ブログのコメントなんてもう要らねえや
2016年6月27日 読書
自分にしては短期間の間に、ブログに対する匿名のコメントが相次いだ。たいした内容でもなかったし無視をするのが最善策なのだが(炎上は書いた人のコメントによって発展することが大半だ)、まあ返事をしてやろうか、という良からぬ思いが頭に浮かび書き込みをしてみる。すると、もっとろくでもないコメントがまた書き込まれて少なからず気分が悪くなった。また、こんなものに相手をしたことについても後悔をする。そしてそのまま、コメント機能自体を停止する処置をとった。
これまでコメント機能を不特定多数から受け付けるようにしていたのは、ブログを公開しているのだから書いた内容について「ある程度は」責任をとりたいという私なりの意志表示であった。もちろん、「誰かから反応が欲しい!」という虚栄心があったことも間違いない。FacebookやInstagramで「いいね!」が欲しい、という人の感覚と同類のものだ。しかし最近しばらく考えて、自分は別にそんな反応は必要ないかな、と考え直すようになった。
一番の理由は、匿名でコメントしてくる人間なんてろくでもない輩だ、という厳然とした事実である。それは実社会で同じような行為をすることと比較してみれば実感できるだろう。匿名の投書や非通知の電話で批判的なクレームをするようなものだ。そんなことをする輩の人間性など、推して知るべし、だろう。
これに対して、赤の他人へ面と向かって何か言うことなど、そうそうできるものではない。たとえば道端でマナーの悪い若者を見かけたとして、彼らに注意をする人などごく少数である。返り討ちにあって殺されるリスクもあるし、見て見ぬふりをしてその場を立ち去るほうが賢明ではないだろうか。現実ではこんな具合の人が大半なのに、ネットの世界に目を向けてみれば・・・これ以上の説明は不要である。
そんなことが念頭にあったのかもしれないが、私自身はネットで不快な意見のようなものを見ても何か反応したとかコメントを書いたとかいったことは一切ない。実社会ではおかしな行動をネットでは平気で展開するというのはダブル・スタンダードであろう(実名でSNSを使っている手前もあるが)。
そう考えてみると、コメントを書いたり書いてもらったり、というのはけっこう危険な要素を孕んだ行為に思えてくる。周囲の影響でなんとなくSNSを始めた人が、見知らぬ人からのコメントで嫌になってその世界から退場したという話は枚挙にいとまがない。SNS自体はあった方が便利であるし私自身は辞めるまではしないと思うが、より快適に使うためにも見知らぬ人のコメントはもう受け付けないことにする。
匿名うんぬんに対してこのようなことを述べると、必ず反感を抱く人は出てくるだろう。そこで、想像できそうな反論を取り上げて、それについての私の見解を説明してみたい。
まず、匿名での書き込みのほうが自由な議論ができる、というようなよくある意見に対してだ。これについては、匿名で書き込みをしている時点でそいつはクズだ、と言って終わりにしたい。と言いたいところだが、今回のために再読した仲正昌樹さんの「知識だけあるバカになるな!」(08年、大和書房)を参考に、もう少し冷静に掘り下げてみる。
もしもお互いの考えを深めたいと真剣に考えて「議論」とか「討論」をするならば、そのためにはかなりの事前準備が必要になってくる。お互いの立場や意見の前提となる根拠や学説などを揃えてルールを決めて行わなければ、生産性のある結果にはまずならないだろう。つまり議論というのはまともにするのはかなり面倒な作業なのだが、ネットに巣食う「名無しさん」がそこまで準備して議論をしようと思ってコメントなどするわけがない。いわゆる「脊髄反射」に対してまでこちらが相手にすることはあまり意味がないだろう。
「コメントを閉ざすのはもったいない。さまざまな意見をやりとりしていけばより良い結論を導きだせる」
というような考えの人もいるかもしれない。しかし、それはおそらくヘーゲルやマルクスの主張していた弁証法的な考えを信じすぎているのではないだろうか。弁証法について簡単に説明すれば、意見の違う2人がガンガン言い合っているうちにもっと高い次元で一つの答えが出てくる、というような考え方である。世の中には、とりあえず議論をするのは良いことだ、というような風潮が見られるが、それはひとえに弁証法的な考え方が浸透している証拠である。
しかし、現実社会を見ればわかるが、弁証法的に議論をしたところで素晴らしい答えが出てくるような場面ははまずない。何のルールも定めないで単に意見をぶつけ合ってしまえば、罵倒し合うだけになるに決まっているだろう。TwitterやFacebookなどで無意味な論争や意見のすれ違いが生じるのは、議論の前提となる取り決めが全くされないからである。
思えば、インターネットを初めて触れたのは1996年、大学1回生の時に大学図書館にあったパソコンによってであった。それから20年ほど経過したわけだが、Yahoo!掲示板とか2ちゃんねるとかmixiとか論争の場はいろいろと歴史をたどっている。しかしいつでもどこでも、議論という名の罵り合いで終始しているのには変わりないだろう。こちらはもう人生の半分も終わったことであるし、そうしたこととも関わりを避けたいと思ってコメント機能を停止した次第である。
最後に、
「偉そうに言っているが、そもそもお前の書いている内容が不十分なのが根本なのでは?きっちりした文章を書けばおかしなコメントなど書かれない」
などと「正論」を吐く方に対しては、こう申し上げたい。
「すんまへん。こ・れ・し・か・で・き・ん・か・ら!」
これまでコメント機能を不特定多数から受け付けるようにしていたのは、ブログを公開しているのだから書いた内容について「ある程度は」責任をとりたいという私なりの意志表示であった。もちろん、「誰かから反応が欲しい!」という虚栄心があったことも間違いない。FacebookやInstagramで「いいね!」が欲しい、という人の感覚と同類のものだ。しかし最近しばらく考えて、自分は別にそんな反応は必要ないかな、と考え直すようになった。
一番の理由は、匿名でコメントしてくる人間なんてろくでもない輩だ、という厳然とした事実である。それは実社会で同じような行為をすることと比較してみれば実感できるだろう。匿名の投書や非通知の電話で批判的なクレームをするようなものだ。そんなことをする輩の人間性など、推して知るべし、だろう。
これに対して、赤の他人へ面と向かって何か言うことなど、そうそうできるものではない。たとえば道端でマナーの悪い若者を見かけたとして、彼らに注意をする人などごく少数である。返り討ちにあって殺されるリスクもあるし、見て見ぬふりをしてその場を立ち去るほうが賢明ではないだろうか。現実ではこんな具合の人が大半なのに、ネットの世界に目を向けてみれば・・・これ以上の説明は不要である。
そんなことが念頭にあったのかもしれないが、私自身はネットで不快な意見のようなものを見ても何か反応したとかコメントを書いたとかいったことは一切ない。実社会ではおかしな行動をネットでは平気で展開するというのはダブル・スタンダードであろう(実名でSNSを使っている手前もあるが)。
そう考えてみると、コメントを書いたり書いてもらったり、というのはけっこう危険な要素を孕んだ行為に思えてくる。周囲の影響でなんとなくSNSを始めた人が、見知らぬ人からのコメントで嫌になってその世界から退場したという話は枚挙にいとまがない。SNS自体はあった方が便利であるし私自身は辞めるまではしないと思うが、より快適に使うためにも見知らぬ人のコメントはもう受け付けないことにする。
匿名うんぬんに対してこのようなことを述べると、必ず反感を抱く人は出てくるだろう。そこで、想像できそうな反論を取り上げて、それについての私の見解を説明してみたい。
まず、匿名での書き込みのほうが自由な議論ができる、というようなよくある意見に対してだ。これについては、匿名で書き込みをしている時点でそいつはクズだ、と言って終わりにしたい。と言いたいところだが、今回のために再読した仲正昌樹さんの「知識だけあるバカになるな!」(08年、大和書房)を参考に、もう少し冷静に掘り下げてみる。
もしもお互いの考えを深めたいと真剣に考えて「議論」とか「討論」をするならば、そのためにはかなりの事前準備が必要になってくる。お互いの立場や意見の前提となる根拠や学説などを揃えてルールを決めて行わなければ、生産性のある結果にはまずならないだろう。つまり議論というのはまともにするのはかなり面倒な作業なのだが、ネットに巣食う「名無しさん」がそこまで準備して議論をしようと思ってコメントなどするわけがない。いわゆる「脊髄反射」に対してまでこちらが相手にすることはあまり意味がないだろう。
「コメントを閉ざすのはもったいない。さまざまな意見をやりとりしていけばより良い結論を導きだせる」
というような考えの人もいるかもしれない。しかし、それはおそらくヘーゲルやマルクスの主張していた弁証法的な考えを信じすぎているのではないだろうか。弁証法について簡単に説明すれば、意見の違う2人がガンガン言い合っているうちにもっと高い次元で一つの答えが出てくる、というような考え方である。世の中には、とりあえず議論をするのは良いことだ、というような風潮が見られるが、それはひとえに弁証法的な考え方が浸透している証拠である。
しかし、現実社会を見ればわかるが、弁証法的に議論をしたところで素晴らしい答えが出てくるような場面ははまずない。何のルールも定めないで単に意見をぶつけ合ってしまえば、罵倒し合うだけになるに決まっているだろう。TwitterやFacebookなどで無意味な論争や意見のすれ違いが生じるのは、議論の前提となる取り決めが全くされないからである。
思えば、インターネットを初めて触れたのは1996年、大学1回生の時に大学図書館にあったパソコンによってであった。それから20年ほど経過したわけだが、Yahoo!掲示板とか2ちゃんねるとかmixiとか論争の場はいろいろと歴史をたどっている。しかしいつでもどこでも、議論という名の罵り合いで終始しているのには変わりないだろう。こちらはもう人生の半分も終わったことであるし、そうしたこととも関わりを避けたいと思ってコメント機能を停止した次第である。
最後に、
「偉そうに言っているが、そもそもお前の書いている内容が不十分なのが根本なのでは?きっちりした文章を書けばおかしなコメントなど書かれない」
などと「正論」を吐く方に対しては、こう申し上げたい。
「すんまへん。こ・れ・し・か・で・き・ん・か・ら!」
吉永賢一「東大家庭教師の 頭が良くなる思考法」 (15年。中経の文庫)
2015年11月28日 読書
40年近く生きているが、本をたくさん読んできたとはお世辞にも言えないだろう。1年の間に購入した書籍(雑誌や漫画も含む)は20冊を上回るかどうかという程度だと思う。ここ数年においてはTOEIC関連の書籍が大半なので、純粋に「読書をしたい」と思って買った本は数冊とかいうレベルである。
自分の読書における環境がこの程度であるけれど、それでも「この本を買って良かった!世の中を見る目が変わった!」と感じる書籍との出会いはそれほど多くはない。おそらく、それは何冊読んだとかいった量や数の問題とは別の次元にあるからに違いない。
では何が大事かといえば、それはもう「個々人の事情」というしかないだろう。
本の素晴らしさを述べるときに、何度読んでも新しい発見がある、というような形容をよく見かける。同じ本でも時が経つにつれてその印象が変わってくるということだが、それは読む人の内面が変化したことの結果に他ならない。これは完全に、読む人の事情による一方的な見解である。書籍になってしまった文章がある日いきなり内容が変わるわけがないのだ。
それはともかくとして、本の内容そのものが大事なのは大前提であるが、それを読んだ時代とか環境といった要因は同じくらい重要な気がしてならない。本書を読んで一番感じたのはその辺りだった。おそらく10代や20代で本書を読んでも、自分には大して利益にはならなかっただろう。それどころか反発すら覚えたかもしれない。当時の自分ではとても受け入れられないことが書かれているからだ。その辺りを中心にこの本を紹介してみたい。
「東大家庭教師の 頭が良くなる思考法」(15年。中経の文庫)は「思考法」と題されているので、ジャンルとしては「ビジネス書」または「自己啓発」といったところに分けられるだろう。著者の吉永賢一さんは会社社長とか経営コンサルタントとかいったビジネス畑の人ではなく、学生時代から現在まで家庭教師として活動されている。23年間で約1500人の指導をした経験から本書の「思考法」が導き出された。
ビジネス書や自己啓発書はたくさん読んでも役に立たない、と言われることがある。その大きな理由に、良いことが書かれてあっても自分の生活や仕事に具体的に落とし込むことが容易ではないからだ。ひらたく言えば、書かれているノウハウが「使えない」というわけである。私自身もそういうイメージがあるためビジネス書はあまり買ったことがない。
これに対して吉永さんの一連の著書は、書かれている項目の一つ一つが極めて「具体的」に示されてる。それによって「成功」するかどうかはまた別の話だが、読んですぐに実践可能なことがたくさんあり試してみることは簡単だ。それはおそらく家庭教師という仕事の経験が活きているのだろう。目の前にいる子どもをどうやって勉強する気にして成績を上げるか。そのような問題を膨大に取り組んでいったら優れた勉強法や記憶法などが生まれるのは想像に難くない。
本書は、
<「問題解決」のための思考法>(P.29)
を解説した本であり、「問題」とは「それを解消したり、実現できたりすれば、あなたがハッピーになれること」(P.19)と定義されている。そのために大切なのが「思考を適切にしていくこと」(P.23)であると吉永さんは指摘する。
<思考を整えていくというのは要するに、身のまわりの問題を解決し、あなた自身の人生を変えるための方法だといえます。>(P.24)
悪い思考を止めて適切な思考法を実践すれば、自分にとりまく「問題」を処理して人生を変えることができる。そのための方法論をまとめたのが本書である。
個々の内容については触れるとキリがないため、私が最も感銘を受けた2点について述べてみたい。
一つは、物事には「コントロール内/コントロール外」に分けることができ、コントロール外のことは自分ではどうにかならないから変えようと思うな、というのである。
<なぜなら他人は基本的にコントロール外だからです。こちらがどんなに強く念じようが、命令しようが、他人はこちらの100%思い通りには動いてくれないものです。
「自分のコントロール外」は自分の力ではどうにもできません。それをどうにかしようというのは、ひたすらエネルギーを消耗するだけで、問題は未解決のままです。>(P.27)
これは本書に幾つかある重要な指摘の一つだが、ここをスッと受け入れられるかどうかが本書の価値を決める分岐点である。周囲を動かすというのは非常にエネルギーが必要な作業で、しかも効果は薄い。しかし、そうした現実を受け入れるにはある程度の大きな視点を持っていなければならない。
ただ「他人は変えられない」という指摘自体は多くの自己啓発書でもよく言われていることである。これで終わったら本書も同じレベルでとどまっていた。
先ほどコントロール内外という話が出たが、
<いまの自分に「できないこと」はしない。「できること」をするーーー。これを行動方針の大原則をしてください。>(P.80)
自分の中にも「コントロール外」と「コントロール内」の物事が存在する。だからこそ、その2つを冷静に分析して「いまの自分にできること」(=コントロール内のこと)だけを実践するようにしようということなのである。このあたりも自分をどれだけ客観的に分析できるかどうかが、結果を出せるかどうかの重要なポイントであろう。
一言でまとめてみれば、成功のためには「コントロール外」のことは無視し「コントロール内」のことだけを実践せよ、ということになる。これはパッと見た感じでは非常に簡単に見えるが、そのためには必要な条件があることに読まれた方は気づいただろうか。
「コントロール内」と「コントロール外」を分けて分析するためには、自分の「限界」という部分を見分けられなければならない。これが大原則である。つまり、自分を客観視できない人間には本書の内容はほとんど「使えない」はずだ。
置かれている環境に無関心な人ほど「俺にはまだ無限の可能性がある!」などと思いがちである。自分が「成功」していないのは努力が足りないからでそこをクリアすれば結果が出せる。また、そのための時間はまだいくらでもある。このような「若い」(それは年齢という意味ではない。年をとっても精神が「若い」人はたくさんいる)考えの方々には「世の中にはコントロール外という出来事がある」という事実を到底受けいれられないだろう。
しかし当の私はといえば、もう来年40を迎える年齢となり、あとどれくらい人生が残っているのかと考える場面も多くなった。また、人生の選択肢も狭まる一方で、体力も知力も衰えは明らかである。そうした中でどのようにこれからを過ごしていくのかと悩むこともある。
そんな時に本書に出会い、砂の中に水が吸い込むようにその内容が頭に入っていった。そうか。できないことは「仕方ない」(=コントロール外)と受け入れ、今の自分にできること(=コントロール内)を専念すれば良いのか。そう確信するに至った。
そして本書にはこのようなことは書かれてなかったはずだが、私は「成功」というものの定義がこれを読んで確かになった。
それは、
「人間は自分に『できる』範囲のことしかできない。そして『できる範囲』の中にしか「成功」はない」
ということである。
全ての現実を受け入れて、そして「いまの自分ができること」を専念していけば「成功」と言われるような境地にもたどり着ける可能性はある。そんな道筋を本書によって知った気がする。
振り返ってみれば、意味のない行動や無駄な思考ばかりの40年近くだった。しかしこれからは本書に書いていることを参考にしながら、少なくとも人生の前半よりは素晴らしいものにしたいと思っている。
そして自分の可能性を冷徹に分析して、それでも残りの限られた人生を充実させたいと願う人にはこの本をぜひ読んでいただきたいと思い、今回紹介した次第である。
自分の読書における環境がこの程度であるけれど、それでも「この本を買って良かった!世の中を見る目が変わった!」と感じる書籍との出会いはそれほど多くはない。おそらく、それは何冊読んだとかいった量や数の問題とは別の次元にあるからに違いない。
では何が大事かといえば、それはもう「個々人の事情」というしかないだろう。
本の素晴らしさを述べるときに、何度読んでも新しい発見がある、というような形容をよく見かける。同じ本でも時が経つにつれてその印象が変わってくるということだが、それは読む人の内面が変化したことの結果に他ならない。これは完全に、読む人の事情による一方的な見解である。書籍になってしまった文章がある日いきなり内容が変わるわけがないのだ。
それはともかくとして、本の内容そのものが大事なのは大前提であるが、それを読んだ時代とか環境といった要因は同じくらい重要な気がしてならない。本書を読んで一番感じたのはその辺りだった。おそらく10代や20代で本書を読んでも、自分には大して利益にはならなかっただろう。それどころか反発すら覚えたかもしれない。当時の自分ではとても受け入れられないことが書かれているからだ。その辺りを中心にこの本を紹介してみたい。
「東大家庭教師の 頭が良くなる思考法」(15年。中経の文庫)は「思考法」と題されているので、ジャンルとしては「ビジネス書」または「自己啓発」といったところに分けられるだろう。著者の吉永賢一さんは会社社長とか経営コンサルタントとかいったビジネス畑の人ではなく、学生時代から現在まで家庭教師として活動されている。23年間で約1500人の指導をした経験から本書の「思考法」が導き出された。
ビジネス書や自己啓発書はたくさん読んでも役に立たない、と言われることがある。その大きな理由に、良いことが書かれてあっても自分の生活や仕事に具体的に落とし込むことが容易ではないからだ。ひらたく言えば、書かれているノウハウが「使えない」というわけである。私自身もそういうイメージがあるためビジネス書はあまり買ったことがない。
これに対して吉永さんの一連の著書は、書かれている項目の一つ一つが極めて「具体的」に示されてる。それによって「成功」するかどうかはまた別の話だが、読んですぐに実践可能なことがたくさんあり試してみることは簡単だ。それはおそらく家庭教師という仕事の経験が活きているのだろう。目の前にいる子どもをどうやって勉強する気にして成績を上げるか。そのような問題を膨大に取り組んでいったら優れた勉強法や記憶法などが生まれるのは想像に難くない。
本書は、
<「問題解決」のための思考法>(P.29)
を解説した本であり、「問題」とは「それを解消したり、実現できたりすれば、あなたがハッピーになれること」(P.19)と定義されている。そのために大切なのが「思考を適切にしていくこと」(P.23)であると吉永さんは指摘する。
<思考を整えていくというのは要するに、身のまわりの問題を解決し、あなた自身の人生を変えるための方法だといえます。>(P.24)
悪い思考を止めて適切な思考法を実践すれば、自分にとりまく「問題」を処理して人生を変えることができる。そのための方法論をまとめたのが本書である。
個々の内容については触れるとキリがないため、私が最も感銘を受けた2点について述べてみたい。
一つは、物事には「コントロール内/コントロール外」に分けることができ、コントロール外のことは自分ではどうにかならないから変えようと思うな、というのである。
<なぜなら他人は基本的にコントロール外だからです。こちらがどんなに強く念じようが、命令しようが、他人はこちらの100%思い通りには動いてくれないものです。
「自分のコントロール外」は自分の力ではどうにもできません。それをどうにかしようというのは、ひたすらエネルギーを消耗するだけで、問題は未解決のままです。>(P.27)
これは本書に幾つかある重要な指摘の一つだが、ここをスッと受け入れられるかどうかが本書の価値を決める分岐点である。周囲を動かすというのは非常にエネルギーが必要な作業で、しかも効果は薄い。しかし、そうした現実を受け入れるにはある程度の大きな視点を持っていなければならない。
ただ「他人は変えられない」という指摘自体は多くの自己啓発書でもよく言われていることである。これで終わったら本書も同じレベルでとどまっていた。
先ほどコントロール内外という話が出たが、
<いまの自分に「できないこと」はしない。「できること」をするーーー。これを行動方針の大原則をしてください。>(P.80)
自分の中にも「コントロール外」と「コントロール内」の物事が存在する。だからこそ、その2つを冷静に分析して「いまの自分にできること」(=コントロール内のこと)だけを実践するようにしようということなのである。このあたりも自分をどれだけ客観的に分析できるかどうかが、結果を出せるかどうかの重要なポイントであろう。
一言でまとめてみれば、成功のためには「コントロール外」のことは無視し「コントロール内」のことだけを実践せよ、ということになる。これはパッと見た感じでは非常に簡単に見えるが、そのためには必要な条件があることに読まれた方は気づいただろうか。
「コントロール内」と「コントロール外」を分けて分析するためには、自分の「限界」という部分を見分けられなければならない。これが大原則である。つまり、自分を客観視できない人間には本書の内容はほとんど「使えない」はずだ。
置かれている環境に無関心な人ほど「俺にはまだ無限の可能性がある!」などと思いがちである。自分が「成功」していないのは努力が足りないからでそこをクリアすれば結果が出せる。また、そのための時間はまだいくらでもある。このような「若い」(それは年齢という意味ではない。年をとっても精神が「若い」人はたくさんいる)考えの方々には「世の中にはコントロール外という出来事がある」という事実を到底受けいれられないだろう。
しかし当の私はといえば、もう来年40を迎える年齢となり、あとどれくらい人生が残っているのかと考える場面も多くなった。また、人生の選択肢も狭まる一方で、体力も知力も衰えは明らかである。そうした中でどのようにこれからを過ごしていくのかと悩むこともある。
そんな時に本書に出会い、砂の中に水が吸い込むようにその内容が頭に入っていった。そうか。できないことは「仕方ない」(=コントロール外)と受け入れ、今の自分にできること(=コントロール内)を専念すれば良いのか。そう確信するに至った。
そして本書にはこのようなことは書かれてなかったはずだが、私は「成功」というものの定義がこれを読んで確かになった。
それは、
「人間は自分に『できる』範囲のことしかできない。そして『できる範囲』の中にしか「成功」はない」
ということである。
全ての現実を受け入れて、そして「いまの自分ができること」を専念していけば「成功」と言われるような境地にもたどり着ける可能性はある。そんな道筋を本書によって知った気がする。
振り返ってみれば、意味のない行動や無駄な思考ばかりの40年近くだった。しかしこれからは本書に書いていることを参考にしながら、少なくとも人生の前半よりは素晴らしいものにしたいと思っている。
そして自分の可能性を冷徹に分析して、それでも残りの限られた人生を充実させたいと願う人にはこの本をぜひ読んでいただきたいと思い、今回紹介した次第である。
文章の「飾り」はなるべく削ろう
2014年4月15日 読書先日の日記では自分の考える優れた文章表現についてあれこれ述べてみた。結論としてはシンプルで簡潔(=わかりやすい)な表現を用いて読み手に伝わりやすい文章が良いというようなことだった。
「優れた表現なんて人それぞれだろう」
そういう意見を持っている方もいるかもしれない。しかしそういう人に対して「では、あなたの考える優れた文章表現とは?」と訊ねたらおそらく何も返答は無いだろう。
先日ちょっと気になる文章をネットで見つけた。文章を書くうえで参考になる箇所がいくつかあるので引用してみたい。時事通信4月12日(土)18時29分配信の「『まさか警察官が…』=パトカー20台、驚く住民―埼玉」という記事である。
<「まさか警察官がそんなことを…」。警視庁の男性巡査が交際相手の女性巡査を自宅マンションで殺害し、飛び降り自殺したとみられる事件。埼玉県狭山市の現場周辺には12日、パトカー約20台が駆け付け、閑静な住宅街の週末に衝撃が走った。 同じマンションの4階に住む無職男性(67)によると、男性巡査は近所付き合いはなかったといい、「言い争う声やトラブルは聞いたことがない」と話した。巡査と同じ3階に住む中学3年の男子生徒(14)も「叫び声や大きな物音もなかった」と驚きを隠せない様子。 付近の住民によると、マンション敷地内に倒れていた男性巡査の腕には、刃物で切ったような傷がたくさんあったという。近所に住む50代の女性は、「何かあったときに頼りにできるのが警察官。まさかこんなことが起きるとは…」と硬い表情だった。>
別にどうということもない文なのだが、
「衝撃が走った」
「硬い表情だった」
というような表現は必要ないだろう。これを入れてみたところで文章に何か特別な効果を出しているわけでもない。いわゆる「手垢にまみれた表現」というものだが、これがまさに「飾り」である。何か致命的な間違いがあるわけでもないのでそのままでも問題は無いものの、いっそ削ったほうが文章がスッキリして読みやすくなるのは確実だ。文章にムダな部分が無くなるからだ。
それから、たいして長くもない文章で2ヵ所も「体言止め」(「飛び降り自殺とみられる事件。」、「驚きを隠せない様子。」)を使ってるのも、要らないんじゃないかなと思ってしまう。体言止めは読む人の目を止めて印象を強くする働きが期待できるが、あまりに多用するとその効果も薄くなってくる(個人的にはなるべく使わないようにしているが)。こうした表現もまた余計な「飾り」である。
では、「飾り」にはどんなものがあるか。パッと思いついたものをいくつか示してみたい。
・ありふれた表現
これが先の記事で使われたものである。かつては新鮮でインパクトの強かった表現も時が経ち世間でも認知されていくうちにその力も失ってしまう。典型的なものは流行のギャグなどだろう。2014年の現在、文章の中に「おっぱっぴ」と入れたところで効果はどれほど出るだろうか。
・絵文字や顔文字
絵文字は携帯メールが主流だと思うが「アメブロ」でも多用されている。顔文字については通常のブログでも使ってる方は多いだろう。しかし、私は絶対に使わない。FacebookなどのSNSで「_| ̄|○」をたまに使う程度だ。なぜならこれらは絵やイラストであり、他人に何か明確に伝達をする「文字」と同等には使えない(もちろん学術論文やビジネス文書で絵文字や顔文字は認められない)。「デコメ」とはよく言ったもので、これもまた文の「飾り」でしかない。
・情報量が少ない表現
先ほどの「ありふれた表現」と重複する部分もあるが、別の項目にしてみた。
例えば、
「お父さん・お母さんを大切にしよう」
とか、
「世界人類が平和でありますように」
といったものがこれだろう。書いてあることは全く間違っていないし、異論を挙げる人もそんなに無いと思われる表現だ。しかし、こうした「全面的に正しい」表現というのは、往々にして「役に立たない」と同義になる。一言でいえば「一般論」ということになるだろうか。一般論というのは具体的に何か役に立つわけでもなく面白みも無いというのが常である。これを私は「情報量が少ない」と表現してみた。先の「ありふれた表現」もまた含まれている情報量は乏しい。
私事で恐縮だが、誰か特定のブログやメルマガを読む習慣は全くない。なぜかといえば、ネットで書かれている文章の情報量は極めて少ないからだ(絵文字だらけのアメブロなどその典型である)。また、あまり読みやすさを考慮して文を書いている方も見受けられない。もともと世の流れに関心の薄いという人間性もたたり、文章自体もほとんど接していないのが現状だ。
それはともかく、もし「読みやすい」とか「わかりやすい」文章を書きたいと考えるならば、さきほど挙げた「飾り」をなるべく削るようにすることを奨める。それだけでだいぶ文章はスッキリするはずだ。
そして肝心なのは、文章に込める情報量を豊かにしようと努めることである。
さきほどの時事通信の記事を見ての全体的な感想だが、書いている記者の持っている情報量があまり豊かでなさそうだということである。
この文章は冒頭で、
「まさか警察官がそんなことを…」
となっているが、ここにあるのは、
「警察官は市民の安全を守る聖職である。それゆえ、このような間違いがあってはならない」
というような極めて陳腐な警察象である。教師でも政治家でも構わないけれど、現在はネット上でさまざま情報が明るみに出てあらゆる権威は失墜している状況がある。そういう現代においては、「警察官もまあ人の子だよね」というくらいのスタンスで文章を書いた方がよりリアルな警察のイメージに迫れるのではないか。
別にこの程度の分量の記事でそこまで考える必要はないだろう。しかし、こうやっていくつか文章の表現をチェックしてみるだけでも色々なものが見えてくると言いたかっただけだ(また、新聞社や通信社の仕事などたいした技量は要らないということを指摘してみたかった)。
それでは、情報量が豊かな文章というのはどのようにしたら構築できるか。これについては次の機会に書いてみたい。
「優れた表現なんて人それぞれだろう」
そういう意見を持っている方もいるかもしれない。しかしそういう人に対して「では、あなたの考える優れた文章表現とは?」と訊ねたらおそらく何も返答は無いだろう。
先日ちょっと気になる文章をネットで見つけた。文章を書くうえで参考になる箇所がいくつかあるので引用してみたい。時事通信4月12日(土)18時29分配信の「『まさか警察官が…』=パトカー20台、驚く住民―埼玉」という記事である。
<「まさか警察官がそんなことを…」。警視庁の男性巡査が交際相手の女性巡査を自宅マンションで殺害し、飛び降り自殺したとみられる事件。埼玉県狭山市の現場周辺には12日、パトカー約20台が駆け付け、閑静な住宅街の週末に衝撃が走った。 同じマンションの4階に住む無職男性(67)によると、男性巡査は近所付き合いはなかったといい、「言い争う声やトラブルは聞いたことがない」と話した。巡査と同じ3階に住む中学3年の男子生徒(14)も「叫び声や大きな物音もなかった」と驚きを隠せない様子。 付近の住民によると、マンション敷地内に倒れていた男性巡査の腕には、刃物で切ったような傷がたくさんあったという。近所に住む50代の女性は、「何かあったときに頼りにできるのが警察官。まさかこんなことが起きるとは…」と硬い表情だった。>
別にどうということもない文なのだが、
「衝撃が走った」
「硬い表情だった」
というような表現は必要ないだろう。これを入れてみたところで文章に何か特別な効果を出しているわけでもない。いわゆる「手垢にまみれた表現」というものだが、これがまさに「飾り」である。何か致命的な間違いがあるわけでもないのでそのままでも問題は無いものの、いっそ削ったほうが文章がスッキリして読みやすくなるのは確実だ。文章にムダな部分が無くなるからだ。
それから、たいして長くもない文章で2ヵ所も「体言止め」(「飛び降り自殺とみられる事件。」、「驚きを隠せない様子。」)を使ってるのも、要らないんじゃないかなと思ってしまう。体言止めは読む人の目を止めて印象を強くする働きが期待できるが、あまりに多用するとその効果も薄くなってくる(個人的にはなるべく使わないようにしているが)。こうした表現もまた余計な「飾り」である。
では、「飾り」にはどんなものがあるか。パッと思いついたものをいくつか示してみたい。
・ありふれた表現
これが先の記事で使われたものである。かつては新鮮でインパクトの強かった表現も時が経ち世間でも認知されていくうちにその力も失ってしまう。典型的なものは流行のギャグなどだろう。2014年の現在、文章の中に「おっぱっぴ」と入れたところで効果はどれほど出るだろうか。
・絵文字や顔文字
絵文字は携帯メールが主流だと思うが「アメブロ」でも多用されている。顔文字については通常のブログでも使ってる方は多いだろう。しかし、私は絶対に使わない。FacebookなどのSNSで「_| ̄|○」をたまに使う程度だ。なぜならこれらは絵やイラストであり、他人に何か明確に伝達をする「文字」と同等には使えない(もちろん学術論文やビジネス文書で絵文字や顔文字は認められない)。「デコメ」とはよく言ったもので、これもまた文の「飾り」でしかない。
・情報量が少ない表現
先ほどの「ありふれた表現」と重複する部分もあるが、別の項目にしてみた。
例えば、
「お父さん・お母さんを大切にしよう」
とか、
「世界人類が平和でありますように」
といったものがこれだろう。書いてあることは全く間違っていないし、異論を挙げる人もそんなに無いと思われる表現だ。しかし、こうした「全面的に正しい」表現というのは、往々にして「役に立たない」と同義になる。一言でいえば「一般論」ということになるだろうか。一般論というのは具体的に何か役に立つわけでもなく面白みも無いというのが常である。これを私は「情報量が少ない」と表現してみた。先の「ありふれた表現」もまた含まれている情報量は乏しい。
私事で恐縮だが、誰か特定のブログやメルマガを読む習慣は全くない。なぜかといえば、ネットで書かれている文章の情報量は極めて少ないからだ(絵文字だらけのアメブロなどその典型である)。また、あまり読みやすさを考慮して文を書いている方も見受けられない。もともと世の流れに関心の薄いという人間性もたたり、文章自体もほとんど接していないのが現状だ。
それはともかく、もし「読みやすい」とか「わかりやすい」文章を書きたいと考えるならば、さきほど挙げた「飾り」をなるべく削るようにすることを奨める。それだけでだいぶ文章はスッキリするはずだ。
そして肝心なのは、文章に込める情報量を豊かにしようと努めることである。
さきほどの時事通信の記事を見ての全体的な感想だが、書いている記者の持っている情報量があまり豊かでなさそうだということである。
この文章は冒頭で、
「まさか警察官がそんなことを…」
となっているが、ここにあるのは、
「警察官は市民の安全を守る聖職である。それゆえ、このような間違いがあってはならない」
というような極めて陳腐な警察象である。教師でも政治家でも構わないけれど、現在はネット上でさまざま情報が明るみに出てあらゆる権威は失墜している状況がある。そういう現代においては、「警察官もまあ人の子だよね」というくらいのスタンスで文章を書いた方がよりリアルな警察のイメージに迫れるのではないか。
別にこの程度の分量の記事でそこまで考える必要はないだろう。しかし、こうやっていくつか文章の表現をチェックしてみるだけでも色々なものが見えてくると言いたかっただけだ(また、新聞社や通信社の仕事などたいした技量は要らないということを指摘してみたかった)。
それでは、情報量が豊かな文章というのはどのようにしたら構築できるか。これについては次の機会に書いてみたい。
「上手い文章」って何なんだろう
2014年4月9日 読書
「僕、文章がヘタなんですよぉ。だから上手くなりたいなー、って思うんですぅ」
かつていた職場で、後輩にあたる男性がこんなことを言っていたのを思い出す。
文章が上手くなりたい。
何か書いていたら、そんなことを思う瞬間も一度や二度はあるに違いない。しかし、こういうことを考えても文章の改善は見込めないと思う。先の男性にしても発言を見る限り、文章についてたいして考えてもいないし、別に何かを向上したいとも思っていないのだろう。彼の問題設定があまりにも曖昧なのだ。
そもそもの話になってくるけれど、文章の上手/下手というのは何を基準にして決めるのだろうか。たぶん、パッと答えられる人などそうはいないはずである。
前回のブログでも登場した丸谷才一さんの「文章読本」(95年。中公文庫)の中に「名文」とは何かということが書かれている。それが一つの参考となるだろう。
<ところで、名文であるか否かは何によつて分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思つたものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひつそり埋もれてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。君自身の名文となる。君の魂とのあひだにそれだけの密接な関係を持つものでない限り、言葉のあやつり方の師、文章の規範、エネルギーの源泉となり得ないのはむしろ当然の話ではないか。>(P.31)
要するに、文章の巧拙の基準なんて人それぞれなんだよ、と丸谷さんは言ってるわけだが、一般論としては妥当な見解といえる。たとえば村上春樹さんの小説を読んで感激した人にとっては、村上さんの文章がまさに名文となるのだ。そのこと自体は決して悪いことではないけれど、もしも「村上さんのような文章を書きたい」などと思ったとしても、私からはアドバイスらしきものは一つも出すことができない。私自身は誰か特定の小説家や評論家といったプロの文章家を手本にして書いた経験がないからだ。
もちろん、自分の文章をもっと良いものにしたい、という意識は常に持っていたし、出口汪先生や井上ひさしさんの書いた文章に関する本はよく読んではいた。しかし、二人の文章の真似をしようとしたことも無い。どうしてかといえば、おそらく誰かの文体を模倣する必然性を感じなかったのだろう。
文章を書くのに慣れてない人は「良い文章を書こう!」という気負いが空回りして、「飾りの多い文章」を作ってしまうということが多いのではないだろうか。無論「上手い文章」と「飾りの多い文章」はその質は全く異なる。「飾りの多い文章」はたいてい、非常に読みづらいものとなってしまう。
飾りが多くても上手い文章を書くという人といえば、芥川龍之介が代表的な一人である。しかし芥川が書いていたのはあくまで「小説」である。小説というのは文章によって一つの世界を提示する表現といえるが、そのために文章量もかなり必要となってくる。私たちが日頃おこなう作文といえばパソコンや携帯のメール、ビジネス文書、あとはブログなどのSNS関係くらいだろう。いずれも文章の字数などしれている。2000字を超えることもそうは無いだろう。
私の手元に「月1千万円稼げるネットショップ『売れる』秘訣は文章力だ! 」(05年。ナツメ社)という、実用書を地で行くようなタイトルの本がある。しかし、題名のどぎつさとは対照的に中身はけっこう良いことが書いてある。
本書では文章のポイントについて、
・理解しやすい=スンナリ頭に入る、ありきたりの文章
・わかりやすい=かんたんなことばを使った、わかりやすい文章
・読みやすい=うまいのかどうかわからない、スラスラ読める文章
と3点に集約している(P.30)。
そして、
<うまい文章とは「なんでもない文章」>(P.23)
とも書いている。これは、個人的に「至言」といいたくなる指摘だ。
つまり、実用文に限っていえば、読む人の頭にスッと入ってよどみなく理解できる文章が優れているというわけである。それが「読みやすい」とか「わかりやすい」ということの本質に違いない。
ポピュラーミュージックにも同じようなことがある。プログレッシブ・ロックとかフュージョンとかクロスオーバーとかいった複雑な構成を持った音楽は、一部の音楽ファンには愛好されたものの、そこから一般的な地位を築いたかといえば心許ない。一方、50年代に登場したロックン・ロール、またそれ以前の時代からあるブルースといったジャンルは今でもその影響力は小さくない。
こうした点を見ても、シンプルで簡潔(=わかりやすい)な表現の方が力強く相手に伝わる可能性は高いといえる。
それでは、そんな簡潔してわかりやすい表現をするにはどうしたらよいか。次回はそのあたりについて追求めいたことを試みたい。
かつていた職場で、後輩にあたる男性がこんなことを言っていたのを思い出す。
文章が上手くなりたい。
何か書いていたら、そんなことを思う瞬間も一度や二度はあるに違いない。しかし、こういうことを考えても文章の改善は見込めないと思う。先の男性にしても発言を見る限り、文章についてたいして考えてもいないし、別に何かを向上したいとも思っていないのだろう。彼の問題設定があまりにも曖昧なのだ。
そもそもの話になってくるけれど、文章の上手/下手というのは何を基準にして決めるのだろうか。たぶん、パッと答えられる人などそうはいないはずである。
前回のブログでも登場した丸谷才一さんの「文章読本」(95年。中公文庫)の中に「名文」とは何かということが書かれている。それが一つの参考となるだろう。
<ところで、名文であるか否かは何によつて分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思つたものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひつそり埋もれてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。君自身の名文となる。君の魂とのあひだにそれだけの密接な関係を持つものでない限り、言葉のあやつり方の師、文章の規範、エネルギーの源泉となり得ないのはむしろ当然の話ではないか。>(P.31)
要するに、文章の巧拙の基準なんて人それぞれなんだよ、と丸谷さんは言ってるわけだが、一般論としては妥当な見解といえる。たとえば村上春樹さんの小説を読んで感激した人にとっては、村上さんの文章がまさに名文となるのだ。そのこと自体は決して悪いことではないけれど、もしも「村上さんのような文章を書きたい」などと思ったとしても、私からはアドバイスらしきものは一つも出すことができない。私自身は誰か特定の小説家や評論家といったプロの文章家を手本にして書いた経験がないからだ。
もちろん、自分の文章をもっと良いものにしたい、という意識は常に持っていたし、出口汪先生や井上ひさしさんの書いた文章に関する本はよく読んではいた。しかし、二人の文章の真似をしようとしたことも無い。どうしてかといえば、おそらく誰かの文体を模倣する必然性を感じなかったのだろう。
文章を書くのに慣れてない人は「良い文章を書こう!」という気負いが空回りして、「飾りの多い文章」を作ってしまうということが多いのではないだろうか。無論「上手い文章」と「飾りの多い文章」はその質は全く異なる。「飾りの多い文章」はたいてい、非常に読みづらいものとなってしまう。
飾りが多くても上手い文章を書くという人といえば、芥川龍之介が代表的な一人である。しかし芥川が書いていたのはあくまで「小説」である。小説というのは文章によって一つの世界を提示する表現といえるが、そのために文章量もかなり必要となってくる。私たちが日頃おこなう作文といえばパソコンや携帯のメール、ビジネス文書、あとはブログなどのSNS関係くらいだろう。いずれも文章の字数などしれている。2000字を超えることもそうは無いだろう。
私の手元に「月1千万円稼げるネットショップ『売れる』秘訣は文章力だ! 」(05年。ナツメ社)という、実用書を地で行くようなタイトルの本がある。しかし、題名のどぎつさとは対照的に中身はけっこう良いことが書いてある。
本書では文章のポイントについて、
・理解しやすい=スンナリ頭に入る、ありきたりの文章
・わかりやすい=かんたんなことばを使った、わかりやすい文章
・読みやすい=うまいのかどうかわからない、スラスラ読める文章
と3点に集約している(P.30)。
そして、
<うまい文章とは「なんでもない文章」>(P.23)
とも書いている。これは、個人的に「至言」といいたくなる指摘だ。
つまり、実用文に限っていえば、読む人の頭にスッと入ってよどみなく理解できる文章が優れているというわけである。それが「読みやすい」とか「わかりやすい」ということの本質に違いない。
ポピュラーミュージックにも同じようなことがある。プログレッシブ・ロックとかフュージョンとかクロスオーバーとかいった複雑な構成を持った音楽は、一部の音楽ファンには愛好されたものの、そこから一般的な地位を築いたかといえば心許ない。一方、50年代に登場したロックン・ロール、またそれ以前の時代からあるブルースといったジャンルは今でもその影響力は小さくない。
こうした点を見ても、シンプルで簡潔(=わかりやすい)な表現の方が力強く相手に伝わる可能性は高いといえる。
それでは、そんな簡潔してわかりやすい表現をするにはどうしたらよいか。次回はそのあたりについて追求めいたことを試みたい。
「文章読本」で決定的に欠けていたこと
2014年4月5日 読書
いま必要に迫られて、文章を書いてはパソコンの中に貯めている。そうしているうちに文章を書くこと自体についての関心も出てきたので、かつて自分が読んでいた作文に関する本を再読しはじめた。
おそらく作文について自分が初めて買った本は、朝日新聞社で長年コラムなどを書いていた轡田隆史さんの「うまい!と言われる文章の技術」(98年、三笠書房)だろう。就職試験で出てくる小論文対策のために手に入れたのだと思うが、時代はまだインターネットが光ファイバーはおろかADSLの常時接続も始まってなかった頃である。無論「ブログ」という言葉もなかった(ブログが世間に浸透したのは2001年の「9.11」テロ直後からだろう)。現在と比較してみれば「書く」という行為は敷居が高かったというか、まだ誰もが手軽にすることでもなかったといえる。「書く」こと自体は日本でも1000年以上の歴史があるわけだが、それを取り巻く環境は常に変わってきていることを再認識した。
私自身も当時はこうしてブログやSNS(こういう言葉も無かったなあ)で文章を書く環境があるわけでもなく、作文の基礎的な素養も皆無という状態だった。だから轡田さんの本などを参照しながら色々と文章についてあれこれ試行錯誤をしていた。その時は「この本で勉強をさせてもらう」という姿勢で接したわけだけれど、まがりになりにも10年以上文章を書いているうちに多少の経験も蓄積されたようで、現在の視点で読み返してみると本の印象はだいぶ違ってきている。本日はそのあたりについて書いてみたい。
本書を読んでまず全体的な印象は、非常に多種多様な文章が引用されていることだ。シェイクスピアの「リア王」や「ハムレット」、「万葉集」に収録されている歌、また轡田さん自身が新聞紙上で書いたコラムなどである。それはまさに彼が本や文章が大好きであることに他ならない。その点が、
「本を読むのが苦手なんです。どうにも好きになれません。長い小説なんて背表紙を見るだけで嫌になってくるんです」
と最近は恥ずかしげもなく公言するようになった私との決定的な違いである。
轡田さんは本書の最後で、面白い仕掛けのある文章を書いている。それは、
<現在望み得る最上かつ最良の文章の上達法>(P.221)
を紹介するというものだ。しかしその方法というのは、井上ひさしさんの「井上ひさしエッセイ集8『死ぬのがこわくなくなる薬』」(98年。中公文庫)に収録されている以下の文章を読め、というものなのである。
<編集部から与えられた紙数は四百字詰原稿用紙で五枚。これっぽっちの枚数で文章上達の秘訣をお伝えできるだろうか。どんな文章家も言下に「それは不可能」と答えるだろう。ところが、筆者ならこの問いにたやすく答えることができる。それに五枚も要らぬ。ただの一行ですむ。こうである。
「丸谷才一の『文章読本』を読め」
特に、第二章「名文を読め」と第三章「ちょっと気取って書け」の二つの章を繰り返し読むのがよろしい。これが現在望み得る最上にして最良の文章である。
以上で言いたいことをすべて言い終えた。あとは読者諸賢の健闘を祈る。・・・>
勘の良い方ならば、丸谷さんの「文章読本」(95年。中公文庫)にどんなことが書かれているか見当がつくに違いない。
<作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡(つ)きる。事実、古来の名文家はみなさうすることによつて文章に秀でたので、この場合、例外はまつたくなかつたとわたしは信じてゐる。>(P.23)
丸谷「文章読本」は私の手元にもあるが(無論、轡田さんがきっかけだ)、「名文を読め」ではこうも書いてある。
<たとえば森鴎外は年少の文学志望者に文章上達法を問はれて、ただひとこと、「春秋左氏傳」をくりかへし読めと答へた。「左傳」を熟読したがゆゑに彼の文体はあり得たからである。同じ問に対して紫式部が、鴨長明が、夏目漱石がどのやうに教へるかと想像するには、(中略)たとへその返事がどうであらうと、彼らが鴎外の答へ方の方向に異論を唱へるはずはない。>(P.23-24)
このような入れ子構造というか出口の無い永久ループのような論理展開だが、轡田さんはさらに、
<私たちは、ともかく読まなければならないのである。>(P.228)
と念を押して繰り返す。これは丸谷さんも井上さんも、さらにはおそらく紫式部も鴨長明も一致した見解なのだろう。
良い文章を書くためには良い文章を読まなければならない。
この意見はあまり考えなくてもなんとかく「正しい」と実感できるものではある。
しかし一方で、
「全く間違いないとは思うんだけど、なんだか自分にはしっくりこないなあ・・・」
という違和感も常に自分の中にあった。そしてそのまま十年以上の月日が流れたわけだが、今回読み返してみてその理由に気がついてしまったのである。
さきほど挙げた人たちに共通する特徴は、
・文章を読むのが好きで得意
・「上手い文章を書こう」という意識が高い
というものである。おそらくこれは間違いないだろう。それに対して私といえば、
・文章を読むのはあまり好きでないし苦手
・「上手い文章を書こう」ということを(少なくともこの10年ほどは)思ったことが一度もない。
という人間である。轡田さんの本、または丸谷さん及び井上さんの「文章読本」は「文章を読むのが好きな人」が書いたものである。よって、文書の読み書きが苦手だとか嫌いだとかいった人への配慮というのはあまり行き届いてないのも仕方ないことかもしれない。
個人的に一番まずいと思うのは「とにかく読め!」という部分である。これは先の三氏に限らず、ビジネス書でも「1日1冊読め!そうしないとデキる人にはなれない!」という半ば脅迫的なことを書いているものも多い。しかし、漆原直行(編集者)さんは「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」(12年。マイナビ新書)の中で、
<たしかに、読書は大切です。
その意味ではビジネス書を読むことはよいことといえます。
ただし、これはあくまで一般論であって「適度な運動をすることはカラダによい」という程度の指摘でしかありません。具体論レベルではいうまでもなくケースバイケースであり、程度問題であり、個人差もあることです>(P.171)
と喝破している。ここで言われる「程度問題」とか「個人差」といったものが、これまでの「文章読本」系の本に欠けていた視点だといえる。
ケータイやSNSのおかげで「書く」という行為がグッと身近になり誰でもするようになった今、私たちに必要なのは「デキない人」のための読書法や文章術なのでないか。では、それはどんなものかといえば、かなり今回は長々と書いてしまったので、近いうち(せめて1週間以内)に別のところでヒントらしき提言をしてみたい。
おそらく作文について自分が初めて買った本は、朝日新聞社で長年コラムなどを書いていた轡田隆史さんの「うまい!と言われる文章の技術」(98年、三笠書房)だろう。就職試験で出てくる小論文対策のために手に入れたのだと思うが、時代はまだインターネットが光ファイバーはおろかADSLの常時接続も始まってなかった頃である。無論「ブログ」という言葉もなかった(ブログが世間に浸透したのは2001年の「9.11」テロ直後からだろう)。現在と比較してみれば「書く」という行為は敷居が高かったというか、まだ誰もが手軽にすることでもなかったといえる。「書く」こと自体は日本でも1000年以上の歴史があるわけだが、それを取り巻く環境は常に変わってきていることを再認識した。
私自身も当時はこうしてブログやSNS(こういう言葉も無かったなあ)で文章を書く環境があるわけでもなく、作文の基礎的な素養も皆無という状態だった。だから轡田さんの本などを参照しながら色々と文章についてあれこれ試行錯誤をしていた。その時は「この本で勉強をさせてもらう」という姿勢で接したわけだけれど、まがりになりにも10年以上文章を書いているうちに多少の経験も蓄積されたようで、現在の視点で読み返してみると本の印象はだいぶ違ってきている。本日はそのあたりについて書いてみたい。
本書を読んでまず全体的な印象は、非常に多種多様な文章が引用されていることだ。シェイクスピアの「リア王」や「ハムレット」、「万葉集」に収録されている歌、また轡田さん自身が新聞紙上で書いたコラムなどである。それはまさに彼が本や文章が大好きであることに他ならない。その点が、
「本を読むのが苦手なんです。どうにも好きになれません。長い小説なんて背表紙を見るだけで嫌になってくるんです」
と最近は恥ずかしげもなく公言するようになった私との決定的な違いである。
轡田さんは本書の最後で、面白い仕掛けのある文章を書いている。それは、
<現在望み得る最上かつ最良の文章の上達法>(P.221)
を紹介するというものだ。しかしその方法というのは、井上ひさしさんの「井上ひさしエッセイ集8『死ぬのがこわくなくなる薬』」(98年。中公文庫)に収録されている以下の文章を読め、というものなのである。
<編集部から与えられた紙数は四百字詰原稿用紙で五枚。これっぽっちの枚数で文章上達の秘訣をお伝えできるだろうか。どんな文章家も言下に「それは不可能」と答えるだろう。ところが、筆者ならこの問いにたやすく答えることができる。それに五枚も要らぬ。ただの一行ですむ。こうである。
「丸谷才一の『文章読本』を読め」
特に、第二章「名文を読め」と第三章「ちょっと気取って書け」の二つの章を繰り返し読むのがよろしい。これが現在望み得る最上にして最良の文章である。
以上で言いたいことをすべて言い終えた。あとは読者諸賢の健闘を祈る。・・・>
勘の良い方ならば、丸谷さんの「文章読本」(95年。中公文庫)にどんなことが書かれているか見当がつくに違いない。
<作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡(つ)きる。事実、古来の名文家はみなさうすることによつて文章に秀でたので、この場合、例外はまつたくなかつたとわたしは信じてゐる。>(P.23)
丸谷「文章読本」は私の手元にもあるが(無論、轡田さんがきっかけだ)、「名文を読め」ではこうも書いてある。
<たとえば森鴎外は年少の文学志望者に文章上達法を問はれて、ただひとこと、「春秋左氏傳」をくりかへし読めと答へた。「左傳」を熟読したがゆゑに彼の文体はあり得たからである。同じ問に対して紫式部が、鴨長明が、夏目漱石がどのやうに教へるかと想像するには、(中略)たとへその返事がどうであらうと、彼らが鴎外の答へ方の方向に異論を唱へるはずはない。>(P.23-24)
このような入れ子構造というか出口の無い永久ループのような論理展開だが、轡田さんはさらに、
<私たちは、ともかく読まなければならないのである。>(P.228)
と念を押して繰り返す。これは丸谷さんも井上さんも、さらにはおそらく紫式部も鴨長明も一致した見解なのだろう。
良い文章を書くためには良い文章を読まなければならない。
この意見はあまり考えなくてもなんとかく「正しい」と実感できるものではある。
しかし一方で、
「全く間違いないとは思うんだけど、なんだか自分にはしっくりこないなあ・・・」
という違和感も常に自分の中にあった。そしてそのまま十年以上の月日が流れたわけだが、今回読み返してみてその理由に気がついてしまったのである。
さきほど挙げた人たちに共通する特徴は、
・文章を読むのが好きで得意
・「上手い文章を書こう」という意識が高い
というものである。おそらくこれは間違いないだろう。それに対して私といえば、
・文章を読むのはあまり好きでないし苦手
・「上手い文章を書こう」ということを(少なくともこの10年ほどは)思ったことが一度もない。
という人間である。轡田さんの本、または丸谷さん及び井上さんの「文章読本」は「文章を読むのが好きな人」が書いたものである。よって、文書の読み書きが苦手だとか嫌いだとかいった人への配慮というのはあまり行き届いてないのも仕方ないことかもしれない。
個人的に一番まずいと思うのは「とにかく読め!」という部分である。これは先の三氏に限らず、ビジネス書でも「1日1冊読め!そうしないとデキる人にはなれない!」という半ば脅迫的なことを書いているものも多い。しかし、漆原直行(編集者)さんは「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」(12年。マイナビ新書)の中で、
<たしかに、読書は大切です。
その意味ではビジネス書を読むことはよいことといえます。
ただし、これはあくまで一般論であって「適度な運動をすることはカラダによい」という程度の指摘でしかありません。具体論レベルではいうまでもなくケースバイケースであり、程度問題であり、個人差もあることです>(P.171)
と喝破している。ここで言われる「程度問題」とか「個人差」といったものが、これまでの「文章読本」系の本に欠けていた視点だといえる。
ケータイやSNSのおかげで「書く」という行為がグッと身近になり誰でもするようになった今、私たちに必要なのは「デキない人」のための読書法や文章術なのでないか。では、それはどんなものかといえば、かなり今回は長々と書いてしまったので、近いうち(せめて1週間以内)に別のところでヒントらしき提言をしてみたい。
村上福之「ソーシャルもうええねん」(12年。Nanaブックス)
2012年12月2日 読書
「ソーシャルもうええねん」という一見すると時代に逆行するような、また挑発的にもとれるような題名の本書を手にとったのは、フリーで記者や編集の仕事をしている漆原直行さんが紹介していたのがきっかけだった。漆原さん自身「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」(12年。マイナビ新書)というある種の人たちに刺激を与えそうなタイトルの良書を書かれている。この2つの本に同じような空気を感じて「ソーシャルもうええねん」を買ってみようという気になった。
ただ、近所の書店には1冊も置いておらず、河原町のジュンク堂書店まで行ったら数冊置いてありそれを手に入れた。書店での流通はけっこう限られているようなので、ネットで買う方が確実で便利かと思われる。
本書は村上さんがこの5年間にブログで書いた内容を1冊の本にまとめたものである。私はこの本で村上さんを初めて知ったけれど、ブログの閲覧数が「計2200万ページビュー」(P.13)と書かれていて頭の中がクラっとくる。私など10年続けている日記は最近やっと28万に達したくらいなので、もう想像の域を超えている。
実際にそれだけの人が村上さんのブログを訪れる理由は何かといえば、まず一つにはSNSやソーシャル・ゲーム、そしてプログラムなど、ネットをしている人なら誰でも関心のある話題が現場の視点から書かれていることだろう。本書も半分以上がこうした内容で構成されている。
村上さんがプログラムを始めたのは恐ろしいほど早く、なんと8歳からである。しかも何でプログラムを作っていたかといえば「ファミリーベーシック」と知り、
「ファミリーベーシックかあ。なんかデパートでいじった記憶があったなあ。そういえばファミリーベーシックV3(ブイスリー)ってのもあったなあ、2コントローラーのマイクで、『ファミリベーシックぶいすりいいいいいいいいいい』、と叫ぶとハートができるやつ。ついに一度も触らなかったけど」
などと、彼と1歳しか年齢が違わない私はなんともいえない郷愁をおぼえてしまった。
ファミリーベーシックとは、ファミコンにキーボードをつけてゲームのプログラムを作るための別売り付属装置である。私の家にはなかったが、当時は本屋でゲームの攻略本と並んでファミリーベーシックでゲームを作るためのプログラムが載っている本も置いてあった記憶が微かに残っている。ゲームソフトを買ってもらえなかったので自分でゲームを作るしかなかった、とどこかのインタビューで村上さんは言っていた。そうした経験が現在の村上さんの素地を作り上げたのは間違いないだろう。彼にとっては、当時は市販のゲームソフトで遊べなかったという惨めな思い出に過ぎないかもしれないが。
それはともかく、ネットやプログラムの世界にはかなり疎い私としては本書に書かれている世界は実に面白かった。Twitterのフォロワー5000人は43ドル(約3800円)、Facebookの「いいね!」5000人分は199ドル(約1万6000円)で買えるという「ああ、やっぱり」と感じる話や、ケータイのゲームを利用している人にブルーワーカーや風俗店で働く人に多いようだという分析など「へえ、そうなんだ」という話が折り混ざっている。
そして村上さんのブログの優れている点は、下手をすれば専門用語が満載されて難しくなるこうした分野を実にやさしくコンパクトに文章でまとめていることだろう。この文書を書くにあたりネットでこの本を感想をザッと調べたところ、この毀誉褒貶の激しいテーマにおいて恐ろしいほど絶賛されている。そして「わかりやすい」、「読みやすい」という言葉がちらほら目についた。一見したら何の変哲もない文章に見えるかもしれない。だが、例えば勝吉章(株式会社プランセス社長)さんの「月1千万稼げる「売れる」秘訣は文章力だ!」(05年、ナツメ社)に書いているけれど、
<うまい文章とは「なんでもない文章」>(P.27)
のことなのである。私は個人的に「わかりやすさ」とか「伝わりやすさ」を自分なりに追求してきたけれど、村上さんの本を読んでそうした大事さを再認識した次第である。
「なんでもない」ことの素晴らしさを指摘するのは難しいけれど、例えば、
<僕はTwitterで1万人をフォローしている人はカッコ悪いと思っています。>(P.57)
と挑発的な書き出しをしても、
<そもそも1000人以上のフォローをすると、タイムラインがわけがわからなくなり、Twitterとして機能しません。>(P.62-63)
などと、きっちりした理由を後で述べている。それを読んで、
「そうだなあ。自分がフォローしているのは350人に満たないけど、30分くらいで50件はツイートが出て正直うっとうしいと感じるなあ。それが1万人だったら・・・」
などと、いちいち腑に落ちてくるのが上手いなと感じる。
ソーシャル関係以外の話は村上さんの仕事観や人生観が中心になっている。そしてこれが、文章もさることながら、私が本書に惹かれた一番の理由かもしれない。かなり自分と共振する部分があったからだ。
ネットについて言えば、
<ネットでは、あちこちで儲け話が飛び交ってますが、ウソも多いです。信用していいものと、信用してはいけないものを区別するためには、それなりに訓練が必要です。考えてください。ウソでも「100億円儲かっている!」と言うのはタダです。>(P.56)
<ネットにおける情報の受発信能力や検索はすさまじく強力で、有用です。僕もその恩恵を、きわめて受けています。しかしながら、ネットの技術が、かなり不安定な逆ピラミッドの上で動いていることは理解するべきです。ネットは原子力と同様、依存しすぎると大変なことになります。>(P.79-80)
などと、ネットの情報や機能を一方的に頼りにするのではなく批判的に付き合っていくことの重要性を強調している。12年ほど前はネットでかなり痛い思いをして距離を置いて利用している私としてもこれは全面的に支持したい考えだ。別にネットを全肯定/全否定するのではなく、自分なりに使いこなす方法を確立することが大事だろう。
そして仕事については、
<僕は、Webプログラミングは、漢字の書き方を覚えるのと大差ないと考えています。最初の最初は、「写して、書いて、覚える」しかありません。
(中略)
頭がいいかどうかより、最初の最初で、写経する根気があるかどうかのほうがはるかに重要です。>(P113-114)
<過剰な競争は最大のコストです。競争で向上する部分も多くありますが、不毛な価格競争になって消耗戦になることがあります。いかに競争しないかを考え抜くことが大事だと思っています。>(P.147)
こうした唸らさせる指摘が後半には満載である。特に、
・初めてプログラミングを覚えるためには「写経」しかない
・非コミュグラマーが独立するのに必要なたった2つの勇気
・「好きなことをやりなさい」と言う大人は無責任
・あとがき 個人の時代
の項は何度も読んで自分の頭に入れて実践していければと強く思った。
それにしても村上さんはこうした健全な感覚をどうやって身につけたのだろう。それは色々と想像はできるけれど、例えば、
<あんたが、会社なんか作ってうまいこといくわけあらへんやろ! ええか! アメリカンドリームなんかあらへんで!>(P.129-130)
などと無職だった時の村上さんに冷水を浴びせるようなことを言ったお母さんの存在などもあったのではないだろうか。確かに、お母さんのこの指摘は正しい。あるのかないのかわからない漠然とした希望を持っていても意味はないだろう。それよりも愚直に実行する行動力のほうがずっと大事だ。
それに関して村上さんは、自分が独立起業するのに必要だったのは2つの勇気だったと述べている。
それは、
nullなり適当な値をつっこんでコンパイルする勇気
プライドを捨てて、人に聞いたり、頼ったりする勇気
だという。特に一つ目はパッとはわからないことだろうが、これは実際に本書を手に取って確認していただきたい。これが理解すれば、どんなに困難な時代であっても生きるうえで大事なことはいつもそうは変わらないと感じていただけるような気がする。
本書は、これを紹介していた漆原さんの「ビジネス書はできる人はデキる人にはなれない」と並び、「ポスト3.11」時代を歩いていく人たちに様々な知見を与えてくれる1冊としておすすめしたい。
ただ、近所の書店には1冊も置いておらず、河原町のジュンク堂書店まで行ったら数冊置いてありそれを手に入れた。書店での流通はけっこう限られているようなので、ネットで買う方が確実で便利かと思われる。
本書は村上さんがこの5年間にブログで書いた内容を1冊の本にまとめたものである。私はこの本で村上さんを初めて知ったけれど、ブログの閲覧数が「計2200万ページビュー」(P.13)と書かれていて頭の中がクラっとくる。私など10年続けている日記は最近やっと28万に達したくらいなので、もう想像の域を超えている。
実際にそれだけの人が村上さんのブログを訪れる理由は何かといえば、まず一つにはSNSやソーシャル・ゲーム、そしてプログラムなど、ネットをしている人なら誰でも関心のある話題が現場の視点から書かれていることだろう。本書も半分以上がこうした内容で構成されている。
村上さんがプログラムを始めたのは恐ろしいほど早く、なんと8歳からである。しかも何でプログラムを作っていたかといえば「ファミリーベーシック」と知り、
「ファミリーベーシックかあ。なんかデパートでいじった記憶があったなあ。そういえばファミリーベーシックV3(ブイスリー)ってのもあったなあ、2コントローラーのマイクで、『ファミリベーシックぶいすりいいいいいいいいいい』、と叫ぶとハートができるやつ。ついに一度も触らなかったけど」
などと、彼と1歳しか年齢が違わない私はなんともいえない郷愁をおぼえてしまった。
ファミリーベーシックとは、ファミコンにキーボードをつけてゲームのプログラムを作るための別売り付属装置である。私の家にはなかったが、当時は本屋でゲームの攻略本と並んでファミリーベーシックでゲームを作るためのプログラムが載っている本も置いてあった記憶が微かに残っている。ゲームソフトを買ってもらえなかったので自分でゲームを作るしかなかった、とどこかのインタビューで村上さんは言っていた。そうした経験が現在の村上さんの素地を作り上げたのは間違いないだろう。彼にとっては、当時は市販のゲームソフトで遊べなかったという惨めな思い出に過ぎないかもしれないが。
それはともかく、ネットやプログラムの世界にはかなり疎い私としては本書に書かれている世界は実に面白かった。Twitterのフォロワー5000人は43ドル(約3800円)、Facebookの「いいね!」5000人分は199ドル(約1万6000円)で買えるという「ああ、やっぱり」と感じる話や、ケータイのゲームを利用している人にブルーワーカーや風俗店で働く人に多いようだという分析など「へえ、そうなんだ」という話が折り混ざっている。
そして村上さんのブログの優れている点は、下手をすれば専門用語が満載されて難しくなるこうした分野を実にやさしくコンパクトに文章でまとめていることだろう。この文書を書くにあたりネットでこの本を感想をザッと調べたところ、この毀誉褒貶の激しいテーマにおいて恐ろしいほど絶賛されている。そして「わかりやすい」、「読みやすい」という言葉がちらほら目についた。一見したら何の変哲もない文章に見えるかもしれない。だが、例えば勝吉章(株式会社プランセス社長)さんの「月1千万稼げる「売れる」秘訣は文章力だ!」(05年、ナツメ社)に書いているけれど、
<うまい文章とは「なんでもない文章」>(P.27)
のことなのである。私は個人的に「わかりやすさ」とか「伝わりやすさ」を自分なりに追求してきたけれど、村上さんの本を読んでそうした大事さを再認識した次第である。
「なんでもない」ことの素晴らしさを指摘するのは難しいけれど、例えば、
<僕はTwitterで1万人をフォローしている人はカッコ悪いと思っています。>(P.57)
と挑発的な書き出しをしても、
<そもそも1000人以上のフォローをすると、タイムラインがわけがわからなくなり、Twitterとして機能しません。>(P.62-63)
などと、きっちりした理由を後で述べている。それを読んで、
「そうだなあ。自分がフォローしているのは350人に満たないけど、30分くらいで50件はツイートが出て正直うっとうしいと感じるなあ。それが1万人だったら・・・」
などと、いちいち腑に落ちてくるのが上手いなと感じる。
ソーシャル関係以外の話は村上さんの仕事観や人生観が中心になっている。そしてこれが、文章もさることながら、私が本書に惹かれた一番の理由かもしれない。かなり自分と共振する部分があったからだ。
ネットについて言えば、
<ネットでは、あちこちで儲け話が飛び交ってますが、ウソも多いです。信用していいものと、信用してはいけないものを区別するためには、それなりに訓練が必要です。考えてください。ウソでも「100億円儲かっている!」と言うのはタダです。>(P.56)
<ネットにおける情報の受発信能力や検索はすさまじく強力で、有用です。僕もその恩恵を、きわめて受けています。しかしながら、ネットの技術が、かなり不安定な逆ピラミッドの上で動いていることは理解するべきです。ネットは原子力と同様、依存しすぎると大変なことになります。>(P.79-80)
などと、ネットの情報や機能を一方的に頼りにするのではなく批判的に付き合っていくことの重要性を強調している。12年ほど前はネットでかなり痛い思いをして距離を置いて利用している私としてもこれは全面的に支持したい考えだ。別にネットを全肯定/全否定するのではなく、自分なりに使いこなす方法を確立することが大事だろう。
そして仕事については、
<僕は、Webプログラミングは、漢字の書き方を覚えるのと大差ないと考えています。最初の最初は、「写して、書いて、覚える」しかありません。
(中略)
頭がいいかどうかより、最初の最初で、写経する根気があるかどうかのほうがはるかに重要です。>(P113-114)
<過剰な競争は最大のコストです。競争で向上する部分も多くありますが、不毛な価格競争になって消耗戦になることがあります。いかに競争しないかを考え抜くことが大事だと思っています。>(P.147)
こうした唸らさせる指摘が後半には満載である。特に、
・初めてプログラミングを覚えるためには「写経」しかない
・非コミュグラマーが独立するのに必要なたった2つの勇気
・「好きなことをやりなさい」と言う大人は無責任
・あとがき 個人の時代
の項は何度も読んで自分の頭に入れて実践していければと強く思った。
それにしても村上さんはこうした健全な感覚をどうやって身につけたのだろう。それは色々と想像はできるけれど、例えば、
<あんたが、会社なんか作ってうまいこといくわけあらへんやろ! ええか! アメリカンドリームなんかあらへんで!>(P.129-130)
などと無職だった時の村上さんに冷水を浴びせるようなことを言ったお母さんの存在などもあったのではないだろうか。確かに、お母さんのこの指摘は正しい。あるのかないのかわからない漠然とした希望を持っていても意味はないだろう。それよりも愚直に実行する行動力のほうがずっと大事だ。
それに関して村上さんは、自分が独立起業するのに必要だったのは2つの勇気だったと述べている。
それは、
nullなり適当な値をつっこんでコンパイルする勇気
プライドを捨てて、人に聞いたり、頼ったりする勇気
だという。特に一つ目はパッとはわからないことだろうが、これは実際に本書を手に取って確認していただきたい。これが理解すれば、どんなに困難な時代であっても生きるうえで大事なことはいつもそうは変わらないと感じていただけるような気がする。
本書は、これを紹介していた漆原さんの「ビジネス書はできる人はデキる人にはなれない」と並び、「ポスト3.11」時代を歩いていく人たちに様々な知見を与えてくれる1冊としておすすめしたい。
「できない人」のための読書術を考える~「ストック・ノート」作成のすすめ
2012年9月22日 読書
先日の日記に載せた「ツチヤ教授の哲学講義」(05年。岩波書店)の書評は、その出来についてはともかく、まとめるのに3週間くらいは費やしている。
具体的にどんなことをしたのかといえば、まず230ページある本を何度か読み通して気になる部分に赤線を入れ、それからそれぞれの章ごと(本書は11章ある)にノートで要約をしていくという手法をとった。それをさらにまとめて1つの文章にしたのがあの日のブログである。
これまでにも本の感想は書いてきたけれど、ここまで面倒なことはしてこなかった。本を読んでマーカーをするまでは一緒だが、そこからすぐ文章を作っていたのである。ノートにいったん要約するという過程は全く踏まなかった。今回そのようにしたのにはちょっとした理由がある。自分の本の読み方を変えてみたかったからだ。
社会人(「ビジネスパーソン」という表現のほうが現代的だろうか)としての能力を高めるために読書、それも大量の本を速読でこなすということが挙げられる。またいわゆる「ビジネス書」をヒットさせている人たちは例外なくたくさんの本を読んでいると豪語している。1日最低1冊、40代になったら3冊は読もう、と書いている人もいた。頭の良し悪しを測る尺度を情報処理能力と考えれば速読や多読は有益には違いない。私もそうした考えに触発されて少しでも多くの本を読めるようになりたいと思った。
しかしその試みは三日坊主で終わってしまう。そもそもの話、私は本を読むのはあまり好きではないし幼い頃から読書をする習慣もなかったからだ。分厚い小説など見るだけで嫌になってくるほどである。つまり、速読などができる素質が圧倒的に足りないのである。
また、経済的にボンボン本を買えるような状況にもないことも大きい。漆原直行(編集者、ライター)さんがビジネス書を取り巻く世界を描いた良書「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」(12年。マイナビ新書)で、総務省の「家計調査」2010年年報を参照しながら、
<この統計結果によれば、書籍につぎ込む金額は年間で1万800強1か月あたり1500円程度。単行本なら1冊、新書なら2冊買えるかどうかという額でしかありません。そして取材などで得た私の体感値としても「平均で見れば、まあその程度だろうな」と、わりと違和感なく受け取れる金額といえます、>(P.173)
と一般の人々が書籍に費やせる金額について書いている。私もその程度、いや今は平均以下の書籍代しか捻出できない状態だ。つまり、多読をするためにはそれなりの経済的余裕がないと不可能なのである。情けない話だが、素質も環境も恵まれていないので挫折してしまったわけだ。
では無能な人間なりにできる読書の方法を無いものか。そう考えているうちに、1冊1冊を大事に読もう、という平凡な結論に至った。量を捌くことができないのならば、その質を向上させるしかないだろう。その具体的な方法として出口汪先生の「ストック・ノート」を思い出し、文章の要約などを始めたのである。
ストック・ノートはもともと現代文や小論文の受験を控えている学生に対して奨めていた受験対策だったが、そうした人たち以外にも良い効果があると「きのうと違う自分になりたい」(98年。経出版)などの著書において先生は提唱されている。ノート術といえば岡田斗司夫さんの「あなたを天才にするスマートノート」(11年。文藝春秋社)が有名だが、両著には共振する部分がけっこうあってノートを取ることに色々と効能があることが感じられる。
ところで、そもそもの話になるが、読んだ本を自分の中に取り入れるというのはどういうことなのだろうか。このあたりを今日は考えてみたい。
少なくとも文章について記憶することは必須であろう。これは心理学の初歩の知識だが、記憶というのは大きくわけて「記銘」、「保持」、「再生」という3段階がある。
・記銘(情報を頭に入れる)
・保持(その情報を頭の中にとどめておく)
・再生(頭の中から情報を取り出す)
これができて初めて「記憶」が成立する。しかし、書かれている文章を全部覚えたら万々歳、というのもそれは違うのではないだろうか。たとえばお経というものがあるが、お経を澱みなく唱えられる人がいるとして、果たしてその人は内容まで理解したり活用しているといえるだろうか(お坊さんという立場だったら十分に活用してはいるだろうが)。明らかに何かが足りない。
やはり単に「覚えた」という行為だけでは不十分であり、読んだ本の知識を自分なりの形で咀嚼して他の場面でも使えるようになる、というくらいの段階までいかないと「自分の中に取り入れる」とはいえない。そして、ノートを付けるというのはその大きな助けとなる道具なわけだ。
ちなみに出口先生はノートの取り方に特化した「『出口式』脳活ノート」(09年。廣済堂出版)という著書がある。興味のある方はご参照いただきたい。もう文章がかなり長くなったので著書の詳しい内容はここでは書かないけれど、文章を読んで要約してノートを書くことにより、
STEP1:話の筋道を理解する
STEP2:文章を論理的に読解する
STEP3:論理的にまとめ、説明する
STEP4:考えたことを、論理的に表現する
という流れを繰り返すうちに自分の頭の使い方が劇的に変わっていく(先生の表現によれば「論理力が習熟する」)というのが本書の狙いである。
私は高校3年の時(94年)に出口先生の参考書「現代文入門講義の実況中継 (上)」(語学春秋社、1991年) に出会い、それによって難解と思われる評論文や小説が先生の解説によっていとも簡単にスッと自分の頭の中に入っていった衝撃を今も引きずっている。
無機的にしか見えない文字の羅列がとてつもなく魅力的な文章に変化するというのはこの人生の中でも最もスリリングな瞬間の一つであった。
それからは物の考えとか視点は以前より大きく変わったのは間違いない(それによって何か他人に誇れる結果を残したかといえば、それは辛いところだけど)。出口先生との出会いがなければ、いま以上(!)に無気力な人生を過ごしていたことだろう。ともかくその影響は大きかった。
そんな私はこれからの人生に対して明るい展望は全く見えていないし夢とか目標とかも抱いていない。ただ、こんなことをできたらなあ、と漠然と考えていることが一つだけある。
天才どころか凡人以下の自分には、何か歴史に残るような業績を残すとかもの凄い経営手腕を発揮するとかいったことはまずできそうにない。ただ、かつての偉大なる人の残した業績をわかりやすく加工して人に伝えるということだったら、それもまた難しい仕事なのだけど、実現する可能性はグッと高くなるのではないだろうか。
塾の先生とかセミナー講師、または池上彰さんのような「教える」というスタンスとはまた違った、もっと市井の人と同じ土俵に立って一緒に考えるようなそんなやり方ができたら自分にも入り込む余地があるのではと。いつの頃から私はそんなことを考えていた。かつてだったら予備校や大学のアルバイトからスタートするといったそれなりのレールに乗らなければならないし門外漢の私には非現実的な話である。しかしWeb2.0の現在、さまざまなツールが無料で使えるようになった今、情報を発信することについてはグッと簡単になっている。
こうした時代だし、何か目標をたてよう。うん、当面は「出口汪の劣化版コピー」を目指そうかな。
ただ、それなりに結果を出すためには、自分をアピールできる知名度なり業績なり人脈などを作らなければ始まらないだろう。そのあたりをどうするか。ただ、こうして色々考えること自体はけっこう楽しい。
具体的にどんなことをしたのかといえば、まず230ページある本を何度か読み通して気になる部分に赤線を入れ、それからそれぞれの章ごと(本書は11章ある)にノートで要約をしていくという手法をとった。それをさらにまとめて1つの文章にしたのがあの日のブログである。
これまでにも本の感想は書いてきたけれど、ここまで面倒なことはしてこなかった。本を読んでマーカーをするまでは一緒だが、そこからすぐ文章を作っていたのである。ノートにいったん要約するという過程は全く踏まなかった。今回そのようにしたのにはちょっとした理由がある。自分の本の読み方を変えてみたかったからだ。
社会人(「ビジネスパーソン」という表現のほうが現代的だろうか)としての能力を高めるために読書、それも大量の本を速読でこなすということが挙げられる。またいわゆる「ビジネス書」をヒットさせている人たちは例外なくたくさんの本を読んでいると豪語している。1日最低1冊、40代になったら3冊は読もう、と書いている人もいた。頭の良し悪しを測る尺度を情報処理能力と考えれば速読や多読は有益には違いない。私もそうした考えに触発されて少しでも多くの本を読めるようになりたいと思った。
しかしその試みは三日坊主で終わってしまう。そもそもの話、私は本を読むのはあまり好きではないし幼い頃から読書をする習慣もなかったからだ。分厚い小説など見るだけで嫌になってくるほどである。つまり、速読などができる素質が圧倒的に足りないのである。
また、経済的にボンボン本を買えるような状況にもないことも大きい。漆原直行(編集者、ライター)さんがビジネス書を取り巻く世界を描いた良書「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」(12年。マイナビ新書)で、総務省の「家計調査」2010年年報を参照しながら、
<この統計結果によれば、書籍につぎ込む金額は年間で1万800強1か月あたり1500円程度。単行本なら1冊、新書なら2冊買えるかどうかという額でしかありません。そして取材などで得た私の体感値としても「平均で見れば、まあその程度だろうな」と、わりと違和感なく受け取れる金額といえます、>(P.173)
と一般の人々が書籍に費やせる金額について書いている。私もその程度、いや今は平均以下の書籍代しか捻出できない状態だ。つまり、多読をするためにはそれなりの経済的余裕がないと不可能なのである。情けない話だが、素質も環境も恵まれていないので挫折してしまったわけだ。
では無能な人間なりにできる読書の方法を無いものか。そう考えているうちに、1冊1冊を大事に読もう、という平凡な結論に至った。量を捌くことができないのならば、その質を向上させるしかないだろう。その具体的な方法として出口汪先生の「ストック・ノート」を思い出し、文章の要約などを始めたのである。
ストック・ノートはもともと現代文や小論文の受験を控えている学生に対して奨めていた受験対策だったが、そうした人たち以外にも良い効果があると「きのうと違う自分になりたい」(98年。経出版)などの著書において先生は提唱されている。ノート術といえば岡田斗司夫さんの「あなたを天才にするスマートノート」(11年。文藝春秋社)が有名だが、両著には共振する部分がけっこうあってノートを取ることに色々と効能があることが感じられる。
ところで、そもそもの話になるが、読んだ本を自分の中に取り入れるというのはどういうことなのだろうか。このあたりを今日は考えてみたい。
少なくとも文章について記憶することは必須であろう。これは心理学の初歩の知識だが、記憶というのは大きくわけて「記銘」、「保持」、「再生」という3段階がある。
・記銘(情報を頭に入れる)
・保持(その情報を頭の中にとどめておく)
・再生(頭の中から情報を取り出す)
これができて初めて「記憶」が成立する。しかし、書かれている文章を全部覚えたら万々歳、というのもそれは違うのではないだろうか。たとえばお経というものがあるが、お経を澱みなく唱えられる人がいるとして、果たしてその人は内容まで理解したり活用しているといえるだろうか(お坊さんという立場だったら十分に活用してはいるだろうが)。明らかに何かが足りない。
やはり単に「覚えた」という行為だけでは不十分であり、読んだ本の知識を自分なりの形で咀嚼して他の場面でも使えるようになる、というくらいの段階までいかないと「自分の中に取り入れる」とはいえない。そして、ノートを付けるというのはその大きな助けとなる道具なわけだ。
ちなみに出口先生はノートの取り方に特化した「『出口式』脳活ノート」(09年。廣済堂出版)という著書がある。興味のある方はご参照いただきたい。もう文章がかなり長くなったので著書の詳しい内容はここでは書かないけれど、文章を読んで要約してノートを書くことにより、
STEP1:話の筋道を理解する
STEP2:文章を論理的に読解する
STEP3:論理的にまとめ、説明する
STEP4:考えたことを、論理的に表現する
という流れを繰り返すうちに自分の頭の使い方が劇的に変わっていく(先生の表現によれば「論理力が習熟する」)というのが本書の狙いである。
私は高校3年の時(94年)に出口先生の参考書「現代文入門講義の実況中継 (上)」(語学春秋社、1991年) に出会い、それによって難解と思われる評論文や小説が先生の解説によっていとも簡単にスッと自分の頭の中に入っていった衝撃を今も引きずっている。
無機的にしか見えない文字の羅列がとてつもなく魅力的な文章に変化するというのはこの人生の中でも最もスリリングな瞬間の一つであった。
それからは物の考えとか視点は以前より大きく変わったのは間違いない(それによって何か他人に誇れる結果を残したかといえば、それは辛いところだけど)。出口先生との出会いがなければ、いま以上(!)に無気力な人生を過ごしていたことだろう。ともかくその影響は大きかった。
そんな私はこれからの人生に対して明るい展望は全く見えていないし夢とか目標とかも抱いていない。ただ、こんなことをできたらなあ、と漠然と考えていることが一つだけある。
天才どころか凡人以下の自分には、何か歴史に残るような業績を残すとかもの凄い経営手腕を発揮するとかいったことはまずできそうにない。ただ、かつての偉大なる人の残した業績をわかりやすく加工して人に伝えるということだったら、それもまた難しい仕事なのだけど、実現する可能性はグッと高くなるのではないだろうか。
塾の先生とかセミナー講師、または池上彰さんのような「教える」というスタンスとはまた違った、もっと市井の人と同じ土俵に立って一緒に考えるようなそんなやり方ができたら自分にも入り込む余地があるのではと。いつの頃から私はそんなことを考えていた。かつてだったら予備校や大学のアルバイトからスタートするといったそれなりのレールに乗らなければならないし門外漢の私には非現実的な話である。しかしWeb2.0の現在、さまざまなツールが無料で使えるようになった今、情報を発信することについてはグッと簡単になっている。
こうした時代だし、何か目標をたてよう。うん、当面は「出口汪の劣化版コピー」を目指そうかな。
ただ、それなりに結果を出すためには、自分をアピールできる知名度なり業績なり人脈などを作らなければ始まらないだろう。そのあたりをどうするか。ただ、こうして色々考えること自体はけっこう楽しい。
土屋賢二「ツチヤ教授の哲学講義」(05年。岩波書店)
2012年9月17日 読書 コメント (3)
かつては仲正昌樹(金沢大学法学類教授)の著書を紹介したように、思想とか哲学といったものに少しだけ関心を持っている。かといって本格的な哲学書を読み通した経験もないし、今後もそういうことはしないと思う。これまで読んだことがあるのは仲正さんのほか、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」(02年。文春新書)や斎藤環さんの「生き延びるためのラカン」(06年。木星叢書)など、いわゆる解説書というものだろう。私の知識量では専門的な知識の必要な哲学書をそのまま読むことなどできるわけがないからだ。
哲学や思想に限ったことではないが、よくできた解説書というのは読んでいて実に面白いしためになる。「解説」を目的としているだけあって他人に伝わるように工夫されているからだ(必ずしもそうなっていない内容も少なくないが)。この土屋さんの本もそうした優れた解説書の一つである。
本書は土屋さんが大学(お茶の水女子大学)に入りたての学生向けにおこなった授業をもとに構成したものである。土屋さんといえば「笑う哲学者」と呼ばれているように、どこまで本気かわからないほどふざけた文章を書く人として知られている。しかし本書ではそうした部分は、実際の授業ではあったかもしれないが、ほとんど表に出てこない。「まえがき」だけは、ああ土屋さんだな、と感じるもののそれ以外でいえばオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインを紹介する時に、
<(ウィトゲンシュタインの生家の写真を示して)これがウィトゲンシュタインの生家です。高級な劇場みたいですけれど、これがウィトゲンシュタインの家でした。家の中にグランドピアノが九台あって、しかもピアノ屋じゃないんですよ。ピアノ屋でもないのにグランドピアノが九台もあって、なおかつ、寝る場所もあったんだから大富豪ですよね。>(P.148)
と言っているところくらいだろうか。本書は全体的を通していかにも大学講義をそのまま収録したというようなたたずまいになっている。そういう点で土屋さんの著書ではかなり異色な作品である。それは版元である岩波書店の意向なのかもしれないし、
<わたし自身は、実生活でこそ他人の言うなりになっているが、哲学に関しては妥協せず、納得できるものしか認めないという方針を貫いてきた。その結果が、本書で示したような哲学観である。>(「まえがき」のP.8)
という土屋さんの哲学に対するこだわりが反映されているかもしれない。いずれにせよ講義に出てくる具体例とか逸話なども真面目というか無難というか、笑いをとるような場面は全くない。率直にいうとけっこう退屈な印象を受ける。もし私が実際にこの講義を受けていたら、ちょっと眠っていたのではないか。
しかしこの講義の流れはかなり作り込まれているというか、哲学の入門講座ということではかなりよく出来ている。私が土屋さんを偉いというかさすがと思ったのは、プラトンにしてもデカルトにしてもその著書からの引用が全くないところである。さきほども書いたが、何の予備知識も持たない人間が哲学書を読むというのは相当つらい行為であり、また往々にして時間の無駄となるだろう。井上ひさしさんも言っていたが、とにかくわからないものは役に立たない。のである。そうした難しいところを極力排しているので、頑張って文章をたどっていけばなんとか哲学のエッセンスだけは理解できるだろう。
本書の大きなテーマは、
<哲学というものはいったい何を解明するものなのか>(P.1)
である。哲学とは何か、という疑問にはいろいろな解釈ができるだろうが、ここでは哲学の果たす役割や使命について絞って解説していると思われる。
土屋さんはまず宗教、文学、そして科学を哲学と比較する。大まかな点は以下の通りだ。
◯哲学と宗教の違い
宗教:「信じること」が基本的特徴。その人の価値観というか生き方の問題であり、論証も根拠も必要がない。
哲学:あくまで知識を獲得するのが目的(ただ、これは哲学に限らず全ての学問に共通していえる話だ)。
◯哲学と文学の違い
<哲学と文学はまったく違います。どこが違うというと、哲学の場合は基本的に問題と解決があります。哲学的な問題があって、それに対する解決を示すっていうのが哲学です。文学についてはそういうものは必要ありません。でも哲学には問題と解決がないといけないんです。>(P.9)
◯哲学と科学の違い
<科学は、観察可能な事実を明らかにするけど、哲学はそうではない。>(P16)
こうして比べてみると、
・哲学はあくまで学問なので、文学や宗教と違い、論証責任がともなう(言いっぱなしではなく他人に言葉で説明できるようにならなければいけない)。
・哲学は科学と違い、観察可能なものでなく、例えば「存在」とか「時間」とかいった事実を超えたもの(いわゆる「形而上学的なもの」)を研究対象とする。
といった哲学の特徴が何となく見えてくる。
それでは、哲学の抱える問題を解明するためにはどのような方法があるのだろうか。これについては大きく分けて2つの考え方があると土屋さんは言う。
<ひとつは、哲学は感覚を超えたところにある形而上学的真理を解明するという考え方です。この立場は、哲学を形而上学と考えるんですね。もうひとつの考え方は、哲学は、そういう真理を解明するものではなくて、哲学的問題に関してわれわれの理解を深めることだ、そのためには、特にことばの働きをきちんと理解する必要がある、という考え方です>(P.223)
「形而上学(けいじじょうがく)」という言葉が出てきたけれど、前者は「存在」とか「時間」とかいったパッと見た感じではいかにも深くて難しそうな問題を解明するのが哲学の仕事だという考え方である。これは世間の人々が抱いている哲学または哲学者のイメージと重なる部分は多いだろう。
これに対して後者は多くの人にとってはピンとこない話に違いない。哲学の問題を解くのに「ことばの働き」ってどういうこと?それは国語とか言語学の問題になるんじゃないの?と思うのではないか。
しかし、予想はつくと思うが、土屋さんは後者の考え方をもとにして講義を展開する。そしてベルクソンの「時間」に関する考え方、プラトンのイデア論、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」といった歴代の哲学者が残した業績を検証する。ここで土屋さんが一貫して主張しているのは、これらの仕事は別に哲学的問題を解明したのではなく日常の言葉づかいに反対しただけだ、ということである。
例えば「われ思う、ゆえにわれあり」というのは、この世の中で疑う余地のないものは何かとあれこれ考えた末にデカルトがたどりついた結論である。この一文は後世に大きな影響を残し、デカルト以降の哲学は心を基準にいろんなものを考えるように研究方法が大きく変わっていくのである。
しかし土屋さんは、
<でもぼくはデカルトが築いた基礎が本当に貴重なものなのかどうか、疑問をもっています。>(P.124)
と述べ、以下のような疑問を投げかける。
<ぼくの考えでは、なぜ「われ思う」が語りえないかといえば、世界が特定の構造をしているからではなくて、また心が特殊なものだからではなくて、われわれが特定のことばの規則を使っているからです。>(P.138)
<ぼくには、デカルトは、われわれが使っている言語規則をそのままなぞっただけだと思えるんです。>(P.140)
<とにかくデカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」は疑えないと言って、そこから自分の哲学を築きました。彼は、「われ思う、ゆえにわれあり」からいろんなことを導出しています。たとえば、「神は存在する」ということを論理的に導いているんですけれど、ぼくは、それはすべて間違っていると思います。言語規則から事実や真理が導きだせるとは思えないからです。言語規則から導き出せるのは言語規則しかないとぼくには思えるんです。>(P.142-143)
引用した部分で言語規則とかことばの規則といったものが出てきた。デカルトは「われ思う」という部分は絶対に疑えないということを示したが、それは哲学の真理を発見したというような話ではないと土屋さんは言うのである。そうではなくて、「思う」とか「痛い」という言葉は本人がそう言ってしまえば成り立つという規則を私たちが採用しているからだ。つまり「思う」という言葉には特殊な言語規則があり、だから疑いようもなくなっているわけである。このあたりちょっと考えないと難しいかもしれないが、「歩く」とか「食べる」といった言葉と「思う」を比べてみればなんとなく感じてもらえるだろう。
そして本書の後半では先ほどのウィトゲンシュタインの考えが大きく紹介される。その著書「論理哲学論考」において、哲学の問題はすべて全面的・最終的に解決したと考えたと土屋さんは解説する。そのウィトゲンシュタインの考えも言語が重要になっている。
といっても、ウィトゲンシュタインの業績は哲学の問題を何か解き明かしたというわけではない。
<彼の基本的な考え方は、すべての哲学的な問題はナンセンスであるというものである。つまり、問題自体が間違っていて、問題として成り立たない。問題を立てること自体が間違っているということです。>(P.150)
つまり、「存在とは何か」といったような問題を考える自体が無意味だ、ということである。これは一見すると哲学そのものに意味が無いとも読める。
そもそもの話になるが、言語というのは事実を述べることしかできない。事実を積み重ねることしかできないから、それを超える真理を記述することは原理的に不可能なのだ。荒唐無稽な表現するだけだったら十分に可能だが、それはもはや宗教や文学の世界になる。科学のように誰でもわかる言葉で示すこともできない。
言語で表現できないものを言語で試みようとしているということに哲学の大きな矛盾があるのではないだろうか。本書を読んで私が至った結論の一つがそれだった。
<こうして、ウィトゲンシュタインは、本質も善悪も価値も事実も、知ることはできないものだと考えました。これは人間の能力がたまたま不足しているからではないんですね。言語の構造によって知ることができない仕組みになっているという結論に到達したんですね。哲学的なことについて知ることができないような問題は「問題」とは呼べないからなんですね。>(P.206)
それゆえウィトゲンシュタインは、
「哲学の問題は、解決されるべきではなくて解消されなくてはならない」
という言葉を残している。
私もたぶん哲学的問題について多くの人が合意できる答えはないだろうな、とは思う。しかし、それで全てに納得したかといえばそうではない。
例えばふとしたきっかけで「生きるとは何か」と思い悩んだとする。ウィトゲンシュタインの考えを知っている私は「そんな問いなど正解があるはずがない」とはわかっているわけだ。しかし、だからといってその悩みを放棄できるかといえばそれは無理だろう。100点満点の回答ができないという事実はわかったとしても、それでも自分なりの回答、それが20点か60点かはわからないが、を出そう。そう考えるのではないだろうか。
謀らずも土屋さんは本書の最後で、
<人間は放っておくと哲学的な問題を作る傾向があります。>(P.227)
と指摘しているのが、これは全くその通りだと思う。人間とはそういう生き物なのだ。人生なんて順風満帆なことなどそうそうないし生きていたらそんな考えに迷いこんでしまうだろう。
「まえがき」で土屋さんはこうも書いている。
<哲学は実験するわけでも、観察するわけでも、調査するわけでもない。自分で考えてみて納得するかどうかが哲学のすべてである。ゼロから考えて納得するという要素がなければ、哲学とは言えないと思うのである。>(「まえがき」のP.6-7)
本書を何度か通して読んでみて、その意味がやっとわかってきたような気がする。哲学的な問題は自分で生きて考えることでしか答えらしきものが出てこないのだろう。今はそんなことを考えている。
哲学や思想に限ったことではないが、よくできた解説書というのは読んでいて実に面白いしためになる。「解説」を目的としているだけあって他人に伝わるように工夫されているからだ(必ずしもそうなっていない内容も少なくないが)。この土屋さんの本もそうした優れた解説書の一つである。
本書は土屋さんが大学(お茶の水女子大学)に入りたての学生向けにおこなった授業をもとに構成したものである。土屋さんといえば「笑う哲学者」と呼ばれているように、どこまで本気かわからないほどふざけた文章を書く人として知られている。しかし本書ではそうした部分は、実際の授業ではあったかもしれないが、ほとんど表に出てこない。「まえがき」だけは、ああ土屋さんだな、と感じるもののそれ以外でいえばオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインを紹介する時に、
<(ウィトゲンシュタインの生家の写真を示して)これがウィトゲンシュタインの生家です。高級な劇場みたいですけれど、これがウィトゲンシュタインの家でした。家の中にグランドピアノが九台あって、しかもピアノ屋じゃないんですよ。ピアノ屋でもないのにグランドピアノが九台もあって、なおかつ、寝る場所もあったんだから大富豪ですよね。>(P.148)
と言っているところくらいだろうか。本書は全体的を通していかにも大学講義をそのまま収録したというようなたたずまいになっている。そういう点で土屋さんの著書ではかなり異色な作品である。それは版元である岩波書店の意向なのかもしれないし、
<わたし自身は、実生活でこそ他人の言うなりになっているが、哲学に関しては妥協せず、納得できるものしか認めないという方針を貫いてきた。その結果が、本書で示したような哲学観である。>(「まえがき」のP.8)
という土屋さんの哲学に対するこだわりが反映されているかもしれない。いずれにせよ講義に出てくる具体例とか逸話なども真面目というか無難というか、笑いをとるような場面は全くない。率直にいうとけっこう退屈な印象を受ける。もし私が実際にこの講義を受けていたら、ちょっと眠っていたのではないか。
しかしこの講義の流れはかなり作り込まれているというか、哲学の入門講座ということではかなりよく出来ている。私が土屋さんを偉いというかさすがと思ったのは、プラトンにしてもデカルトにしてもその著書からの引用が全くないところである。さきほども書いたが、何の予備知識も持たない人間が哲学書を読むというのは相当つらい行為であり、また往々にして時間の無駄となるだろう。井上ひさしさんも言っていたが、とにかくわからないものは役に立たない。のである。そうした難しいところを極力排しているので、頑張って文章をたどっていけばなんとか哲学のエッセンスだけは理解できるだろう。
本書の大きなテーマは、
<哲学というものはいったい何を解明するものなのか>(P.1)
である。哲学とは何か、という疑問にはいろいろな解釈ができるだろうが、ここでは哲学の果たす役割や使命について絞って解説していると思われる。
土屋さんはまず宗教、文学、そして科学を哲学と比較する。大まかな点は以下の通りだ。
◯哲学と宗教の違い
宗教:「信じること」が基本的特徴。その人の価値観というか生き方の問題であり、論証も根拠も必要がない。
哲学:あくまで知識を獲得するのが目的(ただ、これは哲学に限らず全ての学問に共通していえる話だ)。
◯哲学と文学の違い
<哲学と文学はまったく違います。どこが違うというと、哲学の場合は基本的に問題と解決があります。哲学的な問題があって、それに対する解決を示すっていうのが哲学です。文学についてはそういうものは必要ありません。でも哲学には問題と解決がないといけないんです。>(P.9)
◯哲学と科学の違い
<科学は、観察可能な事実を明らかにするけど、哲学はそうではない。>(P16)
こうして比べてみると、
・哲学はあくまで学問なので、文学や宗教と違い、論証責任がともなう(言いっぱなしではなく他人に言葉で説明できるようにならなければいけない)。
・哲学は科学と違い、観察可能なものでなく、例えば「存在」とか「時間」とかいった事実を超えたもの(いわゆる「形而上学的なもの」)を研究対象とする。
といった哲学の特徴が何となく見えてくる。
それでは、哲学の抱える問題を解明するためにはどのような方法があるのだろうか。これについては大きく分けて2つの考え方があると土屋さんは言う。
<ひとつは、哲学は感覚を超えたところにある形而上学的真理を解明するという考え方です。この立場は、哲学を形而上学と考えるんですね。もうひとつの考え方は、哲学は、そういう真理を解明するものではなくて、哲学的問題に関してわれわれの理解を深めることだ、そのためには、特にことばの働きをきちんと理解する必要がある、という考え方です>(P.223)
「形而上学(けいじじょうがく)」という言葉が出てきたけれど、前者は「存在」とか「時間」とかいったパッと見た感じではいかにも深くて難しそうな問題を解明するのが哲学の仕事だという考え方である。これは世間の人々が抱いている哲学または哲学者のイメージと重なる部分は多いだろう。
これに対して後者は多くの人にとってはピンとこない話に違いない。哲学の問題を解くのに「ことばの働き」ってどういうこと?それは国語とか言語学の問題になるんじゃないの?と思うのではないか。
しかし、予想はつくと思うが、土屋さんは後者の考え方をもとにして講義を展開する。そしてベルクソンの「時間」に関する考え方、プラトンのイデア論、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」といった歴代の哲学者が残した業績を検証する。ここで土屋さんが一貫して主張しているのは、これらの仕事は別に哲学的問題を解明したのではなく日常の言葉づかいに反対しただけだ、ということである。
例えば「われ思う、ゆえにわれあり」というのは、この世の中で疑う余地のないものは何かとあれこれ考えた末にデカルトがたどりついた結論である。この一文は後世に大きな影響を残し、デカルト以降の哲学は心を基準にいろんなものを考えるように研究方法が大きく変わっていくのである。
しかし土屋さんは、
<でもぼくはデカルトが築いた基礎が本当に貴重なものなのかどうか、疑問をもっています。>(P.124)
と述べ、以下のような疑問を投げかける。
<ぼくの考えでは、なぜ「われ思う」が語りえないかといえば、世界が特定の構造をしているからではなくて、また心が特殊なものだからではなくて、われわれが特定のことばの規則を使っているからです。>(P.138)
<ぼくには、デカルトは、われわれが使っている言語規則をそのままなぞっただけだと思えるんです。>(P.140)
<とにかくデカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」は疑えないと言って、そこから自分の哲学を築きました。彼は、「われ思う、ゆえにわれあり」からいろんなことを導出しています。たとえば、「神は存在する」ということを論理的に導いているんですけれど、ぼくは、それはすべて間違っていると思います。言語規則から事実や真理が導きだせるとは思えないからです。言語規則から導き出せるのは言語規則しかないとぼくには思えるんです。>(P.142-143)
引用した部分で言語規則とかことばの規則といったものが出てきた。デカルトは「われ思う」という部分は絶対に疑えないということを示したが、それは哲学の真理を発見したというような話ではないと土屋さんは言うのである。そうではなくて、「思う」とか「痛い」という言葉は本人がそう言ってしまえば成り立つという規則を私たちが採用しているからだ。つまり「思う」という言葉には特殊な言語規則があり、だから疑いようもなくなっているわけである。このあたりちょっと考えないと難しいかもしれないが、「歩く」とか「食べる」といった言葉と「思う」を比べてみればなんとなく感じてもらえるだろう。
そして本書の後半では先ほどのウィトゲンシュタインの考えが大きく紹介される。その著書「論理哲学論考」において、哲学の問題はすべて全面的・最終的に解決したと考えたと土屋さんは解説する。そのウィトゲンシュタインの考えも言語が重要になっている。
といっても、ウィトゲンシュタインの業績は哲学の問題を何か解き明かしたというわけではない。
<彼の基本的な考え方は、すべての哲学的な問題はナンセンスであるというものである。つまり、問題自体が間違っていて、問題として成り立たない。問題を立てること自体が間違っているということです。>(P.150)
つまり、「存在とは何か」といったような問題を考える自体が無意味だ、ということである。これは一見すると哲学そのものに意味が無いとも読める。
そもそもの話になるが、言語というのは事実を述べることしかできない。事実を積み重ねることしかできないから、それを超える真理を記述することは原理的に不可能なのだ。荒唐無稽な表現するだけだったら十分に可能だが、それはもはや宗教や文学の世界になる。科学のように誰でもわかる言葉で示すこともできない。
言語で表現できないものを言語で試みようとしているということに哲学の大きな矛盾があるのではないだろうか。本書を読んで私が至った結論の一つがそれだった。
<こうして、ウィトゲンシュタインは、本質も善悪も価値も事実も、知ることはできないものだと考えました。これは人間の能力がたまたま不足しているからではないんですね。言語の構造によって知ることができない仕組みになっているという結論に到達したんですね。哲学的なことについて知ることができないような問題は「問題」とは呼べないからなんですね。>(P.206)
それゆえウィトゲンシュタインは、
「哲学の問題は、解決されるべきではなくて解消されなくてはならない」
という言葉を残している。
私もたぶん哲学的問題について多くの人が合意できる答えはないだろうな、とは思う。しかし、それで全てに納得したかといえばそうではない。
例えばふとしたきっかけで「生きるとは何か」と思い悩んだとする。ウィトゲンシュタインの考えを知っている私は「そんな問いなど正解があるはずがない」とはわかっているわけだ。しかし、だからといってその悩みを放棄できるかといえばそれは無理だろう。100点満点の回答ができないという事実はわかったとしても、それでも自分なりの回答、それが20点か60点かはわからないが、を出そう。そう考えるのではないだろうか。
謀らずも土屋さんは本書の最後で、
<人間は放っておくと哲学的な問題を作る傾向があります。>(P.227)
と指摘しているのが、これは全くその通りだと思う。人間とはそういう生き物なのだ。人生なんて順風満帆なことなどそうそうないし生きていたらそんな考えに迷いこんでしまうだろう。
「まえがき」で土屋さんはこうも書いている。
<哲学は実験するわけでも、観察するわけでも、調査するわけでもない。自分で考えてみて納得するかどうかが哲学のすべてである。ゼロから考えて納得するという要素がなければ、哲学とは言えないと思うのである。>(「まえがき」のP.6-7)
本書を何度か通して読んでみて、その意味がやっとわかってきたような気がする。哲学的な問題は自分で生きて考えることでしか答えらしきものが出てこないのだろう。今はそんなことを考えている。
漆原直行「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」(12年。マイナビ新書)
2012年7月20日 読書
今年の4月初旬(正確な日時は忘れてしまった)、縁あってこの本を著者である漆原さんのお話を大阪で聴く機会があった。この「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」に関連してビジネス書の世界に関することを色々と知ったのだが、その後の懇親会も含めて実に楽しい時間を過ごすことができた(内容はラジオやテレビでは「ピー」音が出るようなものなのでここで触れることはできない)。漆原さん自身も、取材で多くの人と接しているためか実に人懐っこそうな方だった。酒があまり飲めないのにあんなにテンションが上げられるのは凄いなあ、と社会不適合者の私は感心するばかりである。
それはともかくとして、私は別にビジネス書の愛読者というわけでもなく本書にしても講演会に行く途中にJR大阪駅そばのブックファーストで買ったという状態であった。そんな感じで読んだ本であるものの、その内容には色々と共感したり考えさせられる部分が思いのほか多かった。そういうわけで、購入してからかなり時間が経ってしまったけれど、本書の感想を書いてみたい。
題名から内容のある程度は想像がつくような気もするが、
<昨今のビジネス書界隈の話題をナナメに切り取り、生温かく(決して”温かく”はございません)概観してみよう>(P.4)
という主旨の本書はこの10年で売れたビジネス書の動向から始まり、そもそもビジネス書というのはどんな書物なのかという分析、ビジネス書がやたらと刊行される出版界の現状、さらにビジネス書を実際に読んでいる人たちの実態など幅広い内容が取り上げられている。
そのあたりは漆原さん自身も、こう言っている。
<私はコンサルタントのような専門家でも、大学教員や評論家のような識者でもなく、単なる一取材者・記者です。だから・・・ということでもありませんが、ある事柄を記事などで語るに際して、基本的に大上段に構えず、理論や分析でゴリゴリに堅くまとめるようなこともせず、どちらかというと対象読者と同じ目線の高さから企画に関わるスタイルを取ってきました。というより、知識もスキルも何かと不十分な人間なので、そういうスタイルでしか仕事ができなかった、というほうが適切かもしれません。>(P.160-161)
本書もまたこうした漆原さんのスタンスが出た作りになっている。個人的には、良くも悪くも雑誌っぽい作りだなあ、という印象を受けたけれどそれは漆原さんのしている仕事を考えれば自然なことなのだろう。
内容は多岐にわたるため読む人によって気になるポイントは違ってくるに違いない。出版業界にいる人ならば書籍の刊行点数を増やして広く・薄く利益をあげようという販売戦略のあり方に関心がいくだろうし、ビジネス書をたくさん読んでいる人は、自分と同じようにビジネス書を読むものの実際の仕事ではなかなか活かされない経験に共感を抱くかもしれない。
そして私といえばまた違った思いを本書から受け取った。
漆原さんは講演会の時に、自分はビジネス書の世界の人間ではないのでこういう本を出してもたいして影響はない、というようなことを語っていた。実際、ビジネス書畑の人がこうした本を刊行することはあり得ない。また出版業界にしても新しく出るビジネス書が売れないと回っていかない現状があり、本書を歓迎することはないだろう。
私は上のいずれにも該当しないものの、本書に書かれている内容、特に後半に出てくる指摘は自分の実感としては実に腑に落ちるものが多かった。
例えばビジネス書をたくさん読むことについての漆原さんの見解はこういうものだ。
<たしかに、読書は大切です。
その意味ではビジネス書を読むことはよいことといえます。
ただし、これはあくまで一般論であって「適度な運動をすることはカラダによい」という程度の指摘でしかありません。具体論レベルではいうまでもなくケースバイケースであり、程度問題であり、個人差もあることです。少なくとも十把一絡げに「成功」「儲ける」「実現する」なんて要素を「絶対」「楽して」「法則」というような過剰な類型化でまとめてしまえるようなものでは、本来ないはずです。
少し冷静に考えてみましょう。
月に5万円以上ビジネス書に投入できるビジネスパーソンが、果たして労働人口全体でどの程度いるでしょうか。
20~30代のビジネスパーソンの現実的な生活を想像してみてください。実家暮らしならまだしも、ひとり暮らしで家賃や公共料金、食費など生活にかかるコストをすべて自分で負担しなければならない場合は? 結婚していて、小さな子どももいるから奥さんは専業主婦もしくは短時間のパートしかできない、という場合ならどうでしょう?月1万円の図書費すらままならないのではないでしょうか。少なくとも、私がこれまで実際に会い、インタビューしたことのある、月の手取り額が10万円台~20万強の会社員のなかで、月に3万円以上ビジネス書に費やすことができている人は1割もいない印象です。>(P.171-172)
大半の人が、実際のところってそんなもんだよね、と思ってくれる内容だろう。いやむしろ「当たり前」と考えるかもしれない。しかし上のような事情もあり、ビジネス書の世界の人も出版業界も「当たり前」なことは言わないのだ。そういうことがあからさまに書かれている本書を新鮮に感じたのである。
賃貸マンションで派遣社員という私の立場からすると、漆原さんが出した例にぴったり当てはまってしまうという感じだ。1ヶ月の書籍代は<単行本なら1冊、新書なら2冊買えるかどうかという額>(P.173)というのはドンピシャリである。
本書でも幾度となく指摘している通り、ビジネス書の著者たちは総じて「たくさん本を読め!」と煽る傾向がある。また業績が悪くなる一方の出版業界にしても書籍の点数を増やして薄利多売で回していこうという戦略があるため、同じ流れに乗っている。そのあたりを漆原さんが不気味に感じているところなのだろうが、要するにビジネス書というのは「不安産業」の一つなのだ。不安産業とは生命保険や投資信託または信仰宗教など、先行きの見えない時代を前にして不安にしている人たちの気持ちをつけ込む存在だ。本書ではそこまで露骨に書いてはいないけれど、ビジネス書について一言で表現すればそうなる。
かつてビジネス書にハマったがある時期に目覚めた人の感想が出てくる。
<ビジネス書で得たものは決して無駄ではないんだけれど、それを実務に落とし込むのは容易ではないことに気づいた。>(P.204)
<ビジネス書って、結局はヒント程度にしかならない。>(P.206)
これらの発言はビジネス書を不安産業と捉えてみると結構スッキリと話がつながってくる。ビジネス書をたくさん読んだところで一時的気分が高揚したとしても長続きがしなかった、というような現象も理解しやすいのではないか。実際の効果が乏しい、というのは不安産業のいずれにも当てはまるに違いない。
それはともかく、いままで引用した部分だけでビジネス書というか本との上手な付き合い方はもう結論らしきものが出ているのではないか。個々人にとって読書のやり方には違いがあり、誰でもあてはまるような方法は存在しないということである。無論、ビジネス書作家や出版社のおかしな流れに乗っかる必要など一切ない。自分が無理のないペース(予算や時間など)で書かれている内容を取り入れていくことが何より大事なのだろう。
漆原さん自身は「生温かく」という表現を使っているし、敢えて偽悪的にビジネス書を取り巻く状況を描いている部分もある。しかし何度も読んでいるうちに、むしろイビツで異様なビジネス書の世界を「常識」の視点で切り込んでいるように思えてきた。ビジネス書に繰り返し書かれていることがあまりにも現実味がないのである。
漆原さんがまえがきで自嘲的に書いてあるように、本書を読んで何か具体的で即効性のある結果は期待できないかもしれない。しかしビジネス書に振り回されて明後日の方向に進んでしまったような人たちがこの本を読んだら、とりあえずまたスタート地点には戻られるような気がする。これはビジネス書に限らず、おかしな投資話や怪しげなセミナーなどで手を出して痛い目にあった方にも有効ではないだろうか。
こんなことを指摘しても仕方ないけれど、私たちを取り巻く環境は厳しさが増しており、数年先も展望が見えてこないような状況だ(そういえば、今の出版業界は良い話が全くありません、と漆原さんが言っていたことを思い出す)。そういう時に人は不安になり、それゆえにおかしなことに手を出してしまう可能性も大きくなってくる。本書はそうした気持ちに歯止めをかけるような視点がたくさん書かれている。それはあまりに「平凡」な指摘かもしれないが、実際に世に出ている本にそういう視点があまりにも少ない気がしてならない。そういう点で本書は貴重なものといえよう。
最後になるが、漆原さんが今後も同じようなまなざしでさらなる活躍をしてくれることを願っている。
それはともかくとして、私は別にビジネス書の愛読者というわけでもなく本書にしても講演会に行く途中にJR大阪駅そばのブックファーストで買ったという状態であった。そんな感じで読んだ本であるものの、その内容には色々と共感したり考えさせられる部分が思いのほか多かった。そういうわけで、購入してからかなり時間が経ってしまったけれど、本書の感想を書いてみたい。
題名から内容のある程度は想像がつくような気もするが、
<昨今のビジネス書界隈の話題をナナメに切り取り、生温かく(決して”温かく”はございません)概観してみよう>(P.4)
という主旨の本書はこの10年で売れたビジネス書の動向から始まり、そもそもビジネス書というのはどんな書物なのかという分析、ビジネス書がやたらと刊行される出版界の現状、さらにビジネス書を実際に読んでいる人たちの実態など幅広い内容が取り上げられている。
そのあたりは漆原さん自身も、こう言っている。
<私はコンサルタントのような専門家でも、大学教員や評論家のような識者でもなく、単なる一取材者・記者です。だから・・・ということでもありませんが、ある事柄を記事などで語るに際して、基本的に大上段に構えず、理論や分析でゴリゴリに堅くまとめるようなこともせず、どちらかというと対象読者と同じ目線の高さから企画に関わるスタイルを取ってきました。というより、知識もスキルも何かと不十分な人間なので、そういうスタイルでしか仕事ができなかった、というほうが適切かもしれません。>(P.160-161)
本書もまたこうした漆原さんのスタンスが出た作りになっている。個人的には、良くも悪くも雑誌っぽい作りだなあ、という印象を受けたけれどそれは漆原さんのしている仕事を考えれば自然なことなのだろう。
内容は多岐にわたるため読む人によって気になるポイントは違ってくるに違いない。出版業界にいる人ならば書籍の刊行点数を増やして広く・薄く利益をあげようという販売戦略のあり方に関心がいくだろうし、ビジネス書をたくさん読んでいる人は、自分と同じようにビジネス書を読むものの実際の仕事ではなかなか活かされない経験に共感を抱くかもしれない。
そして私といえばまた違った思いを本書から受け取った。
漆原さんは講演会の時に、自分はビジネス書の世界の人間ではないのでこういう本を出してもたいして影響はない、というようなことを語っていた。実際、ビジネス書畑の人がこうした本を刊行することはあり得ない。また出版業界にしても新しく出るビジネス書が売れないと回っていかない現状があり、本書を歓迎することはないだろう。
私は上のいずれにも該当しないものの、本書に書かれている内容、特に後半に出てくる指摘は自分の実感としては実に腑に落ちるものが多かった。
例えばビジネス書をたくさん読むことについての漆原さんの見解はこういうものだ。
<たしかに、読書は大切です。
その意味ではビジネス書を読むことはよいことといえます。
ただし、これはあくまで一般論であって「適度な運動をすることはカラダによい」という程度の指摘でしかありません。具体論レベルではいうまでもなくケースバイケースであり、程度問題であり、個人差もあることです。少なくとも十把一絡げに「成功」「儲ける」「実現する」なんて要素を「絶対」「楽して」「法則」というような過剰な類型化でまとめてしまえるようなものでは、本来ないはずです。
少し冷静に考えてみましょう。
月に5万円以上ビジネス書に投入できるビジネスパーソンが、果たして労働人口全体でどの程度いるでしょうか。
20~30代のビジネスパーソンの現実的な生活を想像してみてください。実家暮らしならまだしも、ひとり暮らしで家賃や公共料金、食費など生活にかかるコストをすべて自分で負担しなければならない場合は? 結婚していて、小さな子どももいるから奥さんは専業主婦もしくは短時間のパートしかできない、という場合ならどうでしょう?月1万円の図書費すらままならないのではないでしょうか。少なくとも、私がこれまで実際に会い、インタビューしたことのある、月の手取り額が10万円台~20万強の会社員のなかで、月に3万円以上ビジネス書に費やすことができている人は1割もいない印象です。>(P.171-172)
大半の人が、実際のところってそんなもんだよね、と思ってくれる内容だろう。いやむしろ「当たり前」と考えるかもしれない。しかし上のような事情もあり、ビジネス書の世界の人も出版業界も「当たり前」なことは言わないのだ。そういうことがあからさまに書かれている本書を新鮮に感じたのである。
賃貸マンションで派遣社員という私の立場からすると、漆原さんが出した例にぴったり当てはまってしまうという感じだ。1ヶ月の書籍代は<単行本なら1冊、新書なら2冊買えるかどうかという額>(P.173)というのはドンピシャリである。
本書でも幾度となく指摘している通り、ビジネス書の著者たちは総じて「たくさん本を読め!」と煽る傾向がある。また業績が悪くなる一方の出版業界にしても書籍の点数を増やして薄利多売で回していこうという戦略があるため、同じ流れに乗っている。そのあたりを漆原さんが不気味に感じているところなのだろうが、要するにビジネス書というのは「不安産業」の一つなのだ。不安産業とは生命保険や投資信託または信仰宗教など、先行きの見えない時代を前にして不安にしている人たちの気持ちをつけ込む存在だ。本書ではそこまで露骨に書いてはいないけれど、ビジネス書について一言で表現すればそうなる。
かつてビジネス書にハマったがある時期に目覚めた人の感想が出てくる。
<ビジネス書で得たものは決して無駄ではないんだけれど、それを実務に落とし込むのは容易ではないことに気づいた。>(P.204)
<ビジネス書って、結局はヒント程度にしかならない。>(P.206)
これらの発言はビジネス書を不安産業と捉えてみると結構スッキリと話がつながってくる。ビジネス書をたくさん読んだところで一時的気分が高揚したとしても長続きがしなかった、というような現象も理解しやすいのではないか。実際の効果が乏しい、というのは不安産業のいずれにも当てはまるに違いない。
それはともかく、いままで引用した部分だけでビジネス書というか本との上手な付き合い方はもう結論らしきものが出ているのではないか。個々人にとって読書のやり方には違いがあり、誰でもあてはまるような方法は存在しないということである。無論、ビジネス書作家や出版社のおかしな流れに乗っかる必要など一切ない。自分が無理のないペース(予算や時間など)で書かれている内容を取り入れていくことが何より大事なのだろう。
漆原さん自身は「生温かく」という表現を使っているし、敢えて偽悪的にビジネス書を取り巻く状況を描いている部分もある。しかし何度も読んでいるうちに、むしろイビツで異様なビジネス書の世界を「常識」の視点で切り込んでいるように思えてきた。ビジネス書に繰り返し書かれていることがあまりにも現実味がないのである。
漆原さんがまえがきで自嘲的に書いてあるように、本書を読んで何か具体的で即効性のある結果は期待できないかもしれない。しかしビジネス書に振り回されて明後日の方向に進んでしまったような人たちがこの本を読んだら、とりあえずまたスタート地点には戻られるような気がする。これはビジネス書に限らず、おかしな投資話や怪しげなセミナーなどで手を出して痛い目にあった方にも有効ではないだろうか。
こんなことを指摘しても仕方ないけれど、私たちを取り巻く環境は厳しさが増しており、数年先も展望が見えてこないような状況だ(そういえば、今の出版業界は良い話が全くありません、と漆原さんが言っていたことを思い出す)。そういう時に人は不安になり、それゆえにおかしなことに手を出してしまう可能性も大きくなってくる。本書はそうした気持ちに歯止めをかけるような視点がたくさん書かれている。それはあまりに「平凡」な指摘かもしれないが、実際に世に出ている本にそういう視点があまりにも少ない気がしてならない。そういう点で本書は貴重なものといえよう。
最後になるが、漆原さんが今後も同じようなまなざしでさらなる活躍をしてくれることを願っている。
津田大介「情報の呼吸法」(12年。朝日出版社)
2012年7月14日 読書
少し前の日記に書いたが、ここ最近は周囲でFacebookを始めた人が増えている。いろいろと検索してみたら知っている名前がけっこう出てきて驚いた。しかしその使い方といえば、旅行で今ここにいるとか家族の写真を載せるとか、決まりきった使用法しかとっていない気もする。Facebookについて「同窓会」という表現をどこかでしていたけれど、既に知っている人と繋がるのがこのSNSの特徴であり限界という気がする。自分の交遊関係以上にの範囲で知り合いを増やすには色々と工夫が必要になってくるだろう。いずれにせよFacebookによって新しい情報や人に出会う機会は少ないのではないか。
それに比べるとTwitterというのは、自分が何かをしなくても(ある程度のフォロワーを増やしているという前提があるが)見知らぬ情報が勝手に流れてくるような仕組みになっている。逆に自分が情報を拡散することもできるし、その用途は実に幅広い。しかし、知り合いでTwitterを使っている人はそんなにいない印象を受ける。また登録していても情報を流したり広げたりする人は少ない。
そもそも知り合いがいなくてはSNSはそれほど楽しくはならない。知り合いの絶対数が少ない私にはそれが障壁となっていはいるものの、FacebookよりTwitterの方が色々と可能性や面白みがあるように思える。
この「情報の呼吸法」の著者である津田大介さんは日本におけるSNS、特にTwitterの第一人者といって差し支えないだろう。Twitterで津田さんをフォローしている人は現時点で22万を超えており、また彼の情報発信源の中心もTwitterだ(これに対して、津田さんはFacebookをほとんど活用していない)。本書はそんな津田さんが自身の経験に即したSNS、その中でも特にTwitterの活用法を中心に述べたものである。
「メディア・アクティビスト」という肩書きも自称している津田さんは10代の頃から様々なメディアに興味をもち、また活動をしてきている。高校時代は新聞部で新聞を刷り、大学に入ったら当時出てきたばかりのインターネットに没頭、社会に出るとインターネットやパソコン系雑誌のライターとなったりブログ形式のサイト「音楽配信メモ」で情報を発信していた。これだけを見ても様々な形のメディアを網羅してきたといっていいだろう。また津田さん自身の好奇心の大きさも関係しているに違いない。こうしたメディアについての見識が深い津田さんがTwitterやFacebookの「ソーシャルメディア」の特性や利用法、また今後のあり方などを論じたものという解釈でこの本を読んだ。私はTwitterもFacebookも1年ちょっとくらいしか使っていないしそれほど活用してるとも思えないが本書を参考に少しでも面白く使っていければと願っている。
それではソーシャルメディアとしてTwitterにはどんな特徴があるのだろうか。さきほども少し触れてみたが、このあたりではないだろうか。
<ツイッターが便利なのは、自ら検索して情報を得て、ソーシャルキャピタル(人間関係資本、人とのつながりによる無形・無償の財産)を豊かにできるというところですが、それだけではなく、情報が自動的に最適化されつつも、予期しない情報がハプニング的に入ってくるという部分も忘れてはなりません。
(中略)
ソーシャルメディアの場合、情報ではなく人をフォローするので、誤配が平気でたくさん起こります。極端な話、ブロックしている、あるいは嫌いだからフォローしないという人のツイートも公式リツイートで入ってきたりします。自分の考えとは違う意見や他の視点が入ってくるのが避けられない構造になっている。しかしそれこそが面白いし、そこに新しい情報への入り口があるわけです。雑誌やテレビのおすすめはよく分からないけれど、「面白い人」というチャンネルであれば見てみたいと思う人は多いでしょう。>(P.48-49)
Twitterを使ってない方には理解できない用語が出てくるが、実際にやってみればよく感じる話である。私もTwitterを始めてから「おや?」と不思議に感じたのは、思いがけない情報がどんどん流れてくることだった。それは「公式リツイート」という機能で、自分がフォローしている方が拡散している情報なのである。自分で調べられないような思いがけない情報に出会うのはFacebookやmixiでも無いことはないだろうが、Twitterに比べると割合はだいぶ少ないはずである。
このあたりについては、
<「ツイッターは『出会い系』ではなくて『出会う系』だ」と言った人がいますが、この表現は本質をついています。目的を持って「出会いたい」という意思がある人にとって、こんなに見事なツールはないと思います。>(P.50)
と書いているが、Twitterはまさに未知の情報と「出会う」ためのソーシャルメディアだといえる。それ以外にも特色はたくさんあるだろうけど、Twitterの最も重要なところはこの1点に集約されている。
しかしながら、もちろんTwitterを登録してボーッとしているだけで何か情報が入ってくるということはない。それについては本書の表紙にも書いてある、
<発信しなければ、得るものはない。>
という一文で示されてる。ソーシャルメディアからな有用な情報を得るためには、自身が情報を発信するようにならなければいけない。このあたりができるかどうかが、ソーシャルメディアを面白く活用できるかどうかの分かれ道になるのではないか。そして私はその辺りで足踏みしているのが現状なのだが、本書にその答えとなりそうな部分をいくつか挙げてみたい。
まずTwitterを使っていると必ず「自分のフォロワーが増えてほしい」と願うだろう。それについては、
<一番手っ取り早い方法は、ある情報をネットやテレビのニュースで見かけたときに「これはツイッターで話題になるかも」と思ったらすぐに流してみる、ということです。ツイッター上では、衝撃度の高いニュースほど、多くの人の反応が返ってきやすいので、ある程度フォロワーのいる人であれば、何らかの反応が返ってくるでしょう。その反応を覚えておく、ということは自分のフォロワーにどんな人たちがいるのか、ある種その「マーケティング」になります。
(中略)
まずは自分自身がツイッターでフォローを増やし、有用な情報、フォロワーに喜んでもらえるような情報を発信することによってフォロワーに貢献し、自分の日常を書いて自分自身についても興味をもってもらう。それを繰り返していくことで自然にフォロワーが増えていくと思います。>(P.94-97)
となかなか具体的な提案がされているし、実際にフォロワーが増えていく流れというのはこういうものなのだろう。
これ以外にもう一つ気になった箇所を挙げたい。
<あとは自分が面白いと信じることを継続することです。まずは1年間続けてから考えてみてください。反応がないと心が折れてしまって1年間ももたないケースがほとんどです。そこであきらめずに続けられる心の強さが必要です。我慢して続ければそれが情報を「棚卸し」する際の地肉になっていきますし、結果的に自分の強みにもなり「このジャンルの情報発信と続けるんだ」という自負も形成されます。>(P.99)
この「継続する」ということも非常に大事な要素である。例えば01年くらいにネットで「ブログ」が登場した時に多くの人が手を出したけれど、現在まで続けている人はほとんどいないに違いない。今はFacebookになるだろうがそれもいつまでもつかと個人的には思っている。自分のブログを10年くらいやっていて、それでも「どうにか形になってきたかなあ」という程度であるが、一定期間を続けてこれたというのは一つの財産である。ともかく何をするにせよ。ある程度の結果を出すためにはそれなりに時間がかかることだけを念頭に入れたほうが良い。
ところで、上で引用した箇所に「ソーシャルキャピタル」という言葉が出てきた。これも大事なキーワードである。
津田さんは本書の後半で、
<ソーシャルメディアの最大の良いところは、従来「つながり」がなかった人と人を自然と結びつけ、大きなムーブメントにしてしまうところだと僕は思っています。異業種交流会や合コンという手段はあっても、基本的には地元か学校か職場かというコミュニティの中でしか、自分を高めてくれたり、自分に刺激を与えてくれるような人とは出会えなかった。機会は不平等で、選択肢や武器もないなかでのゲームだったと言えるかもしれません。
インターネットとソーシャルメディアはその機会を解放しました。今や人々はローカルの壁を乗り越えて勝手につながっていくことが可能です。いろいろな人とのつながりこそが、自分が困難に陥ったときの解決法になる。これからはソーシャルキャピタル(人間関係資本)の時代になると思います。>(P.146)
ソーシャルキャピタルとは、例えばTwitterだったら自分をフォローしている人の数である。mixiやFacebookだったら繋がっている人数になるだろう。こうしたものがお金の同等もしくはそれ以上の価値のあるものになってくる、というような予測を津田さんや橘玲さん、岡田斗司夫さんあたりは口にしてることだ。パッと見た限りでも資本主義の未来は暗い話は多い。消費税の増税や年金の破綻など私たちの収入は増える可能性は低いとしかいえない。それに代わるものとなるのが人と人との繋がりだと言う人は増えている。
私たちの暮らしもますます厳しいものになるだろうなと思う私としても、こうした考えは少なからず感化されている。こうした厳しい時代を生き抜くには一人だけではますます困難に決まっているのだから。
「現実に友人知人が少ない人間がソーシャルメディアなどを果たして使いこなせるのか?」という思いが心の底にあるけれど、ソーシャルキャピタルに限らず人との繋がりを豊かにしない限りは自分の未来に可能性も開けそうにないとも思っている。そして本書はソーシャルメディアの理解、そして使い方について実にわかりやす形で多くの示唆を与えてくれた。これを読み返しながら自分なりのソーシャルメディアのあり方を模索していきたい。
それに比べるとTwitterというのは、自分が何かをしなくても(ある程度のフォロワーを増やしているという前提があるが)見知らぬ情報が勝手に流れてくるような仕組みになっている。逆に自分が情報を拡散することもできるし、その用途は実に幅広い。しかし、知り合いでTwitterを使っている人はそんなにいない印象を受ける。また登録していても情報を流したり広げたりする人は少ない。
そもそも知り合いがいなくてはSNSはそれほど楽しくはならない。知り合いの絶対数が少ない私にはそれが障壁となっていはいるものの、FacebookよりTwitterの方が色々と可能性や面白みがあるように思える。
この「情報の呼吸法」の著者である津田大介さんは日本におけるSNS、特にTwitterの第一人者といって差し支えないだろう。Twitterで津田さんをフォローしている人は現時点で22万を超えており、また彼の情報発信源の中心もTwitterだ(これに対して、津田さんはFacebookをほとんど活用していない)。本書はそんな津田さんが自身の経験に即したSNS、その中でも特にTwitterの活用法を中心に述べたものである。
「メディア・アクティビスト」という肩書きも自称している津田さんは10代の頃から様々なメディアに興味をもち、また活動をしてきている。高校時代は新聞部で新聞を刷り、大学に入ったら当時出てきたばかりのインターネットに没頭、社会に出るとインターネットやパソコン系雑誌のライターとなったりブログ形式のサイト「音楽配信メモ」で情報を発信していた。これだけを見ても様々な形のメディアを網羅してきたといっていいだろう。また津田さん自身の好奇心の大きさも関係しているに違いない。こうしたメディアについての見識が深い津田さんがTwitterやFacebookの「ソーシャルメディア」の特性や利用法、また今後のあり方などを論じたものという解釈でこの本を読んだ。私はTwitterもFacebookも1年ちょっとくらいしか使っていないしそれほど活用してるとも思えないが本書を参考に少しでも面白く使っていければと願っている。
それではソーシャルメディアとしてTwitterにはどんな特徴があるのだろうか。さきほども少し触れてみたが、このあたりではないだろうか。
<ツイッターが便利なのは、自ら検索して情報を得て、ソーシャルキャピタル(人間関係資本、人とのつながりによる無形・無償の財産)を豊かにできるというところですが、それだけではなく、情報が自動的に最適化されつつも、予期しない情報がハプニング的に入ってくるという部分も忘れてはなりません。
(中略)
ソーシャルメディアの場合、情報ではなく人をフォローするので、誤配が平気でたくさん起こります。極端な話、ブロックしている、あるいは嫌いだからフォローしないという人のツイートも公式リツイートで入ってきたりします。自分の考えとは違う意見や他の視点が入ってくるのが避けられない構造になっている。しかしそれこそが面白いし、そこに新しい情報への入り口があるわけです。雑誌やテレビのおすすめはよく分からないけれど、「面白い人」というチャンネルであれば見てみたいと思う人は多いでしょう。>(P.48-49)
Twitterを使ってない方には理解できない用語が出てくるが、実際にやってみればよく感じる話である。私もTwitterを始めてから「おや?」と不思議に感じたのは、思いがけない情報がどんどん流れてくることだった。それは「公式リツイート」という機能で、自分がフォローしている方が拡散している情報なのである。自分で調べられないような思いがけない情報に出会うのはFacebookやmixiでも無いことはないだろうが、Twitterに比べると割合はだいぶ少ないはずである。
このあたりについては、
<「ツイッターは『出会い系』ではなくて『出会う系』だ」と言った人がいますが、この表現は本質をついています。目的を持って「出会いたい」という意思がある人にとって、こんなに見事なツールはないと思います。>(P.50)
と書いているが、Twitterはまさに未知の情報と「出会う」ためのソーシャルメディアだといえる。それ以外にも特色はたくさんあるだろうけど、Twitterの最も重要なところはこの1点に集約されている。
しかしながら、もちろんTwitterを登録してボーッとしているだけで何か情報が入ってくるということはない。それについては本書の表紙にも書いてある、
<発信しなければ、得るものはない。>
という一文で示されてる。ソーシャルメディアからな有用な情報を得るためには、自身が情報を発信するようにならなければいけない。このあたりができるかどうかが、ソーシャルメディアを面白く活用できるかどうかの分かれ道になるのではないか。そして私はその辺りで足踏みしているのが現状なのだが、本書にその答えとなりそうな部分をいくつか挙げてみたい。
まずTwitterを使っていると必ず「自分のフォロワーが増えてほしい」と願うだろう。それについては、
<一番手っ取り早い方法は、ある情報をネットやテレビのニュースで見かけたときに「これはツイッターで話題になるかも」と思ったらすぐに流してみる、ということです。ツイッター上では、衝撃度の高いニュースほど、多くの人の反応が返ってきやすいので、ある程度フォロワーのいる人であれば、何らかの反応が返ってくるでしょう。その反応を覚えておく、ということは自分のフォロワーにどんな人たちがいるのか、ある種その「マーケティング」になります。
(中略)
まずは自分自身がツイッターでフォローを増やし、有用な情報、フォロワーに喜んでもらえるような情報を発信することによってフォロワーに貢献し、自分の日常を書いて自分自身についても興味をもってもらう。それを繰り返していくことで自然にフォロワーが増えていくと思います。>(P.94-97)
となかなか具体的な提案がされているし、実際にフォロワーが増えていく流れというのはこういうものなのだろう。
これ以外にもう一つ気になった箇所を挙げたい。
<あとは自分が面白いと信じることを継続することです。まずは1年間続けてから考えてみてください。反応がないと心が折れてしまって1年間ももたないケースがほとんどです。そこであきらめずに続けられる心の強さが必要です。我慢して続ければそれが情報を「棚卸し」する際の地肉になっていきますし、結果的に自分の強みにもなり「このジャンルの情報発信と続けるんだ」という自負も形成されます。>(P.99)
この「継続する」ということも非常に大事な要素である。例えば01年くらいにネットで「ブログ」が登場した時に多くの人が手を出したけれど、現在まで続けている人はほとんどいないに違いない。今はFacebookになるだろうがそれもいつまでもつかと個人的には思っている。自分のブログを10年くらいやっていて、それでも「どうにか形になってきたかなあ」という程度であるが、一定期間を続けてこれたというのは一つの財産である。ともかく何をするにせよ。ある程度の結果を出すためにはそれなりに時間がかかることだけを念頭に入れたほうが良い。
ところで、上で引用した箇所に「ソーシャルキャピタル」という言葉が出てきた。これも大事なキーワードである。
津田さんは本書の後半で、
<ソーシャルメディアの最大の良いところは、従来「つながり」がなかった人と人を自然と結びつけ、大きなムーブメントにしてしまうところだと僕は思っています。異業種交流会や合コンという手段はあっても、基本的には地元か学校か職場かというコミュニティの中でしか、自分を高めてくれたり、自分に刺激を与えてくれるような人とは出会えなかった。機会は不平等で、選択肢や武器もないなかでのゲームだったと言えるかもしれません。
インターネットとソーシャルメディアはその機会を解放しました。今や人々はローカルの壁を乗り越えて勝手につながっていくことが可能です。いろいろな人とのつながりこそが、自分が困難に陥ったときの解決法になる。これからはソーシャルキャピタル(人間関係資本)の時代になると思います。>(P.146)
ソーシャルキャピタルとは、例えばTwitterだったら自分をフォローしている人の数である。mixiやFacebookだったら繋がっている人数になるだろう。こうしたものがお金の同等もしくはそれ以上の価値のあるものになってくる、というような予測を津田さんや橘玲さん、岡田斗司夫さんあたりは口にしてることだ。パッと見た限りでも資本主義の未来は暗い話は多い。消費税の増税や年金の破綻など私たちの収入は増える可能性は低いとしかいえない。それに代わるものとなるのが人と人との繋がりだと言う人は増えている。
私たちの暮らしもますます厳しいものになるだろうなと思う私としても、こうした考えは少なからず感化されている。こうした厳しい時代を生き抜くには一人だけではますます困難に決まっているのだから。
「現実に友人知人が少ない人間がソーシャルメディアなどを果たして使いこなせるのか?」という思いが心の底にあるけれど、ソーシャルキャピタルに限らず人との繋がりを豊かにしない限りは自分の未来に可能性も開けそうにないとも思っている。そして本書はソーシャルメディアの理解、そして使い方について実にわかりやす形で多くの示唆を与えてくれた。これを読み返しながら自分なりのソーシャルメディアのあり方を模索していきたい。
横田濱夫「幸せの健全『借金ゼロ』生活術 (03年。講談社文庫)
2012年6月29日 読書
もう6月の業務も終えてしまった。新しい仕事をしてもう1ヶ月半ほどになる。この辺りが一番苦しい時期かもしれない。
「入ってからもう1ヶ月も経つのに、そんなこともできないの?」
というような言われ方になってくる。周囲の見る目も厳しくなってくるし辛いところだ。
そんな状態で1日を終えて部屋から戻り、食事を済ませてボーッとしていたら一冊の文庫本が目に入ってきた。横田濱夫さんの「幸せの健全『借金ゼロ』生活術」(03年。講談社文庫)というものだ。古本屋で買った(「250円」のシールが貼ったままである)から、購入したのは05年とかそんなところだろう。
横田さんは横浜の某銀行に入社し、法人や個人への融資業務を10数年たずさわっていた人だ。在職中に銀行を内幕を書いた「はみ出し銀行マンの勤番日記」(92年。オーエス出版社)がヒットし、銀行を辞めてからはフリーの作家として金融関係を中心に活動を続けていた(しかし、現在は公式サイトもあまり更新されておらず近況はよくわからない)。
本書は2000年に刊行された「はみ出し銀行マンのお金の悩み相談室 ホンネ回答編」(青春出版社)を文庫本にしたものだが、12年前にして既にその分析は明るいものではない。なにせこの本を文庫化するにあたり、「ボーナス・ゼロ時代の緊急提言」という章が新たに設けられているくらいだから。ここでは、お弁当とお茶を自分で用意して1日の食費を600円にすれば年間で約68万円の節約となる、というような案が出てくる。最近はお弁当と水筒を持参している私だが、この本に書かれていたことが頭の片隅に残っていたのかもしれない。
この本はお金に関する質問に対して横田さんが回答する形をとっている。銀行員として働いていた経験があるだけにお金にまつわる分析はかなり鋭い。ファイナンシャルプランナー(FP)について書いているところでは、
<資産運用というのは、そもそもセンスの問題であって、資格とは関係ない。>(P.70)
などという一文には、資産運用ってそういうもんだろうなあ、と思わされる。
しかし私が今回もっとも惹かれたのは第5章の「転職、企業は甘くない」というもので、そこでベンチャー企業を立ち上げたい、とか、リサイクルショップを開業したいという質問を横田さんが答えている。
そのなかで、
「転職すること五回。収入が少しも増えません」
という「不動産関係 男性 三十六歳 独身」からの質問があり、そこに目がいってしまった。
<バブル期に大学を卒業し、転職すること五回。改めて気づくと、年収は二十二〜二十三歳のころと、ちっとも変わっていません。貯金はほとんどなく、現在もアパート住まいを続けています。
大学時代の同級生を見渡してみても、大手企業に就職した友人たちは、そろそろ主任や課長代理といった中間管理職に就きはじめています。年収も倍以上に差が開いてしまいました。
また、女性との付き合いでも、二十代の頃は、みなそれなりに相手にしてくれていたものが、最近はどうも様子が違います。なぜか距離を置かれてしまうのです。こんな状態では、人並に結婚し家庭を持つことさえ、ままならないかもしれません。
なんだか急に、周囲が冷たくなったような気がします。このままの状態が、あとさらに五年、十年と続いてしまうんでしょうか。とても不安です。>(P.215)
36歳、年収が少ない、アパート住まいで独身、とこの質問者と私とは重なる部分ばかなりある。違うところといえば、あっちは結婚して家庭を持ちたがっている点くらいだろうか。それにしても最後の「このままの状態が、あとさらに五年、十年と続いてしまうんでしょうか。とても不安です。」という部分が実に重たく感じる。
<チャラチャラしてるように見えて、女ってのは、実にしっかりしてるからなあ。>(P.216)
から始まる横田さんの回答はこんなところだ。
<ご相談者が、大学時代の同期生と今の自分を比べ、アセる気持ちもよくわかる。
たしかに、新卒で採用されてからずっと大企業に勤めていれば、今ごろ年収一千万円ぐらいいってたかもしれない。
身分は保障され、生活は安定し、奥さんや子供たちと幸せな家庭を築きつつ・・・。ハタから見ても、大企業のサラリーマンは、かくも恵まれ、幸せそうに映る。
しかしどうだろう。ある意味、そんなのは「今だけの話」と言えるかも。
「たしかに過去はそうだったけど、これからはわからない」「大企業の社員といえども、将来の身分保障はない」ということだ。
現に、一連の金融破綻で消滅した銀行に勤めてた人たちはどうだったか?
(中略)
世の中、そうでなくとも、終身雇用や年功序列制の廃止、リストラ、「勝ち組」「負け組」への二極分化、それによる貧富の差の拡大・・・。と、先の読めない時代へ突入している。いわゆる「一流企業」に勤めてたって、うかうかしられない。
>(P.217-218)
これらの指摘は現在すでに現実化というか日常化している。実際、この10年ほどでどれほどの企業が消滅したり大規模な人員削減をしただろう。さらに付け加えれば、文庫本が出た03年あたりは「IT長者」やベンチャー企業の経営者といった「勝ち組」がもてはやされていたけれど、ここ最近はそういう人も減ってしまったところだろうか。世の中はますます厳しく、そして混迷が深まっている気がする。
最後に横田さんは、バブル期に高値で住宅を買った人たち(例えばピーク時に七千万円だったマンションが三千万を切るまでになった)を引き合いに出し、
<幸いご相談者は、その点「マイナスからのスタート」じゃなく、単にカネと資産がないという「ゼロからのスタート」だ。
だったらまだ、マシなんじゃないかと思うよ。少なくともオレだったら、前向きにそう考える。>(P.220)
なるほど、確かに今の職場を嫌だと思っても住宅ローンや教育ローンを抱えて身動きのとれない人が一定数は存在する。そうしたしがらみが無かったからこそ私も割と前の会社をスッと辞められたわけだ。その辺を肯定的に考えるべきだな、と思っていた矢先に、
<ただし、いつまでも今のままじゃ、それこそ本当の「負け組」になってしまうことも、これまた事実だ。
現状を脱出できるか、できないか。時間はあまりない。
いずれにしても、一世一代、やる気と根性が試されている時期なんじゃないかな?>(P.220)
と締めくくられて、ウーンとなってしまった。このままじゃマズい、時間もあまりない。それも厳然たる事実である。
この36歳の質問者は、現在の年齢に直すと48歳前後になっている計算だ。あれから一体どうなったのだろう。そんなことが気になった。
「入ってからもう1ヶ月も経つのに、そんなこともできないの?」
というような言われ方になってくる。周囲の見る目も厳しくなってくるし辛いところだ。
そんな状態で1日を終えて部屋から戻り、食事を済ませてボーッとしていたら一冊の文庫本が目に入ってきた。横田濱夫さんの「幸せの健全『借金ゼロ』生活術」(03年。講談社文庫)というものだ。古本屋で買った(「250円」のシールが貼ったままである)から、購入したのは05年とかそんなところだろう。
横田さんは横浜の某銀行に入社し、法人や個人への融資業務を10数年たずさわっていた人だ。在職中に銀行を内幕を書いた「はみ出し銀行マンの勤番日記」(92年。オーエス出版社)がヒットし、銀行を辞めてからはフリーの作家として金融関係を中心に活動を続けていた(しかし、現在は公式サイトもあまり更新されておらず近況はよくわからない)。
本書は2000年に刊行された「はみ出し銀行マンのお金の悩み相談室 ホンネ回答編」(青春出版社)を文庫本にしたものだが、12年前にして既にその分析は明るいものではない。なにせこの本を文庫化するにあたり、「ボーナス・ゼロ時代の緊急提言」という章が新たに設けられているくらいだから。ここでは、お弁当とお茶を自分で用意して1日の食費を600円にすれば年間で約68万円の節約となる、というような案が出てくる。最近はお弁当と水筒を持参している私だが、この本に書かれていたことが頭の片隅に残っていたのかもしれない。
この本はお金に関する質問に対して横田さんが回答する形をとっている。銀行員として働いていた経験があるだけにお金にまつわる分析はかなり鋭い。ファイナンシャルプランナー(FP)について書いているところでは、
<資産運用というのは、そもそもセンスの問題であって、資格とは関係ない。>(P.70)
などという一文には、資産運用ってそういうもんだろうなあ、と思わされる。
しかし私が今回もっとも惹かれたのは第5章の「転職、企業は甘くない」というもので、そこでベンチャー企業を立ち上げたい、とか、リサイクルショップを開業したいという質問を横田さんが答えている。
そのなかで、
「転職すること五回。収入が少しも増えません」
という「不動産関係 男性 三十六歳 独身」からの質問があり、そこに目がいってしまった。
<バブル期に大学を卒業し、転職すること五回。改めて気づくと、年収は二十二〜二十三歳のころと、ちっとも変わっていません。貯金はほとんどなく、現在もアパート住まいを続けています。
大学時代の同級生を見渡してみても、大手企業に就職した友人たちは、そろそろ主任や課長代理といった中間管理職に就きはじめています。年収も倍以上に差が開いてしまいました。
また、女性との付き合いでも、二十代の頃は、みなそれなりに相手にしてくれていたものが、最近はどうも様子が違います。なぜか距離を置かれてしまうのです。こんな状態では、人並に結婚し家庭を持つことさえ、ままならないかもしれません。
なんだか急に、周囲が冷たくなったような気がします。このままの状態が、あとさらに五年、十年と続いてしまうんでしょうか。とても不安です。>(P.215)
36歳、年収が少ない、アパート住まいで独身、とこの質問者と私とは重なる部分ばかなりある。違うところといえば、あっちは結婚して家庭を持ちたがっている点くらいだろうか。それにしても最後の「このままの状態が、あとさらに五年、十年と続いてしまうんでしょうか。とても不安です。」という部分が実に重たく感じる。
<チャラチャラしてるように見えて、女ってのは、実にしっかりしてるからなあ。>(P.216)
から始まる横田さんの回答はこんなところだ。
<ご相談者が、大学時代の同期生と今の自分を比べ、アセる気持ちもよくわかる。
たしかに、新卒で採用されてからずっと大企業に勤めていれば、今ごろ年収一千万円ぐらいいってたかもしれない。
身分は保障され、生活は安定し、奥さんや子供たちと幸せな家庭を築きつつ・・・。ハタから見ても、大企業のサラリーマンは、かくも恵まれ、幸せそうに映る。
しかしどうだろう。ある意味、そんなのは「今だけの話」と言えるかも。
「たしかに過去はそうだったけど、これからはわからない」「大企業の社員といえども、将来の身分保障はない」ということだ。
現に、一連の金融破綻で消滅した銀行に勤めてた人たちはどうだったか?
(中略)
世の中、そうでなくとも、終身雇用や年功序列制の廃止、リストラ、「勝ち組」「負け組」への二極分化、それによる貧富の差の拡大・・・。と、先の読めない時代へ突入している。いわゆる「一流企業」に勤めてたって、うかうかしられない。
>(P.217-218)
これらの指摘は現在すでに現実化というか日常化している。実際、この10年ほどでどれほどの企業が消滅したり大規模な人員削減をしただろう。さらに付け加えれば、文庫本が出た03年あたりは「IT長者」やベンチャー企業の経営者といった「勝ち組」がもてはやされていたけれど、ここ最近はそういう人も減ってしまったところだろうか。世の中はますます厳しく、そして混迷が深まっている気がする。
最後に横田さんは、バブル期に高値で住宅を買った人たち(例えばピーク時に七千万円だったマンションが三千万を切るまでになった)を引き合いに出し、
<幸いご相談者は、その点「マイナスからのスタート」じゃなく、単にカネと資産がないという「ゼロからのスタート」だ。
だったらまだ、マシなんじゃないかと思うよ。少なくともオレだったら、前向きにそう考える。>(P.220)
なるほど、確かに今の職場を嫌だと思っても住宅ローンや教育ローンを抱えて身動きのとれない人が一定数は存在する。そうしたしがらみが無かったからこそ私も割と前の会社をスッと辞められたわけだ。その辺を肯定的に考えるべきだな、と思っていた矢先に、
<ただし、いつまでも今のままじゃ、それこそ本当の「負け組」になってしまうことも、これまた事実だ。
現状を脱出できるか、できないか。時間はあまりない。
いずれにしても、一世一代、やる気と根性が試されている時期なんじゃないかな?>(P.220)
と締めくくられて、ウーンとなってしまった。このままじゃマズい、時間もあまりない。それも厳然たる事実である。
この36歳の質問者は、現在の年齢に直すと48歳前後になっている計算だ。あれから一体どうなったのだろう。そんなことが気になった。
橘玲「(日本人)」(12年。幻冬舎)
2012年6月23日 読書
作家の橘玲さんが「大震災の後で人生について語るということ」(11年。幻冬舎)に続く新しい本を出した。
本書の帯には、
<従来の日本人論をすべて覆すまったく新しい日本人論!!>
と書いてある。
日本人論を書くというのは結構な冒険が必要だ。最近では内田樹さんの「日本辺境論」(09年。新潮新書)があるが、日本とか日本人とか大きなテーマを設定すると1冊の本ではどうしても概論というか表面的な内容になってしまう(実際、ネットの書評でもそのような感想を見かけた)。必然的に細かいところに拘る専門家などからの反感は避けられない。そんなことを思うと、内田さんも橘さんもかなり度胸がある。私だったら絶対にしたくない仕事だ。橘さんはどうしてこのような本を執筆しようと思い立ったのか。
本書の名前は「かっこにっぽんじん」と読む。日本人をいったんカッコに入れる、という手法を意味しており、日本人うんぬんを言うことはまず措いて論を進めようというのだ。
<本書のアイデアはものすごく単純だ。
私たちは日本人である以前に人間(ヒト)である。人種や国籍にかかわらず、ヒトには共通の本性がある。だとしたら「日本人性」とは、私たちから人間の本性を差し引いた後に残ったなにものかのことだ。>(P.2)
また、
<これまで「日本人の特徴」と考えられてきたものは、その大半がこのふたつの「本性」(「人間の本性」と「農耕社会の本性」)で説明できる。>(P.109)
とも述べている。
まず最初に「ヒト」とはどういう生き物なのか、そして「農耕民族」というのはどういう民族なのか、という大きな話から展開していくため380ページ近くになる分量となった。
そうした後で、他の国と比較して日本はどのような特徴があるのかを述べるわけだが、冒頭で橘さんは「世界価値観調査(World Value Survey)」(世界80カ国以上の人々を対象に政治や宗教、仕事、教育、家族観を調べたもの)の結果を紹介し、日本人だけ突出して違う部分が3点あることを示す。
それは、
・日本人は戦争が起きても国のためにたたかう気がない
・自分の国に誇りも持っていない
・世界の中でダントツに権威や権力が嫌い
というものだ。このあたりは世間の持つ日本人のイメージとかなり異なるだろうが、実際の調査結果はこのようになっている。そして橘さんはさまざま研究を参照しながら日本人を、
<世界でもっとも世俗的な民族>(P140)
と要約する。こないだの日記でも同じ部分を引用したが「世俗的」とは何かといえば、
<世俗的というのは損得勘定のことで、要するに、「得なことはやるが、損をすることしない、というエートスだ>(P.140)
日本人は共同体意識の強いムラ社会である、という認識が一般的だが、それは農耕民族だったらどこでも同じようなものだという(むしろ日本人は他の農耕民族と比べて血縁や地縁の縛りは弱い)。そしてその価値観は日本人が歴史に登場して以来、一貫して変わらないものであると本書は結論づける。
といってもすぐには納得いかないだろう。そこで皆さんが「えっ?!」と思うような事例が一つ載っていたのを紹介したい。
<日本人は当たり前と思っていてほとんど意識しないが、「ワンルームマンション」というのは日本独特の居住形式で、海外ではほとんど例がない。
私がこのことに気づいたのは二〇年ほど前で、香港人の知人から「なんで日本人は一人暮らしなんていう恐ろしいことをするのか」と真顔で訊かれたからだった。香港というきわめて高度化した都市に住むひとびとですら、当時は「一人で暮らす」という発想がなかったのだ>(P.151-152)
欧米諸国も事情は同じで大学の寮は二人1部屋だし、部屋を借りる場合はルームシェアをするのが通例だという。多くの日本人は見知らぬ人と共同生活をするというのは考えられないに違いない。このあたりに日本の特殊性が見つけられ、そしてそれも「世俗性」というキーワードを使えばかなりのところまで理屈付けができるようになる。
こうした事例を踏まえながら、近代から現代へと徐々に話が移行していく。後半では、現在の日本で最も注目を集めている橋下徹・大阪市長が率いる「維新の会」について、小泉純一郎氏や橋下氏の思想の根底にある新自由主義(ネオリベラル。略してネオリベ)が対立する政治哲学(古典的自由主義や保守主義)よりも優位な考えであることを解説した後で、
<福祉国家が財政的にも制度的にも破綻している以上、オールドリベラルや保守本流はたたかう前から負けている。建設的な批判は包摂され、比較検討され、政策立案の素材に組み込まれていく。あとは「独裁」「ファシズム」のような罵声か、「弱者に冷たい」「言葉づかいが下品だ」という無意味な道徳論が残るだけだ。市地方政治家の立場でネオリベの政治哲学をツイートしている限り、ハシズムは無敵だ。
もっとも、政権を握ったオバマがいまは「ワシントンとウォール街の擁護者」として共和党の大統領選候補者たちから批判されているように、橋下市長が将来、国政の実権を握ることになれば、国民大衆の利害と正面からぶつかることになる。政治家として真価は、そのときはじめて問われるだろう。>(P.332)
罵詈雑言が飛び交う橋下市長および維新の会をどのような点で評価していくか、その辺のポイントを実に鮮やかに切り取っている文章ではないだろうか。こうして日本の政治や経済の問題についても述べられていく姿は実に興味深かった。
本書の執筆動機はあの「3・11」以降、わたしたちがどのような道を進むのかを提示しようとしたものである。最後はかなり理想論になるが、橘さんは最後はこのような形で締めくくっている。
<私たち日本人に残された希望は、いまの世俗性を維持したまま自由な自己表現のできる社会をつくることしかない。
(中略)
すべてのローカルな共同体(伽藍)を破壊することで国家をフレームワーク(枠組み)だけにして、そこに退出の自由な無数のグローバルな共同体を創造していく。後期近代(再帰的近代)の終着点となるその場所がユートピアへの入口だとするならば、そこに最初に到達することが、歴史が日本人に与えた使命なのだ。
これが私のだ。」(P.372-373)
伽藍(学校や会社など退出不可能で閉鎖的な空間)を抜けてバザール(いつでも退出可能な開放的な空間)へと迎えるのは、世界でも希に見るほど世俗性が強い日本人にその可能性が高い、と橘さんは示唆している。
<社会そのものは変われなくても、伽藍を抜け出してバザールへと向かうことは、個人としてはじゅうぶん可能だ。>(P.367)
望む/望まないに関わらず、日本社会を覆っている伽藍は崩れてきているのも間違いない。いや、そう確信したからこそ私はかつての職場(そこは典型的な伽藍の会社だった)を離れて新しい道を模索しているわけだ。
個人的には、
<日本人をカッコに入れるいちばんの効用は、「国家」や「国民」という既成の枠組みから離れることで、世の中で起きているさまざまな出来事をシンプルに理解できるようになることだ。>(P.8)
という本書の意図は達せられた。本書を読んでから、将来の見通しがちょっと開けてきたように思う(かといって、自分の未来が明るくなったわけでは決してないが)。この本で得た知見を踏まえて、また自分で新たに色々なことを学んでいこうという気持ちになった。
ところで、私が今回もっとも衝撃を受けたのは最後の「あとがきーーエヴァンゲリオンを伝える者」に載っていた橘さんの小学生時代の思い出かもしれない。私は橘さんのクールというか、ある意味では「身も蓋もない」とも感じられる文章に惹かれてきた。国家を縮小して最後には国家のない社会を目指すリバタリアニズム(Libertarianism)を標榜する橘さんと個人主義的な部分の強い自分に共振するとろがあるのかなと今までは考えていたけれど、本書をもってその一番明確な理由にブチ当たったようである。
<私はずっと、自分がふつうの日本人とはどこかちがっていると感じていた。それは「学校」という集団にどうしても馴染めなかったからで、中学や高校でもこの違和感がずっとつきまとった。
それと同時に、一人でいることにさしたる苦痛がないことにも気づいた。
(中略)
こうした性向は大学四年になっても就職活動はまったくしなかった。大きな会社に入っても、そこにいるひとたちとうまくやっていくことなどできるはずはないと思っていたのだ。
「他人(ひと)とはちがう」というのは傲慢さの裏返しであり、世間から半分落ちこぼれた自分を正当化する言い訳でもある。そのくらいのことはさすがに気づいてはいたが、それでも自分が別だという確信は揺らがなかった。
(中略)
しかしこの本を書き終えて、私にもようやくわかった。そんな私こそが、典型的な日本人だったのだ。>(P377-378)
この部分は、私のこれまでの半生を要約したもの、としても全く違和感がない。そのことに何よりも驚いたのである。
この本の前身ともいえる「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(10年。幻冬舎)の最後で、
<ここまでぼくの話を訊いてくれたのだから、君はぼくに似ているのだ。>(P.263)
と締めくくっているのを思い出した。この本を読んだ当時は、まあ似てる部分もあるかもね、という程度で終わった。しかし「(日本人)」を読んでから確信した。橘さんとの出会いはもはや偶然ではなかったのだ。橘さんの著作を読んでいる方も同じような気持ちを抱いた方はいるのだろうか。
そして「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」と「大震災の後で人生について語るということ」に続き、本書もまた私の座右の一冊となった。
本書の帯には、
<従来の日本人論をすべて覆すまったく新しい日本人論!!>
と書いてある。
日本人論を書くというのは結構な冒険が必要だ。最近では内田樹さんの「日本辺境論」(09年。新潮新書)があるが、日本とか日本人とか大きなテーマを設定すると1冊の本ではどうしても概論というか表面的な内容になってしまう(実際、ネットの書評でもそのような感想を見かけた)。必然的に細かいところに拘る専門家などからの反感は避けられない。そんなことを思うと、内田さんも橘さんもかなり度胸がある。私だったら絶対にしたくない仕事だ。橘さんはどうしてこのような本を執筆しようと思い立ったのか。
本書の名前は「かっこにっぽんじん」と読む。日本人をいったんカッコに入れる、という手法を意味しており、日本人うんぬんを言うことはまず措いて論を進めようというのだ。
<本書のアイデアはものすごく単純だ。
私たちは日本人である以前に人間(ヒト)である。人種や国籍にかかわらず、ヒトには共通の本性がある。だとしたら「日本人性」とは、私たちから人間の本性を差し引いた後に残ったなにものかのことだ。>(P.2)
また、
<これまで「日本人の特徴」と考えられてきたものは、その大半がこのふたつの「本性」(「人間の本性」と「農耕社会の本性」)で説明できる。>(P.109)
とも述べている。
まず最初に「ヒト」とはどういう生き物なのか、そして「農耕民族」というのはどういう民族なのか、という大きな話から展開していくため380ページ近くになる分量となった。
そうした後で、他の国と比較して日本はどのような特徴があるのかを述べるわけだが、冒頭で橘さんは「世界価値観調査(World Value Survey)」(世界80カ国以上の人々を対象に政治や宗教、仕事、教育、家族観を調べたもの)の結果を紹介し、日本人だけ突出して違う部分が3点あることを示す。
それは、
・日本人は戦争が起きても国のためにたたかう気がない
・自分の国に誇りも持っていない
・世界の中でダントツに権威や権力が嫌い
というものだ。このあたりは世間の持つ日本人のイメージとかなり異なるだろうが、実際の調査結果はこのようになっている。そして橘さんはさまざま研究を参照しながら日本人を、
<世界でもっとも世俗的な民族>(P140)
と要約する。こないだの日記でも同じ部分を引用したが「世俗的」とは何かといえば、
<世俗的というのは損得勘定のことで、要するに、「得なことはやるが、損をすることしない、というエートスだ>(P.140)
日本人は共同体意識の強いムラ社会である、という認識が一般的だが、それは農耕民族だったらどこでも同じようなものだという(むしろ日本人は他の農耕民族と比べて血縁や地縁の縛りは弱い)。そしてその価値観は日本人が歴史に登場して以来、一貫して変わらないものであると本書は結論づける。
といってもすぐには納得いかないだろう。そこで皆さんが「えっ?!」と思うような事例が一つ載っていたのを紹介したい。
<日本人は当たり前と思っていてほとんど意識しないが、「ワンルームマンション」というのは日本独特の居住形式で、海外ではほとんど例がない。
私がこのことに気づいたのは二〇年ほど前で、香港人の知人から「なんで日本人は一人暮らしなんていう恐ろしいことをするのか」と真顔で訊かれたからだった。香港というきわめて高度化した都市に住むひとびとですら、当時は「一人で暮らす」という発想がなかったのだ>(P.151-152)
欧米諸国も事情は同じで大学の寮は二人1部屋だし、部屋を借りる場合はルームシェアをするのが通例だという。多くの日本人は見知らぬ人と共同生活をするというのは考えられないに違いない。このあたりに日本の特殊性が見つけられ、そしてそれも「世俗性」というキーワードを使えばかなりのところまで理屈付けができるようになる。
こうした事例を踏まえながら、近代から現代へと徐々に話が移行していく。後半では、現在の日本で最も注目を集めている橋下徹・大阪市長が率いる「維新の会」について、小泉純一郎氏や橋下氏の思想の根底にある新自由主義(ネオリベラル。略してネオリベ)が対立する政治哲学(古典的自由主義や保守主義)よりも優位な考えであることを解説した後で、
<福祉国家が財政的にも制度的にも破綻している以上、オールドリベラルや保守本流はたたかう前から負けている。建設的な批判は包摂され、比較検討され、政策立案の素材に組み込まれていく。あとは「独裁」「ファシズム」のような罵声か、「弱者に冷たい」「言葉づかいが下品だ」という無意味な道徳論が残るだけだ。市地方政治家の立場でネオリベの政治哲学をツイートしている限り、ハシズムは無敵だ。
もっとも、政権を握ったオバマがいまは「ワシントンとウォール街の擁護者」として共和党の大統領選候補者たちから批判されているように、橋下市長が将来、国政の実権を握ることになれば、国民大衆の利害と正面からぶつかることになる。政治家として真価は、そのときはじめて問われるだろう。>(P.332)
罵詈雑言が飛び交う橋下市長および維新の会をどのような点で評価していくか、その辺のポイントを実に鮮やかに切り取っている文章ではないだろうか。こうして日本の政治や経済の問題についても述べられていく姿は実に興味深かった。
本書の執筆動機はあの「3・11」以降、わたしたちがどのような道を進むのかを提示しようとしたものである。最後はかなり理想論になるが、橘さんは最後はこのような形で締めくくっている。
<私たち日本人に残された希望は、いまの世俗性を維持したまま自由な自己表現のできる社会をつくることしかない。
(中略)
すべてのローカルな共同体(伽藍)を破壊することで国家をフレームワーク(枠組み)だけにして、そこに退出の自由な無数のグローバルな共同体を創造していく。後期近代(再帰的近代)の終着点となるその場所がユートピアへの入口だとするならば、そこに最初に到達することが、歴史が日本人に与えた使命なのだ。
これが私のだ。」(P.372-373)
伽藍(学校や会社など退出不可能で閉鎖的な空間)を抜けてバザール(いつでも退出可能な開放的な空間)へと迎えるのは、世界でも希に見るほど世俗性が強い日本人にその可能性が高い、と橘さんは示唆している。
<社会そのものは変われなくても、伽藍を抜け出してバザールへと向かうことは、個人としてはじゅうぶん可能だ。>(P.367)
望む/望まないに関わらず、日本社会を覆っている伽藍は崩れてきているのも間違いない。いや、そう確信したからこそ私はかつての職場(そこは典型的な伽藍の会社だった)を離れて新しい道を模索しているわけだ。
個人的には、
<日本人をカッコに入れるいちばんの効用は、「国家」や「国民」という既成の枠組みから離れることで、世の中で起きているさまざまな出来事をシンプルに理解できるようになることだ。>(P.8)
という本書の意図は達せられた。本書を読んでから、将来の見通しがちょっと開けてきたように思う(かといって、自分の未来が明るくなったわけでは決してないが)。この本で得た知見を踏まえて、また自分で新たに色々なことを学んでいこうという気持ちになった。
ところで、私が今回もっとも衝撃を受けたのは最後の「あとがきーーエヴァンゲリオンを伝える者」に載っていた橘さんの小学生時代の思い出かもしれない。私は橘さんのクールというか、ある意味では「身も蓋もない」とも感じられる文章に惹かれてきた。国家を縮小して最後には国家のない社会を目指すリバタリアニズム(Libertarianism)を標榜する橘さんと個人主義的な部分の強い自分に共振するとろがあるのかなと今までは考えていたけれど、本書をもってその一番明確な理由にブチ当たったようである。
<私はずっと、自分がふつうの日本人とはどこかちがっていると感じていた。それは「学校」という集団にどうしても馴染めなかったからで、中学や高校でもこの違和感がずっとつきまとった。
それと同時に、一人でいることにさしたる苦痛がないことにも気づいた。
(中略)
こうした性向は大学四年になっても就職活動はまったくしなかった。大きな会社に入っても、そこにいるひとたちとうまくやっていくことなどできるはずはないと思っていたのだ。
「他人(ひと)とはちがう」というのは傲慢さの裏返しであり、世間から半分落ちこぼれた自分を正当化する言い訳でもある。そのくらいのことはさすがに気づいてはいたが、それでも自分が別だという確信は揺らがなかった。
(中略)
しかしこの本を書き終えて、私にもようやくわかった。そんな私こそが、典型的な日本人だったのだ。>(P377-378)
この部分は、私のこれまでの半生を要約したもの、としても全く違和感がない。そのことに何よりも驚いたのである。
この本の前身ともいえる「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(10年。幻冬舎)の最後で、
<ここまでぼくの話を訊いてくれたのだから、君はぼくに似ているのだ。>(P.263)
と締めくくっているのを思い出した。この本を読んだ当時は、まあ似てる部分もあるかもね、という程度で終わった。しかし「(日本人)」を読んでから確信した。橘さんとの出会いはもはや偶然ではなかったのだ。橘さんの著作を読んでいる方も同じような気持ちを抱いた方はいるのだろうか。
そして「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」と「大震災の後で人生について語るということ」に続き、本書もまた私の座右の一冊となった。
玄田有史・曲沼美恵「ニート フリーターでも失業者でもなく」(04年。幻冬舎)
2012年5月25日 読書
平日の仕事が決まる2日前くらいに、何年も前に買ったこの本をペラペラとめくっていた。モリッシーについて日記で何か書くための参考になるかなと思って引っ張り出したのだが、現在の自分には思いのほか気になる箇所がたくさんあったので感想を述べてみたい。
その前にまずお断りしておくけれど、この本の構成はあまり統一されておらずお世辞にも優れているとは言いがたい。本書の「はじめに」の最後では、
<できればニートは増えないほうがいい。そのためにもまずは、フリーターでも失業者でもない、ニートと呼ばれる若者の声なき声に、耳を澄ますこと。それが今、何より求められている。>(P.11)
と書かれている。英国発である「NEET」という言葉を広めたきっかけの一つが本書であるが、では我が国における「ニート」とは具体的にどういった人たちなのか、それがこの中で明らかになっていないところが一番まずかった。肝心となる前提があやふやな状態で展開された末の最終章が、
「誰もがニートになるかもしれない」
だから、なんじゃそりゃ?と反感を抱く人が出てきても仕方ない出来だとは思う。ニートだかヒバゴンだか知らないが、何だか訳のわからないものになる可能性はゼロとはいえないだろう。内容の良し悪しを措いておくとしても、ニートという存在を知りたいと願う方には本書は適当とはいえない。余計に混乱するだけだろう。
実際のところ日本では、団塊ニートだの恋愛ニートだの社内ニートだのと、ニートという言葉はもはや何の意味だかわからない状態になっている。本書が出発点ということになれば当然の帰結に違いないだろう。そもそもニートという言葉にこだわること自体、あまり意味がない行為といえる。
ただ本書では失業者とか就業者とかいった言葉の定義は出てくる。それらのいずれにも該当しない人は「なんとなくニートっぽいといえるような」程度の印象は抱くかもしれない。そこでまず失業者の条件を見てみよう(本書P.17の表を参照)。
条件1:仕事がなくて、調査期間中(月末1週間)に少しもしなかった。
条件2:仕事があればすぐつくことができる。
条件3:調査期間中、仕事を探す活動や事業をはじめる準備をしていた。
以上の3つの条件を満たした人が「失業者」であり、これは日本だけでなく先進国の共通であると本書では述べられている。一言でいえば「とにかく仕事を探していること」、これが絶対条件だ。
これに対して、正社員なりフリーターなり条件は違うものの収入を得る仕事をしている人たちは「就業者」と呼ぶ。ここまでは何も難しいことはないだろう。
しかし、こうした労働調査(本書は総務省の調査結果を参考にしている)があった時期に「たまたま仕事を探していなかったため、失業者とは認められなかった人」というのもいて、そうした人たちは「就職希望者」と言われる(P.19)。また15歳以上25歳未満の若者で、学校に通ってたり受験のため浪人していて働いてない人たちは、労働に関わっていないということで「非労働力」と言われる。話はだんだんややこしくなってくる。
そして問題となるのが、この「非労働力」のうち、学生も浪人もしてないし働いてもいない、なおかつ仕事も探していない「非就業希望者」である。当時のデータでは日本にこうした存在が約40万人おり、97年の同じ調査では8万人だったから、6年で5倍にもなっているという結果になっている。
ここまでだったら年齢や定義も定まっているのでそれなりに筋は通っているけれど、本書はさらに上の年代についても言及しており、総務省が5年に1度調査している「就業構造基本調査」についても触れている。これは「25歳以上35歳未満」を対象としている。
<問題は、25歳未満だけではない。25歳以上の若者のなかにも、働くことにとまどいをおぼえたまま、就職活動に踏み出せないでいる人たちが、多数存在する。
>(P.23)
それはそうだろうが、「働く意思がない」という点だけで15歳以上35歳未満まで世代を広げられたら、もう漠然としたことしか論じられなくなるのではないだろうか。少なくとも私はもうお手上げだ。このあたりでニートの定義うんぬんを追っかけるのは終わりにさせていただく。
本書では3章と4章において、兵庫県(「トライやる・ウィーク」)および富山県(「地域に学ぶ14歳の挑戦」)の教育委員会が取り組んでいる、中学生を実際に会社などで数日間働いてもらうという政策を紹介し、2章および5章では仕事をせず働く意欲もない若者に会って聞き取りをしたことが書かれている。いずれもそれなりに興味のある内容だが、ニートとは結局なんなのか?ということの答えにはさっぱりなっていない。むしろ、教育委員会の取り組みがニートと何の関係があるのか、という批判もネットでは見かけた。それはそれで妥当な批判だといえる。
なんだかボロクソに言ってしまった気がするけれど、では当の私はこの本を読んで何に心を動かされたのか。著者の玄田さんがニートの話を交えながら、自身の仕事に対する思いを色々と書いている。それはあまりに理想論的で受け入れがたい指摘もけっこうあるけれど、これは俺の言いたかったことだ!というような言葉も少なくなかった。それらを引用しながら、最後にいまの私が「働くこと」に対する見解を述べさせていただきたい。
<多くの若者が失業した原因は、職業意識の低下でも甘えでもない。不況のせいで求人が激減したことこそ、失業が増えた直接の理由であることは、誰でも知っている。>(P.8)
老若男女を問わず、働いていない人が増えているのは当事者にやる気がないから、という精神論で片付けられることが多い。既得権にすがっている年寄りが原因だ、とか、今の若者がだらしない、といった世代論も見かける。しかし、根本的に不況によって仕事そのものが少なくなっている、という事実認識から始めることが重要ではないだろうか。一部の人たちを悪者にしたところで解決できるような単純な問題ではないのだから。
続いて最終章の「フリーターしかない現実」という項目から。
<これからの時代、正社員しかできない人は、タイヘンだ。転職をすることになっても、プライドとも呼べない、つまらない「プライド」がジャマして再就職を難しくする。フリーターは不安定というけれど、セブンーイレブンでしっかりフリーターした人は別のコンビニでもしっかりツブシがきいたりする。>(P.240)
コンビニの仕事を具体例に出すのはあまりに夢がない気もするし、「若者の多くにとって働くチャンスは、もうフリーターしかない」(P.241)という部分に至っては恫喝と言われる可能性もある。しかし正社員という立場やこれまでの経歴にこだわるのは、これからの時代においてかなり危険な行為なのは確かだ。また、他の場所でも働くことができるような技術を身につけることはこれからの時代を生きる上で大事なことになっていくような気はする。
こんな一文もあった。
<「ニート」はどこか『社会経験の穴』があいてる」
取材をするなかで、ある青年は言った。ニートにあいさつできないという穴があるとしても、それは本人の性格じゃない。あいさつを必要とする経験がないまま成長したということだ。コミュニケーションができない穴があっても、生まれ持った才能の問題じゃない。他人とのゆるやかな関係を保ちながら生きる経験がなかったのだ。>(P.245-246)
この「ニート」を「自分」に置き換えても何ら違和感はない。前の職場を辞めてからこの1年間、仕事探しで試行錯誤したけれど、
「俺ってコミュニケーション能力が根本的に欠落している」
と痛感される経験を山のように積んだ。そして、これはもはや修復不能なレベルだと、半ば諦めてもいる。しかし生きている限り、そうした自分とこれからも付き合っていかなければならない。こうした現実に対する有効な解決策は、自分の中にはまだ出ていない。
また自分を得意とするネガティブな話になるけれど、この1年間はこれまでの人生でもかなり辛い部類に入る経験をした。それはお金が無いとか所属が無いということより(それも苦しかったけどね)、自分の社会的価値ってこの程度なのか、ということを痛いほど思い知らされたことである。社会って残酷なんだな、と今さらながらに感じた。
しかし、である。
<働かなければ、そんな自分の無能さ、無力さなんて、感じなくてすむ。働くなんて、バカらしい。そこまでして働く必要なんてどこにあるのか、なんて思ってしまう。
でも、そうだったとしても、働いて自分に力がないという不幸を実感したことのない人こそ、本当の不幸なのだ、と私は思う。>(P.264)
私の言ったことと論旨は異なるけれど、社会に出ると自分の無力さに気づかされる、という点は同じ指摘だろう。そういう恐れあるからこそ、かつての私は働くことに消極的だったのかもしれない。
ただ、働く場所が見つからずに鬱々とした日々を過ごした今となっては、それでもどこかに所属して働いている状態の方が、幸せとは言わないまでも無職よりずっとマシだと言いたくなる。少なくとも1年前の自分よりは「働く」ということに対して前向きに取り組めるようになった、とは断言できる。これでも少しは前向きになったんだよ。
最後の最後で何か結論めいたことを言おうと思ったけれど、「働く」ということは自分の人生に関わることなので私の思いを言うことで締めたい。
反感を買うのを覚悟で書くが、私はホームレスや生活保護受給者やニート(あえてこの言葉を使おう)といった立場に身を落としたくない。そこまで行ってしまったら、おそらく再び社会に復帰することはほぼ不可能だと思うからだ。だから私は今も踏みとどまるために色々と頑張っているつもりである。
また、仕事がうまくいかなくて生きるのに苦しんでいる人たちに対しては、なんとか現状より落ちていかないように努力してもらいたいと願う。ニートなどに対する私の見解は内田樹さんの「下流志向─学ばない子どもたち、働かない若者たち」(07年。講談社)に習っている。ニートになった人はもう仕方ないけれどこれからニートになりそうな人に対しては、やめた方がいいよ、と声をかける。手元に本書がパッと見つからないので正確な引用ができなくて申し訳ないが、そんな感じの提言だった。ニートを社会復帰させようなどということよりもこれ以上ニートが増えないようにする。そうした水際で行動をしていくことが現実的には大事だと思うからだ。
そして現在の自分はまさにそうした水際にいる。この立場から小さくても声をあげていき続けたい。
その前にまずお断りしておくけれど、この本の構成はあまり統一されておらずお世辞にも優れているとは言いがたい。本書の「はじめに」の最後では、
<できればニートは増えないほうがいい。そのためにもまずは、フリーターでも失業者でもない、ニートと呼ばれる若者の声なき声に、耳を澄ますこと。それが今、何より求められている。>(P.11)
と書かれている。英国発である「NEET」という言葉を広めたきっかけの一つが本書であるが、では我が国における「ニート」とは具体的にどういった人たちなのか、それがこの中で明らかになっていないところが一番まずかった。肝心となる前提があやふやな状態で展開された末の最終章が、
「誰もがニートになるかもしれない」
だから、なんじゃそりゃ?と反感を抱く人が出てきても仕方ない出来だとは思う。ニートだかヒバゴンだか知らないが、何だか訳のわからないものになる可能性はゼロとはいえないだろう。内容の良し悪しを措いておくとしても、ニートという存在を知りたいと願う方には本書は適当とはいえない。余計に混乱するだけだろう。
実際のところ日本では、団塊ニートだの恋愛ニートだの社内ニートだのと、ニートという言葉はもはや何の意味だかわからない状態になっている。本書が出発点ということになれば当然の帰結に違いないだろう。そもそもニートという言葉にこだわること自体、あまり意味がない行為といえる。
ただ本書では失業者とか就業者とかいった言葉の定義は出てくる。それらのいずれにも該当しない人は「なんとなくニートっぽいといえるような」程度の印象は抱くかもしれない。そこでまず失業者の条件を見てみよう(本書P.17の表を参照)。
条件1:仕事がなくて、調査期間中(月末1週間)に少しもしなかった。
条件2:仕事があればすぐつくことができる。
条件3:調査期間中、仕事を探す活動や事業をはじめる準備をしていた。
以上の3つの条件を満たした人が「失業者」であり、これは日本だけでなく先進国の共通であると本書では述べられている。一言でいえば「とにかく仕事を探していること」、これが絶対条件だ。
これに対して、正社員なりフリーターなり条件は違うものの収入を得る仕事をしている人たちは「就業者」と呼ぶ。ここまでは何も難しいことはないだろう。
しかし、こうした労働調査(本書は総務省の調査結果を参考にしている)があった時期に「たまたま仕事を探していなかったため、失業者とは認められなかった人」というのもいて、そうした人たちは「就職希望者」と言われる(P.19)。また15歳以上25歳未満の若者で、学校に通ってたり受験のため浪人していて働いてない人たちは、労働に関わっていないということで「非労働力」と言われる。話はだんだんややこしくなってくる。
そして問題となるのが、この「非労働力」のうち、学生も浪人もしてないし働いてもいない、なおかつ仕事も探していない「非就業希望者」である。当時のデータでは日本にこうした存在が約40万人おり、97年の同じ調査では8万人だったから、6年で5倍にもなっているという結果になっている。
ここまでだったら年齢や定義も定まっているのでそれなりに筋は通っているけれど、本書はさらに上の年代についても言及しており、総務省が5年に1度調査している「就業構造基本調査」についても触れている。これは「25歳以上35歳未満」を対象としている。
<問題は、25歳未満だけではない。25歳以上の若者のなかにも、働くことにとまどいをおぼえたまま、就職活動に踏み出せないでいる人たちが、多数存在する。
>(P.23)
それはそうだろうが、「働く意思がない」という点だけで15歳以上35歳未満まで世代を広げられたら、もう漠然としたことしか論じられなくなるのではないだろうか。少なくとも私はもうお手上げだ。このあたりでニートの定義うんぬんを追っかけるのは終わりにさせていただく。
本書では3章と4章において、兵庫県(「トライやる・ウィーク」)および富山県(「地域に学ぶ14歳の挑戦」)の教育委員会が取り組んでいる、中学生を実際に会社などで数日間働いてもらうという政策を紹介し、2章および5章では仕事をせず働く意欲もない若者に会って聞き取りをしたことが書かれている。いずれもそれなりに興味のある内容だが、ニートとは結局なんなのか?ということの答えにはさっぱりなっていない。むしろ、教育委員会の取り組みがニートと何の関係があるのか、という批判もネットでは見かけた。それはそれで妥当な批判だといえる。
なんだかボロクソに言ってしまった気がするけれど、では当の私はこの本を読んで何に心を動かされたのか。著者の玄田さんがニートの話を交えながら、自身の仕事に対する思いを色々と書いている。それはあまりに理想論的で受け入れがたい指摘もけっこうあるけれど、これは俺の言いたかったことだ!というような言葉も少なくなかった。それらを引用しながら、最後にいまの私が「働くこと」に対する見解を述べさせていただきたい。
<多くの若者が失業した原因は、職業意識の低下でも甘えでもない。不況のせいで求人が激減したことこそ、失業が増えた直接の理由であることは、誰でも知っている。>(P.8)
老若男女を問わず、働いていない人が増えているのは当事者にやる気がないから、という精神論で片付けられることが多い。既得権にすがっている年寄りが原因だ、とか、今の若者がだらしない、といった世代論も見かける。しかし、根本的に不況によって仕事そのものが少なくなっている、という事実認識から始めることが重要ではないだろうか。一部の人たちを悪者にしたところで解決できるような単純な問題ではないのだから。
続いて最終章の「フリーターしかない現実」という項目から。
<これからの時代、正社員しかできない人は、タイヘンだ。転職をすることになっても、プライドとも呼べない、つまらない「プライド」がジャマして再就職を難しくする。フリーターは不安定というけれど、セブンーイレブンでしっかりフリーターした人は別のコンビニでもしっかりツブシがきいたりする。>(P.240)
コンビニの仕事を具体例に出すのはあまりに夢がない気もするし、「若者の多くにとって働くチャンスは、もうフリーターしかない」(P.241)という部分に至っては恫喝と言われる可能性もある。しかし正社員という立場やこれまでの経歴にこだわるのは、これからの時代においてかなり危険な行為なのは確かだ。また、他の場所でも働くことができるような技術を身につけることはこれからの時代を生きる上で大事なことになっていくような気はする。
こんな一文もあった。
<「ニート」はどこか『社会経験の穴』があいてる」
取材をするなかで、ある青年は言った。ニートにあいさつできないという穴があるとしても、それは本人の性格じゃない。あいさつを必要とする経験がないまま成長したということだ。コミュニケーションができない穴があっても、生まれ持った才能の問題じゃない。他人とのゆるやかな関係を保ちながら生きる経験がなかったのだ。>(P.245-246)
この「ニート」を「自分」に置き換えても何ら違和感はない。前の職場を辞めてからこの1年間、仕事探しで試行錯誤したけれど、
「俺ってコミュニケーション能力が根本的に欠落している」
と痛感される経験を山のように積んだ。そして、これはもはや修復不能なレベルだと、半ば諦めてもいる。しかし生きている限り、そうした自分とこれからも付き合っていかなければならない。こうした現実に対する有効な解決策は、自分の中にはまだ出ていない。
また自分を得意とするネガティブな話になるけれど、この1年間はこれまでの人生でもかなり辛い部類に入る経験をした。それはお金が無いとか所属が無いということより(それも苦しかったけどね)、自分の社会的価値ってこの程度なのか、ということを痛いほど思い知らされたことである。社会って残酷なんだな、と今さらながらに感じた。
しかし、である。
<働かなければ、そんな自分の無能さ、無力さなんて、感じなくてすむ。働くなんて、バカらしい。そこまでして働く必要なんてどこにあるのか、なんて思ってしまう。
でも、そうだったとしても、働いて自分に力がないという不幸を実感したことのない人こそ、本当の不幸なのだ、と私は思う。>(P.264)
私の言ったことと論旨は異なるけれど、社会に出ると自分の無力さに気づかされる、という点は同じ指摘だろう。そういう恐れあるからこそ、かつての私は働くことに消極的だったのかもしれない。
ただ、働く場所が見つからずに鬱々とした日々を過ごした今となっては、それでもどこかに所属して働いている状態の方が、幸せとは言わないまでも無職よりずっとマシだと言いたくなる。少なくとも1年前の自分よりは「働く」ということに対して前向きに取り組めるようになった、とは断言できる。これでも少しは前向きになったんだよ。
最後の最後で何か結論めいたことを言おうと思ったけれど、「働く」ということは自分の人生に関わることなので私の思いを言うことで締めたい。
反感を買うのを覚悟で書くが、私はホームレスや生活保護受給者やニート(あえてこの言葉を使おう)といった立場に身を落としたくない。そこまで行ってしまったら、おそらく再び社会に復帰することはほぼ不可能だと思うからだ。だから私は今も踏みとどまるために色々と頑張っているつもりである。
また、仕事がうまくいかなくて生きるのに苦しんでいる人たちに対しては、なんとか現状より落ちていかないように努力してもらいたいと願う。ニートなどに対する私の見解は内田樹さんの「下流志向─学ばない子どもたち、働かない若者たち」(07年。講談社)に習っている。ニートになった人はもう仕方ないけれどこれからニートになりそうな人に対しては、やめた方がいいよ、と声をかける。手元に本書がパッと見つからないので正確な引用ができなくて申し訳ないが、そんな感じの提言だった。ニートを社会復帰させようなどということよりもこれ以上ニートが増えないようにする。そうした水際で行動をしていくことが現実的には大事だと思うからだ。
そして現在の自分はまさにそうした水際にいる。この立場から小さくても声をあげていき続けたい。
岩明均「ヒストリエ」7巻発売に寄せて
2011年11月26日 読書
先日に岩明均さんの「ヒストリエ」(アフタヌーンKC))7巻が発売された。6巻が出たのが2010年5月だから1年半ぶりとけっこうな間隔があいている。
マンガの中身を日記で披露するというのも気がひけるので感想うんぬんを書くつもりは当初なかった。ただ、実際に読んでしまったら、これは何か書いて宣伝の一助でもならないと!と思ってしまうので少し書いてみたい。もちろん、ネタバレは無しだ。
今回の7巻発売にあたり、個人的には少し不安と期待が入り交じっていた。6巻の内容についていろいろ思うところがあったからだ。5巻までと比べるとワクワクする部分は少し希薄だったかな、と感じてしまったのである。一方、新しい登場人物が続々と出てきていたので、6巻はこれから始まる展開への布石ではないかという思いも同時に抱いていた。
そして結果はといえば、私の期待を上回る内容となっており、中盤の「あのシーン」(読んだ方には説明は不要だろう)には久しぶりにショックを受けた気がする。また、懐かしい面々が再び現れたのも楽しかった。20分くらいで読み終えてて実に充実した気持ちになる一方、これでまた1年半は待たないといけないのかなあ、とやりきれない思いが浮かぶのも止められない。まだ読んでいない方は、7巻くらいすぐ読んでしまえるので(笑)、ぜひ8巻が出るまでに追いついていただければと言いたい。
そういえば、小飼弾さんが「空気を読むな、本を読め。 小飼弾の頭が強くなる読書法:」(09年。East Press Business)で「寄生獣」を推薦していた文章で、ヒストリエは「寄生獣」を超えるかもしれない、というようなことを書いていた。それはどうなるか私には見当がつかないけれど(完結するかどうかわからないし)、それくらい期待して待つ価値のある傑作である。
ちなみに、載っている画像の本は「通常版」の装丁である。私が買ったのは岩明さんが自身で考案した(!)「マケドニア将棋」のついた「限定版」である。おそらく遊ぶことはないと思うけれど、ついネットで買ってしまった。
マンガの中身を日記で披露するというのも気がひけるので感想うんぬんを書くつもりは当初なかった。ただ、実際に読んでしまったら、これは何か書いて宣伝の一助でもならないと!と思ってしまうので少し書いてみたい。もちろん、ネタバレは無しだ。
今回の7巻発売にあたり、個人的には少し不安と期待が入り交じっていた。6巻の内容についていろいろ思うところがあったからだ。5巻までと比べるとワクワクする部分は少し希薄だったかな、と感じてしまったのである。一方、新しい登場人物が続々と出てきていたので、6巻はこれから始まる展開への布石ではないかという思いも同時に抱いていた。
そして結果はといえば、私の期待を上回る内容となっており、中盤の「あのシーン」(読んだ方には説明は不要だろう)には久しぶりにショックを受けた気がする。また、懐かしい面々が再び現れたのも楽しかった。20分くらいで読み終えてて実に充実した気持ちになる一方、これでまた1年半は待たないといけないのかなあ、とやりきれない思いが浮かぶのも止められない。まだ読んでいない方は、7巻くらいすぐ読んでしまえるので(笑)、ぜひ8巻が出るまでに追いついていただければと言いたい。
そういえば、小飼弾さんが「空気を読むな、本を読め。 小飼弾の頭が強くなる読書法:」(09年。East Press Business)で「寄生獣」を推薦していた文章で、ヒストリエは「寄生獣」を超えるかもしれない、というようなことを書いていた。それはどうなるか私には見当がつかないけれど(完結するかどうかわからないし)、それくらい期待して待つ価値のある傑作である。
ちなみに、載っている画像の本は「通常版」の装丁である。私が買ったのは岩明さんが自身で考案した(!)「マケドニア将棋」のついた「限定版」である。おそらく遊ぶことはないと思うけれど、ついネットで買ってしまった。
現在35歳である私はリアルタイムでテレビのバラエティ番組「進め!電波少年」(日本テレビ系)を観ていた世代である。番組内でお笑いコンビ「猿岩石」がユーラシア大陸をヒッチハイクで横断した時(96年)は大学1年目である。といっても、テレビ番組はたまに観るだけだったため実際にゴールした瞬間の映像は観ていないのだが。
そんな感じで彼らについてはそれほど注目していなかったけれど、ヒッチハイク終了後も藤井フミヤ・尚之兄弟が提供した楽曲”白い雲のように”(96年)がミリオンセラーを記録したり、ヒッチハイクの内幕を書いた「猿岩石日記」シリーズも通算250万部を売り上げるなど、聞きたくなくても話題が入ってくるという感じだった。
しかしながら、彼らの本業であるはずの「お笑い」についての評価はまるっきり上がらないのを見るにつけ、これはバブルだな、と確信していた。多くの人もそう感じていたに違いない。案の定、数年も経つと猿岩石という名前も全く聞こえてこなくなる。いつぞやの「あの人は今」のようなテレビ番組でツッコミ担当だった森脇和也氏はスナックを経営している、と紹介されているのを観た記憶がうっすらと残っている。
一方、ボケ担当の有吉弘行氏といえば、ご存知のようにいつの間にやら再ブレイクを果たしていたのである。彼は自分のことを「二発屋」と自虐的に言っている(実際は「違うジャンルで一発ずつあげている」だと本書で述べているが)
果たして有吉氏は猿岩石のブレイクから今までどのような生活をして今日の復活まで辿り着いたのか。その辺りが書かれているのがこの本である。こんな書き方をすると、芸人が自分の貧乏時代を明かす露悪趣味な本と思うだろう。しかしこの本はそんな短期間に消費されるような類のものではない。
本の帯にも、
「甘えて生きてるサラリーマンに警告!!!」
「完全失業率5.0%超!!年間企業倒産件数1万2866件!!」
とこの不確実な時代に生きている人を刺激的させるような言葉が並んでいる。これは完全にビジネス書に分類されるものだ。近所の「古本市場」で本書を見つけた私はザッと読んだだけで、これは俺の読む本だな、と直感してすぐ購入した(500円で。定価は1200円+消費税)
有吉氏は月収が最高2000万円からゼロ円にまで落ちる、という恐ろしく極端な人生経験をしている。
<月収2千万からゼロに至るまでは、4年ぐらいでした。給料100万時代が2年くらいあって、そこから歩合制になって、あとは転がり落ちるようにどんどん減っていって、月7~8万円っていう一桁が何ヶ月か続いたと思ったら、本当にゼロになったんです。>(P.30)
しかし有吉氏が凄かったのは、かつての私たちが彼らに対して思っていたように、ブレイクしていた最中(新幹線のホームに人が殺到して新幹線を止めたことも何度かあったとか)でも「こんな人気続くわけがない。自分の実力であるわけがない」と冷静な視点をずっと持ち続けていた点である。
そして、これは自分には絶対に真似できないと痛感したのは、有吉氏は月収2千万の時でも生活費を全く上げなかったことだ。
<僕はどんなに金あるときでも、家賃とか全部合わせても月15万ぐらいで生活してました>(P.15)
<僕は一番金あるときでも、もらいもんのTシャツとか着てました。『FM TOKYO』とか胸にロゴが入っているようなもらいもんのTシャツ」(P.16)
収入が増えていくと使うお金も増えていくのは多くの人のたどる行動パターンである。私が以前いた会社も微々たる額であるが毎年給料は上がっていた。しかしながらそれに比例して貯金が増えていくということはなかった。もともとお金を貯めるという発想が希薄な人間であったけれど。
<ちょっと金持ってるからって高い車とか買ったり、洋服に金かけたりとか、そういうことしてると、金なんかすぐなくなりますから。それで給料下がったとか、ボーナス出ないとか言って、ローン払えなくて泣くんですよね。>(P.16)
実に耳が痛くなる指摘だ。しかもこれは会社員などではなく見栄や虚飾が渦巻いているような世界で生きる人から提言されているのだから、有吉氏の視点は慧眼としか言いようがない。周囲に流されず自分の立場を冷静に分析して、しかも行動に移しているというのはなかなかできることではないだろう。
では、有吉氏のこうした言動を支える思想とはいかなるものなのか。
それは、
<「幸せ」って「金」だと思うんですよ。>(P.179)
というような発言に見られる、お金についての考え方である。これはパッと読むと拝金主義にとれるかもしれないが、例えばホリエモンや勝間和代のような「お金を持てばずっと幸せになれる!」というようなポジティブなものとは全く逆方向へ行く発想である。
<「前向きに生きよう」とか、「ポジティブ思考で何事もプラスに考えましょう」とか、言う人いますよね。「人生ポジティブに生きれば成功する」みたいなことを。
たいてい、そういう人って金持ってるんですよ。どっかの会社の社長とか、何かで成功した人とか、そういうこと言う人って、人生の成功者でちゃんとした地位とか築いてる人なんですよね。
そういう連中に「前向き」とか「ポジティブ」とか言われても説得力ないんですよ。「そりゃお前は金持ってるから前向きになれるかもしれないけど、こっちは金がないんだ」っていう。「じゃあポジティブになれば金持ちになれるか」っていうと全然そんなことないし。「そもそも金ないから前向きになれない」っていう。だから、そんなのウソだってことに早く気付いて欲しいですよね。なんの役にも立たないっていうことを。>(p.190)
ホリエモンや勝間さんなどの考えに批判的な人も、有吉氏のこの発言を覆すのはなかなか困難なのではないだろうか。それは彼の考えが机上の空論ではなく、地に足のついた自身の経験からきているからであろう。その経験が大半の人には実感できないようなかなり極端なものであったとしても。
実際、猿岩石ブームが過ぎ去って収入がガタ落ちした有吉氏を支えたのは、無駄に使わないでせっせと貯めていたお金である。その間アルバイトを一切してなかったという特殊な事情(バイトをしている姿を見られて蔑まされるのが嫌だったという)があるにせよ、
<あそこで調子に乗って、「金あるんだから遣っちゃえ!」みたいにしてたら、今頃僕、ホームレスやってるか、死んでたか、どっちかだと思います。とっくに芸人やめてたと思います。終わってました、確実に。>(P.13)
というのは別に誇張でもなんでもないだろう。本書では「ホームレス」という言葉がけっこう出てくるが、彼の頭には自分がそうなってしまう姿がリアルに浮かんでいたらしい。そしてそんな自分を支えていたのは、何よりもお金であった。
無論、お金ではどうにもならない問題というものある。例えば、愛というものがそうだ。たとえいくらお金を積んだとしても、「恋愛そのものに興味がない」という人が相手ではどうしようもない。これは私の経験から断言することができる(涙)
しかしながら、お金が人生のあらゆる局面で助けになるというのも、資本主義社会に生きる我々には否定できない事実だ。私はこの4月に以前の会社を辞めてしまったが、あてもないまま退社したため次の職を見つけるまで5ヶ月も費やしてしまう。その間は不安で不安で仕方なかったけれど、会社を辞めるという選択ができたのも退職金やいくばくかの貯金があったためである。それがなければ、辞めたくても辞められなかったのは間違いない。
お金だけで幸せになれるかどうかはわからない。ただ、あればその分あなたの人生に選択肢を広げられる。それだけは断言できる。それは私の乏しい人生経験から導かれたものだが、この想いは死ぬまで変わることはないだろう。
先日紹介した橘玲さんの「大震災の後で人生について語るということ」(講談社。11年)とともに私の「裏・聖典」となる、実に「面白くて、ためになる」を地でいく名著である。是非ともこの国に生きる全ての人におすすめしたい、真剣に。
そんな感じで彼らについてはそれほど注目していなかったけれど、ヒッチハイク終了後も藤井フミヤ・尚之兄弟が提供した楽曲”白い雲のように”(96年)がミリオンセラーを記録したり、ヒッチハイクの内幕を書いた「猿岩石日記」シリーズも通算250万部を売り上げるなど、聞きたくなくても話題が入ってくるという感じだった。
しかしながら、彼らの本業であるはずの「お笑い」についての評価はまるっきり上がらないのを見るにつけ、これはバブルだな、と確信していた。多くの人もそう感じていたに違いない。案の定、数年も経つと猿岩石という名前も全く聞こえてこなくなる。いつぞやの「あの人は今」のようなテレビ番組でツッコミ担当だった森脇和也氏はスナックを経営している、と紹介されているのを観た記憶がうっすらと残っている。
一方、ボケ担当の有吉弘行氏といえば、ご存知のようにいつの間にやら再ブレイクを果たしていたのである。彼は自分のことを「二発屋」と自虐的に言っている(実際は「違うジャンルで一発ずつあげている」だと本書で述べているが)
果たして有吉氏は猿岩石のブレイクから今までどのような生活をして今日の復活まで辿り着いたのか。その辺りが書かれているのがこの本である。こんな書き方をすると、芸人が自分の貧乏時代を明かす露悪趣味な本と思うだろう。しかしこの本はそんな短期間に消費されるような類のものではない。
本の帯にも、
「甘えて生きてるサラリーマンに警告!!!」
「完全失業率5.0%超!!年間企業倒産件数1万2866件!!」
とこの不確実な時代に生きている人を刺激的させるような言葉が並んでいる。これは完全にビジネス書に分類されるものだ。近所の「古本市場」で本書を見つけた私はザッと読んだだけで、これは俺の読む本だな、と直感してすぐ購入した(500円で。定価は1200円+消費税)
有吉氏は月収が最高2000万円からゼロ円にまで落ちる、という恐ろしく極端な人生経験をしている。
<月収2千万からゼロに至るまでは、4年ぐらいでした。給料100万時代が2年くらいあって、そこから歩合制になって、あとは転がり落ちるようにどんどん減っていって、月7~8万円っていう一桁が何ヶ月か続いたと思ったら、本当にゼロになったんです。>(P.30)
しかし有吉氏が凄かったのは、かつての私たちが彼らに対して思っていたように、ブレイクしていた最中(新幹線のホームに人が殺到して新幹線を止めたことも何度かあったとか)でも「こんな人気続くわけがない。自分の実力であるわけがない」と冷静な視点をずっと持ち続けていた点である。
そして、これは自分には絶対に真似できないと痛感したのは、有吉氏は月収2千万の時でも生活費を全く上げなかったことだ。
<僕はどんなに金あるときでも、家賃とか全部合わせても月15万ぐらいで生活してました>(P.15)
<僕は一番金あるときでも、もらいもんのTシャツとか着てました。『FM TOKYO』とか胸にロゴが入っているようなもらいもんのTシャツ」(P.16)
収入が増えていくと使うお金も増えていくのは多くの人のたどる行動パターンである。私が以前いた会社も微々たる額であるが毎年給料は上がっていた。しかしながらそれに比例して貯金が増えていくということはなかった。もともとお金を貯めるという発想が希薄な人間であったけれど。
<ちょっと金持ってるからって高い車とか買ったり、洋服に金かけたりとか、そういうことしてると、金なんかすぐなくなりますから。それで給料下がったとか、ボーナス出ないとか言って、ローン払えなくて泣くんですよね。>(P.16)
実に耳が痛くなる指摘だ。しかもこれは会社員などではなく見栄や虚飾が渦巻いているような世界で生きる人から提言されているのだから、有吉氏の視点は慧眼としか言いようがない。周囲に流されず自分の立場を冷静に分析して、しかも行動に移しているというのはなかなかできることではないだろう。
では、有吉氏のこうした言動を支える思想とはいかなるものなのか。
それは、
<「幸せ」って「金」だと思うんですよ。>(P.179)
というような発言に見られる、お金についての考え方である。これはパッと読むと拝金主義にとれるかもしれないが、例えばホリエモンや勝間和代のような「お金を持てばずっと幸せになれる!」というようなポジティブなものとは全く逆方向へ行く発想である。
<「前向きに生きよう」とか、「ポジティブ思考で何事もプラスに考えましょう」とか、言う人いますよね。「人生ポジティブに生きれば成功する」みたいなことを。
たいてい、そういう人って金持ってるんですよ。どっかの会社の社長とか、何かで成功した人とか、そういうこと言う人って、人生の成功者でちゃんとした地位とか築いてる人なんですよね。
そういう連中に「前向き」とか「ポジティブ」とか言われても説得力ないんですよ。「そりゃお前は金持ってるから前向きになれるかもしれないけど、こっちは金がないんだ」っていう。「じゃあポジティブになれば金持ちになれるか」っていうと全然そんなことないし。「そもそも金ないから前向きになれない」っていう。だから、そんなのウソだってことに早く気付いて欲しいですよね。なんの役にも立たないっていうことを。>(p.190)
ホリエモンや勝間さんなどの考えに批判的な人も、有吉氏のこの発言を覆すのはなかなか困難なのではないだろうか。それは彼の考えが机上の空論ではなく、地に足のついた自身の経験からきているからであろう。その経験が大半の人には実感できないようなかなり極端なものであったとしても。
実際、猿岩石ブームが過ぎ去って収入がガタ落ちした有吉氏を支えたのは、無駄に使わないでせっせと貯めていたお金である。その間アルバイトを一切してなかったという特殊な事情(バイトをしている姿を見られて蔑まされるのが嫌だったという)があるにせよ、
<あそこで調子に乗って、「金あるんだから遣っちゃえ!」みたいにしてたら、今頃僕、ホームレスやってるか、死んでたか、どっちかだと思います。とっくに芸人やめてたと思います。終わってました、確実に。>(P.13)
というのは別に誇張でもなんでもないだろう。本書では「ホームレス」という言葉がけっこう出てくるが、彼の頭には自分がそうなってしまう姿がリアルに浮かんでいたらしい。そしてそんな自分を支えていたのは、何よりもお金であった。
無論、お金ではどうにもならない問題というものある。例えば、愛というものがそうだ。たとえいくらお金を積んだとしても、「恋愛そのものに興味がない」という人が相手ではどうしようもない。これは私の経験から断言することができる(涙)
しかしながら、お金が人生のあらゆる局面で助けになるというのも、資本主義社会に生きる我々には否定できない事実だ。私はこの4月に以前の会社を辞めてしまったが、あてもないまま退社したため次の職を見つけるまで5ヶ月も費やしてしまう。その間は不安で不安で仕方なかったけれど、会社を辞めるという選択ができたのも退職金やいくばくかの貯金があったためである。それがなければ、辞めたくても辞められなかったのは間違いない。
お金だけで幸せになれるかどうかはわからない。ただ、あればその分あなたの人生に選択肢を広げられる。それだけは断言できる。それは私の乏しい人生経験から導かれたものだが、この想いは死ぬまで変わることはないだろう。
先日紹介した橘玲さんの「大震災の後で人生について語るということ」(講談社。11年)とともに私の「裏・聖典」となる、実に「面白くて、ためになる」を地でいく名著である。是非ともこの国に生きる全ての人におすすめしたい、真剣に。
橘玲「大震災の後で人生について語るということ」(11年。講談社)
2011年10月15日 読書
2011年3月11日の東日本大震災を契機にこの国に生きる人は皆これまでの価値観を改めなければならない状況に置かれた。あの大津波によって想像もつかない数の人命や財産を失い、いまも多くの人が生活を立て直すこともできずに苦しんでいる。直接の被害を受けなかった人もテレビやネットで通じて被災地の姿を見て衝撃を受け、
「私たちはこれからどう生きたらいいのだろうか」
という思いに駆られたに違いない。
この本の著者の橘さんは一貫して自身を「リバタリアニズム(「自由主義」または「自由原理主義」などと言われる)」という立場から文章を書いてきた。リバタリアニズムについて要約して説明すれば、個人(国民)の自由を最大化させるためには国家の介入する部分を最小限に抑えるべきだ、というのが一番肝心なところである。この考えは国家を不要とするという面で無政府主義(アナキズム)と通じる。
国家を介入する部分を最小限に抑えるというのは、例えば社会保険や国民年金といった福祉制度もなくすべき、という意味である。そうしたものが国民ひとりひとりの自助努力でやりくりすべきだ、というのがリバタリアン(リバタリアニズムの考えを持っている人)の基本的なスタンスである。
よって、何の備えもしていない人が事故や病気で不幸な目にあって苦しんでも自己責任である、となってしまう。橘さんもそのような論理をこれまで展開してきた。しかしかの大震災以降はその思いは大きく揺らぐのであった。そのいきさつを本書から、少し長くなるが、引用する。
<私はこれまで、自由とは選択肢の数のことだと、繰り返し書いてきました。なんらかの予期せぬ不幸に見舞われたとき、選択肢のないひとほど苦境に陥ることになる。立ち直れないの痛手を被るのは、他に生きる術を持たないからだ、というように。
私はこのことを知識としては理解していましたが、しかし自分の言葉が、想像を絶するような惨状ともに、現実の出来事として、目の前に立ち現れるなどとは考えてこともありませんでした。
津波に巻き込まれたのは、海辺の町や村で、一所懸命に生きてきたごくふつうのひとたちでした。彼らの多くは高齢者で、寝たきりの病人を抱えた家も多く、津波警報を知っても避難することができなかったといいます。
被災した病院も入院患者の大半は高齢者で、原発事故の避難指示で立ち往生したのは地域に点在する老人福祉施設でした。避難所となった公民館や学校の体育館で、氷点下の夜に暖房もなく、毛布にくるまって震えているのも老人たちでした。
被災地域は高齢化する日本の縮図で、乏しい年金を分け合いながら、農業や漁業を副収入として、みなぎりぎりの生活を送っているようでした。そんな彼らが、配給されるわずかなパンや握り飯に丁重に礼をいい、恨み言ひとつこぼさずに運命を受け入れ、家族や財産やすべてのものを失ってもなおお互いに助け合い、はげまし合っていたのです。
私がこれまで書いてきたことは、この圧倒的な現実の前ではたんなる絵空事しかありませんでした。私の理屈では、避難所で不自由な生活を余儀なくされているひとたちは、「選択肢なし」の名札をつけ、匿名のままグループ分けされているだけだったからです。
大震災の後、書きかけの本を中断し、雑誌原稿を断り、連載も延期して、ただ呆然と過ごしていました。そしてあるとき、まるで天啓のように、それはやってきたのです。
私がこれまで語ってきたことが絵空事であるのなら、その絵空事を徹底して突き詰めることでしか、その先に進むことができないのではないかー。
理屈でもなく、直感ともいえませんが、この想念は稲妻のように私を襲い、魂を奪い去ってしまったのです。
それから二週間で、この本を書きました。>(本書P.206-208)
こうして完成した本書を橘さんは、
「私の人生設計論の完成形」(P.222)
と位置づけている。いままで述べてきた論考を1冊に凝縮したのがこの本というわけだ。
まず前半では我が国を襲った2つの大きな出来事、一つは今年の東日本大震災でもう一つは97年7月に東アジア・東南アジアで起きた未曾有の通貨危機(これ以降、日本国内の自殺者は現在まで毎年3万人を超えるようになる)によって
これまで多くの日本人が指向してきた「ローリスク・ハイリターンの人生設計」が崩れ出し「ハイリスク・ローリターンの人生設計」へと変化していく姿が描かれている。
私たちはこれまで4つの「神話」を当たり前という前提で人生を組み立ててきた。
・不動産神話 持ち家は賃貸より得だ
・会社神話 大きな会社に就職して定年まで勤める
・円神話 日本人なら円資産を保有するのが安心だ
・国家神話 定年後は年金で暮らせばいい
これらはある時期までは確かに通用していたものである。そして現在でもこれらを信じている人は少なくはないに違いない。しかし本書を読んでいけば、社会の変化によっていずれも根本から崩れていくさまが感じてもらえるだろう。いま私たちは旧来の人生設計を見直さなければならない局面に立たされているのだ。
そして後半ではそのために「ポスト3・11の人生設計」として橘さんからの提言がいくつか挙げられていて、金融資本の分散方法やこれからの働き方など色々と書かれている。
本書で最も興味深いのは、リバタリアンであるはずの橘さんが政府(国家)に対していくつか提言をしていることだ。なぜかそんなことをしたかといえば、
<私はこれまで、「社会を変える」ことについては意識的に言及を避けてきました。天下国家を語るひとは世の中に溢れていて、それは私の役割ではないと考えていたからです。今回、自分なりの見解を述べたのは、これが日本にとって最後の機会だからです。>(P.223)
このような悲惨な出来事の後でも変わらないとすれば、もうこの国は再び立ち上がることはないということである。そして橘さんは、増税や国債を増発する前に歳出の削減によって復興支援の財源を作りだすこと、国だけでなく地方公務員の給与を減額すること、物価水準にあわせて年金の支給額を減額すること、などを提案している。その中で最も私が目をひいたのは雇用に関することで、
・定年制を法律で禁止すること
・同一労働同一賃金の原則を法律で定めること
・そのうえで、一定額の金銭を支払うことを条件に整理解雇を認めること
と言っていることだ。巷間では「非正規雇用の社員を正社員化せよ!」という声が大きいので、これらの提言は意外に思う人も多いかもしれない。しかし今の日本の企業は正社員を無理矢理かかえこまざるをえないために人を増やすこともできず、会社も社員も苦しんでいるという側面は否定できない。会社の業績も上がらずまた非正規社員を雇用し続けられないとすれば、残った正社員にしわ寄せがくるのは必然だ。
アメリカの労働者というのは、高い給料の獲得を目指す「スペシャリスト」と、給料はずっと上がらないがそんなに忙しくもない「バックオフィス」と2つの働き方が存在する。スペシャリストが2割、バックオフィスが8割という比率だ。ちなみに少し前に日本を騒がせた「成果給」だの「能力給」といった賃金制度はスペシャリスト向けのものだった。それなのに日本の企業は営業にも人事にもそうした制度をあてはめてしまったのがそもそもの失敗である。
それはともかく、解雇規制が緩和され同一労働同一賃金が広がるようになれば、日本もアメリカのように働き方も二極化する。
<この三つの「改革」が実現すれば、日本的雇用制度は消滅し、正社員と非正規社員の「差別」もなくなります。企業は年齢にかかわらず必要な人材を労働市場から採用するでしょうから、新卒で就職に失敗した若者も、中高年の転職希望者も、いまよりずっと容易に自分に合った仕事を見つけることができるようになるはずです。
日本に流動性のある労働市場が誕生すれば、世界最悪の自殺率を引き下げる効果が期待できます。中高年にも転職の可能性があれば、年間8000人ものひとたちが自ら命をことはなくなるでしょう。
たとえ年収が下がっても、仕事さえあれば、ひとは未来に希望を持って生きていくことができるのです。>(P.216)
大学卒業後の就職も、そのまた後の転職も苦しんだ自分にとってみれば、仕事があれば希望をもって生きていける、というのはかなりの真実を含んでいると感じる。
日本の雇用制度を変えることなどできるのかと疑問を持つ方もいるだろう。当の橘さんもそこまで楽観的には考えていない。しかし本書の最後で、
<いずれにせよ、私たちは戦後的な価値観を清算して、ポスト3・11の人生を歩きはじめなくてはならないのです。>(P.223)
と締めくくられている。望む望まないにかかわらず、大震災の生き残りである我々にはその未来を生きるほかはないのだ。
本書はそんな自分にとって、ことあるごとに開く座右の書になると思われる。
「私たちはこれからどう生きたらいいのだろうか」
という思いに駆られたに違いない。
この本の著者の橘さんは一貫して自身を「リバタリアニズム(「自由主義」または「自由原理主義」などと言われる)」という立場から文章を書いてきた。リバタリアニズムについて要約して説明すれば、個人(国民)の自由を最大化させるためには国家の介入する部分を最小限に抑えるべきだ、というのが一番肝心なところである。この考えは国家を不要とするという面で無政府主義(アナキズム)と通じる。
国家を介入する部分を最小限に抑えるというのは、例えば社会保険や国民年金といった福祉制度もなくすべき、という意味である。そうしたものが国民ひとりひとりの自助努力でやりくりすべきだ、というのがリバタリアン(リバタリアニズムの考えを持っている人)の基本的なスタンスである。
よって、何の備えもしていない人が事故や病気で不幸な目にあって苦しんでも自己責任である、となってしまう。橘さんもそのような論理をこれまで展開してきた。しかしかの大震災以降はその思いは大きく揺らぐのであった。そのいきさつを本書から、少し長くなるが、引用する。
<私はこれまで、自由とは選択肢の数のことだと、繰り返し書いてきました。なんらかの予期せぬ不幸に見舞われたとき、選択肢のないひとほど苦境に陥ることになる。立ち直れないの痛手を被るのは、他に生きる術を持たないからだ、というように。
私はこのことを知識としては理解していましたが、しかし自分の言葉が、想像を絶するような惨状ともに、現実の出来事として、目の前に立ち現れるなどとは考えてこともありませんでした。
津波に巻き込まれたのは、海辺の町や村で、一所懸命に生きてきたごくふつうのひとたちでした。彼らの多くは高齢者で、寝たきりの病人を抱えた家も多く、津波警報を知っても避難することができなかったといいます。
被災した病院も入院患者の大半は高齢者で、原発事故の避難指示で立ち往生したのは地域に点在する老人福祉施設でした。避難所となった公民館や学校の体育館で、氷点下の夜に暖房もなく、毛布にくるまって震えているのも老人たちでした。
被災地域は高齢化する日本の縮図で、乏しい年金を分け合いながら、農業や漁業を副収入として、みなぎりぎりの生活を送っているようでした。そんな彼らが、配給されるわずかなパンや握り飯に丁重に礼をいい、恨み言ひとつこぼさずに運命を受け入れ、家族や財産やすべてのものを失ってもなおお互いに助け合い、はげまし合っていたのです。
私がこれまで書いてきたことは、この圧倒的な現実の前ではたんなる絵空事しかありませんでした。私の理屈では、避難所で不自由な生活を余儀なくされているひとたちは、「選択肢なし」の名札をつけ、匿名のままグループ分けされているだけだったからです。
大震災の後、書きかけの本を中断し、雑誌原稿を断り、連載も延期して、ただ呆然と過ごしていました。そしてあるとき、まるで天啓のように、それはやってきたのです。
私がこれまで語ってきたことが絵空事であるのなら、その絵空事を徹底して突き詰めることでしか、その先に進むことができないのではないかー。
理屈でもなく、直感ともいえませんが、この想念は稲妻のように私を襲い、魂を奪い去ってしまったのです。
それから二週間で、この本を書きました。>(本書P.206-208)
こうして完成した本書を橘さんは、
「私の人生設計論の完成形」(P.222)
と位置づけている。いままで述べてきた論考を1冊に凝縮したのがこの本というわけだ。
まず前半では我が国を襲った2つの大きな出来事、一つは今年の東日本大震災でもう一つは97年7月に東アジア・東南アジアで起きた未曾有の通貨危機(これ以降、日本国内の自殺者は現在まで毎年3万人を超えるようになる)によって
これまで多くの日本人が指向してきた「ローリスク・ハイリターンの人生設計」が崩れ出し「ハイリスク・ローリターンの人生設計」へと変化していく姿が描かれている。
私たちはこれまで4つの「神話」を当たり前という前提で人生を組み立ててきた。
・不動産神話 持ち家は賃貸より得だ
・会社神話 大きな会社に就職して定年まで勤める
・円神話 日本人なら円資産を保有するのが安心だ
・国家神話 定年後は年金で暮らせばいい
これらはある時期までは確かに通用していたものである。そして現在でもこれらを信じている人は少なくはないに違いない。しかし本書を読んでいけば、社会の変化によっていずれも根本から崩れていくさまが感じてもらえるだろう。いま私たちは旧来の人生設計を見直さなければならない局面に立たされているのだ。
そして後半ではそのために「ポスト3・11の人生設計」として橘さんからの提言がいくつか挙げられていて、金融資本の分散方法やこれからの働き方など色々と書かれている。
本書で最も興味深いのは、リバタリアンであるはずの橘さんが政府(国家)に対していくつか提言をしていることだ。なぜかそんなことをしたかといえば、
<私はこれまで、「社会を変える」ことについては意識的に言及を避けてきました。天下国家を語るひとは世の中に溢れていて、それは私の役割ではないと考えていたからです。今回、自分なりの見解を述べたのは、これが日本にとって最後の機会だからです。>(P.223)
このような悲惨な出来事の後でも変わらないとすれば、もうこの国は再び立ち上がることはないということである。そして橘さんは、増税や国債を増発する前に歳出の削減によって復興支援の財源を作りだすこと、国だけでなく地方公務員の給与を減額すること、物価水準にあわせて年金の支給額を減額すること、などを提案している。その中で最も私が目をひいたのは雇用に関することで、
・定年制を法律で禁止すること
・同一労働同一賃金の原則を法律で定めること
・そのうえで、一定額の金銭を支払うことを条件に整理解雇を認めること
と言っていることだ。巷間では「非正規雇用の社員を正社員化せよ!」という声が大きいので、これらの提言は意外に思う人も多いかもしれない。しかし今の日本の企業は正社員を無理矢理かかえこまざるをえないために人を増やすこともできず、会社も社員も苦しんでいるという側面は否定できない。会社の業績も上がらずまた非正規社員を雇用し続けられないとすれば、残った正社員にしわ寄せがくるのは必然だ。
アメリカの労働者というのは、高い給料の獲得を目指す「スペシャリスト」と、給料はずっと上がらないがそんなに忙しくもない「バックオフィス」と2つの働き方が存在する。スペシャリストが2割、バックオフィスが8割という比率だ。ちなみに少し前に日本を騒がせた「成果給」だの「能力給」といった賃金制度はスペシャリスト向けのものだった。それなのに日本の企業は営業にも人事にもそうした制度をあてはめてしまったのがそもそもの失敗である。
それはともかく、解雇規制が緩和され同一労働同一賃金が広がるようになれば、日本もアメリカのように働き方も二極化する。
<この三つの「改革」が実現すれば、日本的雇用制度は消滅し、正社員と非正規社員の「差別」もなくなります。企業は年齢にかかわらず必要な人材を労働市場から採用するでしょうから、新卒で就職に失敗した若者も、中高年の転職希望者も、いまよりずっと容易に自分に合った仕事を見つけることができるようになるはずです。
日本に流動性のある労働市場が誕生すれば、世界最悪の自殺率を引き下げる効果が期待できます。中高年にも転職の可能性があれば、年間8000人ものひとたちが自ら命をことはなくなるでしょう。
たとえ年収が下がっても、仕事さえあれば、ひとは未来に希望を持って生きていくことができるのです。>(P.216)
大学卒業後の就職も、そのまた後の転職も苦しんだ自分にとってみれば、仕事があれば希望をもって生きていける、というのはかなりの真実を含んでいると感じる。
日本の雇用制度を変えることなどできるのかと疑問を持つ方もいるだろう。当の橘さんもそこまで楽観的には考えていない。しかし本書の最後で、
<いずれにせよ、私たちは戦後的な価値観を清算して、ポスト3・11の人生を歩きはじめなくてはならないのです。>(P.223)
と締めくくられている。望む望まないにかかわらず、大震災の生き残りである我々にはその未来を生きるほかはないのだ。
本書はそんな自分にとって、ことあるごとに開く座右の書になると思われる。
前川修満「決算書はここだけ読め!」(10年。講談社現代現代新書)
2011年6月27日 読書「決算書は、わからなくたっていい!」
決算書についてのセミナーの冒頭で、著者の前川さんはホワイトボードに大きくこう書くという。これを見た参加者は一様に怪訝そうな顔をする。決算書が理解したいがためにセミナーに参加した人たちなんだから、当たり前といえば当たり前だが。
経理業務に関わってなくても、決算書くらい読めるようなりたい、と考えるサラリーマンは多いだろう。しかし色々と勉強をしてみても決算書の数字を理解できるようになる人は少ないらしい。それはなぜだろうか。公認会計士と税理士の資格を持つ著者はその理由をこう述べている。
そもそも決算書の細かい知識(会計学)はあくまで「決算書を作る人」にとって重要なものだ。しかし「決算書を読む人」は必死でこうしたことを勉強してしまう。これがボタンの掛け違いとなる。その結果、決算書を読むという所期の目的を達成できなくなってしまうのだ。
たとえば本書のP.87に大正製薬の貸借対照表が載っていて、いろいろな項目(勘定科目)がズラズラと載っている。「資産」を見てみると、
現金および預金 112,464
受取手形 594
売掛金 58,101
有価証券 2,000
商品 2,909
製品 9,623・・・
などと20以上の項目が出てくる(数字の単位は百万円)。しかし「決算書を読む」ためだったらこの全てを覚える必要など、ない。これらの項目を合計した「資産」という「かたまり」の金額さえ見れば良いのだ。
決算書はパッと見れば数字と項目がゴチャゴチャと羅列しているけれど、大きな5項目(資産、負債、資本または純資産、費用、収益)で構成されているに過ぎない。そして、これら5項目の大小を比較することが「決算を読む」という行為に他ならない。
その比較についても、何も難しいことはない。本書のP.76ではポイントを2つに集約している。
(1)貸借対照表(試算表の上半分)
資産、負債、資本の大小を比較する。
この場合、なるべく負債が小さく資本が大きいほうが、財政状態が良好だといえる。
(2)損益計算書(試算表の下半分)
収益と費用の大小を比較する。
収益は費用よりも大きくなければならない。
こんなの簿記の初期段階で勉強しているぞ!と怒る人もいるかもれない。しかし、そういう声を想定したように筆者はこう続ける。
<こんな簡単なことが最重要ポイントなのですから、あっけない話です。が、筆者の長年の経験によりますと、決算書を読むことを苦手にしている人というのは、たいていの場合、このような基礎的かつ根本的な知識を疎かにしていました。そのくせ、瑣末な勘定科目や経営指標を追いかけ、その結果、いたずらに決算書データを複雑化して読み、混乱してしまっているのでした。>(P.77)
「木を見て森を見ず」という言葉がある。簿記を勉強していると社債とか減価償却費とか積送品売上とか雑多な知識をたくさん覚えなければならないけれど、そうしているうちに肝心なことは吹っ飛んでしまうことがしばしばだ。それが一番の問題なのだろう。
<これは決算書に限ったことではないのですが、仕事でも勉強でも、何事も「対象物をいかに単純化して捉えるか」ということが大事です。>(P.77)
この著者の指摘はまさに至言といえよう。
本書を読んだ後で試しに企業の決算書をいくつか調べてみた。そうすると、この会社は売上原価が低いために売上総利益(粗利)が大きいな、とか、この会社は負債(借金)の比率が高くて危ないかも、などという程度の分析(というほどでもないか)はできるようになった。
複式簿記は14世紀半ばのイタリアで生まれたもので、その形式は現在とほとんど変わっていない。19世紀のドイツの詩人ゲーテは小説「「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代(上)」(山崎章甫訳、01年。岩波文庫 )で「人類最大の発明」と書いている。小さな商店から大企業に至るまで、その財務状況を1枚の決算書で表現することができる複式簿記は確かに優れた仕組みだと今更ながらに実感した次第だ。
著者は、決算書は比較してみないと面白くない、と繰り返し強調している。同じ会社を時系列に比較する、また同業他社どうしを比較してみることにより初めてその意味が見えてくるのだ。本書でもマイカルやNOVA(いずれも倒産した会社)など具体的な会社の決算書を挙げて説明しているところが非常に面白い。
本書を読んでみれば、いままで無味乾燥な数字の羅列にしか見えなかった決算書が違った印象に見えてくるだろう。これで720円(税別)ならば十二分に元がとれると言いたくなるほど、得るものが大きい本だ。下手な講演を受けるよりもまず本書を手に取ってもらえたらと思う。
日垣隆「頭は必ず良くなる」 (06年。ワックBUNKO)
2011年6月20日 読書
「2ちゃんねる」などの掲示板で、
「お前、ゆとりだろ」
という悪罵が飛ぶのを見かけたことがある。「ゆとり」とは「ゆとり教育を受けた世代」という意味で、頭が足りなそうなコメントに対してかけられる言葉だ。学習塾の日能研が電車の中吊り広告で展開した、
「ウッソー!?半径×半径×3」
という円周率の簡略化を始め、学校教育の内容がかなり薄っぺらになるということで「ゆとり教育」が世間に注目された。
1976(昭和51)年に生まれた私はもちろん円周率は「3.14」と教えられてきた。だからというわけでもないけれど、下の世代で出来の悪そうな人間を見つけたら「ゆとり」または「ゆとり風」と言ってバカにしていたものだ。しかし本書を読んで非常に衝撃的な事実を知った。それは「ゆとり教育」なるものが実施されたのは1981(昭和56)年にまでさかのぼるということだった。ということは1983(昭和58)年に小学校へ入った私も、すっかり「ゆとり教育」を受けていることになるではないか。
個人的には、「あの時代の人間は・・・」、などというような世代による分類の仕方はしていないつもりだが、今の20代で出来が悪いわりに生意気な奴(アイツとか、アイツとか)に対しては、「アレはゆとりだな」などと半分冗談、半分本気で言っている時がある。いや、そんなことをいってこみ上げる怒りを和らげようとしているのかもしれない。しかし自分も「ゆとり教育」の実施過程にいた世代だとしたら、下の連中をうかつにバカにできなくなってしまう。これは面白くない。
本書の「頭は必ず良くなる」というタイトルだけを見れば、学力はどのようにしたら伸びるか、というようなことが書かれた内容と思われるだろう。もちろんそうした話も出てくるけれど、日垣さんが脳科学者や長年教育現場にいた人などとの対談で構成したこの本は、「ゆとり教育」をはじめとした日本の教育政策がどのように失敗していったということが重大な話題になっているように私には読めた。
まず「ゆとり」という概念が生まれた背景を本書より紹介しよう。
<日垣 77年に全面改正された学習指導要領では、初めて「ゆとり教育」という言葉が出てきました。「受験戦争は悪であり、子どもを摩耗させる。受験戦争から子どもを救え!」という世論に押され、文部省(当時)の理論に「ゆとり」という発想が出てきたのです。77年の改正により、学校での学習内容が3割も減らされました。2002年には、学習内容がさらに3割も減った。現在では週休2日制が実施され、「総合学習(総合的な学習の時間)」という授業がスタートしています。70〜80年代に比べると、学校の授業はおよそ半分になってしまいました。例えば、中学英語では100個しか単語を覚えなくてよく、台形の面積など計算できなくても良いということになってしまった。>(P.223)
こうしてまず中学校では週4時間「ゆとり」の時間が新設され、英語の授業が週4時間から3時間となる。授業の削減はどんどん進み、20年の間に中学校の年間授業時間が1000時間(!)も少なくなってしまったのである。私が中学生だったのは89年4月から92年3月までの期間だが、この時点ではどれほど学習時間が減っていのだろうか。考えてみると嫌な話である。
学習時間や内容の細かいことを列挙するとキリがないけれど、当時の文部省の政策には、受験戦争や詰め込み教育が悪であるという考え方が根底にあった。だが「受験戦争」が子どもに悪い影響を与えているのだろうか。いやそもそも「受験戦争」なるもの自体がそもそも存在していたのだろうか。本書ではそのあたりに疑問を呈している。
<日垣 (中略)65〜75年には、文字どおり”受験戦争”がありました。ところがこの時期、実は少年犯罪が激減しています。受験戦争と少年犯罪の減少に、相関関係があると断言できません。しかし現実として、数字の上で少年犯罪は完全に減っています。>(P.214)
これを受けて精神科医の和田秀樹さんが、
<和田 60年代の中ごろから80年代の中ごろは、世界的に「子どもを自由にしよう」という機運がある時代でした。アメリカでは、「カフェテリア方式」といいまして、好きな科目だけをとって単位が足りたら卒業ができたり、校則をどんどんなくしたり、自主性を伸ばす勉強の仕方をどんどん導入していったのです。イギリスも同様です。日本で受験戦争が起こっていた時代に、欧米では逆に子どもを自由にしていた。そのときに不思議な現象が起こりました。ルールがゆるくなったのですから当然ですが、欧米で少年犯罪が増えてしまったのです。子どもの自殺率もものすごく増えました。アメリカでは15〜19歳の自殺率が、なんと3倍にも増えてしまいました。>(P.215)
皮肉な話だが、受験勉強の厳しかった時代の日本では少年犯罪が減少し、子どもを自由にさせた欧米は犯罪と自殺が激増したという歴史がある。この事実をどう受け止めたらいいのだろう。個人的には、まだ精神的に不安定な時期の子どもに何も方針を与えず野放しにして良い結果が出るというのはあまりにムシが良すぎる話だと感じる。子どもの自主性を尊ぶというならば、それを突き詰めると学校教育そのものが必要なくなるという話になってしまう。文部科学省が無くなるというなら、それはそれで結構かもしれないが。
そして、文部省がもう一つ決定的に見誤った点がある。それは、日本がアメリカの教育モデルを良いものとして手本にしてしまったことだ。宇多田ヒカルがコロンビア大学を入って中退した例など、アメリカの大学といえば「入るのは簡単で、出るのは難しい」というイメージで、日本の大学とは好対照で高いレベルの学力があると思われている。私もそう感じていたが、実際はそんな単純な話ではない。
<日垣 (中略)アメリカの大学生は毎週大量の本を読んでいるとか、入学は楽だけれども卒業は大変だということについて、日本ではすごく良いことのように受け止められてきました。しかし、実際はそういうことではありません。アメリカは初等中等教育に失敗したので、大学で大量の詰めこみをしなければならなかったのです。当時の日本は、初等中等教育で詰め込み教育をやったことによって、アメリカよりもずっと成功していました。それなのに「アメリカに学べ!」と学校教育のカリキュラムを減らし、子どもたちの思考力を奪ってしまった。>(P.236)
アメリカの初等教育の失敗は本当に酷いようで、読み書きのできない人が人口の13%もいるという。そういう国を日本は手本にしているのだ。
日垣さんは、
<人が何かを獲得するときに詰めこみなければ道は開けません>(P.222)
と指摘している。誰でもこれまで生きたことを振り返れば、自然とそういう結論が導かれるだろう。
現在の文部科学省は果たしてどのような観点で教育政策を考えているのかはわからない。ただ、あと1点だけ気になることを最後に指摘したい。92年に日本では「新学力観」というものが提唱された。簡単にいうと、点数で競争するのではなく、学習に取り組む姿勢を重要視するというものだ。これによって通知表のつけ方が変わり、たとえばテストの点数が良くても先生の話を聞いていないような生徒は評価が悪くなってしまう。教師の顔色をうかがうことも学習には重要になるわけだ。
また、文部科学省が押し進める「観点新評価」というものがある。生徒が先生からどう見られるか、友だちが多いかどうかといった側面まで重視されるという。友だちが多いかどうかといったら、私の評価は間違いなく「1」だろう(笑)。
それはともかく、こうしたものを眺めていると、文部科学省が子どもをどのように育てたいかがなんとなく見えてくる気がする。つまりは上に従順で協調性のある人間であろう。つくづく都合の良い話だと思う一方、学力や人間性などというものは簡単に作り出すことができないというのも一面の真実だろう。
日垣さんは、
<アメリカは、自分で物事を判断するのではなく、まわりの人に合わせる典型の社会だと思います。日本もアメリカ型の社会を目指しながら、なおかつ教育や子育ての中心に子どもの自立を置いてきました。現在、学校教育には子どもの歯止め効果がなくなり、家庭での躾(しつけ)の能力も落ちてしまった。確固たる自分をもたず、ものすごくわがままで、人に合わせることだけに長けた子どもが大量に生まれてしまっています。>(P.274-275)
私は子どもを持つこともないし、実のところ教育に対してそれほど関心があるわけではない。ただ、「確固たる自分をもたず、ものすごくわがままで、人に合わせることだけに長けた」人間は私の周囲にもちらほらいることを思うと、この国の将来ってどうなるのかなあと、ちょっとだけ暗澹たる気持ちにはなる。
「お前、ゆとりだろ」
という悪罵が飛ぶのを見かけたことがある。「ゆとり」とは「ゆとり教育を受けた世代」という意味で、頭が足りなそうなコメントに対してかけられる言葉だ。学習塾の日能研が電車の中吊り広告で展開した、
「ウッソー!?半径×半径×3」
という円周率の簡略化を始め、学校教育の内容がかなり薄っぺらになるということで「ゆとり教育」が世間に注目された。
1976(昭和51)年に生まれた私はもちろん円周率は「3.14」と教えられてきた。だからというわけでもないけれど、下の世代で出来の悪そうな人間を見つけたら「ゆとり」または「ゆとり風」と言ってバカにしていたものだ。しかし本書を読んで非常に衝撃的な事実を知った。それは「ゆとり教育」なるものが実施されたのは1981(昭和56)年にまでさかのぼるということだった。ということは1983(昭和58)年に小学校へ入った私も、すっかり「ゆとり教育」を受けていることになるではないか。
個人的には、「あの時代の人間は・・・」、などというような世代による分類の仕方はしていないつもりだが、今の20代で出来が悪いわりに生意気な奴(アイツとか、アイツとか)に対しては、「アレはゆとりだな」などと半分冗談、半分本気で言っている時がある。いや、そんなことをいってこみ上げる怒りを和らげようとしているのかもしれない。しかし自分も「ゆとり教育」の実施過程にいた世代だとしたら、下の連中をうかつにバカにできなくなってしまう。これは面白くない。
本書の「頭は必ず良くなる」というタイトルだけを見れば、学力はどのようにしたら伸びるか、というようなことが書かれた内容と思われるだろう。もちろんそうした話も出てくるけれど、日垣さんが脳科学者や長年教育現場にいた人などとの対談で構成したこの本は、「ゆとり教育」をはじめとした日本の教育政策がどのように失敗していったということが重大な話題になっているように私には読めた。
まず「ゆとり」という概念が生まれた背景を本書より紹介しよう。
<日垣 77年に全面改正された学習指導要領では、初めて「ゆとり教育」という言葉が出てきました。「受験戦争は悪であり、子どもを摩耗させる。受験戦争から子どもを救え!」という世論に押され、文部省(当時)の理論に「ゆとり」という発想が出てきたのです。77年の改正により、学校での学習内容が3割も減らされました。2002年には、学習内容がさらに3割も減った。現在では週休2日制が実施され、「総合学習(総合的な学習の時間)」という授業がスタートしています。70〜80年代に比べると、学校の授業はおよそ半分になってしまいました。例えば、中学英語では100個しか単語を覚えなくてよく、台形の面積など計算できなくても良いということになってしまった。>(P.223)
こうしてまず中学校では週4時間「ゆとり」の時間が新設され、英語の授業が週4時間から3時間となる。授業の削減はどんどん進み、20年の間に中学校の年間授業時間が1000時間(!)も少なくなってしまったのである。私が中学生だったのは89年4月から92年3月までの期間だが、この時点ではどれほど学習時間が減っていのだろうか。考えてみると嫌な話である。
学習時間や内容の細かいことを列挙するとキリがないけれど、当時の文部省の政策には、受験戦争や詰め込み教育が悪であるという考え方が根底にあった。だが「受験戦争」が子どもに悪い影響を与えているのだろうか。いやそもそも「受験戦争」なるもの自体がそもそも存在していたのだろうか。本書ではそのあたりに疑問を呈している。
<日垣 (中略)65〜75年には、文字どおり”受験戦争”がありました。ところがこの時期、実は少年犯罪が激減しています。受験戦争と少年犯罪の減少に、相関関係があると断言できません。しかし現実として、数字の上で少年犯罪は完全に減っています。>(P.214)
これを受けて精神科医の和田秀樹さんが、
<和田 60年代の中ごろから80年代の中ごろは、世界的に「子どもを自由にしよう」という機運がある時代でした。アメリカでは、「カフェテリア方式」といいまして、好きな科目だけをとって単位が足りたら卒業ができたり、校則をどんどんなくしたり、自主性を伸ばす勉強の仕方をどんどん導入していったのです。イギリスも同様です。日本で受験戦争が起こっていた時代に、欧米では逆に子どもを自由にしていた。そのときに不思議な現象が起こりました。ルールがゆるくなったのですから当然ですが、欧米で少年犯罪が増えてしまったのです。子どもの自殺率もものすごく増えました。アメリカでは15〜19歳の自殺率が、なんと3倍にも増えてしまいました。>(P.215)
皮肉な話だが、受験勉強の厳しかった時代の日本では少年犯罪が減少し、子どもを自由にさせた欧米は犯罪と自殺が激増したという歴史がある。この事実をどう受け止めたらいいのだろう。個人的には、まだ精神的に不安定な時期の子どもに何も方針を与えず野放しにして良い結果が出るというのはあまりにムシが良すぎる話だと感じる。子どもの自主性を尊ぶというならば、それを突き詰めると学校教育そのものが必要なくなるという話になってしまう。文部科学省が無くなるというなら、それはそれで結構かもしれないが。
そして、文部省がもう一つ決定的に見誤った点がある。それは、日本がアメリカの教育モデルを良いものとして手本にしてしまったことだ。宇多田ヒカルがコロンビア大学を入って中退した例など、アメリカの大学といえば「入るのは簡単で、出るのは難しい」というイメージで、日本の大学とは好対照で高いレベルの学力があると思われている。私もそう感じていたが、実際はそんな単純な話ではない。
<日垣 (中略)アメリカの大学生は毎週大量の本を読んでいるとか、入学は楽だけれども卒業は大変だということについて、日本ではすごく良いことのように受け止められてきました。しかし、実際はそういうことではありません。アメリカは初等中等教育に失敗したので、大学で大量の詰めこみをしなければならなかったのです。当時の日本は、初等中等教育で詰め込み教育をやったことによって、アメリカよりもずっと成功していました。それなのに「アメリカに学べ!」と学校教育のカリキュラムを減らし、子どもたちの思考力を奪ってしまった。>(P.236)
アメリカの初等教育の失敗は本当に酷いようで、読み書きのできない人が人口の13%もいるという。そういう国を日本は手本にしているのだ。
日垣さんは、
<人が何かを獲得するときに詰めこみなければ道は開けません>(P.222)
と指摘している。誰でもこれまで生きたことを振り返れば、自然とそういう結論が導かれるだろう。
現在の文部科学省は果たしてどのような観点で教育政策を考えているのかはわからない。ただ、あと1点だけ気になることを最後に指摘したい。92年に日本では「新学力観」というものが提唱された。簡単にいうと、点数で競争するのではなく、学習に取り組む姿勢を重要視するというものだ。これによって通知表のつけ方が変わり、たとえばテストの点数が良くても先生の話を聞いていないような生徒は評価が悪くなってしまう。教師の顔色をうかがうことも学習には重要になるわけだ。
また、文部科学省が押し進める「観点新評価」というものがある。生徒が先生からどう見られるか、友だちが多いかどうかといった側面まで重視されるという。友だちが多いかどうかといったら、私の評価は間違いなく「1」だろう(笑)。
それはともかく、こうしたものを眺めていると、文部科学省が子どもをどのように育てたいかがなんとなく見えてくる気がする。つまりは上に従順で協調性のある人間であろう。つくづく都合の良い話だと思う一方、学力や人間性などというものは簡単に作り出すことができないというのも一面の真実だろう。
日垣さんは、
<アメリカは、自分で物事を判断するのではなく、まわりの人に合わせる典型の社会だと思います。日本もアメリカ型の社会を目指しながら、なおかつ教育や子育ての中心に子どもの自立を置いてきました。現在、学校教育には子どもの歯止め効果がなくなり、家庭での躾(しつけ)の能力も落ちてしまった。確固たる自分をもたず、ものすごくわがままで、人に合わせることだけに長けた子どもが大量に生まれてしまっています。>(P.274-275)
私は子どもを持つこともないし、実のところ教育に対してそれほど関心があるわけではない。ただ、「確固たる自分をもたず、ものすごくわがままで、人に合わせることだけに長けた」人間は私の周囲にもちらほらいることを思うと、この国の将来ってどうなるのかなあと、ちょっとだけ暗澹たる気持ちにはなる。
日垣隆「電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。」(11年、講談社)
2011年5月31日 読書
今日をもって、部屋に宅配してもらっている新聞を終わりにした。これからまた新聞を購読することは、少なくとも紙の新聞という形では、もうないだろう。今年の4月まで新聞社の子会社で働いていた関係上とらざるをえなかったが、そういう「しがらみ」も無くなったことだし、スッパリと断ち切ったわけだ。
作家•ジャーナリストの日垣隆さんはこれまでの著書や有料メルマガなどで新聞の不毛さを指摘し続けてきた。そして、今年の4月28日(私が前の会社を出た最後の日)に発売された本書はその極めつけとなっている。これを読んでしまったら、もはや新聞の存在意義など吹っ飛んでしまうこと間違いない。本日は私にとっての「新聞購読最期の日」であるため、これを記念して本書を紹介してみたい。
新聞業界の先行きについて書かれた本で、歌川令三「新聞がなくなる日」(05年、草思社)というものがある。これも日垣さんの「すぐに稼げる文章術」(06年、幻冬舎文庫)で紹介されていたものだが、毎日新聞社に長年勤めていた人が新聞業界の過去•現在•未来について論じている。
この本の冒頭で日本の新聞がたどった歴史が触れられている。それによれば日本最古の「日刊新聞」は1830(明治3)年の「横浜毎日新聞」だという。「グーテンベルクの活版印刷術を用いた最古の日刊紙」(本書P.17)だ。ちなみに横浜が新聞誕生の地ということで「日本新聞博物館」が00年10月に設立されている。
我が国における新聞普及の速度はかなり速かった。江戸時代から民衆の識字率は高かったうえに、売り捌き店(新聞販売店)も全国に広がって行く。そして日本独自の新聞経営は20世紀初頭で早くも確立される。きっかけは1904年から05年に起きた日露戦争だった。当時の新聞は戦況を伝える唯一のメディアだったからである。日清戦争から日露戦争までの10年間で新聞の部数は10倍にふくれあがる。
肝心の新聞経営のことだが、当時ですでに以下のようなシステムができあがっている(以下はP.19-20より)。
•部数増のおかげて、個別配達網が確立した。
•月極め読者獲得のための販売合戦が激化した。拡張のためには付録や増ページなど何でもありの企業文化ができ上がった。1907年、時事新報は創刊25周年記念号でページ数が200を超える新聞を発行。この記録はいまだに破られていない。
•手動の平版印刷機の代わりに、輪転機が導入された。
•多色刷りのカラー印刷が始まった。
•広告集めが軌道に乗った(広告代理店「電通」の前身、「日本広告」が1901年に誕生)。
•新聞販売促進策として、美人コンクール、遠泳大会、四国八十八箇所の巡礼競争、全国テニス大会などの事業部門が開設された。
宅配新聞、新聞広告、輪転機にカラー印刷、文化事業など、現在も新聞社でおこなわれている業務の基礎は全てこの時代にできあがっているといえよう。特に新聞業界の安定的な経営の柱となった宅配新聞制度は重要だ。「まだラジオもなかった頃、すでに、世界一の戸別配達制度ができ上がっていた」(P,20)のである。著者はこうした新聞の経営法を「日露戦争式ビジネスモデル」または「20世紀モデル」と称している。
このビジネスモデルはなかなか強固で完成度の高いもので、1950年代にテレビという新たなメディアが登場したときも、その親会社となったり「◯◯新聞」の冠付きのニュースを流したりして、依然マスコミの王者に君臨していた。その間に新聞社で大きな技術革新といえば1980年にコンピューターによる新聞制作技術が開発され、鉛の活字の存在が消えたことだろうか。新聞制作にも「デジタル化」が押し寄せたわけだが、明治以来のビジネスモデルはそれ以外にほとんど変化することがなかった。新聞の経営モデルはそれくらい「凄かった」のである。あくまで過去形ではあるが。
しかしそれに翳りが見えたのは「インターネット元年」と言われた1996年であろう。かくいう私も「インターネット」なるものを触ったのもこの年であった。これを機会に新聞は、いやテレビをはじめ旧来のメディアは軒並み経営が右肩下がりとなっていく。著者が新聞を「20世紀モデル」と表現したのは実に見事というしかない。つまり、21世紀には通用しないものだからである。テレビもラジオもアナログからデジタルに移行しつつある中、新聞だけが取り残されている。かつては強みであった20世紀モデルのあちこちに綻びが出てきているからだ。では、ここからは日垣さんの指摘を紹介しよう。
<新聞業界は落ちるところまで落ちたかに見えるが、違う。さらに深い奈落の底がある。
かつてなら新聞をとらないと恥ずかしい思いをせざるをえない時代があった。けれども、今はそんなことはない。ネットで充分と考える賢明な人が圧倒的になった。
もともと宅配新聞は、自ら新聞を選ぶ頭脳さえ使わない、単なる「習慣だった」と本当のことを言ったのである。
(中略)
私も宅配新聞を読む習慣を経って久しい。新聞は知恵を研鑽する手段としてはもう役割を終えた。
晩酌と等価の習慣にすぎない。>(P.99-100)
宅配新聞は習慣であると喝破したのはさすがだが、私自身を例にすれば「習慣」のレベルにすら至らなかったといえる。毎日届けられる新聞も広げることは滅多にない。そのまま古紙回収に出すか、近所の居酒屋のキッチンに敷かれて活用されるかのどちらかだった。しかしそれでも仕事をするのにほとんど支障がなかった(新聞業界の片隅で働いていたのにもかかわらず!)。また、毎日読んでるからといって仕事ができるというわけでもない、という事実も付け加えておこう。
日垣さんは続ける。
<そもそも新聞は、必要なのだろうか。
いや、実はもう13年ほど前に私の結論は出ている。
必要など、ない。>(P.103)
文章はさらに続く、しかも徹底的に。
<新聞社の方々にお聞きしたい。
なぜ毎日毎日「同じ量のニュース」があるのか。逆に談合による一斉休刊日には、なぜ一行もないのですかねえ。
私も、よく取材されることがある。一昨日も、昨日も、依頼があった。ここのところ7年ほど、新聞社からの取材は原則断っている。
つまらないからだ。
記事もつまらないし、大切なことを、わかりやすく喋っても、新聞記者の多くは、摩訶不思議な教育機関でもあるのか、コメントをつまらなく縮める技に秀でている。
これは大変な技術かもしれない。すごい伝統だ。
間違って数日前、西日本新聞の取材を受けてしまった。テーマがおもしろそうだったからだ。けれども長大な記事を見て、やっぱりこうなるのかと思った。
見事に、つまらないものに化けていたからである。すべて電話かメールの取材だろう。直接合っていたら、ここまで阿呆な記事にはなりえない。なるのかな(笑)
雑誌で酷い取材者もいるけれど、新聞ほどではない。経験上、それは断言できる。>(P.103-104)
<雑誌だった、本だって、つまらないものが多いではないか、という反論もあろうかと思う。
ならば、買わなければいい。
そういうふうになっている。
新聞だけは、宅配制度と、再販制度による景品物量作戦で、かろうじて延命しているにすぎない。>(P.106)
<なぜ新聞各紙の中身が8割方も酷似したものになるかと言えば、昔から「黒板協定」だの「ぶら下がり」だのという各種談合を各社が繰り返してきたからだ。>(P.113)
<満州事変を機にポツダム宣言受諾まで新聞統制が行われ、いわゆる「1県1紙」となったわけだが、この独禁法違反としか思えぬ状況は、今でも維持されている。
重大な、そして恥ずべき既得権益だ。おおむね各県で一つだけの地方紙が独占を未だ継承しているため、地方紙のほうが全国紙より部数の減少が穏やかなのである。>(P.128)
<テレビの凋落が激しいと言われる。しかし、やはり同時にナマで見るという連帯感にかなうものはない。一方、デンマーク戦(引用者注:サッカーW杯南アフリカ大会のこと)翌日の新聞は、日経新聞電子版が5時35分に第一報をブチこめただけで、5時にiPhoneで配信される産経新聞を始め、宅配の全国紙•地方紙は「サッカー」などまるで行われていないかのような紙面作りになっていた。
笑える。
新聞の武器は速報性だったはずだ。そこにテレビがとってかわり、正確性や掘り下げなどが付加価値と胸を張るようになった。だが、何も書けないジレンマに今、何の価値があるというのだろう。>(P.189-190)
引用ばかりで恐縮だが、これだけ読めばもう充分ではないだろうか。私はかつて、新聞をちゃんと読もうと思った時期がないわけではないが、ついに行動に移すことがなかった。それは私自身の怠惰と思っていたけれど、どうやら違っていたようだ。
やはり、新聞の中身が面白くないから。これに尽きる。
そして日垣さんはその理由を余す事無く伝えている。記者クラブや新聞協定や宅配新聞や「1県1紙」などの悪習、その日その日の報告をするだけでデータベースの価値しかない記事内容、そして速報性においても他メディアから大きく遅れを取っている、などなど•••。こんなメディアだから広告だってどんどん離れていく。
私の周囲で新聞を購読している人はほとんどいない。そして私もそこに加わった。しかし、それは当然の結果であろう。
これに対して、新聞業界はこのような指摘に負けることなく、また20世紀の(笑)黄金時代を取り戻すことができるだろうか。私はそう思わないのでこの世界から身を引いたわけである。
たぶん浮上しないだろう。なぜならば、この業界は人的資源も実に乏しいからだ。新聞社の子会社という現場の片隅の片隅にいたから、それは多少はわかる(笑)。
「せめて自分が退職までは大丈夫だろう•••」
そう願って、あれから10年もこの先10年も、新聞業界にしがみつこうとお考えの方には「頑張ってね!」という言葉しか私はもっていない。こういう人は直下型地震が起きても自分だけは無事だと根拠もなく考える人種だから、もはや救う方法はないのである。
それにしても、この本はもっと色々なことが書いてあるのだが、新聞のことに特化してしまった。著者には少し失礼だったかもしれないが、あまりに指摘がすごかったのでご了承いただきたい。
作家•ジャーナリストの日垣隆さんはこれまでの著書や有料メルマガなどで新聞の不毛さを指摘し続けてきた。そして、今年の4月28日(私が前の会社を出た最後の日)に発売された本書はその極めつけとなっている。これを読んでしまったら、もはや新聞の存在意義など吹っ飛んでしまうこと間違いない。本日は私にとっての「新聞購読最期の日」であるため、これを記念して本書を紹介してみたい。
新聞業界の先行きについて書かれた本で、歌川令三「新聞がなくなる日」(05年、草思社)というものがある。これも日垣さんの「すぐに稼げる文章術」(06年、幻冬舎文庫)で紹介されていたものだが、毎日新聞社に長年勤めていた人が新聞業界の過去•現在•未来について論じている。
この本の冒頭で日本の新聞がたどった歴史が触れられている。それによれば日本最古の「日刊新聞」は1830(明治3)年の「横浜毎日新聞」だという。「グーテンベルクの活版印刷術を用いた最古の日刊紙」(本書P.17)だ。ちなみに横浜が新聞誕生の地ということで「日本新聞博物館」が00年10月に設立されている。
我が国における新聞普及の速度はかなり速かった。江戸時代から民衆の識字率は高かったうえに、売り捌き店(新聞販売店)も全国に広がって行く。そして日本独自の新聞経営は20世紀初頭で早くも確立される。きっかけは1904年から05年に起きた日露戦争だった。当時の新聞は戦況を伝える唯一のメディアだったからである。日清戦争から日露戦争までの10年間で新聞の部数は10倍にふくれあがる。
肝心の新聞経営のことだが、当時ですでに以下のようなシステムができあがっている(以下はP.19-20より)。
•部数増のおかげて、個別配達網が確立した。
•月極め読者獲得のための販売合戦が激化した。拡張のためには付録や増ページなど何でもありの企業文化ができ上がった。1907年、時事新報は創刊25周年記念号でページ数が200を超える新聞を発行。この記録はいまだに破られていない。
•手動の平版印刷機の代わりに、輪転機が導入された。
•多色刷りのカラー印刷が始まった。
•広告集めが軌道に乗った(広告代理店「電通」の前身、「日本広告」が1901年に誕生)。
•新聞販売促進策として、美人コンクール、遠泳大会、四国八十八箇所の巡礼競争、全国テニス大会などの事業部門が開設された。
宅配新聞、新聞広告、輪転機にカラー印刷、文化事業など、現在も新聞社でおこなわれている業務の基礎は全てこの時代にできあがっているといえよう。特に新聞業界の安定的な経営の柱となった宅配新聞制度は重要だ。「まだラジオもなかった頃、すでに、世界一の戸別配達制度ができ上がっていた」(P,20)のである。著者はこうした新聞の経営法を「日露戦争式ビジネスモデル」または「20世紀モデル」と称している。
このビジネスモデルはなかなか強固で完成度の高いもので、1950年代にテレビという新たなメディアが登場したときも、その親会社となったり「◯◯新聞」の冠付きのニュースを流したりして、依然マスコミの王者に君臨していた。その間に新聞社で大きな技術革新といえば1980年にコンピューターによる新聞制作技術が開発され、鉛の活字の存在が消えたことだろうか。新聞制作にも「デジタル化」が押し寄せたわけだが、明治以来のビジネスモデルはそれ以外にほとんど変化することがなかった。新聞の経営モデルはそれくらい「凄かった」のである。あくまで過去形ではあるが。
しかしそれに翳りが見えたのは「インターネット元年」と言われた1996年であろう。かくいう私も「インターネット」なるものを触ったのもこの年であった。これを機会に新聞は、いやテレビをはじめ旧来のメディアは軒並み経営が右肩下がりとなっていく。著者が新聞を「20世紀モデル」と表現したのは実に見事というしかない。つまり、21世紀には通用しないものだからである。テレビもラジオもアナログからデジタルに移行しつつある中、新聞だけが取り残されている。かつては強みであった20世紀モデルのあちこちに綻びが出てきているからだ。では、ここからは日垣さんの指摘を紹介しよう。
<新聞業界は落ちるところまで落ちたかに見えるが、違う。さらに深い奈落の底がある。
かつてなら新聞をとらないと恥ずかしい思いをせざるをえない時代があった。けれども、今はそんなことはない。ネットで充分と考える賢明な人が圧倒的になった。
もともと宅配新聞は、自ら新聞を選ぶ頭脳さえ使わない、単なる「習慣だった」と本当のことを言ったのである。
(中略)
私も宅配新聞を読む習慣を経って久しい。新聞は知恵を研鑽する手段としてはもう役割を終えた。
晩酌と等価の習慣にすぎない。>(P.99-100)
宅配新聞は習慣であると喝破したのはさすがだが、私自身を例にすれば「習慣」のレベルにすら至らなかったといえる。毎日届けられる新聞も広げることは滅多にない。そのまま古紙回収に出すか、近所の居酒屋のキッチンに敷かれて活用されるかのどちらかだった。しかしそれでも仕事をするのにほとんど支障がなかった(新聞業界の片隅で働いていたのにもかかわらず!)。また、毎日読んでるからといって仕事ができるというわけでもない、という事実も付け加えておこう。
日垣さんは続ける。
<そもそも新聞は、必要なのだろうか。
いや、実はもう13年ほど前に私の結論は出ている。
必要など、ない。>(P.103)
文章はさらに続く、しかも徹底的に。
<新聞社の方々にお聞きしたい。
なぜ毎日毎日「同じ量のニュース」があるのか。逆に談合による一斉休刊日には、なぜ一行もないのですかねえ。
私も、よく取材されることがある。一昨日も、昨日も、依頼があった。ここのところ7年ほど、新聞社からの取材は原則断っている。
つまらないからだ。
記事もつまらないし、大切なことを、わかりやすく喋っても、新聞記者の多くは、摩訶不思議な教育機関でもあるのか、コメントをつまらなく縮める技に秀でている。
これは大変な技術かもしれない。すごい伝統だ。
間違って数日前、西日本新聞の取材を受けてしまった。テーマがおもしろそうだったからだ。けれども長大な記事を見て、やっぱりこうなるのかと思った。
見事に、つまらないものに化けていたからである。すべて電話かメールの取材だろう。直接合っていたら、ここまで阿呆な記事にはなりえない。なるのかな(笑)
雑誌で酷い取材者もいるけれど、新聞ほどではない。経験上、それは断言できる。>(P.103-104)
<雑誌だった、本だって、つまらないものが多いではないか、という反論もあろうかと思う。
ならば、買わなければいい。
そういうふうになっている。
新聞だけは、宅配制度と、再販制度による景品物量作戦で、かろうじて延命しているにすぎない。>(P.106)
<なぜ新聞各紙の中身が8割方も酷似したものになるかと言えば、昔から「黒板協定」だの「ぶら下がり」だのという各種談合を各社が繰り返してきたからだ。>(P.113)
<満州事変を機にポツダム宣言受諾まで新聞統制が行われ、いわゆる「1県1紙」となったわけだが、この独禁法違反としか思えぬ状況は、今でも維持されている。
重大な、そして恥ずべき既得権益だ。おおむね各県で一つだけの地方紙が独占を未だ継承しているため、地方紙のほうが全国紙より部数の減少が穏やかなのである。>(P.128)
<テレビの凋落が激しいと言われる。しかし、やはり同時にナマで見るという連帯感にかなうものはない。一方、デンマーク戦(引用者注:サッカーW杯南アフリカ大会のこと)翌日の新聞は、日経新聞電子版が5時35分に第一報をブチこめただけで、5時にiPhoneで配信される産経新聞を始め、宅配の全国紙•地方紙は「サッカー」などまるで行われていないかのような紙面作りになっていた。
笑える。
新聞の武器は速報性だったはずだ。そこにテレビがとってかわり、正確性や掘り下げなどが付加価値と胸を張るようになった。だが、何も書けないジレンマに今、何の価値があるというのだろう。>(P.189-190)
引用ばかりで恐縮だが、これだけ読めばもう充分ではないだろうか。私はかつて、新聞をちゃんと読もうと思った時期がないわけではないが、ついに行動に移すことがなかった。それは私自身の怠惰と思っていたけれど、どうやら違っていたようだ。
やはり、新聞の中身が面白くないから。これに尽きる。
そして日垣さんはその理由を余す事無く伝えている。記者クラブや新聞協定や宅配新聞や「1県1紙」などの悪習、その日その日の報告をするだけでデータベースの価値しかない記事内容、そして速報性においても他メディアから大きく遅れを取っている、などなど•••。こんなメディアだから広告だってどんどん離れていく。
私の周囲で新聞を購読している人はほとんどいない。そして私もそこに加わった。しかし、それは当然の結果であろう。
これに対して、新聞業界はこのような指摘に負けることなく、また20世紀の(笑)黄金時代を取り戻すことができるだろうか。私はそう思わないのでこの世界から身を引いたわけである。
たぶん浮上しないだろう。なぜならば、この業界は人的資源も実に乏しいからだ。新聞社の子会社という現場の片隅の片隅にいたから、それは多少はわかる(笑)。
「せめて自分が退職までは大丈夫だろう•••」
そう願って、あれから10年もこの先10年も、新聞業界にしがみつこうとお考えの方には「頑張ってね!」という言葉しか私はもっていない。こういう人は直下型地震が起きても自分だけは無事だと根拠もなく考える人種だから、もはや救う方法はないのである。
それにしても、この本はもっと色々なことが書いてあるのだが、新聞のことに特化してしまった。著者には少し失礼だったかもしれないが、あまりに指摘がすごかったのでご了承いただきたい。
日垣隆「折れそうな心の鍛え方」(09年。幻冬舎新書)
2011年4月27日 読書
作家・ジャーナリストの日垣隆さんは、その徹底的な取材と緻密な構成で知られている。その文章は素人目からすれば、どうやったらここまで調べられるのか想像もつかないほどクオリティが高い。またむやみに「批判」をしてきた相手に対してはコッパミジンに叩き潰すことでも有名だ。また、その行動力もずば抜けており、先月はリビア、そして震災後の東北地方など誰も行きたがらない(行けそうにない)場所も取材してきた。
パッと見る限りは相当にタフな精神と体の持ち主に見える日垣さんであるが、いまから5年前(06年)に「ウツ」に襲われる。その25年前にも経験しているというから2度目のウツだ。
しかし通常ならば精神科医に相談するところだが、日垣さんは医者やクスリに頼らず「ウツ」と戦うという選択をする。それはなぜか。
<ウツ病は英語でdepression、不況にも同じ言葉が使われています。
「不況」という概念は、市場経済が成立した近代以降にできあがったものです。「ウツ」も近代の成立に伴って、「ウツ病」という病気になりました。
「病気」は医者によって「発見」され、「ラベリング」されて誕生します。診断して処方することが医療関係者の「フレームワーク」ですから、当然の話です。>(P.18)
<そもそもウツ病かどうかは、医者が一方的に決めつけるにすぎません。>(P.10)
ちなみに、「落ち込みの症状が2週間続けば、ウツ病として判断してよい」ことになっているという。
ここで注意をしなければならないのは、日垣さんが戦ったのは「ウツ病」ではなく「ウツ」ということだ。誰が見ても病気という状態ならば即刻医者と相談しなければならないだろうが、「ウツ」はその病気か病気でないかの境界線上にある状態といえる。
<例えば悲しい出来事に見舞われ、ひどいショックを受け、しばらくの間、ろくに食べられない、眠れない人がいても、それはごく自然な感情の発露だと私は思います。
落ち込みからウツ状態までの微妙なグラデーションは、もしかすると人間の精神の正常なありかたかもしれないのです。>(P.11)
「ウツ病」になったことがない人(私もそうだ)も、上のような前段階を過去に経験した人がほとんどではないだろうか。また、それが人間であろう。
<本書で言うところの「ウツ」は、日常的な「落ち込み」の連続線上にあり、「ウツ病」とは一線を画すものです。
誰もがウツになるのでしょうか?ーそういうわけでは、もちろんありません。
では、誰もがなりうるのか?ーもちろん、そうです。
ウツを確実に避ける方法はあるのでしょうか?ーそんなものは、ないと思います。>(P.13)
<ウツの原因は、言ってみればインフルエンザ・ウイルスのようなもので、いつ何時、誰が罹患するかわからないほど日常に溢れています。インフルエンザに限らず、ウイルスは常に変異しますから、100パーセント完璧な予防ワクチンというものはありません。>(P.14)
本書は、日垣さんが自分がウツから立ち直った経験をもとに、50のノウハウが紹介されている。その中でも「これが肝心」と思った箇所は、たとえばストレスの定義が三者三様(例えばシイタケは私にとってストレスになる)であるように、「ウツ」の原因となるものも人によって違うということだ。
<これはおそらく、人は誰でも、強さと弱さがまだらに存在するとは、人それぞれ「このポイントには強いが、このポイントには弱い」という、ダメージ・パターンがあるということ。
(中略)
心を鍛えるには、どんなことで折れやすいか、自分のダメージ・パターンを知り、そこを補強するトレーニングをしていくのがいいでしょう。>(P.31)
ウツの原因も人それぞれならば、その対処法も人によって個々に違ってくるのは道理である。となれば結局のところ、家族や友人や医者の協力を得るとしても、ウツを克服できるかどうかは自分しだいということになるかもしれない。
「ウツ」の予防については、
<一番良い「予防」とは、栄養をとり、日々、体を鍛えておくことです。>(P.14)
と書いている。月並みな話になるが、日々の生活を大切にし、自分の弱いところなどを把握していくことが最も確実な予防法になるのだろう。
現時点では、自分がウツのなりそうな兆候は全くない。ただ、これから生きてくなかでウツに近い状態になることも出てくる可能性は否定できない。周囲の友人にもそんな人が出てくることだってあるだろう。最悪な状態になった時のことを頭に入れておくことは思いのほか重要なことだ。この本を読みながら、そんなことをつくづく思った。
今回、自分は人生の節目になったこともあり、この日記を読んでいる方すべての人にこの本を捧げたい。もし気持ちが落ち込みそうになった時、必ず役立つ部分が本書にはたくさん詰まっているからだ。
皆さんの今後のご健勝を祈りたい。
パッと見る限りは相当にタフな精神と体の持ち主に見える日垣さんであるが、いまから5年前(06年)に「ウツ」に襲われる。その25年前にも経験しているというから2度目のウツだ。
しかし通常ならば精神科医に相談するところだが、日垣さんは医者やクスリに頼らず「ウツ」と戦うという選択をする。それはなぜか。
<ウツ病は英語でdepression、不況にも同じ言葉が使われています。
「不況」という概念は、市場経済が成立した近代以降にできあがったものです。「ウツ」も近代の成立に伴って、「ウツ病」という病気になりました。
「病気」は医者によって「発見」され、「ラベリング」されて誕生します。診断して処方することが医療関係者の「フレームワーク」ですから、当然の話です。>(P.18)
<そもそもウツ病かどうかは、医者が一方的に決めつけるにすぎません。>(P.10)
ちなみに、「落ち込みの症状が2週間続けば、ウツ病として判断してよい」ことになっているという。
ここで注意をしなければならないのは、日垣さんが戦ったのは「ウツ病」ではなく「ウツ」ということだ。誰が見ても病気という状態ならば即刻医者と相談しなければならないだろうが、「ウツ」はその病気か病気でないかの境界線上にある状態といえる。
<例えば悲しい出来事に見舞われ、ひどいショックを受け、しばらくの間、ろくに食べられない、眠れない人がいても、それはごく自然な感情の発露だと私は思います。
落ち込みからウツ状態までの微妙なグラデーションは、もしかすると人間の精神の正常なありかたかもしれないのです。>(P.11)
「ウツ病」になったことがない人(私もそうだ)も、上のような前段階を過去に経験した人がほとんどではないだろうか。また、それが人間であろう。
<本書で言うところの「ウツ」は、日常的な「落ち込み」の連続線上にあり、「ウツ病」とは一線を画すものです。
誰もがウツになるのでしょうか?ーそういうわけでは、もちろんありません。
では、誰もがなりうるのか?ーもちろん、そうです。
ウツを確実に避ける方法はあるのでしょうか?ーそんなものは、ないと思います。>(P.13)
<ウツの原因は、言ってみればインフルエンザ・ウイルスのようなもので、いつ何時、誰が罹患するかわからないほど日常に溢れています。インフルエンザに限らず、ウイルスは常に変異しますから、100パーセント完璧な予防ワクチンというものはありません。>(P.14)
本書は、日垣さんが自分がウツから立ち直った経験をもとに、50のノウハウが紹介されている。その中でも「これが肝心」と思った箇所は、たとえばストレスの定義が三者三様(例えばシイタケは私にとってストレスになる)であるように、「ウツ」の原因となるものも人によって違うということだ。
<これはおそらく、人は誰でも、強さと弱さがまだらに存在するとは、人それぞれ「このポイントには強いが、このポイントには弱い」という、ダメージ・パターンがあるということ。
(中略)
心を鍛えるには、どんなことで折れやすいか、自分のダメージ・パターンを知り、そこを補強するトレーニングをしていくのがいいでしょう。>(P.31)
ウツの原因も人それぞれならば、その対処法も人によって個々に違ってくるのは道理である。となれば結局のところ、家族や友人や医者の協力を得るとしても、ウツを克服できるかどうかは自分しだいということになるかもしれない。
「ウツ」の予防については、
<一番良い「予防」とは、栄養をとり、日々、体を鍛えておくことです。>(P.14)
と書いている。月並みな話になるが、日々の生活を大切にし、自分の弱いところなどを把握していくことが最も確実な予防法になるのだろう。
現時点では、自分がウツのなりそうな兆候は全くない。ただ、これから生きてくなかでウツに近い状態になることも出てくる可能性は否定できない。周囲の友人にもそんな人が出てくることだってあるだろう。最悪な状態になった時のことを頭に入れておくことは思いのほか重要なことだ。この本を読みながら、そんなことをつくづく思った。
今回、自分は人生の節目になったこともあり、この日記を読んでいる方すべての人にこの本を捧げたい。もし気持ちが落ち込みそうになった時、必ず役立つ部分が本書にはたくさん詰まっているからだ。
皆さんの今後のご健勝を祈りたい。