BONNIE PINK「Dear Diary」(10年)
2010年10月9日 BONNIE PINK
(1)Is This Love?
(2)Morning Glory
(3)Cookie Flavor
(4)スキKILLER
(5)Hurricane
(6)Find A Way
(7)Home Sweet Home
(8)Many Moons Ago
(9)World Peace
(10)Birthday Girl
(11)Here I am
(12)カイト
(13)Grow
(14)流れ星
(15)ナミナミ
これは運命だったのだろうか、と何年かして振り返ってみて思う出会いがある。BONNIE PINKという人は自分にとってそんな存在の一人だ。
私が初めて買った彼女のアルバムは4枚目の「Let go」(00年)だった。この作品についてここでは詳しく書かないけれど、久しぶりに素晴らしいアーティストやアルバムに出会えたなと思った瞬間だった。ただその時は、好きなミュージシャンの一人、という程度の認識だったと思う。そんな彼女が自分にとって特別な人となったのは、アルバムが出てからしばらくして起きたある出来事がきっかけだった。
宝島社が出している「別冊宝島516号 音楽誌が書かないJポップ批評7」(00年)という雑誌で、自称ジャーナリストの某ライター(もはや名前を出す価値も感じないので固有名は伏せておくことにする)に彼女は泥水をかけられるような仕打ちを受ける。BONNIEは英語でも作詩をする人であるが、その文法や発音がデタラメだと誌上で難癖をつけられたのだ。
10年も時間が経った現在から見れば、こんなどうでもいい輩を相手にするのは意味のないことかな、という冷静な判断もとれるかもしれないが、当時は彼女に相当熱心だったためもの凄く腹が立ったことを今でも生々しく思い出す。
しかしながら、私がこの一連の騒動について最も心に残っているのは、続いて出た「別冊宝島527号 音楽誌が書かないJポップ批評8」(00年)において掲載されたBONNIE本人の反論文だった。
まずBONNIEは自身の英語をデタラメと言われたことに対してこう反論する。
<語彙の少なさや文法の誤り、発音の不完全さは認めます。でも、たくさん言葉を知っているからといって必ずいい詞が書けるでしょうか?発音に関していえば、私のアクセントは私の日本人のオリジナリティであり、アイデンティティなのです。アメリカ人はそこがチャームだといって、訂正したがりません。そして、文法がおかしいという理由で私の作品を「粗悪な代物」と呼ぶくらいなら、私の音楽なんて聴かなければいいわけです。>(P.154)
要するに、嫌なら聴くな、ということである。全くその通りである。こうした理路整然とした指摘は本来アーティスト側から発せられるのではなく「批評」(あくまでカッコつき)する側から出てきてしかるべきと思うのだが、現実は全くそうなっていないのが残念でならない。
それはともかく、本当に重要なのはそれから続く部分だ。
<そもそも、私は新聞記者でなければ政治家でもなく、英語のエキスパートになることが私の目的ではありません。大事なのは、私の中にあるものを吐き出すことで、誤解を恐れている暇はないのです>(P.154)
この「誤解を恐れている暇はない」という一言は、アーティストはどのような姿勢で表現活動に臨むべきか、ということを見事に要約しているように思えてならない。音楽でも小説でも、世の中に広まったとたん思わぬところから罵詈雑言や誹謗中傷を受けるのは必然である。そしてその大部分は実に理不尽なものに違いない。しかしそんなことを気にしていては、そもそも表現などできないのだ。
スタイルも歌声もいかにも柔和な感じなこのアーティストの中にこれほど強い意志が秘められていたということに私は心を震わされ、
「このミュージシャンの姿をずっと追いかけていこう」
とそのとき決めたのである。話は長くなったけれど、私が彼女のファンになった経緯はそんな流れだ。
あれからほぼ10年が経過してしまった。BONNIEも今年でデビュー15周年という。そしてオリジナルとしては11枚目となる新作アルバム「Dear Diary」が届けられた。正直いって、特に何か期待をしたわけではない。ネット配信した先行シングル”Is This Love?”に至っては購入すらしていなかった。もっと正直に言えば、この5年くらいの彼女の作品もそれほど熱心に聴いてないような気もする。別に作品の質が下がったなどという否定的な印象を持っていたわけではない。ただ同じミュージシャンと10年も付き合っていると自然とそんな心境になっていくのではないだろうか。また、私はかつて上のような理由で彼女のファンになった経緯もあるため、アルバムとツアーは欠かさず観に行くのは義務のように思っているフシもあるかもしれない。
しかしながら実際にこのアルバムを聴いてみて、その内容に本当に驚かされた。15年ということで15曲も詰め込まれているが、ダレることなく全編を聴き通すことができたのである。そんな風通しの良さがある作品だ。最近はCD自体を買う機会が減っているが、これほど1枚をスッと聴けるアルバムに出会ったのは久しぶりだ。
何が素晴らしいかといえば、やはり彼女の歌声などの充実ぶりがものすごく伝わってくることであろう。試しに前作「ONE」(09年)と聴き比べてみた。「ONE」も素晴らしい作品であるが、今回はさらに調子が上向きになっているBONNIE PINKがいる。楽曲については型が決まってきたかなと思う部分もないわけではないけれど、自分好みなものが揃っている(私が好きになるようなものだから世間受けするかどうかは不安だが)。新しいことに挑戦するとかいったことよりも、アーティスト自身がどれだけエネルギーを出しているかどうかを重要視している私にとって、今回のような作品に接してしまうと嬉しくて仕方ないのだ。
同じことばかり書いているけれど、ここ最近は自分の周囲の環境がめまぐるしく変化してしまった。しかしそんな時期だからこそ自分の時間を大切にしたい、などと考えるようにもなっている。美味しいものを食べたり、好きな音楽を聴いたりする時間がたまらなく貴重に思えてくる今日この頃だ。そしてそんな最中にBONNIEがこれほど素晴らしいアルバムを届けてくれたことが、私には偶然に思えないのである。なんだか彼女から手を差し出されたような・・・こういう経験に出会うと、やはり私のこの人と何か因縁あるのかな、と感じてしまう。
これだけのアルバムを完成させたのだから、あとはライブだけだろう。ぜひ新しいファンも、いまだに会場に足を運んでいる私のような往年のファンも泣かせるような内容でデビュー15周年を飾ってほしいと願う。
(2)Morning Glory
(3)Cookie Flavor
(4)スキKILLER
(5)Hurricane
(6)Find A Way
(7)Home Sweet Home
(8)Many Moons Ago
(9)World Peace
(10)Birthday Girl
(11)Here I am
(12)カイト
(13)Grow
(14)流れ星
(15)ナミナミ
これは運命だったのだろうか、と何年かして振り返ってみて思う出会いがある。BONNIE PINKという人は自分にとってそんな存在の一人だ。
私が初めて買った彼女のアルバムは4枚目の「Let go」(00年)だった。この作品についてここでは詳しく書かないけれど、久しぶりに素晴らしいアーティストやアルバムに出会えたなと思った瞬間だった。ただその時は、好きなミュージシャンの一人、という程度の認識だったと思う。そんな彼女が自分にとって特別な人となったのは、アルバムが出てからしばらくして起きたある出来事がきっかけだった。
宝島社が出している「別冊宝島516号 音楽誌が書かないJポップ批評7」(00年)という雑誌で、自称ジャーナリストの某ライター(もはや名前を出す価値も感じないので固有名は伏せておくことにする)に彼女は泥水をかけられるような仕打ちを受ける。BONNIEは英語でも作詩をする人であるが、その文法や発音がデタラメだと誌上で難癖をつけられたのだ。
10年も時間が経った現在から見れば、こんなどうでもいい輩を相手にするのは意味のないことかな、という冷静な判断もとれるかもしれないが、当時は彼女に相当熱心だったためもの凄く腹が立ったことを今でも生々しく思い出す。
しかしながら、私がこの一連の騒動について最も心に残っているのは、続いて出た「別冊宝島527号 音楽誌が書かないJポップ批評8」(00年)において掲載されたBONNIE本人の反論文だった。
まずBONNIEは自身の英語をデタラメと言われたことに対してこう反論する。
<語彙の少なさや文法の誤り、発音の不完全さは認めます。でも、たくさん言葉を知っているからといって必ずいい詞が書けるでしょうか?発音に関していえば、私のアクセントは私の日本人のオリジナリティであり、アイデンティティなのです。アメリカ人はそこがチャームだといって、訂正したがりません。そして、文法がおかしいという理由で私の作品を「粗悪な代物」と呼ぶくらいなら、私の音楽なんて聴かなければいいわけです。>(P.154)
要するに、嫌なら聴くな、ということである。全くその通りである。こうした理路整然とした指摘は本来アーティスト側から発せられるのではなく「批評」(あくまでカッコつき)する側から出てきてしかるべきと思うのだが、現実は全くそうなっていないのが残念でならない。
それはともかく、本当に重要なのはそれから続く部分だ。
<そもそも、私は新聞記者でなければ政治家でもなく、英語のエキスパートになることが私の目的ではありません。大事なのは、私の中にあるものを吐き出すことで、誤解を恐れている暇はないのです>(P.154)
この「誤解を恐れている暇はない」という一言は、アーティストはどのような姿勢で表現活動に臨むべきか、ということを見事に要約しているように思えてならない。音楽でも小説でも、世の中に広まったとたん思わぬところから罵詈雑言や誹謗中傷を受けるのは必然である。そしてその大部分は実に理不尽なものに違いない。しかしそんなことを気にしていては、そもそも表現などできないのだ。
スタイルも歌声もいかにも柔和な感じなこのアーティストの中にこれほど強い意志が秘められていたということに私は心を震わされ、
「このミュージシャンの姿をずっと追いかけていこう」
とそのとき決めたのである。話は長くなったけれど、私が彼女のファンになった経緯はそんな流れだ。
あれからほぼ10年が経過してしまった。BONNIEも今年でデビュー15周年という。そしてオリジナルとしては11枚目となる新作アルバム「Dear Diary」が届けられた。正直いって、特に何か期待をしたわけではない。ネット配信した先行シングル”Is This Love?”に至っては購入すらしていなかった。もっと正直に言えば、この5年くらいの彼女の作品もそれほど熱心に聴いてないような気もする。別に作品の質が下がったなどという否定的な印象を持っていたわけではない。ただ同じミュージシャンと10年も付き合っていると自然とそんな心境になっていくのではないだろうか。また、私はかつて上のような理由で彼女のファンになった経緯もあるため、アルバムとツアーは欠かさず観に行くのは義務のように思っているフシもあるかもしれない。
しかしながら実際にこのアルバムを聴いてみて、その内容に本当に驚かされた。15年ということで15曲も詰め込まれているが、ダレることなく全編を聴き通すことができたのである。そんな風通しの良さがある作品だ。最近はCD自体を買う機会が減っているが、これほど1枚をスッと聴けるアルバムに出会ったのは久しぶりだ。
何が素晴らしいかといえば、やはり彼女の歌声などの充実ぶりがものすごく伝わってくることであろう。試しに前作「ONE」(09年)と聴き比べてみた。「ONE」も素晴らしい作品であるが、今回はさらに調子が上向きになっているBONNIE PINKがいる。楽曲については型が決まってきたかなと思う部分もないわけではないけれど、自分好みなものが揃っている(私が好きになるようなものだから世間受けするかどうかは不安だが)。新しいことに挑戦するとかいったことよりも、アーティスト自身がどれだけエネルギーを出しているかどうかを重要視している私にとって、今回のような作品に接してしまうと嬉しくて仕方ないのだ。
同じことばかり書いているけれど、ここ最近は自分の周囲の環境がめまぐるしく変化してしまった。しかしそんな時期だからこそ自分の時間を大切にしたい、などと考えるようにもなっている。美味しいものを食べたり、好きな音楽を聴いたりする時間がたまらなく貴重に思えてくる今日この頃だ。そしてそんな最中にBONNIEがこれほど素晴らしいアルバムを届けてくれたことが、私には偶然に思えないのである。なんだか彼女から手を差し出されたような・・・こういう経験に出会うと、やはり私のこの人と何か因縁あるのかな、と感じてしまう。
これだけのアルバムを完成させたのだから、あとはライブだけだろう。ぜひ新しいファンも、いまだに会場に足を運んでいる私のような往年のファンも泣かせるような内容でデビュー15周年を飾ってほしいと願う。
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