(1)星の下 路の上 (album ver.)
(2)荒地の何処かで
(3)君が気高い孤独なら
(4)折れた翼
(5)呼吸
(6)ラジオ・デイズ
(7)Us
(8)夜空の果てまで
(9)壊れた振り子
(10)世界は誰の為に (album ver.)
(11)コヨーテ、海へ
(12)黄金色の天使

このアルバムを買ってから、ずいぶんと時間が経ってしまった。日記で触れたいと思いながら何も書けずにここまできてしまう。近年の佐野元春の作品に接すると、素晴らしいと思う部分がある一方で、どうにもやりきれない感情が自分の中から生じるのを否定できないからだ。つまり、単純に賞賛や罵倒ができないのである。

やっぱりどうにか文章に記したい。しかしそのためには避けられないことがある。それは佐野元春の「声」について触れることだ。

元春のライブを初めて観たのは98年の3月29日、大阪フェスティバルホールの「THE BARN Tour ’98」最終日である。ジョン・サイモンとガース・ハドソン(ザ・バンド)がゲスト出演した豪華なライブだったものの、中身には今ひとつ満足できなかったことだけは覚えている。その理由は何だったのか。この時はわからなかった。

それから00年、04年、05年、06年と節目ではライブを観た。その中で決定的に違和感を抱いたのが06年2月25日、神戸国際会館こくさいホールの「星の下、路の上ツアー」の時である。ステージの佐野元春をずっと観ていて、彼の異変に気づく。ちっともシャウトしないのである。” ロックンロール・ナイト”や” インディビジュアリスト”が以前のようなアレンジで演奏されない理由がこの時点でやっとわかった。

思い起こせば、元春の変化をなんとなく感じた場面はこれまでにもいくつかある。
たとえば、前作「THE SUN」(04年)の最後の曲”太陽”を聴いた時だった。少ない音をバックに歌われる元春の声がいかにも苦しそうである。最初にこの曲を聴いた時はまったく好きになれなかった。またネットのどこかで、90年代後半から元春の声が急に衰えたという指摘を見た記憶がある。私が初めて元春を観た時の違和感はこれだったのかもしれない、と今では思う。

ともかく、声に注目しながら今回の「Coyote」を聴いてみると、やっぱりその辺りがどうしても気になってしまう。”折れた翼”、”呼吸”、そして”コヨーテ、海へ”など、いかにも声を出すのが苦しそうではないか。

ただ近年の元春で救いがあるのは、これまでの彼にはない魅力が生まれているということである。それは「THE SUN」、そして今回の作品でも同様に感じる。「円熟味」といえば適当な表現だろうか。具体的にどうとかを述べるのは難しい。あえて言えば80年代後半からのヴァン・モリソン、また90年代以降のニック・ロウのような雰囲気、といえば褒め過ぎという人も出てくるかもしれない。ともかく、私が言いたいのはそんなところだ。

上のような理由で、”君が気高い孤独なら”や”コヨーテ、海へ”を聴くたびに、相変わらず良い曲を書くと思いながらも、以前のような歌い方ができない彼のもどかしさを同時に感じてしまい、引き裂かれる思いに駆られるのである。

前作「THE SUN」は出来上がるまで3年ほど費やした難産のアルバムだった。それは「9.11」のショックで曲が書けなくなったという理由が大きく取り上げられたような気もするが、声の衰えとどうやって折り合いをつけるかという彼の苦闘も同時にあったのではないか。昔と比べて圧倒的に歌詞に日本語の比率が高くなったのも、こうした試行錯誤のゆえかもしれない。

公式サイトによれば、来年1月からツアーも始まるという。いまの佐野元春を観ることに対して、正直いってためらいがある。素直に楽しめる心境にはおそらくなれないからだ。しかし、自分が影響を受けた音楽やミュージシャンがどのような道を辿るのかを見届けなければならないという気持ちも一方では持っている

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