ブログのコメントなんてもう要らねえや
2016年6月27日 読書
自分にしては短期間の間に、ブログに対する匿名のコメントが相次いだ。たいした内容でもなかったし無視をするのが最善策なのだが(炎上は書いた人のコメントによって発展することが大半だ)、まあ返事をしてやろうか、という良からぬ思いが頭に浮かび書き込みをしてみる。すると、もっとろくでもないコメントがまた書き込まれて少なからず気分が悪くなった。また、こんなものに相手をしたことについても後悔をする。そしてそのまま、コメント機能自体を停止する処置をとった。
これまでコメント機能を不特定多数から受け付けるようにしていたのは、ブログを公開しているのだから書いた内容について「ある程度は」責任をとりたいという私なりの意志表示であった。もちろん、「誰かから反応が欲しい!」という虚栄心があったことも間違いない。FacebookやInstagramで「いいね!」が欲しい、という人の感覚と同類のものだ。しかし最近しばらく考えて、自分は別にそんな反応は必要ないかな、と考え直すようになった。
一番の理由は、匿名でコメントしてくる人間なんてろくでもない輩だ、という厳然とした事実である。それは実社会で同じような行為をすることと比較してみれば実感できるだろう。匿名の投書や非通知の電話で批判的なクレームをするようなものだ。そんなことをする輩の人間性など、推して知るべし、だろう。
これに対して、赤の他人へ面と向かって何か言うことなど、そうそうできるものではない。たとえば道端でマナーの悪い若者を見かけたとして、彼らに注意をする人などごく少数である。返り討ちにあって殺されるリスクもあるし、見て見ぬふりをしてその場を立ち去るほうが賢明ではないだろうか。現実ではこんな具合の人が大半なのに、ネットの世界に目を向けてみれば・・・これ以上の説明は不要である。
そんなことが念頭にあったのかもしれないが、私自身はネットで不快な意見のようなものを見ても何か反応したとかコメントを書いたとかいったことは一切ない。実社会ではおかしな行動をネットでは平気で展開するというのはダブル・スタンダードであろう(実名でSNSを使っている手前もあるが)。
そう考えてみると、コメントを書いたり書いてもらったり、というのはけっこう危険な要素を孕んだ行為に思えてくる。周囲の影響でなんとなくSNSを始めた人が、見知らぬ人からのコメントで嫌になってその世界から退場したという話は枚挙にいとまがない。SNS自体はあった方が便利であるし私自身は辞めるまではしないと思うが、より快適に使うためにも見知らぬ人のコメントはもう受け付けないことにする。
匿名うんぬんに対してこのようなことを述べると、必ず反感を抱く人は出てくるだろう。そこで、想像できそうな反論を取り上げて、それについての私の見解を説明してみたい。
まず、匿名での書き込みのほうが自由な議論ができる、というようなよくある意見に対してだ。これについては、匿名で書き込みをしている時点でそいつはクズだ、と言って終わりにしたい。と言いたいところだが、今回のために再読した仲正昌樹さんの「知識だけあるバカになるな!」(08年、大和書房)を参考に、もう少し冷静に掘り下げてみる。
もしもお互いの考えを深めたいと真剣に考えて「議論」とか「討論」をするならば、そのためにはかなりの事前準備が必要になってくる。お互いの立場や意見の前提となる根拠や学説などを揃えてルールを決めて行わなければ、生産性のある結果にはまずならないだろう。つまり議論というのはまともにするのはかなり面倒な作業なのだが、ネットに巣食う「名無しさん」がそこまで準備して議論をしようと思ってコメントなどするわけがない。いわゆる「脊髄反射」に対してまでこちらが相手にすることはあまり意味がないだろう。
「コメントを閉ざすのはもったいない。さまざまな意見をやりとりしていけばより良い結論を導きだせる」
というような考えの人もいるかもしれない。しかし、それはおそらくヘーゲルやマルクスの主張していた弁証法的な考えを信じすぎているのではないだろうか。弁証法について簡単に説明すれば、意見の違う2人がガンガン言い合っているうちにもっと高い次元で一つの答えが出てくる、というような考え方である。世の中には、とりあえず議論をするのは良いことだ、というような風潮が見られるが、それはひとえに弁証法的な考え方が浸透している証拠である。
しかし、現実社会を見ればわかるが、弁証法的に議論をしたところで素晴らしい答えが出てくるような場面ははまずない。何のルールも定めないで単に意見をぶつけ合ってしまえば、罵倒し合うだけになるに決まっているだろう。TwitterやFacebookなどで無意味な論争や意見のすれ違いが生じるのは、議論の前提となる取り決めが全くされないからである。
思えば、インターネットを初めて触れたのは1996年、大学1回生の時に大学図書館にあったパソコンによってであった。それから20年ほど経過したわけだが、Yahoo!掲示板とか2ちゃんねるとかmixiとか論争の場はいろいろと歴史をたどっている。しかしいつでもどこでも、議論という名の罵り合いで終始しているのには変わりないだろう。こちらはもう人生の半分も終わったことであるし、そうしたこととも関わりを避けたいと思ってコメント機能を停止した次第である。
最後に、
「偉そうに言っているが、そもそもお前の書いている内容が不十分なのが根本なのでは?きっちりした文章を書けばおかしなコメントなど書かれない」
などと「正論」を吐く方に対しては、こう申し上げたい。
「すんまへん。こ・れ・し・か・で・き・ん・か・ら!」
これまでコメント機能を不特定多数から受け付けるようにしていたのは、ブログを公開しているのだから書いた内容について「ある程度は」責任をとりたいという私なりの意志表示であった。もちろん、「誰かから反応が欲しい!」という虚栄心があったことも間違いない。FacebookやInstagramで「いいね!」が欲しい、という人の感覚と同類のものだ。しかし最近しばらく考えて、自分は別にそんな反応は必要ないかな、と考え直すようになった。
一番の理由は、匿名でコメントしてくる人間なんてろくでもない輩だ、という厳然とした事実である。それは実社会で同じような行為をすることと比較してみれば実感できるだろう。匿名の投書や非通知の電話で批判的なクレームをするようなものだ。そんなことをする輩の人間性など、推して知るべし、だろう。
これに対して、赤の他人へ面と向かって何か言うことなど、そうそうできるものではない。たとえば道端でマナーの悪い若者を見かけたとして、彼らに注意をする人などごく少数である。返り討ちにあって殺されるリスクもあるし、見て見ぬふりをしてその場を立ち去るほうが賢明ではないだろうか。現実ではこんな具合の人が大半なのに、ネットの世界に目を向けてみれば・・・これ以上の説明は不要である。
そんなことが念頭にあったのかもしれないが、私自身はネットで不快な意見のようなものを見ても何か反応したとかコメントを書いたとかいったことは一切ない。実社会ではおかしな行動をネットでは平気で展開するというのはダブル・スタンダードであろう(実名でSNSを使っている手前もあるが)。
そう考えてみると、コメントを書いたり書いてもらったり、というのはけっこう危険な要素を孕んだ行為に思えてくる。周囲の影響でなんとなくSNSを始めた人が、見知らぬ人からのコメントで嫌になってその世界から退場したという話は枚挙にいとまがない。SNS自体はあった方が便利であるし私自身は辞めるまではしないと思うが、より快適に使うためにも見知らぬ人のコメントはもう受け付けないことにする。
匿名うんぬんに対してこのようなことを述べると、必ず反感を抱く人は出てくるだろう。そこで、想像できそうな反論を取り上げて、それについての私の見解を説明してみたい。
まず、匿名での書き込みのほうが自由な議論ができる、というようなよくある意見に対してだ。これについては、匿名で書き込みをしている時点でそいつはクズだ、と言って終わりにしたい。と言いたいところだが、今回のために再読した仲正昌樹さんの「知識だけあるバカになるな!」(08年、大和書房)を参考に、もう少し冷静に掘り下げてみる。
もしもお互いの考えを深めたいと真剣に考えて「議論」とか「討論」をするならば、そのためにはかなりの事前準備が必要になってくる。お互いの立場や意見の前提となる根拠や学説などを揃えてルールを決めて行わなければ、生産性のある結果にはまずならないだろう。つまり議論というのはまともにするのはかなり面倒な作業なのだが、ネットに巣食う「名無しさん」がそこまで準備して議論をしようと思ってコメントなどするわけがない。いわゆる「脊髄反射」に対してまでこちらが相手にすることはあまり意味がないだろう。
「コメントを閉ざすのはもったいない。さまざまな意見をやりとりしていけばより良い結論を導きだせる」
というような考えの人もいるかもしれない。しかし、それはおそらくヘーゲルやマルクスの主張していた弁証法的な考えを信じすぎているのではないだろうか。弁証法について簡単に説明すれば、意見の違う2人がガンガン言い合っているうちにもっと高い次元で一つの答えが出てくる、というような考え方である。世の中には、とりあえず議論をするのは良いことだ、というような風潮が見られるが、それはひとえに弁証法的な考え方が浸透している証拠である。
しかし、現実社会を見ればわかるが、弁証法的に議論をしたところで素晴らしい答えが出てくるような場面ははまずない。何のルールも定めないで単に意見をぶつけ合ってしまえば、罵倒し合うだけになるに決まっているだろう。TwitterやFacebookなどで無意味な論争や意見のすれ違いが生じるのは、議論の前提となる取り決めが全くされないからである。
思えば、インターネットを初めて触れたのは1996年、大学1回生の時に大学図書館にあったパソコンによってであった。それから20年ほど経過したわけだが、Yahoo!掲示板とか2ちゃんねるとかmixiとか論争の場はいろいろと歴史をたどっている。しかしいつでもどこでも、議論という名の罵り合いで終始しているのには変わりないだろう。こちらはもう人生の半分も終わったことであるし、そうしたこととも関わりを避けたいと思ってコメント機能を停止した次第である。
最後に、
「偉そうに言っているが、そもそもお前の書いている内容が不十分なのが根本なのでは?きっちりした文章を書けばおかしなコメントなど書かれない」
などと「正論」を吐く方に対しては、こう申し上げたい。
「すんまへん。こ・れ・し・か・で・き・ん・か・ら!」
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