできる」という無根拠な自己啓発に対して違和感を表明しているだけだと私は思っている。たとえば、

<もしもぼくたちの人生が「やればできる」という仮説に拠っているならば、この仮説が否定されれば人生そのものがだいなしになってしまう。それよりも、「やってもできない」という事実を認め、そのうえでどのように生きていくのかの「成功哲学」をつくっていくべきなのだ>(P.37)

こうした部分を押さえていれば、この本をそれほど誤読することはないだろう。

それでは、橘さんはこの世界をどのように生きるのが良いと言っているのだろう。それは4章の「幸福になれるか?」以降に述べられている。作者の意図はどうかわからないけれど、個人的には1~3章よりも、この4章からの方が大事なことが多く書かれているように思えてならない。

橘さんは「まえがき」で、

「伽藍(がらん)を捨ててバザールへ向かえ」(P.12)

と提言している。パッと聞いて意味は通らないが、「伽藍」は会社のことで、「バザール」は「グローバル市場」のことだ。なぜ会社を捨てるべきなのだろう。本書では、日本人よりアメリカ人の方が自分の仕事や会社を愛していて貢献したいと考えている、という衝撃的な研究結果(普通は逆だと誰も思っていただろう)を踏まえてこのように分析する。

<高度成長期のサラリーマンは、昇給や昇進、退職金や企業年金、接待交際費や福利厚生などのフリンジベネフィット(現物給付)によって大嫌いな仕事になんとか耐えていた。ところが「失われた二十年」でそうしたポジティブな側面(希望)があらかた失われてしまうと、後にはグロテスクな現実こそが、日本的経営の純化した姿なのだ。>(P.225)

<日本的雇用は、厳しい解雇規制によって制度的に支えられている。だがその代償として、日本のサラリーマンは、どれほど理不尽に思えても、転勤や転属・出向の人事を断ることができない。日本の裁判所は解雇にはきわめて慎重だが、その反面、人事における会社の裁量を大幅に認めている(転勤が不当だと訴えてもほぼ確実に負ける)。解雇を制限している以上、限られた正社員で業務をやりくりするのは当然とされているのだ。
(中略)
このようにして、いまや既得権に守られているはずの中高年のサラリーマンが、過労死や自殺で次々と生命を失っていく。この悲惨な現実を前にして、こころあるひとたちは声をからして市場原理主義を非難し、古きよき雇用制度を守ろうとする。しかし皮肉なことに、それによってますます自殺者は増えていく。
彼らの絶望は、時代に適当できなくなった日本的経営そのものからもたらされているのだ。>(P.226-227)

経済が右肩上がりの時は素晴らしかった日本的雇用制度がどんどん崩れていき逆にその制度がサラリーマンを苦しめている状況を実に見事に捉えている。そして当のサラリーマンの立場である自分はこれを読んで震える思いがした。

しかし会社を捨てるのが正解として、その次はどうすれば良いのだろう。橘さんはもう1つ、

「恐竜の尻尾の中に頭を探せ」(P.12)

と言っている。この言葉を簡単にすると、好きなことを仕事にせよ、と要約できる。

<アメリカの有名大学でMBAを取得した優秀なひとたちが、最新のマーケット理論を引っ提げて起業に挑戦するけれど、ほとんどは失敗する。それは彼らが儲かることをやろうとして、好きなことをしないからだ。
それに対して「好き」を仕事にすれば、そこには必ずマーケットがあるのだから空振りはない(バットにボールを当てることはできる)。ほとんどのひとは社会的な意味での「成功」を得られないだろうけど、すくなくとも塁に出てチャレンジしつづけることはできる。>(P.260)

好きなことを仕事にすれば、大きな失敗をするということもない。これは感覚としてわかるような気はする。しかし、自分にとって本当に好きな事って何だろう?そして仕事に結びつけることはできるのだろうか?

自分のこれからを憂いてばかりいる今日このごろだが、その一方で上のような思いも渦巻いている。

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