先日に内田樹さんのブログを見てみたら、10月29日付けで「地方紙の存在意義について」という文章を載せていた。地方紙の片隅にいた私としては興味が惹かれて読んでみる。

http://blog.tatsuru.com/2011/10/29_0940.php

内田さんは同日(10月29日)の朝日新聞に掲載されていたアメリカの新聞の状況をまず紹介する。

<アメリカでは経営不振から地方紙がつぎつぎと消滅している。
新聞広告収入はこの5年で半減、休刊は212紙にのぼる。記者も労働条件を切り下げられ、解雇され、20年前は全米で6万人いた新聞記者が現在は4万人。
新聞記者が減ったこと、地方紙がなくなったことで何が起きたか。
地方紙をもたないエリアでは、自分の住んでいる街のできごとについての報道がなくなった。「小さな街の役所や議会、学校や地裁に記者が取材に行かなくなった」
「取材空白域」が発生したのである。>

別にアメリカの新聞が酷い状況になっているのは今はじまったことでもないけれど、後半の、「取材空白域」が発生した、うんぬんはなかなか深刻だなと感じる。

このあと内田さんの論は色々と展開するけれど新聞(テレビも)は、

<記者ひとり、購読者千人くらいの規模なら、今でもたぶん「小商い」は成り立つはずである。>

というように、マス・メディアからもっと小さなビジネスに形態を変えていくのが適切ではないかというような結論を導き出している。

内田さんのこの文章に違和感を抱いた部分は特にない。しかし、私がもっている現在の新聞のイメージは全く揺らぐこともなかった。

もはや新聞は商売としては成り立たないビジネスモデルである、という厳然たる事実は全く変わらない。

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