久しぶりにファミコンで遊んでいたら
2010年5月4日
5連休の4日目は広島県で30度を超えるなど非常に暑い日となった。京都は29度になると昨日の天気予報で知っていたので、どこに行く予定も立てなかった。といっても昼は自転車を10分ほどこいで御前三条までラーメンを食べに行ったが。自分の前には3人並んでいて、おかげで炎天下の中を10分ほど立って待つことになる。
ラーメンを食べ終わって部屋に戻るも、することが思いつかない。だからといってこんな日に外へ出歩く気ももちろん起きるはずもない。そこで部屋の片隅からファミリーコンピューターを引っ張りだして、大昔のゲームでしばらく遊んでいた。
「ドンキーコング」(任天堂)や「ディグダグ2」(ナムコ)などソフトをとっかえひっかえしたけれど、最も時間を費やしたのが「ハイドライド・スペシャル」(東芝EMI)というゲームだった。
「ハイドライド・スペシャル」はもともと1984年にパソコン用(PCー8800やMSX2など。時代を感じるな)として登場した「ハイドライド」(開発元はT&E SOFT)をファミコン用に移植したものである。かの「ドラゴンクエスト」(エニックス)の2ヶ月前の1986年3月18日に発売されており、「ファミコン初のRPG(ロール・プレイング・ゲーム)」と位置づけられてもいる。確かに敵を倒して経験値を積んだりアイテムを揃えたりしながら主人公を強くしていくシステムや、大ボスを倒してお姫様を救い出すという物語の展開は典型的なRPGの世界といえよう。
しかし最近のゲームと圧倒的に違う点は、その難易度であろう。ゲームを始めたら、主人公(名前はジム)はだだっ広い荒野にいきなり一人で放りだされ、敵に囲まれる。操作方法は続けているうちになんとかなるかもしれないが、このゲームは途中でいくつか「謎とき」があり、大半の人はそこで行き詰まってしまうのである。ヒントなど教えてくれる人など存在しない。今だったらクレームなどが殺到するかもしれないほど不親切な内容かと思われるが、当時のゲームなどそんなものは珍しくなかった。私も最後まで辿り着けず放り出したゲームは数えきれない。
このハイドライド・スペシャルにしても、以前はクリアした経験はあるものの、もうすっかり解き方を忘れてしまっていた。それでも、4時間ほど費やしただろうか、なんとか最後まで行くことができた。ネットで「ハイドライド・スペシャル」を検索すれば攻略方法が出てくるからだ。当時は攻略本を買うか(それでも肝心なことが書いてなくて解けない場合もあった)、実際にゲームをクリアした人に教えを乞うくらいしか方法はなかったのだから、便利な時代になったものである。
しかし久しぶりにファミコンをしてみて、改めて当時ゲームを作っていた人たちの創意工夫には驚かされる。先ほど少し触れた「ドンキーコング」はファミコン初のゲームであるが、容量はたったの「192K」である。しかも「キロバイト」ではなく「キロビット」なのだから、もう現在の尺度から見れば「ショボい」というしかない。
しかし、容量が少ないから内容も乏しい、かといえば必ずしもそうではないから面白い。画像の美しさや音楽などはもちろん今のゲーム機の方が優れてはいるだろう。ただ、ゲームの中に込められているアイデアの豊かさは、容量が潤沢であるばかりに何でもできる現在の環境では生まれてこない気がする。
「痛くない注射針」を開発したことでも知られる岡野工業代表社員の岡野雅行さんは、著書「学校の勉強だけではメシは食えない!」(07年、こう書房)でこんなことを書いている。
「以前、ベトナムにへ行ったときに高校生くらいの子どもから買った怪獣のおもちゃがある。よーく見ると、面白いことに気が付くよ。使っている部品は、全部そこら辺から拾ってきた部品なんだ。廃車になったスーパーカブやなんかから、部品を拾って組み立てているみたいなんだ。それをこんな立派な怪獣の形にして、それを売って稼ぐ。まったく、すごい発想力を持っているよ、途上国の子どもたちは。
俺が子どもだった時代の日本もそうだったよ。子ども時代はおもちゃなんて買ってもらえなかった。だからベトナムの子どもといっしょで、そこら辺にある鉄くずなんかをひろってきちゃ工夫していろんなものを作っていたよ。モノはなかったけれど、楽しい時代だったよ。
(中略)
大切なのは感性だ。今の子どもたちは何不自由なく育っているから、感性が育ちにいよな。だって、今の子どもたち、鉛筆1本削れないだろう。俺たちの子どものころは、鉛筆はもちろんベーゴマだって自分で削っていたよ。こうすればベーゴマがよくまわるようになるって、子どもながらに研究しながら削るんだ。そういうところで技術とか感覚が養われていたんだよな。」(P.164-165)
何不自由無く育つことそれ自体は良いことであるけれど、同時に失っているものも確実にあるということか。
ラーメンを食べ終わって部屋に戻るも、することが思いつかない。だからといってこんな日に外へ出歩く気ももちろん起きるはずもない。そこで部屋の片隅からファミリーコンピューターを引っ張りだして、大昔のゲームでしばらく遊んでいた。
「ドンキーコング」(任天堂)や「ディグダグ2」(ナムコ)などソフトをとっかえひっかえしたけれど、最も時間を費やしたのが「ハイドライド・スペシャル」(東芝EMI)というゲームだった。
「ハイドライド・スペシャル」はもともと1984年にパソコン用(PCー8800やMSX2など。時代を感じるな)として登場した「ハイドライド」(開発元はT&E SOFT)をファミコン用に移植したものである。かの「ドラゴンクエスト」(エニックス)の2ヶ月前の1986年3月18日に発売されており、「ファミコン初のRPG(ロール・プレイング・ゲーム)」と位置づけられてもいる。確かに敵を倒して経験値を積んだりアイテムを揃えたりしながら主人公を強くしていくシステムや、大ボスを倒してお姫様を救い出すという物語の展開は典型的なRPGの世界といえよう。
しかし最近のゲームと圧倒的に違う点は、その難易度であろう。ゲームを始めたら、主人公(名前はジム)はだだっ広い荒野にいきなり一人で放りだされ、敵に囲まれる。操作方法は続けているうちになんとかなるかもしれないが、このゲームは途中でいくつか「謎とき」があり、大半の人はそこで行き詰まってしまうのである。ヒントなど教えてくれる人など存在しない。今だったらクレームなどが殺到するかもしれないほど不親切な内容かと思われるが、当時のゲームなどそんなものは珍しくなかった。私も最後まで辿り着けず放り出したゲームは数えきれない。
このハイドライド・スペシャルにしても、以前はクリアした経験はあるものの、もうすっかり解き方を忘れてしまっていた。それでも、4時間ほど費やしただろうか、なんとか最後まで行くことができた。ネットで「ハイドライド・スペシャル」を検索すれば攻略方法が出てくるからだ。当時は攻略本を買うか(それでも肝心なことが書いてなくて解けない場合もあった)、実際にゲームをクリアした人に教えを乞うくらいしか方法はなかったのだから、便利な時代になったものである。
しかし久しぶりにファミコンをしてみて、改めて当時ゲームを作っていた人たちの創意工夫には驚かされる。先ほど少し触れた「ドンキーコング」はファミコン初のゲームであるが、容量はたったの「192K」である。しかも「キロバイト」ではなく「キロビット」なのだから、もう現在の尺度から見れば「ショボい」というしかない。
しかし、容量が少ないから内容も乏しい、かといえば必ずしもそうではないから面白い。画像の美しさや音楽などはもちろん今のゲーム機の方が優れてはいるだろう。ただ、ゲームの中に込められているアイデアの豊かさは、容量が潤沢であるばかりに何でもできる現在の環境では生まれてこない気がする。
「痛くない注射針」を開発したことでも知られる岡野工業代表社員の岡野雅行さんは、著書「学校の勉強だけではメシは食えない!」(07年、こう書房)でこんなことを書いている。
「以前、ベトナムにへ行ったときに高校生くらいの子どもから買った怪獣のおもちゃがある。よーく見ると、面白いことに気が付くよ。使っている部品は、全部そこら辺から拾ってきた部品なんだ。廃車になったスーパーカブやなんかから、部品を拾って組み立てているみたいなんだ。それをこんな立派な怪獣の形にして、それを売って稼ぐ。まったく、すごい発想力を持っているよ、途上国の子どもたちは。
俺が子どもだった時代の日本もそうだったよ。子ども時代はおもちゃなんて買ってもらえなかった。だからベトナムの子どもといっしょで、そこら辺にある鉄くずなんかをひろってきちゃ工夫していろんなものを作っていたよ。モノはなかったけれど、楽しい時代だったよ。
(中略)
大切なのは感性だ。今の子どもたちは何不自由なく育っているから、感性が育ちにいよな。だって、今の子どもたち、鉛筆1本削れないだろう。俺たちの子どものころは、鉛筆はもちろんベーゴマだって自分で削っていたよ。こうすればベーゴマがよくまわるようになるって、子どもながらに研究しながら削るんだ。そういうところで技術とか感覚が養われていたんだよな。」(P.164-165)
何不自由無く育つことそれ自体は良いことであるけれど、同時に失っているものも確実にあるということか。
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