かつてほぼ全ての大学は、最初の2年間が「教養課程」という段階でさまざまな「教養科目」を勉強し、それから後半の2年が自分の専門の学問をする「専門課程」へ入るという流れになっていた。しかし、私が大学に在籍していたころ(96年4月〜2000年3月)もすでに教養課程というものは無くなっていた。「教養科目」とはいわゆる「パンキョー」(一般教養)のことである。ただ、大学に入ってもすぐには専門領域の科目ではなく、外国語や法学や哲学といった一般教養をまず勉強するという流れ自体はそれほど違いはない。

とわかったような書き方をしているが、私もこのような知識をしったのはこの本を読んだおかげである。大学時代はこういうことについて無頓着だった。いやそれどころか、

「自分は心理学専攻に入学したのに、どうして1回生の時は心理学関係の科目をほとんど取ることができないんだ?」

と疑問に思っていたくらいである。私の大学で1年目に取れた心理学関係の科目は、確か3科目くらいしかなかったと記憶している。

私に限らず多くの人は、なんで自分の学部(法学でも経済学でも)と関係ない科目をとらなければならないんだ?と疑問を抱いたことがあるだろう。そして一般教養を勉強する意味を教えてくれた大学教員も皆無に違いない。当の私もそんな人に出会うこともなく大学時代は終わった。

この本の著者の仲正さんは、

<私の教えている法学部の学生の中には、
「僕たちは専門科目を勉強するために大学に入学したので、最初から専門科目の授業があると期待していた。教養科目のようなものをやるのは、時間と授業料のムダだ」
という調子で、分かったような顔をして大学のカリキュラムを”批判”したがる子がいます。
ふつうに考えれば、「教養科目」というものがあることを知らないまま受験して入学する本人が悪いのだし、大学の教育課程について規則をたしかめもしないで「法学部」に入学する姿勢自体が全然法学部的でありません。しかし、本人は結構本気で「教養」不要論を展開しているつもりになっているのです。
そういう子に、「では君は教養とはどういうものか分かっているのか?」と聴くと、面白いくらい、ちゃんと理解していないのが分かる奇妙な答えしか出てきません。どうも「軽チャー」とか「教養番組」の”教養”のような意味合いで、「教養」を理解しているようなのです。多分、サークルの先輩などから「教養科目というのは意味がない。役に立たない。でもその単位を取らないと卒業できない」というようなことを言われて、そういうイメージをもってしまったのでしょう>(P.146-147)

やや長い引用になってしまったが、一般教養について、いや大学で学問をするということについての問題点がここに凝縮してるような気がしたので紹介させてもらった。

話を戻すが、はたして「一般教養」なるものを学習することにどんな目的があるのだろうか。それは本書の3章でくわしく述べられているけれど、私なりに要約してみたい。

そもそも「大学」の起源は13世紀頃のヨーロッパまでさかのぼる。この頃の大学というのは、専門的な知識をもったキリスト教の僧侶を養成することを目的にしている。その僧侶たちが学習する「専門的知識」とは「神学」、「法学」、「医学」の3つであった。これらの知識を伝承するのが知識人としての僧侶の役割だった。

しかし、これらの3つの専門のいずれかを修めて教会の中で専門職として出世したい人は、まず当時のヨーロッパの貴族・知識人の共通言語であったラテン語の読み書きや算術を学び、大学に入ってからは専門の勉強の前提となる基礎学力と思考能力と理解力を身につけるために「自由七科」(文法、修辞学、弁証法、算術、幾何、天文、音楽)を学ばなければならなかった。

この「自由七科」というのが大学の「教養科目」(一般教養)と呼ばれるものの起源である。そして、基礎的な教養を学習する「教養課程」と、自分の専門の勉強をする「専門課程」が分かれていたのは既にこの頃からであった。ちなみに「教養課程」を勉強するところは「学芸学部」と言われ、それは後に「哲学部」と呼ばれるようになる。

外国語に一般教養に哲学部と、最近の学生には縁も人気もなさそうな分野ばかりであるが、いずれもそれなりの歴史や必然性があって存在していることが多少は理解していただけただろうか。

大学科目に一般教養があり、かつて教養課程が存在していた理由をひとことでいえば、「教養」を身につけるためである。しかし、いきなりこんなこと書いてもピンとくる方はほとんどいないだろう。先に引用した仲正さんの文章の通り、教養というのはいわゆる雑学とは違うレベルのものである。この点は内田樹さん(神戸女学院大学教授)がこのように言っている。

<教養は情報ではない。
教養とはかたちのある情報単位の集積のことではなく、カテゴリーもクラスも重要度もまったく異にする情報単位のあいだの関係性を発見する力である。
雑学は「すでに知っていること」を取り出すことしかできない。教養とは「まだ知らないこと」へフライングする能力のことである。>(内田樹「知に働けば蔵が建つ」P.11。08年。文春文庫)

<「教養」というのは、「生(なま)」の知識や情報のことではない。そうではなくて、知識や情報を整序したり、統御したり、捜査したりする「仕方」のことである。
(中略)
「教養」とは「自分が何を知らないかについて知っている」、すなわち「自分の無知についての知識」のことなのである。>(内田樹「街場の現代思想」
P.11。08年。文春文庫)

そして仲正さん自身は本書の最後で「教養」において最も大事なことを、

<「今の私には分からない問題」に直面してしまった時に、どうすべきか」を心得ていること>(P.193)

と締めくくっている。こうやっていろいろと文章を並べてみて、「教養」というのがどんなものか、だんだんと具体的なイメージが湧いてきたような気がする。例えば、資格を取るとか就職に有利になるかというような短期的な目的を達成することに対して、「教養」はおそらくあまり役に立たないだろう。しかし、自分の頭の中のもっと根本的な影響を与えてくれるものという感じだ。

私がよくその著書を買っている日垣隆(作家・ジャーナリスト)さんや橘玲(作家)さんは、現代社会について鋭く切り込んだ文章を書いているけれど、一般的には難しそうな古典や現代思想や経済書などをよく読んでいるような傾向にあることに気づく。そして、それはどうしてなのだろうかと考えるようになった。やはり、そういう本を読むことにメリットがあるとしか思えない。

正直いって、いままでの私は古典や思想書などを敬遠してきた。昔の書物は読みづらく読破するにはかなりの根気がいる。また、別に苦労してそんなものを読まなくても良いのでは、とも腹の底では思っていた。

しかし、である。ウインドウズ95が登場したあたりから世の中の流れがグッと変わっていくようになり、世界はますます混迷の度合いが深まっていく。そして最近ではこの大震災だ。はっきりいって、過去の情報をもとにこれから先のことを予測するのは困難に違いない。

そんな状況で個人にできることといえば、目の前にある情報を分析して自分なりに行動することしかないだろう。となれば、やはりもっと根本的なところで考えることのできる頭を持っていなければならない。そのために必要なのがいわゆる「教養」というものではないか。

それは学習したところでパッとは役に立たない。しかし仲正さんが言うように、

<今すぐに利益がなくても、長期的な視野から見て、ごく表面的でも学んでおいた方がいいこともある。>(P.186)

と今では考えるようになっている。

本書は上に挙げたような「教養」の本来の意味にとどまらず、大学で学問をするために必要な心構え、また古典や外国語を勉強する意義などをかなり平易に書いて説明してくれている。本当だったらこれから大学に入る人に最適な本であるけれど、すでに大学を出た人にもかなり有益なことが満載だといいたい。特に、大学で何をしたのかわからない、というような人にはぜひ手にとってもらいたいと願う。

締めくくりにこの本の末尾の一文を紹介したい。

<ほとんどの人間は傲慢で横着です。自分が無知で勉強が必要だということをなかなか認められません。そのため、無自覚的に自分にとって都合の悪い情報をシャットアウトしがちです。自分が賢くなったと思い始めたら要注意です。「疑うこと」を回避して、楽になろうとする「私」自身を警戒してください。それが「何も信じられない世界」で生きていくための唯一の方策です。>(P.198)

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索