「怒らない人」になるまでの道のり
2014年5月28日 日常いま働いている職場のボスは、基本的にニコニコしている人だがたまに周囲を怒鳴りちらす場面もある。どんな時に怒るのかだいたい予測できるようになったので、彼が怒らないように予防線を張って仕事するようにした。おかげで最近は私に対して当たってくることはなくなった。ただ、週に何回かは誰かに罵声を浴びせている。
私はめったに怒らない人間である、というのが周囲で一致する印象だろう。それでもかつてはけっこう怒る場面が年に数回はあった気がする。しかし、もう何年もそんなことはしていない。たとえ理不尽な仕打ちを受けたとしても、表情に出すことは無いはずだ。怒るとかキレるとかいった行為もやり方を忘れてしまった。今はそんな心境になっている。
どうして怒らなくなったのだろうか。自分なりに考えてみるといくつか原因と思われるものが挙がってくる。
まず、
「怒っても何も世の中は変わらない」
という諦観というかニヒリズム(虚無主義)のようなものが自分の中に定着してしまったことがある。あえて説明することでもないだろうが、怒るという行為はものすごくエネルギーを消費するものの、それが良い結果に結びつくことはほぼ皆無である。その場はうまくいったように見えることもあるけれど、冷静になった後では、周囲に気まずい雰囲気を作り出し事態がより悪くなっていることに気づくだろう。
ここまで書いてふと思い出したが、2011年10月から2012年の終わりあたりまで、私はずっと「怒られる」立場だった。この間に人生の15年ぶんほどの罵声を浴びたと思う。そういえば机も蹴られたような気もするが、もうこれ以上思い出したくない過去である。
そんな経験を自分をして精神的に徹底的に追い詰められた末に、
「自分はどんなことがあっても、むやみやたらに他人に怒鳴りちらしたりはしないぞ」
と知らぬ間に心に誓った、のかもしれない。
そしてもう一つ大きな要因として、「相手の意図が見えるようになってきた」という点がある。怒るということの大きな側面に、衝動的な行為ということは改めて強調したい。要するに「勢い」や「思いつき」といったものに駆り立てられてすることなのだ。「いきあたりばったり」というものは、たいてい失敗してしまう。それが世の中というものだろう。
先日に日記を書いたら、珍しくコメントが書かれていた。
http://30771.diarynote.jp/201405270801595488/
以前いた会社が説明会を開催すると聞いたので(2014年5月27日)
本当は無視するのが一番賢明というかスマートな対応だと思うのだが、せっかくなので返事をしてみた。
お断りしておくが、このコメントを読んで私はほとんど怒りを覚えていない。私が返信を書くまでに至る脳内の過程はこんな感じである。
まず冒頭で、
>大変興味深く拝読しました。
などと書いておきながら、
>書き連ねられた文章の背景を想像すると、薄ら寒いものを感じました。
>なぜ辞めた会社のことを固執し続けるのでしょうか。
>未練でもあるのでしょうか。
などと、日記に述べている事実内容についてではなく、書いている私の動機うんぬんを詮索していることにパッと気づいた。これは、返信した通り「論点をずらす」という行為である。こちらが書いていないことを勝手に想像して「固執」だの「未練」だのと言われても、こちらはまともな対応などとりようがない。
こうしたことに気づけば、これは誠実な対応する必要はないな、という冷静な判断がつく。カッとなってしまうとこちらも勢いで反応して傷口を広げる結果になる恐れがある。
そもそもの話、匿名でぶしつけにコメントをすること自体が卑劣で品の無い行為である。そうやって自分が安全地帯にいてしまうと好き勝手に暴走する危険を防ぐため敢えて私は実名を出して書いているわけだ。別にたいしてアクセス数があるわけでもないし自意識過剰といえないこともないけれど、SNSで何かを書くのはリスクをともなうことだという思いはいつも忘れないようにしている。
だいたい、誰が書いたのかわからないコメントに一喜一憂することが馬鹿げている。それこそ本当の自意識過剰というものだ。以前はくだらない書き込みをされたのに頭がきて返信したら、さらに人をコケにしたコメントをされたという苦い思い出がある。
しかしある時このやり取りについて考えているうちに、
「顔も見えない相手と論争するなんてシャドー・ボクシングみたいなものなんじゃないか・・・?こんな輩にちゃんと相手をするのは止めよう。時間の無駄だ」
と悟ってしまった。そこから、ネットでのあり方を見直すきっかけとなった気がする。
ネットで目に余る書き込みを見る場面もあるだろうが、たいていその動機は極めて稚拙なものである。私は傍若無人に見えるかもしれないが、自分でも意外なほど性善説を信じていたというか「冷静で誠実な態度で論理的な対応をすれば相手に通じる」という思い込みがあった。要するに純真というか単純だったわけなのだが、ネットに巣食う連中に対して「対等」とか「誠実」とかいった態度など通用しない、とどこかの段階で気づいてからは考えが変わった。
いまはもう彼らについては、うんこ食ってろ、という感じで接している。昨日がその一例だったが、そのくらいの姿勢でちょうど良いのである。
本当に一番良いのは無視することなんだけどね。ただ、人間の出来の悪さもあって、なかなかそこまでの境地に至れない自分がいる。
私はめったに怒らない人間である、というのが周囲で一致する印象だろう。それでもかつてはけっこう怒る場面が年に数回はあった気がする。しかし、もう何年もそんなことはしていない。たとえ理不尽な仕打ちを受けたとしても、表情に出すことは無いはずだ。怒るとかキレるとかいった行為もやり方を忘れてしまった。今はそんな心境になっている。
どうして怒らなくなったのだろうか。自分なりに考えてみるといくつか原因と思われるものが挙がってくる。
まず、
「怒っても何も世の中は変わらない」
という諦観というかニヒリズム(虚無主義)のようなものが自分の中に定着してしまったことがある。あえて説明することでもないだろうが、怒るという行為はものすごくエネルギーを消費するものの、それが良い結果に結びつくことはほぼ皆無である。その場はうまくいったように見えることもあるけれど、冷静になった後では、周囲に気まずい雰囲気を作り出し事態がより悪くなっていることに気づくだろう。
ここまで書いてふと思い出したが、2011年10月から2012年の終わりあたりまで、私はずっと「怒られる」立場だった。この間に人生の15年ぶんほどの罵声を浴びたと思う。そういえば机も蹴られたような気もするが、もうこれ以上思い出したくない過去である。
そんな経験を自分をして精神的に徹底的に追い詰められた末に、
「自分はどんなことがあっても、むやみやたらに他人に怒鳴りちらしたりはしないぞ」
と知らぬ間に心に誓った、のかもしれない。
そしてもう一つ大きな要因として、「相手の意図が見えるようになってきた」という点がある。怒るということの大きな側面に、衝動的な行為ということは改めて強調したい。要するに「勢い」や「思いつき」といったものに駆り立てられてすることなのだ。「いきあたりばったり」というものは、たいてい失敗してしまう。それが世の中というものだろう。
先日に日記を書いたら、珍しくコメントが書かれていた。
http://30771.diarynote.jp/201405270801595488/
以前いた会社が説明会を開催すると聞いたので(2014年5月27日)
本当は無視するのが一番賢明というかスマートな対応だと思うのだが、せっかくなので返事をしてみた。
お断りしておくが、このコメントを読んで私はほとんど怒りを覚えていない。私が返信を書くまでに至る脳内の過程はこんな感じである。
まず冒頭で、
>大変興味深く拝読しました。
などと書いておきながら、
>書き連ねられた文章の背景を想像すると、薄ら寒いものを感じました。
>なぜ辞めた会社のことを固執し続けるのでしょうか。
>未練でもあるのでしょうか。
などと、日記に述べている事実内容についてではなく、書いている私の動機うんぬんを詮索していることにパッと気づいた。これは、返信した通り「論点をずらす」という行為である。こちらが書いていないことを勝手に想像して「固執」だの「未練」だのと言われても、こちらはまともな対応などとりようがない。
こうしたことに気づけば、これは誠実な対応する必要はないな、という冷静な判断がつく。カッとなってしまうとこちらも勢いで反応して傷口を広げる結果になる恐れがある。
そもそもの話、匿名でぶしつけにコメントをすること自体が卑劣で品の無い行為である。そうやって自分が安全地帯にいてしまうと好き勝手に暴走する危険を防ぐため敢えて私は実名を出して書いているわけだ。別にたいしてアクセス数があるわけでもないし自意識過剰といえないこともないけれど、SNSで何かを書くのはリスクをともなうことだという思いはいつも忘れないようにしている。
だいたい、誰が書いたのかわからないコメントに一喜一憂することが馬鹿げている。それこそ本当の自意識過剰というものだ。以前はくだらない書き込みをされたのに頭がきて返信したら、さらに人をコケにしたコメントをされたという苦い思い出がある。
しかしある時このやり取りについて考えているうちに、
「顔も見えない相手と論争するなんてシャドー・ボクシングみたいなものなんじゃないか・・・?こんな輩にちゃんと相手をするのは止めよう。時間の無駄だ」
と悟ってしまった。そこから、ネットでのあり方を見直すきっかけとなった気がする。
ネットで目に余る書き込みを見る場面もあるだろうが、たいていその動機は極めて稚拙なものである。私は傍若無人に見えるかもしれないが、自分でも意外なほど性善説を信じていたというか「冷静で誠実な態度で論理的な対応をすれば相手に通じる」という思い込みがあった。要するに純真というか単純だったわけなのだが、ネットに巣食う連中に対して「対等」とか「誠実」とかいった態度など通用しない、とどこかの段階で気づいてからは考えが変わった。
いまはもう彼らについては、うんこ食ってろ、という感じで接している。昨日がその一例だったが、そのくらいの姿勢でちょうど良いのである。
本当に一番良いのは無視することなんだけどね。ただ、人間の出来の悪さもあって、なかなかそこまでの境地に至れない自分がいる。
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