SNSはもっぱらTwitterを活用している津田大介さんが珍しくFacebookを使っていた。何やら新聞記事の切り抜きを紹介しているので覗いてみると、それは今から30年近く前の1983年2月5日発行の「毎日新聞」だった。

題名は、

<「原発は金になる」推進講演会で敦賀市長>

というものである。そんなに長くもないので全文を掲載する。

<全国原子力発電所所在市町村協議会会長(全原協)を努める福井県敦賀市の高木孝一市長が北陸電力(本社・富山市)の原発建設候補地である石川県羽昨郡志賀町での講演会で「五十六年四月の日本原電放射能漏れ事故はマスコミが騒いだだけ。原発は金になる」などと発言したことが四日、明らかになった。敦賀市の反原発団体が同日午後、講演テープをつきつけたのに対して、同市長は謝罪したが、同市や志賀町の原発反対住民の怒りはおさまりそうにない。

この発言は原発推進派の羽昨広域商工会が一月二十六日、町民約百五十人を
集めて開いた講演会で飛び出した。このなかで高木市長は「原発反対運動は県議選で過去二回も惨敗しており、住民に密着していない」「原発は電源三法交付金や原発企業からの協力金があり、たなぼた式の金だ」とぶちあげ、「(放射能汚染で)五十年、百年後に生まれる子供がみんな障害者でも心配する時代でない」と結んだ。>

大昔のこの記事を紹介した津田さんの意図はわからないけれど(コメントは一つもなし)、おそらく原発推進派の人でも、これはいかがなものかなあ、と言われそうな露骨な発言ではある。

しかし私はこれによって原発をどうのこうの述べるつもりはない。最後に出てくる、

「(放射能汚染で)五十年、百年後に生まれる子供がみんな障害者でも心配する時代でない」

という部分に強く興味を惹かれたのである。

これを見て私は、日本人って忘れっぽいし無宗教だからこういう発言は割と本質を突いてるかもしれないなあ、とパッと思った。

日本人が忘れっぽいというのは、あまり良い表現ではないけれど、そんなに的外れでもないのではないだろうか。私は一度だけロンドンまで行ったことがあるけれど、びっくりするくらい昔の建物や道路が残っている。いま暮らしている京都市内は文化政策もあってまだ街並みは残っているほうではあるけれど京都駅周辺は他の都市と比べても景観に大差はないだろう。日本人はけっこう新しいものに対して積極的だが、次の新しいものが出てくるとまたすぐ乗り換えてしまう傾向が強い気がする。そしてこのあたりはマスコミや広告代理店の影響があるのではと個人的に解釈していた。

また、特定の宗教を信仰する度合いが薄いのも影響があるだろう。キリスト教でも仏教でもイスラム教でも、たいていの宗教では人間が死んでからの話が出てくる。そして、生きている時に悪いことばかりしていると死後の世界ではろくな目に遭わない、という理屈になっていく。こうした教えがその人の生き方に一定の歯止めをかける役割を果たしているだろう。しかしそうした宗教の縛りの無い人は、自分が生きてる間さえ良ければいいや、という刹那的な考えに陥る可能性がある。さきの高木氏の発言はこうした考えが根底にあるような気がしてならないのだ。

私は限りなく無神論の人間だが、未来の問題を考える場合は人間を超越した存在(いわゆる「神」か)の視点というのはどうしても必要になってくるとは思う。それは何もいかがわしいことではなくて、「お天道さまが見てるから、悪いことしちゃ駄目だよ」という程度のレベルである。ともかく人間が自分の死んだ先のことまで考えるためには宗教的な部分が出てくるだろう。ちなみにこのような考えは私のオリジナルではなく仲正昌樹(金沢大学法学類教授)さんがどこかの著書で述べられていたことのうろ覚えである。

ここしばらく橘玲(作家)さんの新刊「(日本人)」(12年。幻冬舎)を読んでいた。「従来の日本人論をすべて覆すまったく新しい日本人論!!」と帯に書かれたこの本の感想は近いうちに日記に載せる予定だが、そこでは私の考えを補足してくれるような指摘が出てくる。それはアメリカの政治学者ロナルド・イングルハートの大規模なアンケート調査で、日本人は「世界でもっとも世俗的な民族」(本書P.140)であると示唆する結果を出した。橘さんは続ける。

<世俗的というのは損得勘定のことで、要するに、「得なことならやるが、損をすることはしない」というエートスだ。>(P.140)

<いまが楽しければ、来世はどうなっても構わないーー日本人は万葉のむかしからそう考えていた。江戸時代の封建制が明治の近代になっても、戦前の天皇制が戦後のでデモクラシーに変わっても、日本人の価値観はずっと同じだった。>(P.144)

驚くことに、この考えを採用すれば戦前/戦後の境目で日本人の価値観がガラッと変わってしまったことも説明がついてしまう。戦前の日本は外国への移民や身売りなどをしなければならないほど経済的に貧しかった。だから台湾や朝鮮半島や中国へ進出することは「得をすること」なので国民はこぞって軍事拡張を支持した。だが大東亜戦争(日中戦争から太平洋戦争)において日本人の死者が300万人に達したり空襲や原子爆弾などで日本中が焼け野原になったりと悲惨な目に遭う。そういう体験に懲りた日本人は戦争を「損なこと」と感じて戦後は反戦平和の声が大きくなった。橘さんの論旨はこういう感じである。ある種のイデオロギーを持っている方には不満の多い指摘かもしれないが、私はこれを読んで頭の中がかなりスッキリしたし、むしろ「日本人って割といい民族かもね」と思うようになったことも否定できない。

先日の6月16日に野田政権は関西電力大飯原発3、4号機の再稼働を正式決定した。十分に議論や調査もしていない中でのこの決断には民主党内からも批判が出ている。個人的にも拙速な感は否めないけれど、このままズルズルと再稼働する発電所が増えていくような気がしている。

橘さんの提示する日本人の世俗性から考えると、原発再稼働が得なのか損なのか、という点で国民の合意を得た方の流れに向かっていくのだろう。ただ、短期的な視点から考えると推進の声のほうが強い気がするし、政府が事をうやむやにして勝手に決めてしまう部分もあるかもしれない。

ただ、どういう考えを提示するにしても、「国民にとって得な選択とは何か?」という視点がこの国では必要になってくるだろう。

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