本日5月2日は渡辺美里がシングル”I’m free”で「レコード・デビュー」した日である。
その年は1985年だから、そこから25年目を迎えたことになる。だからどうしたと言われたら正直にいって返答に窮するけれど。
私が彼女の7枚目のアルバム「lucky」(91年)初めて買ってからも19年の月日が経つわけだ。だからどうしたと言われたら、また返す言葉もないけれど、ともかくそれだけの年月を重ねてしまった。
あまり自慢できる話ではないけれど、中学3年から高校2年の前半くらいまでの私は明らかに彼女の「信者」だった。それは否定しない。
「この人に一生付いていこう」
そう心に決めたのは1992年8月18日、北海道は真駒内アイスアリーナで初めて彼女のライブを観た経験を抜きには語れない。あれで私の音楽観、いやもしかしたら人生観も決まったような気がする。それほどまでにあの日の体験はもの凄い経験だった。それだけは確信をもって言える。
ただ、もはや「信者」ではない私からの正直な感想を言わせてもらえば、シングル”いつかきっと”(93年)より後の彼女は迷走、いや露骨にいえば凋落の一途をたどっていくことになる。私のファン歴は、そんな姿を見続ける歴史といってもよい。しかしいまだにライブ会場に足を運んでいるというのも、不思議といえば不思議ではあるが。
98年のアルバム「ハダカノココロ」を聴いた時、
「この人は本当に終わったんだな」
と感じてしまったのをいまでもよく覚えている。彼女に対して一番失望したのはこの時期だった。
しかし、彼女のファンを辞めるという選択は私にはどうにもできない。98年から2000年くらいまでの時期の作品やライブは端から見ても辛かったけれど、それでも私はCDを買いライブ会場にも足を運んできた。
そんな中で私自身の人生もいろいろと面倒なことが起こってくる。大学を卒業するも進路がなく、そのまま社会に放り出されて路頭に迷いかけてもいた。初めて当時の「西武ドーム」(もはや西武球場にはドームがかかっていたが)のライブに行ったのもこの時だった。2000年8月5日、西武ライブ15年目の話である。この時のライブは、自分の中では本当に素晴らしかった。彼女が涙を浮かべながらに歌う”サンキュ”を聴いた時、やはりこの人を観てきて良かったと心の底から感じたものである。この時の思いを抱いてこれまで生きてきたような気もする。世間からの評価はどうか。それはもはや知る由もないが、彼女が自分に与えてくれたものはやはり大きかったとしか言うしかない。
今年はデビュー25周年ということもあり、昨日ニッポン放送でラジオ特別番組「渡辺美里のオールナイトニッポンGOLD」が放送された。らしくもなく私はメールで番組に投稿をした。その文章の中で雑誌「Quink Japan」(太田出版)で山下達郎の特集が組まれた時の彼の発言を引用している。
「右に行こうと左に行こうと、変化の時はいつでもそうやっていわれるものなんだ。たとえばあなたが小説を書いたり、映画やTVのシナリオを書いたりすればよく分かる。不特定多数の衆目に晒されると、自分が想像もしていなかった批判が登場する。始めのうちは迷ったり傷付いたりするけど、何度もそういうことに遭遇すると、結局自分のやりたいことで行くしかなくなるんだよ。一体どれくらいの比率の聴衆を代表しているのか分からないような意見に一喜一憂することをやめれば、やるべきことは自ずと見えてくるんだ。チャート1位になっても、片隅にいることから逃げられない。なら自分しかできないことをやろう、と。」
残念ながら番組では採用されなかったけれど(当たり前か)、果たして彼女はこのメッセージをどう読んでくれたのだろうか。10年経とうが20年経とうが、渡辺美里は渡辺美里を続けるしかない。良し悪しとかではなくて、もはやそれしかないと個人的には結論づけている。自分の意志の続く限りは彼女の行く末を追いかけていきたい。いまはそう考えている。
その年は1985年だから、そこから25年目を迎えたことになる。だからどうしたと言われたら正直にいって返答に窮するけれど。
私が彼女の7枚目のアルバム「lucky」(91年)初めて買ってからも19年の月日が経つわけだ。だからどうしたと言われたら、また返す言葉もないけれど、ともかくそれだけの年月を重ねてしまった。
あまり自慢できる話ではないけれど、中学3年から高校2年の前半くらいまでの私は明らかに彼女の「信者」だった。それは否定しない。
「この人に一生付いていこう」
そう心に決めたのは1992年8月18日、北海道は真駒内アイスアリーナで初めて彼女のライブを観た経験を抜きには語れない。あれで私の音楽観、いやもしかしたら人生観も決まったような気がする。それほどまでにあの日の体験はもの凄い経験だった。それだけは確信をもって言える。
ただ、もはや「信者」ではない私からの正直な感想を言わせてもらえば、シングル”いつかきっと”(93年)より後の彼女は迷走、いや露骨にいえば凋落の一途をたどっていくことになる。私のファン歴は、そんな姿を見続ける歴史といってもよい。しかしいまだにライブ会場に足を運んでいるというのも、不思議といえば不思議ではあるが。
98年のアルバム「ハダカノココロ」を聴いた時、
「この人は本当に終わったんだな」
と感じてしまったのをいまでもよく覚えている。彼女に対して一番失望したのはこの時期だった。
しかし、彼女のファンを辞めるという選択は私にはどうにもできない。98年から2000年くらいまでの時期の作品やライブは端から見ても辛かったけれど、それでも私はCDを買いライブ会場にも足を運んできた。
そんな中で私自身の人生もいろいろと面倒なことが起こってくる。大学を卒業するも進路がなく、そのまま社会に放り出されて路頭に迷いかけてもいた。初めて当時の「西武ドーム」(もはや西武球場にはドームがかかっていたが)のライブに行ったのもこの時だった。2000年8月5日、西武ライブ15年目の話である。この時のライブは、自分の中では本当に素晴らしかった。彼女が涙を浮かべながらに歌う”サンキュ”を聴いた時、やはりこの人を観てきて良かったと心の底から感じたものである。この時の思いを抱いてこれまで生きてきたような気もする。世間からの評価はどうか。それはもはや知る由もないが、彼女が自分に与えてくれたものはやはり大きかったとしか言うしかない。
今年はデビュー25周年ということもあり、昨日ニッポン放送でラジオ特別番組「渡辺美里のオールナイトニッポンGOLD」が放送された。らしくもなく私はメールで番組に投稿をした。その文章の中で雑誌「Quink Japan」(太田出版)で山下達郎の特集が組まれた時の彼の発言を引用している。
「右に行こうと左に行こうと、変化の時はいつでもそうやっていわれるものなんだ。たとえばあなたが小説を書いたり、映画やTVのシナリオを書いたりすればよく分かる。不特定多数の衆目に晒されると、自分が想像もしていなかった批判が登場する。始めのうちは迷ったり傷付いたりするけど、何度もそういうことに遭遇すると、結局自分のやりたいことで行くしかなくなるんだよ。一体どれくらいの比率の聴衆を代表しているのか分からないような意見に一喜一憂することをやめれば、やるべきことは自ずと見えてくるんだ。チャート1位になっても、片隅にいることから逃げられない。なら自分しかできないことをやろう、と。」
残念ながら番組では採用されなかったけれど(当たり前か)、果たして彼女はこのメッセージをどう読んでくれたのだろうか。10年経とうが20年経とうが、渡辺美里は渡辺美里を続けるしかない。良し悪しとかではなくて、もはやそれしかないと個人的には結論づけている。自分の意志の続く限りは彼女の行く末を追いかけていきたい。いまはそう考えている。
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