昔の日本の歌謡曲については全く詳しくないし興味もほとんどないけれど、田端義夫のアルバムは1枚だけ持っていた。買った時期は96年から97年の間(同志社大学の田辺キャンパスに通っていた時期)、近鉄京田辺駅ちかくの古本屋で手に入れたものである。タイトルは「田端義夫全曲集」で、発売日が93年の11月21日となっている。今からもう20年前だ。しかし1曲目が”歌手生活五十五周年記念 人生の船はヨーソロ!”となっている。この時すでにそれだけのキャリアがあったわけだ。
しかし、おおよそ関心のないジャンルにいるバタヤンのCDをなぜ私は買う気になったのか。それは何かのテレビで彼の歌う姿、もっと正確にいえばギターを抱えた格好が強く印象に残っていたからなのは間違いない。You Tubeで確認できるが、アゴが乗るくらいにギターを高く持ったあのスタイルは他に観た記憶がない。
さらなる衝撃を受けたのは、ギターそのものであった。ギターの上の側面、つまりアゴが乗る部分が使い過ぎてすり減っているのだ。それはこの歌手が気の遠くなるような長い年月を歩んできたのかを音楽以上に雄弁に物語るものであった。
バタヤンについてもう一つ記憶に残っているが、テレビ番組「いつみても波瀾万丈」(日本テレビ系列)にゲスト出演したのを観た時のことである(調べてみると放送日は1993年10月31日だった。「田端義夫全曲集」の出る直前だ)。
その名の通り、ゲストの波瀾万丈な人生を紹介する番組だったが、貧乏なため小さい時から魚を売る仕事を手伝わされ周囲からバカにされたこと、右目が病気になったがお金がないため治すことができず失明してしまったこと、その2つのエピソードだけは今でも頭に残っている。もう20年も前のことで記憶は全く定かではないが、この番組でさきほどのギターを私は見たのだろうか。しかしそれはもう確認のしようもない。
97年に「高千穂・神話の里フェスティバル」で共演をしたソウル・フラワー・ユニオンの中川敬がどこかの雑誌で、ロバート・ジョンソンに会ったようだ、というような発言を見かけた記憶がある。悪魔と魂を引き換えに驚異的なギター・テクニックを手に入れた、などという伝説もあるブルース・マンである。しかしジョンソンが生まれたのは1911年だから、バタヤンとはわずか8歳しか違わない。ちなみに同い年の歌手として、ナット・キング・コールがいる。
中川が時事通信で「うたのありか〜戦前の流行り唄」という連載でバタヤンについて書いているものをネットで見つけた。
http://twitpic.com/ai4dit
<船内や呑み屋の宴から漏れ聴こえてくる唄声に耳を傾け、気に入ったら即採譜して持ち曲にしてゆくという、唄に対する並々ならぬ好奇心。ヒット曲<島育ち>もそんな具合に新橋の屋台で巡り会った運命の唄だ。>
この逸話は、1933年に音楽学者のロマックス親子によってルイジアナのアンゴラ刑務所で「発見」されたミュージシャン、レッドベリーを連想させる。殺人の罪で収監されていたレッドベリーはブルース、バラッド(伝承歌)、労働歌、宗教歌など様々な種類の歌を記憶していた脅威のミュージシャンであった。彼の音楽は録音されることになり、例えばクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)が”C.C.Rider”をカバーするなど、後世のミュージシャンに多くの影響を与えた。ちなみにヴァン・モリソンが最も敬愛する一人が、このレッドベリーである。
バタヤンの歌にしても我が国の遠い遠い歴史が刻まれている。終戦直後の1946(昭和21)年に出したヒット曲”かえり船”は、You Tubeにあった動画(何かのテレビ番組)ではこんなナレーションに導かれて始まる。
<「みなさま。本当に、ご苦労さまでした。この船は、日本(にっぽん)の船です。」
そんな放送のあと、船内にこのメロディーが流れてきました。
”かえり船”
田端義夫さんです。>
戦争が終わり、外地から日本へ引き揚げてきた気持ちを「実感としてわかる」という人は現在においてもはやごく少数だろう。バタヤンはそんな時代を背負いながら21世紀まで歌い続けてきた歌手だったのである。それから90歳になってもアルバムを出したというのは凄すぎてもはや形容する言葉も見つからない。
だがその長い旅も、94年をもって幕引きとなってしまった。奇しくも、翌月に歌手生活75周年を記念したドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」が公開されるという矢先のことである。
私が知らないだけで、この国にもこのような凄い人はたくさんにいるのだろう。そうした功績が将来も評価されたり継承されるのだろうか。私はそんな使命も才能もないけれど、久しぶりに「田端義夫全曲集」を聴きながら考えてしまった。
あのボロボロのギターが脳裏にあると、その響きはまた格別な思いがする。いまはただただ合掌するばかりだ。
しかし、おおよそ関心のないジャンルにいるバタヤンのCDをなぜ私は買う気になったのか。それは何かのテレビで彼の歌う姿、もっと正確にいえばギターを抱えた格好が強く印象に残っていたからなのは間違いない。You Tubeで確認できるが、アゴが乗るくらいにギターを高く持ったあのスタイルは他に観た記憶がない。
さらなる衝撃を受けたのは、ギターそのものであった。ギターの上の側面、つまりアゴが乗る部分が使い過ぎてすり減っているのだ。それはこの歌手が気の遠くなるような長い年月を歩んできたのかを音楽以上に雄弁に物語るものであった。
バタヤンについてもう一つ記憶に残っているが、テレビ番組「いつみても波瀾万丈」(日本テレビ系列)にゲスト出演したのを観た時のことである(調べてみると放送日は1993年10月31日だった。「田端義夫全曲集」の出る直前だ)。
その名の通り、ゲストの波瀾万丈な人生を紹介する番組だったが、貧乏なため小さい時から魚を売る仕事を手伝わされ周囲からバカにされたこと、右目が病気になったがお金がないため治すことができず失明してしまったこと、その2つのエピソードだけは今でも頭に残っている。もう20年も前のことで記憶は全く定かではないが、この番組でさきほどのギターを私は見たのだろうか。しかしそれはもう確認のしようもない。
97年に「高千穂・神話の里フェスティバル」で共演をしたソウル・フラワー・ユニオンの中川敬がどこかの雑誌で、ロバート・ジョンソンに会ったようだ、というような発言を見かけた記憶がある。悪魔と魂を引き換えに驚異的なギター・テクニックを手に入れた、などという伝説もあるブルース・マンである。しかしジョンソンが生まれたのは1911年だから、バタヤンとはわずか8歳しか違わない。ちなみに同い年の歌手として、ナット・キング・コールがいる。
中川が時事通信で「うたのありか〜戦前の流行り唄」という連載でバタヤンについて書いているものをネットで見つけた。
http://twitpic.com/ai4dit
<船内や呑み屋の宴から漏れ聴こえてくる唄声に耳を傾け、気に入ったら即採譜して持ち曲にしてゆくという、唄に対する並々ならぬ好奇心。ヒット曲<島育ち>もそんな具合に新橋の屋台で巡り会った運命の唄だ。>
この逸話は、1933年に音楽学者のロマックス親子によってルイジアナのアンゴラ刑務所で「発見」されたミュージシャン、レッドベリーを連想させる。殺人の罪で収監されていたレッドベリーはブルース、バラッド(伝承歌)、労働歌、宗教歌など様々な種類の歌を記憶していた脅威のミュージシャンであった。彼の音楽は録音されることになり、例えばクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)が”C.C.Rider”をカバーするなど、後世のミュージシャンに多くの影響を与えた。ちなみにヴァン・モリソンが最も敬愛する一人が、このレッドベリーである。
バタヤンの歌にしても我が国の遠い遠い歴史が刻まれている。終戦直後の1946(昭和21)年に出したヒット曲”かえり船”は、You Tubeにあった動画(何かのテレビ番組)ではこんなナレーションに導かれて始まる。
<「みなさま。本当に、ご苦労さまでした。この船は、日本(にっぽん)の船です。」
そんな放送のあと、船内にこのメロディーが流れてきました。
”かえり船”
田端義夫さんです。>
戦争が終わり、外地から日本へ引き揚げてきた気持ちを「実感としてわかる」という人は現在においてもはやごく少数だろう。バタヤンはそんな時代を背負いながら21世紀まで歌い続けてきた歌手だったのである。それから90歳になってもアルバムを出したというのは凄すぎてもはや形容する言葉も見つからない。
だがその長い旅も、94年をもって幕引きとなってしまった。奇しくも、翌月に歌手生活75周年を記念したドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」が公開されるという矢先のことである。
私が知らないだけで、この国にもこのような凄い人はたくさんにいるのだろう。そうした功績が将来も評価されたり継承されるのだろうか。私はそんな使命も才能もないけれど、久しぶりに「田端義夫全曲集」を聴きながら考えてしまった。
あのボロボロのギターが脳裏にあると、その響きはまた格別な思いがする。いまはただただ合掌するばかりだ。
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