サザンオールスターズの「謝罪」をめぐる一件について
2015年1月21日 時事ニュース去年の大晦日におこなわれたサザンオールスターズの「年越ライブ」におけるパフォーマンスが騒動を起こしている。事の発端は桑田佳祐の言動(紫綬褒章の扱い、天皇陛下らしき物真似、“ピースとハイライト”の歌詞など)が批判を浴び、所属事務所の「アミューズ」前では抗議行動が起こり、アミューズは「謝罪文」を出して桑田本人も自身のラジオ番組で「謝罪」をするまでに至った。
一連の流れを見て個人的に感じたことは、大きく分けて2つある。一つは、サザン側の対応がかなり無難だったのに対して、ネット上では「謝罪」についてかなりズレた意見を持った人をたくさん見かけたことである。
特に印象に残っているのが、今回の「謝罪」は「表現の自由」を侵すものだ、という危機感を抱いたものと、「謝罪」をするなんて「ロック」じゃない、というような「ロック」観に関するものだ。
いずれにしても、世間の感覚からはかなりかけ離れているといわざるを得ない。
まず、サザンの所属事務所であるアミューズが出した「謝罪文」(あくまでカッコつき)を確認してみよう。
<サザンオールスターズ年越ライブ2014に関するお詫び
いつもサザンオールスターズを応援いただき、誠にありがとうございます。
この度、2014年12月に横浜アリーナにて行われた、サザンオールスターズ年越ライブ2014「ひつじだよ!全員集合!」の一部内容について、お詫びとご説明を申し上げます。
このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。また昨年秋、桑田佳祐が、紫綬褒章を賜るという栄誉に浴することができましたことから、ファンの方々に多数お集まりいただけるライブの場をお借りして、紫綬褒章をお披露目させていただき、いつも応援して下さっている皆様への感謝の気持ちをお伝えする場面も作らせていただきました。その際、感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます。
また、紅白歌合戦に出演させて頂いた折のつけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません。
また、一昨年のライブで演出の為に使用されたデモなどのニュース映像の内容は、緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用したものです。
以上、ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません。
毎回、最高のライブを作るよう全力を尽くしておりますが、時として内容や運営に不備もあるかと思います。すべてのお客様にご満足いただき、楽しんでいただけるエンタテインメントを目指して、今後もメンバー、スタッフ一同、たゆまぬ努力をして参る所存です。
今後ともサザンオールスターズを何卒よろしくお願い申し上げます。
株式会社アミューズ>
いちおうタイトルに「お詫び」と書いてはいるが、本文の中に特定の対象(天皇陛下や安倍政権など)への謝罪など、どこにも述べられていないではないか。これは要するに「このたびは世間をお騒がせてすみませんでした」という「平謝り」の程度にすぎないし、これ以上深読みできる箇所もないだろう。
おそらくサザン側はそれなりの話題を集めることを見込んでパフォーマンスをおこなったが、予想外に否定的な反応が大きかったため、こうした「謝罪文」を出して事態の収拾をはかったというのが素直な推測の仕方ではないか。めまぐるしい音楽業界で30年以上も第一線で活躍している人だし、そこまでの計算高さは持っていて当然である(「才能」などというわけのわからない要因だけでここまで続けられるわけがないのだ)。
それなのに、こんな中身のない「謝罪文」を出したくらいで、
「ロックが権力に屈した!表現の自由の危機だ!」
などとわめく人たちは、かなりヤバいと思う。
勲章をポケットから取り出してオークションの真似をしたというのも、受賞が嬉しくて気分が高まって行き過ぎてしまった、という程度だろう。それ以上に何か深い魂胆などあるわけがない。そもそもの話、勲章に対して否定的な考えを持っているならば最初から受け取りを辞退していたに決まっている。
もっと一般的な話になるが、別に紫綬褒章でなくても、何かの記念で戴いた賞状やメダルなどを雑に扱われるのを見て気分が良くなる人間などいるのか?私は別に国粋主義者でもなんでもないけれど、いままで生きてきた経験からすれば、勲章を軽々しく扱って非難されるというのは「まあ、そう思う人も出てくるだろうね」という感覚である。たまたま勲章だったから話が大きくなっただけのことだろう。
「表現の自由」うんぬんのレベルでいえば、サザンおよび桑田の音楽に「明らかに危険!」というような、警察が飛んでくるほどの表現は出てこない。せいぜい、頭の固い人たちが顔をしかめる、といった程度のものである。肯定的な言い方をすれば、メジャーな立場にいながら微妙な領域できわどい挑戦をして少しずつ表現の枠を広げてきたというのが彼の仕事だったのではないか。というよりも、規制だらけな公共の電波などを舞台にするならばおのずとそのような限定的なことしかできないだろう。
ましてやサザンは、国営放送のNHKでパフォーマンスをしたのである。40%という異様な高視聴率の紅白歌合戦なのだから、不特定多数の聴衆がいるわけだ。場末の小さなライブハウスで名もなきミュージシャンがおこなったものとは次元は全く違う。表現などにまるで理解のない人たちから誹謗中傷などが出てきて当然だし、日本の音楽産業のど真ん中にいるバンドなのだから社会への影響は大きいと思われても仕方ないだろう。
これも一般的な話になるが、社会に出たからには言動に対してそれなりに責任がともなってくるのは不可避なことである。「アーティストだから」、「ロックだから」、「表現の自由だから」などといって開き直るような真似は許されるものではない。それはいつの時代でも同じことである。そう考えてみれば、あの程度の「謝罪」をしたことは別にそれほどおかしいこととは思えないのだが、そう考えない人も一定数は存在するようだ。
周囲の迷惑も考えずモッシュやダイブをする連中も同様だが、何かあれば「ロック」だの「表現の自由」だのと安易に口に出すクズに対しては、
「そんなこと言って何でも許されると思うなよ、クソガキ」
とだけは言っておきたい。別に私は挑発する意図で述べたつもりはない。ただ、自分の言動に対して責任が取れないというのは大人ではなく子どもだろう、と当たり前の指摘をしたかったまでだ。
それはともかく、メジャーな立場にいるサザンに対して、例えば3Dプリンターで女性器をかたどった「アート」を作って逮捕された「ろくでなし子」さんのような事例などと一緒くたにして「表現の自由」が語られているように感じる。しかし、逮捕とか起訴とかいった法に抵触する恐れがあるという話と比較してみれば、サザンの「謝罪」をめぐる一件は、「表現の自由」が侵される、といった次元からはだいぶ異なる。国家権力に対して批判的な視線を持つのは大事であるが、なんでもかんでも不信感を抱いてしまったらもうこの国で生きていけなくなるレベルになるだろう。だからヤバいと言っているのである。
最後に、「謝罪」をしたからサザンは「ロック」じゃない、とかいった意味不明で頭の痛くなるコメントの方についても触れてみたい。
ミュージシャンを「権力/反権力」だのと区分けするのはあまり妥当な気はしないが、日本で最も商業的に成功しているバンドの一つであるサザンは、そのような括りに入れるならば明らかに「権力」の側ではないか。そのサザンに対して反体制とか反権力とかを求める聴き手は、根本がズレているとしかいえない。
たぶんそういう人たちは、
「いや、俺(私)はサザンの音楽を聴いた時にロックを感じた。この魂の奥底を揺さぶられるような衝撃は間違いない。だから、サザンには謝罪などしてほしくなかった」
といった心境なのだろう。自分の中に確固とした(しかし実は客観的な根拠が一つもない)「ロック観」というものがあり、それにそぐわない言動はどうにも心情的に許すことができないのだ。
私も高校1年くらいはそんな時期(サザンに対してではない)があったから気持ちもわからないではない。露骨にいえば「信者」というような状態だが、そういう時期もある時点で終わりになった。自分が強烈に執着しているものが必ずしも世間でも受け入れられているわけではなく、それどころか非難や嘲笑の対象でもあると、雑誌などを読んでいるうちに気づかされたのである。
その時点では実に悲しく惨めな経験であったけれど、同時にそれは「社会」というものを知る一つのきっかけとなったのだから悪いことばかりでもない。いや、そもそも自分の独断や偏見を受け入れる余地などこの世界にはそれほどないということを自覚するのが「大人になる」ということだろう。
それゆえ、上のような独りよがりな価値観の人を見ると、
「ロックが反権力などという価値観は60年代までだろう?もうロックについて誰もが共有できる概念などないし(もともと無かったともいえる)、いまはロックにも介護保険や年金が話題になるような時代なんだ。いい加減に目を覚まして大人になれよ」
などと、足元をすくうようなことを言いたくなってくる。何よりも、そういう人たちはかつての自分の姿と重なって見えてくるからなのだ。
ロックやポップスといったものに一定の距離を置きながらも時々CDを買ったりライブを行ったりしているのだが、「大人になれなくなる」という点でこうした音楽は有害になるのかなあ、と悲しい気持ちになってくる今回の件であった。
一連の流れを見て個人的に感じたことは、大きく分けて2つある。一つは、サザン側の対応がかなり無難だったのに対して、ネット上では「謝罪」についてかなりズレた意見を持った人をたくさん見かけたことである。
特に印象に残っているのが、今回の「謝罪」は「表現の自由」を侵すものだ、という危機感を抱いたものと、「謝罪」をするなんて「ロック」じゃない、というような「ロック」観に関するものだ。
いずれにしても、世間の感覚からはかなりかけ離れているといわざるを得ない。
まず、サザンの所属事務所であるアミューズが出した「謝罪文」(あくまでカッコつき)を確認してみよう。
<サザンオールスターズ年越ライブ2014に関するお詫び
いつもサザンオールスターズを応援いただき、誠にありがとうございます。
この度、2014年12月に横浜アリーナにて行われた、サザンオールスターズ年越ライブ2014「ひつじだよ!全員集合!」の一部内容について、お詫びとご説明を申し上げます。
このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。また昨年秋、桑田佳祐が、紫綬褒章を賜るという栄誉に浴することができましたことから、ファンの方々に多数お集まりいただけるライブの場をお借りして、紫綬褒章をお披露目させていただき、いつも応援して下さっている皆様への感謝の気持ちをお伝えする場面も作らせていただきました。その際、感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます。
また、紅白歌合戦に出演させて頂いた折のつけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません。
また、一昨年のライブで演出の為に使用されたデモなどのニュース映像の内容は、緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用したものです。
以上、ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません。
毎回、最高のライブを作るよう全力を尽くしておりますが、時として内容や運営に不備もあるかと思います。すべてのお客様にご満足いただき、楽しんでいただけるエンタテインメントを目指して、今後もメンバー、スタッフ一同、たゆまぬ努力をして参る所存です。
今後ともサザンオールスターズを何卒よろしくお願い申し上げます。
株式会社アミューズ>
いちおうタイトルに「お詫び」と書いてはいるが、本文の中に特定の対象(天皇陛下や安倍政権など)への謝罪など、どこにも述べられていないではないか。これは要するに「このたびは世間をお騒がせてすみませんでした」という「平謝り」の程度にすぎないし、これ以上深読みできる箇所もないだろう。
おそらくサザン側はそれなりの話題を集めることを見込んでパフォーマンスをおこなったが、予想外に否定的な反応が大きかったため、こうした「謝罪文」を出して事態の収拾をはかったというのが素直な推測の仕方ではないか。めまぐるしい音楽業界で30年以上も第一線で活躍している人だし、そこまでの計算高さは持っていて当然である(「才能」などというわけのわからない要因だけでここまで続けられるわけがないのだ)。
それなのに、こんな中身のない「謝罪文」を出したくらいで、
「ロックが権力に屈した!表現の自由の危機だ!」
などとわめく人たちは、かなりヤバいと思う。
勲章をポケットから取り出してオークションの真似をしたというのも、受賞が嬉しくて気分が高まって行き過ぎてしまった、という程度だろう。それ以上に何か深い魂胆などあるわけがない。そもそもの話、勲章に対して否定的な考えを持っているならば最初から受け取りを辞退していたに決まっている。
もっと一般的な話になるが、別に紫綬褒章でなくても、何かの記念で戴いた賞状やメダルなどを雑に扱われるのを見て気分が良くなる人間などいるのか?私は別に国粋主義者でもなんでもないけれど、いままで生きてきた経験からすれば、勲章を軽々しく扱って非難されるというのは「まあ、そう思う人も出てくるだろうね」という感覚である。たまたま勲章だったから話が大きくなっただけのことだろう。
「表現の自由」うんぬんのレベルでいえば、サザンおよび桑田の音楽に「明らかに危険!」というような、警察が飛んでくるほどの表現は出てこない。せいぜい、頭の固い人たちが顔をしかめる、といった程度のものである。肯定的な言い方をすれば、メジャーな立場にいながら微妙な領域できわどい挑戦をして少しずつ表現の枠を広げてきたというのが彼の仕事だったのではないか。というよりも、規制だらけな公共の電波などを舞台にするならばおのずとそのような限定的なことしかできないだろう。
ましてやサザンは、国営放送のNHKでパフォーマンスをしたのである。40%という異様な高視聴率の紅白歌合戦なのだから、不特定多数の聴衆がいるわけだ。場末の小さなライブハウスで名もなきミュージシャンがおこなったものとは次元は全く違う。表現などにまるで理解のない人たちから誹謗中傷などが出てきて当然だし、日本の音楽産業のど真ん中にいるバンドなのだから社会への影響は大きいと思われても仕方ないだろう。
これも一般的な話になるが、社会に出たからには言動に対してそれなりに責任がともなってくるのは不可避なことである。「アーティストだから」、「ロックだから」、「表現の自由だから」などといって開き直るような真似は許されるものではない。それはいつの時代でも同じことである。そう考えてみれば、あの程度の「謝罪」をしたことは別にそれほどおかしいこととは思えないのだが、そう考えない人も一定数は存在するようだ。
周囲の迷惑も考えずモッシュやダイブをする連中も同様だが、何かあれば「ロック」だの「表現の自由」だのと安易に口に出すクズに対しては、
「そんなこと言って何でも許されると思うなよ、クソガキ」
とだけは言っておきたい。別に私は挑発する意図で述べたつもりはない。ただ、自分の言動に対して責任が取れないというのは大人ではなく子どもだろう、と当たり前の指摘をしたかったまでだ。
それはともかく、メジャーな立場にいるサザンに対して、例えば3Dプリンターで女性器をかたどった「アート」を作って逮捕された「ろくでなし子」さんのような事例などと一緒くたにして「表現の自由」が語られているように感じる。しかし、逮捕とか起訴とかいった法に抵触する恐れがあるという話と比較してみれば、サザンの「謝罪」をめぐる一件は、「表現の自由」が侵される、といった次元からはだいぶ異なる。国家権力に対して批判的な視線を持つのは大事であるが、なんでもかんでも不信感を抱いてしまったらもうこの国で生きていけなくなるレベルになるだろう。だからヤバいと言っているのである。
最後に、「謝罪」をしたからサザンは「ロック」じゃない、とかいった意味不明で頭の痛くなるコメントの方についても触れてみたい。
ミュージシャンを「権力/反権力」だのと区分けするのはあまり妥当な気はしないが、日本で最も商業的に成功しているバンドの一つであるサザンは、そのような括りに入れるならば明らかに「権力」の側ではないか。そのサザンに対して反体制とか反権力とかを求める聴き手は、根本がズレているとしかいえない。
たぶんそういう人たちは、
「いや、俺(私)はサザンの音楽を聴いた時にロックを感じた。この魂の奥底を揺さぶられるような衝撃は間違いない。だから、サザンには謝罪などしてほしくなかった」
といった心境なのだろう。自分の中に確固とした(しかし実は客観的な根拠が一つもない)「ロック観」というものがあり、それにそぐわない言動はどうにも心情的に許すことができないのだ。
私も高校1年くらいはそんな時期(サザンに対してではない)があったから気持ちもわからないではない。露骨にいえば「信者」というような状態だが、そういう時期もある時点で終わりになった。自分が強烈に執着しているものが必ずしも世間でも受け入れられているわけではなく、それどころか非難や嘲笑の対象でもあると、雑誌などを読んでいるうちに気づかされたのである。
その時点では実に悲しく惨めな経験であったけれど、同時にそれは「社会」というものを知る一つのきっかけとなったのだから悪いことばかりでもない。いや、そもそも自分の独断や偏見を受け入れる余地などこの世界にはそれほどないということを自覚するのが「大人になる」ということだろう。
それゆえ、上のような独りよがりな価値観の人を見ると、
「ロックが反権力などという価値観は60年代までだろう?もうロックについて誰もが共有できる概念などないし(もともと無かったともいえる)、いまはロックにも介護保険や年金が話題になるような時代なんだ。いい加減に目を覚まして大人になれよ」
などと、足元をすくうようなことを言いたくなってくる。何よりも、そういう人たちはかつての自分の姿と重なって見えてくるからなのだ。
ロックやポップスといったものに一定の距離を置きながらも時々CDを買ったりライブを行ったりしているのだが、「大人になれなくなる」という点でこうした音楽は有害になるのかなあ、と悲しい気持ちになってくる今回の件であった。
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