「良し悪し」より「好き嫌い」を
2008年8月23日 とどめておきたこと、特記事項森山直太朗の新曲“生きてることが辛いなら”について論議が起こっているらしい。この曲の歌詞の「死ねばいい」という一節が原因だという。一部のコンビニでは放送を自主規制をするという過剰な反応も出ている。
コンビニの出した方針は論外として、なぜ歌詞の一節に対して論争なんてものが起きるのだろうか。歌詞カードなどほどんど読まずに音楽を聴いて10年くらい経つ私から見ると、まったく理解不能な現象である。
ただ、論争にかかわっている人の思いは明瞭につかめる。こういう人たちは歌詞の意味「だけ」にこだわるからだろう。もっといえば、「音楽そのもの」を見てはいないのである。いわば「木を見て森を見ず」というところか。
もう大昔の話で誰も覚えていないだろうが、いまから8年前(2000年)に宝島社で発行している「音楽誌が書かないJポップ批評」という雑誌で元・朝日新聞社員の烏賀陽弘道というライターがBONNIE PINKらに対して泥水をかけるような文章を書いたことがある。要約すると、BONNIEらの英語詞の文法や発音にデタラメが多い、ゆえに彼女たちは三流の表現者である、というものだった。
いまさら烏賀陽に対してどうこう言うつもりはない。しかし「歌詞の文法や発音がおかしい」から「三流の表現者だ」という論法がどうして成り立つのか。いまだに私には理解できないでいる。
こう書くと意外に思うかもしれないが、私もどちらかといえば英語で歌詞を書く日本人ミュージシャンというのはあまり好きではない。可能だったら日本語詞で作った方が望ましいと思っている。英語詞というだけで拒絶する人も世間には少なくないし(私もそういう体質である)、市場でも不利になるだけだからだ。しかし私は、英語で詩を書く日本人ミュージシャンは駄目、などとは言わない。彼/彼女がそのような創作がしたいというならそれを尊重するべきだと思っているからだ。
私が最も違和感を覚えるのは、烏賀陽のような人種は「この曲が好きだ/嫌いだ」となぜ素直に言えないのだろう、ということだ。英語で詩を書くミュージシャンは嫌だ、と。それで良いではないか。個人的な好き嫌いに対して誰も文句は言わない。しかしなぜ三流の表現者だとかなんとか屁理屈をつけようとするのだろう。それは今回の森山直太朗の件でも同じことを感じてしまう。「好き嫌い」という程度で収めてしまえば良い話を無理やり「良し悪し」というレベルまで持ち上げようとするから論理が破綻してしまうのである。
ちなみに私がBONNIE PINKという人を買っている理由は、彼女の歌声や楽曲、または自己のプロデュースをする才能に対してである。だから、本人にとっては不本意かもしれないけれど、歌詞についてはほとんど読んでいない。しかし、私は音楽を楽しむにはそれで充分だと思ってる。
神戸女学院大学教授の内田樹さんは著書「こんな日本でよかったね-構造主義的日本論」(08年。バジリコ株式会社)の国語教育に触れる文章の中で、エルヴィス・プレスリーの音楽に初めて出会った時のことを書いている。
〈小学校五年生のときにはじめてエルヴィスを聴いたときに私は思わず小さく震えたが、むろん英語の歌詞の意味はぜんぜんわからなかった。でも、「湯煙夏原ハウンドドッグ」でも「来る」べきものはちゃんと「来る」。
そのことにむしろ驚くべきではないのか。
だが、国語教育はなぜか「意味」に拘泥する。作品を「作者の意図」に従属させて怪しまない。だが、『ハウンドドッグ』の歌詞カードを読んで、「エルヴィスはこの曲を通じて何が言いたいのでしょうか?」と小学生に訊くのはまるで無意味な問いであることは誰にでもわかる。〉(P.28)
今回の件を見ていると、残念ながら内田さんが思うほどには「誰にでもわかる」話ではないような気がする。
コンビニの出した方針は論外として、なぜ歌詞の一節に対して論争なんてものが起きるのだろうか。歌詞カードなどほどんど読まずに音楽を聴いて10年くらい経つ私から見ると、まったく理解不能な現象である。
ただ、論争にかかわっている人の思いは明瞭につかめる。こういう人たちは歌詞の意味「だけ」にこだわるからだろう。もっといえば、「音楽そのもの」を見てはいないのである。いわば「木を見て森を見ず」というところか。
もう大昔の話で誰も覚えていないだろうが、いまから8年前(2000年)に宝島社で発行している「音楽誌が書かないJポップ批評」という雑誌で元・朝日新聞社員の烏賀陽弘道というライターがBONNIE PINKらに対して泥水をかけるような文章を書いたことがある。要約すると、BONNIEらの英語詞の文法や発音にデタラメが多い、ゆえに彼女たちは三流の表現者である、というものだった。
いまさら烏賀陽に対してどうこう言うつもりはない。しかし「歌詞の文法や発音がおかしい」から「三流の表現者だ」という論法がどうして成り立つのか。いまだに私には理解できないでいる。
こう書くと意外に思うかもしれないが、私もどちらかといえば英語で歌詞を書く日本人ミュージシャンというのはあまり好きではない。可能だったら日本語詞で作った方が望ましいと思っている。英語詞というだけで拒絶する人も世間には少なくないし(私もそういう体質である)、市場でも不利になるだけだからだ。しかし私は、英語で詩を書く日本人ミュージシャンは駄目、などとは言わない。彼/彼女がそのような創作がしたいというならそれを尊重するべきだと思っているからだ。
私が最も違和感を覚えるのは、烏賀陽のような人種は「この曲が好きだ/嫌いだ」となぜ素直に言えないのだろう、ということだ。英語で詩を書くミュージシャンは嫌だ、と。それで良いではないか。個人的な好き嫌いに対して誰も文句は言わない。しかしなぜ三流の表現者だとかなんとか屁理屈をつけようとするのだろう。それは今回の森山直太朗の件でも同じことを感じてしまう。「好き嫌い」という程度で収めてしまえば良い話を無理やり「良し悪し」というレベルまで持ち上げようとするから論理が破綻してしまうのである。
ちなみに私がBONNIE PINKという人を買っている理由は、彼女の歌声や楽曲、または自己のプロデュースをする才能に対してである。だから、本人にとっては不本意かもしれないけれど、歌詞についてはほとんど読んでいない。しかし、私は音楽を楽しむにはそれで充分だと思ってる。
神戸女学院大学教授の内田樹さんは著書「こんな日本でよかったね-構造主義的日本論」(08年。バジリコ株式会社)の国語教育に触れる文章の中で、エルヴィス・プレスリーの音楽に初めて出会った時のことを書いている。
〈小学校五年生のときにはじめてエルヴィスを聴いたときに私は思わず小さく震えたが、むろん英語の歌詞の意味はぜんぜんわからなかった。でも、「湯煙夏原ハウンドドッグ」でも「来る」べきものはちゃんと「来る」。
そのことにむしろ驚くべきではないのか。
だが、国語教育はなぜか「意味」に拘泥する。作品を「作者の意図」に従属させて怪しまない。だが、『ハウンドドッグ』の歌詞カードを読んで、「エルヴィスはこの曲を通じて何が言いたいのでしょうか?」と小学生に訊くのはまるで無意味な問いであることは誰にでもわかる。〉(P.28)
今回の件を見ていると、残念ながら内田さんが思うほどには「誰にでもわかる」話ではないような気がする。
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