面接は「人間性」が否定される場所
2012年3月23日コメント (2)こないだ京都水族館について書いたせいか、日記のアクセス数がけっこう多い。そうなると、もっと更新しなければ、という気持ちになるのだが自分の取り巻く環境がこれ以上にないほど悪いので書く気力が起きなかった。しかし、閲覧してくれている方もいるので、リハビリがてら久しぶりに何か書いてみたい。
さる3月11日に今の職場を「辞めます」と言ったまでは良かったものの、来月からの行き先がまだ決まっていないという大問題に直面している。よくそんな状態で辞めたなと思う人が大半だろうが、個人的には限界にきていたのだから仕方ない。
この2ヶ月で面接まで進んだところが3件ほどあったけれど、ことごとく失敗してしまった。私が書類選考をくぐり抜けて面接まで行く確率は、良く見積もっても1割くらいである。10件申し込んで1件というところだ。
そして面接といえば、もうこれが通らない。いままで生きてきて「内定」なるものを獲得したのは1度だけである(今の職場はお世辞にも面接といえるようなものではなかったのでカウントしない)。そんな実績しかない人間なので、面接に対しては臨むのが恐怖を覚えるほどになっている。
橘玲さんの「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(幻冬舎。10年)に欧米と比べた日本の履歴書の特殊さが記されている。
<アメリカ人が日本の履歴書を見ていちばんびっくりするのは、生年月日を書かせることと、顔写真を貼らせることだ。生年月日欄は「年齢で差別します」と宣言するようなものだし(日本の会社は実際そうしている)、顔写真は性別や人種がひと目でわかる。
その一方で、採用や昇進を決めるためにはなんらかの基準でひとを評価しなくてはならない。この評価は差別になってはいけないのだから、あとは本人の努力によって変更可能なものしか残されていない。そういう公正な評価基準は、世の中にたったひとつしかないとされている。それが「能力」だ。
ではその能力は、いったいどうやって測ればいいのだろう。
外資系の会社に応募したひとは知っていると思うけれど、履歴書(レジュメ)に記載を求められるのは「学歴」「資格」「職歴(経験)」の三つだけだ。
学歴による差別は日本社会ではずっと大きな問題になっているけれど、一所懸命勉強しなければいい大学に入れないのも事実だ。この一点において、本人の努力ではいかんともしがたい人種や国籍・性別・年齢による差別よりも学歴差別の方がはるかにマシ、ということになる。>(本書P.65)
橘さんはこうした点を踏まえて「能力主義は道徳的に正しい」(P.56)という結論を導いている。確かに、能力で評価できなければ人間を何で測れば良いのか、という話になってしまう。そして、面接の場というのはその辺りで実に不可解な点が多いところだ。
私が先日に面接を受けた企業は、求人票において「必要な経験等」、「必要な免許・資格」、「年齢」、という項目のいずれもが「不問」であった(ハローワークを通じて応募した)。そして落ちてしまった私は、考え込んでしまう。
いったい私は何で落ちてしまったのだろう?
もしも求人票で書いてある通り経験も資格も年齢も評価の基準外だったとしたら、私の「人間性」とか「人柄」といったものがバツだった、と結論づけるしかない。そしてその点を踏まえると、もう自分は面接など受かることは永遠にできないのでは?と考えこんでしまうのだ。35年もかけて築かれた自分のキャラなどそうそう急に変えることはできないのだから。
私の心の師である出口汪先生の著書『奇跡の「話す」「書く」技術』(フォレスト出版。11年)で面接における実にイヤーな指摘をされている。
<今は就職難の時代で、大企業に就職しようとするには、大変困難な状況です。
私の周囲にも、書類選考、筆記試験と何千倍もの難関を潜り抜けながら、いつも最終選考である面接で落とされる学生がいます。
一次試験、二次試験に合格したわけですから、成績が優秀なことは明白です。おそらく一流大学の学生でしょう。
それなのに、面接試験となると必ず落とされる。それが繰り返されると、何だか自分の人格まで否定されているようで、これから社会に対してどう対処していいのか分からず、自信喪失に陥ってしまいます。
第一、何のために今まで苦労して一流大学に合格し、ひたすらまじめに授業に取り組み、好成績を維持してきたのか、すべてが無意味に思えてくるようです。
ですがやはり面接試験に落とされるには、それなりの理由があると考えなければなりません。その理由を突き止めないと、また次の面接でも同じ過ちを繰り返すことになります。
果たして何が悪かったのでしょうか?
私自身も、就職試験の面接をした経験がありますし、私の知人には大企業の面接をする人たちがたくさんいます。そうした人たちに聞くと、面白いように同じ答えが返ってきます。
面接の際、あなたの選考基準は何ですか?と聞くと、彼らは決まってこう答えます。
「一緒に仕事をしたいと思うかどうか、それだけです」
「同感。同感」と、私も思わず答えてしまいます。
面接を受ける学生は、なぜこんな単純なことが分からないのでしょうか。
それは自分の視点からのみで、物事を考えているからなのです。
多くの学生は面接の場で、自分がいかに優秀かをアピールしがちです。その結果、どうしても過度に自己主張してしまいます。そんな時は一度は立ち止まって、「メタ意識」を使ってみましょう。>(本書P.27-29)
キーボードで文章を打っていて本当に気分が滅入ってしまった。「一緒に仕事をしたいと思」える人間を面接官は採用するのである。
となると、私は「こいつとは一緒に働きたくない」と面接官に思われている、という結論に達してしまう。辛い話だが、現実を踏まえるとそう言わざるを得ない。
出口先生は「過度に自己主張」することにその原因を指摘しているけれど、私はもっと根本的に「キャラが悪いから」と言いたくなる。そして、これが本当ならもうどうしようもない。さきほど引用した橘さんの著書は、人間は努力しても変わらない、という結論を出している。そしてそれは非常に個人的に説得力があった。
自分の周囲を見渡すだけでも、こいつは他のところでは採用されないだろうなあ、と思う人はいる。しかし、自分もそういう人種なのかな、と鏡を見るたびに思うこともある。
それでも面接に臨まなければ、今の自分には未来がないのだ。日記を書く気力が起きなかった理由はその辺りをふまえていただければ幸いである。
さる3月11日に今の職場を「辞めます」と言ったまでは良かったものの、来月からの行き先がまだ決まっていないという大問題に直面している。よくそんな状態で辞めたなと思う人が大半だろうが、個人的には限界にきていたのだから仕方ない。
この2ヶ月で面接まで進んだところが3件ほどあったけれど、ことごとく失敗してしまった。私が書類選考をくぐり抜けて面接まで行く確率は、良く見積もっても1割くらいである。10件申し込んで1件というところだ。
そして面接といえば、もうこれが通らない。いままで生きてきて「内定」なるものを獲得したのは1度だけである(今の職場はお世辞にも面接といえるようなものではなかったのでカウントしない)。そんな実績しかない人間なので、面接に対しては臨むのが恐怖を覚えるほどになっている。
橘玲さんの「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(幻冬舎。10年)に欧米と比べた日本の履歴書の特殊さが記されている。
<アメリカ人が日本の履歴書を見ていちばんびっくりするのは、生年月日を書かせることと、顔写真を貼らせることだ。生年月日欄は「年齢で差別します」と宣言するようなものだし(日本の会社は実際そうしている)、顔写真は性別や人種がひと目でわかる。
その一方で、採用や昇進を決めるためにはなんらかの基準でひとを評価しなくてはならない。この評価は差別になってはいけないのだから、あとは本人の努力によって変更可能なものしか残されていない。そういう公正な評価基準は、世の中にたったひとつしかないとされている。それが「能力」だ。
ではその能力は、いったいどうやって測ればいいのだろう。
外資系の会社に応募したひとは知っていると思うけれど、履歴書(レジュメ)に記載を求められるのは「学歴」「資格」「職歴(経験)」の三つだけだ。
学歴による差別は日本社会ではずっと大きな問題になっているけれど、一所懸命勉強しなければいい大学に入れないのも事実だ。この一点において、本人の努力ではいかんともしがたい人種や国籍・性別・年齢による差別よりも学歴差別の方がはるかにマシ、ということになる。>(本書P.65)
橘さんはこうした点を踏まえて「能力主義は道徳的に正しい」(P.56)という結論を導いている。確かに、能力で評価できなければ人間を何で測れば良いのか、という話になってしまう。そして、面接の場というのはその辺りで実に不可解な点が多いところだ。
私が先日に面接を受けた企業は、求人票において「必要な経験等」、「必要な免許・資格」、「年齢」、という項目のいずれもが「不問」であった(ハローワークを通じて応募した)。そして落ちてしまった私は、考え込んでしまう。
いったい私は何で落ちてしまったのだろう?
もしも求人票で書いてある通り経験も資格も年齢も評価の基準外だったとしたら、私の「人間性」とか「人柄」といったものがバツだった、と結論づけるしかない。そしてその点を踏まえると、もう自分は面接など受かることは永遠にできないのでは?と考えこんでしまうのだ。35年もかけて築かれた自分のキャラなどそうそう急に変えることはできないのだから。
私の心の師である出口汪先生の著書『奇跡の「話す」「書く」技術』(フォレスト出版。11年)で面接における実にイヤーな指摘をされている。
<今は就職難の時代で、大企業に就職しようとするには、大変困難な状況です。
私の周囲にも、書類選考、筆記試験と何千倍もの難関を潜り抜けながら、いつも最終選考である面接で落とされる学生がいます。
一次試験、二次試験に合格したわけですから、成績が優秀なことは明白です。おそらく一流大学の学生でしょう。
それなのに、面接試験となると必ず落とされる。それが繰り返されると、何だか自分の人格まで否定されているようで、これから社会に対してどう対処していいのか分からず、自信喪失に陥ってしまいます。
第一、何のために今まで苦労して一流大学に合格し、ひたすらまじめに授業に取り組み、好成績を維持してきたのか、すべてが無意味に思えてくるようです。
ですがやはり面接試験に落とされるには、それなりの理由があると考えなければなりません。その理由を突き止めないと、また次の面接でも同じ過ちを繰り返すことになります。
果たして何が悪かったのでしょうか?
私自身も、就職試験の面接をした経験がありますし、私の知人には大企業の面接をする人たちがたくさんいます。そうした人たちに聞くと、面白いように同じ答えが返ってきます。
面接の際、あなたの選考基準は何ですか?と聞くと、彼らは決まってこう答えます。
「一緒に仕事をしたいと思うかどうか、それだけです」
「同感。同感」と、私も思わず答えてしまいます。
面接を受ける学生は、なぜこんな単純なことが分からないのでしょうか。
それは自分の視点からのみで、物事を考えているからなのです。
多くの学生は面接の場で、自分がいかに優秀かをアピールしがちです。その結果、どうしても過度に自己主張してしまいます。そんな時は一度は立ち止まって、「メタ意識」を使ってみましょう。>(本書P.27-29)
キーボードで文章を打っていて本当に気分が滅入ってしまった。「一緒に仕事をしたいと思」える人間を面接官は採用するのである。
となると、私は「こいつとは一緒に働きたくない」と面接官に思われている、という結論に達してしまう。辛い話だが、現実を踏まえるとそう言わざるを得ない。
出口先生は「過度に自己主張」することにその原因を指摘しているけれど、私はもっと根本的に「キャラが悪いから」と言いたくなる。そして、これが本当ならもうどうしようもない。さきほど引用した橘さんの著書は、人間は努力しても変わらない、という結論を出している。そしてそれは非常に個人的に説得力があった。
自分の周囲を見渡すだけでも、こいつは他のところでは採用されないだろうなあ、と思う人はいる。しかし、自分もそういう人種なのかな、と鏡を見るたびに思うこともある。
それでも面接に臨まなければ、今の自分には未来がないのだ。日記を書く気力が起きなかった理由はその辺りをふまえていただければ幸いである。
コメント
ちなみに私はかつて会社の労働組合で副委員長や書記長も経験したことがあります。それもあって、組合活動は二度と関わらないと決めております。