ここ最近は宝くじについての話題が入ってくるようになったなと思ったら、すでに今年もあと1か月を切っていたことに気づく。いつの間にか年末ジャンボ宝くじの季節になっていたのだ。

生まれてからずっと宝くじというのは買ったことがないし、これからも買わないと思う。わざわざお金を出して購入する気にはどうにもなれないからだ。

少し前までは買わない理由を、その当選確率の凄まじい低さのためだと思っていた。ネットでザッと見たところでは、年末ジャンボ宝くじの1等(7億円)が当たる確率は2000万分の1だという。交通事故に遭う確率よりも低いなどと、その低確率ぶりが形容されることもあるが、そのような数字を示されると個人的には全く購買意欲を失ってしまう。

しかしその一方で、

「買わなきゃ当たらないでしょう!」

と言い張る人も周囲にいたのを覚えている。こういう人に対しては、

1枚買って2000万分の1、10枚買っても200万分の1の確率では・・・」

などと説明するのも時間の無駄だし、何も言わずにそっとしておくことにしている。

橘玲さんはどこかの本で、宝くじを買うメリットがあるとすればくじを買う行為以外に何も労力などのリスクが発生しない、というようなことを書いていた(橘さん自身は宝くじを否定的に見ているけれど)。確かにそれはその通りである。そして、宝くじにそうした性質があるゆえに自分は嫌っているのだと最近気づいた。

自分にとって一番嫌いなものは何かといえば、パッと頭の中に浮かぶのが「既得権」である。私自身の社会人のスタートが新聞業界というオワコン産業で、しかも新聞社の子会社という場所だった。その会社に入った時は新聞社がちょうどリストラをしようとしていた時期であり、その過程で出来た会社に私は入った。もともとは本社(新聞社)の社員が担当していた仕事を3年以内に子会社の社員に引き継がせるというややこしい状況がそこにあった。

こんなことを書いて何が言いたいのかといえば、子会社の社員である私は本社の人間と同じ仕事をして業務を引き継がなければならない立場にいたということである。給料額や待遇(新聞社と子会社)が全く違う人間同士が同じ仕事をするという環境にいたわけだ。

こういう状態になるとろくなことが起きるわけがない。一番感じたのは、

「こんなのが自分の倍以上の給料をもらってるのお?」

という不満である。今さらこんなことを言っても仕方ない話だけれど、本社の人間は恐ろしいほど仕事をしない集団だった。仕事で結果を出そうが出すまいが宅配新聞の収益(これも既得権)があれば自分たちの生活は保証されているという状況にアグラをかいているのだろう。要するに公務員と似たようなものだ。

その会社に10年近く在籍したけれど先人から得たものは全く何もなかった。世間で「仕事」と呼ばれるようなことをしている人など皆無であったし、またそもそも新聞業界が果たすべき役割も既に終わっていたのだといえる。

私が入社した当時(21世紀が始まった頃)、新聞社には50代前半の「団塊の世代」がまだたくさんいた。彼らは学歴が高卒でありながら、日本が高度経済成長の途中で労働力が大量に必要とされる当時の流れに乗って運良く新聞社に入ったいわゆる「ノンキャリア」である。しかしながらたとえノンキャリアであっても「新聞社員」であることに変わりはなく、勤め続ければ年収も1000万の大台に到達する。私のいた子会社はかつて、社員の年収が500万を上回らないように、などという機密情報が漏れたことがあったが両社の待遇にはそれだけの差があった。

もし本社と子会社の社員とを比較しても能力うんぬんの差などほとんどないといえる。少なくとも給料額ほどの差異などは全く出てこないに違いない。両者を分ける要素は、生まれた時代とか環境といった個々人のレベルではどうしようもない、もう「運」としか呼べない部分であった。

しかし、既得権にしがみつくだけの連中はそんな事実を認めることはないだろう。例えば私の直属の上司だった人はコピペすらできない無能人間だったが、それでも今の自分があるのは運でしかない、などとは思わないだろう。それは彼自身のプライドが許さないからだ。

おそらく、

「運の良い人生でしたね」

とけしかけたら、

「運も実力のうちや!」

などと、ふやけた足の皮のような顔をして、恥ずかしげもなく言い返すに違いない。

だが、しかしである。ふつう私たちが「運」や「偶然」と呼ぶのは、人為ではどうにもならない超自然ともいえるような出来事に対してではないだろうか。そこには「能力」とか「努力」とかいったものとは全く関連があるはずもない。運は運でしかないし、偶然は偶然である。当事者が何かをしたから成し遂げた、というような話ではない。

書いているうちに、おかしなことが頭をよぎって日記が思い切り脱線したような気がする。しかし、自分が宝くじに対して何か嫌悪感を抱いていた要因が今回わかったような気がした。

宝くじを買って当選を願うという行為は、運や偶然といったものに何もかも委ねるということである。そこには自分が何か努力するような余地は全くないのだ。そういう非常に受動的な行為そのものに対して自分は強い違和感を抱いていたのだろう。そしてそれは、あのふやけた足の皮のような顔をした元・上司に対する感情と同じ種類のものだったのだと思う。

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