いまでこそラップやヒップ・ホップといった音楽も日本では珍しくなくなったものだが、それは90年代半ば以降の話である。巷では吉幾三の「俺ら東京さ行くだ」がラップの元祖というデマを聴く時があるが、そうであるならばドラゴン・アッシュやリップ・スライムやケツメイシの元祖が彼ということになる。それはあり得ないだろう。

では誰がこのジャンルの先駆者かといえば、佐野元春というのが妥当な答えである。今から20年前の1984年5月21日に発売された「VISITORS」こそその証拠となる作品である。今年の2月25日に発売された20周年記念盤を今日買ったので、それについて少々ふれておきたい。

80年にデビューした佐野は、3作目のアルバム「SOMEDAY」(83年)で商業的な成功をおさめるだけでなく、新しい若者文化のリーダーともいえる存在にのしあがった。そんな最中に彼は不可思議な行動を取る。単身でニューヨークへ渡り、そこで1年間生活を送ったのである。なぜそんなことをしたのか本人すらもわからないと答えていたが、それによって佐野の音楽スタイルに劇的な変化をもたらすことになる。

当時のニューヨークはヒップ・ホップ・カルチャーが勃発したばかりの頃だった。持ってきた楽曲を向こうで録音するつもりだったのが、先鋭的な音楽に触れたのをきっかけにそれをすべて捨てて「VISITORS」を制作した。

前作「SOMEDAY」の続編を期待して待っていた日本のファンはこの問題作を聴いて凄まじい衝撃を受けた。ザ・ハートランド(当時佐野と行動していたバック・バンド)のメンバーすらも「どうやって演奏するの?」と驚いたというほどである。

それから20年、いまでもこのアルバムは好き嫌いが分かれているようである。84年当時を含めて自身の活動を振り返り、佐野はこういうことを言っている。

「要するに、自分の作り出した言葉、メロディ、そしてビートで僕自身が楽しみたいんだ。いつもスリルを感じていたい。100人のファンがいたとしたら彼らを全員満足させることは到底できない。だとしたら僕は自分の選んだ表現方法でやっていくしかない。振り返ってみれば、軋轢もあったし、和解もあった。『VISITORS』のときは特に軋轢が大きかった。『SOMEDSAY』まで聴いてくれたファンの女の子が『VISITORS』のレコードに針を下ろして1曲目の〈コンプリケーション・シェイクダウン〉を聴いて恐くて泣き出した、といったようなエピソードも少なくない。怖がらせるつもりはなかった。でも、それが表現というものだ」

調べてみれば、「俺ら東京さ行くだ」の発売は84年11月25日である。「VISITORS」に遅れること半年であった。

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