土屋賢二「ツチヤ教授の哲学講義」(05年。岩波書店)
2012年9月17日 読書 コメント (3)
かつては仲正昌樹(金沢大学法学類教授)の著書を紹介したように、思想とか哲学といったものに少しだけ関心を持っている。かといって本格的な哲学書を読み通した経験もないし、今後もそういうことはしないと思う。これまで読んだことがあるのは仲正さんのほか、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」(02年。文春新書)や斎藤環さんの「生き延びるためのラカン」(06年。木星叢書)など、いわゆる解説書というものだろう。私の知識量では専門的な知識の必要な哲学書をそのまま読むことなどできるわけがないからだ。
哲学や思想に限ったことではないが、よくできた解説書というのは読んでいて実に面白いしためになる。「解説」を目的としているだけあって他人に伝わるように工夫されているからだ(必ずしもそうなっていない内容も少なくないが)。この土屋さんの本もそうした優れた解説書の一つである。
本書は土屋さんが大学(お茶の水女子大学)に入りたての学生向けにおこなった授業をもとに構成したものである。土屋さんといえば「笑う哲学者」と呼ばれているように、どこまで本気かわからないほどふざけた文章を書く人として知られている。しかし本書ではそうした部分は、実際の授業ではあったかもしれないが、ほとんど表に出てこない。「まえがき」だけは、ああ土屋さんだな、と感じるもののそれ以外でいえばオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインを紹介する時に、
<(ウィトゲンシュタインの生家の写真を示して)これがウィトゲンシュタインの生家です。高級な劇場みたいですけれど、これがウィトゲンシュタインの家でした。家の中にグランドピアノが九台あって、しかもピアノ屋じゃないんですよ。ピアノ屋でもないのにグランドピアノが九台もあって、なおかつ、寝る場所もあったんだから大富豪ですよね。>(P.148)
と言っているところくらいだろうか。本書は全体的を通していかにも大学講義をそのまま収録したというようなたたずまいになっている。そういう点で土屋さんの著書ではかなり異色な作品である。それは版元である岩波書店の意向なのかもしれないし、
<わたし自身は、実生活でこそ他人の言うなりになっているが、哲学に関しては妥協せず、納得できるものしか認めないという方針を貫いてきた。その結果が、本書で示したような哲学観である。>(「まえがき」のP.8)
という土屋さんの哲学に対するこだわりが反映されているかもしれない。いずれにせよ講義に出てくる具体例とか逸話なども真面目というか無難というか、笑いをとるような場面は全くない。率直にいうとけっこう退屈な印象を受ける。もし私が実際にこの講義を受けていたら、ちょっと眠っていたのではないか。
しかしこの講義の流れはかなり作り込まれているというか、哲学の入門講座ということではかなりよく出来ている。私が土屋さんを偉いというかさすがと思ったのは、プラトンにしてもデカルトにしてもその著書からの引用が全くないところである。さきほども書いたが、何の予備知識も持たない人間が哲学書を読むというのは相当つらい行為であり、また往々にして時間の無駄となるだろう。井上ひさしさんも言っていたが、とにかくわからないものは役に立たない。のである。そうした難しいところを極力排しているので、頑張って文章をたどっていけばなんとか哲学のエッセンスだけは理解できるだろう。
本書の大きなテーマは、
<哲学というものはいったい何を解明するものなのか>(P.1)
である。哲学とは何か、という疑問にはいろいろな解釈ができるだろうが、ここでは哲学の果たす役割や使命について絞って解説していると思われる。
土屋さんはまず宗教、文学、そして科学を哲学と比較する。大まかな点は以下の通りだ。
◯哲学と宗教の違い
宗教:「信じること」が基本的特徴。その人の価値観というか生き方の問題であり、論証も根拠も必要がない。
哲学:あくまで知識を獲得するのが目的(ただ、これは哲学に限らず全ての学問に共通していえる話だ)。
◯哲学と文学の違い
<哲学と文学はまったく違います。どこが違うというと、哲学の場合は基本的に問題と解決があります。哲学的な問題があって、それに対する解決を示すっていうのが哲学です。文学についてはそういうものは必要ありません。でも哲学には問題と解決がないといけないんです。>(P.9)
◯哲学と科学の違い
<科学は、観察可能な事実を明らかにするけど、哲学はそうではない。>(P16)
こうして比べてみると、
・哲学はあくまで学問なので、文学や宗教と違い、論証責任がともなう(言いっぱなしではなく他人に言葉で説明できるようにならなければいけない)。
・哲学は科学と違い、観察可能なものでなく、例えば「存在」とか「時間」とかいった事実を超えたもの(いわゆる「形而上学的なもの」)を研究対象とする。
といった哲学の特徴が何となく見えてくる。
それでは、哲学の抱える問題を解明するためにはどのような方法があるのだろうか。これについては大きく分けて2つの考え方があると土屋さんは言う。
<ひとつは、哲学は感覚を超えたところにある形而上学的真理を解明するという考え方です。この立場は、哲学を形而上学と考えるんですね。もうひとつの考え方は、哲学は、そういう真理を解明するものではなくて、哲学的問題に関してわれわれの理解を深めることだ、そのためには、特にことばの働きをきちんと理解する必要がある、という考え方です>(P.223)
「形而上学(けいじじょうがく)」という言葉が出てきたけれど、前者は「存在」とか「時間」とかいったパッと見た感じではいかにも深くて難しそうな問題を解明するのが哲学の仕事だという考え方である。これは世間の人々が抱いている哲学または哲学者のイメージと重なる部分は多いだろう。
これに対して後者は多くの人にとってはピンとこない話に違いない。哲学の問題を解くのに「ことばの働き」ってどういうこと?それは国語とか言語学の問題になるんじゃないの?と思うのではないか。
しかし、予想はつくと思うが、土屋さんは後者の考え方をもとにして講義を展開する。そしてベルクソンの「時間」に関する考え方、プラトンのイデア論、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」といった歴代の哲学者が残した業績を検証する。ここで土屋さんが一貫して主張しているのは、これらの仕事は別に哲学的問題を解明したのではなく日常の言葉づかいに反対しただけだ、ということである。
例えば「われ思う、ゆえにわれあり」というのは、この世の中で疑う余地のないものは何かとあれこれ考えた末にデカルトがたどりついた結論である。この一文は後世に大きな影響を残し、デカルト以降の哲学は心を基準にいろんなものを考えるように研究方法が大きく変わっていくのである。
しかし土屋さんは、
<でもぼくはデカルトが築いた基礎が本当に貴重なものなのかどうか、疑問をもっています。>(P.124)
と述べ、以下のような疑問を投げかける。
<ぼくの考えでは、なぜ「われ思う」が語りえないかといえば、世界が特定の構造をしているからではなくて、また心が特殊なものだからではなくて、われわれが特定のことばの規則を使っているからです。>(P.138)
<ぼくには、デカルトは、われわれが使っている言語規則をそのままなぞっただけだと思えるんです。>(P.140)
<とにかくデカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」は疑えないと言って、そこから自分の哲学を築きました。彼は、「われ思う、ゆえにわれあり」からいろんなことを導出しています。たとえば、「神は存在する」ということを論理的に導いているんですけれど、ぼくは、それはすべて間違っていると思います。言語規則から事実や真理が導きだせるとは思えないからです。言語規則から導き出せるのは言語規則しかないとぼくには思えるんです。>(P.142-143)
引用した部分で言語規則とかことばの規則といったものが出てきた。デカルトは「われ思う」という部分は絶対に疑えないということを示したが、それは哲学の真理を発見したというような話ではないと土屋さんは言うのである。そうではなくて、「思う」とか「痛い」という言葉は本人がそう言ってしまえば成り立つという規則を私たちが採用しているからだ。つまり「思う」という言葉には特殊な言語規則があり、だから疑いようもなくなっているわけである。このあたりちょっと考えないと難しいかもしれないが、「歩く」とか「食べる」といった言葉と「思う」を比べてみればなんとなく感じてもらえるだろう。
そして本書の後半では先ほどのウィトゲンシュタインの考えが大きく紹介される。その著書「論理哲学論考」において、哲学の問題はすべて全面的・最終的に解決したと考えたと土屋さんは解説する。そのウィトゲンシュタインの考えも言語が重要になっている。
といっても、ウィトゲンシュタインの業績は哲学の問題を何か解き明かしたというわけではない。
<彼の基本的な考え方は、すべての哲学的な問題はナンセンスであるというものである。つまり、問題自体が間違っていて、問題として成り立たない。問題を立てること自体が間違っているということです。>(P.150)
つまり、「存在とは何か」といったような問題を考える自体が無意味だ、ということである。これは一見すると哲学そのものに意味が無いとも読める。
そもそもの話になるが、言語というのは事実を述べることしかできない。事実を積み重ねることしかできないから、それを超える真理を記述することは原理的に不可能なのだ。荒唐無稽な表現するだけだったら十分に可能だが、それはもはや宗教や文学の世界になる。科学のように誰でもわかる言葉で示すこともできない。
言語で表現できないものを言語で試みようとしているということに哲学の大きな矛盾があるのではないだろうか。本書を読んで私が至った結論の一つがそれだった。
<こうして、ウィトゲンシュタインは、本質も善悪も価値も事実も、知ることはできないものだと考えました。これは人間の能力がたまたま不足しているからではないんですね。言語の構造によって知ることができない仕組みになっているという結論に到達したんですね。哲学的なことについて知ることができないような問題は「問題」とは呼べないからなんですね。>(P.206)
それゆえウィトゲンシュタインは、
「哲学の問題は、解決されるべきではなくて解消されなくてはならない」
という言葉を残している。
私もたぶん哲学的問題について多くの人が合意できる答えはないだろうな、とは思う。しかし、それで全てに納得したかといえばそうではない。
例えばふとしたきっかけで「生きるとは何か」と思い悩んだとする。ウィトゲンシュタインの考えを知っている私は「そんな問いなど正解があるはずがない」とはわかっているわけだ。しかし、だからといってその悩みを放棄できるかといえばそれは無理だろう。100点満点の回答ができないという事実はわかったとしても、それでも自分なりの回答、それが20点か60点かはわからないが、を出そう。そう考えるのではないだろうか。
謀らずも土屋さんは本書の最後で、
<人間は放っておくと哲学的な問題を作る傾向があります。>(P.227)
と指摘しているのが、これは全くその通りだと思う。人間とはそういう生き物なのだ。人生なんて順風満帆なことなどそうそうないし生きていたらそんな考えに迷いこんでしまうだろう。
「まえがき」で土屋さんはこうも書いている。
<哲学は実験するわけでも、観察するわけでも、調査するわけでもない。自分で考えてみて納得するかどうかが哲学のすべてである。ゼロから考えて納得するという要素がなければ、哲学とは言えないと思うのである。>(「まえがき」のP.6-7)
本書を何度か通して読んでみて、その意味がやっとわかってきたような気がする。哲学的な問題は自分で生きて考えることでしか答えらしきものが出てこないのだろう。今はそんなことを考えている。
哲学や思想に限ったことではないが、よくできた解説書というのは読んでいて実に面白いしためになる。「解説」を目的としているだけあって他人に伝わるように工夫されているからだ(必ずしもそうなっていない内容も少なくないが)。この土屋さんの本もそうした優れた解説書の一つである。
本書は土屋さんが大学(お茶の水女子大学)に入りたての学生向けにおこなった授業をもとに構成したものである。土屋さんといえば「笑う哲学者」と呼ばれているように、どこまで本気かわからないほどふざけた文章を書く人として知られている。しかし本書ではそうした部分は、実際の授業ではあったかもしれないが、ほとんど表に出てこない。「まえがき」だけは、ああ土屋さんだな、と感じるもののそれ以外でいえばオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインを紹介する時に、
<(ウィトゲンシュタインの生家の写真を示して)これがウィトゲンシュタインの生家です。高級な劇場みたいですけれど、これがウィトゲンシュタインの家でした。家の中にグランドピアノが九台あって、しかもピアノ屋じゃないんですよ。ピアノ屋でもないのにグランドピアノが九台もあって、なおかつ、寝る場所もあったんだから大富豪ですよね。>(P.148)
と言っているところくらいだろうか。本書は全体的を通していかにも大学講義をそのまま収録したというようなたたずまいになっている。そういう点で土屋さんの著書ではかなり異色な作品である。それは版元である岩波書店の意向なのかもしれないし、
<わたし自身は、実生活でこそ他人の言うなりになっているが、哲学に関しては妥協せず、納得できるものしか認めないという方針を貫いてきた。その結果が、本書で示したような哲学観である。>(「まえがき」のP.8)
という土屋さんの哲学に対するこだわりが反映されているかもしれない。いずれにせよ講義に出てくる具体例とか逸話なども真面目というか無難というか、笑いをとるような場面は全くない。率直にいうとけっこう退屈な印象を受ける。もし私が実際にこの講義を受けていたら、ちょっと眠っていたのではないか。
しかしこの講義の流れはかなり作り込まれているというか、哲学の入門講座ということではかなりよく出来ている。私が土屋さんを偉いというかさすがと思ったのは、プラトンにしてもデカルトにしてもその著書からの引用が全くないところである。さきほども書いたが、何の予備知識も持たない人間が哲学書を読むというのは相当つらい行為であり、また往々にして時間の無駄となるだろう。井上ひさしさんも言っていたが、とにかくわからないものは役に立たない。のである。そうした難しいところを極力排しているので、頑張って文章をたどっていけばなんとか哲学のエッセンスだけは理解できるだろう。
本書の大きなテーマは、
<哲学というものはいったい何を解明するものなのか>(P.1)
である。哲学とは何か、という疑問にはいろいろな解釈ができるだろうが、ここでは哲学の果たす役割や使命について絞って解説していると思われる。
土屋さんはまず宗教、文学、そして科学を哲学と比較する。大まかな点は以下の通りだ。
◯哲学と宗教の違い
宗教:「信じること」が基本的特徴。その人の価値観というか生き方の問題であり、論証も根拠も必要がない。
哲学:あくまで知識を獲得するのが目的(ただ、これは哲学に限らず全ての学問に共通していえる話だ)。
◯哲学と文学の違い
<哲学と文学はまったく違います。どこが違うというと、哲学の場合は基本的に問題と解決があります。哲学的な問題があって、それに対する解決を示すっていうのが哲学です。文学についてはそういうものは必要ありません。でも哲学には問題と解決がないといけないんです。>(P.9)
◯哲学と科学の違い
<科学は、観察可能な事実を明らかにするけど、哲学はそうではない。>(P16)
こうして比べてみると、
・哲学はあくまで学問なので、文学や宗教と違い、論証責任がともなう(言いっぱなしではなく他人に言葉で説明できるようにならなければいけない)。
・哲学は科学と違い、観察可能なものでなく、例えば「存在」とか「時間」とかいった事実を超えたもの(いわゆる「形而上学的なもの」)を研究対象とする。
といった哲学の特徴が何となく見えてくる。
それでは、哲学の抱える問題を解明するためにはどのような方法があるのだろうか。これについては大きく分けて2つの考え方があると土屋さんは言う。
<ひとつは、哲学は感覚を超えたところにある形而上学的真理を解明するという考え方です。この立場は、哲学を形而上学と考えるんですね。もうひとつの考え方は、哲学は、そういう真理を解明するものではなくて、哲学的問題に関してわれわれの理解を深めることだ、そのためには、特にことばの働きをきちんと理解する必要がある、という考え方です>(P.223)
「形而上学(けいじじょうがく)」という言葉が出てきたけれど、前者は「存在」とか「時間」とかいったパッと見た感じではいかにも深くて難しそうな問題を解明するのが哲学の仕事だという考え方である。これは世間の人々が抱いている哲学または哲学者のイメージと重なる部分は多いだろう。
これに対して後者は多くの人にとってはピンとこない話に違いない。哲学の問題を解くのに「ことばの働き」ってどういうこと?それは国語とか言語学の問題になるんじゃないの?と思うのではないか。
しかし、予想はつくと思うが、土屋さんは後者の考え方をもとにして講義を展開する。そしてベルクソンの「時間」に関する考え方、プラトンのイデア論、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」といった歴代の哲学者が残した業績を検証する。ここで土屋さんが一貫して主張しているのは、これらの仕事は別に哲学的問題を解明したのではなく日常の言葉づかいに反対しただけだ、ということである。
例えば「われ思う、ゆえにわれあり」というのは、この世の中で疑う余地のないものは何かとあれこれ考えた末にデカルトがたどりついた結論である。この一文は後世に大きな影響を残し、デカルト以降の哲学は心を基準にいろんなものを考えるように研究方法が大きく変わっていくのである。
しかし土屋さんは、
<でもぼくはデカルトが築いた基礎が本当に貴重なものなのかどうか、疑問をもっています。>(P.124)
と述べ、以下のような疑問を投げかける。
<ぼくの考えでは、なぜ「われ思う」が語りえないかといえば、世界が特定の構造をしているからではなくて、また心が特殊なものだからではなくて、われわれが特定のことばの規則を使っているからです。>(P.138)
<ぼくには、デカルトは、われわれが使っている言語規則をそのままなぞっただけだと思えるんです。>(P.140)
<とにかくデカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」は疑えないと言って、そこから自分の哲学を築きました。彼は、「われ思う、ゆえにわれあり」からいろんなことを導出しています。たとえば、「神は存在する」ということを論理的に導いているんですけれど、ぼくは、それはすべて間違っていると思います。言語規則から事実や真理が導きだせるとは思えないからです。言語規則から導き出せるのは言語規則しかないとぼくには思えるんです。>(P.142-143)
引用した部分で言語規則とかことばの規則といったものが出てきた。デカルトは「われ思う」という部分は絶対に疑えないということを示したが、それは哲学の真理を発見したというような話ではないと土屋さんは言うのである。そうではなくて、「思う」とか「痛い」という言葉は本人がそう言ってしまえば成り立つという規則を私たちが採用しているからだ。つまり「思う」という言葉には特殊な言語規則があり、だから疑いようもなくなっているわけである。このあたりちょっと考えないと難しいかもしれないが、「歩く」とか「食べる」といった言葉と「思う」を比べてみればなんとなく感じてもらえるだろう。
そして本書の後半では先ほどのウィトゲンシュタインの考えが大きく紹介される。その著書「論理哲学論考」において、哲学の問題はすべて全面的・最終的に解決したと考えたと土屋さんは解説する。そのウィトゲンシュタインの考えも言語が重要になっている。
といっても、ウィトゲンシュタインの業績は哲学の問題を何か解き明かしたというわけではない。
<彼の基本的な考え方は、すべての哲学的な問題はナンセンスであるというものである。つまり、問題自体が間違っていて、問題として成り立たない。問題を立てること自体が間違っているということです。>(P.150)
つまり、「存在とは何か」といったような問題を考える自体が無意味だ、ということである。これは一見すると哲学そのものに意味が無いとも読める。
そもそもの話になるが、言語というのは事実を述べることしかできない。事実を積み重ねることしかできないから、それを超える真理を記述することは原理的に不可能なのだ。荒唐無稽な表現するだけだったら十分に可能だが、それはもはや宗教や文学の世界になる。科学のように誰でもわかる言葉で示すこともできない。
言語で表現できないものを言語で試みようとしているということに哲学の大きな矛盾があるのではないだろうか。本書を読んで私が至った結論の一つがそれだった。
<こうして、ウィトゲンシュタインは、本質も善悪も価値も事実も、知ることはできないものだと考えました。これは人間の能力がたまたま不足しているからではないんですね。言語の構造によって知ることができない仕組みになっているという結論に到達したんですね。哲学的なことについて知ることができないような問題は「問題」とは呼べないからなんですね。>(P.206)
それゆえウィトゲンシュタインは、
「哲学の問題は、解決されるべきではなくて解消されなくてはならない」
という言葉を残している。
私もたぶん哲学的問題について多くの人が合意できる答えはないだろうな、とは思う。しかし、それで全てに納得したかといえばそうではない。
例えばふとしたきっかけで「生きるとは何か」と思い悩んだとする。ウィトゲンシュタインの考えを知っている私は「そんな問いなど正解があるはずがない」とはわかっているわけだ。しかし、だからといってその悩みを放棄できるかといえばそれは無理だろう。100点満点の回答ができないという事実はわかったとしても、それでも自分なりの回答、それが20点か60点かはわからないが、を出そう。そう考えるのではないだろうか。
謀らずも土屋さんは本書の最後で、
<人間は放っておくと哲学的な問題を作る傾向があります。>(P.227)
と指摘しているのが、これは全くその通りだと思う。人間とはそういう生き物なのだ。人生なんて順風満帆なことなどそうそうないし生きていたらそんな考えに迷いこんでしまうだろう。
「まえがき」で土屋さんはこうも書いている。
<哲学は実験するわけでも、観察するわけでも、調査するわけでもない。自分で考えてみて納得するかどうかが哲学のすべてである。ゼロから考えて納得するという要素がなければ、哲学とは言えないと思うのである。>(「まえがき」のP.6-7)
本書を何度か通して読んでみて、その意味がやっとわかってきたような気がする。哲学的な問題は自分で生きて考えることでしか答えらしきものが出てこないのだろう。今はそんなことを考えている。
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