日本が誇る文化はマンガとアニメだけ、と外国から揶揄されていると聞いたことがある。日本人から見れば「それはあんまりでは」と思う一方、マンガやアニメについては少なくとも世界水準の評価を受けていると喜んでいいのかもしれない。

そんな日本に住んでいながら、私自身はそれほどマンガを読んできたとはいいがたい。パッと思い浮かぶ作品も数える程度なのでマンガ経験は全く乏しいといえる。ブックオフなどを覗いてみれば置いてあるマンガの数は凄まじい。それを見るだけで、もう圧倒される。そんな感じの人間なのでこれから読むであろうマンガの数もそれほど増えない気がする。

こんな人間が新しいマンガに出会うためには、さまざまな偶然が絡まり合わないと起こらない。この「ヒストリエ」を見つけたのは、京都市中京区にある「京都国際マンガミュージアム」の「マンガの壁」(自由に読めるマンガが並んでいる棚)においてであった。そこにあった1巻と2巻を読んだのが運の尽きである。すっかりその世界にハマってしまい、古本屋で4巻まで集め、手に入らなかった5巻は書店で新刊を購入した。6巻(10年)にいたっては発売日にすぐ買ってしまう。発売されたその日にマンガを買ったのは西原理恵子「ぼくんち」3巻(98年)以来、実に12年ぶりの出来事であった。

「ヒストリエ」は2003年より月刊誌「アフターヌーン」にて連載している作品で、これまで単行本は現在6巻まで出ており、現在も継続中だ。昨年(10年には第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門の大賞を受賞している。

作者の岩明均氏の代表作といえば、第17回講談社漫画賞や第27回星雲賞コミック部門を受賞した「寄生獣」(全10巻。アフタヌーンKC)になるだろうが、これまで出した作品は「七夕の国」(全4巻。ビッグコミックス)や「雪の峠・剣の舞」(KCDX)など数えるほどしかないので、興味があればぜひ他の作品も揃えてもらえたらと思う。

そんな寡作の岩明氏が漫画家としてデビューする前から構想していたのがこの「ヒストリエ」だ。あまり作品の中身について細かく書くのは読んでいない人に対して気が引けるので、支障のない範囲で紹介してみたい。

物語は紀元前343年のペルシア帝国までさかのぼる。哲学者アリストテレスがスパイ容疑で帝国から追われている途中、海岸で一人の蛮人(バルバロイ)と出会う。バルバロイとはギリシア人が他民族に対して付けた蔑称のことだ。ギリシア人は彼らの言語が理解できず「バルバル」と言っているように聞こえたため、バルバロイと名付けたと言われている。

このバルバロイこそ、物語の主人公のエウメネスである。エウメネスは蛮人でありながら歴史家ヘロドトスの書を読んだことがあるなど身分不相応に博識の持ち主だった。そんな二人は紆余曲折あって海峡を渡り、アテネの植民市であるカルディアに辿り着く。そこはエウメネスの故郷だった。そして物語はエウメネスの幼少時代へとさらに時代をさかのぼる。当時のエウメネスは奴隷商ヒエロニュモス家の子どもという非常に裕福な貴族の身分だった。そんな彼が何をきっかけに蛮人の身分へと身を落とすことになるのだろうか。それは単行本の2巻まで読み進めればひとまず明らかにはなる。

歴史を題材にした作品というのはマンガに限らず小説ですら読んだことがないし、そもそも私は歴史自体が苦手である。そんな人間がどうしてこのマンガにハマってしまったのか、非常に不思議な話である。自分なりに色々と分析してみたけれど、やはり作品の読みやすさというか入りやすさが最も大きな要因ではないかと今は結論づけている。なにしろアレキサンダー大王が生きていた時代の人物を、現代の私たちが違和感なく受け入れられる物語の構成には、パッと読んでいる時は実感できないが、よくよく考えてみれば凄いことである。

この作品は自由市民と奴隷の関係という現代の私たちの価値観では理解できない世界も登場する。この時代は奴隷の存在が当たり前であり、ご存知のように家畜並みの扱いをされていた。それゆえに働かなくてよい自由市民が余った時間で学問や芸術を発達させてきたわけだが(アリストテレスもその一人である)、こうした世界を実に平易に表現をしているところに作者の力量を感じさせる。また、物語を読み進めていくほど随所に細かい配慮(言葉の訛りとか、剣を差す位置とか)が見られ、どうしたらこんな描写を思いつくのか?と、私の頭の中で考えても出てくるわけないのに、次々と疑問が湧いてくる。

そもそもの話、エウメネスは実在の人物ではあるものの、その前半生についてほとんど資料らしきものが残されていない。よって、この頃の話(単行本でいえば1巻から5巻)はほとんど作者の想像力で構築された世界ということになる。そんなことまで考えると、人間の頭の中でここまでできるのかと目眩いがする思いだ。

あまりに面白かったので思わず周囲の知人に貸したりしてみたが、今のところおおむね好評であった。よって、この作品の面白さはそれなりに普遍的なものがあると勝手に解釈している。

作中でエウメネスは、

「お前も本当は戦より、『地球』の裏側を見てみたいのであろう?」(5巻のP.104)

と言われる場面がある。喜ばしいことにこの時代を生きる私たちには、エウメネスが果たして「地球の裏側」まで辿り着けるのどうかを同時代で確認できる楽しみが残されている(まだ連載中だから)。いまからでも過去の作品を追いかけても全く遅くはない。未読の人には是非そこのところを強調したい。
「ウェブ2.0」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「ウェブ」(Web)はもちろんインターネットのことで、「2.0」はパソコンソフトでよく見かけるバージョン(例えば「iTunes 10.2.1」)の数字のことである。本書でこう説明している。

<とりあえず動くソフトウェアができました、というレベルがバージョン1.0。普通に使ってもいろいろなトラブルが頻出、「インストールするだけでも大変かもしれないし、肝心の機能もないかもしれないが、それを承知の上で使ってみてください」という感じの製品である。そして、この段階で使ってくれた勇気あるユーザーのフィードバックを元にあれこれ手直しする。ちょっと直すごとに、1.1、1.2と小数点以下をバージョンアップ。で、「うむ、かなりまともに動くようになった」というところで、2.0というバージョンに改称する。>(P.10)

一般に、小数点単位のバージョン・アップは細かい進化というレベルで、1.0から2.0へ移行するときはソフトの内容が大幅に変わる局面と言われる。これに習って、ウェブの世界がどんどん発展し新たな次元に突入した、というのがウェブ2.0の概念だと思っていただければ差し支えないだろう。いや、そもそもウェブ2.0という概念を提唱したティム•オライリー(アメリカのメディア企業「オライリー・メディア」の創業者)自身もこの言葉にあまり明確な定義を与えていないので、あまり細かい部分を詮索しても仕方ないかもしれない。

本書のタイトルとなっている「ヒューマン2.0」というのは、この「ウェブ2.0」をもじったものだ。IT技術の進歩にともない、私たちの環境にもパソコンやインターネットが身近になっていた。私が初めて社会に出た時(01年)、会社にはまだパソコンが一人1台に割り振られている状態でなかったけれど、それから1年ほどで社員全員に行き渡っていったのを覚えている。ウェブの進歩によって人間の働き方も劇的に変わってきているわけだが、それが如実に見えてくるのがアメリカ西海岸の「シリコンバレー」と言われる地域だ。インテル、アップル、オラクル、シスコなどの世界に名だたる大企業が集積しており、ヤフーやイーベイ、そしてアドビといった会社も以前はここにあった。

著者の渡辺さんは東京都出身で、東大工学部から三菱商事へ入社、それからスタンフォード大でMBAを取得したりマッキンゼーへ入るなどの経験を積み、現在はアメリカのシリコンバレーに在住しながら技術関連やコンサルティングの仕事をしている人だ。「ON,OFF AND BEYOND」という自身のブログでも彼の地の様子を伝えてくれている。

http://www.chikawatanabe.com/blog/

シリコンバレーが人口240万人で、115万人の就業者のうち30%ほどの人がITやバイオといった技術系の仕事に携わっている。これは日本でいうところの「サラリーマン」のほとんどが何らかの形で技術に関わっているくらいの比率だという。本書は、そんなシリコンバレーで働く人たちや企業の姿を紹介しながら、「働く」という行為がどのように変化していくのか、そういう展望を描いている。

IT技術の進歩における良くも悪くも凄いところは、いままでは人間がやっていたことをコンピューターが替わってしまうことだろう。たとえば、大規模な家具ショップをチェーン展開する「イケア(IKEA)」の米国向けサイトで、閲覧者の質問に答える「アンナ(Anna)」さんという「バーチャル店員」の事例だ。

http://www.ikea.com/jp/en

「あそこの店舗は何時までやってるんですか?」というような簡単な質問なら一瞬にして的確な答えを返してくれるのである。実際にやってみたら、確かにパッと答えてくれた。

しかしながらこれは、スゴいシステムだなあ、と単純に感心できるような話ではない。

<アンナさん一人のために、それまでコールセンターで働いていた数十人、数百人という人が職を失ったことになる。「決まりきった質問に、決まりきった答えをする」といった、機械に置き換えられるような仕事をしている人の仕事はこうしてなくなっていくわけだ。これが「ITによる生産性の向上」の中身。実際のところ、アメリカでは、「生産性が1%向上すると130万人の職がなくなる」と推定されている。>(P.34)

イケアのサイトではアンナさんがにこやかに笑っているが、その向こうでは職を失って泣いている人がたくさんいるわけだ。そして、技術の進歩によって世の中が便利になる一方、そのおかげで旧来の仕事がなくなるという話は別にアメリカに限った話ではない。厳しい話だが、この流れは誰も抗えないだろう。

渡辺さんはこうした事例をふまえた上で、シリコンバレーで誕生する「会社に依存しない新しい生き方」を4つ紹介する。これが「ヒューマン2.0」の本題だ。それらを列挙すると、

・フリーランス:誰かに雇用されるのではなく、何らかの専門性を持って個人で仕事を請ける。
・ライフタイムワーカー:自分好きな場所に住むことを重視する。
・チャンクワーカー:働く期間と休みを取る期間を分割する。
・ポートフォリオワーカー:複数のタイプの仕事を掛け持ちする。

いずれの働き方も、入社から定年までずっと同じ会社にいる終身雇用とは全く異なっている。しかもシリコンバレーでは、全就業人口の15~30%がフリーランスだというのだ。それは必ずしも本人の希望かどうかは難しいところが、こうした生き方をしている人がたくさんいるというのは心強い気もする。

この4つの働き方の中で個人的には、複数の仕事を掛け持ちするポートフォリオワーカーが理想かなという気がする。もはや年功序列や終身雇用を求められない日本の企業において、収入源を一つしかないというのはリスクが高いからだ。

しかしながら、給料を上げることができないくせに社員の副業を禁止している会社が日本ではまだ大多数だ。どうしてなのか理由はわからないけれど(会社の秘密が漏れたりするのを恐れているのだろうか。そういう会社に限って社外で役立つ情報など無いものだが)、一人でも多くの人が兼業などで収入源を増やしてリスク分散のできる働き方をする人が増えていけば、この国の社会も多少は活性化していくと思うのだが。
「ウェブ2.0」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「ウェブ」(Web)はもちろんインターネットのことで、「2.0」はパソコンソフトでよく見かけるバージョン(例えば「iTunes 10.2.1」)の数字のことである。本書でこう説明している。

<とりあえず動くソフトウェアができました、というレベルがバージョン1.0。普通に使ってもいろいろなトラブルが頻出、「インストールするだけでも大変かもしれないし、肝心の機能もないかもしれないが、それを承知の上で使ってみてください」という感じの製品である。そして、この段階で使ってくれた勇気あるユーザーのフィードバックを元にあれこれ手直しする。ちょっと直すごとに、1.1、1.2と小数点以下をバージョンアップ。で、「うむ、かなりまともに動くようになった」というところで、2.0というバージョンに改称する。>(P.10)

一般に、小数点単位のバージョン・アップは細かい進化というレベルで、1.0から2.0へ移行するときはソフトの内容が大幅に変わる局面と言われる。これに習って、ウェブの世界がどんどん発展し新たな次元に突入した、というのがウェブ2.0の概念だと思っていただければ差し支えないだろう。いや、そもそもウェブ2.0という概念を提唱したティム•オライリー(アメリカのメディア企業「オライリー・メディア」の創業者)自身もこの言葉にあまり明確な定義を与えていないので、あまり細かい部分を詮索しても仕方ないかもしれない。

本書のタイトルとなっている「ヒューマン2.0」というのは、この「ウェブ2.0」をもじったものだ。IT技術の進歩にともない、私たちの環境にもパソコンやインターネットが身近になっていた。私が初めて社会に出た時(01年)、会社にはまだパソコンが一人1台に割り振られている状態でなかったけれど、それから1年ほどで社員全員に行き渡っていったのを覚えている。ウェブの進歩によって人間の働き方も劇的に変わってきているわけだが、それが如実に見えてくるのがアメリカ西海岸の「シリコンバレー」と言われる地域だ。インテル、アップル、オラクル、シスコなどの世界に名だたる大企業が集積しており、ヤフーやイーベイ、そしてアドビといった会社も以前はここにあった。

著者の渡辺さんは東京都出身で、東大工学部から三菱商事へ入社、それからスタンフォード大でMBAを取得したりマッキンゼーへ入るなどの経験を積み、現在はアメリカのシリコンバレーに在住しながら技術関連やコンサルティングの仕事をしている人だ。「ON,OFF AND BEYOND」という自身のブログでも彼の地の様子を伝えてくれている。

http://www.chikawatanabe.com/blog/

シリコンバレーが人口240万人で、115万人の就業者のうち30%ほどの人がITやバイオといった技術系の仕事に携わっている。これは日本でいうところの「サラリーマン」のほとんどが何らかの形で技術に関わっているくらいの比率だという。本書は、そんなシリコンバレーで働く人たちや企業の姿を紹介しながら、「働く」という行為がどのように変化していくのか、そういう展望を描いている。

IT技術の進歩における良くも悪くも凄いところは、いままでは人間がやっていたことをコンピューターが替わってしまうことだろう。たとえば、大規模な家具ショップをチェーン展開する「イケア(IKEA)」の米国向けサイトで、閲覧者の質問に答える「アンナ(Anna)」さんという「バーチャル店員」の事例だ。

http://www.ikea.com/jp/en

「あそこの店舗は何時までやってるんですか?」というような簡単な質問なら一瞬にして的確な答えを返してくれるのである。実際にやってみたら、確かにパッと答えてくれた。

しかしながらこれは、スゴいシステムだなあ、と単純に感心できるような話ではない。

<アンナさん一人のために、それまでコールセンターで働いていた数十人、数百人という人が職を失ったことになる。「決まりきった質問に、決まりきった答えをする」といった、機械に置き換えられるような仕事をしている人の仕事はこうしてなくなっていくわけだ。これが「ITによる生産性の向上」の中身。実際のところ、アメリカでは、「生産性が1%向上すると130万人の職がなくなる」と推定されている。>(P.34)

イケアのサイトではアンナさんがにこやかに笑っているが、その向こうでは職を失って泣いている人がたくさんいるわけだ。そして、技術の進歩によって世の中が便利になる一方、そのおかげで旧来の仕事がなくなるという話は別にアメリカに限った話ではない。厳しい話だが、この流れは誰も抗えないだろう。

渡辺さんはこうした事例をふまえた上で、シリコンバレーで誕生する「会社に依存しない新しい生き方」を4つ紹介する。これが「ヒューマン2.0」の本題だ。それらを列挙すると、

・フリーランス:誰かに雇用されるのではなく、何らかの専門性を持って個人で仕事を請ける。
・ライフタイムワーカー:自分好きな場所に住むことを重視する。
・チャンクワーカー:働く期間と休みを取る期間を分割する。
・ポートフォリオワーカー:複数のタイプの仕事を掛け持ちする。

いずれの働き方も、入社から定年までずっと同じ会社にいる終身雇用とは全く異なっている。しかもシリコンバレーでは、全就業人口の15~30%がフリーランスだというのだ。それは必ずしも本人の希望かどうかは難しいところが、こうした生き方をしている人がたくさんいるというのは心強い気もする。

この4つの働き方の中で個人的には、複数の仕事を掛け持ちするポートフォリオワーカーが理想かなという気がする。もはや年功序列や終身雇用を求められない日本の企業において、収入源を一つしかないというのはリスクが高いからだ。

しかしながら、給料を上げることができないくせに社員の副業を禁止している会社が日本ではまだ大多数だ。どうしてなのか理由はわからないけれど(会社の秘密が漏れたりするのを恐れているのだろうか。そういう会社に限って社外で役立つ情報など無いものだが)、一人でも多くの人が兼業などで収入源を増やしてリスク分散のできる働き方をする人が増えていけば、この国の社会も多少は活性化していくと思うのだが。
かつてほぼ全ての大学は、最初の2年間が「教養課程」という段階でさまざまな「教養科目」を勉強し、それから後半の2年が自分の専門の学問をする「専門課程」へ入るという流れになっていた。しかし、私が大学に在籍していたころ(96年4月〜2000年3月)もすでに教養課程というものは無くなっていた。「教養科目」とはいわゆる「パンキョー」(一般教養)のことである。ただ、大学に入ってもすぐには専門領域の科目ではなく、外国語や法学や哲学といった一般教養をまず勉強するという流れ自体はそれほど違いはない。

とわかったような書き方をしているが、私もこのような知識をしったのはこの本を読んだおかげである。大学時代はこういうことについて無頓着だった。いやそれどころか、

「自分は心理学専攻に入学したのに、どうして1回生の時は心理学関係の科目をほとんど取ることができないんだ?」

と疑問に思っていたくらいである。私の大学で1年目に取れた心理学関係の科目は、確か3科目くらいしかなかったと記憶している。

私に限らず多くの人は、なんで自分の学部(法学でも経済学でも)と関係ない科目をとらなければならないんだ?と疑問を抱いたことがあるだろう。そして一般教養を勉強する意味を教えてくれた大学教員も皆無に違いない。当の私もそんな人に出会うこともなく大学時代は終わった。

この本の著者の仲正さんは、

<私の教えている法学部の学生の中には、
「僕たちは専門科目を勉強するために大学に入学したので、最初から専門科目の授業があると期待していた。教養科目のようなものをやるのは、時間と授業料のムダだ」
という調子で、分かったような顔をして大学のカリキュラムを”批判”したがる子がいます。
ふつうに考えれば、「教養科目」というものがあることを知らないまま受験して入学する本人が悪いのだし、大学の教育課程について規則をたしかめもしないで「法学部」に入学する姿勢自体が全然法学部的でありません。しかし、本人は結構本気で「教養」不要論を展開しているつもりになっているのです。
そういう子に、「では君は教養とはどういうものか分かっているのか?」と聴くと、面白いくらい、ちゃんと理解していないのが分かる奇妙な答えしか出てきません。どうも「軽チャー」とか「教養番組」の”教養”のような意味合いで、「教養」を理解しているようなのです。多分、サークルの先輩などから「教養科目というのは意味がない。役に立たない。でもその単位を取らないと卒業できない」というようなことを言われて、そういうイメージをもってしまったのでしょう>(P.146-147)

やや長い引用になってしまったが、一般教養について、いや大学で学問をするということについての問題点がここに凝縮してるような気がしたので紹介させてもらった。

話を戻すが、はたして「一般教養」なるものを学習することにどんな目的があるのだろうか。それは本書の3章でくわしく述べられているけれど、私なりに要約してみたい。

そもそも「大学」の起源は13世紀頃のヨーロッパまでさかのぼる。この頃の大学というのは、専門的な知識をもったキリスト教の僧侶を養成することを目的にしている。その僧侶たちが学習する「専門的知識」とは「神学」、「法学」、「医学」の3つであった。これらの知識を伝承するのが知識人としての僧侶の役割だった。

しかし、これらの3つの専門のいずれかを修めて教会の中で専門職として出世したい人は、まず当時のヨーロッパの貴族・知識人の共通言語であったラテン語の読み書きや算術を学び、大学に入ってからは専門の勉強の前提となる基礎学力と思考能力と理解力を身につけるために「自由七科」(文法、修辞学、弁証法、算術、幾何、天文、音楽)を学ばなければならなかった。

この「自由七科」というのが大学の「教養科目」(一般教養)と呼ばれるものの起源である。そして、基礎的な教養を学習する「教養課程」と、自分の専門の勉強をする「専門課程」が分かれていたのは既にこの頃からであった。ちなみに「教養課程」を勉強するところは「学芸学部」と言われ、それは後に「哲学部」と呼ばれるようになる。

外国語に一般教養に哲学部と、最近の学生には縁も人気もなさそうな分野ばかりであるが、いずれもそれなりの歴史や必然性があって存在していることが多少は理解していただけただろうか。

大学科目に一般教養があり、かつて教養課程が存在していた理由をひとことでいえば、「教養」を身につけるためである。しかし、いきなりこんなこと書いてもピンとくる方はほとんどいないだろう。先に引用した仲正さんの文章の通り、教養というのはいわゆる雑学とは違うレベルのものである。この点は内田樹さん(神戸女学院大学教授)がこのように言っている。

<教養は情報ではない。
教養とはかたちのある情報単位の集積のことではなく、カテゴリーもクラスも重要度もまったく異にする情報単位のあいだの関係性を発見する力である。
雑学は「すでに知っていること」を取り出すことしかできない。教養とは「まだ知らないこと」へフライングする能力のことである。>(内田樹「知に働けば蔵が建つ」P.11。08年。文春文庫)

<「教養」というのは、「生(なま)」の知識や情報のことではない。そうではなくて、知識や情報を整序したり、統御したり、捜査したりする「仕方」のことである。
(中略)
「教養」とは「自分が何を知らないかについて知っている」、すなわち「自分の無知についての知識」のことなのである。>(内田樹「街場の現代思想」
P.11。08年。文春文庫)

そして仲正さん自身は本書の最後で「教養」において最も大事なことを、

<「今の私には分からない問題」に直面してしまった時に、どうすべきか」を心得ていること>(P.193)

と締めくくっている。こうやっていろいろと文章を並べてみて、「教養」というのがどんなものか、だんだんと具体的なイメージが湧いてきたような気がする。例えば、資格を取るとか就職に有利になるかというような短期的な目的を達成することに対して、「教養」はおそらくあまり役に立たないだろう。しかし、自分の頭の中のもっと根本的な影響を与えてくれるものという感じだ。

私がよくその著書を買っている日垣隆(作家・ジャーナリスト)さんや橘玲(作家)さんは、現代社会について鋭く切り込んだ文章を書いているけれど、一般的には難しそうな古典や現代思想や経済書などをよく読んでいるような傾向にあることに気づく。そして、それはどうしてなのだろうかと考えるようになった。やはり、そういう本を読むことにメリットがあるとしか思えない。

正直いって、いままでの私は古典や思想書などを敬遠してきた。昔の書物は読みづらく読破するにはかなりの根気がいる。また、別に苦労してそんなものを読まなくても良いのでは、とも腹の底では思っていた。

しかし、である。ウインドウズ95が登場したあたりから世の中の流れがグッと変わっていくようになり、世界はますます混迷の度合いが深まっていく。そして最近ではこの大震災だ。はっきりいって、過去の情報をもとにこれから先のことを予測するのは困難に違いない。

そんな状況で個人にできることといえば、目の前にある情報を分析して自分なりに行動することしかないだろう。となれば、やはりもっと根本的なところで考えることのできる頭を持っていなければならない。そのために必要なのがいわゆる「教養」というものではないか。

それは学習したところでパッとは役に立たない。しかし仲正さんが言うように、

<今すぐに利益がなくても、長期的な視野から見て、ごく表面的でも学んでおいた方がいいこともある。>(P.186)

と今では考えるようになっている。

本書は上に挙げたような「教養」の本来の意味にとどまらず、大学で学問をするために必要な心構え、また古典や外国語を勉強する意義などをかなり平易に書いて説明してくれている。本当だったらこれから大学に入る人に最適な本であるけれど、すでに大学を出た人にもかなり有益なことが満載だといいたい。特に、大学で何をしたのかわからない、というような人にはぜひ手にとってもらいたいと願う。

締めくくりにこの本の末尾の一文を紹介したい。

<ほとんどの人間は傲慢で横着です。自分が無知で勉強が必要だということをなかなか認められません。そのため、無自覚的に自分にとって都合の悪い情報をシャットアウトしがちです。自分が賢くなったと思い始めたら要注意です。「疑うこと」を回避して、楽になろうとする「私」自身を警戒してください。それが「何も信じられない世界」で生きていくための唯一の方策です。>(P.198)

せっかくの3連休だったが、いつもの休日と違わずほとんどを寝て過ごしてしまった。ただ、本だけはけっこう読んだとは思う。本書はその中の1冊だ。去年の夏くらいに買ったはずで一度は目を通したが、ちょっと気になる箇所があったのを思い出して再読する。

本書の内容はタイトルを読んで想像がつくように、

<グローバルな厳しい格差社会の中で「格差突破力」をいかに磨いていったらよいのか、について述べたもの>(P.3)


である。格差社会をテーマにした書物は数多いものの、この本を貫く思想はちょっと比較できるものがないかもしれない。

<本書は悲観論の予測に基づいて議論を組み立てています。日本を経済恐慌が襲い、再び軍国主義ファシズムが台頭する、といった極端に悲観的なシナリオが実現する可能性は低いかもしれませんが、日本の衰退は避けられない、との立場に立っています。>(P.22)


政治でも経済でも先が全く見えない昨今だから、悲観論に立った予測をするのは正当なやり方ではあろう。と、ここまでは別に異論もなく読み進んではいた。しかし、日本が衰退する理由として中山さんの挙げる点を見ると、「え?!と思ってしまった。中山さんはそれを「国内的な要因」と「国際的な要因」があるとして、まず国内的な要因を以下の4点だ。

・巨額の財政赤字
・少子高齢化の進行
・日本社会の劣化
・大地震のリスク

上の3点は良いとして、大地震まで勘定にいれるのか?と読んだ当時(もちろん大震災の前の話)はけっこう違和感を持った。以下にその理由が書かれている。

<日本列島は明らかに地震の活動期に入っています。近未来の日本に大地震が来ることがわかっていますが、地震予知は今のところ不可能に近い状況です。
(中略)
運良く生き延びることを前提に話を進めますが、東海地震、東南海地震、南海地震や首都直下型の大地震が起きた場合、日本経済に相当の悪影響が出ることを避けられません。一番恐ろしいのは、原子力発電所の近くで激しい揺れが起きて、稼働中の原子炉が破壊された場合です。
(中略)
だから、地震学者は東海の浜岡原子力発電所は危険だ、と常々警告しているのです。にもかかわらず、政府は無視しています。原子力発電所は絶対壊れない、という立場を取っているからです。実際には、震度6強の地震で原発の破壊が始まる、ということが2007年7月の新潟柏崎原発の地震で明らかになりました。
(中略)
今後予想される東海地震は、関東大震災をしのぐ巨大地震です。その発生確率は毎年上昇しています。直前予想はまず無理です。これが来たら、日本の衰退に拍車がかかることは避けられないでしょう。>(P.30-32)


この大惨事が起こった後となっては・・・まさにその通りで言葉も出てこない。

また日本が衰退する「国際的な要因」については、

・アメリカの力の衰退
・それにともなう中国の台頭
・人口爆発と資源の枯渇
・地球温暖化
・市場原理主義のグローバル化

の5点が出てくる。これらの指摘についても、果たして自分の生活に関係あるのか?と思う方もいるに違いない。本書はパッと見た限りではけっこう面を食らうような箇所が全編にわたって出てくる。ある種のイデオロギーを持った方はおそらく激怒すること間違いない。Amazonのサイトでの書評は散々な言われ方をされている。(ちなみに中山さん自身は、あらゆる政治イデオロギーが不完全なので信じない、という「脱政治イデオロギー」の持ち主だという)。

個人的にも、挑発的な筆致だな、と感じる部分もないわけでないが、その論理は地に足がついているというか、納得している点の方が多い。その中でも自分にとってこれは大事だな、と思ったことを2点挙げておきたい。

一つは、世の中に広まっている情報は都合の悪い部分(中山さんは「不都合な真実」と表現している)を見抜けられる能力をもつことだ。

<どこの国であれ、国家は「情報操作がいっぱい」なのです。情報操作しないと人々を動員できないからです。人々を戦争に動員する。人々の経済活動を貯蓄から投資に動員する。情報操作なしにこれは不可能です。
だから、国家を簡単に信じてはいけない。自分は情報操作で利用されているのではないか、と常に疑いを持たなくてはいけないのです。そのためには、情報分析にあたって「得をするのは誰か」を常に考えることです>(P.130-131)

<私にいわせると、「大国の権力者は金正日」なのです。独裁国家のように強権的に人々を操るのか、民主国家のようにメディアと学校教育と御用文化人を利用して、情報操作とマインドコントロールで巧妙に操るのか、という違いがあるだけです。>(P.141)


なかなか凄い表現だなあと思う一方、国家なんてそんなものかもしれないなあ、と納得している自分も確かに存在している。

そしてもう1点は、モンゴル帝国のチンギス・ハーンのようなノマド(遊牧民)の精神を持つこと、つまり世界的視野を持つことを奨めている。情報操作を見抜くためには外からの視点も持たなければならいないからだ。しかし、そのためには日本語圏の情報だけでは足りない。だから、英語を勉強したり外国に人的ネットワークを作るのが望ましいという。

中山さんのやり方はさらに徹底していて、日本を脱出するような緊急的事態になった場合を備えて、その第一候補をオーストラリアにしているという。そして銀行に口座を作ってお金を預けてもいる。

<滞在先で必要なものはまずお金で、まさに「富は要塞」「お金は安全保障」なのです。私が逃げられないときは、子どもだけでも逃がします。だから、長女のサインだけでお金を引き出せるようにしてあるのです。
「何をバカなことを」と笑う人も多いでしょう。しかし、「一寸先は闇」の法則を私は信じているのです。私と同じ考えの日本人も少なくありません。日本に危機がひたひたと忍び寄っているからです。ただ、それを人にいわないだけです。子どもさえ逃げることができれば、私は安心して死ねます。餓死か核ミサイルかはわかりませんが。(P.180)


絵に描いたような「悲観論の予測」だが、果たして中山さんの備えが笑い話で終わるような未来に日本にはなっているのだろうか。そうあってほしいと願っているのだが、個人的な願望と世の中の流れを混同してはいけない。

中山さんも本音は、おそらく下のような文章にあるのだろう。

<私は中流の生活を保って、その中で充実した幸せな人生を送ることができれば、それで大満足なのです。有名になりたいとも、偉くなりたいとも、大金持ちになりたいとも思わない。生きてゆくうえで、それらはすべて「過剰」だからです。「過剰なもの」はあってもなくてもよい。どうでもよいのです。これが私のモノサシです。>(P.166)


あまり考えたくはないが、現代を「一寸先は闇」と捉えてこれからの人生を組み立てるというのも、一つの選択肢として必要なのかもしれない。
本当に久しぶりに、まる1日の休みをとっている。この1か月ほどは、土日も祝日も一度は会社へ行って仕事をしていた。

その間、自分のサイトがサービス終了で消滅していることも気づかず(いつも日記を読んでいる方に教えてもらって初めて知る)、日記もずっと更新できずにいた。とにかく余裕がなかった(今も、ない)

今日は本当に貴重な休みなので、この3ヶ月の間に読んだこの本について書いてみたいと思う。買った時期は覚えていないが(10月か11月)、タイトルを見た時に、

「これは俺が読む本だな」

と直感してレジに本書を持っていったと記憶している。橘玲(たちばな・あきら)さんは1959年生まれの作家で、02年に金融小説「マネーロンダリング」(幻冬舎)でデビューした人だ。公式サイトもあり、ブログの内容も興味深い。

http://www.tachibana-akira.com/

橘さんは本書の冒頭で、

<この世界が残酷だということを、ぼくは知っていた。
この国には、大学を卒業したものの就職できず、契約やアルバイトの仕事をしながら、ネットカフェでその日暮らしをつづける多くの若者たちがいる。
就職はしたものの、過労死寸前の激務とストレスでこころを病み、恋人や友人にも去られ、果てしのない孤独に落ち込んでいくひともいる。
(中略)
いまや誰もがいい知れぬ不安を抱え、グローバル資本主義や市場原理主義を非難し、迷走をつづける政治に不満を募らせている。国家は市場に対してあまりに無力で、希望は永遠に失われたままだ。>(P.9)

こうした「残酷な世界」を生き抜くにはどうすればよいかを本書に色々と書いてあるのだろうと、読んだことのない方は感じるかもしれない。しかし、実際のところはずっと複雑な展開になっている。

「この本は、自己啓発のイデオロギーへの違和感から生まれた」(P.262)

と「あとがき」で書いてあるように本書の構成は、

序章:「やってもできない」ひとのための成功哲学
1章:能力は向上するか?
2章:自分は変えられるか?
3章:他人を支配できるか?
4章:幸福になれるか?
終章:恐竜の尻尾のなかに頭を探せ!

という流れで、「努力すれば報われる」というような言説に対してさまざまな事例を紹介しながら疑問を投げかけることに大半を費やしている。橘さんは遺伝学や心理学の「発見」をまとめ、

・知能の大半は遺伝であり、努力してもたいして変わらない。
・性格の半分は環境の影響を受けるが、親の子育てとは無関係で、いったん身に
ついた性格は変わらない。(P.34-35)

と結論づける。このあたりの指摘は多かれ少なかれ誰もが違和感を抱くところではないだろうか。努力によって能力が向上する、という言説は世の中に広まりきっているのだから。人間の能力や性格は生まれつきで決まってしまう、というのは身も蓋もない話で、これを聞いて絶望する人もでてくるかもしれない。実際、橘さんのサイトにもそのようなコメントが書かれていた(逆に、救われる思いがした、という意見もあったが)

ただ、橘さんは別に遺伝が全てとかいうような極端な話はしていない。ただ、「やればできる」という無根拠な自己啓発に対して違和感を表明しているだけだと私は思っている。たとえば、

<もしもぼくたちの人生が「やればできる」という仮説に拠っているならば、この仮説が否定されれば人生そのものがだいなしになってしまう。それよりも、「やってもできない」という事実を認め、そのうえでどのように生きていくのかの「成功哲学」をつくっていくべきなのだ>(P.37)

こうした部分を押さえていれば、この本をそれほど誤読することはないだろう。

それでは、橘さんはこの世界をどのように生きるのが良いと言っているのだろう。それは4章の「幸福になれるか?」以降に述べられている。作者の意図はどうかわからないけれど、個人的には1~3章よりも、この4章からの方が大事なことが多く書かれているように思えてならない。

橘さんは「まえがき」で、

「伽藍(がらん)を捨ててバザールへ向かえ」(P.12)

と提言している。パッと聞いて意味は通らないが、「伽藍」は会社のことで、「バザール」は「グローバル市場」のことだ。なぜ会社を捨てるべきなのだろう。本書では、日本人よりアメリカ人の方が自分の仕事や会社を愛していて貢献したいと考えている、という衝撃的な研究結果(普通は逆だと誰も思っていただろう)を踏まえてこのように分析する。

<高度成長期のサラリーマンは、昇給や昇進、退職金や企業年金、接待交際費や福利厚生などのフリンジベネフィット(現物給付)によって大嫌いな仕事になんとか耐えていた。ところが「失われた二十年」でそうしたポジティブな側面(希望)があらかた失われてしまうと、後にはグロテスクな現実こそが、日本的経営の純化した姿なのだ。>(P.225)

<日本的雇用は、厳しい解雇規制によって制度的に支えられている。だがその代償として、日本のサラリーマンは、どれほど理不尽に思えても、転勤や転属・出向の人事を断ることができない。日本の裁判所は解雇にはきわめて慎重だが、その反面、人事における会社の裁量を大幅に認めている(転勤が不当だと訴えてもほぼ確実に負ける)。解雇を制限している以上、限られた正社員で業務をやりくりするのは当然とされているのだ。
(中略)
このようにして、いまや既得権に守られているはずの中高年のサラリーマンが、過労死や自殺で次々と生命を失っていく。この悲惨な現実を前にして、こころあるひとたちは声をからして市場原理主義を非難し、古きよき雇用制度を守ろうとする。しかし皮肉なことに、それによってますます自殺者は増えていく。
彼らの絶望は、時代に適当できなくなった日本的経営そのものからもたらされているのだ。>(P.226-227)

経済が右肩上がりの時は素晴らしかった日本的雇用制度がどんどん崩れていき逆にその制度がサラリーマンを苦しめている状況を実に見事に捉えている。そして当のサラリーマンの立場である自分はこれを読んで震える思いがした。

しかし会社を捨てるのが正解として、その次はどうすれば良いのだろう。橘さんはもう1つ、

「恐竜の尻尾の中に頭を探せ」(P.12)

と言っている。この言葉を簡単にすると、好きなことを仕事にせよ、と要約できる。

<アメリカの有名大学でMBAを取得した優秀なひとたちが、最新のマーケット理論を引っ提げて起業に挑戦するけれど、ほとんどは失敗する。それは彼らが儲かることをやろうとして、好きなことをしないからだ。
それに対して「好き」を仕事にすれば、そこには必ずマーケットがあるのだから空振りはない(バットにボールを当てることはできる)。ほとんどのひとは社会的な意味での「成功」を得られないだろうけど、すくなくとも塁に出てチャレンジしつづけることはできる。>(P.260)

好きなことを仕事にすれば、大きな失敗をするということもない。これは感覚としてわかるような気はする。しかし、自分にとって本当に好きな事って何だろう?そして仕事に結びつけることはできるのだろうか?

自分のこれからを憂いてばかりいる今日このごろだが、その一方で上のような思いも渦巻いている。
転職しようかな?と思っている人に捧ぐ(内田樹「街場の現代思想」の補足)
先日このブログで紹介した内田樹さんの本について言い足りないことが出てきた。そこで、引き続き今日も本書について触れてみたい。

昨日は「第1回 敬語について」の内容を紹介したが、それに劣らず私に衝撃を与えた項が「第5回 転職について」のところであった。いや、いま改めて振り返ってみると、自分にとってこちらの文章の方が私にとって重要だったかもしれないと思えてくる。

今の職場が自分に合わない、自分にはもっと相応しい職場が存在するはずだ。そんんなことを思うことは人生で一度や二度ではないだろう。しかし、内田さんはそのように転職したがる人に対してかなり厳しいことを言っている。

<「転職しようかどうかを迷っている人」というのは、「転職せざるをえないほどには追い詰められておらず」かつ「転職しても成功する確率の低い人」である。>(P.117)

何をバカな!と激昂する人も多いとは思う。しかし冷静に考えてみれば、確かに自分のことを例にとれば、まだそこまで極限状態に追い詰められていないことに気づく。今の環境が本当に辛かったのなら、とっくの昔に辞めているはずだ。辞めようか続けようか、などと悠長に迷える人はまだ心に余裕が残っているのである。

内田さんはさらにもっと身も蓋もない論を展開する。駄目な会社というのは「腐臭」が漂っている。だから見ればわかるというのだ。ゆえに、そんな会社に入った若者についてこう言っている。

<「こんな会社」に入ってきた君は要するに「鼻がきかない」のである。この「腐臭」に気づかないくらい鈍感なのである。>(P.121)

私は内田さんの意見に対して異を唱えることはほどんどないけれど、この点だけは同意できない。世間を全く知らない若者に対して、企業は、マスコミは、リクルート社は、そして大学は、適切な価値判断をしてくれるほどに十分な情報を与えてきただろうか。調子の良い面ばかりを強調しているだけではないのか。それだけは指摘したい。「会社案内には良いことばかり載ってたけど、実際に入ったら全く違っていた」と感じ「騙された!」と落胆する若者に対して、「自己責任だ」などと地獄に落とすようなことを言う気持ちに私はなれない。

しかしながら、そこから先の展開については「まさにその通り!」といえる。

<君がほんとうにこれからの人生で二度と致命的な失敗を犯したくないと、本気で望んでいるなら、このような決断を迫られる局面に立ち至った自分自身の「最初の不適切な決断」を反省しなければならない。「自分はいつ、どのようにして、決断を誤ったのか」、それを自分に向かって問わねばならない。
失敗することの唯一の意義は、失敗から学ぶことができる、ということである。失敗から何も学ばない人間は、そのあとも失敗を続けることになる。>(P.122)

他人のせいであれ自分のせいであれ、間違った道を進んでしまったならその経緯を検証して反省たうえで次に進まなければならない。そして、そうしなければ同じ間違いを犯してしまうのも自明の理である。

幸か不幸か、今の私は「転職したい!辞めたい!」とか思う心境ではない(職場も変わってそんなことを思う余裕もない)。しかし、何年かしてそのような思いがまた心の中に湧いてくることも否定できない。その時はこの内田さんの言葉を思い出せたらと願う。
内田樹「街場の現代思想」(08年。文春文庫)
今日はフレスコに買い物を行った以外、ほとんど部屋の中で過ごす。午後からは天気も悪くなってきたので、読みかけだったこの本を最後まで読み通した。

本書の大部分は第3章の「街場の常識」に割かれている。この章について内田さんはこのように説明する。

<本章では「若い方」からの素朴かつ根源的な問いに不肖内田がお答えし、「なるほど、そうだったのか」と案を叩いて得心していただこうという、「こども電話相談室」青年版的趣旨のものである」(P.78)>

こうした形式で15回にわたり、敬語、お金、給与、転職、結婚、離婚、大学といったことについて内田さんの見解が人生相談形式で述べられている。

いずれの項もなかなか勉強になることは多いが、「いま現在の私」の心境からして以下のような部分が気になった。それは1回目の「敬語について」である。

敬語を使うのが面倒で邪魔臭い、という意見に対して内田さんは、敬語は「生存のための道具」だから「じゃまくさい」もので「重苦しい」ものであると結論づける(P.86)。敬語が「生存のため」とはかなり大げさな表現に感じるかもしれないが、理由は以下の通りだ。

<若い人にとって「生きる」ということは、要するに「自分より力のある人間」(それは必ずしも「自分より賢明な人間」や「自分より善良な人間」ではない。ほとんどの場合、そうではない)に「こづき回される」という経験だ。命令され、訓導され、教育され、査定され、処罰される」>(P.83)

この感覚は若い人ならば特にわかってもらえるだろう。しかしこうした「自分より力のある人間」とは直接闘ってはいけないのだ。

<「敬する」というのは、別に「自分より力のあるもの」に「何かよいもの」を贈ることではない。自分が傷つかないために「身をよじらせて」攻撃を避けることだ。そのためには、自分より力のある相手とは決して、直接向き合わないことが必要だ。
してはいけないことは、そういう相手に「素」で立ち向かうことである。自分の「本音」や「素顔」をさらすことは自己防衛上最低の選択である。>(P.83-84)

私の下の世代にも、上司に「素」で立ち向かったり、「本音」や「素顔」をさらすことを是とするかのような血気盛んな人を見かけるときがある。組織の中においても自分の信条を貫くのが格好いい、というような無責任な流説をときおり見かけることはあるけれど(私もそうした考えにハマっていた時期はある)、しかし若い人にはもっと大事なことがある。

<自分を守ることだ。
君たちを傷つけ、損なう可能性のある「自分より力のあるもの」からわが身を守ることだ>(P.83)

人生がまだまだ残っている若者の現実的な課題は、出世や昇進をする前に自分が潰されないこと、まずはこれが第一だ。内田さんの論理はもう少し難しいものになっているけれど、「敬語を使って話す」という行為はそうした道具であると説明してくれている。

さきほど私は、「いま現在の私」の心境でこの文章が気になった、と書いた。その理由はやはり、これから職場など様々な環境の変化に慣れなければいけない今の自分が生き抜くためには、上のようなことが喫緊の課題だからであろう。


副業をしている芸能人は数多いが、成功例はそれほど多くはないだろう。かつて「タレントショップ」なるものが流行した時代もあったが、現在はその面影もない。しかし島田紳助も25歳からビジネスを始めたが、それから25年以上にわたり様々な商売をするも「一度も負けたことがない」(本書P.16)という。本書はそんな島田がビジネスについての持論を書いたものである。

2004年の暴力事件のみならず傍若無人なイメージがつきまとって大嫌いな人ではあるものの、本書の内容には本当に唸らされた。ともかく商売に対する分析があまりも鋭いからだ。

例えば島田は、成功する店は「特殊な店、常識はずれの店」(P.23)であると書いている。しかしその後の文章で、ただ常識はずれのことをしても失敗する、と付け加える。

<ビジネスとして成立させるためには、どんなに常識はずれであっても、合理的でなければならない。常識はずれというのは、世間や業界の常識に反しているということを意味しているだけであって、理にかなっていないという意味ではない。
(中略)
常識はずれのビジネスをやろうとするなら、まず第一に、モノゴトを徹底的に合理的に考えなければいけない。>(P.24-26)

単に変わったことをするだけでは成功しない。いままで世間や常識が気づいていないもので、しかも合理的で優れたアイデアを出して始めて成功を手にできるというわけだ。

こうした観察眼は彼が漫才を目指していた頃、売れている先輩芸人の漫才を徹底的に分析することによって磨かれたものだが、それを見事にビジネスへも応用している。

<これはどんな商売でも一緒だと思うのだけれど、結局のところ、人に何か買ってもらうということは、人の心を動かすということだ。
そして僕は、この「人の心を動かす」ということが大好きなのだ。誰かが喜んだり笑ったりする顔を思い描けば、アイデアはいくらでも湧いてくる。
「こういうモノを作ったら売れるんとちゃうか」
「こういう店はやったら流行(はや)るやろ」
>(P.9)

このなかなかカッコいいセリフの中に、ビジネスで成功するためには必ず押さえなければならない要素がたくさん含まれていると思う。

さきほど私は島田に対して「傍若無人なイメージ」と書いていて、現在もそれは変わらないけれど、本書を読むと実に人情の機微に通じている面もある人だと理解できた。

<1つだけ言えるのは、根本のところで、みんなが幸せになれなきゃ意味がないということを、経営者がいつも真っ先に考えているかどうかだ。どうすればみんなが幸せになれるのかは、業種やその店の性格によって、違う部分もあるだろう。けれどその根本の目標が揺るがない限り、きっと上手くいく。>(P.35)

<その会社で働くことが、社員それぞれの幸福につながるようにするのが、経営者の役割なのだ。なぜなら、そうなれば社員は本気で働いてくれるからだ。みんなが本気で働けば会社の業績は必ず伸びる。業績を伸ばすのが経営者の重要な役目であれば、社員の幸せを考えることも、経営者の役割ということになる。自分の役割をちゃんと知っている経営者の下で働きたいというのは、当たり前のことだ。>(P.38)

いま私は線を引きながらこの本を読んでいるが、このままいけば線だらけになりそうだ。ビジネスを始めようとしている人以外にも参考になるアイデアが本書にはたくさん詰まっている。

「デートの約束があった時、残業を命じられたらあなたはどうしますか」

という質問に記憶のある方もいるだろう。私もどこかで見たことがあるような気がする。これは財団法人社会経済生産性本部と社団法人日本経済青年協議会が共同で主催している『新入社員「働くことの意識」調査』の中の一文だ。この調査は1969(昭和44)年に始まり、新入社員の入社にあわせて毎年4月に実施されている。本書は40年近くにわたる調査の結果を俯瞰し、就職や仕事に対する若者の考え方がどのような変化をしていったかを分析している。

ひとことで40年といっても、その間に起こった変化はすさまじい。著者は「はじめに」でこのように要約する。

<この40年の間に日本の社会像は一変してしまった。調査が開始された1969年は高度成長期のまっただなか。経済成長率は年10%以上。「モーレツ社員」などという言葉が生まれ、いわば企業サラリーマンの黄金時代が出現しつつあった。その後、2度にわたるオイルショックをはさんで、バブル景気の時代、そしてその後の長い平成不況の時代。平成不況は、サラリーマンの意識を基本的に決定していた終身雇用制にとどめをさした。おのずと、新入社員の意識も変化をまぬがれない。>(P.12)

私の周囲にいる人たちを見ていても、世代によって意識がかなり異なっていることを実感する。下の世代は今の会社にとどまろうという意思は最初から持っていない。私の10〜20歳くらい上の世代は、もはや行く場所も無いから自分の退職までは会社が存続してほしい、と願い最後までへばりつこうとしている。さらに上の世代となれば、退職の日を指折り数えているという始末だ。このような人たちを見ながら、さて自分はどうしようか、と密かに悩みながら毎日を過ごしている。

私が高校を卒業する頃はバブルが崩壊し国内の景気が急激に冷え込み、企業の新卒採用も悪化の一途を辿っていく。いわゆる「日本的雇用慣行」とよばれるシステムが崩壊していく光景だった。おそらく平成生まれには実感できないであろう日本的雇用慣行とは何だろう。本書では平成10年版の厚生白書の定義が引用されている。

<「日本的雇用慣行」とは、企業が、新規学卒者を一括採用し、長期雇用を前提として、雇用者が若年の時は賃金を上回る貢献をしながら、企業内訓練による人的資本形成を行い、中高年期になって蓄積された人的資本への対価として貢献を上回る賃金を支払うことにより、企業固有の技術を持つ熟練労働者を長期に確保する仕組みである。>(P.17)

少しわかりにくい文章かもしれないが、日本的雇用慣行は大きな特徴が2つある。

・定期一律一括採用
・終身雇用

だ。こうしてキーワードを取り出してみると、なんとなく実感していただけるかと思う。中学・高校・大学を卒業したばかりの若者を社員として採用し、年功序列の賃金制度や退職金をうまく機能させながら長期にわたり人員を確保する。私の抱いていた企業像もこうしたものと一致する。しかしそれが平成に入ったあたりからガタガタと崩れてきた。バブルの恩恵も何も受けなかった私の世代は、こうした時代の流れに乗り遅れた、という被害者意識のようなものも抱いているのではないだろうか。

いや私個人についていえば、上の世代に対して苦々しい思いを持っていることは否定できない。何も仕事もしないで高い給料をもらって退職金まで持っていくのか、と。しかしながら、あまり詳しいことはここでは書かないけれど、時代によってここまで待遇が違うのかと露骨に見えてくる職場にいるのだから仕方ない。

それでもこの本を読み終わってからは、こうした被害者意識はずいぶん収まった気がする。なぜならば「日本的雇用慣行」は高度成長期だったからこそ実現した時代の産物であることが理解できたからだ。

<振り返って考えてみると、日本型雇用慣行は、当時の社会状況に照らしてみて、これ以外に選択肢はなかったのではないかと思えるほど合理的なものだった。すでに述べた事情以外にも、当時、多くの企業が共通して抱えていた経営課題はいかに良質の労働力を安定的に確保するかで、これに失敗すれば、人手不足倒産などというもののあったほどである。いうまでもなく、日本型雇用慣行はこの課題の解決にも大きく寄与している>(P.19)

リストラの号令をもとに徹底的な人員削減が進んだ時代を生きてきた人間からすれば「人手不足倒産」というのは到底理解できない話だけれど、事実はそうだったのである。

ちなみに日本的雇用慣行は長期にわたり人材を確保していく性質のものなので、経営規模を縮小することが非常に困難であることも本書は指摘している(P.20)。こうしたことを踏まえれば、いまの国内状況で終身雇用や年功序列などを期待するのは、構造的に無理、と結論づけるしかない。著者も「はじめに」でこのように述べる。

<新入社員といえば、とりもなおさず新卒学生のことであり、それが同期社員として一斉に職業歴を開始するシステムは「終身雇用制」と「定期一律一括採用」の時代の、つまりは、あの高度経済成長期の風景なのだ。なごり惜しい気はするが、よき時代の思い出の風景として記憶の中にとどめる時期が到来しつつあるようだ。>(P.9-10)

著者の分析は徹底的に冷静になっているのが非常に好感がもてる。日本の雇用状況の変化についていたずらに感情的になったり悲観的な調子になっていないのが本書の優れたところであろう。
この日記でよく日垣さんの文章を引用させてもらっていたけれど、その著書を紹介するのはおそらく初めてかと思う。ご存じない方もいるだろうし、本書に載っているプロフィールを紹介しよう。

<作家、ジャーナリスト。1958年長野県生まれ。東北大学法学部卒業。書店員、トラック配送員、TVレポーター、編集者など数々の職を経て、87年から執筆活動に入る。>


「情報の『目利き』になる!-メディア・リテラシーを高めるQ&A」(02年。ちくま新書)という本では、「3度の瀕死体験と失業3回」を経験していると書いている。このような経験をしているためか、日垣さんは一貫して国家や共同体といったものには過大な期待はしていないように思える。よって、いわゆる「格差社会」にまつわる議論に対しても以下のような立場をとる。

<格差がないことほど、恐ろしい支配現象はありません。格差は、あって当然です。
一国や大企業のリーダーと、何もしないプー太郎君が、同じ月収であるのは不自然なことでしょう。>(P.14)


<格差是正と言えば聞こえがいいが、「格差ゼロ」の行き着く先はキューバか北朝鮮である。>(P.100)


<ある一家が貧しいことと、社会の仕組みが間違っていることは元来、関係がない。
笑った方も、おられるかもしれぬ。しかし、冗談ではない。この発想は、個人の努力や創意を否定するものだ。のみならずこの発想は、今も「格差」論争の占めてさえいる。>(P.146)


<弱者救済は美徳であり必要なことだが、働けるのに働かないほうがラクをできるシステムは、国を不幸にする。>(P.151)


かなり手厳しい調子の文章が特徴の日垣さんではあるが、冷静に考えてみれば、まさにその通り、という指摘ばかりである。

ではこうした状況を打破するために日垣さんはどのような提言しているのか。本のカバーには、

「鬱と不況の現代に、個人のスキルと努力で打ち勝て!」

と書いている。個人の地道な行動によって現状を変えていこうというわけだ。

<全体が元気をなくしている時だからこそ、行動力のある個人は突出しやすい、という事実を胆に銘じましょう。そうして、新たな事業や雇用を作り出す個人(企業内の個人も含めて、です)が増えることこそ、不況脱出への近道だと知りましょう。>(P.15)


<目の前の不都合や理不尽は、「社会問題」として「人のせい」に棚上げするのではなく、我が身に降りかかった「今すぐ取り払うべき」問題として一つずつ解決していこうではありませんか。>(P.16)


こうした視点の日垣さんがする提言にはハッとさせられることがあまりに多い。

<日本では格差が開いているというよりも、下層の厚みがぐんぐん増している、というのが憂うべき実態なのです。そこを勘違いしてはなりません。>(P.14)


<問題点は、バブル経済とは無関係に86年以降一貫して「廃業率」が「開業率」を上回っている事実だ。つまり、日本の資本主義は死滅に向かっている。(中略)中国やロシアやインドやブラジルや韓国や台湾は言うに及ばず、先進諸国でも「廃業率が開業率を上回っている」のは日本だけだ。>(P.107)


この国で本当に深刻なことは、このような問題が全く顧みられずに刻一刻と時間だけが過ぎていっていることではないだろうか。

これらの指摘も間違いなく貴重だが、私がこの本を日記で取り上げたかった本当の動機はもっと別のところにある。それは本書の最後に「激変時代に読みたい十〇冊の新書」が紹介されていることだ。以下がそれである。

・長嶋修「住宅購入学入門 いま何を買わないか」(講談社+α新書)
・岩間夏樹「新卒ゼロ社会」(角川oneテーマ21)
・香山リカ「老後がこわい」(講談社現代新書)
・橘玲「マネーロンダリング入門」(幻冬舎新書)
・渡辺千賀「ヒューマン2.0」(朝日新書)
・矢部正秋「プロ弁護士の思考術」(PHP新書)
・岩瀬彰『「月給百円」サラリーマン」(講談社現代新書)
・大前研一「ビジネス力の磨き方」(PHPビジネス新書)
・島田紳助「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」(幻冬舎新書)
・小松秀樹「医療の限界」(新潮新書)
・中山治『「格差突破力」をつける方法」(新書y 洋泉社)

手始めに私は(暴力沙汰の事件以来、大嫌いだった)島田紳助の本を読んでみたけれど、これから生きるためのヒントが満載で本当にビックリした。その勢いで古本屋やアマゾンで上の全ての本を買ってしまったほどである。これらを読んだ後は、何か行動しなくては!という気持ちになること請け合いだ。そして、これから私なりの感想も日記で記してみたいと思っている。

ところで、これらの本を集めてから気づいたことが1点ある。これらの新書は合わせて「11冊」だったのだ。私からすれば全く隙らしいものが見当たらない日垣さんのような人でもこうした間違いをするんだなあと知って、なんだかホッとした心境になっている。
今年の日本は「電子書籍元年」だ。そんな声をどこからともなく聞いたような気がするが、今月28日に「iPad」の日本版が発売されるのを皮切りにその噂も現実となっていくだろう。

といってもiPadにおいては電子書籍は搭載機能の一つに過ぎない。また以前の日記でも書いているけれど、通信料がかかることもあるので私は今のところ所持する気になれない。ただ、電子書籍というものに対しては人並み以上に興味を抱いている。

そんな私のような人間が注目しているのは、年内には日本版が出るという噂もあるキンドル(Kindle)であろう。キンドルはかのアマゾン(Amazon)社が開発した電子書籍端末である。2007年11月19日に本国アメリカで世に出たが、発売開始5時間半で在庫が無くなったという。アマゾンは売り上げなどの情報を公開しない方針をとっているけれど、2009年のキンドルの販売数は200万台前後と推測されている。

キンドルの特徴は色々ある。「イー・インク」と呼ばれる紙と同じようなモノクロ画面の技術、電子消費量がLCD(液晶画面)の10分の1で済む省エネ設計、本1冊のダウンロードが60秒以下でできる3Gワイヤレス機能の搭載、キンドル1台で1500冊もの電子書籍の保存ができる、などなどだ。

しかしキンドル、というよりアマゾンの凄いところは、ネットワークの使用料を全て会社が負担するということである。ここがiPadと大きく違い、私がグラッときた点だ。だから日本版が出たら購入してみたいと思っている。

ただこの本は「読んでみてキンドルの発売が楽しみになってきた!」などと単純に楽しみになるような内容にはなっていない。本書の特徴はキンドルを取り巻くアメリカ新聞業界の変化についても触れられているからだ。第3章の「米メディア危機と生き残り戦略」では、

「09年に1・5万人が失職」
「ネットが奪った3行広告」
「トリビューンの経営破綻」

といった小見出しが続き、新聞業界の片隅のそのまた片隅で生きている人間からすれば実にイヤな話が盛りだくさんだ。

素人目から見ても紙媒体の電子化への流れは明らかである。そしてそれに伴い新聞業界は印刷の縮小、配達の縮小、人員の縮小、といろいろな分野に悪い面で影響が及んでいくのだろう。

しかしそうした流れが急激に進むのか、それとも10年20年かけて徐々に変化していくのかよくわからない。紙とコンピューターのいずれか、ということではなく両者が併存しながら世の中は動いていくからだ。

著者は最後の章でこのような表現を使っている。

キンドルなどの電子書籍端末は、私たちにとってのルビコン川である。これを渡ってしまえば後戻りできなくなる。2010年は、紙を前提にして5世紀以上も発展した活字印刷の文化がペーパーレスになる時代の幕開けになるだろう。それは、メディアがデジタル時代へと飛翔する契機でもある。ペーパーレスになることで、メディアはルビコン川を渡ることになる。まさに自己革命の前夜を迎えている(P.171)

ネットの書評を見ていると、アメリカの新聞業界のことしか触れていない、著者の定見がない、などという否定的な感想が目についた。しかし、今日のアメリカは明日の日本の姿、というケースはこれまで多くあったことである。それに日本のメディアがこれからどうなるかなど具体的な見通しなど誰が立てられるというのか。分かる方がいるならぜひ私にご教示していただきたい。場合によっては今後の身の振り方を本気で考えたいからだ。

本書で書いてあることだが、かのグーテンベルクが活版印刷技術を開発した当時、本人も周囲の人も誰一人として「印刷革命」の将来を見通せなかったというのだ。印刷文化がヨーロッパ社会に定着するのに実に100年を要したのである。コンピュータ(ENIAC)が米ペンシルベニア大学で開発されたのも1946年、いまから60年以上も前の話だ。文化の大きな変化というのは長い年月の積み重ねによって訪れるものなのかもしれない。

少なくとも私には、著者の定見が無いというよりも、彼が紙メディアに対して抱いている不安や危機感などが表れているように読み取った。それは著者も紙媒体の世界で仕事をしている人だからに他ならない。
もしかしたらご存知の方もいるかもしれないが、先日私が書いたブログに対して誰かから非難めいたコメントが書き込まれた。名前も連絡先もわからないクズの書き込みなど放っておくのが最も良い対処法なのだが、私もその辺が未熟なもので、ついコメントで返事をしてしまう。

すると、「私はただコメントを述べただけです」などと、いかにも自分が公正中立なことをしているという態度で見当違いなコメントをまた書き込まれてしまった。

「ああ、俺はナメられてる」

そう感じた私は、それに関わるコメントを全て削除し、ブログのコメント機能も停止してしまう。別に第三者の感想を求めているためにブログを更新しているわけでもないし、そんな機能なんかいらねえや、と判断したからだ。

そして、しばらく反省をしてみる。この件に対する私のやり方は果たして妥当だったのかと。そう考えているうちに、部屋に置いてあったこの本を思い出し、ひと通り読んでみた。今日はこの本について書いてみたい。

「ネット時代の反論術」というタイトルをパッと見た限り、上の私のようにブログや掲示板で不快な書き込みをされた時の対処法らしきものが書かれている、と思ってしまうだろう。

しかし、これを書いている人は現代思想などを専門に研究をしている仲正昌樹さん(現・金沢大学法学類教授)である。そんなストレートな内容とはかなり違う。本書の「始めに」でも仲正さんはこう書いている。

無論、ちゃんとした教養があって、紳士的に会話することのできる立派な人格者であれば、他人に言われてなくても、きちんと論理的に、相手の言うことを整理し、きちんとした言葉で、反論できる術を身に付けているはずなので、こんな新書を読む必要はないだろう。そもそも、こういう新書を手に取ろうとする気にさえならないだろう。(P.10)

全くその通りであるけれど、反論したり人を貶めたりしたいと思った人にとっては冷水をかけられるような指摘である。このような文章が冒頭で書かれている通り、本書は反論だの論争だのと関わることがどれだけ不毛であるかを新書1冊を通じて延々と説く内容となっている。

あとがきの「終わりに」では、

この本は雑駁な構成になっているという点を差し引いて考えてもらっても、全体的に、「反論する技術」の解説本にはなっていない。どちらかというと、何が何でも相手に勝とうとする反論合戦がいかにバカらしいか、そのためにいろいろな手練主管を使うことが、いかに消耗させられることであるか、アイロニカルに距離を置いてみる内容になっている。もっと端的に言えば、「バカに対して反論するなんて、基本的に同じレベルのバカのやることだから、やめといた方がいいですよ」、というメッセージがこもった内容になっている。(P.214)

と書いている。反論しよう、相手を潰そう、という考えをどうやって押さえるか、ということがこの本の隠れたテーマなのかもしれない。

この本は、

始めに
第1章 反論するなら目的意識をもて
第2章 見せかけの論争
第3章 論理詰めのパターン
第4賞 人格攻撃するケース
第5賞 土俵が違う場合にどうすればよいか
終わりに

という構成になっている。一見すると「反論術」を具体的に教えてくれる内容っぽいが、やはり実際の中身はそういうものとはかけ離れている。

仲正さんは「論争」というものを3パターンに分けている。

(1)見せかけの論争
議論している相手を倒すのではなく、別に目的のために「論争のふり」をしている場合。自分の周りにいる人から「良くみられたい」、もしくは自分のイメージを回復したい、というためにする。政治家がする論争はこのパターンが多く、世間一般ではあまり見られない。

(2)「相手」をちゃんとみて論争する
論理詰めで、なおかつ形式を整えた論争。仲正さんが言うところの、本当の意味での「ちゃんとした論争」である。ただ、このような論争はめったになく、「見せかけの論争」よりも少ない。

(3)「反論」という形を通じてとにかく相手を潰したい
相手をやっつけて「ぎゃふん」というところを見てみたい、という大人げない動機を持っているとき。具体的には、ブログや掲示板という場で匿名で人を糾弾してくるようなクズを対処したい場合など。

個々のケースを要約するとこういうことだ。しかしながら、仲正さんは各章でいちいちこのような指摘をする。

「第2章 見せかけの論争」の冒頭では、

「見せかけの論争」の場合には、自分は相手なんか見ていないんだ、ギャラリーを見て話しているのだということをちゃんと自覚することが大切です。周囲に対する自分のイメージの改善、あるいは回復が目的であって、相手を論理でやりこめるとか、人格的に痛めつけることは目的ではない、と自分の中で割り切っていないとダメです。無論、そういう目的意識を持つというからには、自分自身にもともと”守るべき良いイメージ”があるということが大前提です。周りから何とも思われていないのに、イメージを悪くしないように頑張るのはただのバカです。(P.60)

と書いている。「第4賞 人格攻撃するケース」にいたっては、

この章での主題は、相手の人格を傷つけてぎゃふんと言わせることです。相手の人格を傷つけて、すっとしたいなんて本気で考えているあなた自身、もうすでに人間のクズですから、いまさら、いい子ぶるべきではありません。(P.193)

とまで言う始末である。

仲正さん自身も論争みたいなものに何度も巻き込まれている。そうした経験から、こういう結論を「終わりに」で述べている。

社会的立場上、反論せざるを得ない場合は別として、話の通じない連中は、本気で”反論”する価値のない蛆虫(うじむし)のような存在であり、それに反論したいという欲求を抱いてしまう自分も、人間のクズである、というニヒリズム的な認識を持つようになった。(P.216)

この本を読んだ人も同じような心境になれば、本書の目的は達成されたことになるのだろうか。

概要はこんな感じだが、「仲正昌樹の本」としての本書の魅力というか特徴も指摘しておきたい。現代思想や法について研究している人なので、仲正さんの著書は全体的に中身は難しい。専門書としては「カンタン系」であるとよく書かれているが、一般の人にはハードルが高めと感じることはしばしばである。しかしこの本はテーマが俗なためか、かなり読みやすい作りになっている。小泉純一郎の「ワンフレーズ・ポリティックス」、日本共産党の政党アピール、「朝まで生テレビ」など「論争」が起きる現場の具体的な例がイメージしやすいためだろうか。そして、仲正さんなりの説明している部分はハッとさせられる箇所が多い。いくつか列挙させてもらう。

恐らくみんな勘違いしているのではないでしょうか。 「本音」をぶつければ、何か新しいものが生まれてくるといった錯覚に陥っている。『朝ナマ』あたりから、とにかく本音を言ってトークするのがいいという気分が、テレビ番組で蔓延した。その結果、世の中全般で本音を言えばどうにかなると思っている人が増えているような気がします。語り合いはあってもいいけれど、語り合いは、即「討論」ではありません。そうしたテレビの勘違いが、ネットの世界に拡大された形で映し出され、それがさらに、普通の人同士の日常会話にも及んでいるのです。(P.44)

「論争」についての本を出しておきながら、しかもまがりなりにも、思想史を研究している人間でありながら、こんなことを言うのはヘンですが、私はそもそも「論争」というものをそんなに信頼していません。もう少し正確に言うと、「論争」する主体としての人間の「理性」をあまり信用していないのです。
ある程度、形式を整えた「論争」をする訓練を常日頃からしておくことは重要であると思ってますし、大学での授業や、私のいくつかの著書でそのことは強調したつもりですが、かといって、「論争」を通しての”真理獲得”に過大な期待を寄せると、かえっておかしなことになるとも思っています。人間の”合理的思考”に限界があるのだから、いくら訓練しても「限界」があることを知っておくべきなのです。(P.103)

一見、政治的な力のぶつかり合いから独立しているように見える学問的な論争のようなものでも、人間同士が人間関係のあり方における”正しさ”を追求すれば、いかに”客観的”に見えるルールをつくっても、社会的力関係をある程度反映した”答え”が出てきてしまいます。”客観性”自体が社会的に構築されているのです。論争の結果を、後から検証することが可能な自然科学の場合と違って、ある意味、言葉が全てであるような人文・社会学的な領域に属するテーマに関して、互いに偏見の塊である人間同士の、「問答=弁証法」によって「答え」が形成されるわけですから、出される「答え」に社会的力関係が反映していないはずはありません。(P.116)

いずれも、カーッとなった頭で「批判」や「論争」めいたものをしようとする行為を諌めるような指摘が並んでいる。

だが、私が最も「やられた!」と思ったのは「話の通じない相手」をどうするかという箇所である。仲正さんは最も良い方法を、

もちろん「大人」になって、脊髄反射しかできない可哀想な人を「許す」のがいちばんいい方法です。(P.51)

これには一本取られた。しかしながら仲正さん本人も、これはなかなかできないと書いてもいる。

やはり、次善の策として出てくる「無視する」というのが最もやりやすい対処の方法な気がする。

悲しいことに、私たちは、そんなにまともではないのです。(P.146)

この6月に映画化される西原理恵子の「いけちゃんとぼく」(角川書店。06年)の原作絵本を読みたい。そこでアマゾンのサイトででも買おうかと思った矢先、職場の人の机の上に置いてあった。これはちょうど良いと本を借り、仕事が一息ついたからその場で読んでみる。絵本という形式のためページ数も少なく、すぐに「2回」読み通すことができた。

いま「2回」とわざわざ強調したのには理由がある。本の帯にある宣伝文にこんなことが書いてあるからだ。
 
<この本には大きな仕掛けがある。
2度読み返してほしい。
号泣必至です
横里隆(「ダ・ヴィンチ」編集長)
(「ダ・ヴィンチ」06年10月号より)>

 
テレビ番組「ザ・ベストハウス123」(フジテレビ系列)では「絶対泣ける本BEST3」の第1位にもなった「いけちゃんとぼく」であるが、ともかく「泣ける」というのが魅力の一つらしい。先日のブログではネットの情報を再構成したり映画との関連で紹介したけれど、その時は私も未読な状態だった。しかし今回は読んだ感想を含めてこの作品について書いてみたい。
 
物語はヨシオという少年と、不思議な生き物「いけちゃん」との交流を描いた絵本だ。他に登場人物もいるけれど、ほとんどの内容は二人(1人と1匹という表現が正確か?)のやり取りだ。

冒頭にはこんな文章が載っている。
 
<いけちゃんは
ずっとまえから
そばにいる。
 
いけちゃんは
なんとなく そばにいる
 
それから ときどきなぞだ。
 
それで
ぼくといけちゃんは
なかよしだ
 
ずっと。>

「いけちゃん」はヨシオがものごころのつくずっと前から彼の近くにいるようだ。ではその「いけちゃん」とは一体何なのだ?と知らない人は疑問が出てくるだろう。しかし「いけちゃん」を具体的に説明するのは非常に難しい。表紙の画像を見れば、なんだかかわいらしいオバケのようにも見える。

「いけちゃん」は困ったことがあると小さくなり、嬉しいことがあると数が増える。いつもヨシオのそばにいて、彼が困ったときや落ち込んだときはなぐさめてくれる。だが、女の子と仲良くしていると真っ赤になって怒り出す。ともかくヨシオのことが気がかりだ。そうしてヨシオが成長していき、ある時点で「いけちゃん」が姿を消す日がやってくる・・・。
 
なぜ「いけちゃん」はヨシオの前に現れたのだろうか。その理由は「いけちゃん」の正体が明らかになる最後で一応はわかる。しかしこれこそが物語の肝心な部分であり、また絵本のあらすじを提示したところで伝わるものはあまりに乏しいので書かないことにする。
 
「泣ける!泣ける!」という触れ込みだったものの、私としては特に涙するような箇所はなかった。絵本を持っていた人は既婚者で子どももいる女性だがその人も泣かなかったそうだ。しかしそんな私でも、「いけちゃん」がなぜヨシオの前に姿をあらわしたかを知った瞬間にはなんともいえない心境になっていたことは否定できない。
 
そして、「いけちゃん」が何者かを知ってから絵本を再び読み返してみると、「いけちゃん」のセリフがまた違った思いで受け止められるようになっている。だから「2回読み返してほしい」のである。2回目で泣いたと言う感想を書いた人をネットで何人か見かけた。それはこの「仕掛け」によるものだろう、と泣いてもいない私は想像するよりほかにない。
 
それにしても、かつて「ちくろ幼稚園」(91-95年。小学館。全3巻)などでは子どもの嫌らしさや残酷さを描いてきた西原であるが、この作品における子どもを見つめる視線はずいぶん違っている。このような絵本を描けたのは、やはり作者自身が子どもを持つなど心境に大きな変化があったためだろう。初期の作品ばかりを知っている私はそのような感想を持った次第である。
ISBN:4812433185 単行本 たむら けんじ 竹書房 2007/11/17 ¥1,300

たむけんが本を出したということで、給料が出たらすぐ買ってみた。どれくらい印刷されているのか不安だったが、書店を回ってみればけっこう置いてあった。

彼のファンの方に向けて特に言いたいが、内容はなかなか侮れないものがある。本の中心はたむらの知り合いの芸人54人についてあれこれ書いたもので、誰が殴っただの酔って吐いただのとどこまで本当かわからないけれど、芸人の世界の一端を垣間みれるのは興味深い(自分には合ってない世界だと思うが)

他に陣内智則との「同期対談」、TKF(たむら・けんじ・ファミリー)の芸人たちがたむけんについて語り合う「TKFたむけん欠席裁判」などもある。しかし最も優れているのはそれ以外のオマケといえるような部分だろう。

まず「たむけんになるための七つ道具」(P10-11)では獅子舞の格好になるための七つ道具(サングラス、クシ、足袋、ジェル、ふんどし、マジック、獅子舞)についての解説がされている。

そしてこれまで使った「胸文字」(「ネッシーはいてる」「笑いの神が嫉妬する男」など)、あと「東京で売れてる芸人!○○○!」のセリフがドドッと入っているのがファンにはたまらない。

個人的には、

「東京で売れてる芸人、ドラクエの呪文書き間違えろ!」

というのは初めて知ったのでウケた。いまの子どもには意味がわからないと思うが・・・。

ひいき目で見ても「ホームレス中学生」に続くベストセラーにはならないだろう。しかし私のようなたむけんを愛する好き者は持っていて損はない。

絶版して裁断処理される前に、本屋かアマゾンへ急げ。
ISBN:4163684506 単行本 山田 昌弘 文藝春秋 ¥1,500

年末年始の休みに何冊か本を読んだ。その1つがこの「新平等社会」である。「格差」という言葉が世の中に広がるようになって久しい。しかし、実際のところはどうなっているのかはよくわからない。そこで、この本を手に取ってみた。

「パラサイト・シングル」や「希望格差社会」という言葉を生んだ著者は、テレビなどで多くの学識経験者が言うようには、格差の原因を小泉内閣や新自由主義(ネオリベラリズム)と考えていない。その理由として、

(1)最近とりあげられている問題(自殺者の増加、雇用形態の変化による賃金格差など)は97〜98年(橋本内閣から小渕内閣に変わる頃)に日本では顕著になっている点
(2)経済格差は北欧のような福祉政策の手厚い国、また社会民主主義の国でも起きている点

を挙げている。

では、何が経済格差を引き起こしているか。著者は「ニューエコノミー」という言葉でそれを説明している。ニューエコノミーとは、グローバリズム、IT化、規制緩和などの新たな産業構造である。これらは民衆にとって「望ましい」(便利だから、とか)と思って進んできたものだが、その一方で経済格差も進んでいったというわけである。

パソコンや携帯電話の普及で、我々の暮らしは確かに便利になった。また新しい産業も増えて社会も活性化した。これだけを見れば素晴らしい。しかし、経済格差の出現はその表裏をなす現象だから解決策をなかなか出しにくい。

本書ではこうした格差の生じる構造のほか、いま起こっている格差の性質、またそこから将来でてくるであろう社会問題まで幅広く取り上げられている。

この本を読んで最も意外に感じたのは、戦後の日本の経済格差は比較的大きかったという指摘である。たとえば、かつて(といっても15年くらい前の話だが)の我が国で主流だった「年功序列賃金」のため、若年労働者と中年労働者の収入には大きな開きがあった。また、男女間の賃金差も大きかった。これは両方とも「格差」だったのである。しかし格差が存在しているにかかわらず、誰も意識してなかった(詳しい説明は本書にあるが、高度経済成長時にこうした問題は見えにくかったのである)

ひるがえって近年(といってもここ数年の話だが)に目を向けると、成果給や年俸制といった賃金制度の採用で年齢による賃金格差は縮まっている。また、男女間の格差も同様だ。よって、従来存在していた格差は無くなりつつあるのだ。

にもかかわらず、格差が叫ばれるようになったのはなぜか。著者は「格差の質が変わった」と指摘し、さまざまな角度(家族、地域、結婚、年齢など)から格差を論じている。

漠然としたイメージではなく、一歩踏み込んで「格差」について理解をするには最適な一冊である。
ISBN:4061498428 新書 鈴木 邦男 講談社 2006/05/19 ¥735

著者の鈴木邦男さんは大学時代から現在まで40年にわたり愛国運動を続けてきた人だ。

これは断言できる。僕は日本一の愛国者だ。いや、世界一の愛国者だ。なんせ、愛国運動を四十年間もやってきた。国歌「君が代」は五千回以上も歌った。国旗「日の丸」も同じくらい揚げた。部屋の壁にも「日の丸」を貼っていたし、街宣(街頭宣伝)はいつも「日の丸」の下でやってきた。靖国神社には五百回も参拝した。「教育勅語」も暗唱した。これ以上の愛国者はいないだろう。「愛国者コンテスト」があったら軽く優勝できる。(本書3P)

しかし、愛国運動を一生懸命していても世の中は変わらず、天皇や愛国心などを唱えれば「右翼」のひとことで片付けられる時代がずっと続いていたという。そして話は最近のことに向かう。

ところが、最近、急に世の中が変わった。世相というか国民の意識が変わってきた。ソ連が崩壊し、東欧もなくなった。日本だって左翼がいなくなった。その途端、にわか右翼、オタク右翼、新保守がドッと増えた。ネット右翼も大増殖した。この時とばかり政府も文部科学省も、日の丸・君が代を強制している。近いうちに改憲もされるだろう。教育基本法には愛国心を明記せよと言う。僕でさえ戸惑うほどだ。(本書8ー9P)

そんな現状に対して、

今の日本は、「ともかく愛国心を持て」「愛国心は常識だ」「愛国心さえ持てばいい生徒、いい日本人になれる」と言っている。冗談じゃない。そんな単純なものではない。だから、この本では初心に返って愛国心とは何か、を考えてみた。愛国心は宝石にもなるし凶器にもなる。一面だけを見るのは危険だ。その素晴らしさと危うさの両面を皆に教えてやろう。(本書10P)

というのが本書の趣旨である。

私はもはや右翼だの左翼だのといった思想が衰退していた時代に生まれた人間であるが、鈴木さんの言動については理解できるものが多い。たとえば、公立の中学や高校で日の丸や君が代が強制されている状況について、

そこまでして「君が代」を強制する必要があるのだろうか。かわいそうだと思う。教師や生徒もそうだが、日の丸・君が代もかわいそうだ。こんな争いの道具にされてかわいそうだと思う。また、ガヤガヤとうるさい生徒に、それもいやいや歌わされるなんて。
 僕は日の丸・君が代が好きだ。だからこそ、そんな状態で歌ってほしくないと思う。
(本書72P)

右翼とか民族主義などといった思想と無縁な人間にも伝わるのはなぜか。おそらく、鈴木さんの考えが机上の空論ではなく、四十年間の愛国運動を基盤とした地に足の着いたものだからなのだろう。本書では愛国心や天皇制、また女帝論についてもきわめて自然な視点で語られていく。

そんな「寛容な愛国心」こそが鈴木さんの魅力だが、にわか右翼たちからは「売国奴」「非国民」と罵倒されることも少なくない。どんな思想であれ、そこから進歩し発展してしまえばズレてしまう。それは必然の成り行きなのかもしれない。

しかし、もしも鈴木さんのような思想の「愛国者」が増えるならば国もそれほど間違った方向には進まないと思う。本書も増刷を重ねているようで、偏狭なナショナリズムが進んでいる我が国に一石を投じてもらえる本になってほしいと願う。鈴木さんは本書の最後で「愛国心」についてこう述べている。

愛国心は国民一人一人が、心の中に持っていればいい。口に出して言ったら嘘になる。また他人を批判する時の道具になるし、凶器にもなりやすい。だから、胸の中に秘めておくか、どうしても言う必要がある時は、小声でそっと言ったらいい。(本書192P)
たむらけんじ「吉本」(よしぼん)
「東京で売れてる芸人、全員死ね!」

のセリフで「笑いの金メダル」(テレビ朝日系)の中のコーナー「ワンミニッツショー」に時おり出現し、この4月にはみごと同番組のレギュラーになった「たむらけんじ」が「吉本」という本を出した。「よしもと」ではなく「よしぼん」と読む。

内容は、たむらが今までにプライベートで撮った芸人の写真を集めて1冊にしたものである。率直に言って、吉本興業やお笑いに興味のある人にしかあまり価値は無いかもしれない。かく言う私も、たむらがサイン会をおこなわなければ買わなかっただろう。

しかし、まえがきでは、

「子供が大きくなっていろいろお金がいるんです。車のローンもまだ4年も残ってますねん。みなさんどうかよろしく、よろしく!?」

そして、あとがきでは、

「飼ってる犬が小型犬のくせによう餌食べよるんですよ。餌代けっこうかかりますねん。娘がフィギュアスケート習いたいんですって。で、月謝調べたらびっくりするくらい高いんですよ、みなさんどうかよろしく、よろしく!?」

と書いているのが「たむけん」らしくていかにもショボい。そして、私の「一晶くんへ」と書かれたサイン本の印税がこういった形で使われれば本望である。
下村誠「路上のイノセンス」(93年、シンコーミュージック)
佐野元春の過去の作品について書くための参考に、高校生の頃(93年か94年のどちらか)買ったこの本を引っぱり出し、いま読み直している。

「路上のイノセンス」はサブ・タイトルに「佐野元春ドキュメント Early Times Of Motoharu Sano」と付いているように、彼が10代にどのような青春を送り、いかなる経緯でプロのミュージシャンになり、そしてブレイクした直後になぜか渡米する83年までの軌跡を追ったものである。

著者は佐野と近いところにいる人だけあって、書かれていることや佐野自身の発言は実に生々しい。中学生の時トランジスタ・ラジオで聴いた英米のロックン・ロールに夢中になってギターを持ち、16歳になると同時にモーターバイクを乗りまわす。そんな多感な時期に停学、家出、初恋、失恋などの様々な経験をしていく・・・絵に描いたようなティーンエイジャーの青春である。

それと同時に、ミュージシャンとしての成長過程も実に興味深い。高校生の時点で10人編成のバンドを作りコンテストで賞を取ったり、新しいタイプのミュージシャンとしてデビューしてから成功するまでの困難な道のりなど、本当に色々な話が出てきて読む者を飽きさせない。ミュージシャンの伝記の大半はつまらないけれど、そうしたものとは一線を画する内容となっている。その理由はひとえに佐野元春の残している逸話の豊かさにあるのだろう。これほどロック・ミュージシャンらしいエピソードを持っている人はいない。

佐野元春というミュージシャンをよりよく理解するためには最高の一冊である。

戦争請負会社

2005年12月5日 読書
ISBN:4140810106 単行本 山崎 淳 日本放送出版協会 2004/12 ¥2,625

民間企業が戦争に関わっているというのを知ったのが、いつだったかは思い出せない。この本は、国家の軍事業務を代行する「軍事請負企業」を追いかけたものである。

国家総動員法などという法律がかつてあったこの国にいると、国家の一大事である戦争を民間に託すという行為じたい想像もつかないかもしれない。しかし冷戦終結以来、軍事の民営化は世界的な傾向であり、それが広がっていく一方なのが現実だ。

たとえば、イギリス海軍は最新の原子力潜水艦の運用と整備の仕方を民間企業から教えてもらっている。軍事大国と思われているアメリカでさえ、ペンタゴン(アメリカ国防総省)は国外の軍事援助の大部分を外部化してしまったし、イラクにおける一連の軍事作戦は民間企業の援助なしには成り立たなかったほどである。

略して「PMF」と呼ばれるこうした企業が台頭してきた要因はさまざまであるが、冷戦が終わったために世界が不安定になったこと、余剰になった元兵士や兵器が世界に拡散してしまったことなどが指摘されている。米ソの対立が無くなってしまってから、不安定な地域に大国は自国の軍隊を送らなくなってしまった。その隙間を突いてきたのがPMFなのである。

PMFはもちろん民間企業だ。売っているものが、戦闘作戦、戦略計画、情報収集、危険評価、作戦支援などでありながら、法人であることに変わりはない。軍隊の一部でもなんでもなく、PMFは軍の命令系統や軍法から外れた存在である。にもかかわらず、先のイギリスやアメリカのように、国家の中枢を揺るがすようなところで活動をしている。こうしたPMFに対して筆者は「外注化と民営化の二十一世紀の変種」と表現している。

この本を読んでいると、二十一世紀というのはどの時代とも比較できないようなところに突入しているのが実感できる。公と民、軍人と文民、戦闘行為と非戦闘行為、あらゆるものの境界があいまいになっているのである。現代はどのような時代なのかを感じたい人にはぜひ読んでほしい。

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