当落の結果はともかく、試験が終わって落ち着いた生活に戻りつつある。今度は何をしようかなあと思っているうちに、そういえば知人の奥さんが貸してくれた本をまだ読んでなかったことに気づく。そこでこの本を2日ほどかけて読んでみた。

この本について名指しでどうこう書くつもりはないので作品名などは避けるが、内容はいわゆる「エッセイ」(日本語でいえば「随筆」)に分類されるものだ。しかし、ひとまず読み進めるもどうも自分にはしっくり入ってこない。なにが気に入らないのかの理由が最初はわからなかった。そして最後まで読み進めて一応の結論を出す。この本に流れるテーマや著者の考え方に違和感を持ったわけではない。その文章のスタイルが気に入らないのである。「語り口」といった方が実感しやすいだろうか。

振り返ってみれば、私の部屋にある本でエッセイの類はほとんど無いような気がする。圧倒的に新書か論文かノンフィクションか、このいずれかであろう(小説も少ないけれど、ここの本題ではないので触れるのは控えさせてもらう)

また、他人のブログなどもまったく見ない。はっきりいえば、積極的に無視しているようなフシもある。しかしエッセイもブログも、拒否する理由はたぶん共通している。

さきほど言ったように、「文章のスタイルが気に入らない」からだ。

偉そうなことを書くけれど、多くのブログは文章の体をなしていない。しかしそれは日本語の知識の不足とかいうレベルではなくて、問題はもっと違うところにある。それは「他者意識」の欠如だ。

多くの人は、他人に文章を発信するということに対して無頓着な気がする。我が国には昔から「以心伝心」とか「いわずもがな」という言葉があるけれど、詳しく丁寧に説明しなくてもわかるだろうという思い込みや甘えは現代でもいまだに強い。これは日本人の大きな欠点ではないだろうか。

たとえばmixiの日記で最も嫌いなのが、「mixiニュース」の記事についてあれこれコメントをしているアレである。気になるニュースのページの上部の「日記を書く」をクリックすると記事タイトルおよびURlが自動的に貼られ、その後に記事が書けるようになっている。しかし大半の人はそこにバカだの、死ねだの、臭いだのと感情語を書き散らして終わりだ。そんなものを書いて他人が面白いと思うだろうか。

私の場合、まず自分で記事を要約して載せている。わざわざURLをクリックして日記の元ネタを確認するなど読む人にとっては手間だと思うからだ。安易にニュースの感想などを書いている人には想像もつかない視点だろうが、これが「他者意識」というものに違いない。

ブログの話に比重が重くなった気がするが、筆者の体験などを気楽に書くようなエッセイも同じ問題を抱えている。清少納言「枕草子」や鴨長明「方丈記」と並び「日本三大随筆」と言われる吉田兼好の「徒然草」は、その名を誰でも知っている有名な作品である一方、内容がメチャクチャな部分もあるので評判が悪い。

確かに、

「よき人、物をくれる人」(大意:物をくれる人が良い人だ)

をはじめ、かなり適当で恣意的なことを書き綴っているのは否定できない。こんなことを調べていると、エッセイというのは歴史的にみても自分には合わないスタイルなのかもしれない。随筆でもブログでもツイッターでも、他人の目に晒されているという自覚を持たなければ自己満足以上のものにはならないのでないか。

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