Rainbow In My Soul (レインボー・イン・マイ・ソウル)
2012年12月18日 音楽
もうけっこう前の話になってしまうが、Facebookで繋がっている方がこんなことを書いていた。
<好きなことばかりやって楽しそう とよく言われる
花から花へ飛びまわる蜂のようだとも
たしかにそうです
でもその代わり 手放したこと 諦めたことは人の何倍も多い
安全地帯に立ったままじゃ 自由に飛べないから>
フリーランスで仕事をしている方だから書ける実に含蓄ある言葉だ。そしてこの一文には「自由」ということの本質が表れている気がして興味深い。
「好きなことばかりやって楽しそう」と言った人は実に浅薄で表面的な見方しかできないと感じる。
もしも、
「じゃあ、自分もされてみては?」
と訊ねたら、
「いやー、そういわれても・・・アレがアレだし(笑)」
などとまともな返事もないし、ましてや実際に行動に移すことなどあり得ないだろう。その人自身、意識的にせよ無意識的にせよ、組織を離れることのデメリットを身に沁みて感じているからだ。
一方、「楽しそう」と感じたのは、フリーランスで働く魅力もあると思っているのも事実だろう。
こうして考えると、組織で働くのもフリーランスでいくのも、一長一短があるということが見えてくる。どちらかが有利でどちらかが不利、というような話でもないのである。
組織の一員として働くのは、基本的に自分の領域だけ仕事をしてその範囲内で責任を持てばよい。収入についても会社から支給されるから比較的安定してる。それが大半のサラリーマンの姿であろう。
これに対してフリーランスは、仕事に関する全てに対して責任がともなってくる。収入だって誰かが代わりに稼いでくれるわけではない。その面でも自分次第である。単純に両者を比較するとこんな感じだ。
しかし、いつの頃からか、こうした構図もなんだか変わってきてるのは誰もがうすうす気づいてくることだろう。日本全体の景気が悪くなったおかげで、組織にいるからといって安泰でなくなってきたからだ。いまのサラリーマンの多くは給与カットやリストラの恐怖に怯えながら辛い仕事にひたすら耐えているのではないだろうか。そして、それゆえフリーで生きる人に対し羨望のまなざしを送ったとしても不思議ではあるまい。
そう。フリーで仕事をする大きな魅力の一つは、組織特有のしがらみに囚われずに行動できる余地があることだろう。
だが、それは前述の多くの責任や不安定さを受け入れるということが前提になってくる。その覚悟がなければフリーで生きることはできないだろう。
ネットでもよく見かけるのだが、「自由」=「自分の好き勝手に生きること」と勘違いしている人が多いような気がする。そういう考えにはもの凄く違和感を覚えるし、例えば「周囲に迷惑をかけても自分が楽しければモッシュやダイブをしても良い自由」などというのは私にはどうしても認める気になれないのだ。そんな都合の良い話は存在しないわけで、自由というものをはき違えているとしか思えない。
佐野元春が92年に出した傑作アルバム「SWEET16」に「Rainbow In My Soul(レインボー・イン・マイ・ソウル)」という曲がある。60年代に活躍したR&Bシンガー、ジーン・チャンドラー(Gene Chandler)の”Rainbow”からの一節をタイトルに引用したこの曲は、世間ではあまり有名ではないかもしれないが、発表された当時は「新しい”サムデイ”」と評判になったことを記憶している(”サムデイ”は佐野の代表曲の一つ)。
そのサビの部分に、
<失くしてしまうことは 悲しいことじゃない>
または、
<失くしてしまうたびに 君は強くなる>
という印象的なフレーズが出てくる。この曲を初めて聴いたのはまだ16歳(おお、「SWEET16」だ)という年齢だった。それゆえ、
「何かを失って強くなるなんて、なんとなく辛辣で苦々しいが、良いフレーズだなあ」
などと抽象的な印象しか抱かなかったけれど、こうした「自由」について思いを巡らせてみると実感をもってこの一節を受け止められるような気がする。いろいろと大事なものを捨て去っていったことにより、結果として身軽になっていくということなのだろう。
フリーで生きている人には数多くの喪失体験があるに違いないと思っていたけれど、その見方は外れてなかったようだ。しかし、人生はそういう辛いことばかりでもない、ということも上のコメントや”Rainbow In My Soul”は教えてくれる。
<好きなことばかりやって楽しそう とよく言われる
花から花へ飛びまわる蜂のようだとも
たしかにそうです
でもその代わり 手放したこと 諦めたことは人の何倍も多い
安全地帯に立ったままじゃ 自由に飛べないから>
フリーランスで仕事をしている方だから書ける実に含蓄ある言葉だ。そしてこの一文には「自由」ということの本質が表れている気がして興味深い。
「好きなことばかりやって楽しそう」と言った人は実に浅薄で表面的な見方しかできないと感じる。
もしも、
「じゃあ、自分もされてみては?」
と訊ねたら、
「いやー、そういわれても・・・アレがアレだし(笑)」
などとまともな返事もないし、ましてや実際に行動に移すことなどあり得ないだろう。その人自身、意識的にせよ無意識的にせよ、組織を離れることのデメリットを身に沁みて感じているからだ。
一方、「楽しそう」と感じたのは、フリーランスで働く魅力もあると思っているのも事実だろう。
こうして考えると、組織で働くのもフリーランスでいくのも、一長一短があるということが見えてくる。どちらかが有利でどちらかが不利、というような話でもないのである。
組織の一員として働くのは、基本的に自分の領域だけ仕事をしてその範囲内で責任を持てばよい。収入についても会社から支給されるから比較的安定してる。それが大半のサラリーマンの姿であろう。
これに対してフリーランスは、仕事に関する全てに対して責任がともなってくる。収入だって誰かが代わりに稼いでくれるわけではない。その面でも自分次第である。単純に両者を比較するとこんな感じだ。
しかし、いつの頃からか、こうした構図もなんだか変わってきてるのは誰もがうすうす気づいてくることだろう。日本全体の景気が悪くなったおかげで、組織にいるからといって安泰でなくなってきたからだ。いまのサラリーマンの多くは給与カットやリストラの恐怖に怯えながら辛い仕事にひたすら耐えているのではないだろうか。そして、それゆえフリーで生きる人に対し羨望のまなざしを送ったとしても不思議ではあるまい。
そう。フリーで仕事をする大きな魅力の一つは、組織特有のしがらみに囚われずに行動できる余地があることだろう。
だが、それは前述の多くの責任や不安定さを受け入れるということが前提になってくる。その覚悟がなければフリーで生きることはできないだろう。
ネットでもよく見かけるのだが、「自由」=「自分の好き勝手に生きること」と勘違いしている人が多いような気がする。そういう考えにはもの凄く違和感を覚えるし、例えば「周囲に迷惑をかけても自分が楽しければモッシュやダイブをしても良い自由」などというのは私にはどうしても認める気になれないのだ。そんな都合の良い話は存在しないわけで、自由というものをはき違えているとしか思えない。
佐野元春が92年に出した傑作アルバム「SWEET16」に「Rainbow In My Soul(レインボー・イン・マイ・ソウル)」という曲がある。60年代に活躍したR&Bシンガー、ジーン・チャンドラー(Gene Chandler)の”Rainbow”からの一節をタイトルに引用したこの曲は、世間ではあまり有名ではないかもしれないが、発表された当時は「新しい”サムデイ”」と評判になったことを記憶している(”サムデイ”は佐野の代表曲の一つ)。
そのサビの部分に、
<失くしてしまうことは 悲しいことじゃない>
または、
<失くしてしまうたびに 君は強くなる>
という印象的なフレーズが出てくる。この曲を初めて聴いたのはまだ16歳(おお、「SWEET16」だ)という年齢だった。それゆえ、
「何かを失って強くなるなんて、なんとなく辛辣で苦々しいが、良いフレーズだなあ」
などと抽象的な印象しか抱かなかったけれど、こうした「自由」について思いを巡らせてみると実感をもってこの一節を受け止められるような気がする。いろいろと大事なものを捨て去っていったことにより、結果として身軽になっていくということなのだろう。
フリーで生きている人には数多くの喪失体験があるに違いないと思っていたけれど、その見方は外れてなかったようだ。しかし、人生はそういう辛いことばかりでもない、ということも上のコメントや”Rainbow In My Soul”は教えてくれる。
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