日記の流れを見れば明らかだが、ある日を境に更新を途絶えていた。原因は私の日記に関するコメントである。

〈貴方、確実に元いじめられっ子ですね!
しかもキツめの( ̄▽ ̄)
可哀想!〉

〈愚痴と言い訳ばかりの本人自身が、
実はプライドと被害妄想とコンプレックスの塊だったというオチ。〉

端から見れば、え?こんな匿名のコメントを気にしてるの?という感じなのだろう。しかし、しかし当事者の私はいわゆる「炎上」のような経験をしたこともないし、こういうものに対してどう反応していいのか正直わからなかった。

そもそもの話、アフィリエイトで稼ぐとか集客のために文章を書くとかいった目的もあるわけではない。要するにブログを書くモチベーションが下がっていた矢先にこういう経験をしたため長い休養期間となったわけだ。

その間、ライブを観た感想でも書こうとかいった気持ちになることは何度かあったけれど、自分の気持ちはどうも整理がつかず踏み切ることができなかった。また見知らぬ「名無しさん」にコメントが書かれたらどうするか、という問題が解決してなかったのだ。

そうして平成30年を迎えた今年のある日、自分のこの問いに関して実に簡潔に明快な答えを示したものをTwitterで見かけた。この4コマ漫画である。

「嫌う人へ」
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/tr.twipple.jp/ps/e4/81784c.amp.html%3Fusqp%3Dmq331AQECAEYAQ%253D%253D

匿名で批判とか誹謗中傷をしてくる「名無しさん」に対して以前から嫌悪感を抱いてきたが、この作品を何度も見ているうちに、そういう気持ちもほとんど消え失せてしまった。

愚かな人(しかも匿名)に愚かなことを言われたからといって、何を悲しんだり嘆いたりする必要があるのだろう。

こうした心境に導くきっかけを与えてくれた、漫画の作者スルメロックさんに謝意を表したい。



平日は派遣社員として働く一方、土日や祝日は某所でアルバイトをするという生活をしてもう4年が過ぎてしまった。派遣は時給労働でアルバイトは日給であり、どちらも仕事内容は単純労働に近くそれ自体は面白いものではない。ただ、あまりキツい業務でもなかったおかげでここまで続けられたのだと思う。某所に来る人たちは正社員や学生アルバイトなど入り混じって土日は20人前後が動員されている。そのために多くの人と接触するわけだが、良くも悪くも色々な種類の人たちに出会うことができ、それもまた自分の中では興味深い体験となっている。

業務内容は配置場所によって異なるのだが、20人もいるためにどうしても「キツいポジション/ラクなポジション」という差が生じてしまう。そして働き具合も人それぞれであるから、仕事のできる人はキツいところへ、あまりできない人はラクな配置場所ばかりに割り振られていくという不合理も発生してしまう。多くの人数が必要なため、仕事のできる人ばかりを集めることもなかなか叶わず、バイト先のボスは限られたメンバーをどうにかやりくりしてポジションを決めているからだ。

仕事がすぐに覚えられる人は問題ないが、できない人というのは本当にできない。できない人の仕事ぶりを見てボスは頭を抱えながら、

「あの人は無理ですね・・・もう呼ばないでください」

と会社に連絡を入れる。そしてその人とは「さようなら」という具合だ。

(不本意ながら)4年も某所に通っていて多くの人が入ったり消えたりする光景を見てきたが、本当に「できない人」というのは一定数は確実に存在する。おそらく消えていった人は、もう職を得られないまま今頃は河原で白骨化しているに違いない、とたまに想像することがある。ここでバイトしてから「こんなこともできないのお?」というような類の言葉は他人に吐きかけることをしなくなった。なぜなら「できない人」というのは、どう転んでも「できない」のだから。

「できない人」に対しては早晩に消え去るから特に思うところはない。ただ、端から見て苦々しく感じるのは「楽なポジションだったらなんとかやれる人」である。ボスからこのような評価を受けた人間は、いつ来ても楽なポジションで1日を終えるわけだ。周囲の人たちは「あいつを忙しい場所に立たせると危ない」という共通認識を持っているが、ポジションがどこであろうと日給は全員同じなのだ。それゆえ、なんだか納得がいかずに不満めいたものが吹き出てくるのもまた当然である。

さらに、これも残念な話であるが、「できない人」は人間的な部分を見ても話題に乏しかったりして接してもあまり楽しいものではない。だから私自身はこうした人たちとは意識的に距離を置くようになった。

ただ、そういう「できない人」たちの中にも例外のような存在がいたりするのである。

その「例外」である某「おっちゃん」は年齢が60代半ばくらいで、平日は特定の現場(そこの業務はかなりラクらしい)を持っている。土日はバイト先の人数が足りない場合は声がかかるという感じだ。必ず土日にいるわけでもないものの、ラクなポジションの常連に名を連ねている人だ。

「できない人」には「自分が見えない」または「周囲が見えない」という共通項がある。これは、周りの様子を把握することができなければ難しいポジションができない、という実務的な問題もあるが、

「自分はこれでも必死で精一杯やっている!」

という「それで必死なの・・・」という感じの人もいれば、

「この場所に立ってればいいやあ。早く1日終わらないかなあ・・・」

という適当な仕事意識の人もいる。いずれにせよ、そのバイト先に置かれている自分の立場(他に人がいればお呼びがかからなくなる)が理解できない点ではあまり変わらない。

しかし、この「おっちゃん」については、こうした人たちとは一線を画しているところがある。

あれは去年のお盆に入る手前の時期だったと記憶している。バイト先はお盆の頃は人員を増やすことにしていて、その中に「おっちゃん」も連日で入っていた。私や「おっちゃん」が休憩所にいた時に誰かがなんとなく、

「Uさん(おっちゃん)、昨日も来てたんですか。どこに立ってたんですか?」

と尋ねてきた。すると「おっちゃん」は

「◯◯◯(ラクなポジションの一つ)」と自分のポジションを言ったあと、一拍おいてから、

「こ・れ・し・か・で・き・ん・か・ら」

と小声で続けてきたのである。

その時の「おっちゃん」といえば、

「ワシが仕事ができんのはわかってるやろ?それはワシ自身もよくわかってるからな。だからこれ以上キツい仕事をしろと言ったりバカにしたりはするなよ?せやろ?意味わかるやろ?な!」

とでも言うように、訴えかける目をしていたのが非常に印象的だった。

以前にも、

「(ラクなポジションにいて)これでギャラは同じ」

と口走っていたことがあるらしい。もはや平成生まれの方にはピンとこないだろうが、これは兄弟の曲芸師コンビである海老一染之助・染太郎の、

「弟は肉体労働、兄は頭脳労働、これでギャラは同じなの」

という有名なオチの引用である。

「おっちゃん」がこうした自虐的なセリフを吐いている様子があまりに可笑しく、また自分にキャラが近いと感じたため、これ以後たまに暇なポジションに私があてがわれた時などは

「こ・れ・し・か・で・き・ん・か・ら」

と「おっちゃん」の物真似をするようになっていったのである。

最初は「なんとなく面白いから」という単純な動機だったが、このセリフが気にいった私は実生活でもFacebookやTwitterのようなSNSでも濫用するようになる。さすがに本当に口に出す場面は少ないが、頭の中では1日に何十回と「これしかできんから」と繰り返すような日もあった。

そんなことを続けているうちに、

「このセリフはなかなか奥深いものがあるのでは・・・」

などと考えるようになっている自分がいた。

具体的にどういうことかといえば、

「20代の頃の自分だったら、こんなセリフは決して吐くことはなかったのでは?」

というような問いが出てきたのである。

「これしかできんから」と言うのは、いわば「自分のできる限界はここまでです」と認める行為だ。若くて血気盛んな年頃では「本当の俺はこんなもんじゃない!」とか「自分は無限の可能性がある!』などと思いたくなるものである。また周囲から、お前のレベルなんてこんなものだろう、というような定型的な中傷に対しては殺したくなるほど怒りを覚えたものである。ましてや自分で「これしかできんから」などとは意地でも言えなかったに違いない。

だが現在の自分ならば、それほど抵抗なく「これしかできんから」と言ってしまえるようになった。それはなぜかといえば「自分はもはや若くない」という自覚ができたことが大きい。もう私はあと少しで40代の仲間入りを果たす。物理的に人生の半分は終わっているのだ。そんな人間が「俺はまだまだやれる!」などと力んでいたら、あまり好きな表現ではないが、「イタい人」と周囲から思われるだけだろう。残された人生に限りが見えてきているのだから、自分の能力や可能性についても限界を感じるのもまた自然な流れである。

所詮、世の中で「できる人」というのは1割もいない。大半は「これしかできん人」もしくは「これすらできん人」なのだ。自分の過去を冷静に振り返ってみればどのカテゴリーに入るかはおのずと答えが出てくる。このような境地に立てたのも年齢のためだとしたら、年をとるのは必ずしも悪いことではない。

ただ、年齢ばかりを強調してしまったが、いくつになっても「自分が見えない人」というのも少なからずいる。以前いた職場にはこうした人が全体の9割くらい(!)いたのではないだろうか。私の直属の上司などコピペもできなければ「ウィキペディア」が何かも知らないという恐ろしく無知で無能な人間だった。職場に来ても何かするわけでもなく呼吸をして椅子を温めているだけである。それでもたまたま新聞社の本社社員になったという運だけで年収1000万というレベルに到達していた。とんでもない不合理である。しかしそんな輩でも「こんなことも知らないんですねー」とか嫌味を言ったらとてつもなく怒っていたものだ。

他にも内勤の部署で全く仕事をしない女性がいて、何か業務について他の社員と口論になった時は、

「私が仕事をしていないとでも言うんですか!」

とムキになっていたらしい。こうした連中は「おっちゃん」のようには、職場や社会における自分のポジションというものをまったく掴めていないのだろう。

私はかつて、こうした人間は「バカだから自分が見えない」と簡単に結論づけていた。また、こいつらは無駄に高給をもらっているから安いプライドを持っているのだろう、と子会社の社員という立場ではそう思っていた時もある(私にいた子会社は、定年までいても500万に到達できるかどうかというラインだった・・・)。

しかし、どうも頭の良し悪しに関わらず、自分が見えなくなる原因があるようだとこの数年では考えを修正するようになっていった。

橘玲さんの「残酷な世界で生き延びるたった一つの方法」(10年。幻冬舎)の中に、社会学者リチャード・B・チャルディーニの興味深い論考が紹介されている。それは人の行動に影響を与える諸要因についてであり、その一つに「コミットメントと一貫性」というものがある。

<これは簡単にいうと、「いちど決めたことは取り消せない」という法則だ。

社会のなかで生きていくためには、約束を守ったり、言動に筋が通っているのはとても重要だ。会うたびにいうことがちがうようでは、誰も信用してくれない。「前と話がちがうじゃないですか」といわれると、ぼくたちはとても動揺する。一貫性がない→信用できない→社会的に価値がない、という無意識の連鎖がはたらくからだ。

だからぼくたちは過去の判断をなかなか覆せないし、その判断と現状が矛盾することに耐えられない。要するに、失敗を認めることができない。

ひとがいかに容易に一貫性の罠に陥るかは、オウム真理教の信者にその典型を見ることができる。周囲の反対を押し切り、すべてを捨てて宗教の世界に身を投じた以上、彼らは無意識のうちにその決定を正当化する強い圧力を受けている。そのため拉致・殺人や毒ガス製造などの犯罪が明らかになり、論理的な思考では一貫性を保つことができなくなると、ついには現実世界を否定し、すべてはフリーメーソンの陰謀だと確信するにいたる。こうなると、もはやどのようなコミュニケーションも成立不可能だ。

マスメディアはこれを「オウムの洗脳」と報じたが、彼らは自分で自分を洗脳している。この状態が恐ろしいのは、けっして洗脳を解くことができないからだ。他人から注入された信念は否定することができるかもしれないが、自分で自分を否定するのは不可能だ。

いったんコミットメントしてしまうと、ひとはそこから逃れられなくなる。これはカルト教団だけの話ではない。恋愛でも就職でもマイホームの購入でも、ぼくたちはきわめて簡単に自己洗脳状態に陥り、過去の選択を正当化してしまうのだ。>
(P.180-181)

少し長めの引用だが、オウム信者のような特殊な環境でなくとも「失敗を認めることができない」という一心で「自分で自分を洗脳している」という行為は日常で普通に起こっていることを示している。どんなに賢い人であってもこの流れは逃げられるものではない。もはや人間の業というべきものかもしれない。賢者でもバカでもあらゆる理由づけをしながら自分というものを正当化して生きているのだ。

私は直情的な性格もあるため、仕事もしないくせに平気な顔している人間をときどき攻撃することがサラリーマン時代にはあった。これはもう完膚無きまで叩きのめしていた。すると「失敗を認めることができない」相手は何をしてくるかといえば、

「お前は、文句ばかり言う、嫌な奴だ」

というようなことを返してくるのである。つまり私に対して「言うな。喋るな。黙れ」というわけだ。私は自分でも実に「嫌な奴」であることを自認しているけれど「お前は仕事もしないし無能だ」という「事実」を「文句」などという言葉にすり替える態度には許せないものがあった。

しかし今となっては先方が何をしたいのか、その理由はわかる。向こうは絶対に自分の落ち度は認めたくない。それでも逃げきれないとなった場合にとる行動といえば、これはもう一つしかない。自分の落ち度を指摘する人間の存在を排除するのだ。ただ、これはもう「言論弾圧」ではないだろうか。新聞社員がそれをやってはマズい気がする。

書いていて苦々しい思い出が浮かんできて嫌な気分になっているが、こうした連中に比べたら「おっちゃん」の姿勢ははるかにレベルが高いように見えてしまう。少なくとも「おっちゃん」には某社の社員のような「自分が見えていない」という部分はかなり希薄だ。そして自分の能力についても「これしかできんから」とその限界を冷静に受け入れているのである。「自分をわかっている人」というのは、強い。

そして、「これしかできんから」という言葉を口に出すようになって自分でも不思議なのは、それまでよりなんとなく気持ちが楽になった気がしてくるのだ。これは自分の限界を受け入れたおかげで心持ちも自然なものになっていったのかもしれない。

久しぶりに長文になってしまったが、もう若くない人とか安いプライドを抱いている人には「これしかできんから」と口にしてみることを提案したい。このセリフに抵抗のある人は、おそらく心のどこかで何らかの無理をして生きている可能性が高いからだ。自分自身を受けられないというのは、それだけで病理ともいえる。

もしかしたら、

「できません、とか、わかりませんとか言うなコラ!殺すぞ!」

と職場で吠える上司や先輩がいるのでそんなこと言えない、という人もいるかもしれない。しかし、それはもはやブラック企業やブラック社員なので救いはない。さきほども書いたが、この世の圧倒的多数は多かれ少なかれ「これしかできん人」、つまりどこかに限界がある人たちなのだ。それを受け入れられない職場環境や同僚に囲まれてもあなたは幸福になれない、と「小さな親切」を言ってみたりする。

最後に一つお断りしておくが、先の「おっちゃん」は特別に優れた人間性があるというわけではない。単に自分はこれ以上キツい仕事を振られたくないから、自分から「これしかできん」と先手を打って言っているだけのことである(先に言われてしまえば、こちらからはもう何も言えない)。それでも、老獪さと呼べるような老人特有のずる賢さはあると感じるが。

言葉というのは諸刃の剣であり「これしかできんから」というセリフもまた同じである。なんでもかんでも「これしかできん。これしかできん」と連発していたら「こいつ無能だな」と周囲から判断されるのは間違いない。私が某所でこのセリフを言っても(たぶん)シャレとして成立しているのは、私自身が「それなり」に仕事をこなしたり誰もやりたがらない遅番を引き受けたりしているからだ。まあ、少なくともボスからは「あいつは利用価値はあるな」というくらいの評価はあると思うよ、たぶんね。

某所の事情を知っている方がこの日記を見たら、あんな「おっちゃん」をネタにどこまで書くんだ、と苦笑する人もいるかもしれない。しかしどんな人や物であれ、学ぶ姿勢があれば何か得るものもある、という事例と解釈していただければ幸いである。
私が書いた日記に対して珍しくコメントを残した人がいた。ネット上でしかも匿名で書くくだらない内容についてはまともに取り合わない、というのが私の方針である。その方針に従い「うんこ食ってろ」と先方に返事をしたら、それに対してコメントがまた書き込まれてしまった。

暇な人は実際にコメントを確認していただければ良いのだが、

以前いた会社が説明会を開催すると聞いたので(2014年5月27日)
http://30771.diarynote.jp/201405270801595488/

・自分の目的は誹謗中傷ではない。
・どうしてこんな日記を書いたのか真意を知りたかった。
・自分のコメントが気に入らないなら、削除するか「詮索しないでくれ」と返信すれば、それ以上のことはしなかった。
・「論点をずらす」とか「匿名」とか「うんこ食ってろ」などと関係のないコメントを書かれたので、こちらも何かコメントをしないわけにはいかない。

こんなところである。

ザッとコメントを読んでしばらく考えた末に、

「やはり、こういう手合いは無視するのが良かったのかなあ・・・」

と少しだけ後悔をする。私と先方との考えにあまりにも違いがあるからだ。もうこれは永遠に噛み合わないだろう。それゆえ私は「うんこ食ってろ」と言って、そこで幕引きをするつもりであった。

誰も興味が無いとは重々に承知しているが、両者の違いを比較し整理してみよう。

(1)ネットでコメントをする際の実名/匿名について
私:人に対して批判とか疑問を投げかける場合については、実名や連絡先のアドレスを添えるなどをすることが望ましい。自分が安全圏に立っての「批判」は卑劣な行為である。
うんこ野郎:そんなの関係ねえ。

(2)日記を書いた「動機」や「背景」をめぐって
私:批判や疑問を投げかけるならば、その日記に「実際に書いてある」内容に基づいて指摘するのが筋である。「お前は辞めた会社に未練があるからこんな日記を書いたのだろう?」といった推測による書き込みは、事実を無視した「誹謗中傷」であり「下衆の勘ぐり」である。
うんこ野郎:文章は「動機」や「背景」があって書かれると思う。

(3)私の対応について
うんこ野郎:自分の対応が気に入らないなら削除するか「詮索しないでくれ」と返信すべき。
私:どのような返事をするかは、原則的にこちらの勝手である。

いかがだろうか。この3点を挙げるだけでも、両者は別の世界であれこれ言い合っていることが感じてもらえるだろう。

そして最も違う点を最後に挙げる。

(4)相手への対応について
私:「これは話にならねえや」と判断したら、その時点で「幕引き」としてコメントもしない。
うんこ野郎:コメントを削除するなり「詮索するな」というような反応があればコメントを止める。意味不明な対応については、こちらもコメントは続けていく。

やり取りしているうちに察したのだが、自分の書いたコメントにはこのように対応するべきだ、という「模範解答」のようなものが向こうの頭の中にあるらしい。

その証拠に、

<私の初めのコメントが気に障ったのなら、
そのコメントを削除するか、「詮索しないでくれ」とだけ返信くだされば、
あなたの気持ちを汲み取ってそれ以上コメントする気もありませんでした。>

などと書いてきたからである。

さっきも書いたが、コメントにどんな対応をしようとそれは「こちらの勝手」である。こちらの希望通りの反応がない限りはコメントを書き続ける、などというのはもはや倒錯しているとしか思えない。

私がもしもどこかのブログなり掲示板なりの内容に思うところがあってコメントをし、それに対して返信が無かったり希望通りの返事がもらえなかったとする。それは残念な結果だが、だからといってそれ以上に何か突っ込んだ行動を取ることはあり得ない。ましてや「どうして貴方はそんな対応をしたんですか?その真意を知りたいです。ちゃんと答えてください」などとさらに書き込みをして迫ろうものなら、通報されることだってあり得る昨今である。

希望通りの返事がもらえなかったのは、相手が忙しかったとか、気に入らない内容だったとか、そもそも質問の意図が理解できなかったとか色々あるだろう。しかしそれを詮索したところで何の意味があるのか。

それは日記を書いた私の「動機」だの「背景」だのに向こうがやたらこだわっていることにも繋がっていく。

そもそも先方が私の日記にコメントをしたのは、辞めた会社が会社説明会をおこなっているということを書いた「動機」について興味があったことによる。なぜ辞めた会社に固執するのか?未練でもあるのか?それが不思議でならない、というのである。

しかし、日記を書いた「動機」などというのは、実際のところは書いた本人でもよくわからないものである。前の職場に居残ったとしても、身体か精神を壊していたのは間違いないから「未練」という要素はおそらくないだろう。

ただ、

「先行きの無い業界にいる会社なんだからもう潰れても良いのに、どうしてまだ存続してるのかなあ」

というような疑問というか不満というかそういう屈折した思いはある。それが先方が知りたがっている「動機」とか「背景」に近いものかもしれないが、そんなことを敢えて日記に記すつもりもない。「自分でもわからないこと」をむやみに書いても読みづらい内容になるだけである。それは一にも二にも「読みやすさ」を考えている私には思いもよらない選択だ。

「コメントありがとうございました。

書かれた内容を読んでハッとさせられました。確かに辞めた会社についての未練が心の奥底にあったのだと思います。おっしゃる通り、駄目な会社は勝手に消えるものだし、私自身もあまりに不健康な精神状態だったかもしれませんね。

これからは私ももっと前向きな気持ちでこれからを過ごしていきたいと思います。このたびはありがとうございました」

とでも書いていたら、先方が喜ぶ「模範解答」になったかもしれない。ただ、これは私の本心とは大きくかけ離れているものだが。

もう一つ、大事なことを記しておきたい。私は先方に対して、もう一切コメントを返さない。これは私から幕引きをしたいと願うからだ。

おそらく先方の期待する「模範解答」もしくはコメント削除などをしない限りは飽きもせず何度でも返信をしてくるだろう。それは、やはり安いプライドが抱えているというか、自分が期待する「模範解答」を意地でも引き出したいという思いが透けて見える。

しかし、さきほども述べた通り、赤の他人に対して自分の望み通りの返答を求めるというのはお門違いではないのか。しかも、匿名で、である。「名無しさん」に対して誠心誠意に応じるというのは、はっきり言って馬鹿げている。ましてや論争というかケンカをするなど、自分を浪費させるだけだ。

理想論かもしれないが、自分のブログに対して批判なり疑問なりのコメントをされるならば、きちんと内容を読んで事実を踏まえた上でしてもらいたいのである。そうでなければ私自身も訂正とか修正とかできないからだ。せっかく批判をされるのならば、誹謗中傷ではなく、自分の考えが深まるような批判を受けてみたい。不遜に思う方もいるかもしれないが、これが私の偽らざる本心である。

しかし、大抵の場合は「バカ」だの「死ね」だの「くさい」だのといった内容なので、それゆえ「うんこ食ってろ」と対応するわけである。

先日の日記では顔の見えない相手との論争を「シャドー・ボクシング」に例えてみたけれど、もしネットを通じて不快な思いをした時は、異端のフォーク・シンガー三上寛(みかみ・かん)の”あしたのジョーなんかきらいだ”の一節を思い出してみたい。

<お前が殴っていたものはカルロスでも力石でもない

お前はお前の明日を殴っていたのだ>

三上寛についてはYou Tubeで動画があったので、暇があれば一度観てもらいたい。

夢は夜ひらく~あしたのジョーなんかきらいだ★三上寛 (Audio)
https://www.youtube.com/watch?v=dZs7r_azQbs


とりあえず、無駄な論争をしているような時間は今の私の人生には残っていない。38歳を目前にしてそんなことも頭にちらついている今日このごろだ。
昼の休憩時間は基本的に勤務先の休憩所で過ごしている。そこにはテレビは設置されていない。持っている携帯はiPhoneなのでワンセグ機能も備わってない。よって「笑っていいとも!」最終回を観ることはできない状態だった。

「電気店だったら観られるだろうが、歩いて行ける距離にもないしなあ・・・」

そんなことを考えながら勤務先を飛び出して、歩きながらネットをいじくっていたら、中国のサイトらしきものでフジテレビを視聴することができてしまった。電波が途切れて全てを観ることはできなかったけれど、テレフォンショッキングとギネスブックの受賞の光景はなんとか立ち会えたのは嬉しかった。ただ、日本のテレビ番組をわざわざ中国経由で受信して観るというのは、我ながらややこしいことをしてるなあと感じる。

最後のグランドフィナーレは最初から最後まで通して部屋で観た。過去の映像などで番組を振り返るなどではなく、昼間と同様にダラダラとやっているうちにいつの間にか3時間が過ぎていくという流れは実に「いいとも!」らしかった。そして最後のレギュラー陣全員に感謝のコメントをさせたのは、彼らに出番を作ろうというタモリの配慮だったのだろう。

番組を観ている間、あれこれ頭に思い浮かぶことがあった。「いいとも!」について一番不思議なのは、この番組を一体いつ観ていたのか?ということだった。番組の放送は平日の正午の1時間である。仕事や学校のある人は基本的に観ることはできない時間帯なのだ。いつも観られる立場にあるのは専業主婦や年金生活者、あとはニートくらいだろう。

にもかかわらず、「いいとも!」をそれなりの回数を観ていたという実感が自分の中にある。月曜から金曜まで通して観たことがあるかといえば、それは確実に何度かはあるだろう。

それはおそらく夏休みや冬休みや祝日、または熱を出して学校を休んだ時など学校に行ってない日に観ていたのである。物心がついた時(6歳)から放送が始まっていたので、そうした時期だけテレビを観ていたとしてもけっこうな蓄積はある。年に10回観ていたとしても、ゆうに300回を超えてしまう計算だ。まあ、社会に出てからは全く観る機会は失っていたわけだが。

しかし、休日しか観られないからといって何か過剰な期待してテレビの前にいたわけでもない。昼食をとるかとらないかのボヤーッとした状態のなか、オープニングで”ウキウキwatching”を歌うタモリ、そしてテレフォンショッキングや日替わりのコーナーを眺めていたらいつの間にか1時間が過ぎていく・・・。「いいとも!」を観るというのはそんな感じだったのではないだろうか。

しかし一方、

「オープニングでタモリが歌わなくなった」
「テレフォンショッキングのお友達紹介の直前にCMが入るようになった」
「テレフォンショッキングがお友達紹介の形でなくなった」

という具合に、番組内におけるちょっとした変化に視聴者が反応しラジオや雑誌などで取り上げられて話題になることもたびたびであった。そんなテレビ番組は他に思い浮かばない。そういう不思議な存在感が常に「いいとも!」にはあった。空気のような存在、といえば大仰な表現かもしれないが、あながち間違ってもいないと思う。

しかしそんな「いいとも!」も長寿番組ゆえのマンネリ化を指摘する声も聞かれるようになり、打ち切り説もこれまでに何度となく浮上した。長年観ていた人が世を去っていくためなのか、近年は視聴率も徐々に低迷していく。この「徐々に」という状態は実に厄介だったという気がする。何か新しい試みをしてテコ入れしようと思う一方、長年築き上げたスタンスを崩したらこれまでのファンに見限られてしまうのでは?というジレンマに番組関係者も直面していたと感じるからだ。興味のない人からすれば「オワコン(終わったコンテンツ)」の一言で済む話かもしれないけれど、個人的にはなんだか新聞産業の状況が似ている気がしてくる。そして「いいとも!」は2013年度の最後にその歴史に幕を下ろした。

ネットでは「タモロス」という言葉が目につく(別にタモリ自身が引退するわけでもないので「いいともロス」あたりが適当な表現だと思うが)。さきほど書いた通り、昼間に仕事や学校のある多くの人たちは番組が観れるわけでもないし大きな実害があるわけでもないろう。

にもかかわらず私自身、

「今日からは、もう、正午に”ウキウキwatching”が流れないんだなあ・・・」

といった喪失感にとらわれていることに気がついた。それは何十年も壁に貼っていたポスターをはがした時に出てくる真っ白な跡を眺めるような、そんな感覚に近い気がする。

「いいとも!」の終了によって、この32年間という時間の長さ、そしてテレビを取り巻く環境も凄まじく変質してしまったことに嫌でも気づかされてしまったということなのだろう。

自分にとって2012年はかなり不本意な1年であり、仕事が定まらぬまま年明けを迎えたこともあって2013年もなかなか暗い幕開けだった。だが、正月休みが終わってまもなく新しい仕事が飛び込んできて、この1月11日より働く運びとなる。また風向きが少し変わってきたようだ。

その翌日に新年会が行われたのは全くの偶然だった。それは仕事絡みでも同窓会的なものでもなく、BONNIE PINKのファン(?)有志という変わった括りの集まりである。最初は忘年会でいこうと決めたものの参加者の都合が全くつかず年末を迎えたため、それだったら新年会にしようか、ということになった。お店は私の強い希望で、昨年9月15日に開催された「たかつきバル」の時に行った、阪急高槻市駅のそばの某店を予約する。再訪問したいと思いながらも機会がなかったけれどこれで実現の運びとなった。

BONNIE PINKを共通項にした集まりだから彼女の話で持ち切り、と第三者の方は想像するかもしれないが、私を含めて長年ライブなどを見続けてきた人間はもはやそれほど熱意があるというわけでもない。さっき「ファン(?)」という表記をしたのもそんな微妙なニュアンスを表現したつもりである。

実際に彼女の話題になったとしても、

「COUNTDOWN JAPAN 12/13のセット・リストは誰が喜ぶ内容なのか」

「3月におこなわれるオーケストラとの共演は果たして座席(1801席)は埋まるのか」

など、先行きが不安になりそう内容ばかりが出ていた気がする。しかし、これは毎回ライブ終了後に飲んでる時も同じようなものだが。

そして話は昔のライブの思い出などにさかのぼる。彼女に関するエピソードで私が真っ先に思いつくことが2つある。一つは03年に大阪産業大学でのライブを大幅に遅れるも、翌日に日帰りで徳島大学まで行ってきたことである。これはかつてあった私のサイト(サービス終了で消滅した)に載せていた。今も残骸があるので、ここで確認できる。ちなみに11月3日の分は私が公に書いた最初のライブ・レポートだ。内容的に自分の中では最高の部類に入るのではと思っているが。

BONNIE PINK(2002年11月3日、大阪産業大学)
http://web.archive.org/web/20040714154042/http://watabekazuaki.hp.infoseek.co.jp/live/sangyou.html

BONNIE PINK(2002年11月4日、徳島大学)
http://web.archive.org/web/20040716002058/http://watabekazuaki.hp.infoseek.co.jp/live/tokushima.html

そして、もう一つは03年、京都駅前の大階段でおこなわれた無料ライブである。このアンコールの時に、地べたに座っていたお客が土下座をしてアンコールをするという事態が生じ、言うまでもなく私もそれに加わっていたのである。

BONNIE PINK(2003年3月30日、京都駅前室町小路広場および4月3日、大阪万博記念公園)
http://web.archive.org/web/20040610134756/http://watabekazuaki.hp.infoseek.co.jp/live/BONNIEkyoto.html

この話を披露したら、

「私もこのときに土下座したんですよ!」

と反応が返ってきて苦笑する。当時は知り合っていなかった方だが、同じ現場で同じことをしていたとは・・・しかも土下座を・・・。この事実は嬉しいと言ったら良いのかどうか、うまい言葉が思いつかない。

ところで、この京都駅のライブの話だが、”Tonight,The Night”を演奏中、私たち(知り合い3人くらいで固まって観ていた)の前で妙な手拍子をしている男性がいたのが印象的だった。そしてライブが終わった後、

「あれは”イタい”動きでしたね・・・」

などと誰かがこぼしたのを今でも頭に残っている。私はこの時はじめて「イタい」という用語の使い方を実地で覚えたのだ。

こういう本当にアホらしい話を延々にしていたら、いつの間にやら時計は10時半近くになっていた。午後6時という早い時間の始まり、そして私以外はお酒があまり飲めない人たちばかりという中で「盛り上がるかなあ」と個人的に不安だったが、穏やかながら非常に楽しいひとときを過ごすことができた。

また、私は前日から新しい仕事を始めることができたこともあり、テンションも高くけっこう酒をあおってしまった。しかし翌日は全く残っていなかったので、気持ちの問題なのだろうという気がする。楽しく飲んだ時はほとんど二日酔いをしないのだ。

また余談が続くけれど、参加した方から、

「かずあき君は愛のキューピッドだ」

といきなり言われたのが自分には衝撃だった。もちろん、私は誰かと誰かをくっつけたいというような世話焼きでは全くないし、むしろ自分がそうされたいくらいである。正確に言えば、ライブ会場で知り合った私の共通の知人二人がくっついたというわけだ。こっちの知らないところでいつの間にやら発展していた話なので、聞かされた方がかなり面食らったというのが真相である。

しかし、私が愛のキューピッドになるとは、恐ろしい時代になったものである。このまま二人が順調に進んだら披露宴で祝辞でも言わないといけなくなるかも・・・。冠婚葬祭に最もふさわしくない人間なのだが、遠くない未来にそんな機会が出てくるかもしれない。それより、私の愛のキューピッドが出てこないものか、と思わずにはいられない。

ともかく、なんとも充実した楽しい時間を過ごせたのは嬉しい。それもこれも趣味を通じてネットワークを広げてきたことが大きかった。といってもオフ会などの類に顔は出さない私はBONNIE PINK絡みしか交流はないけれど、それすらなかったら自分の人生はずっとずっと味気ないものになっていたことは断言できる。また、かつてのライブ・レポートを再読してみると、10年前からこうした繋がりの恩恵を受けていることもおわかりだろう。そうしたこともあって、色々な意味で自分にはBONNIE PINKは特別な存在である。

繰り返す話になるが、昨年はお世辞にも良い年ではなかった。特に仕事の人間関係で恐ろしいほど苦しんだことが大きい。そんな中にあってもライブとか外食とか各種イベントとかに足を運んでいた。そういうことがなければもはや絶望に近い1年だった。そんなことを思うと、

「楽しいことを作らないといけないなあ」

という気持ちになってくる。そもそもの話、会社を辞めたり仕事を転々としているのも「充実した人生を送りたい」というのが動機だったのだ。この1年はそんな原点すらも忘れてしまっていたような気がする。仕事のゴタゴタが解消しつつありそうな今、またそれを思い出して行動したい。

ひとまず3月30日(土)におこなわれる「BONNIE PINK with 新日本フィルハーモニー交響楽団」のチケットの抽選販売が当選したというメールが届いた。去年しなかった上京も久しぶりに敢行する。仕事など先行き不透明な部分も大きいけれど、それはそれとして楽しみたい。今年の私の抱負というかテーマはそんなところである。
日はまた昇る
午前6時、冬の寒さが一段と厳しく感じながらもなんとか起床して食事や身支度を済ませる。そして午前7時50分には重い足取りで自転車をこいで部屋を出る。

職場に行く途中、いつも目に止まったのは電柱の下の飾られているこの花だった。色が褪せる頃には、新しい飲み物とともに、必ず新しい花が代えられている。この光景を見るのも、もしかしたらこれで終わりかもしれない。

ようやく、本当にようやく、現在の職場で働くのも今日で最後となった。自分の希望としては今月の中旬で去って後は有給を消化したかったのだが、後任になるはずの人が入ってわずか3日間で辞めてしまうという事態に陥り、最終出勤が本日28日まで延びてしまった。年末まで出勤するのは不本意であったが、発生した有給は全て使えたので良しとするほかないだろう。

しかしながら、断続的に出勤しながら、

「職場に来るのもあと5日」
「この作業をするのも、あと3日・・・」

と働ける日が少なくなっていくうちに一抹の寂しさを感じてくる、という人もいるだろうが、自分の中ではそのような感傷は全く感じなかった。

最終日の今日ですら、

「まだ1日も残っているのか・・・。寒いし遠いし、もう行きたくないなあ」

と、勤務地へ行くのが心底イヤだ!と思いながら自転車のペダルを踏んでいる自分がなんだか悲しい。

思えば9月くらいから、

「もはやこれまでか・・・」

と辞めようとした瞬間は数えきれないほどあった。そんな心境でさらに3ヶ月を過ごしたため、精神的な限界はとっくの昔に超えているのである。だから誰になんと言われようとも、これ以上は無理です、としか答えられない。出入りしている業者さんの一人から冗談混じりで「チキン野郎」と悪罵を投げつけられたが、チキンでもジンギスカンでも好きなように言いやがれ、である。

本日は金曜日ということで、1週間の中で一番バタバタする日だった。そこに年の瀬を迫っていることも重なり職場の忙しさに拍車がかかる。そんな最中に職場の石油ファンヒーターの灯油が無くなる警告音がピーピーと鳴り出す。忙しくて灯油を補充する暇もないし、廊下のような職場でしばらく寒いまま作業を続けていく。最悪の環境だ。一通りの業務を終えたのは午後4時過ぎで、もう終業まで1時間半ほどしかない。それでもやはり寒いしポリタンクからポンプで灯油を補充する。そうしているうちに終業の時間を迎えた。こうして呆気なく私の7ヶ月半は幕引きとなる。

この間に何があったか。今はそれをあまり思い出したくない。一言だけいえば、自分の仕事ぶりのみならず人間性そのものを徹底的に否定され続けた期間、といえる。この間に寿命が7ヶ月半も縮んでしまった。

もし自分にかける言葉があるとすれば、

「運が悪かったけど、多少は忍耐強くなれたのでは?」

というところだろうか。自分でもここまで続けられたのは、自分の精神的な限界を多少なりとも広げられたとはいえる。

この日に出勤する時に聴いていたのは、浜田省吾の”日はまた昇る”であった。01年のアルバム「SAVE OUR SHIP」の最後に収録されている7分21秒と長めのこの曲はヴァン・モリソンを連想させる雄大なスケールがあり、浜省で一番好きな曲は?と言われたらこれが真っ先に思い浮かんでくる。

浜田省吾”日はまた昇る”
http://www.youtube.com/watch?v=Gl1a1kOIGwg

何か節目節目でこの曲を聴いていたような気するが、事情があってこの夏あたりから浜省の曲を耳にする気が起きなかった。それ仲の悪かった上司が浜省のことを好きだったというつまらない理由であるが。そうした呪縛も無くなるのでまた聴こうという気持ちになれた。

この曲は楽曲もさることながら、歌詞も印象的なフレーズがたくさん詰まっている。歌詞は以下のサイトで確認できる。

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=F02859

<どの道を歩いて行こうと
君は君の その人生を 受けて入れて楽しむ他ない
最後には 笑えるように>

最後の最後はこんな調子になっている。自分の取り巻く現実を受け入れてその範囲で人生を切り開いていくしかない、というこの曲の歌詞にはいつも心を動かさせる。なんだか自分の立脚点のような曲に感じられて仕方ない。そういえば、初めて彼のライブを観た時に本編最後の曲がこれだったのも象徴的であった。

これが私の新しい武器、になるか?
36年も生き続けていると痛い失敗も多く経験しているが、その一つに初めてパソンを買った機種がMacだったことが挙げられる。

ご存知のように、パソコンは現在でもWindowsが圧倒的なシェアを占めている。それに対して、私がiMacを買った当時(02年)のMacは10%を切っていたのではないだろうか。iPodもまだブレイクしておらず、iPhoneなど影も形もなかったからAppleもかなり苦しい時期だったと思う。

そんな頃になぜ私は敢えてMacを買おうとしたのだろうか。文字通り「敢えて」買ったのだと記憶している。私はときどきマイナー志向が出てくることがあり、主流の物に手を出すことも消極的なのだ。またMacintoshというブランドになんとなくクールでスマートなイメージを抱いていた部分もあった。

個人的に一番影響があったと思うが、かつてマンガ「美味しんぼ」で山岡士郎がWindowsを罵倒してMacを評価する、という場面があった。いまも昔も「なぜあのマンガでそんなことを書くのか?」疑問だったが(出版社もよく了承したものだ)、それがずっと頭に残っており、自分にとってはMacの優位性というのが確立してしまったのだろう。

しかし、この10年を振り返ってみると、やはり自分の選択は良かったとは思えない。Macを買った当初にまず違和感を抱いたのは、ネット上にあるソフトや動画サービスなどが使えないことだった。いかがわしい動画を発見してもWindows使用のため観られないし、Yahooですら「お使いの機種では対応しておりません」と表示される。Macのマイナーさを痛感する出来事だった。

そもそも私はデザイナーとかクリエイティブな仕事をしていたわけではないので、別にMacにこだわる理由は現実的になかった。しかし、さきも言ったように色々とおかしなことが頭に入っていて判断を見誤ったのである。

割とパソコンのできる会社の同僚が、私が新しいiMacを買ったと聞いて、

「使えもしないのに、ムカつく」

と言われたが、その通りでした。Mさん、あなたの言う通りでしたよ。

実際のところ、部屋のパソコンには特にソフトを入れることもなくあまり使いこなしていたとはいえない。Windowsのパソコンを買っていたらもっとパソコンやネットのスキルなどが習熟できていたと思う。仕事でMacを触る機会など一部の人しかいないわけだし。

しかしあれから10年経ち、本日WindowPCが私の部屋に届いた。ほとんど思いつきだったのが、とりあえずWord、Excel、Powerpointの入っているものが欲しかったのである。これで一通りのことが自宅でもできるだろう。

ネット接続も無事にできたし、これで何をしようか。とりあえず、履歴書の作成だろうな。

辞める辞めるとわめいている現在の職場に入ってほぼ半年が経つ。世間から見れば、半年ごときで何の経験になるんだ、と鼻であしらわれるほどの期間かもしれない。しかし、自分には果てしなく長い時間としか思えない。9月の終わりくらいからずーっと、もう今日で終わりにしたい、というセリフが頭の中に毎日ずっと渦巻いていたからだ。

本音をいえば、最初の3ヶ月くらいで逃げ出したかった。しかし、次のアテがあるわけでもなく(注:今もありません)、また自分より若い人たちに対しては、

「一度働いたら、その職場を3ヶ月は辞めちゃダメ!」

と偉そうに言ってる手前、ギブアップするわけにはいかなかったのだ。

実際のところ「3ヶ月」というのはその仕事が自分にとってどれくらい適正があるか、またその職場でどれほど我慢できるか、という部分がなんとなくわかってくる時期だといえる。自分の仕事の習熟度は3割程度は、それとも1割程度なのか。3ヶ月頑張ったが、あと3ヶ月くらいは耐えられるか・・・。などといった感覚が徐々につかめてくる。ただ私については今の場所もその前の職場も、

「これ以上はもう無理!頭も体もおかしくなる!」

という悲惨な結論しか出てこなかったが。

それはともかく、半年働けばけっこう色々なことを学べるのも確かなことだ。周囲にとっては些細なことかもしれない。しかし自分にとっては相当に重要な変化というのもある。それは今の職場においても有効だった。これまでしなかった仕事を経験したというのは勿論のこと、自分がこれから生きる上で重要なことも学んだ。

それは、

「相手の立場を全否定してはいけない」

ということだった。

「なんだ、そんなの当たり前じゃないか」

社会的に分別のある方はそう思うかもしれない。いや、私だって「頭の中では」それがこの世界で生きていく上で正しいあり方だと理解くらいはしていた。自分の心の師である出口汪先生もどこかの著書(特定できませんでした、失礼)でそう指摘されている。

しかし実生活では言い合いになったりすると頭がカッとなり「こいつを徹底的に潰してしまえ!」とブチ切れてしまう傾向が自分にはあった。言ってることが明らかに間違っている相手に対してはどうにも寛容になれなかったのである。そして先方をメッタメタに罵倒して、それから修復不可能な関係になるということが時々あった。

嫌いな相手と絶縁したって何も構わない。それが私の基本的なスタンスだった。いや、いまもこうした考えは変わってはいないと思う。しかし、そういうのもマズいかなと考えるようになったのは、自分が罵倒される側に回ってしまった最近のことである。

誇張でもなんでもなく、私のこの半年くらいはただただ自分を否定される毎日だったといって過言ではない。

「君は仕事が全くできない」
「態度も悪い」
「周囲からも嫌われている」
「いったい何が良いとこあんの?」

こんなセリフを毎日のように浴びせられたら、前向きになろうとしてもどうにもならない。そしてどこかの時点で我慢の限界がきて精神がプツンと切れてしまうだろう。そうなってしまっては手遅れだ、と感じて今回の決断に至った次第である。

相手の立場など別に過剰に認める必要はないと思う。しかし、先方にも言い分ができる余地を与えるというか、そういう配慮くらいしてあげてもいいかなと現在の私は考えるようになった。

自分のやることを全否定されては、もう前に進めない。

これは奇麗ごとでも偽善でも何でもない。ここ半年の間、苦しい思いを経験したことで私が身をもって学んだ結論である。

かつて私は人を褒めるが好きでもなかったし(今でも好きではないか)、あまり人の長所を伸ばそうという視点もなかった。

かつての職場で後輩に仕事を教える時も、

「これだけやれば、周囲から怒られることはないから」

と最低限のことを伝えるということしかしなかった。これはこれで間違いないと今でも思っている。どんな無能な人間でも「これだけやればできる」というマニュアルを作るのが私の特技だったし。そしてそれは組織で仕事をする上で有効だといえよう。しかし一方で後輩の能力や可能性を全く重視してないし期待もしてなかったという一種のニヒリズム(虚無主義)から由来していたことも否定できない。

「君はこの程度の人間だから、これだけの作業をしなさい。以上。ほな、バイナラ」

という私のスタンスは、人によってはかなり冷淡に見えたかもしれない。そんなことを今の視点では思ってしまう。

ここまで書いてきてかなり支離滅裂な内容になってきた感があるが、

「たまには人も褒めないといけないなあ」

と最近は考えるようになった、と言いたいのである。そして、それはかつての私を知る人間とっては「ええっ?」と思うような変化である。それもこれも、自分自身がメッタメタに否定されたという経験をしたおかげなのだ。

だから今の仕事をする前よりは人の言うことに対して少しは優しく返すことができるかなあ、と思ったりする。実際の行動に表れるかどうかは実にアヤシイところだが、少なくともそうありたいと願ってはいる。
先日、ずっと足を遠のいていた某店を訪れた。最後に入ったのは前の仕事をしていた時だったから、8~9ヶ月前かと思われる。かといって、そこで何か特別なことがあったわけではなく2時間ほど一人で静かに飲み食いをしただけだった。しかし店長が私の顔を見て、

「老けたなあ・・・」

とボソッと言ったことが印象に残っている。自分でも、そりゃあそうだろうなあ、と心の中で同意した。

この2年ほどの間、自分にとって良い思い出というのはほぼ無いと言って差し支えない。その代わりに悲惨な出来事は星の数ほど経験してしまった。怒られたことはとにかく多かった。この2年間で15年分くらいは罵声を浴びたのでは、と個人的には思っている。そんな状態でも活き活きしている人がいたとしたら、それが良いか悪いかはともかくとして、尋常ではないだろう。私は周囲から変わり者で通っているけれど、それほどのレベルまでは突き抜けられない。どうにも中途半端なのだ。

それはともかく、鏡の自分を見ると以前よりは歳をくったなあと感じてしまう。それは人間なのだから避けられないけれど、

「もうちょっと環境が良かったらここまでならなかったのでは・・・」

と、どうにもならない泣き言を吐きたくなってしまう時がある。

しかし、ここにきてちょっと風向きを変える出来事があった。

派遣会社の担当の方に、今年をもって今の仕事の契約を満了したい、と申し出たのである。

事情を知らない方からは、「もうちょっと頑張ったら?」とか「次は決まってるの?」と無責任なことを言われるけれど、自分を取り巻く環境を具体的に説明したら

「いやあ。そりゃあ大変だろうけど・・・今はこういう時代だし、アレがアレだし・・・」

と、その悲惨な状況にドッと引いてしまう。私の現在はそういうものなのだ。だから、辞めるしかないのである。また、派遣の身としてはそのくらいしか自分の権利を行使できる場面もない。

切られる前に、自分から決断したい。

それは私の美学というか哲学というか、ともかくその選択の方が良いと判断しただけである。

前の前の職場にいた時は、

「こんな毎日で自分の人生を終えていいのか?」

とずっと自問自答してきた。そして在籍10年くらいで離れてしまった。結果として、収入はその時の半分くらいになっている。しかし生活レベルや幸せの度合いなどはほとんど変わっていない。これは強がりで言っているのではない。お金があっても、自由とか「ゆとり」が無ければ人間は幸福などなれるはずがないのだ。

そして、今そうした自分の「幸福」の度合いがどんどん低くなっていく。それで今回の決断に至ったのだ。

「次は決まってるの?」

と何人かから訊かれた。毎日仕事をしてるんだからそんなアテなどあるはずはないだろう。しかし、この2年間をなんとか食いつないだ自分としては、どうにかなるだろう、という根拠のない楽観性だけはなぜか持っている。

来年以降の自分の姿など白紙なのに、不思議な開放感にいま包まれている。半年間も背負っていた荷物を降ろしてグッと体が軽くなったような、そんな気分だ。

そんな時にふと、ある曲の一節を思い出してしまった。ボブ・ディランの”My Back Pages”だ。

ああ、あのときわたしは今よりもふけていて

今はあのときよりも ずっとわかい

来年の私はこのようになっているだろうか。いや、そうならなければ辞める意味もない。

”My Back Pages”はここで確認できます。
Bob Dylan 30 Anniversary of 1st album - JAM

http://www.youtube.com/watch?v=S4UcaLHaabY

11月もまだ前半すら過ぎていないが、昨日をもって個人的にはもう仕事のピークが過ぎてしまった。私生活の面では問題山積だが、しばらくは落ち着いて働けるだろう。

気持ちに余裕ができたので、滞っていた日記も少しは書かないと、という気持ちになるのもこれで何度目になるか。ともかく何か書こうという気力だけは沸いてきたのでその気持ちは大事にして行動しよう。

しかし身辺を見渡しても題材がどうも思いつかない。ならば、自分の中から掘り起こしてみよう。そういうわけで、ずっと腹の中に溜めていたテーマを文章にしてみたい。

この世に生を受けてから北海道という辺境の地で最初の19年間を過ごしてきた。その間に誇れるような思い出もなかった私は、大学進学で京都へ移住すると決まった時に、

「住む場所も変わって周囲の目も気にならなくなる。これで心機一転、新しい自分を創ろう!」

と意気込んでいたような気がする。現在の視点からすれば、

「環境が変わったからって、そうやすやすと自分は変わらないぞお」

と厳しい言葉を浴びせたくなるが、ともかく当時の自分はそういう心境だった。

実際のところ、私の大学時代の4年間は実にパッとしないものだった。サークルに入って友人が増えたわけでもなく、学業に専念したわけでもなく、果ては大学院進学にも失敗したまま大学を出ていくという結果に終わった。この頃を「暗黒時代」と自分で呼んでいる。

大学時代が一番楽しかった、と口にする人は多い。しかし個人的には小、中、高、大と進むにつれてどんどん悲惨になっていった気がする。昔のことも思い出さない(思い出したくない)ので、もう自分が何をしていたかも語れないような状態だ。

そんなイヤーな思い出ばかりの中で、最もイヤーな出会いが大学1回生の春の時点で訪れてしまった。同じ専攻にいたIという男である。

私が在籍していたのは「文学部文化学科心理学専攻」という小さなもので、1学年に70人程度しか学生はいなかった。非常にこじんまりとしていて出席する授業もみんな重なることが多い。よって、この中で人間関係がこじれた場合、非常にやりづらくなる。そして私はそのIと険悪な関係になってしまった。

もう詳細な記憶など無いけれど、会って間もない頃から向こうはこちらを気にくわなかったらしく、なんだかんだで突っかかってきたことだけは覚えている。

こちらはこちらでIに対して良い印象は抱かなかった。今でも印象に残っているのが音楽の話をしていた時に彼がボブ・ディランの名前を出して、

「俺はローリング・ストーンズの”ライク•ア・ローリング・ストーン”のカバーでボブ・ディランを知ったんや」

と、自分がまるでボブ・ディランを発見したかのような口ぶりで言ったことである。そうしたことに限らず、全てが軽薄な物言いの彼にはほとほと嫌気がさしていた。日常会話の冗談らしきものもちっとも面白くもなかった。

だから、いつの時点は忘れたが、何かの話をした時に、

「あ、そう」

と冷淡な対応をしたのだと思う。

その時であった。向こうは不快そうな顔をして、

「おい・・・俺は人の意見を認められない奴はダメなんや」

と口にしたのである。

「ああ、ダメだなこいつは」

とあの時は思った。そしてあれから15年以上の月日が経っているけれど、今だに腹の底から怒りがこみ上げてくる発言である。

これが、私の最も嫌いな言葉である。

向こうは要するに、自分の言うことは全て認めろ、と他人に寛容さを押しつけているのである。それだけでも十二分に図々しいが、それを「人の意見」と一般化した表現にすり替えているのだから一層タチが悪い。これほど独善的で最低な物言いはそうそう無いと思う。I自身にしても、私がこれまで出会った中で最底辺の部類にはいる人間だ。

こんなことをあまり書くと、被害者意識が過剰では?とお叱りの言葉を受けるかもしれないが、1回生の時点でこんな輩と出会ったおかげで自分の大学4年間は台無しになったと個人的は思っている。さすがに年を食って今は少し落ち着いた対応はとれるかもしれないが、それでももし彼と再会した時にはどう対応していいかわからない。おそらく、逃げるしかないだろう。こうした出会いはもはや災害のレベルだ。

誰でも自尊心(プライド)というものを持っている。そして自分が認められたい、という承認欲求があってしかるべきだろう。しかし、それをあまり表立って見せるのはかなり醜悪な行為だ。Iはそういう人間のサンプルのような存在だった。

私は社会的にどうでもいい存在で人生を終えるだろうが、せめてこのような人間にだけはなるまいと思いながら生きてきた。傍目にはわからないかもしれないが、そうした思いを抱いてるということだけは記しておきたい。

もう一人の自分よ、頑張れ
今日は仕事を終えてからすぐには部屋は戻らず、烏丸四条方面に向かった。本日から開店する某料理店に行くためである。その店は新町四条を西に入ったところの北側(向かいに「やよい軒」がある)という町の中心部にできた。午後6時40分くらいに一人で入り、初日は生ビールが無料だったので奨められるがままに3杯飲んでしまう。日本酒もガバガバ飲み、そのまま10時過ぎくらいまで居座ってしまった。

なぜわざわざ開店初日にここへ寄ったのにはそれなりに理由がある。かつての職場の同僚が始めた店だからだ。その会社には個人的に気の合う人がほとんどいなかったけれど(他の場所でもそうか)、その中の数少ない一人が彼であった。そんなこともあって、私が仕事を辞めてからもメールなどで連絡はとっていた。

あれは去年の5月の半ばあたりだったか。4月いっぱいで会社を去った私はしばらくして携帯をauからソフトバンクのiPhone(この時点ではまだauはiPhoneを提供してなかった)に変更した。そして関係各位に「アドレスを変えました」というメールを送った時だった。彼から電話がすぐかかってきて(これがスマート・フォンにして最初の電話)しばらく話をした。それからしばらくして飲む機会がありそこで、俺も辞めることにしたわ、と言われたような気が・・・。いや、私が会社に在籍しているうちに打ち明けられたような気もするが、記憶が前後して正確なことはもう思い出せない。

ただ確実なのは彼に、

「(俺が辞めるのは)あんたのせいやで」

と冗談まじりに言われたことである。彼に対してこのことがずーっと頭に残っていた。別にそれに負い目を感じるとかいうことではないけれど、目の前で同い年の人間が辞めるという光景を見てなかったから、彼も踏ん切りがつかなかったかもしれない。「たら、れば」の話をしても仕方ない。しかしそんなこともあって、彼の人生が他人事にはどうしても思えないのだ。

人のことを言える立場でもないが、この1年ほど彼が何をしていたのか会ってもあまりよくわからなかった。どうやら飲食の道を進みたそうなフシがあったけれど、土日にそうした場所でアルバイトをしている、という以上の情報はなかったわけだし。しかし、あれよあれよという間に今日の開店である。私の方がよほど足下がフラフラしているとしか言いようがない。

この日はカウンターの隅で彼らの様子を見ていたけれど、かなり悪戦苦闘している感じであった。しかしそれは自分たちでよくわかっていただろう。それをどう改善して、そして長く続けていけるか。とりあえずはそれだろう。

ともかく粘り強く頑張ってほしいと願う。それは、友人だから、とか、かつての同僚のよしみだ、というのも間違いではないけれど、他にもっと違う理由も確かにある。

なによりも、彼はもう一人の自分の姿なのだから。

もう一人の自分が惨めな姿になってもらいたくないだろう。大成功とまではいかないまでも、それなりに成果を出してもらいたいと願う。

そして、当の自分ももう少し頑張らないとなあ、という思いも少しずつ湧いてきた気がする。

今日偶然に読んだ「産経新聞」の中に興味深い記事が乗っていた。

それは「『世界が変わる…』色覚障害者98%の不便解消、補正眼鏡を販売」

というものだった。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120920/wlf12092021400018-n1.htm

ここで紹介されているのは大阪市中央区にある眼鏡製造会社「ネオ・ダルトン社」で、以前から色覚障害を補正する眼鏡レンズを開発していたが今年から本格販売に乗り出したという。社長の足立公さんもまた色覚障害を持っている。

この眼鏡レンズについてに概要はこうだ。

<米国在住の日本人医師らの理論を基に、赤、青、緑の光の三原色の透過率をフィルターで調節する特殊レンズを採用。ミラータイプのサングラスのように光を反射することで目に入る光の量を調節し、正常なカラーバランスに近づけることに成功した。色覚障害者の約98%について補正が可能という。>

記事には色覚障害を抱えた人の相談内容も出てきている。

「パソコンの画面の色が判別しにくい」
「野菜の鮮度がわからない」
「地下鉄の路線図が判読できない」
「車のスモールランプとブレーキランプの違いが分かりにくい」

こうした悩みは、同じく色覚障害を持っている私としても身にしみて感じることである。地下鉄や市バスの路線図は本当に見づらくてどうしようもないのだ。

この記事で、そうだったの?と思う内容もあった。小学校の健康診断でおこなわれていた色覚障害の調査が平成15年度から廃止されていたというのである。自分が色覚障害であることを気づいたのはいつだったか覚えていないけれど、健康診断であの河原の石のような模様を見せられて、そこに書かれている数字が何か答えられくて辛い思いをしたことだけは記憶に残っている。それもこれも親からの遺伝子のわけだが、私の両親は本当にろくなものを残してくれなかった。

そんな個人的な恨みつらみは書いていてもどうしようもないが、眼鏡をかけることによって色覚障害が補正されるというのは、色弱の人間にとっては夢のような話である。

ただ、この眼鏡の存在について今回の記事で初めて知ったわけではない。ある時にネットで色弱について調べた時に偶然このサイトを見つけたのだ。

http://www.amagan.jp/senka15.html

そしてこのページの、「色弱補正メガネ(ダルトン)を装用された生の声」の中にある、

「40代男性
 ダルトンレンズをかけるまで夕焼けがこんなに美しいとは知りませんでした。」

という一文がずっと頭の片隅に残っていたのである。36年も生きていて夕焼けも数え切れないくらい見ているはずだが、本当の夕焼けの色はこれまで見てこなかったんだなあと。そんなことを思った。

おそらくこの時も眼鏡の購入を検討したと思うが、値段があまりにも高すぎて諦めたはずである。記事にも書いてある通り「7万円台が中心」ではそうそう手が出ない。持てるものなら持ちたい、しかし無いからといって生きられないわけではない、そんな存在なので非常に歯痒い気持ちになる。

ただ、いつかこの眼鏡を買って夕焼けを見てみたいな、と強く心に刻んだ。おそらく11年前、コンタクトレンズを初めて着けた時のような感動が起こるに違いない。だって、世界の見え方がいきなり鮮やかに変わってしまうだろうから。
昨夜、部屋を戻るとポストに「郵便物等お預かりのお知らせ」が入っていた。送り主は私が登録している人材派遣会社だった。

「ついに届いたか」

何がきたかはわかっている。約1ヶ月半の使用期間が終わり今月から新たに3ヶ月の雇用契約が結ばれたため、社会保険に加入できる資格がついたのだ。送られてきたのは保険証である。

だが、昼間に部屋へ届けてもらっても受け取れないし、晩も帰る時間のメドがちょっとたたない。そこで出勤前に西陣郵便局まで足を運ぶことにする。もともと自分から取りに行ってるけれど、一つだけ気になることがある。

郵便局に行って荷物を受け取る場合に必要なものがある。

・郵便物等お預かりのお知らせ
・印鑑
・運転免許証や健康保険証

の3つだ。

無免許の私はいつも受取の時は健康保険証を持参していた。しかしこの3月いっぱいで保険資格を喪失していたためそれもできなかった。

「身分証明が必要な場合が出たらどうしよう?」

ということがときどき頭によぎった。それで区役所に行って住基カードを作ってみる。しかし後日ネットで調べてみると、たとえば銀行口座を作る時に身分証明として住基カードは使えないところもある、という話を知り、なんだ不完全な身分証明なんだなとガッカリした。

そこで今日は、住基カードは使えません、と言われるための対策のためにパスポートも持参した。これも立派な身分証明であるが、普段から携帯するものでもないだろう。しかもこのパスポート、今月いっぱいをもって期限切れ(5年前に渡英する時に発行した)となっているのだから、なんとも私の人生は間が悪いというしかない。

郵便局について窓口で呼び鈴を押すと職員が出て来たので、まずは住基カードを出してみる。

職員「住所のわかるものをお持ちですか?」

私「住基カードでいいですか?」

職員「はい。大丈夫ですよ」

使えた!この住基カード、発行して初めて役に立ったんじゃないかな。

こうして私は3ヶ月ぶりに保険証(人材派遣健康保険組合)を持つことができたのである。
iPhoneをいじってたら、Facebook関連のメールを数十人単位で誤送信してしまいました・・・。

スマートフォンにしてから、こういうことが多いのよね_| ̄|○

この4月に入った会社が色々あって仕事ができなくなり、その代わりを探すためハローワークや複数の人材派遣会社に当たってみた。4月14日に某派遣会社へ行った時は、パッと探せるものは無いですねえ、と担当の方からは消極的な返事しかもらえなかった。いくら派遣だからといって都合よく仕事がある時代でもないかと落胆してその時は帰った。しかしその翌日に、こういう仕事がありますけどいかがですか、とすぐに連絡が入った。そして、ご希望でしたら「書類選考」の候補に入れさせてもらいます、とのことだった。もう何の望みもない私としては、お願いします、としかいえなかった。

書類選考とは何かといえば、派遣会社に登録している人の中から適当な候補者を選び出す段階である。そして顧客(派遣先)に対して「こんな人がいますが、どうですか?」と打診するわけだ。そして、では会ってみましょうか、ということになると「職場見学」へと進む。

お願いしますと頼んでから数時間後、では職場見学の日程を調整したいのですが、と電話がかかってくる。とりあえず派遣会社による選考を抜けることはできた。しかし本当の問題は次の職場見学である。

まとまった期間を派遣社員として働いた方ならご存知だろうが、こちらで働きたいという意志があるからといってパッと勤務できるというものではない。

「派遣の窓」というサイトにその辺りが詳しく説明されている。私も職場見学の直前にかなり参考にさせてもらった。

http://www.hakennomado.com/syokubakengakutoha.shtml

<職場見学とは、一言で言ってしまえば派遣採用時の『面接』です。
現在、労働者派遣法では特定行為にあたる事前面接を禁止しています。(労働者派遣法第26条7項、「派遣先が講ずべき措置に関する指針」)
しかし、「打ち合わせ」「職場見学」などと称して『事前面接』が行われる場合が多いのが現状です。
2004年3月の派遣法改正に伴う指針で、厚生労働省は「本人が希望すれば職場訪問などを認める」と明示しましたし、また、正社員への登用の可能性を前提に派遣社員として採用する「紹介予定派遣」では『事前面接』が可能にもなりました。
派遣での『事前面接』は法の原則は今でも違法となっておりますが、解禁に向けて徐々に動いているようにもみえます。
(まぁ、すでに当たり前の状況ですが。。。)>

つまり、私がこの世で最も嫌いな儀式である面接をしなければならない。さすがに1日や2日しか働かない日雇いとは違い、雇用主も採用には当然慎重になるというわけだ。それにしても採用までの道のりは本当に険しい。

実際にどういう選考が行われているかというと、「派遣の窓」にはこう書かれている。

http://www.hakennomado.com/syokubakengakunogenjyou.shtml

<都心部でのお仕事の場合、感覚値ですが、80%が『職場見学』ありのお仕事だと思います。それはみなさんも肌で感じていると思います。しかも、その中の70%のお仕事が『競合』となっているのではないでしょうか(実際、営業活動をしているともっと多い気もしますが)
「競合って?」という人もいるかもしれませんが『競合』とは企業が複数社の派遣会社に発注を出し、各社1名ずつ紹介しその中から一人決定するというもの。。。まさに『面接』です。
ほとんどが2社から多くて5社くらいの競合となっています。という事は1つの仕事に2~5人のライバルがいるって事ですね。>

この話の通りだとすれば、職場見学は単なる顔合わせの出来レースでは決して無いということだ。他に候補がいる、と考えるだけでもう私は絶望的な気持ちになってしまう。これまでの内定率はもう1%すら満たない人間だからね。

とりあえず職場見学の日取りを決めないといけないけれど、その時はもう4月下旬に臨時の仕事を入れてしまったため、

「すいません。すぐに調整はできないんですが•••。連休直前ならいつでもOKです」

などという返事をしてしまった。電話口で、これで終わったかな、と思いながらしゃべった。候補者なんて他にいくらでもいるに違いない。

「そうですか。連休前だと先方も忙しいと思いますが•••調整してみます」

と向こうはそんな感じだった。

それから1週間くらい経ってまた派遣会社から電話がかかってくる。

「他の人に決まったという連絡かな。もう終わったな」

と思いながら出ると、

「先方が連休前までバタバタしてまして、時間が作れるとしたら休みが明けた5月15日でもよかったら職場見学をと言ってますが、いかがですか?」

というのである。5月の中旬とはちょっと遅い気もするがこちらの都合も聞いてもらった手前もあるしそれでお願いすることにした。派遣会社を登録してから職場見学までおよそ1ヶ月を要したことになる。

そして本日の午後、派遣会社の担当の方と一緒に見学へ向かった。その前に、私は自分の意志で職場見学をしました、という署名にハンコを押してもらうよう頼まれた。さきほど言ったとおり面接は禁止となっているので、その対策というわけだ(こちらが職場見学を希望するというのは一向に構わないのである)。

職場見学は、派遣先から3人、こちらは担当者と私の2人である。隣に誰かがいるということで、通常の面接ほどには緊張しなかったと思う。まず担当者が作ってきたA4で1枚ものの簡単な職務経歴書(会社などの個人情報は伏せられている)をもとに、私がこれまでの経歴を説明する。色々と突っ込まれるかと思ったが、先方は私のこれまでした業務にはそれほど関心がなかったようで経験に関する質問は皆無だった。

先方が訊ねてきたのは、

•仕事の内容はこういうことだが、どうだ
•住んでるところはどこか
•正社員ではないが大丈夫か

というくらいで、いま思えばこちらの働く意思を確認したかったような気がする。それからこれはお決まりなことだが、質問はありませんか?というのが出てきた。具体的な職場の雰囲気や人数などがつかめなかったので、その辺りを訊いてみた。そんな感じで職場見学は終わった。所要時間は20分くらいである。

職場を出たあと担当の方から

「どうでしたか?思っていた仕事内容と違ってましたか?」

と訊いてきたので、

「いや、別にありません」

と答えたら、

「では、これから最終選考に入ります。前向きに話をさせてもらってもよろしいですか?」

と言われた。「前向きに」とは派遣会社からは私を推してくれるということか?

「はい。ぜひお願いします」

と即答したら、担当の方はまた再び職場の中に入っていった。

「ここからが最終選考か•••どうなるのかなあ。あとは派遣先の意向だけか」

と不安に思いながら雨の中を歩く。

「上京区に住んでいると言ったら、ちょっと遠いですねえ、と先方は渋い顔をしたしなあ•••」

と相変わらず私は悪い方へ悪い方へとしか考えが至らない。しかし、これまでこれまでなんだから仕方ないではないか。

「合否は当日中にお返事できると思います。もし長引きそうならまた連絡します」

とのことだった。駅から歩いている間はずっとiPhoneを手に握っていた。それでボーっとしていたため、タクシーに引かれそうになる。危ない。

「駄目だったら、また他をあたらないといけないなあ」

そんなことを思うと、部屋で連絡を待つのが辛くなってきた。そこで進路を変更しハローワーク西陣へ行くことにする。天気が悪いせいか人はそんなにいなかった。また、求人も良いものがあまり無かった。20分ほど仕事を検索してもラチがあかないので帰ろうとしたら、ついに派遣会社から連絡がくる。職場見学終了から1時間20分ほど経ったころである。

「渡部さん、さきほどの職場見学ではありがとうございました」

「いえいえ。こちらこそ。お疲れさまでした」

「それで•••ぜひ働いていただきたいと思うのですが」

「•••はい、ぜひお願いします」

涙は出てこなかったけれど、胸の奥からグッとくるものを感じた。これでしばらく就職活動はしなくていいと思うと本当に気持ちが楽になった。

別にこれで何もかもが解決したわけではない。決まった仕事はひとまず最大3年間の契約であり、それ以降の予定は白紙の状態だ。また、私自身もちゃんと勤められるかどうかは正直わからない。

派遣の面接に行くんですと周囲の人に言うと、正社員の方が安定しているよ、と異口同音に答えが返ってくる。しかしこのご時世、正社員になれたからといって万事うまくいくとは限らない。勤務先の方にも、だから私は就業形態にはこだわりません、と強く主張した。これが良かったのかもしれないが。

いずれにしても明後日から新しい仕事の始まりとなる。背広を着て働くのもほぼ1年ぶりだ。この間は本当に辛いものがあった。ある友人は、面接に行きます、と私が言うたびに、受かったら飲みに行きましょう、といつもメールを送ってくれたがそれがもうずっと叶わなかった。しかし今日ようやく約束を果たしてもらえそうだ。

その方以外にも私がフラフラしているのを心配している人は多かっただろう。また、お前なんか早よ死んだらええねん(なぜか関西弁)と思っている人もいるだろう。こちらも正直いって、もう生きていて良いことなんかあるのかねえ、と思うばかりの今日この頃ではある。しかし死ぬほどの決意もない私は、それでもまだしばらくはこの世界で踏ん張ってみようと思う。

追い風か、向かい風か、それはわからない。

しかし風向きは、確実に変わった。
昨年度のことを色々と振り返りながら過去を清算しようと当初は息巻いていたものの、いざ書くとなるとキーボードを打つ手が動かなくなってしまった。人間というのは、本当に辛いことに向き合うとこういう状態になるのだなと感じる。自分の身を切るような思いに駆られてしまうのだ。

何をいま書こうとしているのかといえば、この1年における就職活動の経過についてである。

去年の5月から先月(12年3月)に至るまで、おそらく応募した会社・団体は100に迫ったと思う。そして書類選考が通って面接まで進んだ(またはいきなり面接まで行った件)のが10件ほど、そして実際に採用されたのがたったの1件である。

この結果をそのまま数値化すれば、面接まで進む確率が10パーセント、内定するのは1パーセントだ。

なかなか現実は厳しいものだと感じたが、友人と飲みながらこのことを話すと、

「今はそんなもんでしょう」

としたり顔で言われてやや面食らった。世間でも内定率はそのようなものとどこかで聞いた気もするが、頭で理解するのと実際に体験するのではかなりの乖離があるだろう。本当に100社受けて99社からダメだしをくらうというのが相当に辛い経験である。

「社会における自分の価値ってこんなものなんだな」

そういうことが実際に客観的な数字で出てしまうのも就職活動であろう。ああ嫌だ。

話の流れのついでに、自分の存在が否定された経験をもう一つ紹介しよう。

この1年、各社が提供している求人サイトもかなり利用した。履歴書や職務経歴書はサイトに掲載し、受けたい企業にはサイトを通じてそれを送るから便利だ(気軽に送れる分、競争率も高くなるだろうが)。リクナビNEXT、DODA、en、@type、マイナビ(ここはリクルートを抜いていま一番勢いがあるらしい)など複数の求人サイトに登録し、自分が申し込めそうなものは片っ端から応募してみた。それが積み重なって「99件の企業からダメだしをくらった」ということになるのだが。

それから「転職支援サービス」というものも2回体験したことがある。これはサービスを提供している会社に出向いて担当者と面談し、そこから自分にあった求人を紹介してもらうというものだった。

ここでも本当に嫌な経験をしている。ある外資系のJ社という転職支援の会社に行った時のことである。私は別にここを登録するつもりはなかったが、どこかのサイトに載っている会社を応募したところ窓口がJ社だったのでそこに出向いた。

そこで出会った担当者が最悪だった。私は応募した会社のことを訊きたかったのに、関係ないことを根掘り葉掘り訊いてきた上で、

「前の会社に残った方が良かったんちゃいます?」

と、とんでもない暴言を吐いてきたのである。いくらなんでも、辞めた人間に対してこのセリフは禁句だろうが。

「会社が泥舟だったから、沈む前に辞めてやったんじゃ!」

と言いたかったけど、あまりに頭がカッとなって何も口から出てこなかった。

話を聞けばこのHという男、なんでも36歳にしてJ社が5社目というから、まともに積んだ実績など何も無いのだろう。J社も彼が何度も会社を変えてるから「何社も就職に内定した実績がある」とでも評価して採用したのだろうか。そんなバカな。

この後も、字が汚いだの、面接は場数を踏まないといけないから何度も受けるしかない、だのと、

「その程度の話だったら中学生でも言えるぞ!」

というようなレベルのアドバイス(?)を受けて、気分が悪いまま部屋を出たのを今でも覚えている。

冷静に話を戻せば、転職サービスの連中に過度の期待をするのは止めた方が賢明だ。このサービスによって採用された場合、採用した会社は新入社員の年収の2割くらいだったな、転職支援会社への手数料として支払うシステムになっている。連中はあくまで金をもらう側に目が向いているわけで、応募してくる人間は「商品」の候補に過ぎないのだ。そういう関係だけは頭に入れておいた方がよい。

非公開の求人を紹介してもらえるというメリットはあるにはあるものの、おかしな会社を紹介される可能性も否定できない。私だって、そこは嫌だというのに光通信の関連会社を何度も紹介された。この担当者は人の話を聞いてないなと感じた。さきほどのHのこともあるけれど、転職支援のアドバイザーもたいした能力があるわけでもないということも付け加えておこう。

しかしながら、こんなに文句ばかり言ってから書くのもどうかと思うが、光通信でもなんでも紹介してもらえるだけまだマシだったかもしれない。他の転職サイトでも転職支援サービスを申し込んでみたものの、紹介できるところがありません、というメールが届いて終わりだったから。ああ、辛い。

そういえば面談をした時、転職をする年齢が「32歳」が限度と教えられたことがある。35歳ではちょっと遅かったですねえ、と言われたのも結構ショックを受けたことも今も生々しく記憶に残っている。

となれば今年で36歳になる私は、また再び転職活動をするとしたらさらに厳しい道を歩まねばならないだろう。採用率は0.5パーセントくらいまで落ちるだろうか。それをカバーするためには何かスキルアップをしないといけないと思うが、さてどうしようかと思案している今日このごろである。
会社を辞めて一番つらかったことは収入源が無くなったことなのは間違いない。だが、およそ12年ぶりにまた再び就職活動を始めるというのもそれに次ぐくらい苦しいものだった。会社を辞める踏ん切りのつかない方は、また就活をするのが嫌だ、というのも多いに違いない。いや、大半の人にとってはもう経験したくないことだろうか。

そもそも私は、自分がまたどこかで採用されるようなことなどあるのだろうか?という疑念を常に抱えたまま活動してきた。端から見ればとんでもなくネガティブな考え方だし、よくそれで会社を辞められたなあと呆れる方もいるだろう。

思い起こせば、12年前も同じような心境で就職活動をしていた。私は生まれつき(?)「働く」ということが好きではなかった。会社や社会に対して漠然とした不安を抱いていて、大学に入ったのも自分の将来を先延ばしするということが大きな目的だったのではないかと思う。

そうした思いもあり、大学4回になっても就職活動はほとんどしなかった。働きたくないので大学院に進もうと思ったからだ。しかし別に学業成績が良いわけでもなくそのような弱い意志の人間が試験を通るわけもなく、年に2回あった大学院試験を落ちて、その時点でもう3月だった。そのまま私は大学を出てしまうことになる。

大学を出たものの何のアテもない。その時の自分の選択肢は二つしかなかった。大学院の聴講生となって勉強をしながらまた受験をするか、スッパリ諦めて就職活動をするか。そのいずれかである。

大学院試験を2回落ちた時点でもう、自分の頭では大学院に通るのは無理だなと感じていた。恥をさらさせてもらえば、もはや何をどう勉強したら合格レベルに達するのかも見当がつかなかったくらいだ。

また、ゼミの担当だった教員にしても酷い指導をする人で、

「お前は頭が悪い。もっと勉強しろ」

という程度の抽象的なレベルのことしか言えないのだ。これは誇張でもなんでもない。彼から具体的な指導など受けたことは一度もないと断言できる。

「こりゃあ、たかが半年や1年勉強したところ受かるのは無理だな」

と私はこの時点でようやく諦めがついた。こうして私は社会を出る決意をかためることになる。そして後日、教員の部屋に入って大学院進学を諦め就職活動をすることを伝えた。劣等生の私が去ることに対して何も言わないだろうとタカをくくっていたら、教員は怪訝そうな顔をしてこんなことを口走った。

「うーん•••しかし、渡部君。君に何ができるというんだ?」

この野郎。人をバカバカ言っておいて、就職しますといったらこのセリフかい。

「お前は俺にどうしろというんだ?」

と言いたかったが、その場は黙って部屋を去った。彼と話しても何の生産性もないし。

それでも教員は私のことが心配だったらしく、しばらくしてメールが届いた。宇治にある黄檗病院で患者さんの世話をするアルバイトがあるから行ってみないかということだった。何もしないのもどうかと思っていたところなので、面接へ行ってみることにした。しかし、これがいけなかった。面接における私の態度が悪かったのか、後日に教員から電話がかかってきて、

「黄檗病院が、渡部君の採用を遠慮したいと連絡がきた。渡部君からやる気が全く感じられない。この仕事は患者を相手をするし、それでは困ると」

ここまでは、まあ仕方ないと思う。しかし教員はさらにこう続けてきたのである。

「僕が心配なのは、人がいなくて困っているところにも受からないんだったら、渡部君はもうどこも行くところがないんじゃないかと•••」

おいおい、そこまで言うかよ。俺はあんたに就職を面倒みてくれとも言ってないし、進路について相談もしてないぞ。そんなこと期待もしてないし。

ちなみにこの人、臨床心理士の資格を持っているというのだから恐ろしい。別に資格があるからどうとか言うつもりもないけれど、一応カウンセリングをしている人が他人の存在まで否定するような発言をするとは。これはまさにブラックジョークである。

この時点が2000年5月くらいだったろうか。そして残念なことに、この教員が予言したごとく、私は1年ほど仕事が見つからないまま過ごすことになった。その間ずっとこの教員の、お前はどこも受からない、というセリフに苦しめられることになる。カウンセラーに心の傷を植え付けられたわけだ。

長々と昔話をしてしまった。しかし昨年会社を辞めてまた就職活動をしているうちに、またこの古傷が痛みだしてしまったのだ。企業に履歴書を送っても通らない。運良く面接まで進んでも採用に至らない。こういう体験をするたび、

「お前なんかどこにも受からない」

という声が心の底から聞こえてくるのは非常に辛いものだった。そしてハッと気付いてしまった。

俺は12年前と同じ轍を踏んでいるのではないか、と。この間に死ぬほど働いたとか勉強をしたという自信はないけれど、それなりに色々と挑戦や努力はしたつもりだった。しかしこうして就職に苦労した自分を見ると、その根本は何にも変わっていないではないか。そう考えると背筋がゾッとした。

人間の能力は努力によって伸ばすことができる、という素朴な思い込みをすることは、今の自分にはもうできない。

人間はそう簡単に変われない。もしかしたら、何にも変わらないのかもしれない。

それは自分の経験から導いた結論である。

しかし、私たちはそれでも生きていかなければならない。

「風花 御前三条店」よ永遠に そして、ありがとう仲本夫妻
「風花 御前三条店」よ永遠に そして、ありがとう仲本夫妻
本日より新たに2012年度が始まったが、その初日からいきなり厳しい出来事を経験することなる。

それは何かといえば、私がずっとお世話になっていたラーメン店「風花 御前三条店」(2010年5月25日開業)が本日をもって営業を終了するからだ。店長の仲本さんには前身のお店「kirari」(2007年3月6日〜2010年1月24日)からお世話になっていたから、5年ほどの付き合いになる。kirariは私の部屋から徒歩数分のところで営業していたので、毎日のようにいたような気がする。あまりに頻繁に店に来ていたため、厨房にも入っていた時期があったような気もするが、それはたぶん何かの勘違いだろう。

この間の仲本店長の歩みは端で見ていても困難なものだった。まずお世辞にも良いとはいえない立地において「kirari」がむりやり営業がスタートした。ほとんど休みも与えられぬまま朝から夜遅くまで働き通し、その努力が実ってお客が増えてきたと思ったら社長が店の移転(ここもあまり場所が良くなかった)を突然決める・・・。メチャクチャなことがまだまだあったような気がするが(店内にかける音楽をクラシックにする、など)、あまりに矛盾の多い経営方針に仲本さんが振り回されているのは見ていて辛かった。

また私としても、

「どんなに生活が困ったとしても、飲食店だけは絶対しないぞ!」

と心の中に深く刻まれてしまった。

そんな仲本さんがこのたび「風花」の営業を辞めて、こっちで知り合った奥さんと実家のある千葉へ帰ることになった。その理由は、上のような経営方針のところであるということからお察しいただければと思う。その先のことは決まっていないという。

「次が決まってから辞めたら良かったんですよ!」

などと叫びたいところだが、この3月11日に会社を辞めて3月25日に滑り込みで職場を確保した自分にそんなことが言えるわけがない。ただ、彼の近くにいた自分としては、もっと良い形で京都を離れる選択肢がなかったのかなあと自責の念にかられてしまうのだ。

この日はもう予定がなかったので、昼間は1人で夜は友人と二人でお店にお邪魔した。昨日(3月31日)は開業以来はじめてお客が100人を超えたという。御前三条という場所で100人を集めたというのはたいしたものだ。ちなみに昼は「鶏煮干し醤油らーめん」とチャーハンのセット、夜は天然塩らーめんを食べた。「鶏煮干し醤油らーめん」は仲本さんが独自に開発したレシピでこの店の看板メニューだ。作り方は社長には教えないという。そりゃそうだろうな。

これらのラーメンをもう食べられないということも残念ながら、私としては自分の部屋以外に唯一の居場所が無くなってしまうのが本当に辛い。しかしそれを嘆いているわけにはいかない。

最後に、仲本夫妻へ。

ネットでこのお店の評判はいくらでも紹介されているので、これを実績として示せば再就職もそれほど困難ではない、と思います。今の時代に生まれたメリットを活かして頑張ってください。京都から離れるという決断をしたからには、ここよりマシな生活を送れることを願っています。

いままで本当にありがとうごございました。
Crossroad,Again
2012年3月31日、2011年度も今日で終わりを迎える。

この1年はあまりに色々なことが起きた。10年近く勤めていたかつての職場を4月に去り5ヶ月間も無職の状態が続き、やむを得ず入った今の職場で半年は耐えたものの本日を持って終わりにした。そして来月の7日からまた新しい場所で働くこととなる。

1年を振り返ると、良いことといえる出来事はほぼ皆無だった。前の会社を辞めたため収入が激減し、次の職場が見つからない時期に貯金もほぼ使い果たしてしまった。また人間関係も色々とゴタゴタした部分も出てくる。半年いた職場は身体的に苦痛の多いところであったけれど、精神的な負担はさらに重たいところだった。


転職活動も険しい道であった。書類が通らない、面接も全く通らないの繰り返しが続き気が滅入る一方の状態が1年ちかく続いたのだから。自分の社会的価値ってこんなものなんだな、と嫌でも痛感せざるをえなかった。

しかし、嘆いてばかりいるわけにもいかない。私の友人も職場を辞めたりリストラをしたりと環境がめまぐるしく変わっていっている。苦しいのは自分だけではないのだ。

とりあえず現状をいったん清算して新しいスタートを切れるのだから、今年度よりは上向きな状態に持っていくしかない。


とはいいながら、来月以降どうなるのか、正直いって見当がつかない。もしまた仕事で辛い場面に出会ったら、この「十字路」の写真を見よう。半年した仕事場の一部の光景だ。

「この時の状況に比べたら今の方がいくらかはマシだろう」

と。そして、

「もう二度とここには戻ってくるまい」

と心を奮い立たせてまた仕事に向かうと思う。

それでは最後の勤務のため、部屋を出ます。



友人のライブを久しぶりに観ながら思ったこと
今日の夜、大阪の十三にあるライブハウス「CLUB WATER」まで足を運ぶ。大学の同級生であるTOSHI君が久しぶりにバンドでライブ、しかも単独でライブをおこなうということで参加したのである。私は数えてなかったけれど、結成したからもう10年経つという。そして、初のワンマンライブだ(よね?)

彼のバンド「teentrash」の音源はMy Spaceで聴くことができるので、よかったら聴いていただきたい。
http://www.myspace.com/teentrashjapan

10周年と聞いたときは単純に、よくここまで続けられたなあ、と素直に感心した。私はteentrashの立ち上げから観ているけれど、端から見てもその道は決して平板なものではなかった。バンドのメンバーは流動的で、ドラムス不在のため打ち込みでライブをしていた時もある。そもそも、TOSHI君が当初ベース担当だったことなど、知っている人がどれほどいるか。しかしそれでもTOSHI君はteentrashの屋号を捨てることなく今日まで至っている。彼自身もMCでこれまでの歩みを語っていたけれど、本当に色々あったんだなあ、と個人的にはなかなか感慨深いものがあった。

私は大学生時代からTOSHI君のステージを観ているけれど、別に彼の音楽性に深く共鳴したというような類ではない。実際、彼のルーツとなっている音楽やミュージシャンと自分にはほぼ接点はないだろう(笑)。そんな人間がどうしてTOSHI君およびteentrashを観てきたかといえば、実際のところよくわからないのだが、敢えて言えば自分の身近で表現活動をしている人に強い関心を覚えていた、というところではないだろうか。しかし私の定点観測も10年になるということでもある。なかなかこれも凄いことかもしれない。

昔の話をさせてもらえば、活動してしばらくの間はあまり楽しんでライブを聴けていなかったと思う。それは彼らの音楽性がどうとか以前に、ライブでのサウンドがかなりグシャグシャしていて聞き苦しかったからだ。この辺りは彼らと同じステージに立っていたバンドも同じであったので、音質のコントロールというのはなかなか難しいものなのかもしれない。

しかしそれが少し変わってきたかなと感じた瞬間がある。それは彼らが初めて公式レコーディングしたミニ・アルバム「This is life style」(07年)を作ったあたりだった。この辺りからライブでの音も少しくっきりしたような、そんな印象を抱く。そして今回会場で渡された「MOTIV」という8曲入りの音源はそこからさらに進化しているteentrashがいる。本人はどう思っているかわからないけれど、明らかに成長している部分は確かにあると言いたい。

一方、では自分がずっと続いているのは何だろうと自問してしまう。せいぜいこのブログくらいなのか、と思うとこれから先の人生に対して暗澹とした気持ちになってくる。

この日のライブで本編最後に演奏したのは”アネモネ”という曲だった。アネモネとは花の名前で、この曲名はパッと思い浮かんでつけたけれど後で意味を調べたら「はかない希望」だった、というようなことがTOSHI君がMCで語る。しかし私もネットで意味を探してみたけれど、「はかない希望」というのは「意味」でなく「花言葉」のことであろう(MCの聞き違いだったらすいません)。

「語源辞典」というサイトによれば、
http://gogen-allguide.com/a/anemone.html

アネモネの意味自体は「風の子」、「風の娘」という意味らしい。花言葉についてはウィキペディアで「はかない夢」、「薄れゆく希望」と載っていた。

それはともかく、いまのToshi君の心境からこの曲を選んだのであろう。彼の立場とはまた違うけれど、自分の中にも「はかない希望」のようなものが残っているのだろうか、などという想いがなんとなく胸に去来する。

teentrashがこれからどのような道のりを歩んでいくのか全くわからない。ただ、続けていくという行為はなかなか重たいものを含んでいるのだなと勝手に思いながら、翌日も朝早くから仕事のある私はそそくさと会場をあとにした。

最後に「希望」と聞いて私がパッと思いつく文章をTOSHI君に送りたい。それは暗黒時代の中国を生きた思想家、魯迅が1921年に発表した小説「故郷」の最後に書かれている一文である。いまはすっかり読まなくなったけれど、評論家の佐高信さんが著書でよく引用した箇所だ。

<思うに、希望とは本来「ある」ものとも言えなければ、「ない」とも言えないものだ。それは、地上の道のようなものなのだ、見よ、地上にはもともと道などなかった、そこを行く者が多ければ、それがやがて道になるだけではないのか。>

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