2011年3月11日の東日本大震災を契機にこの国に生きる人は皆これまでの価値観を改めなければならない状況に置かれた。あの大津波によって想像もつかない数の人命や財産を失い、いまも多くの人が生活を立て直すこともできずに苦しんでいる。直接の被害を受けなかった人もテレビやネットで通じて被災地の姿を見て衝撃を受け、

「私たちはこれからどう生きたらいいのだろうか」

という思いに駆られたに違いない。

この本の著者の橘さんは一貫して自身を「リバタリアニズム(「自由主義」または「自由原理主義」などと言われる)」という立場から文章を書いてきた。リバタリアニズムについて要約して説明すれば、個人(国民)の自由を最大化させるためには国家の介入する部分を最小限に抑えるべきだ、というのが一番肝心なところである。この考えは国家を不要とするという面で無政府主義(アナキズム)と通じる。

国家を介入する部分を最小限に抑えるというのは、例えば社会保険や国民年金といった福祉制度もなくすべき、という意味である。そうしたものが国民ひとりひとりの自助努力でやりくりすべきだ、というのがリバタリアン(リバタリアニズムの考えを持っている人)の基本的なスタンスである。

よって、何の備えもしていない人が事故や病気で不幸な目にあって苦しんでも自己責任である、となってしまう。橘さんもそのような論理をこれまで展開してきた。しかしかの大震災以降はその思いは大きく揺らぐのであった。そのいきさつを本書から、少し長くなるが、引用する。

<私はこれまで、自由とは選択肢の数のことだと、繰り返し書いてきました。なんらかの予期せぬ不幸に見舞われたとき、選択肢のないひとほど苦境に陥ることになる。立ち直れないの痛手を被るのは、他に生きる術を持たないからだ、というように。

私はこのことを知識としては理解していましたが、しかし自分の言葉が、想像を絶するような惨状ともに、現実の出来事として、目の前に立ち現れるなどとは考えてこともありませんでした。

津波に巻き込まれたのは、海辺の町や村で、一所懸命に生きてきたごくふつうのひとたちでした。彼らの多くは高齢者で、寝たきりの病人を抱えた家も多く、津波警報を知っても避難することができなかったといいます。

被災した病院も入院患者の大半は高齢者で、原発事故の避難指示で立ち往生したのは地域に点在する老人福祉施設でした。避難所となった公民館や学校の体育館で、氷点下の夜に暖房もなく、毛布にくるまって震えているのも老人たちでした。

被災地域は高齢化する日本の縮図で、乏しい年金を分け合いながら、農業や漁業を副収入として、みなぎりぎりの生活を送っているようでした。そんな彼らが、配給されるわずかなパンや握り飯に丁重に礼をいい、恨み言ひとつこぼさずに運命を受け入れ、家族や財産やすべてのものを失ってもなおお互いに助け合い、はげまし合っていたのです。

私がこれまで書いてきたことは、この圧倒的な現実の前ではたんなる絵空事しかありませんでした。私の理屈では、避難所で不自由な生活を余儀なくされているひとたちは、「選択肢なし」の名札をつけ、匿名のままグループ分けされているだけだったからです。

大震災の後、書きかけの本を中断し、雑誌原稿を断り、連載も延期して、ただ呆然と過ごしていました。そしてあるとき、まるで天啓のように、それはやってきたのです。

私がこれまで語ってきたことが絵空事であるのなら、その絵空事を徹底して突き詰めることでしか、その先に進むことができないのではないかー。

理屈でもなく、直感ともいえませんが、この想念は稲妻のように私を襲い、魂を奪い去ってしまったのです。

それから二週間で、この本を書きました。>(本書P.206-208)

こうして完成した本書を橘さんは、

「私の人生設計論の完成形」(P.222)

と位置づけている。いままで述べてきた論考を1冊に凝縮したのがこの本というわけだ。

まず前半では我が国を襲った2つの大きな出来事、一つは今年の東日本大震災でもう一つは97年7月に東アジア・東南アジアで起きた未曾有の通貨危機(これ以降、日本国内の自殺者は現在まで毎年3万人を超えるようになる)によって
これまで多くの日本人が指向してきた「ローリスク・ハイリターンの人生設計」が崩れ出し「ハイリスク・ローリターンの人生設計」へと変化していく姿が描かれている。

私たちはこれまで4つの「神話」を当たり前という前提で人生を組み立ててきた。

・不動産神話 持ち家は賃貸より得だ
・会社神話 大きな会社に就職して定年まで勤める
・円神話 日本人なら円資産を保有するのが安心だ
・国家神話 定年後は年金で暮らせばいい

これらはある時期までは確かに通用していたものである。そして現在でもこれらを信じている人は少なくはないに違いない。しかし本書を読んでいけば、社会の変化によっていずれも根本から崩れていくさまが感じてもらえるだろう。いま私たちは旧来の人生設計を見直さなければならない局面に立たされているのだ。

そして後半ではそのために「ポスト3・11の人生設計」として橘さんからの提言がいくつか挙げられていて、金融資本の分散方法やこれからの働き方など色々と書かれている。

本書で最も興味深いのは、リバタリアンであるはずの橘さんが政府(国家)に対していくつか提言をしていることだ。なぜかそんなことをしたかといえば、

<私はこれまで、「社会を変える」ことについては意識的に言及を避けてきました。天下国家を語るひとは世の中に溢れていて、それは私の役割ではないと考えていたからです。今回、自分なりの見解を述べたのは、これが日本にとって最後の機会だからです。>(P.223)

このような悲惨な出来事の後でも変わらないとすれば、もうこの国は再び立ち上がることはないということである。そして橘さんは、増税や国債を増発する前に歳出の削減によって復興支援の財源を作りだすこと、国だけでなく地方公務員の給与を減額すること、物価水準にあわせて年金の支給額を減額すること、などを提案している。その中で最も私が目をひいたのは雇用に関することで、

・定年制を法律で禁止すること
・同一労働同一賃金の原則を法律で定めること
・そのうえで、一定額の金銭を支払うことを条件に整理解雇を認めること

と言っていることだ。巷間では「非正規雇用の社員を正社員化せよ!」という声が大きいので、これらの提言は意外に思う人も多いかもしれない。しかし今の日本の企業は正社員を無理矢理かかえこまざるをえないために人を増やすこともできず、会社も社員も苦しんでいるという側面は否定できない。会社の業績も上がらずまた非正規社員を雇用し続けられないとすれば、残った正社員にしわ寄せがくるのは必然だ。

アメリカの労働者というのは、高い給料の獲得を目指す「スペシャリスト」と、給料はずっと上がらないがそんなに忙しくもない「バックオフィス」と2つの働き方が存在する。スペシャリストが2割、バックオフィスが8割という比率だ。ちなみに少し前に日本を騒がせた「成果給」だの「能力給」といった賃金制度はスペシャリスト向けのものだった。それなのに日本の企業は営業にも人事にもそうした制度をあてはめてしまったのがそもそもの失敗である。

それはともかく、解雇規制が緩和され同一労働同一賃金が広がるようになれば、日本もアメリカのように働き方も二極化する。

<この三つの「改革」が実現すれば、日本的雇用制度は消滅し、正社員と非正規社員の「差別」もなくなります。企業は年齢にかかわらず必要な人材を労働市場から採用するでしょうから、新卒で就職に失敗した若者も、中高年の転職希望者も、いまよりずっと容易に自分に合った仕事を見つけることができるようになるはずです。

日本に流動性のある労働市場が誕生すれば、世界最悪の自殺率を引き下げる効果が期待できます。中高年にも転職の可能性があれば、年間8000人ものひとたちが自ら命をことはなくなるでしょう。

たとえ年収が下がっても、仕事さえあれば、ひとは未来に希望を持って生きていくことができるのです。>(P.216)

大学卒業後の就職も、そのまた後の転職も苦しんだ自分にとってみれば、仕事があれば希望をもって生きていける、というのはかなりの真実を含んでいると感じる。

日本の雇用制度を変えることなどできるのかと疑問を持つ方もいるだろう。当の橘さんもそこまで楽観的には考えていない。しかし本書の最後で、

<いずれにせよ、私たちは戦後的な価値観を清算して、ポスト3・11の人生を歩きはじめなくてはならないのです。>(P.223)

と締めくくられている。望む望まないにかかわらず、大震災の生き残りである我々にはその未来を生きるほかはないのだ。

本書はそんな自分にとって、ことあるごとに開く座右の書になると思われる。

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