この半年間で「身をもって」学んだこと
2012年11月19日 とどめておきたこと、特記事項辞める辞めるとわめいている現在の職場に入ってほぼ半年が経つ。世間から見れば、半年ごときで何の経験になるんだ、と鼻であしらわれるほどの期間かもしれない。しかし、自分には果てしなく長い時間としか思えない。9月の終わりくらいからずーっと、もう今日で終わりにしたい、というセリフが頭の中に毎日ずっと渦巻いていたからだ。
本音をいえば、最初の3ヶ月くらいで逃げ出したかった。しかし、次のアテがあるわけでもなく(注:今もありません)、また自分より若い人たちに対しては、
「一度働いたら、その職場を3ヶ月は辞めちゃダメ!」
と偉そうに言ってる手前、ギブアップするわけにはいかなかったのだ。
実際のところ「3ヶ月」というのはその仕事が自分にとってどれくらい適正があるか、またその職場でどれほど我慢できるか、という部分がなんとなくわかってくる時期だといえる。自分の仕事の習熟度は3割程度は、それとも1割程度なのか。3ヶ月頑張ったが、あと3ヶ月くらいは耐えられるか・・・。などといった感覚が徐々につかめてくる。ただ私については今の場所もその前の職場も、
「これ以上はもう無理!頭も体もおかしくなる!」
という悲惨な結論しか出てこなかったが。
それはともかく、半年働けばけっこう色々なことを学べるのも確かなことだ。周囲にとっては些細なことかもしれない。しかし自分にとっては相当に重要な変化というのもある。それは今の職場においても有効だった。これまでしなかった仕事を経験したというのは勿論のこと、自分がこれから生きる上で重要なことも学んだ。
それは、
「相手の立場を全否定してはいけない」
ということだった。
「なんだ、そんなの当たり前じゃないか」
社会的に分別のある方はそう思うかもしれない。いや、私だって「頭の中では」それがこの世界で生きていく上で正しいあり方だと理解くらいはしていた。自分の心の師である出口汪先生もどこかの著書(特定できませんでした、失礼)でそう指摘されている。
しかし実生活では言い合いになったりすると頭がカッとなり「こいつを徹底的に潰してしまえ!」とブチ切れてしまう傾向が自分にはあった。言ってることが明らかに間違っている相手に対してはどうにも寛容になれなかったのである。そして先方をメッタメタに罵倒して、それから修復不可能な関係になるということが時々あった。
嫌いな相手と絶縁したって何も構わない。それが私の基本的なスタンスだった。いや、いまもこうした考えは変わってはいないと思う。しかし、そういうのもマズいかなと考えるようになったのは、自分が罵倒される側に回ってしまった最近のことである。
誇張でもなんでもなく、私のこの半年くらいはただただ自分を否定される毎日だったといって過言ではない。
「君は仕事が全くできない」
「態度も悪い」
「周囲からも嫌われている」
「いったい何が良いとこあんの?」
こんなセリフを毎日のように浴びせられたら、前向きになろうとしてもどうにもならない。そしてどこかの時点で我慢の限界がきて精神がプツンと切れてしまうだろう。そうなってしまっては手遅れだ、と感じて今回の決断に至った次第である。
相手の立場など別に過剰に認める必要はないと思う。しかし、先方にも言い分ができる余地を与えるというか、そういう配慮くらいしてあげてもいいかなと現在の私は考えるようになった。
自分のやることを全否定されては、もう前に進めない。
これは奇麗ごとでも偽善でも何でもない。ここ半年の間、苦しい思いを経験したことで私が身をもって学んだ結論である。
かつて私は人を褒めるが好きでもなかったし(今でも好きではないか)、あまり人の長所を伸ばそうという視点もなかった。
かつての職場で後輩に仕事を教える時も、
「これだけやれば、周囲から怒られることはないから」
と最低限のことを伝えるということしかしなかった。これはこれで間違いないと今でも思っている。どんな無能な人間でも「これだけやればできる」というマニュアルを作るのが私の特技だったし。そしてそれは組織で仕事をする上で有効だといえよう。しかし一方で後輩の能力や可能性を全く重視してないし期待もしてなかったという一種のニヒリズム(虚無主義)から由来していたことも否定できない。
「君はこの程度の人間だから、これだけの作業をしなさい。以上。ほな、バイナラ」
という私のスタンスは、人によってはかなり冷淡に見えたかもしれない。そんなことを今の視点では思ってしまう。
ここまで書いてきてかなり支離滅裂な内容になってきた感があるが、
「たまには人も褒めないといけないなあ」
と最近は考えるようになった、と言いたいのである。そして、それはかつての私を知る人間とっては「ええっ?」と思うような変化である。それもこれも、自分自身がメッタメタに否定されたという経験をしたおかげなのだ。
だから今の仕事をする前よりは人の言うことに対して少しは優しく返すことができるかなあ、と思ったりする。実際の行動に表れるかどうかは実にアヤシイところだが、少なくともそうありたいと願ってはいる。
本音をいえば、最初の3ヶ月くらいで逃げ出したかった。しかし、次のアテがあるわけでもなく(注:今もありません)、また自分より若い人たちに対しては、
「一度働いたら、その職場を3ヶ月は辞めちゃダメ!」
と偉そうに言ってる手前、ギブアップするわけにはいかなかったのだ。
実際のところ「3ヶ月」というのはその仕事が自分にとってどれくらい適正があるか、またその職場でどれほど我慢できるか、という部分がなんとなくわかってくる時期だといえる。自分の仕事の習熟度は3割程度は、それとも1割程度なのか。3ヶ月頑張ったが、あと3ヶ月くらいは耐えられるか・・・。などといった感覚が徐々につかめてくる。ただ私については今の場所もその前の職場も、
「これ以上はもう無理!頭も体もおかしくなる!」
という悲惨な結論しか出てこなかったが。
それはともかく、半年働けばけっこう色々なことを学べるのも確かなことだ。周囲にとっては些細なことかもしれない。しかし自分にとっては相当に重要な変化というのもある。それは今の職場においても有効だった。これまでしなかった仕事を経験したというのは勿論のこと、自分がこれから生きる上で重要なことも学んだ。
それは、
「相手の立場を全否定してはいけない」
ということだった。
「なんだ、そんなの当たり前じゃないか」
社会的に分別のある方はそう思うかもしれない。いや、私だって「頭の中では」それがこの世界で生きていく上で正しいあり方だと理解くらいはしていた。自分の心の師である出口汪先生もどこかの著書(特定できませんでした、失礼)でそう指摘されている。
しかし実生活では言い合いになったりすると頭がカッとなり「こいつを徹底的に潰してしまえ!」とブチ切れてしまう傾向が自分にはあった。言ってることが明らかに間違っている相手に対してはどうにも寛容になれなかったのである。そして先方をメッタメタに罵倒して、それから修復不可能な関係になるということが時々あった。
嫌いな相手と絶縁したって何も構わない。それが私の基本的なスタンスだった。いや、いまもこうした考えは変わってはいないと思う。しかし、そういうのもマズいかなと考えるようになったのは、自分が罵倒される側に回ってしまった最近のことである。
誇張でもなんでもなく、私のこの半年くらいはただただ自分を否定される毎日だったといって過言ではない。
「君は仕事が全くできない」
「態度も悪い」
「周囲からも嫌われている」
「いったい何が良いとこあんの?」
こんなセリフを毎日のように浴びせられたら、前向きになろうとしてもどうにもならない。そしてどこかの時点で我慢の限界がきて精神がプツンと切れてしまうだろう。そうなってしまっては手遅れだ、と感じて今回の決断に至った次第である。
相手の立場など別に過剰に認める必要はないと思う。しかし、先方にも言い分ができる余地を与えるというか、そういう配慮くらいしてあげてもいいかなと現在の私は考えるようになった。
自分のやることを全否定されては、もう前に進めない。
これは奇麗ごとでも偽善でも何でもない。ここ半年の間、苦しい思いを経験したことで私が身をもって学んだ結論である。
かつて私は人を褒めるが好きでもなかったし(今でも好きではないか)、あまり人の長所を伸ばそうという視点もなかった。
かつての職場で後輩に仕事を教える時も、
「これだけやれば、周囲から怒られることはないから」
と最低限のことを伝えるということしかしなかった。これはこれで間違いないと今でも思っている。どんな無能な人間でも「これだけやればできる」というマニュアルを作るのが私の特技だったし。そしてそれは組織で仕事をする上で有効だといえよう。しかし一方で後輩の能力や可能性を全く重視してないし期待もしてなかったという一種のニヒリズム(虚無主義)から由来していたことも否定できない。
「君はこの程度の人間だから、これだけの作業をしなさい。以上。ほな、バイナラ」
という私のスタンスは、人によってはかなり冷淡に見えたかもしれない。そんなことを今の視点では思ってしまう。
ここまで書いてきてかなり支離滅裂な内容になってきた感があるが、
「たまには人も褒めないといけないなあ」
と最近は考えるようになった、と言いたいのである。そして、それはかつての私を知る人間とっては「ええっ?」と思うような変化である。それもこれも、自分自身がメッタメタに否定されたという経験をしたおかげなのだ。
だから今の仕事をする前よりは人の言うことに対して少しは優しく返すことができるかなあ、と思ったりする。実際の行動に表れるかどうかは実にアヤシイところだが、少なくともそうありたいと願ってはいる。
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