「文章読本」で決定的に欠けていたこと
2014年4月5日 読書
いま必要に迫られて、文章を書いてはパソコンの中に貯めている。そうしているうちに文章を書くこと自体についての関心も出てきたので、かつて自分が読んでいた作文に関する本を再読しはじめた。
おそらく作文について自分が初めて買った本は、朝日新聞社で長年コラムなどを書いていた轡田隆史さんの「うまい!と言われる文章の技術」(98年、三笠書房)だろう。就職試験で出てくる小論文対策のために手に入れたのだと思うが、時代はまだインターネットが光ファイバーはおろかADSLの常時接続も始まってなかった頃である。無論「ブログ」という言葉もなかった(ブログが世間に浸透したのは2001年の「9.11」テロ直後からだろう)。現在と比較してみれば「書く」という行為は敷居が高かったというか、まだ誰もが手軽にすることでもなかったといえる。「書く」こと自体は日本でも1000年以上の歴史があるわけだが、それを取り巻く環境は常に変わってきていることを再認識した。
私自身も当時はこうしてブログやSNS(こういう言葉も無かったなあ)で文章を書く環境があるわけでもなく、作文の基礎的な素養も皆無という状態だった。だから轡田さんの本などを参照しながら色々と文章についてあれこれ試行錯誤をしていた。その時は「この本で勉強をさせてもらう」という姿勢で接したわけだけれど、まがりになりにも10年以上文章を書いているうちに多少の経験も蓄積されたようで、現在の視点で読み返してみると本の印象はだいぶ違ってきている。本日はそのあたりについて書いてみたい。
本書を読んでまず全体的な印象は、非常に多種多様な文章が引用されていることだ。シェイクスピアの「リア王」や「ハムレット」、「万葉集」に収録されている歌、また轡田さん自身が新聞紙上で書いたコラムなどである。それはまさに彼が本や文章が大好きであることに他ならない。その点が、
「本を読むのが苦手なんです。どうにも好きになれません。長い小説なんて背表紙を見るだけで嫌になってくるんです」
と最近は恥ずかしげもなく公言するようになった私との決定的な違いである。
轡田さんは本書の最後で、面白い仕掛けのある文章を書いている。それは、
<現在望み得る最上かつ最良の文章の上達法>(P.221)
を紹介するというものだ。しかしその方法というのは、井上ひさしさんの「井上ひさしエッセイ集8『死ぬのがこわくなくなる薬』」(98年。中公文庫)に収録されている以下の文章を読め、というものなのである。
<編集部から与えられた紙数は四百字詰原稿用紙で五枚。これっぽっちの枚数で文章上達の秘訣をお伝えできるだろうか。どんな文章家も言下に「それは不可能」と答えるだろう。ところが、筆者ならこの問いにたやすく答えることができる。それに五枚も要らぬ。ただの一行ですむ。こうである。
「丸谷才一の『文章読本』を読め」
特に、第二章「名文を読め」と第三章「ちょっと気取って書け」の二つの章を繰り返し読むのがよろしい。これが現在望み得る最上にして最良の文章である。
以上で言いたいことをすべて言い終えた。あとは読者諸賢の健闘を祈る。・・・>
勘の良い方ならば、丸谷さんの「文章読本」(95年。中公文庫)にどんなことが書かれているか見当がつくに違いない。
<作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡(つ)きる。事実、古来の名文家はみなさうすることによつて文章に秀でたので、この場合、例外はまつたくなかつたとわたしは信じてゐる。>(P.23)
丸谷「文章読本」は私の手元にもあるが(無論、轡田さんがきっかけだ)、「名文を読め」ではこうも書いてある。
<たとえば森鴎外は年少の文学志望者に文章上達法を問はれて、ただひとこと、「春秋左氏傳」をくりかへし読めと答へた。「左傳」を熟読したがゆゑに彼の文体はあり得たからである。同じ問に対して紫式部が、鴨長明が、夏目漱石がどのやうに教へるかと想像するには、(中略)たとへその返事がどうであらうと、彼らが鴎外の答へ方の方向に異論を唱へるはずはない。>(P.23-24)
このような入れ子構造というか出口の無い永久ループのような論理展開だが、轡田さんはさらに、
<私たちは、ともかく読まなければならないのである。>(P.228)
と念を押して繰り返す。これは丸谷さんも井上さんも、さらにはおそらく紫式部も鴨長明も一致した見解なのだろう。
良い文章を書くためには良い文章を読まなければならない。
この意見はあまり考えなくてもなんとかく「正しい」と実感できるものではある。
しかし一方で、
「全く間違いないとは思うんだけど、なんだか自分にはしっくりこないなあ・・・」
という違和感も常に自分の中にあった。そしてそのまま十年以上の月日が流れたわけだが、今回読み返してみてその理由に気がついてしまったのである。
さきほど挙げた人たちに共通する特徴は、
・文章を読むのが好きで得意
・「上手い文章を書こう」という意識が高い
というものである。おそらくこれは間違いないだろう。それに対して私といえば、
・文章を読むのはあまり好きでないし苦手
・「上手い文章を書こう」ということを(少なくともこの10年ほどは)思ったことが一度もない。
という人間である。轡田さんの本、または丸谷さん及び井上さんの「文章読本」は「文章を読むのが好きな人」が書いたものである。よって、文書の読み書きが苦手だとか嫌いだとかいった人への配慮というのはあまり行き届いてないのも仕方ないことかもしれない。
個人的に一番まずいと思うのは「とにかく読め!」という部分である。これは先の三氏に限らず、ビジネス書でも「1日1冊読め!そうしないとデキる人にはなれない!」という半ば脅迫的なことを書いているものも多い。しかし、漆原直行(編集者)さんは「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」(12年。マイナビ新書)の中で、
<たしかに、読書は大切です。
その意味ではビジネス書を読むことはよいことといえます。
ただし、これはあくまで一般論であって「適度な運動をすることはカラダによい」という程度の指摘でしかありません。具体論レベルではいうまでもなくケースバイケースであり、程度問題であり、個人差もあることです>(P.171)
と喝破している。ここで言われる「程度問題」とか「個人差」といったものが、これまでの「文章読本」系の本に欠けていた視点だといえる。
ケータイやSNSのおかげで「書く」という行為がグッと身近になり誰でもするようになった今、私たちに必要なのは「デキない人」のための読書法や文章術なのでないか。では、それはどんなものかといえば、かなり今回は長々と書いてしまったので、近いうち(せめて1週間以内)に別のところでヒントらしき提言をしてみたい。
おそらく作文について自分が初めて買った本は、朝日新聞社で長年コラムなどを書いていた轡田隆史さんの「うまい!と言われる文章の技術」(98年、三笠書房)だろう。就職試験で出てくる小論文対策のために手に入れたのだと思うが、時代はまだインターネットが光ファイバーはおろかADSLの常時接続も始まってなかった頃である。無論「ブログ」という言葉もなかった(ブログが世間に浸透したのは2001年の「9.11」テロ直後からだろう)。現在と比較してみれば「書く」という行為は敷居が高かったというか、まだ誰もが手軽にすることでもなかったといえる。「書く」こと自体は日本でも1000年以上の歴史があるわけだが、それを取り巻く環境は常に変わってきていることを再認識した。
私自身も当時はこうしてブログやSNS(こういう言葉も無かったなあ)で文章を書く環境があるわけでもなく、作文の基礎的な素養も皆無という状態だった。だから轡田さんの本などを参照しながら色々と文章についてあれこれ試行錯誤をしていた。その時は「この本で勉強をさせてもらう」という姿勢で接したわけだけれど、まがりになりにも10年以上文章を書いているうちに多少の経験も蓄積されたようで、現在の視点で読み返してみると本の印象はだいぶ違ってきている。本日はそのあたりについて書いてみたい。
本書を読んでまず全体的な印象は、非常に多種多様な文章が引用されていることだ。シェイクスピアの「リア王」や「ハムレット」、「万葉集」に収録されている歌、また轡田さん自身が新聞紙上で書いたコラムなどである。それはまさに彼が本や文章が大好きであることに他ならない。その点が、
「本を読むのが苦手なんです。どうにも好きになれません。長い小説なんて背表紙を見るだけで嫌になってくるんです」
と最近は恥ずかしげもなく公言するようになった私との決定的な違いである。
轡田さんは本書の最後で、面白い仕掛けのある文章を書いている。それは、
<現在望み得る最上かつ最良の文章の上達法>(P.221)
を紹介するというものだ。しかしその方法というのは、井上ひさしさんの「井上ひさしエッセイ集8『死ぬのがこわくなくなる薬』」(98年。中公文庫)に収録されている以下の文章を読め、というものなのである。
<編集部から与えられた紙数は四百字詰原稿用紙で五枚。これっぽっちの枚数で文章上達の秘訣をお伝えできるだろうか。どんな文章家も言下に「それは不可能」と答えるだろう。ところが、筆者ならこの問いにたやすく答えることができる。それに五枚も要らぬ。ただの一行ですむ。こうである。
「丸谷才一の『文章読本』を読め」
特に、第二章「名文を読め」と第三章「ちょっと気取って書け」の二つの章を繰り返し読むのがよろしい。これが現在望み得る最上にして最良の文章である。
以上で言いたいことをすべて言い終えた。あとは読者諸賢の健闘を祈る。・・・>
勘の良い方ならば、丸谷さんの「文章読本」(95年。中公文庫)にどんなことが書かれているか見当がつくに違いない。
<作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡(つ)きる。事実、古来の名文家はみなさうすることによつて文章に秀でたので、この場合、例外はまつたくなかつたとわたしは信じてゐる。>(P.23)
丸谷「文章読本」は私の手元にもあるが(無論、轡田さんがきっかけだ)、「名文を読め」ではこうも書いてある。
<たとえば森鴎外は年少の文学志望者に文章上達法を問はれて、ただひとこと、「春秋左氏傳」をくりかへし読めと答へた。「左傳」を熟読したがゆゑに彼の文体はあり得たからである。同じ問に対して紫式部が、鴨長明が、夏目漱石がどのやうに教へるかと想像するには、(中略)たとへその返事がどうであらうと、彼らが鴎外の答へ方の方向に異論を唱へるはずはない。>(P.23-24)
このような入れ子構造というか出口の無い永久ループのような論理展開だが、轡田さんはさらに、
<私たちは、ともかく読まなければならないのである。>(P.228)
と念を押して繰り返す。これは丸谷さんも井上さんも、さらにはおそらく紫式部も鴨長明も一致した見解なのだろう。
良い文章を書くためには良い文章を読まなければならない。
この意見はあまり考えなくてもなんとかく「正しい」と実感できるものではある。
しかし一方で、
「全く間違いないとは思うんだけど、なんだか自分にはしっくりこないなあ・・・」
という違和感も常に自分の中にあった。そしてそのまま十年以上の月日が流れたわけだが、今回読み返してみてその理由に気がついてしまったのである。
さきほど挙げた人たちに共通する特徴は、
・文章を読むのが好きで得意
・「上手い文章を書こう」という意識が高い
というものである。おそらくこれは間違いないだろう。それに対して私といえば、
・文章を読むのはあまり好きでないし苦手
・「上手い文章を書こう」ということを(少なくともこの10年ほどは)思ったことが一度もない。
という人間である。轡田さんの本、または丸谷さん及び井上さんの「文章読本」は「文章を読むのが好きな人」が書いたものである。よって、文書の読み書きが苦手だとか嫌いだとかいった人への配慮というのはあまり行き届いてないのも仕方ないことかもしれない。
個人的に一番まずいと思うのは「とにかく読め!」という部分である。これは先の三氏に限らず、ビジネス書でも「1日1冊読め!そうしないとデキる人にはなれない!」という半ば脅迫的なことを書いているものも多い。しかし、漆原直行(編集者)さんは「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」(12年。マイナビ新書)の中で、
<たしかに、読書は大切です。
その意味ではビジネス書を読むことはよいことといえます。
ただし、これはあくまで一般論であって「適度な運動をすることはカラダによい」という程度の指摘でしかありません。具体論レベルではいうまでもなくケースバイケースであり、程度問題であり、個人差もあることです>(P.171)
と喝破している。ここで言われる「程度問題」とか「個人差」といったものが、これまでの「文章読本」系の本に欠けていた視点だといえる。
ケータイやSNSのおかげで「書く」という行為がグッと身近になり誰でもするようになった今、私たちに必要なのは「デキない人」のための読書法や文章術なのでないか。では、それはどんなものかといえば、かなり今回は長々と書いてしまったので、近いうち(せめて1週間以内)に別のところでヒントらしき提言をしてみたい。
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