「面白い文章」って一体なんなんだろう
2015年5月23日こんなことを書いても企画倒れに終わってしまうかもしれないが、来月から文章を書く頻度を上げていくつもりだ。その理由もまあいつかは明らかにするとして、今月の残りはその事前準備に色々と頭にあることを整理できればと思う。
その一つに、自分が文章を書くにあたって心がけてるようなことについて触れてみたい。
ブログにせよ何にせよ「面白い」文章を目指すという人が多いと思われる。いや、そもそもありきたりな文章を書いても仕方ないのは確かであるし、お前は何を言ってるんだと思う方もいるかもしれない。
しかし、私自身はブログを10年以上続けているが「面白さ」というものを第一にして文章を書いた記憶はほとんどない。そして、それは別に自分の考えは特殊とか少数派とも考えていない。むしろ、ものすごく常識的な姿勢だと捉えている。
ではこちらからお尋ねしたいが、「面白い/面白くない」を分ける基準とは一体なんなのだろう?
この問いに対して明確に答えられる人は果たしてどれだけいるだろうか。おそらく、今までこのようなことを考えてきたこともなかったのではないか。
1996年7月21日におこなわれたプロ野球オールスターで、イチローが投手で登板するという出来事があった。セ・リーグの監督だった野村克也氏はこれに対して、打者を松井秀喜から投手の高津臣吾に交代させるという対応をした。
この一連のやり取りは当時色々と話題になった。どこかの野球中継でゲストに出ていた立川談志はこの件について、松井を高津に変えるなんて野村は面白くないことしやがって、というようなことを言っていたのを覚えている。
しかしメジャーリーグでも侮辱行為に対してはこのような形で抗議の意志表示をするのは普通のことである。野村監督は野球の世界における常識の範囲内でこのような判断をとっただけだ。そんなことも踏まえず自分の主観で「面白くねえ!」と食ってかかった談志の物言いは非常に暴力的といえる。計算してみると談志の当時の年齢は60歳だった。この年齢にして公の場でこのような言い方しかできないとというのは、かなりヤバいといえる。
この例を見てもわかる通り、「面白い/面白くない」というのは主観による二分法である。たとえば「ラッスンゴレライは面白いか、面白くないか」というようなやり取りは議論としては成立しない。それは議論でもなんでもなく、ただの主観の押しつけあいだからだ。
居酒屋談義でそういうやり取りをするのは楽しいかもしれない。しかし「お前、おもろないわ。クソやわ。上から物言うなや」などと言われて頭をひっぱたかれることの多い私はこうした「議論」にはもう関わらないようにしている。貴重な時間を失う上に、生産するものが一つもないからだ。しかも、私にとっては楽しくもなんともない。
こうした例に限らず、私たちは日常生活で当たり前のように「面白い/面白くない」という判断を下しているが、その「分析」にどれだけの中身や裏付けがあるかといえば、ほとんど無いにちがいない。そんなことを考えてみると、文章を書く上ではそれほど重要視するべき要素でもないように思えてくる。
それよりも、「斬新さ」、「意外性」、「わかりやすさ」、「深さ」など、「面白さ」に比べればまだいくらか客観性が測れるような要素を重視して文章を書くほうが中身が充実することができる。
もっとも、自分の書いた文章を他人に「面白い」と思ってもらいたいという欲望は誰しもあるだろう。それはもちろん私の中にもあるわけだが、先に書いたように、そうした「評価」はもう結果論であり相手の都合によるものである。書いて発表してしまった後のことにあまりこだわり過ぎても仕方ないだろう。
「勝ち負けは人が決めること」(P.42)
と山下達郎が「QuickJapan vol.62」(05年、太田出版)で語ったような、ある種の開き直りは文章を書く上でも必要なことだといえる。
その一つに、自分が文章を書くにあたって心がけてるようなことについて触れてみたい。
ブログにせよ何にせよ「面白い」文章を目指すという人が多いと思われる。いや、そもそもありきたりな文章を書いても仕方ないのは確かであるし、お前は何を言ってるんだと思う方もいるかもしれない。
しかし、私自身はブログを10年以上続けているが「面白さ」というものを第一にして文章を書いた記憶はほとんどない。そして、それは別に自分の考えは特殊とか少数派とも考えていない。むしろ、ものすごく常識的な姿勢だと捉えている。
ではこちらからお尋ねしたいが、「面白い/面白くない」を分ける基準とは一体なんなのだろう?
この問いに対して明確に答えられる人は果たしてどれだけいるだろうか。おそらく、今までこのようなことを考えてきたこともなかったのではないか。
1996年7月21日におこなわれたプロ野球オールスターで、イチローが投手で登板するという出来事があった。セ・リーグの監督だった野村克也氏はこれに対して、打者を松井秀喜から投手の高津臣吾に交代させるという対応をした。
この一連のやり取りは当時色々と話題になった。どこかの野球中継でゲストに出ていた立川談志はこの件について、松井を高津に変えるなんて野村は面白くないことしやがって、というようなことを言っていたのを覚えている。
しかしメジャーリーグでも侮辱行為に対してはこのような形で抗議の意志表示をするのは普通のことである。野村監督は野球の世界における常識の範囲内でこのような判断をとっただけだ。そんなことも踏まえず自分の主観で「面白くねえ!」と食ってかかった談志の物言いは非常に暴力的といえる。計算してみると談志の当時の年齢は60歳だった。この年齢にして公の場でこのような言い方しかできないとというのは、かなりヤバいといえる。
この例を見てもわかる通り、「面白い/面白くない」というのは主観による二分法である。たとえば「ラッスンゴレライは面白いか、面白くないか」というようなやり取りは議論としては成立しない。それは議論でもなんでもなく、ただの主観の押しつけあいだからだ。
居酒屋談義でそういうやり取りをするのは楽しいかもしれない。しかし「お前、おもろないわ。クソやわ。上から物言うなや」などと言われて頭をひっぱたかれることの多い私はこうした「議論」にはもう関わらないようにしている。貴重な時間を失う上に、生産するものが一つもないからだ。しかも、私にとっては楽しくもなんともない。
こうした例に限らず、私たちは日常生活で当たり前のように「面白い/面白くない」という判断を下しているが、その「分析」にどれだけの中身や裏付けがあるかといえば、ほとんど無いにちがいない。そんなことを考えてみると、文章を書く上ではそれほど重要視するべき要素でもないように思えてくる。
それよりも、「斬新さ」、「意外性」、「わかりやすさ」、「深さ」など、「面白さ」に比べればまだいくらか客観性が測れるような要素を重視して文章を書くほうが中身が充実することができる。
もっとも、自分の書いた文章を他人に「面白い」と思ってもらいたいという欲望は誰しもあるだろう。それはもちろん私の中にもあるわけだが、先に書いたように、そうした「評価」はもう結果論であり相手の都合によるものである。書いて発表してしまった後のことにあまりこだわり過ぎても仕方ないだろう。
「勝ち負けは人が決めること」(P.42)
と山下達郎が「QuickJapan vol.62」(05年、太田出版)で語ったような、ある種の開き直りは文章を書く上でも必要なことだといえる。
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