渡辺美里「オーディナリー・ライフ」(15年)
2015年4月15日 渡辺美里
サブ・カルチャーというものに対してどうにも超えられない距離感が昔からあって、そのまま現在に至っている。それゆえ、例えば「ロックとは何か?」というような命題について論じる気持ちにはなれないし、そんなことを言う輩には全く共感を抱けなかった。2015年になった今もそういう人はたくさん存在するのだろうか?そういえばかつて「Don’t trust over 30」(30歳を超えた人間を信じるな、という意味)なる言葉を吐いていた連中はいまどこで何をしているのだろう。もう彼らにも年金や社会保険が必要な年齢になり、そうしたセリフも風化して意味がなくなってしまった。
そもそも「ロック」というものに大多数が共感できるような定義など無い。そんなあやふやな前提のままあれこれ論じたところで生産するものなどあるはずがないのだ。そんな「独りよがり」の連中が勝手に仮想敵を作り出し、自分の意に沿わない表現者を攻撃してきた。個々のロック観など自分の中で密かに抱いていればいいだろうし、そんなもののために悪罵を投げつけられる方はたまったものではない。振り返ってみると、渡辺美里という人はそういう犠牲者の代表格だったのではないだろうか。かつては叩かれても仕方ないような悪目立ちする言動をしてきた部分も否定しないが、美里はロックじゃないね、みたいな「批評」は全く大きなお世話だろう。そしてそんな無責任なことを言っていた人たちは消えてしまった。その一方で、彼女を支持する人間も同じくらい少なくなってしまったが。
私自身は1991年、中学3年の時にアルバム「Lucky」(91年)を手にしてからずっとこの人を観つづけてきた。いまデビュー30周年に突入しているが、そのうちの24年ほどお付き合いしていることになる。別にそれが神だったとかクソだったとかいう二分法で結論づけるつもりもない。ただ、38年ほどの人生の大半は彼女とともにあったということは厳然とした事実として残っているというだけだ。
しかし実は、こうやって言い切れるまでにけっこう長い時間がかかっている。90年代までは彼女をずっと聴いているなどと周囲に素直にいえる心境にはなれなかった。その原因はさきほどの「意識的な音楽ファン」といえる連中の存在が頭にあったからだろう。こうした人たちが渡辺美里を肯定するのは稀だった。しかし彼らが聴いている音楽がどれほどのものかといえば、現在では怪しいものがあるけれど。ともかく、この人の美点も欠点も全て受け入れた上で、私の人生は渡辺美里とともにありました、と自然体で言えるまで20年ほど費やしたと思う。ここまで複雑な思いをもって見てきた人も自分の人生の中でも他にはいない。
グダグダと述べてきたが、渡辺美里の30年間とは何だったのかと自分なりに整理してみたかったのだ。しかし、どうも現状ではスッキリした結論らしきものは出てきそうにない。やはり自分の半生と密接に関わっていることであり明確な位置づけをすることはできないということか。そういうことは諦めて、今回の作品について思うところを書いてみることにする。
今年の元日に渋谷公会堂でライブが行われたが、そこで4月1日に「オーディナリー・ライフ」という新作が出るという発表が彼女自身からあった。同じタイトル名でヴァン・モリソンの91年の作品があることを連想したのは会場で私だけだったと思うが、なんとなく気になる名前だとは感じた。
先行シングルの2曲(“ここから”、“夢ってどんな色してるの”)は彼女らしさがよく出ている佳曲とは思ったものの、その日に披露されたアルバム収録曲“今夜がチャンス”(ザ・モッズの森山達也が提供したと知ったのは後日のこと)が、なんだか昭和40年代くらいの歌謡曲のような印象を抱き、アルバムについての不安の方が大きくなったのが正直なところだった。
それからしばらくして、Facebookの公式ページでアルバムのジャケットと収録曲が発表された。そこでまず目を引いたのは、山口隆(サンボマスター)や片寄明人(GREAT3)など、これまでにない顔ぶれが作家陣にたくさんいたことである。しかし、先の“今夜がチャンス”を聴いた時の違和感を思いだし、余計に出来具合が心配になってきた。アルバム発売に先行してiTunes Storeに何曲か発売されたので“青空ハピネス”だけなんとなく買ってみたが、アルバムの全体像は全くつかめなかった。
そういう経緯もあり、今回について「も」本当に期待せずにいた。発売日4月1日に部屋に戻るとアマゾンから送られた本作がポストに入っていた。取り出してすぐに部屋のパソコンに入れて聴いてみる。そして1曲目の“鼓動”からかけてみた。そのままスーッと最後まで聴き通して、何度も何度も繰り返した。一晩で5回くらい流しただろうか。
本作を聴いて一番の印象は何かといえば、これまでの渡辺美里にないものを感じたということである。それはもう、自分が中学3年の頃から思い起こしても初めてのことである。
さきほど私は、彼女の新作については全く期待しないで臨んでいるというようなことを書いたが、それは少し嘘が入っている。心の底では、音楽性とか新しい挑戦とかどうでもいいから「渡辺美里らしさ」が出ていればもう十分だ、という思いがあった(それはライブ会場に行く時も同じ心境である)。
この20年の間でそんな自分の希望に適った作品といえば2000年に出た「Love GO!GO!」である。このアルバムでは調子のいい時の彼女のライブで観られるような躍動感のある声が奇跡的に収められている。しかしそれ以後は、酷いとはいえないまでも、何か煮え切らない作品が続くことになる。
今回の「オーディナリー・ライフ」は「Love GO!GO!」もしくは90年代前半あたりまでの彼女のような、彼女の存在を前面に押し出したものではない。だがそれにもかかわらず、物足りなさのようなものは感じなかった。その一番の要因は何かといえば、今回参加しているミュージシャンの空前絶後の顔ぶれだろう。そして彼らと美里との共演が非常にうまく噛み合っていることがなにより大きい。
表現者が活動を続けていくうちに自身の衰えやアイデアの枯渇により創作意欲が低下するということは避けられない宿命であるが、それを乗り切るための方法は何だろうか。一番良いのは、誰か他の人の助けを借りることである。組んだ相手に刺激され、それによって思いがけない方向に自分の表現が進んでいくこともありうるだろう。
ただ、これはあくまで一般論であって渡辺美里の場合はあてはまらないと個人的には思っていた。これまで他のアーティストと共演するにせよ、他人の曲をカバーするにせよ、目覚ましい成果があったとは言えないからだ。うまくいかない原因はわからないが、彼女がそれほど器用な表現者でないこと(他人とうまく絡めない)、そして自身のイメージなりスタイルなりを崩したくないという思いも強いのではないだろうか。またファンはファンで、彼女に対して冒険とか挑戦とかは全く求めてもいないはずである。そんなことを望むような音楽ファンはそもそもこういう歌手を聴くという選択もしないだろう。
本作の立役者は美里と共同でプロデューサーに名を連ねている佐橋佳幸だろう。これだけのメンツをかき集める人脈もさることながら、美里自身にもさまざまな提案やアドバイスをして共演のお膳立てをしたのは、佐橋自身の解説(アルバムの歌詞カードに収録されている)を読むだけでも容易に想像がつく。
これは適切な表現かはわからないが、本作は渡辺美里の作品の中でももっとも「音楽的」といえる。それは「渡辺美里ありき」という前提で作られたアルバムではないという意味だ。そんなことを書いていると「彼女の声が前面に出ていないということは、自分の望む作品ではないのでは?」という疑問も少しだけ頭をよぎった。しかし、実際にはアルバムを手にしてしばらく経ったいまも繰り返し聴き続け、これまでに経験したことのない不思議な充足感に包まれている自分がいる。
本作が彼女のキャリアにおいてどのような位置づけがされるのか、現時点ではよくわからない。ただ、30年という節目にふさわしい華のある内容であるということだけは、中3から聴いてきた人間の経験として確信をもって言える。
【個々の楽曲について】
さきほども書いたが、本作の歌詞カードには個々の曲について佐橋佳幸による解説が掲載されている。こうしたものがあるという点でも今回のアルバム制作において彼が大きな主導権を握っていたことがみてとれる。
かつて「ミュージック・マガジン」誌でどこかの泡沫ライター(名前は覚えているが紹介する価値もないので割愛する)が、俺が嫌いなのはミュージシャン自身による楽曲解説だ!などとほざいていたことを思い出す。ミュージシャンが書いてしまえばお前ごときのレベルでは仕事がなくなるからだろう。
それはともかく、聴き手をはぐらかしたいというのなら別として、何かを伝えたいと願っている表現者ならばこうした試みは個人的には歓迎したい。音楽でもなんでもいいのだが、サブ・カルチャーというのはそうした「人に伝えようとする努力」を放棄しているような気がしてならないからだ。
以下の文章は佐橋自身の文章を参照しながら、24年ほどのファン歴である私からの「おまけ」のようなものだ。本作について少しでも参考にでもなれば幸いと思いながら記すものである。
(1)鼓動(作詞・作曲:YO-KING、編曲:佐橋佳幸)
アルバムの冒頭は、彼女の作品に初めて参加の「真心ブラザーズ」YO-KINGによる楽曲。演奏は佐橋のアコースティック・ギターとDr.kyOnのアコーディオンだけという極めてシンプルな編成だ。ちなみにこの3人で「三ツ星団」としてライブ・ツアーをおこなったこともある。
こうした説明をすると美里のヴォーカルが主体になりそうに思えるが、実際には極めて控えめな感じで歌っている。
それについて佐橋の解説では、
<美里には声量を抑えて出来る限りマイクに近づいてもらい、
あたかもリスナーの耳元で歌っているかのような
唱法にチャレンジしてもらいました。>
と書いている。こうした「チャレンジ」を美里にうながすことによって、本作からは従来の彼女には見られない作風が生まれたのだろう。「Breath」(87年)や「ribbon」(88年)あたりの頃の「渡辺美里と、その他大勢のバック」という構図ではなく、彼女が演奏の方に溶け込んでいくという具合だ。そういう意味で本作について「音楽的」という表現を使ってみた。
全体的に郷愁を誘うフォーク・ソングだが、その中に語呂がいいとは思えない「ドクンドクン」という擬音が不思議なアクセントを与えている。
(2)夢ってどんな色してるの(作詞:河邉徹、作曲:杉本雄治、編曲:WEAVER&佐橋佳幸)
アルバムの先行シングルとして発売された曲で、ピアノ・ドラムス・ベースという編成のバンド「WEAVER」と先の「三ツ星団」との共演という形になっている。
このシングルでWEAVERを初めて知ることとなったが、メンバーは全員1988年生まれである。88年ということは「ribbon」が出た年だから、美里とは1世代ほど離れていることになる。それはともかくとして、キレのある演奏や瑞々しい印象を与えるサウンドは個人的にも好みの部類であり、今回のさまざまな共演の中でも最も成功した例だろう。WEAVERの力によって彼女の歌声に力強さが増しているように聴こえるからだ。
歌詞については別の機会に改めて触れたいが、作詞の河邉徹がイメージした渡辺美里という世界のような気がして興味深い。ともかく、WEAVERのライブも生で一度は観たいと感じるくらいに気に入った作品である。
WEAVER“こっちを向いてよ”
https://www.youtube.com/watch?v=SOQo1rjRFFo
それから、ネットでどなたかが指摘して気づいたのだが、一時に比べて体格もだいぶ絞られていることも注目していただきたい。そこには本作にかける彼女の並々ならぬ意気込みがあることに私たち聴き手も感じなければならないだろう。
渡辺美里 『「夢ってどんな色してるの」 ドキュメント映像&MV ショートVer.』
https://www.youtube.com/watch?v=49S19oqk_-0
(3)今夜がチャンス(作詞・作曲:森山達也、編曲:佐橋佳幸)
前の文章でも少し書いたが、本作の中でも「異色作」と個人的には感じている1曲。かつては同じエピック・ソニーに所属していたザ・モッズの森山達也との共演というのも意外だが、さらにバックにスカパラ・ホーンズ、さらにエレキ・ギターに土屋昌巳の名前まで出てくるというのには本当に驚いた。
佐橋の解説では「森山印のロックンロール・ソング」という表現をとっているが、個人的には(自分の苦手な)昭和40年代くらいの歌謡曲のような印象を元日ライブの時から受けた。具体的には何かと説明はできなが、例えば山本リンダのような・・・まあ、あくまでただのイメージとご了解いただきたい。
改めてアルバムで聴いてみると違和感はだいぶ薄まった感じはする。もはやこういう歌をうたう人も21世紀にはいなくなっただろうし貴重ではある、などと納得しながら聴いている次第だ。
(4)涙を信じない女(作詞・作曲:山口隆fromサンボマスター、編曲:佐橋佳幸、ストリングス・アレンジ:奈良部匠平)
美里とは全く縁があると思えないサンボマスター、山口隆の手による曲である。こうした人までかき集めた佐橋の人脈もすごいが、一方で往年のファンにはなじみ深い奈良部匠平の名前が出てきている。「lucky」(91年)あたりまで主に編曲で関わっていた人だ。今回は30周年の節目としてこうしたミュージシャンを呼んでいる点も本作の特徴だ。
複雑な曲調やリズムになっており佐橋は「国籍不明のサウンド」と書いているが、“今夜がチャンス”ほど個人的に違和感はなくスッと聴いている。作家陣がどんな人であろうと結局は渡辺美里の歌に落ち着くということなのか。ただ、彼女が従来のアプローチで歌っていたとしたら、ここまでの仕上がりになっていなかった気がする。佐橋のプロデュースの手腕もこのあたりでも感じとってしまう。
(5)点と線(作詞:森雪之丞、作曲:木根尚登、編曲:佐橋佳幸、ブラス・アレンジ:山本拓夫)
作曲はデビュー当時(85年)から交流のある木根尚登(TM-NETWORK)、そしてブラス・アレンジは彼女のライブでバンド・マスターを長年務めていた山本拓夫という同窓会的な顔ぶれが名を連ねている。プログラミングの石川鉄男も私のような聴き手には懐かしい名前だ。
木根がこれまで提供した曲に“eyes”、“さくらの花の咲くころに”、“kick off”など穏やかな感じのものばかりだったが、今回はホーン・セクションを中心にしたまた毛色の違うアレンジとなっている。
このあたりについては「戦後のR&Bを築き上げた先達へのオマージュ」という解説だが、そもそもR&Bとは何たるかもピンとこない私にとっては何もいえないし(「オマージュ」という言葉もなんだか好きになれない)、“今夜はチャンス”と同様、なんだか昔の古めかしい歌謡曲(またイメージだけだが和田アキ子あたり)を連想してしまう。いずれにせよ、佐橋の意図が強く出た作品なのだろう。
リズム・セクションは高橋幸宏(ドラムス)と小原礼(ベース)という豪華な布陣で、作詞はこれまた初めての森雪之丞が手掛けている。30周年の節目や「昭和」といったイメージをちりばめた歌詞で、日本を代表するプロ作詞家の言葉は美里とはまた違った世界を出している点は興味深いものとなっている。
(6)オーディナリー・ライフ(作詞:渡辺美里、作曲:渡辺美里&佐橋佳幸、編曲:森俊之)
キャロル・キングの“Natural woman”を目指したというアルバムのタイトル曲は、一転していかにも渡辺美里という調子のバラードである。「Ordinary Life」とは市井の人々の生活・人生といった意味合いだが、歌の中では「ありふれた日々」という言葉で表現されている。
<ありふれた日々が あまりに愛おしい>
という一節は、年齢を重ねるごとに受け止め方が変わってくるだろう。10代20代の人ならば、「ありふれた日」って刺激もない日のことでしょう?などと思うに違いない。しかし人生の折り返し点を過ぎてくると、そうした日々が永遠にものでないことにだんだんと気づいてくるのだ。
<夏が来るたびに
また ひとつ歳を重ねて
会いたい人がいる
もう 会えない人がいる>
<手放した夢も
失った自由も
きっと あなたへ続く>
といった部分には、たとえどんな人でも生き続けていたら様々な不幸に出会ったり苦渋を味わうことを示唆している。それはもちろん歌っている本人についても同じであり、彼女の30年の道のりを思いながら聴いているとまた胸に迫るものがある、個人的には本作で一番気に入っている曲である。
(7)A Reason(作詞・作曲:大江千里、編曲:佐橋佳幸)
こちらもデビュー時から親交のある大江千里の手による曲。間奏のサックスを演奏している中村哲は、美里のデビュー曲“I’m Free”の編曲を担当した人である。ほかにも後藤次利、村上“ポンタ”秀一とデビュー時に関わった人たちでバックを固めている。
これまでもずっと共演してきた千里なのでツボを押さえたという感じの曲だが、その中に、
<僕らはもう 道を選べないから>
という重たいフレーズが出てくるのが興味深い。それは美里であり千里のこともイメージしているのだろう。また私自身にものしかかってくる言葉である。
(8)Glory(作詞・作曲:Caravan、編曲:佐橋佳幸)
作詞・作曲を手掛けているCaravanは1974年生まれの男性シンガー・ソングライターである。FM局の友人に勧められて聴いて彼を気に入ったという美里、そして同じ時期にCaravanと知り合った佐橋との縁がこういう形に繋がったらしい。
確かに美里との相性は良いようで、本人が書いたのではと思えるまでの仕上がりになっている。Caravanの写実的な情景描写や言葉の使い方はかつての美里の世界観と重なってくるし、二人のよるコーラスも良い。この人も機会があれば生で観てみたいと思わせる。
Caravan “アイトウレイ ”
https://www.youtube.com/watch?v=JufBJdvVCzY
(9)真っ赤な月(作詞:片寄明人、作曲:伊秩弘将、編曲:有賀啓雄)
SPEEDを手掛けてその名前が広く知られるようになった伊秩弘将、そしてライブやアルバム制作で長年の付き合いのある有賀啓雄がここでは登場する。
これまでの彼女の曲では“小指”のような、感情表現を抑えて歌うスロウなバラードである。しかしそのような歌い方はこの人と相性が良くないような気がする。やはり明確に喜怒哀楽をつけてこそこの人の良さが出るのではないだろうか。別に悪いとは全く思ってないのだが、スーッと気持ちよく聴きながらもそのまま終わってしまうような印象である。
(10)青空ハピネス(作詞:渡辺美里、作曲:伊秩弘将、編曲:清水信之)
清水信之の名前を見るのも久しぶりだ。ギターの佐橋以外は全て彼が楽器などを手掛けているこの曲は21世紀版“恋したっていいじゃない”をテーマにしたものといっていいだろう。歌詞にも演奏もそれをイメージさせるものが散りばめられている。
間奏では「eyes」に収録されている“18才のライブ”でのドラムスの音が挿入されている。これを叩いていたのは、2年前に亡くなった青山純である。
正直いって、従来の彼女の枠にとどまっている印象を受けて本作の中ではあまり出来が良い部類と思えない。しかし、そもそも過去の曲の続編という意図で作ったものだし、遊び心は満載という雰囲気は楽しめるものである。
(11)Hello Again(作詞・作曲:Caravan、編曲:佐橋佳幸)
再びCaravanによる曲は、解説によるとアレンジではだいぶ実験的で凝ったことをしたようだ。それを知らなかったらバックのサウンドスケープ(音風景)には特に気にもとめなかっただろう。
もし佐橋が関わらなかったとしたら、こうした複雑な音をバックに歌うことを彼女は受け入れただろうか。聴きながらそんなことを思ってしまった。かつて何かの音楽雑誌のインタビューで、サウンド主義が嫌い、というような発言をしていたのがいまでもずっと頭に残っていたからだ。どうにでも解釈できそうな言葉だが、あまり凝った音楽をしたくないというような意味だろう。これまでのこの人の作ってきたものを考えればそう思えてくる。
渡辺美里という人は自分のスタイルというか型に強いこだわりがあるのだろう。それが彼女の明確なイメージを作りあげて成功した部分もあるが、ある時期からそれが足かせとなって表現の幅や可能性を狭めていったことも否定できない。また、器用に立ち回ることもできないことも大きかった。
そういう光景をずっと観てきた者としては、本作の多彩なゲストとの関わりや試みは少なからぬ感慨を覚えている。これ以後の活動にもこれが活かされたらと密かに願っている。果たしていつまで歌ってくれるかどうかは、よくわからないが。
(12)ここから(作詞・作曲:大江千里、編曲:佐橋佳幸)
本作の中で一番初めに世に出たシングル曲で、これも大江千里によるもの。シングルで発売されたときに日記で感想を書いているので、興味ある方は参照いただきたい。
渡辺美里「ここから」(14年)
http://30771.diarynote.jp/201405061102111592/
日記でも触れたが、これまでの彼女のイメージを踏襲しながら30年の流れを感じる部分もあり、長年共演してきた千里ならではという出来だ。美里自身も気に入っているようで、おそらくこれからのライブでも歌い続けるだろう。
そもそも「ロック」というものに大多数が共感できるような定義など無い。そんなあやふやな前提のままあれこれ論じたところで生産するものなどあるはずがないのだ。そんな「独りよがり」の連中が勝手に仮想敵を作り出し、自分の意に沿わない表現者を攻撃してきた。個々のロック観など自分の中で密かに抱いていればいいだろうし、そんなもののために悪罵を投げつけられる方はたまったものではない。振り返ってみると、渡辺美里という人はそういう犠牲者の代表格だったのではないだろうか。かつては叩かれても仕方ないような悪目立ちする言動をしてきた部分も否定しないが、美里はロックじゃないね、みたいな「批評」は全く大きなお世話だろう。そしてそんな無責任なことを言っていた人たちは消えてしまった。その一方で、彼女を支持する人間も同じくらい少なくなってしまったが。
私自身は1991年、中学3年の時にアルバム「Lucky」(91年)を手にしてからずっとこの人を観つづけてきた。いまデビュー30周年に突入しているが、そのうちの24年ほどお付き合いしていることになる。別にそれが神だったとかクソだったとかいう二分法で結論づけるつもりもない。ただ、38年ほどの人生の大半は彼女とともにあったということは厳然とした事実として残っているというだけだ。
しかし実は、こうやって言い切れるまでにけっこう長い時間がかかっている。90年代までは彼女をずっと聴いているなどと周囲に素直にいえる心境にはなれなかった。その原因はさきほどの「意識的な音楽ファン」といえる連中の存在が頭にあったからだろう。こうした人たちが渡辺美里を肯定するのは稀だった。しかし彼らが聴いている音楽がどれほどのものかといえば、現在では怪しいものがあるけれど。ともかく、この人の美点も欠点も全て受け入れた上で、私の人生は渡辺美里とともにありました、と自然体で言えるまで20年ほど費やしたと思う。ここまで複雑な思いをもって見てきた人も自分の人生の中でも他にはいない。
グダグダと述べてきたが、渡辺美里の30年間とは何だったのかと自分なりに整理してみたかったのだ。しかし、どうも現状ではスッキリした結論らしきものは出てきそうにない。やはり自分の半生と密接に関わっていることであり明確な位置づけをすることはできないということか。そういうことは諦めて、今回の作品について思うところを書いてみることにする。
今年の元日に渋谷公会堂でライブが行われたが、そこで4月1日に「オーディナリー・ライフ」という新作が出るという発表が彼女自身からあった。同じタイトル名でヴァン・モリソンの91年の作品があることを連想したのは会場で私だけだったと思うが、なんとなく気になる名前だとは感じた。
先行シングルの2曲(“ここから”、“夢ってどんな色してるの”)は彼女らしさがよく出ている佳曲とは思ったものの、その日に披露されたアルバム収録曲“今夜がチャンス”(ザ・モッズの森山達也が提供したと知ったのは後日のこと)が、なんだか昭和40年代くらいの歌謡曲のような印象を抱き、アルバムについての不安の方が大きくなったのが正直なところだった。
それからしばらくして、Facebookの公式ページでアルバムのジャケットと収録曲が発表された。そこでまず目を引いたのは、山口隆(サンボマスター)や片寄明人(GREAT3)など、これまでにない顔ぶれが作家陣にたくさんいたことである。しかし、先の“今夜がチャンス”を聴いた時の違和感を思いだし、余計に出来具合が心配になってきた。アルバム発売に先行してiTunes Storeに何曲か発売されたので“青空ハピネス”だけなんとなく買ってみたが、アルバムの全体像は全くつかめなかった。
そういう経緯もあり、今回について「も」本当に期待せずにいた。発売日4月1日に部屋に戻るとアマゾンから送られた本作がポストに入っていた。取り出してすぐに部屋のパソコンに入れて聴いてみる。そして1曲目の“鼓動”からかけてみた。そのままスーッと最後まで聴き通して、何度も何度も繰り返した。一晩で5回くらい流しただろうか。
本作を聴いて一番の印象は何かといえば、これまでの渡辺美里にないものを感じたということである。それはもう、自分が中学3年の頃から思い起こしても初めてのことである。
さきほど私は、彼女の新作については全く期待しないで臨んでいるというようなことを書いたが、それは少し嘘が入っている。心の底では、音楽性とか新しい挑戦とかどうでもいいから「渡辺美里らしさ」が出ていればもう十分だ、という思いがあった(それはライブ会場に行く時も同じ心境である)。
この20年の間でそんな自分の希望に適った作品といえば2000年に出た「Love GO!GO!」である。このアルバムでは調子のいい時の彼女のライブで観られるような躍動感のある声が奇跡的に収められている。しかしそれ以後は、酷いとはいえないまでも、何か煮え切らない作品が続くことになる。
今回の「オーディナリー・ライフ」は「Love GO!GO!」もしくは90年代前半あたりまでの彼女のような、彼女の存在を前面に押し出したものではない。だがそれにもかかわらず、物足りなさのようなものは感じなかった。その一番の要因は何かといえば、今回参加しているミュージシャンの空前絶後の顔ぶれだろう。そして彼らと美里との共演が非常にうまく噛み合っていることがなにより大きい。
表現者が活動を続けていくうちに自身の衰えやアイデアの枯渇により創作意欲が低下するということは避けられない宿命であるが、それを乗り切るための方法は何だろうか。一番良いのは、誰か他の人の助けを借りることである。組んだ相手に刺激され、それによって思いがけない方向に自分の表現が進んでいくこともありうるだろう。
ただ、これはあくまで一般論であって渡辺美里の場合はあてはまらないと個人的には思っていた。これまで他のアーティストと共演するにせよ、他人の曲をカバーするにせよ、目覚ましい成果があったとは言えないからだ。うまくいかない原因はわからないが、彼女がそれほど器用な表現者でないこと(他人とうまく絡めない)、そして自身のイメージなりスタイルなりを崩したくないという思いも強いのではないだろうか。またファンはファンで、彼女に対して冒険とか挑戦とかは全く求めてもいないはずである。そんなことを望むような音楽ファンはそもそもこういう歌手を聴くという選択もしないだろう。
本作の立役者は美里と共同でプロデューサーに名を連ねている佐橋佳幸だろう。これだけのメンツをかき集める人脈もさることながら、美里自身にもさまざまな提案やアドバイスをして共演のお膳立てをしたのは、佐橋自身の解説(アルバムの歌詞カードに収録されている)を読むだけでも容易に想像がつく。
これは適切な表現かはわからないが、本作は渡辺美里の作品の中でももっとも「音楽的」といえる。それは「渡辺美里ありき」という前提で作られたアルバムではないという意味だ。そんなことを書いていると「彼女の声が前面に出ていないということは、自分の望む作品ではないのでは?」という疑問も少しだけ頭をよぎった。しかし、実際にはアルバムを手にしてしばらく経ったいまも繰り返し聴き続け、これまでに経験したことのない不思議な充足感に包まれている自分がいる。
本作が彼女のキャリアにおいてどのような位置づけがされるのか、現時点ではよくわからない。ただ、30年という節目にふさわしい華のある内容であるということだけは、中3から聴いてきた人間の経験として確信をもって言える。
【個々の楽曲について】
さきほども書いたが、本作の歌詞カードには個々の曲について佐橋佳幸による解説が掲載されている。こうしたものがあるという点でも今回のアルバム制作において彼が大きな主導権を握っていたことがみてとれる。
かつて「ミュージック・マガジン」誌でどこかの泡沫ライター(名前は覚えているが紹介する価値もないので割愛する)が、俺が嫌いなのはミュージシャン自身による楽曲解説だ!などとほざいていたことを思い出す。ミュージシャンが書いてしまえばお前ごときのレベルでは仕事がなくなるからだろう。
それはともかく、聴き手をはぐらかしたいというのなら別として、何かを伝えたいと願っている表現者ならばこうした試みは個人的には歓迎したい。音楽でもなんでもいいのだが、サブ・カルチャーというのはそうした「人に伝えようとする努力」を放棄しているような気がしてならないからだ。
以下の文章は佐橋自身の文章を参照しながら、24年ほどのファン歴である私からの「おまけ」のようなものだ。本作について少しでも参考にでもなれば幸いと思いながら記すものである。
(1)鼓動(作詞・作曲:YO-KING、編曲:佐橋佳幸)
アルバムの冒頭は、彼女の作品に初めて参加の「真心ブラザーズ」YO-KINGによる楽曲。演奏は佐橋のアコースティック・ギターとDr.kyOnのアコーディオンだけという極めてシンプルな編成だ。ちなみにこの3人で「三ツ星団」としてライブ・ツアーをおこなったこともある。
こうした説明をすると美里のヴォーカルが主体になりそうに思えるが、実際には極めて控えめな感じで歌っている。
それについて佐橋の解説では、
<美里には声量を抑えて出来る限りマイクに近づいてもらい、
あたかもリスナーの耳元で歌っているかのような
唱法にチャレンジしてもらいました。>
と書いている。こうした「チャレンジ」を美里にうながすことによって、本作からは従来の彼女には見られない作風が生まれたのだろう。「Breath」(87年)や「ribbon」(88年)あたりの頃の「渡辺美里と、その他大勢のバック」という構図ではなく、彼女が演奏の方に溶け込んでいくという具合だ。そういう意味で本作について「音楽的」という表現を使ってみた。
全体的に郷愁を誘うフォーク・ソングだが、その中に語呂がいいとは思えない「ドクンドクン」という擬音が不思議なアクセントを与えている。
(2)夢ってどんな色してるの(作詞:河邉徹、作曲:杉本雄治、編曲:WEAVER&佐橋佳幸)
アルバムの先行シングルとして発売された曲で、ピアノ・ドラムス・ベースという編成のバンド「WEAVER」と先の「三ツ星団」との共演という形になっている。
このシングルでWEAVERを初めて知ることとなったが、メンバーは全員1988年生まれである。88年ということは「ribbon」が出た年だから、美里とは1世代ほど離れていることになる。それはともかくとして、キレのある演奏や瑞々しい印象を与えるサウンドは個人的にも好みの部類であり、今回のさまざまな共演の中でも最も成功した例だろう。WEAVERの力によって彼女の歌声に力強さが増しているように聴こえるからだ。
歌詞については別の機会に改めて触れたいが、作詞の河邉徹がイメージした渡辺美里という世界のような気がして興味深い。ともかく、WEAVERのライブも生で一度は観たいと感じるくらいに気に入った作品である。
WEAVER“こっちを向いてよ”
https://www.youtube.com/watch?v=SOQo1rjRFFo
それから、ネットでどなたかが指摘して気づいたのだが、一時に比べて体格もだいぶ絞られていることも注目していただきたい。そこには本作にかける彼女の並々ならぬ意気込みがあることに私たち聴き手も感じなければならないだろう。
渡辺美里 『「夢ってどんな色してるの」 ドキュメント映像&MV ショートVer.』
https://www.youtube.com/watch?v=49S19oqk_-0
(3)今夜がチャンス(作詞・作曲:森山達也、編曲:佐橋佳幸)
前の文章でも少し書いたが、本作の中でも「異色作」と個人的には感じている1曲。かつては同じエピック・ソニーに所属していたザ・モッズの森山達也との共演というのも意外だが、さらにバックにスカパラ・ホーンズ、さらにエレキ・ギターに土屋昌巳の名前まで出てくるというのには本当に驚いた。
佐橋の解説では「森山印のロックンロール・ソング」という表現をとっているが、個人的には(自分の苦手な)昭和40年代くらいの歌謡曲のような印象を元日ライブの時から受けた。具体的には何かと説明はできなが、例えば山本リンダのような・・・まあ、あくまでただのイメージとご了解いただきたい。
改めてアルバムで聴いてみると違和感はだいぶ薄まった感じはする。もはやこういう歌をうたう人も21世紀にはいなくなっただろうし貴重ではある、などと納得しながら聴いている次第だ。
(4)涙を信じない女(作詞・作曲:山口隆fromサンボマスター、編曲:佐橋佳幸、ストリングス・アレンジ:奈良部匠平)
美里とは全く縁があると思えないサンボマスター、山口隆の手による曲である。こうした人までかき集めた佐橋の人脈もすごいが、一方で往年のファンにはなじみ深い奈良部匠平の名前が出てきている。「lucky」(91年)あたりまで主に編曲で関わっていた人だ。今回は30周年の節目としてこうしたミュージシャンを呼んでいる点も本作の特徴だ。
複雑な曲調やリズムになっており佐橋は「国籍不明のサウンド」と書いているが、“今夜がチャンス”ほど個人的に違和感はなくスッと聴いている。作家陣がどんな人であろうと結局は渡辺美里の歌に落ち着くということなのか。ただ、彼女が従来のアプローチで歌っていたとしたら、ここまでの仕上がりになっていなかった気がする。佐橋のプロデュースの手腕もこのあたりでも感じとってしまう。
(5)点と線(作詞:森雪之丞、作曲:木根尚登、編曲:佐橋佳幸、ブラス・アレンジ:山本拓夫)
作曲はデビュー当時(85年)から交流のある木根尚登(TM-NETWORK)、そしてブラス・アレンジは彼女のライブでバンド・マスターを長年務めていた山本拓夫という同窓会的な顔ぶれが名を連ねている。プログラミングの石川鉄男も私のような聴き手には懐かしい名前だ。
木根がこれまで提供した曲に“eyes”、“さくらの花の咲くころに”、“kick off”など穏やかな感じのものばかりだったが、今回はホーン・セクションを中心にしたまた毛色の違うアレンジとなっている。
このあたりについては「戦後のR&Bを築き上げた先達へのオマージュ」という解説だが、そもそもR&Bとは何たるかもピンとこない私にとっては何もいえないし(「オマージュ」という言葉もなんだか好きになれない)、“今夜はチャンス”と同様、なんだか昔の古めかしい歌謡曲(またイメージだけだが和田アキ子あたり)を連想してしまう。いずれにせよ、佐橋の意図が強く出た作品なのだろう。
リズム・セクションは高橋幸宏(ドラムス)と小原礼(ベース)という豪華な布陣で、作詞はこれまた初めての森雪之丞が手掛けている。30周年の節目や「昭和」といったイメージをちりばめた歌詞で、日本を代表するプロ作詞家の言葉は美里とはまた違った世界を出している点は興味深いものとなっている。
(6)オーディナリー・ライフ(作詞:渡辺美里、作曲:渡辺美里&佐橋佳幸、編曲:森俊之)
キャロル・キングの“Natural woman”を目指したというアルバムのタイトル曲は、一転していかにも渡辺美里という調子のバラードである。「Ordinary Life」とは市井の人々の生活・人生といった意味合いだが、歌の中では「ありふれた日々」という言葉で表現されている。
<ありふれた日々が あまりに愛おしい>
という一節は、年齢を重ねるごとに受け止め方が変わってくるだろう。10代20代の人ならば、「ありふれた日」って刺激もない日のことでしょう?などと思うに違いない。しかし人生の折り返し点を過ぎてくると、そうした日々が永遠にものでないことにだんだんと気づいてくるのだ。
<夏が来るたびに
また ひとつ歳を重ねて
会いたい人がいる
もう 会えない人がいる>
<手放した夢も
失った自由も
きっと あなたへ続く>
といった部分には、たとえどんな人でも生き続けていたら様々な不幸に出会ったり苦渋を味わうことを示唆している。それはもちろん歌っている本人についても同じであり、彼女の30年の道のりを思いながら聴いているとまた胸に迫るものがある、個人的には本作で一番気に入っている曲である。
(7)A Reason(作詞・作曲:大江千里、編曲:佐橋佳幸)
こちらもデビュー時から親交のある大江千里の手による曲。間奏のサックスを演奏している中村哲は、美里のデビュー曲“I’m Free”の編曲を担当した人である。ほかにも後藤次利、村上“ポンタ”秀一とデビュー時に関わった人たちでバックを固めている。
これまでもずっと共演してきた千里なのでツボを押さえたという感じの曲だが、その中に、
<僕らはもう 道を選べないから>
という重たいフレーズが出てくるのが興味深い。それは美里であり千里のこともイメージしているのだろう。また私自身にものしかかってくる言葉である。
(8)Glory(作詞・作曲:Caravan、編曲:佐橋佳幸)
作詞・作曲を手掛けているCaravanは1974年生まれの男性シンガー・ソングライターである。FM局の友人に勧められて聴いて彼を気に入ったという美里、そして同じ時期にCaravanと知り合った佐橋との縁がこういう形に繋がったらしい。
確かに美里との相性は良いようで、本人が書いたのではと思えるまでの仕上がりになっている。Caravanの写実的な情景描写や言葉の使い方はかつての美里の世界観と重なってくるし、二人のよるコーラスも良い。この人も機会があれば生で観てみたいと思わせる。
Caravan “アイトウレイ ”
https://www.youtube.com/watch?v=JufBJdvVCzY
(9)真っ赤な月(作詞:片寄明人、作曲:伊秩弘将、編曲:有賀啓雄)
SPEEDを手掛けてその名前が広く知られるようになった伊秩弘将、そしてライブやアルバム制作で長年の付き合いのある有賀啓雄がここでは登場する。
これまでの彼女の曲では“小指”のような、感情表現を抑えて歌うスロウなバラードである。しかしそのような歌い方はこの人と相性が良くないような気がする。やはり明確に喜怒哀楽をつけてこそこの人の良さが出るのではないだろうか。別に悪いとは全く思ってないのだが、スーッと気持ちよく聴きながらもそのまま終わってしまうような印象である。
(10)青空ハピネス(作詞:渡辺美里、作曲:伊秩弘将、編曲:清水信之)
清水信之の名前を見るのも久しぶりだ。ギターの佐橋以外は全て彼が楽器などを手掛けているこの曲は21世紀版“恋したっていいじゃない”をテーマにしたものといっていいだろう。歌詞にも演奏もそれをイメージさせるものが散りばめられている。
間奏では「eyes」に収録されている“18才のライブ”でのドラムスの音が挿入されている。これを叩いていたのは、2年前に亡くなった青山純である。
正直いって、従来の彼女の枠にとどまっている印象を受けて本作の中ではあまり出来が良い部類と思えない。しかし、そもそも過去の曲の続編という意図で作ったものだし、遊び心は満載という雰囲気は楽しめるものである。
(11)Hello Again(作詞・作曲:Caravan、編曲:佐橋佳幸)
再びCaravanによる曲は、解説によるとアレンジではだいぶ実験的で凝ったことをしたようだ。それを知らなかったらバックのサウンドスケープ(音風景)には特に気にもとめなかっただろう。
もし佐橋が関わらなかったとしたら、こうした複雑な音をバックに歌うことを彼女は受け入れただろうか。聴きながらそんなことを思ってしまった。かつて何かの音楽雑誌のインタビューで、サウンド主義が嫌い、というような発言をしていたのがいまでもずっと頭に残っていたからだ。どうにでも解釈できそうな言葉だが、あまり凝った音楽をしたくないというような意味だろう。これまでのこの人の作ってきたものを考えればそう思えてくる。
渡辺美里という人は自分のスタイルというか型に強いこだわりがあるのだろう。それが彼女の明確なイメージを作りあげて成功した部分もあるが、ある時期からそれが足かせとなって表現の幅や可能性を狭めていったことも否定できない。また、器用に立ち回ることもできないことも大きかった。
そういう光景をずっと観てきた者としては、本作の多彩なゲストとの関わりや試みは少なからぬ感慨を覚えている。これ以後の活動にもこれが活かされたらと密かに願っている。果たしていつまで歌ってくれるかどうかは、よくわからないが。
(12)ここから(作詞・作曲:大江千里、編曲:佐橋佳幸)
本作の中で一番初めに世に出たシングル曲で、これも大江千里によるもの。シングルで発売されたときに日記で感想を書いているので、興味ある方は参照いただきたい。
渡辺美里「ここから」(14年)
http://30771.diarynote.jp/201405061102111592/
日記でも触れたが、これまでの彼女のイメージを踏襲しながら30年の流れを感じる部分もあり、長年共演してきた千里ならではという出来だ。美里自身も気に入っているようで、おそらくこれからのライブでも歌い続けるだろう。
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