渡辺美里「BIG WAVE」(93年)
2011年4月22日 渡辺美里
(1)ブランニューヘブン
(2)Overture
(3)ジャングル チャイルド
(4)BIG WAVEやってきた
(5)Nude
(6)I WILL BE ALRIGHT
(7)いつか きっと
(8)若きモンスターの逆襲
(9)みんないた夏
(10)さえない20代
(11)はじめて
(12)素直に泣ける日笑える日(Re-Mix)
(13)Audrey
ローリング・ストーンズのキース・リチャーズやエリック・クラプトンなど多くのミュージシャンに影響を与えたアメリカ南部のブルース・ミュージシャン、ロバート・ジョンソンはその生涯が多くの謎に包まれている。それゆえ彼に関する伝説も多い。
中でも最も有名なのは、ジョンソンの驚異的なギター・テクニックは悪魔と魂を引き換えに「十字路」で手に入れたというものである。おそらく彼の代表曲”クロスロード・ブルース”から出てきた話であろう。ちなみにミシシッピ州クラークスデールにある国道61号線と国道49号線が交わる十字路がその場所だと言われている。
「人生の分岐点」という言葉がある。ジョンソンのような極端な例はないだろうが、生きていれば様々な場面で私たちも十字路に立たされる。あの時は左に進んでしまったが、もし右に曲がっていたらどうなるだろう、などと後になって振り返ることも数知れない。いや、「十字路」などと表現したけれど、そもそも人生は立ち戻ることが出来ないのだから「逆T字路」とでもいったほうが正確だろうか。
それはともかく、渡辺美里の経歴を振り返ってみた時に最も大きな分岐点はこの「BIG WAVE」を出した時ではないだろうか。いや、彼女だけでなく私自身にとってもこの作品は、好き嫌いの枠を超えて、特別な意味を持つアルバムである。このたび人生の岐路に立っている私なので、これを機会に「BIG WAVE」について書いてみたい。
「BIG WAVE」は渡辺美里の9枚目のオリジナル・アルバムである。と書いてはみたものの、自身の曲を歌い直した前作「HELLO LOVERS」(92年)は純粋なオリジナルと言いがたい部分もあるので、そう考えれば8枚目の作品となるだろう(個人的は「HELLO LOVERS」をオリジナルのアルバムと解釈しているが)
いわゆるセルフ・カバーである「HELLO LOVERS」は彼女にとって自分のキャリア点検作業にもなったと思われるが、「BIG WAVE」を作るにあたり、彼女は色々な挑戦をして新機軸を打ち出そうと相当に意気込んでいたのは間違いない。そして、それはどうも彼女のこの時の年齢(27歳)と関係しているようだ。自身が敬愛するシンガー、ジャニス・ジャプリンを始め、ジム・モリソン(ザ・ドアーズ)やジミ・ヘンドリックスといった伝説的ミュージシャンも軒並み27歳で亡くなっている(ロバート・ジョンソンもそうだ)。
かつて周囲から、
「美里、そんなことしているとジャニスみたいになるよ」
と言われていたらしいが(この時の彼女はジャニス・ジョプリンを知らなかったそうだが)、好きなミュージシャンが27歳で夭折しているというのが彼女に強く意識されていたようだ。当時「月刊カドカワ」93年9月号などの雑誌インタビューでもそんな話を交えていたことをおぼろげながらに記憶している。そういえば彼女と生前交流があった尾崎豊も前年に亡くなっていた(享年26歳)のも彼女の脳裏にはまだ鮮明に残っていただろう。
世間的に見ても27歳といえば大学を出て会社に入って5年ほど経った頃である。それなりに仕事をこなせるようになっていく一方で、自分の人生をこのままいってもいいのかな?とか振り返るのもこのあたりからだろう。
「BIG WAVE」の発売に合わせて、この時期(93年8月3日)に特別番組「渡辺美里スペシャル93 若きモンスターの逆襲」という特別番組が深夜に放送された。私もこの番組は見ていてビデオにも録画していたが、冒頭ではこんな字幕スーパーが出てくる。
「この街にはたくさんの顔がある
それは、いつでも誰でも見ることができるけれど、見ないまま過ごしてしまう時もある。
たくさんの顔とたくさんの人間が交差する街
そんな街で、夢を追い続けて暮らしている27歳の若者達がいます
27歳・・・それは、とても微妙な年齢であると、あなたは知っていますか?
それは、この街と同じようにとても不思議なのです」
番組は彼女の音楽を紹介し、3人のカメラマンとのやり取りを交えながら、さまざま27歳(イルカの調教師や政治家志望など)を取り上げるという内容だった。「you tube」で検索したらその番組が出てきたので紹介したい(1時間ほどの番組なので5分割されている)
http://www.youtube.com/watch?v=I1JeyrBhMzc
http://www.youtube.com/watch?v=7YacMRhUlFo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=PZnNmSGgzbA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=rjRPkl7jYo4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Sf93H4YTLkw&feature=related
残念ながら内容が要約されている部分がある(彼女以外に登場する「27歳の人たち」が削除されている)。それはともかく、こうした番組を作るくらい27歳という年齢を彼女は意識していた。
そんな彼女が新作のプロデューサーに選んだのが小林武史であった。この頃の小林といえばサザン・オールスターズなどのプロデューサーというくらいの知名度だったが、92年のデビューから手掛けていたミスター・チルドレンが”CROSS ROAD”(十字路!)でブレイクするのもこの年であった。たしか「月刊カドカワ」のインタビューによれば、小林の方から「僕と一緒にしましょう」と売り込んできたと美里は話していた。彼にとってはこの時の仕事がかなり大きな経験になったらしい。しかし私としては、この両者の出会いが無かったらどうなっていたのだろう、といつも思ってしまう。
当時も今も桑田圭佑の嫌いな私にとって、関係者の小林武史が美里の新作を手がけると聞いたときは実にイヤーな気持ちになった。それから間もなくして届いたのがシングル”BIG WAVEやってきた”(93年7月1日発売)だった。これを買ったのCD出荷日だったから前日の6月30日である。学校帰りにCDショップでシングルCD(懐かしいねえ)を買って、真っすぐ家に帰って聴いてみた。
しかしパッと聴いた瞬間、「あれ?いつもと印象が違うぞ」とすぐに感じる。これまで(シングル”いつかきっと”まで)は聴いた瞬間にグッと惹き付けられるような力が彼女の音楽には確かにあった。しかし、今回のこのシングルにはそうしたものが見られなかったからだ。それはカップリング曲(この表現も今は使われないだろうな)の”素直に泣ける日笑える日”についても同様だった。この日はシングルを通しで10回聴いた。これほど1枚のシングルを続けて聴いたことは無いが(これが最初で最後かな)、それでも体や頭に曲が入ってくることはなかった。
何度も日記で書いているが、当時の私は渡辺美里の「信者」であった。自分にとって手に届かない、もう神か仏かのような存在とまで彼女を思っていた。しかしこのCDを聴いた時、
「あれ?いままでのようなマジックが無い」
と感じた。この人は必ずしも完璧な存在ではないのでは?と思った最初の瞬間である。
この先行シングルで失望した矢先、さらに酷い事態が起きる。7月12日に北海道奥尻島へ津波が襲い約200人が命を落とす大惨事だ。北海道南西沖地震である。泉谷しげるがゲリラ風な募金活動を始めたのがこの頃だが、あの津波がきっかけで”BIG WAVEやってきた”はラジオやテレビで放送自粛をされてしまう。ファンとしてはなんともやりきれない気持ちだった。そうした流れの中、7月21日にアルバム「BIG WAVE」が発売される。これも出荷日当日に買ったから手に入れたのは7月20日だ。
正直いって、これを最初に聴いたときの印象ははっきりとは覚えていない。ただ、彼女の声や音質がこれまで全く違う印象を受けたのは確かである。そして、それは全く肯定的に受け入れることができないものだった。パッと聴いて良いなと思ったのは”いつかきっと”(小林武史と組む前に作られたシングル曲)だけである。
その他の曲は軒並み「パッとしないなあ」というのが正直なところであった。ファンク色の強い最初の3曲は未だに好きになれない(ライブではほぼ必ず演奏される”ジャングル チャイルド”はもはや「嫌い」の領域である)。”はじめて”という曲の歌詞は、
「盗んだ自転車 二人乗りして」
というフレーズが出てくるが、堅物なほど生真面目な彼女の世界観にはなじまない印象を受ける。”さえない20代”にいたってはタイトルからしてなあ・・・という感じで、実際の楽曲についても「本当にさえないですねえ」と思うような雰囲気に満ちている。
確かに色々な挑戦はしている。アルバム制作に関わる人も一新されており、大江千里や小室哲哉といったいつもの楽曲提供者の名前がない。そのほか曲調や歌詞などにも変化をしようとした痕跡はいたるところで見つけることができる。だが、しかしである。こうしたことがどれほど成功しているかといわれると、私はほとんど否定的な意見しか出てこない。
これまで一番決定的に違うことは、彼女の音楽から出てくる力が大幅に無くなっていたことである。それは”BIG WAVEやってきた”を聴いた時と同じ印象であった。それはサウンドが原因なのか、彼女が歌唱法を変えたのか、そもそも彼女の力が失われたのか、そこのところがどうもわからない。もっと専門的な解説をしてくれる人が出てくることを望んでいるのだが、未だに誰もしてくれない。そこで私が今回いろいと書いてみたものの、このような印象論が限界である。
根本的なことをいうと、渡辺美里という人は器用な表現者ではない。新しいことをいくつもこなせる柔軟さを持っていない。あくまで彼女は歌手やパフォーマーという面で優れていたわけであり、新進気鋭なアーティストというタイプではないのだ。また、肝心の聴き手が彼女に対して大きな変化を望んでいたかという大きな問題もある。少なくとも私はそんなことを願ったことはこれまで一度もない。それはともかく、このアルバムを契機に多くのファンは失望し彼女から離れていった。「BIG WAVE」はオリコン1位を獲得し前作なみのセールスを記録したものの、翌年に出た「BABY FAITH」(94年)は半分ほどの売り上げに落ち込んでいるのがその証拠だ。
露骨にいえば、「BIG WAVE」は渡辺美里が新しい挑戦を無理にして失敗してしまった作品といえる。そして、その軌道修正ができないまま現在に至っているというのが私の見方である。
このアルバムを聴くたびに、
「こういう無意味な方向転換をしなければ、果たして彼女はどうなっていたのだろう・・・」
とやりきれない気持ちになるのが辛い。しかしこういう「たら、れば」の話をしても今ではもう意味がない。このアルバムは彼女自身にとってもファンにとっても十字路となる作品である。
この年も彼女のライブを観ることができたが(93年12月19日、北海道厚生年金会館)、それほど強い印象は残っていない.93年が終わる頃には彼女に対する熱意も相当に薄れていった。私の「信者歴」は2年ほどで終わってしまった。夢中になれる存在がいなくなるというのは悲しいことである一方、自分にとっては実に貴重な経験であったことも間違いない。何かにベッタリと依存するような真似はこれが最初で最後にすることができたからだ。これ以後の私はどんなものに対しても「完璧なものなどはない」という姿勢に接するようになっていく。これは自分にとって大きな変化であろう。
また、もしこの前年(92年8月18日、真駒内アイスアリーナ)に彼女のライブを観ていなかったら、自分にとってこれほどの存在にはなっていなかったことも間違いない。信者どころかファンになっていたどうかかも怪しいところだ。さらにいえば、京都というのは彼女の出身地(厳密には京都市内ではなく精華町だが)ということで頭に入っていたので、彼女との繋がりがなければ大学に京都の地を選んでなかったかもしれない。
そんなことをあれこれ考えてみると、人生にはいたるところに十字路が張り巡らされているのだろう。その時の本人は気づかないとしても。
(2)Overture
(3)ジャングル チャイルド
(4)BIG WAVEやってきた
(5)Nude
(6)I WILL BE ALRIGHT
(7)いつか きっと
(8)若きモンスターの逆襲
(9)みんないた夏
(10)さえない20代
(11)はじめて
(12)素直に泣ける日笑える日(Re-Mix)
(13)Audrey
ローリング・ストーンズのキース・リチャーズやエリック・クラプトンなど多くのミュージシャンに影響を与えたアメリカ南部のブルース・ミュージシャン、ロバート・ジョンソンはその生涯が多くの謎に包まれている。それゆえ彼に関する伝説も多い。
中でも最も有名なのは、ジョンソンの驚異的なギター・テクニックは悪魔と魂を引き換えに「十字路」で手に入れたというものである。おそらく彼の代表曲”クロスロード・ブルース”から出てきた話であろう。ちなみにミシシッピ州クラークスデールにある国道61号線と国道49号線が交わる十字路がその場所だと言われている。
「人生の分岐点」という言葉がある。ジョンソンのような極端な例はないだろうが、生きていれば様々な場面で私たちも十字路に立たされる。あの時は左に進んでしまったが、もし右に曲がっていたらどうなるだろう、などと後になって振り返ることも数知れない。いや、「十字路」などと表現したけれど、そもそも人生は立ち戻ることが出来ないのだから「逆T字路」とでもいったほうが正確だろうか。
それはともかく、渡辺美里の経歴を振り返ってみた時に最も大きな分岐点はこの「BIG WAVE」を出した時ではないだろうか。いや、彼女だけでなく私自身にとってもこの作品は、好き嫌いの枠を超えて、特別な意味を持つアルバムである。このたび人生の岐路に立っている私なので、これを機会に「BIG WAVE」について書いてみたい。
「BIG WAVE」は渡辺美里の9枚目のオリジナル・アルバムである。と書いてはみたものの、自身の曲を歌い直した前作「HELLO LOVERS」(92年)は純粋なオリジナルと言いがたい部分もあるので、そう考えれば8枚目の作品となるだろう(個人的は「HELLO LOVERS」をオリジナルのアルバムと解釈しているが)
いわゆるセルフ・カバーである「HELLO LOVERS」は彼女にとって自分のキャリア点検作業にもなったと思われるが、「BIG WAVE」を作るにあたり、彼女は色々な挑戦をして新機軸を打ち出そうと相当に意気込んでいたのは間違いない。そして、それはどうも彼女のこの時の年齢(27歳)と関係しているようだ。自身が敬愛するシンガー、ジャニス・ジャプリンを始め、ジム・モリソン(ザ・ドアーズ)やジミ・ヘンドリックスといった伝説的ミュージシャンも軒並み27歳で亡くなっている(ロバート・ジョンソンもそうだ)。
かつて周囲から、
「美里、そんなことしているとジャニスみたいになるよ」
と言われていたらしいが(この時の彼女はジャニス・ジョプリンを知らなかったそうだが)、好きなミュージシャンが27歳で夭折しているというのが彼女に強く意識されていたようだ。当時「月刊カドカワ」93年9月号などの雑誌インタビューでもそんな話を交えていたことをおぼろげながらに記憶している。そういえば彼女と生前交流があった尾崎豊も前年に亡くなっていた(享年26歳)のも彼女の脳裏にはまだ鮮明に残っていただろう。
世間的に見ても27歳といえば大学を出て会社に入って5年ほど経った頃である。それなりに仕事をこなせるようになっていく一方で、自分の人生をこのままいってもいいのかな?とか振り返るのもこのあたりからだろう。
「BIG WAVE」の発売に合わせて、この時期(93年8月3日)に特別番組「渡辺美里スペシャル93 若きモンスターの逆襲」という特別番組が深夜に放送された。私もこの番組は見ていてビデオにも録画していたが、冒頭ではこんな字幕スーパーが出てくる。
「この街にはたくさんの顔がある
それは、いつでも誰でも見ることができるけれど、見ないまま過ごしてしまう時もある。
たくさんの顔とたくさんの人間が交差する街
そんな街で、夢を追い続けて暮らしている27歳の若者達がいます
27歳・・・それは、とても微妙な年齢であると、あなたは知っていますか?
それは、この街と同じようにとても不思議なのです」
番組は彼女の音楽を紹介し、3人のカメラマンとのやり取りを交えながら、さまざま27歳(イルカの調教師や政治家志望など)を取り上げるという内容だった。「you tube」で検索したらその番組が出てきたので紹介したい(1時間ほどの番組なので5分割されている)
http://www.youtube.com/watch?v=I1JeyrBhMzc
http://www.youtube.com/watch?v=7YacMRhUlFo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=PZnNmSGgzbA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=rjRPkl7jYo4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Sf93H4YTLkw&feature=related
残念ながら内容が要約されている部分がある(彼女以外に登場する「27歳の人たち」が削除されている)。それはともかく、こうした番組を作るくらい27歳という年齢を彼女は意識していた。
そんな彼女が新作のプロデューサーに選んだのが小林武史であった。この頃の小林といえばサザン・オールスターズなどのプロデューサーというくらいの知名度だったが、92年のデビューから手掛けていたミスター・チルドレンが”CROSS ROAD”(十字路!)でブレイクするのもこの年であった。たしか「月刊カドカワ」のインタビューによれば、小林の方から「僕と一緒にしましょう」と売り込んできたと美里は話していた。彼にとってはこの時の仕事がかなり大きな経験になったらしい。しかし私としては、この両者の出会いが無かったらどうなっていたのだろう、といつも思ってしまう。
当時も今も桑田圭佑の嫌いな私にとって、関係者の小林武史が美里の新作を手がけると聞いたときは実にイヤーな気持ちになった。それから間もなくして届いたのがシングル”BIG WAVEやってきた”(93年7月1日発売)だった。これを買ったのCD出荷日だったから前日の6月30日である。学校帰りにCDショップでシングルCD(懐かしいねえ)を買って、真っすぐ家に帰って聴いてみた。
しかしパッと聴いた瞬間、「あれ?いつもと印象が違うぞ」とすぐに感じる。これまで(シングル”いつかきっと”まで)は聴いた瞬間にグッと惹き付けられるような力が彼女の音楽には確かにあった。しかし、今回のこのシングルにはそうしたものが見られなかったからだ。それはカップリング曲(この表現も今は使われないだろうな)の”素直に泣ける日笑える日”についても同様だった。この日はシングルを通しで10回聴いた。これほど1枚のシングルを続けて聴いたことは無いが(これが最初で最後かな)、それでも体や頭に曲が入ってくることはなかった。
何度も日記で書いているが、当時の私は渡辺美里の「信者」であった。自分にとって手に届かない、もう神か仏かのような存在とまで彼女を思っていた。しかしこのCDを聴いた時、
「あれ?いままでのようなマジックが無い」
と感じた。この人は必ずしも完璧な存在ではないのでは?と思った最初の瞬間である。
この先行シングルで失望した矢先、さらに酷い事態が起きる。7月12日に北海道奥尻島へ津波が襲い約200人が命を落とす大惨事だ。北海道南西沖地震である。泉谷しげるがゲリラ風な募金活動を始めたのがこの頃だが、あの津波がきっかけで”BIG WAVEやってきた”はラジオやテレビで放送自粛をされてしまう。ファンとしてはなんともやりきれない気持ちだった。そうした流れの中、7月21日にアルバム「BIG WAVE」が発売される。これも出荷日当日に買ったから手に入れたのは7月20日だ。
正直いって、これを最初に聴いたときの印象ははっきりとは覚えていない。ただ、彼女の声や音質がこれまで全く違う印象を受けたのは確かである。そして、それは全く肯定的に受け入れることができないものだった。パッと聴いて良いなと思ったのは”いつかきっと”(小林武史と組む前に作られたシングル曲)だけである。
その他の曲は軒並み「パッとしないなあ」というのが正直なところであった。ファンク色の強い最初の3曲は未だに好きになれない(ライブではほぼ必ず演奏される”ジャングル チャイルド”はもはや「嫌い」の領域である)。”はじめて”という曲の歌詞は、
「盗んだ自転車 二人乗りして」
というフレーズが出てくるが、堅物なほど生真面目な彼女の世界観にはなじまない印象を受ける。”さえない20代”にいたってはタイトルからしてなあ・・・という感じで、実際の楽曲についても「本当にさえないですねえ」と思うような雰囲気に満ちている。
確かに色々な挑戦はしている。アルバム制作に関わる人も一新されており、大江千里や小室哲哉といったいつもの楽曲提供者の名前がない。そのほか曲調や歌詞などにも変化をしようとした痕跡はいたるところで見つけることができる。だが、しかしである。こうしたことがどれほど成功しているかといわれると、私はほとんど否定的な意見しか出てこない。
これまで一番決定的に違うことは、彼女の音楽から出てくる力が大幅に無くなっていたことである。それは”BIG WAVEやってきた”を聴いた時と同じ印象であった。それはサウンドが原因なのか、彼女が歌唱法を変えたのか、そもそも彼女の力が失われたのか、そこのところがどうもわからない。もっと専門的な解説をしてくれる人が出てくることを望んでいるのだが、未だに誰もしてくれない。そこで私が今回いろいと書いてみたものの、このような印象論が限界である。
根本的なことをいうと、渡辺美里という人は器用な表現者ではない。新しいことをいくつもこなせる柔軟さを持っていない。あくまで彼女は歌手やパフォーマーという面で優れていたわけであり、新進気鋭なアーティストというタイプではないのだ。また、肝心の聴き手が彼女に対して大きな変化を望んでいたかという大きな問題もある。少なくとも私はそんなことを願ったことはこれまで一度もない。それはともかく、このアルバムを契機に多くのファンは失望し彼女から離れていった。「BIG WAVE」はオリコン1位を獲得し前作なみのセールスを記録したものの、翌年に出た「BABY FAITH」(94年)は半分ほどの売り上げに落ち込んでいるのがその証拠だ。
露骨にいえば、「BIG WAVE」は渡辺美里が新しい挑戦を無理にして失敗してしまった作品といえる。そして、その軌道修正ができないまま現在に至っているというのが私の見方である。
このアルバムを聴くたびに、
「こういう無意味な方向転換をしなければ、果たして彼女はどうなっていたのだろう・・・」
とやりきれない気持ちになるのが辛い。しかしこういう「たら、れば」の話をしても今ではもう意味がない。このアルバムは彼女自身にとってもファンにとっても十字路となる作品である。
この年も彼女のライブを観ることができたが(93年12月19日、北海道厚生年金会館)、それほど強い印象は残っていない.93年が終わる頃には彼女に対する熱意も相当に薄れていった。私の「信者歴」は2年ほどで終わってしまった。夢中になれる存在がいなくなるというのは悲しいことである一方、自分にとっては実に貴重な経験であったことも間違いない。何かにベッタリと依存するような真似はこれが最初で最後にすることができたからだ。これ以後の私はどんなものに対しても「完璧なものなどはない」という姿勢に接するようになっていく。これは自分にとって大きな変化であろう。
また、もしこの前年(92年8月18日、真駒内アイスアリーナ)に彼女のライブを観ていなかったら、自分にとってこれほどの存在にはなっていなかったことも間違いない。信者どころかファンになっていたどうかかも怪しいところだ。さらにいえば、京都というのは彼女の出身地(厳密には京都市内ではなく精華町だが)ということで頭に入っていたので、彼女との繋がりがなければ大学に京都の地を選んでなかったかもしれない。
そんなことをあれこれ考えてみると、人生にはいたるところに十字路が張り巡らされているのだろう。その時の本人は気づかないとしても。
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