音楽と政治、という古いような新しいような話について
2016年6月20日 日常今年も夏におこなわれる「フジロック・フェスティバル」についてちょっとした騒ぎが起きている。今回は学生団体「SEALDs」の奥田愛基氏やジャーナリストの津田大介氏らが出演するというのだが、それに対して「フジロックに政治を持ち込むな」という批判がネット上で出てきたのである。
奥田さんや津田さんが会場で何をするかは知るよしもないが、個人的には「音楽愛好者がそんなケチくさいことを言って締め出しをするのはいただけないな」と率直に感じた。フジ・ロックは何万人も参加するイベントであり、その中に自分の気に食わない思想の人間が数人混じったところでどうということもないだろう。枝葉末節を指摘してあれダメこれダメ言うような音楽ファンは「狭量」というほかない。今回の件の是非については以上で終わることにする。
しかしながら、フジロックに政治うんぬんの発言についてはいま否定したわけだが、そのような声が出てくるのはわからなくもない、と一方では思っている。理由は2つある。
まず、政治色やメッセージ色が強い音楽はこれまでも叩かれ続けてきたという歴史的経緯を知っているからだ。音楽と政治との組み合わせでもっとも象徴的なのは、やはり1985年の「ウィ・アー・ザ・ワールド」だろう。アフリカの貧困を救おうという主題のもと大物ミュージシャンが集まってできたこの曲は全世界で大ヒットを記録した。が、一方でその行為を「偽善」と批判する人も少なくなかった。音楽に限らず「チャリティ」という名のイベントに嫌悪感を抱く人は多い(私もそうです)。
根本的に何が悪いかといえば、やはり「音楽より政治が前に出ている(政治>音楽)」ということに尽きるだろう。お世辞にも「ウィ・アー・ザ・ワールド」は楽曲や歌詞に特筆するものがあるとは言えない。淡々とした楽曲に複数のシンガーが歌い回すという流れは平凡である。この曲に限らず、チャリティとか震災復興を目的としたイベントは政治色が前に出てしまい失敗する結果が数多い。というよりも、音楽と政治が見事に融合したイベントという好例は果たしてあるのだろうか。寡聞にして私はそういうものを知らないのである。いずれにせよ、「音楽は音楽として成立すること(音楽>政治)」がまず第一であり、またそうでなければわざわざ音楽表現というものを選択する必然性もないといえる。だからこそ、奥田さんが津田さんが音楽フェスに出てくることに対する嫌悪感というのは、私自身も理解できなくはないのだ。
もう1点、これは私の個人的見解が強いかもしれないが、本質的に芸術表現と政治活動というのは相性が悪いということが挙げられる。政治活動というのは私たちの生活に直接関わることばかりである。それゆえ、目標とするところは具体的で現実的でなければならないし、政治家の言動は常に責任が伴ってくる。しかし、芸術表現の向かうベクトルは政治活動のそれとはだいぶ違うように見える。芸術とはかくあるべきだ、などと言うつもりは全くないが、世間で「深い表現」とか「優れた芸術」というのは「抽象的」とか「豊かな想像力」とか「既成概念を打ち破る」というようなことが褒め言葉になる。このあたりはことごとく政治活動とは共通する部分が少ないだろう。
また、芸術家は芸術家で活動をしていくうえで「覚悟」のようなものがあると思うが、その言動についてはあまり責任が伴っているようには見えない。少し前に佐野元春が辺野古に関する文章の中で「どんなリーダーも信じない」というようなことを書いて賛否を呼んだが、私はその意味不明というかどうとでも解釈できるような曖昧な表現に違和感を抱いてしまった。つまり、政治家の言葉とはだいぶその「重み」が違っているのである。その原因は何かといえば、やはり行動するベクトルが両者で全く違うからというのが私の仮説とするところだ。
改めて結論を書けば、政治色の強い人が音楽フェスに出てくるのは個人的にも違和感はあるけれど、それを排除しようという姿勢は音楽ファンとしてはまずいだろう、と言いたかったまでである。
しかし、ひと昔前なら奥田さんや津田さんのような人たちは「反権力」とか「反体制」という名の下にむしろ歓迎されていたような気がする。しかし今やアイドルがロック・フェスの冠がついたイベントに出るような昨今、そうした空気も変わってしまったのかもしれない。そんなことを同時に感じた今回の件であった。
奥田さんや津田さんが会場で何をするかは知るよしもないが、個人的には「音楽愛好者がそんなケチくさいことを言って締め出しをするのはいただけないな」と率直に感じた。フジ・ロックは何万人も参加するイベントであり、その中に自分の気に食わない思想の人間が数人混じったところでどうということもないだろう。枝葉末節を指摘してあれダメこれダメ言うような音楽ファンは「狭量」というほかない。今回の件の是非については以上で終わることにする。
しかしながら、フジロックに政治うんぬんの発言についてはいま否定したわけだが、そのような声が出てくるのはわからなくもない、と一方では思っている。理由は2つある。
まず、政治色やメッセージ色が強い音楽はこれまでも叩かれ続けてきたという歴史的経緯を知っているからだ。音楽と政治との組み合わせでもっとも象徴的なのは、やはり1985年の「ウィ・アー・ザ・ワールド」だろう。アフリカの貧困を救おうという主題のもと大物ミュージシャンが集まってできたこの曲は全世界で大ヒットを記録した。が、一方でその行為を「偽善」と批判する人も少なくなかった。音楽に限らず「チャリティ」という名のイベントに嫌悪感を抱く人は多い(私もそうです)。
根本的に何が悪いかといえば、やはり「音楽より政治が前に出ている(政治>音楽)」ということに尽きるだろう。お世辞にも「ウィ・アー・ザ・ワールド」は楽曲や歌詞に特筆するものがあるとは言えない。淡々とした楽曲に複数のシンガーが歌い回すという流れは平凡である。この曲に限らず、チャリティとか震災復興を目的としたイベントは政治色が前に出てしまい失敗する結果が数多い。というよりも、音楽と政治が見事に融合したイベントという好例は果たしてあるのだろうか。寡聞にして私はそういうものを知らないのである。いずれにせよ、「音楽は音楽として成立すること(音楽>政治)」がまず第一であり、またそうでなければわざわざ音楽表現というものを選択する必然性もないといえる。だからこそ、奥田さんが津田さんが音楽フェスに出てくることに対する嫌悪感というのは、私自身も理解できなくはないのだ。
もう1点、これは私の個人的見解が強いかもしれないが、本質的に芸術表現と政治活動というのは相性が悪いということが挙げられる。政治活動というのは私たちの生活に直接関わることばかりである。それゆえ、目標とするところは具体的で現実的でなければならないし、政治家の言動は常に責任が伴ってくる。しかし、芸術表現の向かうベクトルは政治活動のそれとはだいぶ違うように見える。芸術とはかくあるべきだ、などと言うつもりは全くないが、世間で「深い表現」とか「優れた芸術」というのは「抽象的」とか「豊かな想像力」とか「既成概念を打ち破る」というようなことが褒め言葉になる。このあたりはことごとく政治活動とは共通する部分が少ないだろう。
また、芸術家は芸術家で活動をしていくうえで「覚悟」のようなものがあると思うが、その言動についてはあまり責任が伴っているようには見えない。少し前に佐野元春が辺野古に関する文章の中で「どんなリーダーも信じない」というようなことを書いて賛否を呼んだが、私はその意味不明というかどうとでも解釈できるような曖昧な表現に違和感を抱いてしまった。つまり、政治家の言葉とはだいぶその「重み」が違っているのである。その原因は何かといえば、やはり行動するベクトルが両者で全く違うからというのが私の仮説とするところだ。
改めて結論を書けば、政治色の強い人が音楽フェスに出てくるのは個人的にも違和感はあるけれど、それを排除しようという姿勢は音楽ファンとしてはまずいだろう、と言いたかったまでである。
しかし、ひと昔前なら奥田さんや津田さんのような人たちは「反権力」とか「反体制」という名の下にむしろ歓迎されていたような気がする。しかし今やアイドルがロック・フェスの冠がついたイベントに出るような昨今、そうした空気も変わってしまったのかもしれない。そんなことを同時に感じた今回の件であった。
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