「上手い文章」って何なんだろう
2014年4月9日 読書
「僕、文章がヘタなんですよぉ。だから上手くなりたいなー、って思うんですぅ」
かつていた職場で、後輩にあたる男性がこんなことを言っていたのを思い出す。
文章が上手くなりたい。
何か書いていたら、そんなことを思う瞬間も一度や二度はあるに違いない。しかし、こういうことを考えても文章の改善は見込めないと思う。先の男性にしても発言を見る限り、文章についてたいして考えてもいないし、別に何かを向上したいとも思っていないのだろう。彼の問題設定があまりにも曖昧なのだ。
そもそもの話になってくるけれど、文章の上手/下手というのは何を基準にして決めるのだろうか。たぶん、パッと答えられる人などそうはいないはずである。
前回のブログでも登場した丸谷才一さんの「文章読本」(95年。中公文庫)の中に「名文」とは何かということが書かれている。それが一つの参考となるだろう。
<ところで、名文であるか否かは何によつて分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思つたものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひつそり埋もれてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。君自身の名文となる。君の魂とのあひだにそれだけの密接な関係を持つものでない限り、言葉のあやつり方の師、文章の規範、エネルギーの源泉となり得ないのはむしろ当然の話ではないか。>(P.31)
要するに、文章の巧拙の基準なんて人それぞれなんだよ、と丸谷さんは言ってるわけだが、一般論としては妥当な見解といえる。たとえば村上春樹さんの小説を読んで感激した人にとっては、村上さんの文章がまさに名文となるのだ。そのこと自体は決して悪いことではないけれど、もしも「村上さんのような文章を書きたい」などと思ったとしても、私からはアドバイスらしきものは一つも出すことができない。私自身は誰か特定の小説家や評論家といったプロの文章家を手本にして書いた経験がないからだ。
もちろん、自分の文章をもっと良いものにしたい、という意識は常に持っていたし、出口汪先生や井上ひさしさんの書いた文章に関する本はよく読んではいた。しかし、二人の文章の真似をしようとしたことも無い。どうしてかといえば、おそらく誰かの文体を模倣する必然性を感じなかったのだろう。
文章を書くのに慣れてない人は「良い文章を書こう!」という気負いが空回りして、「飾りの多い文章」を作ってしまうということが多いのではないだろうか。無論「上手い文章」と「飾りの多い文章」はその質は全く異なる。「飾りの多い文章」はたいてい、非常に読みづらいものとなってしまう。
飾りが多くても上手い文章を書くという人といえば、芥川龍之介が代表的な一人である。しかし芥川が書いていたのはあくまで「小説」である。小説というのは文章によって一つの世界を提示する表現といえるが、そのために文章量もかなり必要となってくる。私たちが日頃おこなう作文といえばパソコンや携帯のメール、ビジネス文書、あとはブログなどのSNS関係くらいだろう。いずれも文章の字数などしれている。2000字を超えることもそうは無いだろう。
私の手元に「月1千万円稼げるネットショップ『売れる』秘訣は文章力だ! 」(05年。ナツメ社)という、実用書を地で行くようなタイトルの本がある。しかし、題名のどぎつさとは対照的に中身はけっこう良いことが書いてある。
本書では文章のポイントについて、
・理解しやすい=スンナリ頭に入る、ありきたりの文章
・わかりやすい=かんたんなことばを使った、わかりやすい文章
・読みやすい=うまいのかどうかわからない、スラスラ読める文章
と3点に集約している(P.30)。
そして、
<うまい文章とは「なんでもない文章」>(P.23)
とも書いている。これは、個人的に「至言」といいたくなる指摘だ。
つまり、実用文に限っていえば、読む人の頭にスッと入ってよどみなく理解できる文章が優れているというわけである。それが「読みやすい」とか「わかりやすい」ということの本質に違いない。
ポピュラーミュージックにも同じようなことがある。プログレッシブ・ロックとかフュージョンとかクロスオーバーとかいった複雑な構成を持った音楽は、一部の音楽ファンには愛好されたものの、そこから一般的な地位を築いたかといえば心許ない。一方、50年代に登場したロックン・ロール、またそれ以前の時代からあるブルースといったジャンルは今でもその影響力は小さくない。
こうした点を見ても、シンプルで簡潔(=わかりやすい)な表現の方が力強く相手に伝わる可能性は高いといえる。
それでは、そんな簡潔してわかりやすい表現をするにはどうしたらよいか。次回はそのあたりについて追求めいたことを試みたい。
かつていた職場で、後輩にあたる男性がこんなことを言っていたのを思い出す。
文章が上手くなりたい。
何か書いていたら、そんなことを思う瞬間も一度や二度はあるに違いない。しかし、こういうことを考えても文章の改善は見込めないと思う。先の男性にしても発言を見る限り、文章についてたいして考えてもいないし、別に何かを向上したいとも思っていないのだろう。彼の問題設定があまりにも曖昧なのだ。
そもそもの話になってくるけれど、文章の上手/下手というのは何を基準にして決めるのだろうか。たぶん、パッと答えられる人などそうはいないはずである。
前回のブログでも登場した丸谷才一さんの「文章読本」(95年。中公文庫)の中に「名文」とは何かということが書かれている。それが一つの参考となるだろう。
<ところで、名文であるか否かは何によつて分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思つたものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひつそり埋もれてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。君自身の名文となる。君の魂とのあひだにそれだけの密接な関係を持つものでない限り、言葉のあやつり方の師、文章の規範、エネルギーの源泉となり得ないのはむしろ当然の話ではないか。>(P.31)
要するに、文章の巧拙の基準なんて人それぞれなんだよ、と丸谷さんは言ってるわけだが、一般論としては妥当な見解といえる。たとえば村上春樹さんの小説を読んで感激した人にとっては、村上さんの文章がまさに名文となるのだ。そのこと自体は決して悪いことではないけれど、もしも「村上さんのような文章を書きたい」などと思ったとしても、私からはアドバイスらしきものは一つも出すことができない。私自身は誰か特定の小説家や評論家といったプロの文章家を手本にして書いた経験がないからだ。
もちろん、自分の文章をもっと良いものにしたい、という意識は常に持っていたし、出口汪先生や井上ひさしさんの書いた文章に関する本はよく読んではいた。しかし、二人の文章の真似をしようとしたことも無い。どうしてかといえば、おそらく誰かの文体を模倣する必然性を感じなかったのだろう。
文章を書くのに慣れてない人は「良い文章を書こう!」という気負いが空回りして、「飾りの多い文章」を作ってしまうということが多いのではないだろうか。無論「上手い文章」と「飾りの多い文章」はその質は全く異なる。「飾りの多い文章」はたいてい、非常に読みづらいものとなってしまう。
飾りが多くても上手い文章を書くという人といえば、芥川龍之介が代表的な一人である。しかし芥川が書いていたのはあくまで「小説」である。小説というのは文章によって一つの世界を提示する表現といえるが、そのために文章量もかなり必要となってくる。私たちが日頃おこなう作文といえばパソコンや携帯のメール、ビジネス文書、あとはブログなどのSNS関係くらいだろう。いずれも文章の字数などしれている。2000字を超えることもそうは無いだろう。
私の手元に「月1千万円稼げるネットショップ『売れる』秘訣は文章力だ! 」(05年。ナツメ社)という、実用書を地で行くようなタイトルの本がある。しかし、題名のどぎつさとは対照的に中身はけっこう良いことが書いてある。
本書では文章のポイントについて、
・理解しやすい=スンナリ頭に入る、ありきたりの文章
・わかりやすい=かんたんなことばを使った、わかりやすい文章
・読みやすい=うまいのかどうかわからない、スラスラ読める文章
と3点に集約している(P.30)。
そして、
<うまい文章とは「なんでもない文章」>(P.23)
とも書いている。これは、個人的に「至言」といいたくなる指摘だ。
つまり、実用文に限っていえば、読む人の頭にスッと入ってよどみなく理解できる文章が優れているというわけである。それが「読みやすい」とか「わかりやすい」ということの本質に違いない。
ポピュラーミュージックにも同じようなことがある。プログレッシブ・ロックとかフュージョンとかクロスオーバーとかいった複雑な構成を持った音楽は、一部の音楽ファンには愛好されたものの、そこから一般的な地位を築いたかといえば心許ない。一方、50年代に登場したロックン・ロール、またそれ以前の時代からあるブルースといったジャンルは今でもその影響力は小さくない。
こうした点を見ても、シンプルで簡潔(=わかりやすい)な表現の方が力強く相手に伝わる可能性は高いといえる。
それでは、そんな簡潔してわかりやすい表現をするにはどうしたらよいか。次回はそのあたりについて追求めいたことを試みたい。
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