何も生み出さない「自己責任」論はもう言うまい
2015年12月31日コメント (2)2015年の12月31日、今年最後の朝もいつもように午前6時30分に目を覚ました。大晦日だろうが元日だろうが、仕事があるからには起きなければならない。
携帯の「天気」アプリを見ると
「京都市上京区 快晴 2℃」
と表示されている。
こんな寒い朝に、ずっと更新してなかった日記を見ていたら、これまた寒いコメントが書き込まれていた。実に7年も前に書いた文章なのに、今でもたまに捨て台詞のような言葉が投げつけられるのである。無論コメントは匿名で連絡先なども載せることはない。
コメントに興味があるという方は見てもられば結構だが、要するに「すべてお前が悪い」という趣旨だった。悪いのは私が批判をした対象ではなくて、私自身の精神が悪いというのである。ご丁寧に、匿名のコメントに対しても感謝の念が無いとも指摘された。
これまで日記に書かれたコメントはほとんど意味の無いものであり、もうこの件に関して返信はしないと宣言していた。
ただ、今回はある面で真実もあったので、
<なるほどねえ。「100%自分が悪い」という結論にすれば、何もかも一件落着となるよね。>
と1行だけ返事を書いてしまった。
この世に生を受けてからもうすぐ40年になるが、説教めいたことは数多く言われてきたし、自分でも身近な人に対して偉そうな発言をしたこともあるはずだ。そういう時に出てくる言葉といえば、
「お前の努力が足りない」
というような、自己責任論の類いである。お前が置かれている現状は、自分が作り出したものだから、努力をすればいい。他人や環境のせいにするな、というわけだ。
「いや、本当の俺はすごい!」という自己評価の高い人はこうした発言には猛反発するだろうし、「俺はもうダメだ・・・」という自己評価の低い人は思い切りヘコんでしまうだろう。ただ、多かれ少なかれ自分のことがわかっている人はこうした理屈を否定しないにちがいない。自分の責任というのは必ずあるはずだから。
だがしかしである、こう言われた後に何か自分が変わるかといえば、「それは絶対にない」というのが私の結論である。
なぜならば、こうした自己責任論には致命的な欠陥があるからだ。それは「言った人間の方の責任が全くない」ことである。
「この世で起きていることは、すべてお前の責任である」
と言ってしまえば、それで終わりである。収入が少ないのも、定職に就けないのも、恋人がいないのもすべて「100%自己責任」と片付ければ一件落着という実に便利な言葉だ。こう言い切ってしまう側は実に気分が良いにちがいない。相手を完膚なきまで叩きのめすことができるからだ。
逆に、言われた側はとてつもなく気分が悪くなり、しかも明日への展望が開く可能性は一切ない。こうした自己責任論には全く具体性がないのだから、何も対策など生まれるはずもないからである。
自分の現状を分析して「すべての責任は自分にある」と考えるのは別に謙虚でも何でもなく、「世の中がすべて悪い。自分は何も悪くない!」と考えるのと同じくらい愚かな行為である。そもそもの話であるが、自分が生まれてきた場所、時間、家系などは全く決められない。これはもう「運命」とか「偶然」と呼ぶしかないものだろう。自分で選択できないものをあれこれ言っても仕方がないのだ、残念ながら。
私たちにできることがあるとすれば、自分の置かれている環境を全て受け入れ、自分の中に残っている可能性を冷静に分析して、そこから行動することくらいである。積極性に欠けているように感じる方もいるかもしれないが、人生を半分ほど終えた人間にはこうした決断も必要なのである。無駄な試みをするほどにはもう私には時間は残っていない。
いや、私のこれからの人生はどうなるか、ということは今日のところはどうでもいい。ただ、言われた側が気を悪くするような自己責任論は、少なくとも自分はもう言うまいと宣言したいだけである。
さあ、年内最後の仕事に行こう。そして明日は、来年最初の仕事である。
携帯の「天気」アプリを見ると
「京都市上京区 快晴 2℃」
と表示されている。
こんな寒い朝に、ずっと更新してなかった日記を見ていたら、これまた寒いコメントが書き込まれていた。実に7年も前に書いた文章なのに、今でもたまに捨て台詞のような言葉が投げつけられるのである。無論コメントは匿名で連絡先なども載せることはない。
コメントに興味があるという方は見てもられば結構だが、要するに「すべてお前が悪い」という趣旨だった。悪いのは私が批判をした対象ではなくて、私自身の精神が悪いというのである。ご丁寧に、匿名のコメントに対しても感謝の念が無いとも指摘された。
これまで日記に書かれたコメントはほとんど意味の無いものであり、もうこの件に関して返信はしないと宣言していた。
ただ、今回はある面で真実もあったので、
<なるほどねえ。「100%自分が悪い」という結論にすれば、何もかも一件落着となるよね。>
と1行だけ返事を書いてしまった。
この世に生を受けてからもうすぐ40年になるが、説教めいたことは数多く言われてきたし、自分でも身近な人に対して偉そうな発言をしたこともあるはずだ。そういう時に出てくる言葉といえば、
「お前の努力が足りない」
というような、自己責任論の類いである。お前が置かれている現状は、自分が作り出したものだから、努力をすればいい。他人や環境のせいにするな、というわけだ。
「いや、本当の俺はすごい!」という自己評価の高い人はこうした発言には猛反発するだろうし、「俺はもうダメだ・・・」という自己評価の低い人は思い切りヘコんでしまうだろう。ただ、多かれ少なかれ自分のことがわかっている人はこうした理屈を否定しないにちがいない。自分の責任というのは必ずあるはずだから。
だがしかしである、こう言われた後に何か自分が変わるかといえば、「それは絶対にない」というのが私の結論である。
なぜならば、こうした自己責任論には致命的な欠陥があるからだ。それは「言った人間の方の責任が全くない」ことである。
「この世で起きていることは、すべてお前の責任である」
と言ってしまえば、それで終わりである。収入が少ないのも、定職に就けないのも、恋人がいないのもすべて「100%自己責任」と片付ければ一件落着という実に便利な言葉だ。こう言い切ってしまう側は実に気分が良いにちがいない。相手を完膚なきまで叩きのめすことができるからだ。
逆に、言われた側はとてつもなく気分が悪くなり、しかも明日への展望が開く可能性は一切ない。こうした自己責任論には全く具体性がないのだから、何も対策など生まれるはずもないからである。
自分の現状を分析して「すべての責任は自分にある」と考えるのは別に謙虚でも何でもなく、「世の中がすべて悪い。自分は何も悪くない!」と考えるのと同じくらい愚かな行為である。そもそもの話であるが、自分が生まれてきた場所、時間、家系などは全く決められない。これはもう「運命」とか「偶然」と呼ぶしかないものだろう。自分で選択できないものをあれこれ言っても仕方がないのだ、残念ながら。
私たちにできることがあるとすれば、自分の置かれている環境を全て受け入れ、自分の中に残っている可能性を冷静に分析して、そこから行動することくらいである。積極性に欠けているように感じる方もいるかもしれないが、人生を半分ほど終えた人間にはこうした決断も必要なのである。無駄な試みをするほどにはもう私には時間は残っていない。
いや、私のこれからの人生はどうなるか、ということは今日のところはどうでもいい。ただ、言われた側が気を悪くするような自己責任論は、少なくとも自分はもう言うまいと宣言したいだけである。
さあ、年内最後の仕事に行こう。そして明日は、来年最初の仕事である。
コメント
とりあえず、生まれや親、家柄その他は変えられません。
でも、環境が悪いから皆んな犯罪者になるワケじゃなくて、だからよく少年犯罪などで親の育て方が悪いから…なんて言われますが、やはり本人の考え方などの問題も大きいです。
恋人が欲しいなら行動すれば良い。
正社員になりたければ行動すれば良い。
その行動が失敗になっても自己責任ですが、その行動が論理的思考に基づいたものであれば、次に活かすことが出来る筈です、失敗の確率が下がる筈ですから。
そんなことやっても何も変わらないよ…って言って何も行動しないのも選択肢です。
人生は選択肢の積み重ねですから、選択しないという選択は勿体無いですし、自分の頭を使わないから後悔すらしないんで何も残さず、ただ流される人生を歩んでしまうように思います。
今、一応景気は回復傾向にありますんで、今の仕事が不満なら転職した方が良いですよ。
ただ、選ぶ時は、じっくりと時間を掛けて、自分に言い訳出来ないようにしなければ、ちょっと躓くとすぐヤル気を無くしてヤサグれてしまいますよ。