佐野元春&THE COYOTE BAND「BLOOD MOON」(15年)
2015年7月30日 CD評など【収録曲】
(1)境界線
(2)紅い月
(3)本当の彼女
(4)バイ・ザ・シー
(5)優しい闇
(6)新世界の夜
(7)私の太陽
(8)いつかの君
(9)誰かの神
(10)キャビアとキャピタリズム
(11)空港待合室
(12)東京スカイライン
今年2015年は長年作品を聴き続けてきたミュージシャンが軒並みデビュー20年とか30年といった「節目」を迎えている。佐野元春もその一人で、彼がアルバム「BACK TO THE STREET」で「レコード・デビュー」したのが1980年のことであり、今年で活動35年に突入した。
しかしながら、今年の彼の活動に対してほとんど関心が無かったというのが正直なところだ。なぜかといえば、今年の5月8日にFACEBOOKの公式サイトで彼がこんな文章を掲載したのを見てしまったからである。
<境界線
佐野元春
2015年5月。国道329号線を走る。 北東沖縄の東側、辺野古に向かう。
運転しながら思う。 現在を軽視してはいけないし、 誇張してもいけない。
米軍基地問題で、 また、この地が引き裂かれている。
本来絆で結ばれているはずのこの地。 誰がその絆を壊しているのか。 なぜその絆が引き裂かれなければならないのか。
リーダーが息をするたびに目を凝らす。
どんなリーダーも信じない。
(撮影: 佐野元春@ジュゴンの海、沖縄県辺野古 大浦湾 2015.5.7)>
辺野古について触れたこの文章について1000件を超えるシェアがあり、350件を超えるコメントが書き込まれた(2015年7月29日現在)。ただ私はといえば、なぜこんな文章を公開したのか全く理解できず困惑し、それとともに彼に対する興味もスーッと低下してしまった。この新作アルバム「BLOOD MOON」についても発売ギリギリまでアマゾンで購入手続きを取らず、映像が公開されていた収録曲”境界線”も1度試聴しただけである。
何百件もあるコメントの全てを見るような真似はしなかったが、ザッと目に入った感じでは支持/不支持が入り混じっていた。だが、個人的には上の文章を見ても何か具体的なメッセージなど読み取れない。特に最後の一行である「どんなリーダーも信じない」というのは一番良くわからない部分だ。「リーダー」というのは果たしてどこの誰なのか、そして「信じない」というのは一体どういう意思表示なのか。
賛否に限らず「いや、俺/私は元春から明確なメッセージを受け取った!」と確信をもったとすれば、おそらく貴方は「電波の人」に違いない。そんなヤバい人はSNSで投稿などしないことを願う。それが地球のためである。
作家やミュージシャンといった抽象的な表現を仕事で取り扱う人たちが、政治のような具体的な分野に安易な姿勢で足を踏み込むことには賛成できない。それが私の見解だ。国家とか国際関係とか地方自治とかいったことに関する業務はあくまで地に足のついたものでなければならない。そこには多くの方の人生が関わってくるからだ。
それゆえ、そうした問題に関わる発言については「具体的」で「現実的」な内容であることが何より大事である。そして、発言者は自分の言動についてしっかりと責任をもつべきだ。
しかし先の元春の発言は極めて抽象的でどうにでも取れる表現である。公式声明というものでもないし、詩の断片ともいえるし独り言という解釈もできる。ただ「辺野古」とか「リーダー」といった「何かを臭わせる」キーワードが散りばめらていたため過剰反応した人が続出した、というのが事の真相であろう。
もしもこの発言(?)に突き動かされておかしな行動をとった人間が現れたとする。
それに対して、
「そんなつもりはなかったゼ。ロックン・ロール!」
だとか、
「私はミュージシャンですから」
などといって逃げることは現在の社会状況では許されないだろう。サザンオールスターズなど勲章の件で事務所前に抗議行動が起きたほどなのだから。
もしも本気で辺野古や現政権に何かを言いたいのであれば、明確な姿勢を示す言葉を選ぶべきである。「責任を逃げている」という点からすれば、ベクトルは違うだろうけど、百田尚樹氏も元春も同じである。
この件があったため彼に対して拒否反応を抱いた、というほどでもないのだが、なんとなく「胡散臭い表現者だなあ」と感じてしまった今日この頃である。だからこのアルバムが部屋に届いた時も特に何の感慨もわかなかった。買ったからにはまあ聴くしかないか、という程度の気持ちだった。
しかしながら実際に作品を聴いてみて、冒頭の”境界線”から始めるアルバム全編に流れる音にはすっかり参ってしまった。今は繰り返し繰り返しこのアルバムをかけ続けている。特に前半5曲あたりまでの流れは素晴らしい。
何が良いかといえば、やはりザ・コヨーテバンドとの絡みがより深化していることである。前作「ZOOEY」(12年)を聴いた時は、20年ぶりに素晴らしいと感じた、などと勢いでSNS等で書いてしまったけれど、それをさらに上回るサウンドができるとはさすがに予想もつかなかった。元春とバンドが紡ぎ出した楽曲はこれ以上ないほどの高みに達したといえる。「共にしたバンドと作った音の完成形」という意味で、最初のバンドであるザ・ハートランドとの「SWEET16」(92年)と「The Circle」(93年)、続くザ・ホーボーキング・バンドとの「The Sun」(04年)などと同じような位置づけのアルバムという気がする。
そして、音作りの影響のためかいつも問題にしていた元春の「声」についても衰えなどが気にならなくなったことが大きい。2011年に発売されたリメイク・アルバム「月と専制君主」の感想を書いた時に、
http://30771.diarynote.jp/201102122346173001/
<ミュージシャンの中には、たとえばヴァン・モリソンやニック・ロウのように、ある年齢になってきてから円熟味のような魅力が出てくる人たちも確かにいる。しかし佐野がそのような道を辿っているのかどうか。私の意見は判断保留としておく。 >
などと、当時は彼の歌声に対して煮え切らない思いがあったので「判断保留」という言葉を使っていたが、本作ではそのような曖昧なことを言う必要もなくなった。作品を聴くたびにまたライブを観るたびに「声が出てねえ」と嘆いてばかりいた自分であるが、本作が放つ円熟さのような魅力がそれを補って余るものにしている。還暦を目前にして元春は偉大な先人と同じ道を歩き始めた、というのは大げさな表現かもしれないが個人的にはそれくらい喜ばしい思いである。
ただ、収録されている曲のいくつかの歌詞(典型的なのは”キャビアとキャピタリズム”)については、現在の彼の心境を勢いのまま収めた印象を抱いてしまい、そのあたりが雑音のように感じてしまう。辺野古の件と同じ違和感をここでも抱いてしまったのである。演奏や楽曲は素晴らしいものばかりなので余計にその辺りが残念に思えてならない。
だが、たとえ一時的な世相を意識した歌詞であったとしても、時を経てばもっと普遍的に響く可能性もあるにはある。
例えば「The Circle」(93年)に収録されている”君を連れてゆく”という曲の冒頭の歌詞は、
<家を失くしてしまった
お金を失くしてしまった
暇を失くしてしまった
少しだけ賢くなった>
というものである。この一節はバブル景気の狂騒から一転して経済的苦境におちいった人を当時は連想したものだが、そういうことを念頭に入れなくても聴き手になんらかのイメージをもたらす普遍性を獲得していると思う。
現在の私は先の辺野古の件もあって、多少のわだかまりを抱きながらもサウンド自体の魅力には抗えないという感じでこの作品に接している。もう少し時間が経てばそうした気持ちもなくなって「これは傑作だ」と素直に言える日が訪れるのだろうか。ぜひそうあって欲しいと願っているのだが。
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