人名漢字
2006年3月31日常用漢字には入っていない「矜持」という名前を子供につけるのを役場が受理しなかった件で愛知県の教員が国に賠償を求めた裁判は、
「人名には広く社会に通用する文字が用いられる必要があり、平易な文字に制限することは合理的でやむを得ず、憲法違反とは言えない」
という理由で請求は棄却された。きわめて妥当な判決といえる。常用漢字だから話は分かりにくく感じるかもしれないが、ではアルファベットやハングル文字を人名に使ってもいいのかといえば、認めても良いという考えの人はあまりいないだろう。それと同じことである。国家という枠組みがある以上、どこかで線引きをすることはやむを得ない。
これに対して原告の小学校教諭は控訴をする方針だ。人名に使える漢字を制限するのは「表現の自由」を保障する憲法に違反する、という主張である。
この話を聞いて思い出したのは、自分の子供に「悪魔」という名前をつけようとしたあの事例についてである。「悪」も「魔」も常用漢字であり、法的には何の問題も無い。だが役場は受理をしなかった。そしてこの件もまた裁判になったが、親が命名権を濫用しているという理由で却下された。おかしな名前を持てば将来にわたっていじめに遭うおそれがあるというのが判決の主な理由で、世間も裁判所を支持する声が大半だった。私も個人的には悪趣味な話と感じる。しかし法律に考えるならば話は別で、受理するべきという立場である。常用漢字の範囲内でつけた名前なので問題は無いからだ。
「悪魔くん」騒動について井上ひさしが「ニホン語日記2」(文春文庫)に書いてあることが自分には最も説得力がある。井上は、「悪魔」という名がついた子供が不幸になるかもしれない、という意見に対しこう述べている。
自由は、不幸になる自由さえも含んでいるのだ。自由にはいいことばかりあるわけではなく、その自由のせいで不幸になるかもしれない。だからこそ自由の二文字は重いのだ。したがってもしも悪魔くんがその名前のせいで不幸になるかもしれないとしても、それを親が選んだのであればそのまま放置しておくのが真の自由社会というものである。やがて成長した悪魔くんが、「よくもこんな名前をつけてくれたな、死ね」と親を飛び蹴りなんかで襲うかもしれないが、そのときはあえて蹴られでもなんでもしてやろうと親が決心しているなら、傍らの者がなにを言う必要があるだろう。
軽々しく「表現の自由」などと主張してはならないのである。
「人名には広く社会に通用する文字が用いられる必要があり、平易な文字に制限することは合理的でやむを得ず、憲法違反とは言えない」
という理由で請求は棄却された。きわめて妥当な判決といえる。常用漢字だから話は分かりにくく感じるかもしれないが、ではアルファベットやハングル文字を人名に使ってもいいのかといえば、認めても良いという考えの人はあまりいないだろう。それと同じことである。国家という枠組みがある以上、どこかで線引きをすることはやむを得ない。
これに対して原告の小学校教諭は控訴をする方針だ。人名に使える漢字を制限するのは「表現の自由」を保障する憲法に違反する、という主張である。
この話を聞いて思い出したのは、自分の子供に「悪魔」という名前をつけようとしたあの事例についてである。「悪」も「魔」も常用漢字であり、法的には何の問題も無い。だが役場は受理をしなかった。そしてこの件もまた裁判になったが、親が命名権を濫用しているという理由で却下された。おかしな名前を持てば将来にわたっていじめに遭うおそれがあるというのが判決の主な理由で、世間も裁判所を支持する声が大半だった。私も個人的には悪趣味な話と感じる。しかし法律に考えるならば話は別で、受理するべきという立場である。常用漢字の範囲内でつけた名前なので問題は無いからだ。
「悪魔くん」騒動について井上ひさしが「ニホン語日記2」(文春文庫)に書いてあることが自分には最も説得力がある。井上は、「悪魔」という名がついた子供が不幸になるかもしれない、という意見に対しこう述べている。
自由は、不幸になる自由さえも含んでいるのだ。自由にはいいことばかりあるわけではなく、その自由のせいで不幸になるかもしれない。だからこそ自由の二文字は重いのだ。したがってもしも悪魔くんがその名前のせいで不幸になるかもしれないとしても、それを親が選んだのであればそのまま放置しておくのが真の自由社会というものである。やがて成長した悪魔くんが、「よくもこんな名前をつけてくれたな、死ね」と親を飛び蹴りなんかで襲うかもしれないが、そのときはあえて蹴られでもなんでもしてやろうと親が決心しているなら、傍らの者がなにを言う必要があるだろう。
軽々しく「表現の自由」などと主張してはならないのである。
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