ワタミの労働組合結成によせて
2016年6月16日 時事ニュースTwitterのタイムラインを眺めていたら、
<ワタミに初の労働組合 経営陣「ブラック」批判受け容認>
という一文が目に飛び込んできた。発信していたのは朝日新聞デジタルである。
http://www.asahi.com/articles/ASJ6J4WTSJ6JULFA016.html
日本のブラック企業の代表となって久しいワタミが、創業してから存在していなかった労働組合の結成を容認したというのである。ブラック企業に労働組合ができたというのはニュース性は高くパッと見は面白いかもしれない。しかし個人的には「はあ、そうですか」という程度でここから何かが生まれるような期待感は全く抱かなかった。なぜかといえば、私自身が新聞社の子会社の労働組合で活動していた苦い経験が心の底にあるからだ。朝日新聞のごく短い文章の中でも、ワタミ労組の先行きが見えてきて暗澹たる思いに駆られてしまう。おそらくこの労組は何もできないまま終えるに違いない。
いちおうネットで確認すると、ワタミの賃金制度は「職務給」となっている。これを見た時に、組合なんてあっても無駄だな、と瞬間的に思ってしまった。職務給とは要するに、仕事の度合いによって給料に差が出てくるということである。働きが良ければ給料は上がり悪ければ下がる、というものだ。なんだ。そんなの当たり前じゃないか、と思う人はもう現代に生きる人である。しかし、こうした制度は前時代的な労働組合の精神とは真っ向から対立するのである。働き具合によって給料が異なるとなってしまえば、「春闘」だの「ベア(ベースアップ。意味は個々で調べてください)」だのといった理屈が企業に通じるわけがないのだ。働き具合で差をつけている会社が、どうして全社員に一律でベースアップをするというのか?そんなのはおかしいではないか。無論、今でもベアとかいった死語を振り回しているのは、メーデーで真昼間から仕事もせずに街中で騒いでいる輩くらいだろうけど。
長々と書いてしまったが、労働組合が活動するためには全員で共闘できるような「目標」がなくてはならない(団結するわけだからね)。それがつまるところ、命の次に大事な「金(賃金)」である。しかし、その金の額が個々人でバラバラだったら団結する要素などもはや無いだろう。そんな状況で組合活動をして何をするというのか?もしあるとしたら教えていただきたい。私は成果給に会社にいたので骨身にしみるほどそのあたりのことがわかっているから、断言できる。
給料がバラバラな労働者同士が団結する要素など、どこにもない。
もう一つだけ、根本的で大事なことを書いておきたい。
当の朝日新聞デジタルの記事は冒頭でこのように書いている。
<居酒屋チェーン大手のワタミで初めて労働組合が結成された。グループの正社員約2千人と、アルバイト約1万5千人の大半が入った。>
多くの人はボーッと読み流したに違いないが、これはワタミの労働者は正社員とアルバイトとに分かれているということである。「そんなこと当たり前だろう。馬鹿かお前は」とほとんどの人は思うだろう。しかし、考えてみてほしい。正社員とアルバイトとでは賃金を始めとした待遇は全く異なるのだ(ゆえに正社員とアルバイトの比率がこれほど違う)。
だから、こういう疑問が出てきてしまう。
「待遇が全く違う正社員とアルバイトとが共闘できるのか?」
と。
記事を読む限りでは詳細はわからないが、ワタミの労働組合は「ユニオンショップ協定」を会社に組んでいるという。これはつまり、入社したら自動的に組合員になる、というものだ。もし自分の思想や信条を理由で組合に加盟したくないと思っても、それは許されない(組合を止める=退社する、という流れになる)。これは労働組合では多数派の制度ではなく、多くは入るか入らないかは社員の自主判断にまかされる。ワタミの場合は色々な面で有名になった企業だからこのようなことになったのだろうが。
何が言いたいかといえば、組合の加入を非正規社員に勧めても「まず入らない」という事実を書きたかったのだ。
たいていの契約社員やアルバイトは、
「組合になんて入ったら会社側から不利益があるから・・・」
と怖がって入ることはない。組合員が「それは絶対ない!組合活動は法律で認められている!」とわめいたところで、有期雇用の立場である人たちはそんなリスクの大きくなる選択はしないだろう。もっといえば、私みたいな派遣社員はそもそも会社から直接雇われているわけでもないから、組合員になる資格も持っていない。
こういう話をすると、昔の嫌な思い出が蘇ってきて色々なことが書きたくなるのだが、簡単にまとめれば、
・賃金制度がのあり方が変わってしまった現在、組合活動をする意味はない。
・正規/非正規と労働者の「身分差別」がされている前提では、労働者全員が共闘などできない。
と2行で済ませられる。
これからワタミの労働組合と企業側との間で、会社のあり方や賃金をめぐって論じられるだろう。しかし正規/非正規という身分差別がある限りは、正社員の方に重きがおかれるのは力学的に間違いない。そうなると1万人以上もいるアルバイトはどのような思いになるか。そしてそれでも一緒に闘おうなどという気持ちになるのだろうか。
現時点でワタミ労組はもう終わっているのではないだろうか。というよりも、そんなものを結成する意義はあったのか。弱小組合の活動のために貴重な時間を奪われた身としては、そんなことを思わざるをえないのである。
<ワタミに初の労働組合 経営陣「ブラック」批判受け容認>
という一文が目に飛び込んできた。発信していたのは朝日新聞デジタルである。
http://www.asahi.com/articles/ASJ6J4WTSJ6JULFA016.html
日本のブラック企業の代表となって久しいワタミが、創業してから存在していなかった労働組合の結成を容認したというのである。ブラック企業に労働組合ができたというのはニュース性は高くパッと見は面白いかもしれない。しかし個人的には「はあ、そうですか」という程度でここから何かが生まれるような期待感は全く抱かなかった。なぜかといえば、私自身が新聞社の子会社の労働組合で活動していた苦い経験が心の底にあるからだ。朝日新聞のごく短い文章の中でも、ワタミ労組の先行きが見えてきて暗澹たる思いに駆られてしまう。おそらくこの労組は何もできないまま終えるに違いない。
いちおうネットで確認すると、ワタミの賃金制度は「職務給」となっている。これを見た時に、組合なんてあっても無駄だな、と瞬間的に思ってしまった。職務給とは要するに、仕事の度合いによって給料に差が出てくるということである。働きが良ければ給料は上がり悪ければ下がる、というものだ。なんだ。そんなの当たり前じゃないか、と思う人はもう現代に生きる人である。しかし、こうした制度は前時代的な労働組合の精神とは真っ向から対立するのである。働き具合によって給料が異なるとなってしまえば、「春闘」だの「ベア(ベースアップ。意味は個々で調べてください)」だのといった理屈が企業に通じるわけがないのだ。働き具合で差をつけている会社が、どうして全社員に一律でベースアップをするというのか?そんなのはおかしいではないか。無論、今でもベアとかいった死語を振り回しているのは、メーデーで真昼間から仕事もせずに街中で騒いでいる輩くらいだろうけど。
長々と書いてしまったが、労働組合が活動するためには全員で共闘できるような「目標」がなくてはならない(団結するわけだからね)。それがつまるところ、命の次に大事な「金(賃金)」である。しかし、その金の額が個々人でバラバラだったら団結する要素などもはや無いだろう。そんな状況で組合活動をして何をするというのか?もしあるとしたら教えていただきたい。私は成果給に会社にいたので骨身にしみるほどそのあたりのことがわかっているから、断言できる。
給料がバラバラな労働者同士が団結する要素など、どこにもない。
もう一つだけ、根本的で大事なことを書いておきたい。
当の朝日新聞デジタルの記事は冒頭でこのように書いている。
<居酒屋チェーン大手のワタミで初めて労働組合が結成された。グループの正社員約2千人と、アルバイト約1万5千人の大半が入った。>
多くの人はボーッと読み流したに違いないが、これはワタミの労働者は正社員とアルバイトとに分かれているということである。「そんなこと当たり前だろう。馬鹿かお前は」とほとんどの人は思うだろう。しかし、考えてみてほしい。正社員とアルバイトとでは賃金を始めとした待遇は全く異なるのだ(ゆえに正社員とアルバイトの比率がこれほど違う)。
だから、こういう疑問が出てきてしまう。
「待遇が全く違う正社員とアルバイトとが共闘できるのか?」
と。
記事を読む限りでは詳細はわからないが、ワタミの労働組合は「ユニオンショップ協定」を会社に組んでいるという。これはつまり、入社したら自動的に組合員になる、というものだ。もし自分の思想や信条を理由で組合に加盟したくないと思っても、それは許されない(組合を止める=退社する、という流れになる)。これは労働組合では多数派の制度ではなく、多くは入るか入らないかは社員の自主判断にまかされる。ワタミの場合は色々な面で有名になった企業だからこのようなことになったのだろうが。
何が言いたいかといえば、組合の加入を非正規社員に勧めても「まず入らない」という事実を書きたかったのだ。
たいていの契約社員やアルバイトは、
「組合になんて入ったら会社側から不利益があるから・・・」
と怖がって入ることはない。組合員が「それは絶対ない!組合活動は法律で認められている!」とわめいたところで、有期雇用の立場である人たちはそんなリスクの大きくなる選択はしないだろう。もっといえば、私みたいな派遣社員はそもそも会社から直接雇われているわけでもないから、組合員になる資格も持っていない。
こういう話をすると、昔の嫌な思い出が蘇ってきて色々なことが書きたくなるのだが、簡単にまとめれば、
・賃金制度がのあり方が変わってしまった現在、組合活動をする意味はない。
・正規/非正規と労働者の「身分差別」がされている前提では、労働者全員が共闘などできない。
と2行で済ませられる。
これからワタミの労働組合と企業側との間で、会社のあり方や賃金をめぐって論じられるだろう。しかし正規/非正規という身分差別がある限りは、正社員の方に重きがおかれるのは力学的に間違いない。そうなると1万人以上もいるアルバイトはどのような思いになるか。そしてそれでも一緒に闘おうなどという気持ちになるのだろうか。
現時点でワタミ労組はもう終わっているのではないだろうか。というよりも、そんなものを結成する意義はあったのか。弱小組合の活動のために貴重な時間を奪われた身としては、そんなことを思わざるをえないのである。
「Miitomo」って一体なんなのだろう
2016年3月25日 時事ニュースそれはTwitterだったかFacebookだったか覚えていないけれど、少し前に何やら「Nintendo」というロゴの入った広告が目に入った。かの任天堂だ。どうやらスマホのアプリらしい。任天堂が「Miitomo(みーとも)」という新しいサービスの提供を始めたのである(調べてみると今年の3月17日に始まった)。
詳細は事前によく調べなかったが、どうもSNSの類いのようだ。そして何となく登録してしまった。あの任天堂が満を持して提供するサービスだから、とファミコン世代の私は本能的に飛びついたというのが本当のところだろう。ただ私はインターネットも携帯電話も2ちゃんねるもmixiもTwitterもFacebookも後追いの人間だったので、新しいサービスやメディアに今回は乗っかってみたいという気持ちも強かったのである。
登録者は配信して3日後に100万人突破したという企業からの発表があったが、周囲で広まっている様子はない。私自身、直接知っている方で繋がっているのは一人だけだ。
ではそのサービスはといえば、「今のところは」と前置きしておくが、なんだかパッとしない印象だ。最初に自分の分身である「Mii」を作る。そしてサービスを開始すると、Miiがこちらにあれこれと質問をしてくる。それに対して返答する。基本的にはその繰り返しである。誰かと繋がると、繋がった人のMiiが自分のところにやってきて、またあれこれ質問してくる。これが100人とかになると大変そうである。
個人的にはザッといじってみて、
「なんだかアメーバみたい・・・」
とまず感じた。「このサービス、どこかで見たような・・・」という既視感がつきまとってくるのである。小学生の時にディスクシステムを付けたファミコンの電源を入れた時のワクワク感のようなものは全く湧いてこなかった。90年代前半くらいまでは世界の家庭ゲーム機を牛耳っていた任天堂も、携帯やソーシャルの世界では完全に後発隊ということか。
このように冷めた見方でこのアプリをいじっているうちに、Mittomoに対して強い疑問が出てきた。それは「このサービスで任天堂が一体何を狙っているのか?」という根本的な部分についてである。
例えばLINEの場合、最初は電話とメール機能を無料で提供するくらいだったが、しばらくしてゲームだのスタンプだのと内容をどんどん広げていき収益も上げていった。最初は無料サービスで利用者を囲い込み、それからしばらくしてあの手この手で商売をしていくという手法である。
これに対して、 Miitomoは今のところ収益を出せるような部分はほとんど見えてこない。課金できるところといえば、Miiに着せる衣装程度である。SNSの機能としても、繋がっている人のコメントに「イイね!」をしたりコメントをつけるくらいしかできない。個人情報をやり取りすることも可能なのか、またそれを禁止しているのか、そのあたりもなんだかよくわからない。
しかし任天堂はポケモンやマリオなどの人気キャラを大量に持っているので、それでガチャを作って売ろうと思えば簡単にできるだろう。ポケモンだったら恐ろしい利益が出せそうな気がする(当然ながら課金をめぐる問題も出てくるに違いないが)。だが、今のところはそんな気配は全くない。ただ自分や繋がっている人のMiiと半端なやり取りをするだけである。
果たしてMiitomoは任天堂の新しい戦略の一環となるのか、それとも失敗してその歴史に汚点を残すことになるか。その辺りはわからないが、個人的には適当に付き合っていこうと思ってはいる。
「Miitomo」の公式ページはこちら
https://miitomo.com/ja/
詳細は事前によく調べなかったが、どうもSNSの類いのようだ。そして何となく登録してしまった。あの任天堂が満を持して提供するサービスだから、とファミコン世代の私は本能的に飛びついたというのが本当のところだろう。ただ私はインターネットも携帯電話も2ちゃんねるもmixiもTwitterもFacebookも後追いの人間だったので、新しいサービスやメディアに今回は乗っかってみたいという気持ちも強かったのである。
登録者は配信して3日後に100万人突破したという企業からの発表があったが、周囲で広まっている様子はない。私自身、直接知っている方で繋がっているのは一人だけだ。
ではそのサービスはといえば、「今のところは」と前置きしておくが、なんだかパッとしない印象だ。最初に自分の分身である「Mii」を作る。そしてサービスを開始すると、Miiがこちらにあれこれと質問をしてくる。それに対して返答する。基本的にはその繰り返しである。誰かと繋がると、繋がった人のMiiが自分のところにやってきて、またあれこれ質問してくる。これが100人とかになると大変そうである。
個人的にはザッといじってみて、
「なんだかアメーバみたい・・・」
とまず感じた。「このサービス、どこかで見たような・・・」という既視感がつきまとってくるのである。小学生の時にディスクシステムを付けたファミコンの電源を入れた時のワクワク感のようなものは全く湧いてこなかった。90年代前半くらいまでは世界の家庭ゲーム機を牛耳っていた任天堂も、携帯やソーシャルの世界では完全に後発隊ということか。
このように冷めた見方でこのアプリをいじっているうちに、Mittomoに対して強い疑問が出てきた。それは「このサービスで任天堂が一体何を狙っているのか?」という根本的な部分についてである。
例えばLINEの場合、最初は電話とメール機能を無料で提供するくらいだったが、しばらくしてゲームだのスタンプだのと内容をどんどん広げていき収益も上げていった。最初は無料サービスで利用者を囲い込み、それからしばらくしてあの手この手で商売をしていくという手法である。
これに対して、 Miitomoは今のところ収益を出せるような部分はほとんど見えてこない。課金できるところといえば、Miiに着せる衣装程度である。SNSの機能としても、繋がっている人のコメントに「イイね!」をしたりコメントをつけるくらいしかできない。個人情報をやり取りすることも可能なのか、またそれを禁止しているのか、そのあたりもなんだかよくわからない。
しかし任天堂はポケモンやマリオなどの人気キャラを大量に持っているので、それでガチャを作って売ろうと思えば簡単にできるだろう。ポケモンだったら恐ろしい利益が出せそうな気がする(当然ながら課金をめぐる問題も出てくるに違いないが)。だが、今のところはそんな気配は全くない。ただ自分や繋がっている人のMiiと半端なやり取りをするだけである。
果たしてMiitomoは任天堂の新しい戦略の一環となるのか、それとも失敗してその歴史に汚点を残すことになるか。その辺りはわからないが、個人的には適当に付き合っていこうと思ってはいる。
「Miitomo」の公式ページはこちら
https://miitomo.com/ja/
トリコロールをめぐる「自由」について
2015年11月20日 時事ニュース11月13日にパリで勃発したテロは120人以上の犠牲者を出し、そのニュースは海外にも衝撃を与えた。我が国でもこの話題は大きくマスコミで取りあげられSNSにも目に付くようになる。そしてしばらくすると、Facebookのプロフィール写真がトリコロール(フランス国旗)仕様になっている人たちに目がついた。
個人的にはこのような動きに何の関心も抱いていないし、トリコロールを掲げる是非についても興味はわかない。ただ、ある人の意見が目に止まった時、
「それはダメでしょう」
という強烈な思いにとらわれてしまった。
残念ながら今になって情報ソースを特定することはできなくなってしまったが、プロフィール写真をトリコロールにしたことに対してあれこれ書いてくる人がいるが余計なお世話だ、というようなFacebookの投稿だった。
これを書いた人はつまり「自分の行為に対して批判をするな」と言っているわけである。
正直言って、こんなことを書く人がSNSを利用しているという事実が信じられない。こうした人はFacebookで実名投稿などするのは止めた方がいいだろう。近い将来に必ず痛い目に遭うからだ。そして「Facebookは最悪だ!」などとSNSを見当違いに「批判」するに違いない。そこにはSNSという世界の中で自分の意見を表明するという行為がどれほど危険かという自覚が全くないのだ。
過去も似たようなことを書いているので、こうした話題をうんぬんするのも何だか馬鹿らしくなってきた、そこで結論だけ書くが、
「何か意見を表明するという行為は、その行為に対して批判される危険が常にともなう」
ということである。
余計なお世話うんぬんと言っている人はおそらく、自分の行為が「100%正しい」と思い込んでいるに違いない。それゆえ「批判」などされるはずがないと感じるのだろう。だが冷静に考えると、世の中に「100%正しい」ことなど、そうはない。人はいずれ死ぬ、とかそんなレベルのものくらいではないだろうか。ましてや一個人の思い込みなど穴だらけで突っ込みどころ満載である。
万が一、「100%正しい」意見があったとしても、それを表明する「行為そのもの」に対して気にいらないと感じる人も世の中にはいる。「出る杭は打たれる」とはそういう意味のことわざなのだろう。
私はいちおう10年以上ブログを続けているが、ネットにおける人とのやりとりで実に嫌な経験をしていることもあり、こう見えて書く内容にはかなり慎重である。平たく言えば、読んだ人の9割が「そりゃ、そうだ」と感じるようなことしか書かないようにしているのである。
「コピペも出来ないのに年収1000万をもらっている会社員など産廃レベルである」
「モッシュやダイブは危険行為・迷惑行為であり、そんなことをする連中はクズである」
というような具合だ。原発問題とか安保といった「国を二分する」ような問題など扱わない。それゆえ、まともな批判などされたこともないし、まして「炎上」などありえない。それは仕事などでも同じスタンスである。
だから私が言われることといえば、
「あいつは『悪口』ばかり言う『嫌な奴』だ」
というような無意味な道徳論だけである。
繰り返すが私自身はトリコロールについて特に思うところはない。ただ、外に向けて何かを表明するのであれば1つや2つ「批判」めいたコメントが書き込まれることくらい念頭におくべきだろう。そんなことを望まないのであれば、SNSで実名や顔写真を出すということも極めて危ない行為と認識してもらえたらと願う。
個人的にはこのような動きに何の関心も抱いていないし、トリコロールを掲げる是非についても興味はわかない。ただ、ある人の意見が目に止まった時、
「それはダメでしょう」
という強烈な思いにとらわれてしまった。
残念ながら今になって情報ソースを特定することはできなくなってしまったが、プロフィール写真をトリコロールにしたことに対してあれこれ書いてくる人がいるが余計なお世話だ、というようなFacebookの投稿だった。
これを書いた人はつまり「自分の行為に対して批判をするな」と言っているわけである。
正直言って、こんなことを書く人がSNSを利用しているという事実が信じられない。こうした人はFacebookで実名投稿などするのは止めた方がいいだろう。近い将来に必ず痛い目に遭うからだ。そして「Facebookは最悪だ!」などとSNSを見当違いに「批判」するに違いない。そこにはSNSという世界の中で自分の意見を表明するという行為がどれほど危険かという自覚が全くないのだ。
過去も似たようなことを書いているので、こうした話題をうんぬんするのも何だか馬鹿らしくなってきた、そこで結論だけ書くが、
「何か意見を表明するという行為は、その行為に対して批判される危険が常にともなう」
ということである。
余計なお世話うんぬんと言っている人はおそらく、自分の行為が「100%正しい」と思い込んでいるに違いない。それゆえ「批判」などされるはずがないと感じるのだろう。だが冷静に考えると、世の中に「100%正しい」ことなど、そうはない。人はいずれ死ぬ、とかそんなレベルのものくらいではないだろうか。ましてや一個人の思い込みなど穴だらけで突っ込みどころ満載である。
万が一、「100%正しい」意見があったとしても、それを表明する「行為そのもの」に対して気にいらないと感じる人も世の中にはいる。「出る杭は打たれる」とはそういう意味のことわざなのだろう。
私はいちおう10年以上ブログを続けているが、ネットにおける人とのやりとりで実に嫌な経験をしていることもあり、こう見えて書く内容にはかなり慎重である。平たく言えば、読んだ人の9割が「そりゃ、そうだ」と感じるようなことしか書かないようにしているのである。
「コピペも出来ないのに年収1000万をもらっている会社員など産廃レベルである」
「モッシュやダイブは危険行為・迷惑行為であり、そんなことをする連中はクズである」
というような具合だ。原発問題とか安保といった「国を二分する」ような問題など扱わない。それゆえ、まともな批判などされたこともないし、まして「炎上」などありえない。それは仕事などでも同じスタンスである。
だから私が言われることといえば、
「あいつは『悪口』ばかり言う『嫌な奴』だ」
というような無意味な道徳論だけである。
繰り返すが私自身はトリコロールについて特に思うところはない。ただ、外に向けて何かを表明するのであれば1つや2つ「批判」めいたコメントが書き込まれることくらい念頭におくべきだろう。そんなことを望まないのであれば、SNSで実名や顔写真を出すということも極めて危ない行為と認識してもらえたらと願う。
橋下「大阪都構想」はどこまで本気だったのか
2015年5月20日 時事ニュース先日の日曜日におこなわれた大阪都構想の是非をめぐる住民投票は、0.77パーセントという僅差で否決という結果になった。正直いってほとんど関心をもっていなかったのだが、ギリギリで賛成される、というような予測が午後9時ごろ入ってきた時には「これは面白そう」とTwitterで投票速報を逐一確認し、橋下市長と松井知事の会見もリアルタイムで観てもいた。
これほど僅かな差しか開かなかったのに、誰が悪いとか原因だとか、と犯人探しのような「分析」が目につくのには閉口する。わからないものはわからないとしか言えないだろうし、それが本当の意味で誠実な態度だと思うのだが。
そんなことを言っている私自身はまさに野次馬である。ただ、野次馬なりに今回の件について頭に浮かんだことがあるので記してみたい。
それは、橋下市長がこの「大阪都構想」をどれくらい本気で実現させたいと思っていたのか、という疑問である。
まず、掲げていた都構想というものの具体的な中身が大阪府民へ十分に浸透していたのか、というのがある。都構想という言葉はずいぶん前から橋下さんがくり返し主張していた記憶があるが、内容についてあれこれ言われ出したのは住民説明会などをおこなってきた辺りからではないだろうか。私などは、首都機能を大阪へ持ってくるようなもの?と思っていたほどである。当方の不勉強さは措いておくとしても、住民投票で是非を問う内容としては熟慮する時間が足りなかったような気がする。
そして、これは結果論になるのかもしれないが、勝とうと思えば勝てたのではないか?という疑問である。見ての通り、投票率からすれば1パーセントにも満たない差での「敗北」である。もう少し戦略的に、などといったら失礼かもしれないが、勝つための方策を加えたらどうにかなったのではと思わずにはいられない。
そもそも大阪の将来を問う一大事について、自民党から共産党までが一丸となるまでに拒否され、堺市など周辺都市からも思いきり反対される状況でどこまで勝機が見出せるのか。それでも惜敗というところだったのだから、一つの政党なり市なりと妥協点を探って共闘すれば簡単に賛成多数の至ったのではないだろうか。
もちろん門外漢の戯言であるのだが、そんな疑念を強く抱いてしまったのはあの橋下市長の投票結果が出た直後の記者会見を観たからなのだろう。
記者会見の全文はこちら。
http://logmi.jp/59213
あのような極僅かな差での敗北であったのでどれほど苦しいコメントが飛び出すかと予測していたら、
<いやーこれは僕自身に対する批判もあるだろうし、やっぱりその僕自身の力不足ということになると思いますね。>
<今日もこういう舞台で、こういう住民投票の結果で辞めさせてもらうと言わせてもらうなんて、本当に納税者のみなさんには申し訳ないですけど、大変ありがたい、本当に幸せな7年半だったなと思います。>
<僕みたいな政治家が長くやる世の中は危険です。みんなから好かれる、敵がいない政治家が本来政治をやらなきゃいけないわけで、敵を作る政治家は本当にワンポイントリリーフで、求められている時期にだけ必要とされて、いらなくなれば交代と。>
未練のカケラも見られず、完全に彼の引退会見と化していた。しかし66.83%という高い投票率でこの結果を受けて・・・人間はこんなに割り切れるものなのか?と個人的には少なからず違和感を抱いたものである。
もしかしたら、どこかの時点で橋下市長は住民投票が否決されると確信したのではないのだろうか。むしろ賛成票があれほど伸びることの方が意外だったのかもしれない。そんな仮説を立ててみれば、あの清々しいまでに晴れやかな記者会見も筋が通っているようにも見えてくる。もう引退する立場からすれば、あれほど「最高の結果」も無いわけだから。
橋下市長が半年後の任期満了をもって政治家を引退する、という発言に対して安堵している人も少なくはない。橋下氏が大阪に混乱と停滞しかもたらさなかった、というような声も見たが、選挙の投票率の高さひとつ取ってみてもそれは大雑把な見方だろう。いわゆる「ハシズム」がもたらしたものの検証についてはこれから嫌でもせざるをえなくなるから、それを待ちたい。
ただ間違いないのは、民主党フィーバーが終わった後の国政のように、大阪府民の政治に対する関心もこれからはグッと低下するだろう。改革は宙ぶらりんとなり、手つかずになったものはそのまま残っていく。しかしそれは府民が選択したものだ・・・という理屈はいちおう成り立つ。 賛成票を投じた70万人近くの思いは果たしてどう結実されるのだろうか。
そして、これもたぶん確かだと思うが、Twitterで批判者をバカバカ罵倒していたことを含めて、あそこまで大阪にエネルギーを費やす人は将来出てこないだろう。そんな人が政治家を辞めて弁護士やタレントなどの個人的活動にエネルギーが向かってしまうのはなんだか惜しい気がしないでもない。
そういえば、かつて西川のりお氏が毎日新聞(2013年06月14日大阪朝刊)にて、
<橋下さんってなんでも物事をing(進行形)の状態にしてる。次から次へ包装紙破っては、中身を並べるだけなんです。ところが、市民府民はやってくれたように受け取る。最後まで見届けてない。この先、都構想も、市営交通の民営化も、全部ingで終わるでしょう。完全にやり遂げたことってこれまでもほとんどない。発信力でもってるんです。>
という指摘は現実のものになったといえる。
これほど僅かな差しか開かなかったのに、誰が悪いとか原因だとか、と犯人探しのような「分析」が目につくのには閉口する。わからないものはわからないとしか言えないだろうし、それが本当の意味で誠実な態度だと思うのだが。
そんなことを言っている私自身はまさに野次馬である。ただ、野次馬なりに今回の件について頭に浮かんだことがあるので記してみたい。
それは、橋下市長がこの「大阪都構想」をどれくらい本気で実現させたいと思っていたのか、という疑問である。
まず、掲げていた都構想というものの具体的な中身が大阪府民へ十分に浸透していたのか、というのがある。都構想という言葉はずいぶん前から橋下さんがくり返し主張していた記憶があるが、内容についてあれこれ言われ出したのは住民説明会などをおこなってきた辺りからではないだろうか。私などは、首都機能を大阪へ持ってくるようなもの?と思っていたほどである。当方の不勉強さは措いておくとしても、住民投票で是非を問う内容としては熟慮する時間が足りなかったような気がする。
そして、これは結果論になるのかもしれないが、勝とうと思えば勝てたのではないか?という疑問である。見ての通り、投票率からすれば1パーセントにも満たない差での「敗北」である。もう少し戦略的に、などといったら失礼かもしれないが、勝つための方策を加えたらどうにかなったのではと思わずにはいられない。
そもそも大阪の将来を問う一大事について、自民党から共産党までが一丸となるまでに拒否され、堺市など周辺都市からも思いきり反対される状況でどこまで勝機が見出せるのか。それでも惜敗というところだったのだから、一つの政党なり市なりと妥協点を探って共闘すれば簡単に賛成多数の至ったのではないだろうか。
もちろん門外漢の戯言であるのだが、そんな疑念を強く抱いてしまったのはあの橋下市長の投票結果が出た直後の記者会見を観たからなのだろう。
記者会見の全文はこちら。
http://logmi.jp/59213
あのような極僅かな差での敗北であったのでどれほど苦しいコメントが飛び出すかと予測していたら、
<いやーこれは僕自身に対する批判もあるだろうし、やっぱりその僕自身の力不足ということになると思いますね。>
<今日もこういう舞台で、こういう住民投票の結果で辞めさせてもらうと言わせてもらうなんて、本当に納税者のみなさんには申し訳ないですけど、大変ありがたい、本当に幸せな7年半だったなと思います。>
<僕みたいな政治家が長くやる世の中は危険です。みんなから好かれる、敵がいない政治家が本来政治をやらなきゃいけないわけで、敵を作る政治家は本当にワンポイントリリーフで、求められている時期にだけ必要とされて、いらなくなれば交代と。>
未練のカケラも見られず、完全に彼の引退会見と化していた。しかし66.83%という高い投票率でこの結果を受けて・・・人間はこんなに割り切れるものなのか?と個人的には少なからず違和感を抱いたものである。
もしかしたら、どこかの時点で橋下市長は住民投票が否決されると確信したのではないのだろうか。むしろ賛成票があれほど伸びることの方が意外だったのかもしれない。そんな仮説を立ててみれば、あの清々しいまでに晴れやかな記者会見も筋が通っているようにも見えてくる。もう引退する立場からすれば、あれほど「最高の結果」も無いわけだから。
橋下市長が半年後の任期満了をもって政治家を引退する、という発言に対して安堵している人も少なくはない。橋下氏が大阪に混乱と停滞しかもたらさなかった、というような声も見たが、選挙の投票率の高さひとつ取ってみてもそれは大雑把な見方だろう。いわゆる「ハシズム」がもたらしたものの検証についてはこれから嫌でもせざるをえなくなるから、それを待ちたい。
ただ間違いないのは、民主党フィーバーが終わった後の国政のように、大阪府民の政治に対する関心もこれからはグッと低下するだろう。改革は宙ぶらりんとなり、手つかずになったものはそのまま残っていく。しかしそれは府民が選択したものだ・・・という理屈はいちおう成り立つ。 賛成票を投じた70万人近くの思いは果たしてどう結実されるのだろうか。
そして、これもたぶん確かだと思うが、Twitterで批判者をバカバカ罵倒していたことを含めて、あそこまで大阪にエネルギーを費やす人は将来出てこないだろう。そんな人が政治家を辞めて弁護士やタレントなどの個人的活動にエネルギーが向かってしまうのはなんだか惜しい気がしないでもない。
そういえば、かつて西川のりお氏が毎日新聞(2013年06月14日大阪朝刊)にて、
<橋下さんってなんでも物事をing(進行形)の状態にしてる。次から次へ包装紙破っては、中身を並べるだけなんです。ところが、市民府民はやってくれたように受け取る。最後まで見届けてない。この先、都構想も、市営交通の民営化も、全部ingで終わるでしょう。完全にやり遂げたことってこれまでもほとんどない。発信力でもってるんです。>
という指摘は現実のものになったといえる。
サザンオールスターズの「謝罪」をめぐる一件について
2015年1月21日 時事ニュース去年の大晦日におこなわれたサザンオールスターズの「年越ライブ」におけるパフォーマンスが騒動を起こしている。事の発端は桑田佳祐の言動(紫綬褒章の扱い、天皇陛下らしき物真似、“ピースとハイライト”の歌詞など)が批判を浴び、所属事務所の「アミューズ」前では抗議行動が起こり、アミューズは「謝罪文」を出して桑田本人も自身のラジオ番組で「謝罪」をするまでに至った。
一連の流れを見て個人的に感じたことは、大きく分けて2つある。一つは、サザン側の対応がかなり無難だったのに対して、ネット上では「謝罪」についてかなりズレた意見を持った人をたくさん見かけたことである。
特に印象に残っているのが、今回の「謝罪」は「表現の自由」を侵すものだ、という危機感を抱いたものと、「謝罪」をするなんて「ロック」じゃない、というような「ロック」観に関するものだ。
いずれにしても、世間の感覚からはかなりかけ離れているといわざるを得ない。
まず、サザンの所属事務所であるアミューズが出した「謝罪文」(あくまでカッコつき)を確認してみよう。
<サザンオールスターズ年越ライブ2014に関するお詫び
いつもサザンオールスターズを応援いただき、誠にありがとうございます。
この度、2014年12月に横浜アリーナにて行われた、サザンオールスターズ年越ライブ2014「ひつじだよ!全員集合!」の一部内容について、お詫びとご説明を申し上げます。
このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。また昨年秋、桑田佳祐が、紫綬褒章を賜るという栄誉に浴することができましたことから、ファンの方々に多数お集まりいただけるライブの場をお借りして、紫綬褒章をお披露目させていただき、いつも応援して下さっている皆様への感謝の気持ちをお伝えする場面も作らせていただきました。その際、感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます。
また、紅白歌合戦に出演させて頂いた折のつけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません。
また、一昨年のライブで演出の為に使用されたデモなどのニュース映像の内容は、緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用したものです。
以上、ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません。
毎回、最高のライブを作るよう全力を尽くしておりますが、時として内容や運営に不備もあるかと思います。すべてのお客様にご満足いただき、楽しんでいただけるエンタテインメントを目指して、今後もメンバー、スタッフ一同、たゆまぬ努力をして参る所存です。
今後ともサザンオールスターズを何卒よろしくお願い申し上げます。
株式会社アミューズ>
いちおうタイトルに「お詫び」と書いてはいるが、本文の中に特定の対象(天皇陛下や安倍政権など)への謝罪など、どこにも述べられていないではないか。これは要するに「このたびは世間をお騒がせてすみませんでした」という「平謝り」の程度にすぎないし、これ以上深読みできる箇所もないだろう。
おそらくサザン側はそれなりの話題を集めることを見込んでパフォーマンスをおこなったが、予想外に否定的な反応が大きかったため、こうした「謝罪文」を出して事態の収拾をはかったというのが素直な推測の仕方ではないか。めまぐるしい音楽業界で30年以上も第一線で活躍している人だし、そこまでの計算高さは持っていて当然である(「才能」などというわけのわからない要因だけでここまで続けられるわけがないのだ)。
それなのに、こんな中身のない「謝罪文」を出したくらいで、
「ロックが権力に屈した!表現の自由の危機だ!」
などとわめく人たちは、かなりヤバいと思う。
勲章をポケットから取り出してオークションの真似をしたというのも、受賞が嬉しくて気分が高まって行き過ぎてしまった、という程度だろう。それ以上に何か深い魂胆などあるわけがない。そもそもの話、勲章に対して否定的な考えを持っているならば最初から受け取りを辞退していたに決まっている。
もっと一般的な話になるが、別に紫綬褒章でなくても、何かの記念で戴いた賞状やメダルなどを雑に扱われるのを見て気分が良くなる人間などいるのか?私は別に国粋主義者でもなんでもないけれど、いままで生きてきた経験からすれば、勲章を軽々しく扱って非難されるというのは「まあ、そう思う人も出てくるだろうね」という感覚である。たまたま勲章だったから話が大きくなっただけのことだろう。
「表現の自由」うんぬんのレベルでいえば、サザンおよび桑田の音楽に「明らかに危険!」というような、警察が飛んでくるほどの表現は出てこない。せいぜい、頭の固い人たちが顔をしかめる、といった程度のものである。肯定的な言い方をすれば、メジャーな立場にいながら微妙な領域できわどい挑戦をして少しずつ表現の枠を広げてきたというのが彼の仕事だったのではないか。というよりも、規制だらけな公共の電波などを舞台にするならばおのずとそのような限定的なことしかできないだろう。
ましてやサザンは、国営放送のNHKでパフォーマンスをしたのである。40%という異様な高視聴率の紅白歌合戦なのだから、不特定多数の聴衆がいるわけだ。場末の小さなライブハウスで名もなきミュージシャンがおこなったものとは次元は全く違う。表現などにまるで理解のない人たちから誹謗中傷などが出てきて当然だし、日本の音楽産業のど真ん中にいるバンドなのだから社会への影響は大きいと思われても仕方ないだろう。
これも一般的な話になるが、社会に出たからには言動に対してそれなりに責任がともなってくるのは不可避なことである。「アーティストだから」、「ロックだから」、「表現の自由だから」などといって開き直るような真似は許されるものではない。それはいつの時代でも同じことである。そう考えてみれば、あの程度の「謝罪」をしたことは別にそれほどおかしいこととは思えないのだが、そう考えない人も一定数は存在するようだ。
周囲の迷惑も考えずモッシュやダイブをする連中も同様だが、何かあれば「ロック」だの「表現の自由」だのと安易に口に出すクズに対しては、
「そんなこと言って何でも許されると思うなよ、クソガキ」
とだけは言っておきたい。別に私は挑発する意図で述べたつもりはない。ただ、自分の言動に対して責任が取れないというのは大人ではなく子どもだろう、と当たり前の指摘をしたかったまでだ。
それはともかく、メジャーな立場にいるサザンに対して、例えば3Dプリンターで女性器をかたどった「アート」を作って逮捕された「ろくでなし子」さんのような事例などと一緒くたにして「表現の自由」が語られているように感じる。しかし、逮捕とか起訴とかいった法に抵触する恐れがあるという話と比較してみれば、サザンの「謝罪」をめぐる一件は、「表現の自由」が侵される、といった次元からはだいぶ異なる。国家権力に対して批判的な視線を持つのは大事であるが、なんでもかんでも不信感を抱いてしまったらもうこの国で生きていけなくなるレベルになるだろう。だからヤバいと言っているのである。
最後に、「謝罪」をしたからサザンは「ロック」じゃない、とかいった意味不明で頭の痛くなるコメントの方についても触れてみたい。
ミュージシャンを「権力/反権力」だのと区分けするのはあまり妥当な気はしないが、日本で最も商業的に成功しているバンドの一つであるサザンは、そのような括りに入れるならば明らかに「権力」の側ではないか。そのサザンに対して反体制とか反権力とかを求める聴き手は、根本がズレているとしかいえない。
たぶんそういう人たちは、
「いや、俺(私)はサザンの音楽を聴いた時にロックを感じた。この魂の奥底を揺さぶられるような衝撃は間違いない。だから、サザンには謝罪などしてほしくなかった」
といった心境なのだろう。自分の中に確固とした(しかし実は客観的な根拠が一つもない)「ロック観」というものがあり、それにそぐわない言動はどうにも心情的に許すことができないのだ。
私も高校1年くらいはそんな時期(サザンに対してではない)があったから気持ちもわからないではない。露骨にいえば「信者」というような状態だが、そういう時期もある時点で終わりになった。自分が強烈に執着しているものが必ずしも世間でも受け入れられているわけではなく、それどころか非難や嘲笑の対象でもあると、雑誌などを読んでいるうちに気づかされたのである。
その時点では実に悲しく惨めな経験であったけれど、同時にそれは「社会」というものを知る一つのきっかけとなったのだから悪いことばかりでもない。いや、そもそも自分の独断や偏見を受け入れる余地などこの世界にはそれほどないということを自覚するのが「大人になる」ということだろう。
それゆえ、上のような独りよがりな価値観の人を見ると、
「ロックが反権力などという価値観は60年代までだろう?もうロックについて誰もが共有できる概念などないし(もともと無かったともいえる)、いまはロックにも介護保険や年金が話題になるような時代なんだ。いい加減に目を覚まして大人になれよ」
などと、足元をすくうようなことを言いたくなってくる。何よりも、そういう人たちはかつての自分の姿と重なって見えてくるからなのだ。
ロックやポップスといったものに一定の距離を置きながらも時々CDを買ったりライブを行ったりしているのだが、「大人になれなくなる」という点でこうした音楽は有害になるのかなあ、と悲しい気持ちになってくる今回の件であった。
一連の流れを見て個人的に感じたことは、大きく分けて2つある。一つは、サザン側の対応がかなり無難だったのに対して、ネット上では「謝罪」についてかなりズレた意見を持った人をたくさん見かけたことである。
特に印象に残っているのが、今回の「謝罪」は「表現の自由」を侵すものだ、という危機感を抱いたものと、「謝罪」をするなんて「ロック」じゃない、というような「ロック」観に関するものだ。
いずれにしても、世間の感覚からはかなりかけ離れているといわざるを得ない。
まず、サザンの所属事務所であるアミューズが出した「謝罪文」(あくまでカッコつき)を確認してみよう。
<サザンオールスターズ年越ライブ2014に関するお詫び
いつもサザンオールスターズを応援いただき、誠にありがとうございます。
この度、2014年12月に横浜アリーナにて行われた、サザンオールスターズ年越ライブ2014「ひつじだよ!全員集合!」の一部内容について、お詫びとご説明を申し上げます。
このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。また昨年秋、桑田佳祐が、紫綬褒章を賜るという栄誉に浴することができましたことから、ファンの方々に多数お集まりいただけるライブの場をお借りして、紫綬褒章をお披露目させていただき、いつも応援して下さっている皆様への感謝の気持ちをお伝えする場面も作らせていただきました。その際、感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます。
また、紅白歌合戦に出演させて頂いた折のつけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません。
また、一昨年のライブで演出の為に使用されたデモなどのニュース映像の内容は、緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用したものです。
以上、ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません。
毎回、最高のライブを作るよう全力を尽くしておりますが、時として内容や運営に不備もあるかと思います。すべてのお客様にご満足いただき、楽しんでいただけるエンタテインメントを目指して、今後もメンバー、スタッフ一同、たゆまぬ努力をして参る所存です。
今後ともサザンオールスターズを何卒よろしくお願い申し上げます。
株式会社アミューズ>
いちおうタイトルに「お詫び」と書いてはいるが、本文の中に特定の対象(天皇陛下や安倍政権など)への謝罪など、どこにも述べられていないではないか。これは要するに「このたびは世間をお騒がせてすみませんでした」という「平謝り」の程度にすぎないし、これ以上深読みできる箇所もないだろう。
おそらくサザン側はそれなりの話題を集めることを見込んでパフォーマンスをおこなったが、予想外に否定的な反応が大きかったため、こうした「謝罪文」を出して事態の収拾をはかったというのが素直な推測の仕方ではないか。めまぐるしい音楽業界で30年以上も第一線で活躍している人だし、そこまでの計算高さは持っていて当然である(「才能」などというわけのわからない要因だけでここまで続けられるわけがないのだ)。
それなのに、こんな中身のない「謝罪文」を出したくらいで、
「ロックが権力に屈した!表現の自由の危機だ!」
などとわめく人たちは、かなりヤバいと思う。
勲章をポケットから取り出してオークションの真似をしたというのも、受賞が嬉しくて気分が高まって行き過ぎてしまった、という程度だろう。それ以上に何か深い魂胆などあるわけがない。そもそもの話、勲章に対して否定的な考えを持っているならば最初から受け取りを辞退していたに決まっている。
もっと一般的な話になるが、別に紫綬褒章でなくても、何かの記念で戴いた賞状やメダルなどを雑に扱われるのを見て気分が良くなる人間などいるのか?私は別に国粋主義者でもなんでもないけれど、いままで生きてきた経験からすれば、勲章を軽々しく扱って非難されるというのは「まあ、そう思う人も出てくるだろうね」という感覚である。たまたま勲章だったから話が大きくなっただけのことだろう。
「表現の自由」うんぬんのレベルでいえば、サザンおよび桑田の音楽に「明らかに危険!」というような、警察が飛んでくるほどの表現は出てこない。せいぜい、頭の固い人たちが顔をしかめる、といった程度のものである。肯定的な言い方をすれば、メジャーな立場にいながら微妙な領域できわどい挑戦をして少しずつ表現の枠を広げてきたというのが彼の仕事だったのではないか。というよりも、規制だらけな公共の電波などを舞台にするならばおのずとそのような限定的なことしかできないだろう。
ましてやサザンは、国営放送のNHKでパフォーマンスをしたのである。40%という異様な高視聴率の紅白歌合戦なのだから、不特定多数の聴衆がいるわけだ。場末の小さなライブハウスで名もなきミュージシャンがおこなったものとは次元は全く違う。表現などにまるで理解のない人たちから誹謗中傷などが出てきて当然だし、日本の音楽産業のど真ん中にいるバンドなのだから社会への影響は大きいと思われても仕方ないだろう。
これも一般的な話になるが、社会に出たからには言動に対してそれなりに責任がともなってくるのは不可避なことである。「アーティストだから」、「ロックだから」、「表現の自由だから」などといって開き直るような真似は許されるものではない。それはいつの時代でも同じことである。そう考えてみれば、あの程度の「謝罪」をしたことは別にそれほどおかしいこととは思えないのだが、そう考えない人も一定数は存在するようだ。
周囲の迷惑も考えずモッシュやダイブをする連中も同様だが、何かあれば「ロック」だの「表現の自由」だのと安易に口に出すクズに対しては、
「そんなこと言って何でも許されると思うなよ、クソガキ」
とだけは言っておきたい。別に私は挑発する意図で述べたつもりはない。ただ、自分の言動に対して責任が取れないというのは大人ではなく子どもだろう、と当たり前の指摘をしたかったまでだ。
それはともかく、メジャーな立場にいるサザンに対して、例えば3Dプリンターで女性器をかたどった「アート」を作って逮捕された「ろくでなし子」さんのような事例などと一緒くたにして「表現の自由」が語られているように感じる。しかし、逮捕とか起訴とかいった法に抵触する恐れがあるという話と比較してみれば、サザンの「謝罪」をめぐる一件は、「表現の自由」が侵される、といった次元からはだいぶ異なる。国家権力に対して批判的な視線を持つのは大事であるが、なんでもかんでも不信感を抱いてしまったらもうこの国で生きていけなくなるレベルになるだろう。だからヤバいと言っているのである。
最後に、「謝罪」をしたからサザンは「ロック」じゃない、とかいった意味不明で頭の痛くなるコメントの方についても触れてみたい。
ミュージシャンを「権力/反権力」だのと区分けするのはあまり妥当な気はしないが、日本で最も商業的に成功しているバンドの一つであるサザンは、そのような括りに入れるならば明らかに「権力」の側ではないか。そのサザンに対して反体制とか反権力とかを求める聴き手は、根本がズレているとしかいえない。
たぶんそういう人たちは、
「いや、俺(私)はサザンの音楽を聴いた時にロックを感じた。この魂の奥底を揺さぶられるような衝撃は間違いない。だから、サザンには謝罪などしてほしくなかった」
といった心境なのだろう。自分の中に確固とした(しかし実は客観的な根拠が一つもない)「ロック観」というものがあり、それにそぐわない言動はどうにも心情的に許すことができないのだ。
私も高校1年くらいはそんな時期(サザンに対してではない)があったから気持ちもわからないではない。露骨にいえば「信者」というような状態だが、そういう時期もある時点で終わりになった。自分が強烈に執着しているものが必ずしも世間でも受け入れられているわけではなく、それどころか非難や嘲笑の対象でもあると、雑誌などを読んでいるうちに気づかされたのである。
その時点では実に悲しく惨めな経験であったけれど、同時にそれは「社会」というものを知る一つのきっかけとなったのだから悪いことばかりでもない。いや、そもそも自分の独断や偏見を受け入れる余地などこの世界にはそれほどないということを自覚するのが「大人になる」ということだろう。
それゆえ、上のような独りよがりな価値観の人を見ると、
「ロックが反権力などという価値観は60年代までだろう?もうロックについて誰もが共有できる概念などないし(もともと無かったともいえる)、いまはロックにも介護保険や年金が話題になるような時代なんだ。いい加減に目を覚まして大人になれよ」
などと、足元をすくうようなことを言いたくなってくる。何よりも、そういう人たちはかつての自分の姿と重なって見えてくるからなのだ。
ロックやポップスといったものに一定の距離を置きながらも時々CDを買ったりライブを行ったりしているのだが、「大人になれなくなる」という点でこうした音楽は有害になるのかなあ、と悲しい気持ちになってくる今回の件であった。
「アイス・バケツ・チャレンジ」を見てモヤモヤしている方へ
2014年8月22日 時事ニュース コメント (2)たしか最初は、孫正義さんが氷バケツをかぶった、という話をFacebookかTwitterあたりで見かけたと記憶している。それからALS(筋萎縮性側索硬化症)の支援うんぬんということを知り「アイス・バケツ・チャレンジ(Ice Bucket Challenge)」という名前にたどりついた。
アイス・バケツ・チャレンジとは、ソーシャル・メディアを通じて今年から広がっている慈善運動の一種だ。ウィキペディアに載っていたルールは以下の通りだ。
<バケツに入った氷水(アメリカのスポーツ界では氷水は祝福を意味しアイス・バケツ・チャレンジでは元気を与える意味がある)を頭からかけている様子を撮影し、それをフェイスブックやツイッターなどの交流サイトで公開する、あるいは100ドルをALS協会に寄付する、あるいはその両方を行うかを選択する。そして次にやってもらいたい人物を3人指名し、指名された人物は24時間以内にいずれかの方法を選択する。>
この動きはアメリカで始まったようで、それがプロスポーツ選手などに広まって影響が爆発した。それが日本にも飛び火し、孫正義、山中伸弥、田村淳、浜崎あゆみなど各界の有名人が氷水をかぶるパフォーマンスを公開し、動きは全国的なものになりつつある。そして、こういう動きに対しては賛否の意見もだんだんと激しくなってきているような気もする。
「確かに難病のALSを世間に認知させてASL協会に寄付金が集まるのは良いことに違いないけど、なんか釈然としないなあ」
とモヤモヤした気持ちになっている人も多いのではないだろうか。かくいう自分もそんな一人であった。そこで自分の気持ちを整理する意味を込めて、アイス・バケツ・チャレンジについて少々触れてみたい。
アイス・バケツ・チャレンジを問題にする場合、おそらくこんな反論が想定されるだろう。
(1)アイス・バケツ・チャレンジによってALSという難病について知らなかった人たちの理解を深めるきっかけとなった。それにケチをつけるのは許せない。
(2)アイス・バケツ・チャレンジによってALSを支援する団体に多額の寄付が集まっている。それにケチをつけるのは許せない。
(3)アイス・バケツ・チャレンジは、ASLで苦しんでいる人たちを支援しようという「純粋な動機」によって始まった。それにケチをつけるのは許せない。
このあたりではないかと思う。これらを検証していきたい。
そもそも大前提の話になるけれど、氷水をかぶるというパフォーマンスとALSとの間に繋がるものは、一切ない。このあたりが多くの方が混乱してしまう点だと思うので、ここははっきりさせておきたい。
そこでまず(1)ALSへの理解についてであるが、もし本当に「ALSを理解したい」というならば、この病気がどのように発症し、いかなる症状が出てくるのか、そういう知識を得なければいけないだろう。また、もっと本気になったらその関係の病棟に行き実際に患者の様子を見学する、または直接会って話を聞いてみる。それが本当に病気を理解するということだろう。
翻って、氷水をかぶる人たちの姿を見ることによってALSへの理解深まることなどあり得るだろうか。はっきりいって、それは未来永劫あり得ない。なぜなら、両者にはいかなる接点も無いのだから。
(2)、(3)については共通するところがあるので、まとめてみる。ALS協会に寄付金が集まるというのは誠に結構である。ASLで苦しんでいる人たちを見て行動を起こそうとした動機も別に個人的には否定する気持ちもない。
そこで、こちらからも質問させてほしい。
「寄付金が集まることや動機が純粋であることと、氷水をかぶるという行為が馬鹿げていることと、一体なんの関係があるだろうか?」
と。
アイス・バケツ・チャレンジの大きな問題はALSの支援という深刻な動機、そして氷水をかぶるというお祭り騒ぎのような行為という本来は全く合わない二つの要素が結びついた点であろう。
音楽の世界でもこういうことは多い。「チャリティ」と称してライブやコンサートを開いて寄付金を募るというアレである。代表的なイベントといえば80年代の「ライブ・エイド」や90年代の「アクト・アゲンスト・エイズ」といったものだろう。前者はアフリカ難民救済で後者はエイズの啓発という主旨だった。こうしたものに私は積極的に賛同したいと思わなかったが、昔は自分の根性が曲がっているからだと理由づけていた。しかし現在では音楽イベントとそうした政治的な主旨の相性が悪いと結論づけるようになった。どう考えても両者に結びつく要因が見出せないのだ。それゆえどんなに動機が立派であろうと、その運動が成功したら多額のお金が集まろうとも、私はこうしたものに参加する気が起きない。
だから、アイス・バケツ・チャレンジに対して釈然としないものを感じる人は、間違ってはいないはずだ。氷バケツとALSとは何の関係もないのだから。その点については自信を持ってほしい。両者はそれぞれ別個に考えるべきものなのである。
そうなると、次は氷バケツをかぶるという行為を単独で考える番だ。
これまで私は氷水を頭にかけるということはしたことがないし、おそらく死ぬまですることもないだろう。なぜならば、そんな行為をする時があるとすれば「罰」としてやるとしか思えないからだ。道で歩いて見かけることもないだろう。ALSうんぬんを切り離してみれば、こんな真似がどれほど馬鹿げているか身に沁みて感じるはずだ。しかもSNSでその模様を公開するとなっては・・・もう言葉にならない。
だからといって、別に私は「こんなバカな真似は止めろや!」と吠えるつもりもない。もはやアイス・バケツ・チャレンジは「お祭り」なのである。踊りたい人たちに止めろというのは野暮というものだ。氷水をかぶることの危険性うんぬんも話題に出てきているが、それは「自己責任」で処理せよと個人的には片付けておきたい。
私は有名人でもなんでもないから指名される心配もないだろうが、もし指名した人間がいたら「俺を殺す気か?」と言って先方との交流を絶つだろう。また友人知人が氷水をかぶってショック死したとしても、こんな理由では線香一本立てる気持ちにもならない。おそらく陰で「バーカ」と言って終わりだと思う。
アイス・バケツ・チャレンジについての私自身の見解はこんなところである。
アイス・バケツ・チャレンジとは、ソーシャル・メディアを通じて今年から広がっている慈善運動の一種だ。ウィキペディアに載っていたルールは以下の通りだ。
<バケツに入った氷水(アメリカのスポーツ界では氷水は祝福を意味しアイス・バケツ・チャレンジでは元気を与える意味がある)を頭からかけている様子を撮影し、それをフェイスブックやツイッターなどの交流サイトで公開する、あるいは100ドルをALS協会に寄付する、あるいはその両方を行うかを選択する。そして次にやってもらいたい人物を3人指名し、指名された人物は24時間以内にいずれかの方法を選択する。>
この動きはアメリカで始まったようで、それがプロスポーツ選手などに広まって影響が爆発した。それが日本にも飛び火し、孫正義、山中伸弥、田村淳、浜崎あゆみなど各界の有名人が氷水をかぶるパフォーマンスを公開し、動きは全国的なものになりつつある。そして、こういう動きに対しては賛否の意見もだんだんと激しくなってきているような気もする。
「確かに難病のALSを世間に認知させてASL協会に寄付金が集まるのは良いことに違いないけど、なんか釈然としないなあ」
とモヤモヤした気持ちになっている人も多いのではないだろうか。かくいう自分もそんな一人であった。そこで自分の気持ちを整理する意味を込めて、アイス・バケツ・チャレンジについて少々触れてみたい。
アイス・バケツ・チャレンジを問題にする場合、おそらくこんな反論が想定されるだろう。
(1)アイス・バケツ・チャレンジによってALSという難病について知らなかった人たちの理解を深めるきっかけとなった。それにケチをつけるのは許せない。
(2)アイス・バケツ・チャレンジによってALSを支援する団体に多額の寄付が集まっている。それにケチをつけるのは許せない。
(3)アイス・バケツ・チャレンジは、ASLで苦しんでいる人たちを支援しようという「純粋な動機」によって始まった。それにケチをつけるのは許せない。
このあたりではないかと思う。これらを検証していきたい。
そもそも大前提の話になるけれど、氷水をかぶるというパフォーマンスとALSとの間に繋がるものは、一切ない。このあたりが多くの方が混乱してしまう点だと思うので、ここははっきりさせておきたい。
そこでまず(1)ALSへの理解についてであるが、もし本当に「ALSを理解したい」というならば、この病気がどのように発症し、いかなる症状が出てくるのか、そういう知識を得なければいけないだろう。また、もっと本気になったらその関係の病棟に行き実際に患者の様子を見学する、または直接会って話を聞いてみる。それが本当に病気を理解するということだろう。
翻って、氷水をかぶる人たちの姿を見ることによってALSへの理解深まることなどあり得るだろうか。はっきりいって、それは未来永劫あり得ない。なぜなら、両者にはいかなる接点も無いのだから。
(2)、(3)については共通するところがあるので、まとめてみる。ALS協会に寄付金が集まるというのは誠に結構である。ASLで苦しんでいる人たちを見て行動を起こそうとした動機も別に個人的には否定する気持ちもない。
そこで、こちらからも質問させてほしい。
「寄付金が集まることや動機が純粋であることと、氷水をかぶるという行為が馬鹿げていることと、一体なんの関係があるだろうか?」
と。
アイス・バケツ・チャレンジの大きな問題はALSの支援という深刻な動機、そして氷水をかぶるというお祭り騒ぎのような行為という本来は全く合わない二つの要素が結びついた点であろう。
音楽の世界でもこういうことは多い。「チャリティ」と称してライブやコンサートを開いて寄付金を募るというアレである。代表的なイベントといえば80年代の「ライブ・エイド」や90年代の「アクト・アゲンスト・エイズ」といったものだろう。前者はアフリカ難民救済で後者はエイズの啓発という主旨だった。こうしたものに私は積極的に賛同したいと思わなかったが、昔は自分の根性が曲がっているからだと理由づけていた。しかし現在では音楽イベントとそうした政治的な主旨の相性が悪いと結論づけるようになった。どう考えても両者に結びつく要因が見出せないのだ。それゆえどんなに動機が立派であろうと、その運動が成功したら多額のお金が集まろうとも、私はこうしたものに参加する気が起きない。
だから、アイス・バケツ・チャレンジに対して釈然としないものを感じる人は、間違ってはいないはずだ。氷バケツとALSとは何の関係もないのだから。その点については自信を持ってほしい。両者はそれぞれ別個に考えるべきものなのである。
そうなると、次は氷バケツをかぶるという行為を単独で考える番だ。
これまで私は氷水を頭にかけるということはしたことがないし、おそらく死ぬまですることもないだろう。なぜならば、そんな行為をする時があるとすれば「罰」としてやるとしか思えないからだ。道で歩いて見かけることもないだろう。ALSうんぬんを切り離してみれば、こんな真似がどれほど馬鹿げているか身に沁みて感じるはずだ。しかもSNSでその模様を公開するとなっては・・・もう言葉にならない。
だからといって、別に私は「こんなバカな真似は止めろや!」と吠えるつもりもない。もはやアイス・バケツ・チャレンジは「お祭り」なのである。踊りたい人たちに止めろというのは野暮というものだ。氷水をかぶることの危険性うんぬんも話題に出てきているが、それは「自己責任」で処理せよと個人的には片付けておきたい。
私は有名人でもなんでもないから指名される心配もないだろうが、もし指名した人間がいたら「俺を殺す気か?」と言って先方との交流を絶つだろう。また友人知人が氷水をかぶってショック死したとしても、こんな理由では線香一本立てる気持ちにもならない。おそらく陰で「バーカ」と言って終わりだと思う。
アイス・バケツ・チャレンジについての私自身の見解はこんなところである。
そりゃあ、生きるのは大事なのに間違いはないけど
2014年8月7日 時事ニュース
理化学研究所の笹井芳樹副センター長の自殺は世間に少なからぬショックを与えたようだ。自殺の報道があった日に、
「なにがあっても、死んだらあかんやろ」
というようなコメントをSNSで散見したからである。
確かに命が続く限り生きていくのは大事である。自らそれを絶つという行為は間違っている。それは基本的には誰もが同意する意見に違いない。
しかし、よく指摘していることだが、「絶対に正しい」意見は往々にして「面白くない」というか「役に立たない」という意味とイコールになることが多い。死のう死のうと思い悩む人に対して「生きることは大事だ」というような台詞を投げたところで、先方にとって一体どれほどの助けになるのだろうか。SNSの書き込みを見ていてそんな疑問が浮かんだのである。
「自殺」という言葉で私が真っ先に連想するものは、今からちょうど100年前の大正3(1914)年に朝日新聞で発表された夏目漱石の小説「こころ」に出てくる「先生」の言葉だ。
この小説には3人の自殺が取り上げられている。一人は先生、そして先生の友人である「K」、最後の一人は明治天皇崩御の直後に自決した軍人、乃木希典(のぎ・まれすけ)だ。この小説を取り上げる時は、先生とKとの関係が強調されるあまり乃木将軍については影が薄いような気がする。だが明治という一つの時代が終わった直後に出たこの作品では乃木将軍の殉死という出来事は非常に重要な役割を果たしている。
私が紹介したい箇所を載せる前に、乃木将軍がどんな人だったのかを前提知識として知ってもらわなければならない。そこで出口汪先生の「教科書では教えてくれない日本の名作」(09年。ソフトバンク新書)の一部を抜粋させていただく。
(本書は出口先生と女子高校生「あいか」との対話形式になっている)
<(あいか)乃木将軍って、どんな人?
乃木希典は、まじめで忠義一徹、陸軍大将にまで上り詰めた人だけど、実際には負け戦が多かったんだ。
明治十年の西南戦争、つまり西郷隆盛との戦いのとき、政府軍に加わって勝利を収めたのだけれど、乃木将軍自身は敗走して軍旗を敵に取られてしまう。痛恨の「軍旗喪失」だ。
そのとき、お詫びのために切腹をしようとしたのだが、その命を天皇のために捧げよと人に諭される。
でも、「軍旗喪失」以来、乃木は友人が「乃木はまるで自分から死に場所を求めて戦争をしているみたいだ」と言ったほど、異常な行動が続く。
その後、乃木将軍は何度も死にたいと思うことがあったんだが、その最たるものが日露戦争の旅順攻撃(明治三十七年)。結局勝利するのだが、まさに死屍累々(ししるいるい)といった戦だったんだ。ロシア軍の要塞から発射される機関銃に、日本兵は次々と撃ち殺される。乃木将軍は最高司令官として、肉弾戦しか思いつかない。自分の目の前で何万という兵隊がばたばたと殺されていく。味方の屍を踏み越えて、やがて日本軍は適地を占領するのだが、乃木将軍はその戦況をどのような思いで見つめていただろう。
(あいか)でも、戦争には勝ったのでしょ?
ああ、乃木将軍は凱旋(がいせん)将軍として迎えられる。この戦争が果たして実質的に勝利か否か、乃木将軍の取った作戦が是か非かは人によって評価が分かれるかもしれないが、少なくとも将軍自身は自分の無能のために数万の兵隊が命を失ったと思い込んでいたに違いない。
そして、戦死した兵隊の中には自分のたった二人の子どもも交じっていた。
乃木将軍は凱旋したのに、にこりともしない。当時、笑わない将軍とまでいわれたんだよ。
多くの死傷者を出して申し訳ないと、乃木将軍は帰国後、明治天皇に「この際、割腹して、その罪をお詫びしたい」と訴えた。明治天皇は「死ぬならこの私がこの世を去ってからにしなさい」と諭した。
まさに乃木将軍は明治天皇の言葉通りの死を迎えることになる。>(P.71-73)
少し長い引用になったかもしれないが、これを踏まえて小説から先生の遺書に書かれた一節を読んでいただきたい。
<西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那(いつせつな)が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。>
死のう死のうと悩みながら生きた35年間と、刀で切腹をしてから絶命するまでの間と果たしてどちらの方が苦しいのか。先生のこの問いかけは、年齢を重ねれば重ねるほど重くのしかかってくるような気がしてならない。
10代20代の頃は死ぬことなどほとんど頭になかったけれど、人生の折り返し地点を過ぎたあたりからは考えることも増えてきたようだ。望む/望まないに関わらず、私たちは死に向かって歩んでいる。そしてその道のりは平板なものでないであろうことも、多少なりとも考えて生きている人なら感じるはずだ。
別に私は自殺を選ぶような種類の人間ではないと思っているけれど、例えば遮断機の前で電車を通過するのを待っている時に、
「あー、ここでブチュといけば、生きる苦しみからスッと解放されるのかなあ・・・」
と思いが頭をよぎることも、無いわけではない。しかしそういう自分を踏みとどませているのは、この世でまだやり残していることがあるというか、未練のようなものがあるからだろう。
また、先ほども述べた通りだが、人生の半分が終わった身としては残された時間も有限であることを感じずにはいられない。せいぜい、10代20代の時とはまた違った生き方、もう少し時間を大切にして過ごしたいと願う。
フラフラした議論のように感じる方もいるかもしれないが、とにかく生きることが大事だ!などと直線的なことを言う気持ちにはなれないのである。生きることが大切だと強調したいなら、それこそ漱石のように、その対極にある死についても同じくらいの重さで考えないと深みのある話にならないだろう。
「こころ」の内容についてはほとんど触れられなかったが、さっきも書いたとおり今年は「こころ」が発表されてから100年が経つ。これを機会に作品にと言いたいが、原書を読むのが億劫な(私のような)人は出口先生の「教科書では教えてくれない日本の名作」が優れた解説であるので見ていただきたい。漱石のみならず芥川龍之介、川端康成、太宰治、などの作品も取り上げられていて、文学の魅力を辿るには絶好のものといえる。
「なにがあっても、死んだらあかんやろ」
というようなコメントをSNSで散見したからである。
確かに命が続く限り生きていくのは大事である。自らそれを絶つという行為は間違っている。それは基本的には誰もが同意する意見に違いない。
しかし、よく指摘していることだが、「絶対に正しい」意見は往々にして「面白くない」というか「役に立たない」という意味とイコールになることが多い。死のう死のうと思い悩む人に対して「生きることは大事だ」というような台詞を投げたところで、先方にとって一体どれほどの助けになるのだろうか。SNSの書き込みを見ていてそんな疑問が浮かんだのである。
「自殺」という言葉で私が真っ先に連想するものは、今からちょうど100年前の大正3(1914)年に朝日新聞で発表された夏目漱石の小説「こころ」に出てくる「先生」の言葉だ。
この小説には3人の自殺が取り上げられている。一人は先生、そして先生の友人である「K」、最後の一人は明治天皇崩御の直後に自決した軍人、乃木希典(のぎ・まれすけ)だ。この小説を取り上げる時は、先生とKとの関係が強調されるあまり乃木将軍については影が薄いような気がする。だが明治という一つの時代が終わった直後に出たこの作品では乃木将軍の殉死という出来事は非常に重要な役割を果たしている。
私が紹介したい箇所を載せる前に、乃木将軍がどんな人だったのかを前提知識として知ってもらわなければならない。そこで出口汪先生の「教科書では教えてくれない日本の名作」(09年。ソフトバンク新書)の一部を抜粋させていただく。
(本書は出口先生と女子高校生「あいか」との対話形式になっている)
<(あいか)乃木将軍って、どんな人?
乃木希典は、まじめで忠義一徹、陸軍大将にまで上り詰めた人だけど、実際には負け戦が多かったんだ。
明治十年の西南戦争、つまり西郷隆盛との戦いのとき、政府軍に加わって勝利を収めたのだけれど、乃木将軍自身は敗走して軍旗を敵に取られてしまう。痛恨の「軍旗喪失」だ。
そのとき、お詫びのために切腹をしようとしたのだが、その命を天皇のために捧げよと人に諭される。
でも、「軍旗喪失」以来、乃木は友人が「乃木はまるで自分から死に場所を求めて戦争をしているみたいだ」と言ったほど、異常な行動が続く。
その後、乃木将軍は何度も死にたいと思うことがあったんだが、その最たるものが日露戦争の旅順攻撃(明治三十七年)。結局勝利するのだが、まさに死屍累々(ししるいるい)といった戦だったんだ。ロシア軍の要塞から発射される機関銃に、日本兵は次々と撃ち殺される。乃木将軍は最高司令官として、肉弾戦しか思いつかない。自分の目の前で何万という兵隊がばたばたと殺されていく。味方の屍を踏み越えて、やがて日本軍は適地を占領するのだが、乃木将軍はその戦況をどのような思いで見つめていただろう。
(あいか)でも、戦争には勝ったのでしょ?
ああ、乃木将軍は凱旋(がいせん)将軍として迎えられる。この戦争が果たして実質的に勝利か否か、乃木将軍の取った作戦が是か非かは人によって評価が分かれるかもしれないが、少なくとも将軍自身は自分の無能のために数万の兵隊が命を失ったと思い込んでいたに違いない。
そして、戦死した兵隊の中には自分のたった二人の子どもも交じっていた。
乃木将軍は凱旋したのに、にこりともしない。当時、笑わない将軍とまでいわれたんだよ。
多くの死傷者を出して申し訳ないと、乃木将軍は帰国後、明治天皇に「この際、割腹して、その罪をお詫びしたい」と訴えた。明治天皇は「死ぬならこの私がこの世を去ってからにしなさい」と諭した。
まさに乃木将軍は明治天皇の言葉通りの死を迎えることになる。>(P.71-73)
少し長い引用になったかもしれないが、これを踏まえて小説から先生の遺書に書かれた一節を読んでいただきたい。
<西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那(いつせつな)が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。>
死のう死のうと悩みながら生きた35年間と、刀で切腹をしてから絶命するまでの間と果たしてどちらの方が苦しいのか。先生のこの問いかけは、年齢を重ねれば重ねるほど重くのしかかってくるような気がしてならない。
10代20代の頃は死ぬことなどほとんど頭になかったけれど、人生の折り返し地点を過ぎたあたりからは考えることも増えてきたようだ。望む/望まないに関わらず、私たちは死に向かって歩んでいる。そしてその道のりは平板なものでないであろうことも、多少なりとも考えて生きている人なら感じるはずだ。
別に私は自殺を選ぶような種類の人間ではないと思っているけれど、例えば遮断機の前で電車を通過するのを待っている時に、
「あー、ここでブチュといけば、生きる苦しみからスッと解放されるのかなあ・・・」
と思いが頭をよぎることも、無いわけではない。しかしそういう自分を踏みとどませているのは、この世でまだやり残していることがあるというか、未練のようなものがあるからだろう。
また、先ほども述べた通りだが、人生の半分が終わった身としては残された時間も有限であることを感じずにはいられない。せいぜい、10代20代の時とはまた違った生き方、もう少し時間を大切にして過ごしたいと願う。
フラフラした議論のように感じる方もいるかもしれないが、とにかく生きることが大事だ!などと直線的なことを言う気持ちにはなれないのである。生きることが大切だと強調したいなら、それこそ漱石のように、その対極にある死についても同じくらいの重さで考えないと深みのある話にならないだろう。
「こころ」の内容についてはほとんど触れられなかったが、さっきも書いたとおり今年は「こころ」が発表されてから100年が経つ。これを機会に作品にと言いたいが、原書を読むのが億劫な(私のような)人は出口先生の「教科書では教えてくれない日本の名作」が優れた解説であるので見ていただきたい。漱石のみならず芥川龍之介、川端康成、太宰治、などの作品も取り上げられていて、文学の魅力を辿るには絶好のものといえる。
野々村竜太郎議員は「15分間の名声」を手に入れたのか
2014年7月6日 時事ニュース7月2日の早朝、テレビから何かうめき声のようなものが突然聞こえてきて驚かされた。野々村竜太郎・兵庫県議会委員の記者会見である。
https://www.youtube.com/watch?v=kV28Nk0bQJY
Facebook上で誰かが、
「この国にはもう芸人いらないな」
とつぶやいていたのが印象的だったが、私も久しぶりにひっくり返ほど笑った映像である。まあ、「命(政治生命)をかけたパフォーマンス」と考えれば大半の芸人などとは比較にならないものが込められていたのかもしれない。
あまりにも衝撃の強い映像だったためか、YouTubeでの再生回数はとんでもない数になり、その波は国内のみならずイギリスやオーストラリア、ロシアなど海外メディアまで野々村議員の記者会見の模様を取り上げるまでに発展した。英タイムズ紙は、
「温泉スキャンダルでフルスロットルの謝罪」
と題してこの件を紹介していたという。もっともタイムズ紙のこれは誤報であり、会見の要約を読んだ限り野々村議員は実際の会見において謝罪どころか経費の具体的な説明も全くしていなかったようだが。
しかしながら、会見から数日たって少し冷めた視点で振り返ってみると、この一連の流れはなかなか恐ろしい光景に見えてくる。もはや政務活動費がどうとかいった本質的な問題など吹っ飛んでしまい、野々村議員の「パフォーマンス」だけが注目されているのだ。海外メディアにしても野々村議員そのものを取り上げる一方、彼に対するネット(2ちゃんなど)の反応を面白がっているフシもある。
とどのつまり、野々村議員の「パフォーマンス」が素材として面白かったという1点に尽きるのだろう。記者会見が取り上げられて以後、彼の言動を取り上げた「まとめサイト」のみならず、会見の音声を編集した作品までYouTubeやニコニコ動画に出現している。
私が気に入っているのは、ハードコア(?)の演奏に記者会見の音声を巧みに織り交ぜたこれである。
野々村竜太郎議員が叙情系ハードコアバンドに加入
https://www.youtube.com/watch?v=1Yg0EZOMWr4
「ログミー」というサイトには記者会見の文字起こしが載っているが、これも「作品」と言いたくなるものだ。文字化けする可能性もあるが引用してみる。
http://logmi.jp/16387
<※以下、野々村氏が取り乱して号泣しながら話しており、正確な聞き取りが困難なため、聞き取った言葉の表現は編集部の解釈に基づいております。あらかじめご了承ください。
野々村:大人の社会人として、こういうご指摘を真摯に受け止めて、私としては、実績に基づいて、適正……(聞き取り不明)諸実績に基づいて報告しておりますけれども、「議員」という大きな立場から見れば、やはりご指摘を真摯に受け止めて、どこかで折り合いをつけなければ、大人じゃないと思うんですよ! ですから、私はその議員という、本当にもう……小さな子どもが大好きで、本当に子どもが大好きなんで、ですから、もうそういう子ども達に申し訳なくて……。
こんな大人で、県民の皆さま、私も死ぬ思いで、もう死ぬ思いでもう、あれですわ。一生懸命、落選に落選を重ねて、見知らぬ西宮市に移り住んで、やっと県民の皆様に認められて選出された代表者たる議員であるからこそ、こうやって報道機関の皆さまにご指摘を受けるのが、本当にツラくって、情けなくって、子ども達に本当に申し訳ないんですわ。
ですから、……皆さんのご指摘を真摯に受け止めて、議員という大きな、ク、カテゴリーに比べたらア、政務調査費、セィッイッム活動費の、報告ノォォー、ウェエ、折り合いをつけるっていうー、ことで、もう一生懸命ほんとに、少子化問題、高齢ェェエエ者ッハアアアァアーー!! 高齢者問題はー! 我が県のみウワッハッハーーン!! 我が県のッハアーーーー! 我が県ノミナラズ! 西宮みんなの、日本中の問題じゃないですか!!
そういう問題ッヒョオッホーーー!! 解決ジダイガダメニ! 俺ハネェ! ブフッフンハアァア!! 誰がね゛え! 誰が誰に投票ジデモ゛オンナジヤ、オンナジヤ思っでえ!
ウーハッフッハーン!! ッウーン! ずっと投票してきたんですわ! せやけど! 変わらへんからーそれやったらワダヂが! 立候補して! 文字通り! アハハーンッ! 命がけでイェーヒッフア゛ーー!!! ……ッウ、ック。サトウ記者! あなたには分からないでしょうけどね! 平々凡々とした、川西(市役所)を退職して、本当に、「誰が投票しても一緒や、誰が投票しても」。じゃあ俺がああ!! 立候補して!!
この世の中を! ウグッブーン!! ゴノ、ゴノ世のブッヒィフエエエーーーーンン!! ヒィェーーッフウンン!! ウゥ……ウゥ……。ア゛ーーーーーア゛ッア゛ーー!!!! ゴノ! 世の! 中ガッハッハアン!! ア゛ーー世の中を! ゥ変エダイ! その一心でええ!! ィヒーフーッハゥ。一生懸命訴えて、西宮市に、縁もゆかりもない西宮ッヘエ市民の皆さまに、選出されて! やっと! 議員に!! なったんですううー!!!
ですから皆さまのご指摘を、県民の皆さまのご指摘と受け止めデーーヒィッフウ!! ア゛ーハーア゛ァッハアァーー! ッグ、ッグ、ア゛ーア゛ァアァアァ。ご指摘と受け止めて! ア゛ーア゛ーッハア゛ーーン! ご指摘と、受け止めて! 1人の大人として社会人として! 折り合いを付けましょうと! そういう意味合いで、自分としては、「何で、実績に基づいてキッチリ報告してんのに、何で自分を曲げないといかんのや」と思いながらも!
もっと大きな、目標ォ! すなわち! 本当に、少子高齢化を、自分の力で、議員1人のわずかな力ではありますけれども、解決したいと思っているからこそォォ!!
ご指摘の通り、平成26年度には195回行きました。301万円支出させていただきました。日帰りでございました! そのご指摘を真摯に真剣に受け止めようとするから! >
極東の島国の1地方でおこなわれた記者会観の映像が編集され、「作品」として生まれ変わり、無軌道で世界に拡散されて話題をふりまき、そして短期間のうちに忘れ去られていく・・という光景は改めて凄い時代だと感じる。
この流れを見て、ポップアートの巨匠だった今は亡きアンディ・ウォーホル(1928-1987)が残した、
<将来は誰でも15分間だけ有名人になれるだろう>(In the future, everyone will be world-famous for 15 minutes)
という言葉を思い出した。これはけっこう有名な言葉なようで 「fifteen minutes of fame」(15分間の名声)という派生語もできたという。ウォーホルの言葉自体は色々な解釈が可能だが、「15分間の名声」というのは賞をもらったり人命救助などの行為をしたため新聞やニュースで取り上げられるようなことを指す。
参照先はこちら
http://applecheese.blog58.fc2.com/blog-entry-230.html
ウォーホルの手法の一つに、マリリン・モンローやコカコーラといった世間で有名になっているヒトやモノを素材にしてそれを何度もくり返して複製するというものがある。昨今のニュースで話題になったものがネット上で「作品」になって拡散・消費されていくという流れは、ウォーホルに通じるものがあるように感じる。現在の光景を彼が見たら何を思うのだろうか。そんなことも考えてしまった。
野々村議員も、見方を変えれば、「15分間の名声」を手に入れたのかもしれない。だがウォーホルが生きていた時代と現代とでは恐ろしい違いがある。野々村議員
の言動や記者会見の映像、そしてそこから出てきた「作品」の一群は消えることなくネット上を漂い続けるわけだ。
数年経ってからもたとえば街中で、
「あ!あんた。あの時の・・・ちょっと、名前が出てこないけど、アレ!アレ!アレ!記者会見で号泣した人でしょ?ほらほらほら!」
と誰かに言われながら、持っているスマホからYouTubeで記者会見の動画を取り出して見せられる、というようなこともあり得るわけだ。現代における「有名になること」の代償は極めて大きいと言わざるを得ない。私は無駄なリスクは背負いたくない人間なので有名になろうとは夢に思わないし、これからもそうありたいと願う。
それはともかく、もはや野々村議員に関する件は本質が思い切りズレてしまった。そもそも政務活動費に不透明な部分があったということで開いた会見だったのに、彼の「パフォーマンス」の方が話題になってしまった。「政務活動費の責任を取れ」というのならまだ筋が通っているが、「会見の姿が恥ずかしかった」から「議員を辞職しろ」、というのはあまりに惨めではないか。
個人的にはここまで笑わせてもらい、かつ、実害らしきものを受けていない立場からすれば、政務活動費を返して謝罪すればもう一回くらいチャンスを与えてもいいのでは?という思いである(彼が京都府議会議員だったらこうは言ってなかったと思う)。露骨な言い方をすれば、誘拐や殺人を犯したとしてもここまでの報道はされない。サッチー問題(例えが古くて申し訳ありません)でもこれほどまでにはならなったのはネット以前の時代だったからだろう。
今はただ、現在の野々村議員が街中を歩ける状態にあるのかなあ、と他人事ながらそんなことを気にしている次第である。
https://www.youtube.com/watch?v=kV28Nk0bQJY
Facebook上で誰かが、
「この国にはもう芸人いらないな」
とつぶやいていたのが印象的だったが、私も久しぶりにひっくり返ほど笑った映像である。まあ、「命(政治生命)をかけたパフォーマンス」と考えれば大半の芸人などとは比較にならないものが込められていたのかもしれない。
あまりにも衝撃の強い映像だったためか、YouTubeでの再生回数はとんでもない数になり、その波は国内のみならずイギリスやオーストラリア、ロシアなど海外メディアまで野々村議員の記者会見の模様を取り上げるまでに発展した。英タイムズ紙は、
「温泉スキャンダルでフルスロットルの謝罪」
と題してこの件を紹介していたという。もっともタイムズ紙のこれは誤報であり、会見の要約を読んだ限り野々村議員は実際の会見において謝罪どころか経費の具体的な説明も全くしていなかったようだが。
しかしながら、会見から数日たって少し冷めた視点で振り返ってみると、この一連の流れはなかなか恐ろしい光景に見えてくる。もはや政務活動費がどうとかいった本質的な問題など吹っ飛んでしまい、野々村議員の「パフォーマンス」だけが注目されているのだ。海外メディアにしても野々村議員そのものを取り上げる一方、彼に対するネット(2ちゃんなど)の反応を面白がっているフシもある。
とどのつまり、野々村議員の「パフォーマンス」が素材として面白かったという1点に尽きるのだろう。記者会見が取り上げられて以後、彼の言動を取り上げた「まとめサイト」のみならず、会見の音声を編集した作品までYouTubeやニコニコ動画に出現している。
私が気に入っているのは、ハードコア(?)の演奏に記者会見の音声を巧みに織り交ぜたこれである。
野々村竜太郎議員が叙情系ハードコアバンドに加入
https://www.youtube.com/watch?v=1Yg0EZOMWr4
「ログミー」というサイトには記者会見の文字起こしが載っているが、これも「作品」と言いたくなるものだ。文字化けする可能性もあるが引用してみる。
http://logmi.jp/16387
<※以下、野々村氏が取り乱して号泣しながら話しており、正確な聞き取りが困難なため、聞き取った言葉の表現は編集部の解釈に基づいております。あらかじめご了承ください。
野々村:大人の社会人として、こういうご指摘を真摯に受け止めて、私としては、実績に基づいて、適正……(聞き取り不明)諸実績に基づいて報告しておりますけれども、「議員」という大きな立場から見れば、やはりご指摘を真摯に受け止めて、どこかで折り合いをつけなければ、大人じゃないと思うんですよ! ですから、私はその議員という、本当にもう……小さな子どもが大好きで、本当に子どもが大好きなんで、ですから、もうそういう子ども達に申し訳なくて……。
こんな大人で、県民の皆さま、私も死ぬ思いで、もう死ぬ思いでもう、あれですわ。一生懸命、落選に落選を重ねて、見知らぬ西宮市に移り住んで、やっと県民の皆様に認められて選出された代表者たる議員であるからこそ、こうやって報道機関の皆さまにご指摘を受けるのが、本当にツラくって、情けなくって、子ども達に本当に申し訳ないんですわ。
ですから、……皆さんのご指摘を真摯に受け止めて、議員という大きな、ク、カテゴリーに比べたらア、政務調査費、セィッイッム活動費の、報告ノォォー、ウェエ、折り合いをつけるっていうー、ことで、もう一生懸命ほんとに、少子化問題、高齢ェェエエ者ッハアアアァアーー!! 高齢者問題はー! 我が県のみウワッハッハーーン!! 我が県のッハアーーーー! 我が県ノミナラズ! 西宮みんなの、日本中の問題じゃないですか!!
そういう問題ッヒョオッホーーー!! 解決ジダイガダメニ! 俺ハネェ! ブフッフンハアァア!! 誰がね゛え! 誰が誰に投票ジデモ゛オンナジヤ、オンナジヤ思っでえ!
ウーハッフッハーン!! ッウーン! ずっと投票してきたんですわ! せやけど! 変わらへんからーそれやったらワダヂが! 立候補して! 文字通り! アハハーンッ! 命がけでイェーヒッフア゛ーー!!! ……ッウ、ック。サトウ記者! あなたには分からないでしょうけどね! 平々凡々とした、川西(市役所)を退職して、本当に、「誰が投票しても一緒や、誰が投票しても」。じゃあ俺がああ!! 立候補して!!
この世の中を! ウグッブーン!! ゴノ、ゴノ世のブッヒィフエエエーーーーンン!! ヒィェーーッフウンン!! ウゥ……ウゥ……。ア゛ーーーーーア゛ッア゛ーー!!!! ゴノ! 世の! 中ガッハッハアン!! ア゛ーー世の中を! ゥ変エダイ! その一心でええ!! ィヒーフーッハゥ。一生懸命訴えて、西宮市に、縁もゆかりもない西宮ッヘエ市民の皆さまに、選出されて! やっと! 議員に!! なったんですううー!!!
ですから皆さまのご指摘を、県民の皆さまのご指摘と受け止めデーーヒィッフウ!! ア゛ーハーア゛ァッハアァーー! ッグ、ッグ、ア゛ーア゛ァアァアァ。ご指摘と受け止めて! ア゛ーア゛ーッハア゛ーーン! ご指摘と、受け止めて! 1人の大人として社会人として! 折り合いを付けましょうと! そういう意味合いで、自分としては、「何で、実績に基づいてキッチリ報告してんのに、何で自分を曲げないといかんのや」と思いながらも!
もっと大きな、目標ォ! すなわち! 本当に、少子高齢化を、自分の力で、議員1人のわずかな力ではありますけれども、解決したいと思っているからこそォォ!!
ご指摘の通り、平成26年度には195回行きました。301万円支出させていただきました。日帰りでございました! そのご指摘を真摯に真剣に受け止めようとするから! >
極東の島国の1地方でおこなわれた記者会観の映像が編集され、「作品」として生まれ変わり、無軌道で世界に拡散されて話題をふりまき、そして短期間のうちに忘れ去られていく・・という光景は改めて凄い時代だと感じる。
この流れを見て、ポップアートの巨匠だった今は亡きアンディ・ウォーホル(1928-1987)が残した、
<将来は誰でも15分間だけ有名人になれるだろう>(In the future, everyone will be world-famous for 15 minutes)
という言葉を思い出した。これはけっこう有名な言葉なようで 「fifteen minutes of fame」(15分間の名声)という派生語もできたという。ウォーホルの言葉自体は色々な解釈が可能だが、「15分間の名声」というのは賞をもらったり人命救助などの行為をしたため新聞やニュースで取り上げられるようなことを指す。
参照先はこちら
http://applecheese.blog58.fc2.com/blog-entry-230.html
ウォーホルの手法の一つに、マリリン・モンローやコカコーラといった世間で有名になっているヒトやモノを素材にしてそれを何度もくり返して複製するというものがある。昨今のニュースで話題になったものがネット上で「作品」になって拡散・消費されていくという流れは、ウォーホルに通じるものがあるように感じる。現在の光景を彼が見たら何を思うのだろうか。そんなことも考えてしまった。
野々村議員も、見方を変えれば、「15分間の名声」を手に入れたのかもしれない。だがウォーホルが生きていた時代と現代とでは恐ろしい違いがある。野々村議員
の言動や記者会見の映像、そしてそこから出てきた「作品」の一群は消えることなくネット上を漂い続けるわけだ。
数年経ってからもたとえば街中で、
「あ!あんた。あの時の・・・ちょっと、名前が出てこないけど、アレ!アレ!アレ!記者会見で号泣した人でしょ?ほらほらほら!」
と誰かに言われながら、持っているスマホからYouTubeで記者会見の動画を取り出して見せられる、というようなこともあり得るわけだ。現代における「有名になること」の代償は極めて大きいと言わざるを得ない。私は無駄なリスクは背負いたくない人間なので有名になろうとは夢に思わないし、これからもそうありたいと願う。
それはともかく、もはや野々村議員に関する件は本質が思い切りズレてしまった。そもそも政務活動費に不透明な部分があったということで開いた会見だったのに、彼の「パフォーマンス」の方が話題になってしまった。「政務活動費の責任を取れ」というのならまだ筋が通っているが、「会見の姿が恥ずかしかった」から「議員を辞職しろ」、というのはあまりに惨めではないか。
個人的にはここまで笑わせてもらい、かつ、実害らしきものを受けていない立場からすれば、政務活動費を返して謝罪すればもう一回くらいチャンスを与えてもいいのでは?という思いである(彼が京都府議会議員だったらこうは言ってなかったと思う)。露骨な言い方をすれば、誘拐や殺人を犯したとしてもここまでの報道はされない。サッチー問題(例えが古くて申し訳ありません)でもこれほどまでにはならなったのはネット以前の時代だったからだろう。
今はただ、現在の野々村議員が街中を歩ける状態にあるのかなあ、と他人事ながらそんなことを気にしている次第である。
自分の中にある残酷さに気づいた瞬間
2014年3月19日 時事ニュースFacebookで繋がっている方が、こんな記事を紹介していた。中国版「赤ちゃんポスト」を設置したらこんなことになったという話である。
中国「赤ちゃんポスト」運用停止、1か月半で260人超
AFP=時事 3月17日(月)16時19分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140317-00000037-jij_afp-int
1月下旬の開設から3月16日朝までに預けられた子どもの数は計263人にのぼったという。1日あたり5人という計算だ。
さらに、
<預けられた子ども全員に脳性まひやダウン症、先天性心疾患など何らかの病気があり、67%は1歳未満の乳児だった。>
という。お国柄が出ているという見方もできるかもしれないが、個人的には「無責任だ!」などと単純に怒る気にはなれない。自分がそんなことを言える立場の人間でもないと考えるからだ。
かつて友人がブログで、親戚に子どもができたものの障がいを持つ可能性がありそうでどうしようか話題になっている、というようなことを書いていた。彼自身は、産まない方がいい、という考えをブログで述べていたわけだが、それを読んだ人たちから「当然産むべきだ!」という非難のコメントがたくさん書かれた。産むべきではない、という意見は無かったような気がする。
この一連の流れを見ていた私はものすごく違和感を覚えた。私自身は、
「産まないに決まってるでしょ」
という考えしか頭になかったからである。
そしてその理由をしばらく考えた末に、
「俺って残酷な心の持ち主なんだな・・・」
ということに気づかされたのであった。自分ではもうちょっと人間味があふれていると勝手に思っていたから、心の奥底にこうした残酷性があることは少なからず衝撃を覚えたものである。
こういう問題が出てきた時は、
「どんな子であろうが産むべきだ。その子と運命を共にする。それが親の責任だ」
といったのが模範回答には違いない。しかし、障がいというのを割と身近に見てきたこともある身としては、どうにもそんなことは言えない。障がいを持った子を2人かかえた母親が自殺したという事件が実家の近所ではあった。責任とか運命とか一言で片付けるには、あまりにも現実というのは厳しすぎる。
人類の歴史をたどってみると、人間以外に対してはかなり無茶苦茶なことをしている。ミカンはもともと身に種が入ってるものだったが、食べやすくするためそれが無くなるように改良された。犬もペットとして飼いやすいように性格も優しく従順なものにされていった。こうした事例は数え切れないほどあるだろうが、共通するのは人間の利己主義である。それが人間自身にも向けられるというのは、あまり褒められた話でもないが、必然といえるかもしれない。
また現代は過剰なほど色々な情報が入ってくるためか、何事にも「リスク管理」という視点が出てしまう。こうした考え方を嫌う人も多いだろうが、進学、就職、結婚、出産などの人生の節目にある出来事は全てリスクが伴ってくるものだ。昨今は未婚とか少子化という問題が絶えず話題になるけれども、リスク管理という点で考えればそういう結果になるというしかない。わざわざリスクを抱えるようなことを最初から避けているわけだ。ある本に、理屈で考えていたら結婚などできない、というようなことが書かれていたが、まったくその通りだと思う。
当の私もリスクで物事を考えるクセがあるから、結婚はおろか自分の子どもが欲しいなどとは夢にも思わない。一番の理由は自分のような人間のDNAなど残したくないということだが、上のようなリスク回避という観点も同じくらい重要である。
現在の自分は、最初に挙げたような出産に関する問題について「産むべきではない」と言うことはない。が、「絶対に産むべきだ」とも言いきれない自分がここにいる。赤ちゃんポストの記事を読んで、そんなことを考えた次第である。
中国「赤ちゃんポスト」運用停止、1か月半で260人超
AFP=時事 3月17日(月)16時19分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140317-00000037-jij_afp-int
1月下旬の開設から3月16日朝までに預けられた子どもの数は計263人にのぼったという。1日あたり5人という計算だ。
さらに、
<預けられた子ども全員に脳性まひやダウン症、先天性心疾患など何らかの病気があり、67%は1歳未満の乳児だった。>
という。お国柄が出ているという見方もできるかもしれないが、個人的には「無責任だ!」などと単純に怒る気にはなれない。自分がそんなことを言える立場の人間でもないと考えるからだ。
かつて友人がブログで、親戚に子どもができたものの障がいを持つ可能性がありそうでどうしようか話題になっている、というようなことを書いていた。彼自身は、産まない方がいい、という考えをブログで述べていたわけだが、それを読んだ人たちから「当然産むべきだ!」という非難のコメントがたくさん書かれた。産むべきではない、という意見は無かったような気がする。
この一連の流れを見ていた私はものすごく違和感を覚えた。私自身は、
「産まないに決まってるでしょ」
という考えしか頭になかったからである。
そしてその理由をしばらく考えた末に、
「俺って残酷な心の持ち主なんだな・・・」
ということに気づかされたのであった。自分ではもうちょっと人間味があふれていると勝手に思っていたから、心の奥底にこうした残酷性があることは少なからず衝撃を覚えたものである。
こういう問題が出てきた時は、
「どんな子であろうが産むべきだ。その子と運命を共にする。それが親の責任だ」
といったのが模範回答には違いない。しかし、障がいというのを割と身近に見てきたこともある身としては、どうにもそんなことは言えない。障がいを持った子を2人かかえた母親が自殺したという事件が実家の近所ではあった。責任とか運命とか一言で片付けるには、あまりにも現実というのは厳しすぎる。
人類の歴史をたどってみると、人間以外に対してはかなり無茶苦茶なことをしている。ミカンはもともと身に種が入ってるものだったが、食べやすくするためそれが無くなるように改良された。犬もペットとして飼いやすいように性格も優しく従順なものにされていった。こうした事例は数え切れないほどあるだろうが、共通するのは人間の利己主義である。それが人間自身にも向けられるというのは、あまり褒められた話でもないが、必然といえるかもしれない。
また現代は過剰なほど色々な情報が入ってくるためか、何事にも「リスク管理」という視点が出てしまう。こうした考え方を嫌う人も多いだろうが、進学、就職、結婚、出産などの人生の節目にある出来事は全てリスクが伴ってくるものだ。昨今は未婚とか少子化という問題が絶えず話題になるけれども、リスク管理という点で考えればそういう結果になるというしかない。わざわざリスクを抱えるようなことを最初から避けているわけだ。ある本に、理屈で考えていたら結婚などできない、というようなことが書かれていたが、まったくその通りだと思う。
当の私もリスクで物事を考えるクセがあるから、結婚はおろか自分の子どもが欲しいなどとは夢にも思わない。一番の理由は自分のような人間のDNAなど残したくないということだが、上のようなリスク回避という観点も同じくらい重要である。
現在の自分は、最初に挙げたような出産に関する問題について「産むべきではない」と言うことはない。が、「絶対に産むべきだ」とも言いきれない自分がここにいる。赤ちゃんポストの記事を読んで、そんなことを考えた次第である。
ネットによる選挙運動の解禁を望む
2012年12月17日 時事ニュース衆議院選挙が終わった。
事前通りに民主党が歴史的大敗を喫し、自民公明が与党に復活することになった。結果だけ見れば劇的に見えるものの、世間の目は驚くほど冷静である。
例えば、自民党には肯定的と思われる読売新聞の今日の社説「自民党政権復帰 謙虚に実績積み信頼取り戻せ」ですら、
<熱気なき圧勝>
<いわば敵失に助けられた面が大きい>
と評している。
地デジ難民の私は昨夜、YahooのページからUSTREAMで選挙結果を中継を午後10時くらいから観ていた。そこに当選確実となった自民党の平沢勝栄氏が出演し、なぜこんな悪い時期に民主党が選挙をしたのか不思議だ、と感想を延べ今回の選挙を、
「民主党のオウンゴール(自殺点)」
と見事に一言でまとめていた。多くの人も同じように感じただろう。今回の結果は「自民党の大勝」ではなく「民主党の一人負け」である。
その証拠は「戦後最低」となった投票率(59.32%)である。前回(09年)の数字は69.28%と小選挙区と比例代表が導入された96年以降で最高だったことを比較すれば、いかに投票する人が減ってしまったかが明らかだ。私は期日前投票をしようかと最初は考えていたけれど、結局ズルズルと延ばして結局は当日午前中になってしまった。どうにも積極的に足を運ぶ気持ちになれなかったのだ。
そういう状況になると、組織票の強い自民や公明が相対的に強くなってしまうのは明白だ。そんな予想が事前に出ていたのも悪い要素になっただろう。何も変わらないとわかっているのにわざわざ自分の時間を費やして投票しよう、という人などそうそういるものではない。
それにしても、Twitterなどで自民党や維新の会に否定的な人たちが、こんなの民意を反映してない、とか、国民の民度が低い、とか平気でつぶやいているのはあまりにも見苦しい。そんなこと言ったって結果が変わるはずもないし、不用意な発言は思いがけないところから反感を買う危険性もあることに気づかないのだろうか。まあ、私が心配する立場でもないけどね。
私は特に支持したい政党もないし、既得権も無いから自民党政権が復活したからといって良い思いができるわけでもない。そういう意味では今回の結果には失望というよりも無力感が大きい気がする。ただ、この低すぎる投票率はかなり気になった。選挙結果そのものよりもむしろこっちの方を注目していたくらいである。そして予想以上の数字の低さを知り、これはなんとかしないとなあ、と感じてしまった。
選挙期間中は、日頃は割と静かな寺之内周辺も選挙カーが通ったり、タスキをつけた候補者が自転車でグルグル回る姿も見かけた。21世紀に入ってずいぶん時間も経ったはずだが、選挙に関わる風景というのはあまり変わっていないようだ。しかし、それは世の流れに選挙が乗っていないというような問題ばかりでもない。国が意図的にしているところも多分にある。
mixiで毎日新聞(2012年12月4日19時40分配信)の「<橋下氏>公示後にツイッター 未来の党の原発政策を批判」という記事で、
<公選法は選挙期間中、法定ビラやポスター以外の「文書図画」の頒布や掲示を禁止。総務省選挙課によると、ツイッターなどネットを使った発信は文書頒布とみなされ、特定の政党を支持・反対する内容も同法に抵触する恐れがある。>
という説明があった。選挙期間になると候補者は一斉に公式サイトのブログの更新を自粛する。選挙違反になってしまう可能性があるからだ。細かいことはわからないけれど、例えば候補者がSNSでアクセス履歴を残すこと(いわゆる「足あと」)も「戸別訪問」の行為にあたり禁止だという。インターネットが普及して15年以上にはなるだろうが、これはどういうことなのだろう。
確か選挙期間の初日、朝のラジオ番組「クロノス」にて「One Voice Canpaign」という運動が紹介されていた。
http://www.onevoice-campaign.jp/
「インターネット選挙運動解禁へ向けて」
と冒頭に掲げられている通り、2013年度の通常国会で公職選挙法を改正して、ネットによる選挙運動を実現させようという動きである。現行の法律ではそれが不可能だからだ。
TwitterやFacebookなどのSNSを使うことによって今まで政治に参加しなかった人たちも関心をもつようになり世の中が面白くなる、というようなポジティブなことを言う方もキャンペーンの賛同者の中には散見される。しかし、私はそこまで肯定的にはなれない。ネットもSNSも社会の縮図であって生身の人間が集まる場であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。
ただ、ネットを利用すれば政治運動でも以前ほどお金はかからなくできる可能性も出てくる。またさきほど言ったように、いままで政治に興味がなかった人も違った形で関わる余地もできるだろう。
結果として、これまで続いてきた三バン(地盤=後援会、看板=知名度、カバン=資金)頼りの「ドブ板選挙」も変わってくるのではないか。ネットを肯定するにせよ否定するにせよ、こうした光景を多くの人はもううんざりしているだろう。また、この不景気で資金頼りの選挙も辛くなる一方だ。経済的な負担も軽減はできるはずである。
そうした末に全ての既得権が崩壊し、国民1人1人が持っている投票権が平等の価値に落ち着いて行く。それが間接民主主義の究極の姿なのではないか。消費税とか社会福祉とかTPPとか憲法改正とか、この国で生きる人にとって大事なことはそれから議論したらいい。その前のスタートラインをまずきっちり整備してほしいと願う。
その結果としてたとえ自分の思いに反した道をこの国が歩ことになったとしても、厳粛に受け入れる覚悟は自分にはある。その思いがあっての今回の発言である。
事前通りに民主党が歴史的大敗を喫し、自民公明が与党に復活することになった。結果だけ見れば劇的に見えるものの、世間の目は驚くほど冷静である。
例えば、自民党には肯定的と思われる読売新聞の今日の社説「自民党政権復帰 謙虚に実績積み信頼取り戻せ」ですら、
<熱気なき圧勝>
<いわば敵失に助けられた面が大きい>
と評している。
地デジ難民の私は昨夜、YahooのページからUSTREAMで選挙結果を中継を午後10時くらいから観ていた。そこに当選確実となった自民党の平沢勝栄氏が出演し、なぜこんな悪い時期に民主党が選挙をしたのか不思議だ、と感想を延べ今回の選挙を、
「民主党のオウンゴール(自殺点)」
と見事に一言でまとめていた。多くの人も同じように感じただろう。今回の結果は「自民党の大勝」ではなく「民主党の一人負け」である。
その証拠は「戦後最低」となった投票率(59.32%)である。前回(09年)の数字は69.28%と小選挙区と比例代表が導入された96年以降で最高だったことを比較すれば、いかに投票する人が減ってしまったかが明らかだ。私は期日前投票をしようかと最初は考えていたけれど、結局ズルズルと延ばして結局は当日午前中になってしまった。どうにも積極的に足を運ぶ気持ちになれなかったのだ。
そういう状況になると、組織票の強い自民や公明が相対的に強くなってしまうのは明白だ。そんな予想が事前に出ていたのも悪い要素になっただろう。何も変わらないとわかっているのにわざわざ自分の時間を費やして投票しよう、という人などそうそういるものではない。
それにしても、Twitterなどで自民党や維新の会に否定的な人たちが、こんなの民意を反映してない、とか、国民の民度が低い、とか平気でつぶやいているのはあまりにも見苦しい。そんなこと言ったって結果が変わるはずもないし、不用意な発言は思いがけないところから反感を買う危険性もあることに気づかないのだろうか。まあ、私が心配する立場でもないけどね。
私は特に支持したい政党もないし、既得権も無いから自民党政権が復活したからといって良い思いができるわけでもない。そういう意味では今回の結果には失望というよりも無力感が大きい気がする。ただ、この低すぎる投票率はかなり気になった。選挙結果そのものよりもむしろこっちの方を注目していたくらいである。そして予想以上の数字の低さを知り、これはなんとかしないとなあ、と感じてしまった。
選挙期間中は、日頃は割と静かな寺之内周辺も選挙カーが通ったり、タスキをつけた候補者が自転車でグルグル回る姿も見かけた。21世紀に入ってずいぶん時間も経ったはずだが、選挙に関わる風景というのはあまり変わっていないようだ。しかし、それは世の流れに選挙が乗っていないというような問題ばかりでもない。国が意図的にしているところも多分にある。
mixiで毎日新聞(2012年12月4日19時40分配信)の「<橋下氏>公示後にツイッター 未来の党の原発政策を批判」という記事で、
<公選法は選挙期間中、法定ビラやポスター以外の「文書図画」の頒布や掲示を禁止。総務省選挙課によると、ツイッターなどネットを使った発信は文書頒布とみなされ、特定の政党を支持・反対する内容も同法に抵触する恐れがある。>
という説明があった。選挙期間になると候補者は一斉に公式サイトのブログの更新を自粛する。選挙違反になってしまう可能性があるからだ。細かいことはわからないけれど、例えば候補者がSNSでアクセス履歴を残すこと(いわゆる「足あと」)も「戸別訪問」の行為にあたり禁止だという。インターネットが普及して15年以上にはなるだろうが、これはどういうことなのだろう。
確か選挙期間の初日、朝のラジオ番組「クロノス」にて「One Voice Canpaign」という運動が紹介されていた。
http://www.onevoice-campaign.jp/
「インターネット選挙運動解禁へ向けて」
と冒頭に掲げられている通り、2013年度の通常国会で公職選挙法を改正して、ネットによる選挙運動を実現させようという動きである。現行の法律ではそれが不可能だからだ。
TwitterやFacebookなどのSNSを使うことによって今まで政治に参加しなかった人たちも関心をもつようになり世の中が面白くなる、というようなポジティブなことを言う方もキャンペーンの賛同者の中には散見される。しかし、私はそこまで肯定的にはなれない。ネットもSNSも社会の縮図であって生身の人間が集まる場であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。
ただ、ネットを利用すれば政治運動でも以前ほどお金はかからなくできる可能性も出てくる。またさきほど言ったように、いままで政治に興味がなかった人も違った形で関わる余地もできるだろう。
結果として、これまで続いてきた三バン(地盤=後援会、看板=知名度、カバン=資金)頼りの「ドブ板選挙」も変わってくるのではないか。ネットを肯定するにせよ否定するにせよ、こうした光景を多くの人はもううんざりしているだろう。また、この不景気で資金頼りの選挙も辛くなる一方だ。経済的な負担も軽減はできるはずである。
そうした末に全ての既得権が崩壊し、国民1人1人が持っている投票権が平等の価値に落ち着いて行く。それが間接民主主義の究極の姿なのではないか。消費税とか社会福祉とかTPPとか憲法改正とか、この国で生きる人にとって大事なことはそれから議論したらいい。その前のスタートラインをまずきっちり整備してほしいと願う。
その結果としてたとえ自分の思いに反した道をこの国が歩ことになったとしても、厳粛に受け入れる覚悟は自分にはある。その思いがあっての今回の発言である。
他人事とは思えなかった誤発注
2012年11月14日 時事ニュースまたしても旬の過ぎたような話題で恐縮だが、先日、京都教育大学での生協で起きたあの事件について書きたい。
詳しい経緯は以下のページなどに書いてあるが、
プリン4千個〝誤発注〟も ツイッター効果で完売 京都教育大生協
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121112/wlf12111216570011-n1.htm
いつもだったら20個しか発注しないプリンをパソコンの入力ミスで4000個が届いたという話である。通常の200倍というとんでもない数だ。
Twitterの投稿などでこの噂が広まりプリンはその日のうちにほぼ完売したというこの時代らしい美談となった。しかし同じような業務を担当してる自分としては、発注した人の心境はさぞかし辛かっただろう、と想像してしまう。私も発注ミスを何度となくしてしまい苦しんだ経験がある。、もし売り切れない大量のプリンが目の前に現れたら、涙目になって絶望するに違いない。しかも賞味期限があるわけだし・・・。
だがこの件に関して、あくまで誤発注する人間が悪い、発注先はいちいち数の確認なんてしない、など厳しい目をしている人はけっこういるようだ。ただ、これはどこかのスポーツ新聞の記事に載っていたことだが、プリン4000個というのは近畿全体の大学生協で1週間に販売される量より多いとかなんとか(出典が見つりませんでした。失礼)、それくらいのとんでもない数字である。
今回の件は、どこかの段階で「この注文は何かおかしい」と確認をする仕組みがなかったのがそもそも不幸の始まりだったと思う。そして、これに対して何か手を打たないと似たような事例がまた起きるだろう。
発注業務についていえば、こうしたミスとは常に隣り合わせである。勝手な想像をすれば、プリンの注文というのは生協全体にある膨大な商品の1つに過ぎない。何百もの商品の確認・発注をするうえで見間違いなど出てきて当然である。また、職員にしても発注業務だけしているだけでない。掃除とかレジとか商品整理とかの合間をぬってしているわけだ。そうした合間というかスケジュールでパソコンに入力をしている。そして、それをチェックするような相手もいないのだろう(そうでなければ、こんな間違いなどまず生じない)。
なんだお前はこんなアホな失敗をした奴を擁護するのか、と思われるだろう。確かに同情の気持ちもあるにはあるが、私が一番言いたいのは人間である限りこうしたミスは避けられないということだ。そういう事実を踏まえないでミスをした人間を責めたところで何の解決にもならないし人類の進歩もあり得ない。
発注業務というのは世間であまり上等な仕事という位置づけではないかもしれないが、それほど簡単な仕事でもないと経験した身からはいえる。膨大な数の商品の売れ行きを把握して短時間で発注を完了させるのは、全ての商品の流れが頭に入っていなければ不可能なのだ。
また、これは部外者には想像もつかない話だろうが、発注業務には「締め切り」がある。例えば午後3時までに発注しないと翌日にはメーカーから商品が届かないのだ。他の雑用をこなしながらその準備をしなければならないから、そんなに呑気にできる作業ではない。そういうわけでスムーズに発注ができるまでには1ヶ月とか2ヶ月とかどうしてもある程度の習熟期間が必要になってくる。当事者の責任を問う前にそのあたりの事実認識がしてもらいたいと願う。
当の私もこうした業務をするにあたり、商品の理解をして発注を期限まで済ませるようになるまで3ヶ月はかかった。そして発注する前にFAX用紙(私の職場はこれで注文をする)をザッと確認して送信するようにした。そういうチェックをすることにより誤発注はかなり少なくなってきた。が、月にゼロという境地にはなかなかいかない。ちょっと多めに注文してしまったとかという程度のことは結構ある。
世間がしている大きな誤解に、
「単純作業=間違いなど出るはずがない」
という思い込みがあるのではないか。しかし、100も200も作業をしていたらミスの1つくらい出る、と考える方が現実的だと思うのだが。
当事者がしっかりしていれば間違いなど起きるはずがない、などという人間の本質を無視した何の根拠もない精神論の下では大きなミスがまた現場から出てくる、という指摘だけはこういう機会にしておきたい。
人為ミスをゼロにはできない。しかし工夫によって減らすことはできる。
このくらいの考え方が妥当だと思うのだが、いかがだろう。
詳しい経緯は以下のページなどに書いてあるが、
プリン4千個〝誤発注〟も ツイッター効果で完売 京都教育大生協
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121112/wlf12111216570011-n1.htm
いつもだったら20個しか発注しないプリンをパソコンの入力ミスで4000個が届いたという話である。通常の200倍というとんでもない数だ。
Twitterの投稿などでこの噂が広まりプリンはその日のうちにほぼ完売したというこの時代らしい美談となった。しかし同じような業務を担当してる自分としては、発注した人の心境はさぞかし辛かっただろう、と想像してしまう。私も発注ミスを何度となくしてしまい苦しんだ経験がある。、もし売り切れない大量のプリンが目の前に現れたら、涙目になって絶望するに違いない。しかも賞味期限があるわけだし・・・。
だがこの件に関して、あくまで誤発注する人間が悪い、発注先はいちいち数の確認なんてしない、など厳しい目をしている人はけっこういるようだ。ただ、これはどこかのスポーツ新聞の記事に載っていたことだが、プリン4000個というのは近畿全体の大学生協で1週間に販売される量より多いとかなんとか(出典が見つりませんでした。失礼)、それくらいのとんでもない数字である。
今回の件は、どこかの段階で「この注文は何かおかしい」と確認をする仕組みがなかったのがそもそも不幸の始まりだったと思う。そして、これに対して何か手を打たないと似たような事例がまた起きるだろう。
発注業務についていえば、こうしたミスとは常に隣り合わせである。勝手な想像をすれば、プリンの注文というのは生協全体にある膨大な商品の1つに過ぎない。何百もの商品の確認・発注をするうえで見間違いなど出てきて当然である。また、職員にしても発注業務だけしているだけでない。掃除とかレジとか商品整理とかの合間をぬってしているわけだ。そうした合間というかスケジュールでパソコンに入力をしている。そして、それをチェックするような相手もいないのだろう(そうでなければ、こんな間違いなどまず生じない)。
なんだお前はこんなアホな失敗をした奴を擁護するのか、と思われるだろう。確かに同情の気持ちもあるにはあるが、私が一番言いたいのは人間である限りこうしたミスは避けられないということだ。そういう事実を踏まえないでミスをした人間を責めたところで何の解決にもならないし人類の進歩もあり得ない。
発注業務というのは世間であまり上等な仕事という位置づけではないかもしれないが、それほど簡単な仕事でもないと経験した身からはいえる。膨大な数の商品の売れ行きを把握して短時間で発注を完了させるのは、全ての商品の流れが頭に入っていなければ不可能なのだ。
また、これは部外者には想像もつかない話だろうが、発注業務には「締め切り」がある。例えば午後3時までに発注しないと翌日にはメーカーから商品が届かないのだ。他の雑用をこなしながらその準備をしなければならないから、そんなに呑気にできる作業ではない。そういうわけでスムーズに発注ができるまでには1ヶ月とか2ヶ月とかどうしてもある程度の習熟期間が必要になってくる。当事者の責任を問う前にそのあたりの事実認識がしてもらいたいと願う。
当の私もこうした業務をするにあたり、商品の理解をして発注を期限まで済ませるようになるまで3ヶ月はかかった。そして発注する前にFAX用紙(私の職場はこれで注文をする)をザッと確認して送信するようにした。そういうチェックをすることにより誤発注はかなり少なくなってきた。が、月にゼロという境地にはなかなかいかない。ちょっと多めに注文してしまったとかという程度のことは結構ある。
世間がしている大きな誤解に、
「単純作業=間違いなど出るはずがない」
という思い込みがあるのではないか。しかし、100も200も作業をしていたらミスの1つくらい出る、と考える方が現実的だと思うのだが。
当事者がしっかりしていれば間違いなど起きるはずがない、などという人間の本質を無視した何の根拠もない精神論の下では大きなミスがまた現場から出てくる、という指摘だけはこういう機会にしておきたい。
人為ミスをゼロにはできない。しかし工夫によって減らすことはできる。
このくらいの考え方が妥当だと思うのだが、いかがだろう。
脱法ドラッグって何なんだろう
2012年11月12日 時事ニュース11月12日12時55分配信の「時事通信」の記事に、脱法ハーブが原因とみられる死者が東京のホテルで出たというニュースがあった。
脱法ドラッグに関しては今日以外にも記憶に残っている話題が2つある。1つはどっかのバンドのメンバーが脱法ハーブを吸った原因で暴れて警察がやってきたという話。そしてもう1つは、神奈川県にて麻薬取締法違反で現行犯逮捕した女性を鑑定したら、コカインでなく脱法ドラッグだと判明し釈放されたというものである。
こういう話が続くと、いったい脱法ドラッグとか脱法ハーブって一体なんなの?という疑問が頭を渦巻いてきた。吸ったら死に至る可能性もある劇物となったらドラッグと何が違うのでは?と思ってしまうのだ。
さきほどウィキペディアを見たら、脱法ドラッグはこのように紹介されていた。
<脱法ドラッグ(だっぽうドラッグ)とは、違法でない、つまり法律に基づく取締りの対象になっていない薬物。麻薬と同様の効果を持つ物質を指す。合法ドラッグとも呼ばれる。>
麻薬と同じ役目を果たすにもかかわらず、持っていても逮捕されないというのが脱法ドラッグだ。しかし <違法な麻薬に比べて人体に対する危険性が高い場合もある> とも書かれていて、何を線引きにしているのかさっぱりわからない。
と思ったら「概説」のところで、
<対応する法律が無いため、所持や摂取、売買は禁止されていない。ただし人体摂取目的に販売した場合薬事法違反となる。>
と書いてあった。もし、法規制はされてないから売っても買っても罪にならないけれど、これを吸ったら気持ちよくなりますよ、などと宣伝して売ったら違法となるわけか。うーん、知れば知るほどわからない代物だ。
ただ、現時点では法整備がされてないというだけで、厚生労働省も東京都などの地方自治体も取締りを強化しているので、今後は大っぴらに使うことはできなくなるだろう。
しかし、違法/合法のスレスレを行くというのは面白いことなのだろう。また、こうしたものは悪いことにビジネスも生まれてくる。それを思うと、私はあの展覧会を思い出す。そう、本物の人体標本を展示していて世間に物議をかもしていたアレを・・・。
脱法ドラッグに関しては今日以外にも記憶に残っている話題が2つある。1つはどっかのバンドのメンバーが脱法ハーブを吸った原因で暴れて警察がやってきたという話。そしてもう1つは、神奈川県にて麻薬取締法違反で現行犯逮捕した女性を鑑定したら、コカインでなく脱法ドラッグだと判明し釈放されたというものである。
こういう話が続くと、いったい脱法ドラッグとか脱法ハーブって一体なんなの?という疑問が頭を渦巻いてきた。吸ったら死に至る可能性もある劇物となったらドラッグと何が違うのでは?と思ってしまうのだ。
さきほどウィキペディアを見たら、脱法ドラッグはこのように紹介されていた。
<脱法ドラッグ(だっぽうドラッグ)とは、違法でない、つまり法律に基づく取締りの対象になっていない薬物。麻薬と同様の効果を持つ物質を指す。合法ドラッグとも呼ばれる。>
麻薬と同じ役目を果たすにもかかわらず、持っていても逮捕されないというのが脱法ドラッグだ。しかし <違法な麻薬に比べて人体に対する危険性が高い場合もある> とも書かれていて、何を線引きにしているのかさっぱりわからない。
と思ったら「概説」のところで、
<対応する法律が無いため、所持や摂取、売買は禁止されていない。ただし人体摂取目的に販売した場合薬事法違反となる。>
と書いてあった。もし、法規制はされてないから売っても買っても罪にならないけれど、これを吸ったら気持ちよくなりますよ、などと宣伝して売ったら違法となるわけか。うーん、知れば知るほどわからない代物だ。
ただ、現時点では法整備がされてないというだけで、厚生労働省も東京都などの地方自治体も取締りを強化しているので、今後は大っぴらに使うことはできなくなるだろう。
しかし、違法/合法のスレスレを行くというのは面白いことなのだろう。また、こうしたものは悪いことにビジネスも生まれてくる。それを思うと、私はあの展覧会を思い出す。そう、本物の人体標本を展示していて世間に物議をかもしていたアレを・・・。
経済的尺度だけを考えれば、私たちはもう豊かになれない
2012年11月11日 時事ニュースもう古くなった話だが、先日のアメリカ大統領選では接戦の末に現職のオバマ氏が再選を果たした。もはや「アメリカ初の黒人大統領」という言葉も09年の当選からはずいぶん新鮮味を失っているし、個人的にも選挙についてあまり関心がなかった。
経済界の見る目も厳しい。この選挙結果を受けて株価は大きく値を下げた。オバマ氏の勝利に対して「NO」という反応を示したわけである。実際のところ、オバマ政権になってからもアメリカ経済は目に見えて改善されたわけではない。そういう不満は確かに大きいに違いない。だが、別の側面から見ると彼の功績は意外なところで出てきている。
音楽サイト「RO69」で「中村明美のニューヨーク通信」というのをTwitterで偶然見つけて読んだら興味深いことが書かれていた。
ボブ・ディラン「俺の言った通り!」にオバマ無事再選。同性結婚合法化、マリファナ合法化、アメリカに変化の兆し
http://ro69.jp/blog/nakamura/74789
この記事で中村さんはアメリカ社会に起きている変化を述べている。
<今回の選挙では、メリーランド州、メイン州、ワシントン州において、市民の投票によって同性結婚が合法化されたことも非常に大きなニュースで、ウィスコンシン州では、初めてゲイを公言する女性上院議員が誕生しました。またコロラド州、ワシントン州では、娯楽目的のマリファナがアメリカで初めて合法化されるなど、市民の意識の変化も表れています。>
同性婚もマリファナもたぶん私には縁のない話だし、同性愛や薬物を大っぴらにできるほど世間は大らかではないにしても、法的には認められる自治体ができたわけである。アメリカでこうしたインフラが整備されてきているのはオバマ政権から変わったことなのだろうなと感じる。それは彼自身がマイノリティ(少数派)の立場だから実現できたわけだ。マイノリティの居場所ができるということについては、当事者にとっては非常に有り難いことである。
ただ、こうした流れはアメリカだけでなく世界的な現象という気がする。我が国でも、国の借金が983兆円に達した、というニュースがこないだ報じられた。政権の経済政策に対する不満が大きいこともアメリカとあまり変わらない。
人口が減少を続けていけば税収も減るのは必然だ。となると、経済的に豊かになる方向へ日本社会は向かわない。社会保障も縮小されていくだろう。これはもはや政治だけでどうこうできる問題ではない。景気が悪い良くならないとブーブー文句を言っている人たちはまずその事実認識から始めないといけないのではないか。
経済的尺度だけを考えれば、私たちはもう豊かになれない。
上の世代も下の世代も、どうにもこの真実を見つめようとしていない気がする。「もっと他に価値観がないんですか?」と訊いても、芳しい返事はこない。
中村さんの記事を読んで、アメリカ社会は必ずしも悪くなっていないのではないか、と思った。ある部分では以前より確実に豊かになってはいる。そして、それは日本社会だって同じような流れにあるはずだ。
過去の価値観を引きずってばかりいては生きるのが非常に辛い時代である。私たちは色々な意味で「豊かになる」人生を目指していくべきではないか。今のアメリカを見てそんなことを考えた次第である。
経済界の見る目も厳しい。この選挙結果を受けて株価は大きく値を下げた。オバマ氏の勝利に対して「NO」という反応を示したわけである。実際のところ、オバマ政権になってからもアメリカ経済は目に見えて改善されたわけではない。そういう不満は確かに大きいに違いない。だが、別の側面から見ると彼の功績は意外なところで出てきている。
音楽サイト「RO69」で「中村明美のニューヨーク通信」というのをTwitterで偶然見つけて読んだら興味深いことが書かれていた。
ボブ・ディラン「俺の言った通り!」にオバマ無事再選。同性結婚合法化、マリファナ合法化、アメリカに変化の兆し
http://ro69.jp/blog/nakamura/74789
この記事で中村さんはアメリカ社会に起きている変化を述べている。
<今回の選挙では、メリーランド州、メイン州、ワシントン州において、市民の投票によって同性結婚が合法化されたことも非常に大きなニュースで、ウィスコンシン州では、初めてゲイを公言する女性上院議員が誕生しました。またコロラド州、ワシントン州では、娯楽目的のマリファナがアメリカで初めて合法化されるなど、市民の意識の変化も表れています。>
同性婚もマリファナもたぶん私には縁のない話だし、同性愛や薬物を大っぴらにできるほど世間は大らかではないにしても、法的には認められる自治体ができたわけである。アメリカでこうしたインフラが整備されてきているのはオバマ政権から変わったことなのだろうなと感じる。それは彼自身がマイノリティ(少数派)の立場だから実現できたわけだ。マイノリティの居場所ができるということについては、当事者にとっては非常に有り難いことである。
ただ、こうした流れはアメリカだけでなく世界的な現象という気がする。我が国でも、国の借金が983兆円に達した、というニュースがこないだ報じられた。政権の経済政策に対する不満が大きいこともアメリカとあまり変わらない。
人口が減少を続けていけば税収も減るのは必然だ。となると、経済的に豊かになる方向へ日本社会は向かわない。社会保障も縮小されていくだろう。これはもはや政治だけでどうこうできる問題ではない。景気が悪い良くならないとブーブー文句を言っている人たちはまずその事実認識から始めないといけないのではないか。
経済的尺度だけを考えれば、私たちはもう豊かになれない。
上の世代も下の世代も、どうにもこの真実を見つめようとしていない気がする。「もっと他に価値観がないんですか?」と訊いても、芳しい返事はこない。
中村さんの記事を読んで、アメリカ社会は必ずしも悪くなっていないのではないか、と思った。ある部分では以前より確実に豊かになってはいる。そして、それは日本社会だって同じような流れにあるはずだ。
過去の価値観を引きずってばかりいては生きるのが非常に辛い時代である。私たちは色々な意味で「豊かになる」人生を目指していくべきではないか。今のアメリカを見てそんなことを考えた次第である。
彼らは「神」のつもりか
2010年1月11日 時事ニュース1月7日、捕鯨反対のために過激な行動もとるアメリカの環境保護団体「シー・シェパード」の捕鯨抗議船「アディ・ギル号」と、南極海で調査捕鯨をしていた日本の監視船「第2昭南丸」が衝突した。第2昭南丸は航行不能となり乗組員の1人が肋骨を折るケガを負う。事件の事実関係はまだ明らかにはなっていないものの、シー・シェパードが捕鯨を妨害する行動をおこなってきた結果として起きた事件なのは間違いない。
mixiの日記では、「人種差別だ!」などと息巻く発言も出ているし、実際のところ鯨を食べない人たちの抱く心情と捕鯨反対運動との親和性は強いかもしれない。しかし、そういう観点での話はここでは横に置いておく。私が今日言いたいのは、クジラを食べることの是非と、増え続けるクジラをそのままにしておくことの是非は別問題ということである。
日垣隆さん(作家・ジャーナリスト)の対談集「常識はウソだらけ」(07年。WAC)に、日本の立場から捕鯨について国際会議で積極的な発言をしてきた小松正之さん(政策研究大学院大学教授、元・水産庁職員)とのクジラに関わる話が載っている。
それによると、現在の地球上にはマッコウクジラは200万頭、ミンククジラは100万頭ほども生息しているという。シロナガスクジラのように絶滅しかかった種類もいたけれど、現実は「これほど大きな数の集団を抱える野生生物は珍しく、クジラの資源は世界的に豊富」(P.150)である。
だからクジラを食べていいんだ、と言いたいところだが、ここで強調したいのはそこではない。重要なのは、もしそれだけの動物の集団が保護されて生き続けるとしたら果たして生態系にどのような影響を及ぼすか、ということだ。
少し考えればわかることだが、あの巨大な体を維持するために他の動物をそれなりに食べなければならない。実際クジラはとんでもなく大食いであり「1日に体重の4%もの量を食べる」(P.130)というのだから驚く。さきほど紹介したマッコウクジラの成長した雄の体重を50t(!)とすると、その4%は2t(2000kg)である。200万頭のマッコウクジラが毎日2トンの動物を食べたら1年間ではどれほどの量になるか・・・もう私の頭では想像もつかない。
地球上に60億ほどいる人間の立場からいえば、自分たちの食料確保のためには、これほどの生き物を食べるクジラが増え続けることを放置するわけにはいかないのではないだろうか。
繰り返すが私たち人間からすれば、クジラの数を適切に管理して海洋生物のバランスを保つというのが現実的なやり方だと思う。人間の立場でできることなど限られているのだから。そして最終的にはそれが環境保全にとってもプラスに働く可能性も高いだろう。少なくとも、ひたすらクジラだけ保護するというやり方よりは。
しかし、である。そのような人間的な考えを持たない人たちもいる。先のシー・シェパードもそうだし、環境保護とは少し違うけれど、妊娠中絶をする医師が中絶反対の過激派グループに射殺されたアメリカの事件も同じ構造である。目的のためには手段を選ばない姿勢はまさに「天誅を与える」という感じで、同じ人間の立場ですることではない。おそらく彼らは自分たちは「神」か何かのつもりでいるのだろう。
そうこうしているうちに1月8日、シー・シェパードがオランダ司法当局に、第2昭南丸の船長を乗組員を「海賊行為」と告訴したという話が飛び込んできた。訴訟といういかにも人間らしいやり方を持ってきた連中の行動には苦笑するけれど、彼らはまだ私たち日本人を人間と思ってくれていると解釈することもできるかもしれない。
いずれにせよ、私たちは「人間」の立場で主義主張することが重要だと思う。
mixiの日記では、「人種差別だ!」などと息巻く発言も出ているし、実際のところ鯨を食べない人たちの抱く心情と捕鯨反対運動との親和性は強いかもしれない。しかし、そういう観点での話はここでは横に置いておく。私が今日言いたいのは、クジラを食べることの是非と、増え続けるクジラをそのままにしておくことの是非は別問題ということである。
日垣隆さん(作家・ジャーナリスト)の対談集「常識はウソだらけ」(07年。WAC)に、日本の立場から捕鯨について国際会議で積極的な発言をしてきた小松正之さん(政策研究大学院大学教授、元・水産庁職員)とのクジラに関わる話が載っている。
それによると、現在の地球上にはマッコウクジラは200万頭、ミンククジラは100万頭ほども生息しているという。シロナガスクジラのように絶滅しかかった種類もいたけれど、現実は「これほど大きな数の集団を抱える野生生物は珍しく、クジラの資源は世界的に豊富」(P.150)である。
だからクジラを食べていいんだ、と言いたいところだが、ここで強調したいのはそこではない。重要なのは、もしそれだけの動物の集団が保護されて生き続けるとしたら果たして生態系にどのような影響を及ぼすか、ということだ。
少し考えればわかることだが、あの巨大な体を維持するために他の動物をそれなりに食べなければならない。実際クジラはとんでもなく大食いであり「1日に体重の4%もの量を食べる」(P.130)というのだから驚く。さきほど紹介したマッコウクジラの成長した雄の体重を50t(!)とすると、その4%は2t(2000kg)である。200万頭のマッコウクジラが毎日2トンの動物を食べたら1年間ではどれほどの量になるか・・・もう私の頭では想像もつかない。
地球上に60億ほどいる人間の立場からいえば、自分たちの食料確保のためには、これほどの生き物を食べるクジラが増え続けることを放置するわけにはいかないのではないだろうか。
日垣:「クジラを救え」と言っているうちに、クジラが増えすぎてほかの魚を大量に食べてしまう。クジラ以外の魚が激減してしまえば、クジラも人間も食べる魚がなくなって困ってしまいます。「クジラを救え」という運動が逆にクジラを絶滅へと向かわせてしまうというのは、とても皮肉な話です。(P.158)
繰り返すが私たち人間からすれば、クジラの数を適切に管理して海洋生物のバランスを保つというのが現実的なやり方だと思う。人間の立場でできることなど限られているのだから。そして最終的にはそれが環境保全にとってもプラスに働く可能性も高いだろう。少なくとも、ひたすらクジラだけ保護するというやり方よりは。
しかし、である。そのような人間的な考えを持たない人たちもいる。先のシー・シェパードもそうだし、環境保護とは少し違うけれど、妊娠中絶をする医師が中絶反対の過激派グループに射殺されたアメリカの事件も同じ構造である。目的のためには手段を選ばない姿勢はまさに「天誅を与える」という感じで、同じ人間の立場ですることではない。おそらく彼らは自分たちは「神」か何かのつもりでいるのだろう。
そうこうしているうちに1月8日、シー・シェパードがオランダ司法当局に、第2昭南丸の船長を乗組員を「海賊行為」と告訴したという話が飛び込んできた。訴訟といういかにも人間らしいやり方を持ってきた連中の行動には苦笑するけれど、彼らはまだ私たち日本人を人間と思ってくれていると解釈することもできるかもしれない。
いずれにせよ、私たちは「人間」の立場で主義主張することが重要だと思う。
今日の午前6時50分、成田空港で起きた貨物航空機の事故は衝撃的な映像だった。真っ二つに裂け黒焦げになった機体は無惨だったし、乗員2人も亡くなってしまう。また成田空港における航空機の死亡事故は開港した1978年以来はじめてのことだという。かなり深刻な事故だとテレビを見た瞬間に感じる。
しかしながら、この日のマスコミはそれほどこの事件に大きな関心をもっていたように思えない。WBCのアメリカ戦、陣内智則と藤原紀香の離婚届提出の方が扱いが大きかった。
亡くなった2人の方への哀悼の声も聞こえない。たとえば3月23日13時6分配信の時事通信の記事はこうだ。
<米貨物航空会社フェデックスは23日正午ごろ、氏家正道北太平洋地区担当副社長が成田空港内で会見を開いたが、「状況の詳細をまだ把握できていない」と繰り返し、約10分で打ち切られた。謝罪の言葉を求められても、「現時点では調査中で申し上げられない。情報が入り次第、会見を開いてお知らせする」と話した。>
謝罪うんぬんよりも亡くなった方に哀悼の意を述べるのがまず最初ではないか。麻生総理ほか官邸からもそのような発言は聞こえてこない。
フェデックス社にしても、
「事故により従業員が巻き込まれ、悲しい日となった。」(3月23日18時3分配信の時事通信より)
と、その後の会見では述べているものの少し遅い気がする。なんだかどこもかしこも冷淡な対応だ。
嫌なことを言ってしまうけれど、亡くなった方に日本人が含まれていたらこの程度の扱いでは済まなかったのではないだろうか。
しかしながら、この日のマスコミはそれほどこの事件に大きな関心をもっていたように思えない。WBCのアメリカ戦、陣内智則と藤原紀香の離婚届提出の方が扱いが大きかった。
亡くなった2人の方への哀悼の声も聞こえない。たとえば3月23日13時6分配信の時事通信の記事はこうだ。
<米貨物航空会社フェデックスは23日正午ごろ、氏家正道北太平洋地区担当副社長が成田空港内で会見を開いたが、「状況の詳細をまだ把握できていない」と繰り返し、約10分で打ち切られた。謝罪の言葉を求められても、「現時点では調査中で申し上げられない。情報が入り次第、会見を開いてお知らせする」と話した。>
謝罪うんぬんよりも亡くなった方に哀悼の意を述べるのがまず最初ではないか。麻生総理ほか官邸からもそのような発言は聞こえてこない。
フェデックス社にしても、
「事故により従業員が巻き込まれ、悲しい日となった。」(3月23日18時3分配信の時事通信より)
と、その後の会見では述べているものの少し遅い気がする。なんだかどこもかしこも冷淡な対応だ。
嫌なことを言ってしまうけれど、亡くなった方に日本人が含まれていたらこの程度の扱いでは済まなかったのではないだろうか。
オバマ氏の大統領演説を観て
2009年1月21日 時事ニュース今日は丸一日休んでいた。本当は出かけたかったところだが、午後からは雨の予報だったのでずっと部屋で過ごす。なんとなくテレビをつけていたら、オバマ氏の大統領就任演説が流れていた。会場に集まった聴衆はなんと200万人だという。その異様な熱狂ぶりを観て、つくづくアメリカ人は一枚岩だと恐ろしくなってきた。こういう国とは絶対に戦争をしてはいけない。
しかしながら、初の黒人大統領の誕生という歴史的瞬間でもあり、騒ぎが過剰になるのは仕方がない。その一方で、株価の下げ幅は大統領就任日で過去最悪を記録した。大領領が変わったところで、そう簡単にこの不況を脱することができないということか。この市場の判断は冷静といえる。
私もオバマの登場によってアメリカ経済が大きく上向くとは思えない。少なくとも、大量消費をしていた少し前のアメリカに戻ることはもう無いだろう。その恩恵を受けていた我が国も、そういう期待は抱かない方が賢明だ。
ただ、就任演説の中で、
〈なぜ男性も女性も子供たちも、どのような人種、宗教の人々も、こうして就任式に集まることができるのか。なぜ約60年前なら地元のレストランで給仕されなかった可能性のある男の息子が、こうして皆さんの前で宣誓式に臨むことができるのか。これこそが、我々の自由、我々の信条の意味なのだ。〉(毎日jp「オバマ大統領就任演説:全文(4止)新時代への責任を」09年1月21日より引用)
という部分がテレビで紹介されたのは少し心を動かされる。
今から約60年前のアメリカは人種差別が現在よりもさらに酷いものだった。そしてそんな状況をテーマにした曲を作ったミュージシャンもたくさんいる。ボブ・ディランが“風に吹かれて”(Blowin’ In the Wind)を歌い、それに刺激されてサム・クックが“ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム”(A Change Is Gonna Come)という曲を作ったのが1963年、今から45年以上前の話だ。
それ思えば、良いか悪いかはともかく、時代は間違いなく変わっている。
しかしながら、初の黒人大統領の誕生という歴史的瞬間でもあり、騒ぎが過剰になるのは仕方がない。その一方で、株価の下げ幅は大統領就任日で過去最悪を記録した。大領領が変わったところで、そう簡単にこの不況を脱することができないということか。この市場の判断は冷静といえる。
私もオバマの登場によってアメリカ経済が大きく上向くとは思えない。少なくとも、大量消費をしていた少し前のアメリカに戻ることはもう無いだろう。その恩恵を受けていた我が国も、そういう期待は抱かない方が賢明だ。
ただ、就任演説の中で、
〈なぜ男性も女性も子供たちも、どのような人種、宗教の人々も、こうして就任式に集まることができるのか。なぜ約60年前なら地元のレストランで給仕されなかった可能性のある男の息子が、こうして皆さんの前で宣誓式に臨むことができるのか。これこそが、我々の自由、我々の信条の意味なのだ。〉(毎日jp「オバマ大統領就任演説:全文(4止)新時代への責任を」09年1月21日より引用)
という部分がテレビで紹介されたのは少し心を動かされる。
今から約60年前のアメリカは人種差別が現在よりもさらに酷いものだった。そしてそんな状況をテーマにした曲を作ったミュージシャンもたくさんいる。ボブ・ディランが“風に吹かれて”(Blowin’ In the Wind)を歌い、それに刺激されてサム・クックが“ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム”(A Change Is Gonna Come)という曲を作ったのが1963年、今から45年以上前の話だ。
それ思えば、良いか悪いかはともかく、時代は間違いなく変わっている。