そりゃあ、生きるのは大事なのに間違いはないけど
2014年8月7日 時事ニュース
理化学研究所の笹井芳樹副センター長の自殺は世間に少なからぬショックを与えたようだ。自殺の報道があった日に、
「なにがあっても、死んだらあかんやろ」
というようなコメントをSNSで散見したからである。
確かに命が続く限り生きていくのは大事である。自らそれを絶つという行為は間違っている。それは基本的には誰もが同意する意見に違いない。
しかし、よく指摘していることだが、「絶対に正しい」意見は往々にして「面白くない」というか「役に立たない」という意味とイコールになることが多い。死のう死のうと思い悩む人に対して「生きることは大事だ」というような台詞を投げたところで、先方にとって一体どれほどの助けになるのだろうか。SNSの書き込みを見ていてそんな疑問が浮かんだのである。
「自殺」という言葉で私が真っ先に連想するものは、今からちょうど100年前の大正3(1914)年に朝日新聞で発表された夏目漱石の小説「こころ」に出てくる「先生」の言葉だ。
この小説には3人の自殺が取り上げられている。一人は先生、そして先生の友人である「K」、最後の一人は明治天皇崩御の直後に自決した軍人、乃木希典(のぎ・まれすけ)だ。この小説を取り上げる時は、先生とKとの関係が強調されるあまり乃木将軍については影が薄いような気がする。だが明治という一つの時代が終わった直後に出たこの作品では乃木将軍の殉死という出来事は非常に重要な役割を果たしている。
私が紹介したい箇所を載せる前に、乃木将軍がどんな人だったのかを前提知識として知ってもらわなければならない。そこで出口汪先生の「教科書では教えてくれない日本の名作」(09年。ソフトバンク新書)の一部を抜粋させていただく。
(本書は出口先生と女子高校生「あいか」との対話形式になっている)
<(あいか)乃木将軍って、どんな人?
乃木希典は、まじめで忠義一徹、陸軍大将にまで上り詰めた人だけど、実際には負け戦が多かったんだ。
明治十年の西南戦争、つまり西郷隆盛との戦いのとき、政府軍に加わって勝利を収めたのだけれど、乃木将軍自身は敗走して軍旗を敵に取られてしまう。痛恨の「軍旗喪失」だ。
そのとき、お詫びのために切腹をしようとしたのだが、その命を天皇のために捧げよと人に諭される。
でも、「軍旗喪失」以来、乃木は友人が「乃木はまるで自分から死に場所を求めて戦争をしているみたいだ」と言ったほど、異常な行動が続く。
その後、乃木将軍は何度も死にたいと思うことがあったんだが、その最たるものが日露戦争の旅順攻撃(明治三十七年)。結局勝利するのだが、まさに死屍累々(ししるいるい)といった戦だったんだ。ロシア軍の要塞から発射される機関銃に、日本兵は次々と撃ち殺される。乃木将軍は最高司令官として、肉弾戦しか思いつかない。自分の目の前で何万という兵隊がばたばたと殺されていく。味方の屍を踏み越えて、やがて日本軍は適地を占領するのだが、乃木将軍はその戦況をどのような思いで見つめていただろう。
(あいか)でも、戦争には勝ったのでしょ?
ああ、乃木将軍は凱旋(がいせん)将軍として迎えられる。この戦争が果たして実質的に勝利か否か、乃木将軍の取った作戦が是か非かは人によって評価が分かれるかもしれないが、少なくとも将軍自身は自分の無能のために数万の兵隊が命を失ったと思い込んでいたに違いない。
そして、戦死した兵隊の中には自分のたった二人の子どもも交じっていた。
乃木将軍は凱旋したのに、にこりともしない。当時、笑わない将軍とまでいわれたんだよ。
多くの死傷者を出して申し訳ないと、乃木将軍は帰国後、明治天皇に「この際、割腹して、その罪をお詫びしたい」と訴えた。明治天皇は「死ぬならこの私がこの世を去ってからにしなさい」と諭した。
まさに乃木将軍は明治天皇の言葉通りの死を迎えることになる。>(P.71-73)
少し長い引用になったかもしれないが、これを踏まえて小説から先生の遺書に書かれた一節を読んでいただきたい。
<西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那(いつせつな)が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。>
死のう死のうと悩みながら生きた35年間と、刀で切腹をしてから絶命するまでの間と果たしてどちらの方が苦しいのか。先生のこの問いかけは、年齢を重ねれば重ねるほど重くのしかかってくるような気がしてならない。
10代20代の頃は死ぬことなどほとんど頭になかったけれど、人生の折り返し地点を過ぎたあたりからは考えることも増えてきたようだ。望む/望まないに関わらず、私たちは死に向かって歩んでいる。そしてその道のりは平板なものでないであろうことも、多少なりとも考えて生きている人なら感じるはずだ。
別に私は自殺を選ぶような種類の人間ではないと思っているけれど、例えば遮断機の前で電車を通過するのを待っている時に、
「あー、ここでブチュといけば、生きる苦しみからスッと解放されるのかなあ・・・」
と思いが頭をよぎることも、無いわけではない。しかしそういう自分を踏みとどませているのは、この世でまだやり残していることがあるというか、未練のようなものがあるからだろう。
また、先ほども述べた通りだが、人生の半分が終わった身としては残された時間も有限であることを感じずにはいられない。せいぜい、10代20代の時とはまた違った生き方、もう少し時間を大切にして過ごしたいと願う。
フラフラした議論のように感じる方もいるかもしれないが、とにかく生きることが大事だ!などと直線的なことを言う気持ちにはなれないのである。生きることが大切だと強調したいなら、それこそ漱石のように、その対極にある死についても同じくらいの重さで考えないと深みのある話にならないだろう。
「こころ」の内容についてはほとんど触れられなかったが、さっきも書いたとおり今年は「こころ」が発表されてから100年が経つ。これを機会に作品にと言いたいが、原書を読むのが億劫な(私のような)人は出口先生の「教科書では教えてくれない日本の名作」が優れた解説であるので見ていただきたい。漱石のみならず芥川龍之介、川端康成、太宰治、などの作品も取り上げられていて、文学の魅力を辿るには絶好のものといえる。
「なにがあっても、死んだらあかんやろ」
というようなコメントをSNSで散見したからである。
確かに命が続く限り生きていくのは大事である。自らそれを絶つという行為は間違っている。それは基本的には誰もが同意する意見に違いない。
しかし、よく指摘していることだが、「絶対に正しい」意見は往々にして「面白くない」というか「役に立たない」という意味とイコールになることが多い。死のう死のうと思い悩む人に対して「生きることは大事だ」というような台詞を投げたところで、先方にとって一体どれほどの助けになるのだろうか。SNSの書き込みを見ていてそんな疑問が浮かんだのである。
「自殺」という言葉で私が真っ先に連想するものは、今からちょうど100年前の大正3(1914)年に朝日新聞で発表された夏目漱石の小説「こころ」に出てくる「先生」の言葉だ。
この小説には3人の自殺が取り上げられている。一人は先生、そして先生の友人である「K」、最後の一人は明治天皇崩御の直後に自決した軍人、乃木希典(のぎ・まれすけ)だ。この小説を取り上げる時は、先生とKとの関係が強調されるあまり乃木将軍については影が薄いような気がする。だが明治という一つの時代が終わった直後に出たこの作品では乃木将軍の殉死という出来事は非常に重要な役割を果たしている。
私が紹介したい箇所を載せる前に、乃木将軍がどんな人だったのかを前提知識として知ってもらわなければならない。そこで出口汪先生の「教科書では教えてくれない日本の名作」(09年。ソフトバンク新書)の一部を抜粋させていただく。
(本書は出口先生と女子高校生「あいか」との対話形式になっている)
<(あいか)乃木将軍って、どんな人?
乃木希典は、まじめで忠義一徹、陸軍大将にまで上り詰めた人だけど、実際には負け戦が多かったんだ。
明治十年の西南戦争、つまり西郷隆盛との戦いのとき、政府軍に加わって勝利を収めたのだけれど、乃木将軍自身は敗走して軍旗を敵に取られてしまう。痛恨の「軍旗喪失」だ。
そのとき、お詫びのために切腹をしようとしたのだが、その命を天皇のために捧げよと人に諭される。
でも、「軍旗喪失」以来、乃木は友人が「乃木はまるで自分から死に場所を求めて戦争をしているみたいだ」と言ったほど、異常な行動が続く。
その後、乃木将軍は何度も死にたいと思うことがあったんだが、その最たるものが日露戦争の旅順攻撃(明治三十七年)。結局勝利するのだが、まさに死屍累々(ししるいるい)といった戦だったんだ。ロシア軍の要塞から発射される機関銃に、日本兵は次々と撃ち殺される。乃木将軍は最高司令官として、肉弾戦しか思いつかない。自分の目の前で何万という兵隊がばたばたと殺されていく。味方の屍を踏み越えて、やがて日本軍は適地を占領するのだが、乃木将軍はその戦況をどのような思いで見つめていただろう。
(あいか)でも、戦争には勝ったのでしょ?
ああ、乃木将軍は凱旋(がいせん)将軍として迎えられる。この戦争が果たして実質的に勝利か否か、乃木将軍の取った作戦が是か非かは人によって評価が分かれるかもしれないが、少なくとも将軍自身は自分の無能のために数万の兵隊が命を失ったと思い込んでいたに違いない。
そして、戦死した兵隊の中には自分のたった二人の子どもも交じっていた。
乃木将軍は凱旋したのに、にこりともしない。当時、笑わない将軍とまでいわれたんだよ。
多くの死傷者を出して申し訳ないと、乃木将軍は帰国後、明治天皇に「この際、割腹して、その罪をお詫びしたい」と訴えた。明治天皇は「死ぬならこの私がこの世を去ってからにしなさい」と諭した。
まさに乃木将軍は明治天皇の言葉通りの死を迎えることになる。>(P.71-73)
少し長い引用になったかもしれないが、これを踏まえて小説から先生の遺書に書かれた一節を読んでいただきたい。
<西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那(いつせつな)が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。>
死のう死のうと悩みながら生きた35年間と、刀で切腹をしてから絶命するまでの間と果たしてどちらの方が苦しいのか。先生のこの問いかけは、年齢を重ねれば重ねるほど重くのしかかってくるような気がしてならない。
10代20代の頃は死ぬことなどほとんど頭になかったけれど、人生の折り返し地点を過ぎたあたりからは考えることも増えてきたようだ。望む/望まないに関わらず、私たちは死に向かって歩んでいる。そしてその道のりは平板なものでないであろうことも、多少なりとも考えて生きている人なら感じるはずだ。
別に私は自殺を選ぶような種類の人間ではないと思っているけれど、例えば遮断機の前で電車を通過するのを待っている時に、
「あー、ここでブチュといけば、生きる苦しみからスッと解放されるのかなあ・・・」
と思いが頭をよぎることも、無いわけではない。しかしそういう自分を踏みとどませているのは、この世でまだやり残していることがあるというか、未練のようなものがあるからだろう。
また、先ほども述べた通りだが、人生の半分が終わった身としては残された時間も有限であることを感じずにはいられない。せいぜい、10代20代の時とはまた違った生き方、もう少し時間を大切にして過ごしたいと願う。
フラフラした議論のように感じる方もいるかもしれないが、とにかく生きることが大事だ!などと直線的なことを言う気持ちにはなれないのである。生きることが大切だと強調したいなら、それこそ漱石のように、その対極にある死についても同じくらいの重さで考えないと深みのある話にならないだろう。
「こころ」の内容についてはほとんど触れられなかったが、さっきも書いたとおり今年は「こころ」が発表されてから100年が経つ。これを機会に作品にと言いたいが、原書を読むのが億劫な(私のような)人は出口先生の「教科書では教えてくれない日本の名作」が優れた解説であるので見ていただきたい。漱石のみならず芥川龍之介、川端康成、太宰治、などの作品も取り上げられていて、文学の魅力を辿るには絶好のものといえる。
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