先日(1月14日)、以前の職場が主催しているイベントがおこなわれている会場へ足を運んだ。我ながらおかしなことをしたと思う一方、久しぶりに会えた人も何人かいたのでそれはそれで楽しいものであった。

そのとき会場の中で昨年春に入った男性社員がいた。彼が入社すると入れ替わりで私はこの会社を去ったわけでそれほど面識があるわけでもないけれど、この1年で彼はどのように過ごしていたのか気になっていたので話しかけてみた。

「上司は何も教えてくれないし手伝ってもくれないから大変でしょう?」

と私が切り出したら、

「そうですね。でもそれは割り切ってますから」

と冷徹な答えが返ってきたので、これはなかなかしっかりした人間なのかもと思った。

少し調子に乗った私は、こないだブックオフにて105円で買った佐々木俊尚さんの「2011年 新聞・テレビ消滅」(10年。文春新書)をカバンから取り出ししてみる。

すると、

「これ、読みましたよ」

と言ってきたので、へえ新聞業界のことも自分なりに調べているのかなとまた感心した。

私は、

「これは面白かった。マスメディアや広告代理店がここまでバカばっかりなら、自分はまだまだ可能性があるかなと僕は勇気づけられたよ」

と勢いに乗って口走ったら、彼は怪訝そうな顔をする。

「面白かったですか?なんか聞いたことあるような話ばっかりでしょう・・・」

とさっきと同じように冷淡な言い方をしたのである。彼のこの反応にはやや面を食らってしまったのである。

私が佐々木さんの本を読んで面白いと感じたのは、かつての職場と照らし合わせても納得がいく事例が多かったからである。そして、この業界に残るのはつくづくマズいと痛感してしまうのだ。それで辞めてしまったわけだが。

しかし彼にはどうもそういう感覚を持っていないようだ。まるで自分は新聞業界とは離れた場所にいるかのような態度をとる。当事者意識というものがないのだ。

例えばこの本の中では、

<いち早くプラットフォームのシフトが進んだ音楽業界では、みんなが必死で頭を使い、生き残り策を模索し、実行に移している。
日本の新聞やテレビはいまだに「平和ぼけ」が続いているような雰囲気だが、このように必死で知恵を絞らなければならない状況はまもなくやってくる。赤字転落で大騒ぎしているどころの話ではなくなるだろう。生きるか死ぬか、その瀬戸際にみんな追い込まれていくのだ>(本書P.216)

この「みんな」の中に自分も含まれている、と私が新聞関係者ならばそう感じて将来のことを深刻に考えてしまうが、果たして彼にそのような感覚があるのだろうか。

意地悪な言い方をすれば「書いてあるのはどこかで聞いた話ばかりだ」とか「心に響かなかった」などというセリフは本などの感想を言う時の手垢にまみれた常套句であり、なんの意味もなさない。ちゃんと内容を理解しているかどうかも怪しいと思ってしまう。

そういえば彼は、

「僕は今年が勝負だと思っています」

とも言っていた。これにも引っかかった。

彼は一体「何」と勝負するというのだろう?

素朴に私はそんな疑問を抱いた。

もし新聞業界に未来がないと本当にわかっているのなら、そこで彼がどんなに頑張ったところでその先が何もないのである。佐々木さんの本をどこかで聞いた話の羅列と思うほどの知識があるなら、そこまでの見当がついてもいいはずである。一般論として、社会人になったばかりの立場なら2〜3年がむしゃらに働くこと自体は、業界や業種に限らず、ある程度の意味はあるだろう。しかし、10年近くこの会社にいた身としては、あの職場で日々の仕事をしているだけでは必ずどこかで行き詰まるし成長もできなくなると断言できる。「勝負」などできるような場所は、あそこには無い。

現在の彼に必要なのは、

「佐々木さんの本に書かれてることって自分の会社でも起きてる現象ですよ!」

と感じられる皮膚感覚ではないかと思う。

そのような日が果たして彼に訪れるのだろうか。

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