もう世間で大きく報道されているが、ボブ・ディランが今回ノーベル文学賞の受賞が決まった。「偉大なアメリカの歌の伝統の中で新たな詩的表現を創造してきた」というのが受賞理由だという。ミュージシャンとしては初の受賞であり、それについて賛否の意見が飛び交っているのも周知の通りである。ノーベル賞というもの自体に対する否定的な見解も見かけた。私はノーベル賞について何かよく知ってるわけでもないし、ディランについては来日公演を4回観た程度の人間に過ぎない。そこで、その範囲で思ったことを書いてみたい。

まず、ボブ・ディランに続いてノーベル賞を受賞するミュージシャンがこれからは出てこないだろう、という点だ。ディランがレコード・デビューをしたのは1962年のことで、同時期にデビューしたビートルズとともに後進のミュージシャンや芸術家などに大きな影響を与えたことは別に改めて述べることもないだろう。そして、彼に並ぶような存在が70年代以後の時代に出てきたかといえば、私はパッと思い浮かばない。ディランはとりわけその難解にして複雑な歌詞について注目され論じられてきたが、他に歌詞が評価された人といえば・・・モリッシーとか亡くなったルー・リードあたりが個人的にて出てくるけれど、いずれも世間的な知名度は及ばないというのが正直なところだ。

まあ、ディランについて少しでも知っているならば、ノーベル賞のような大きな賞の一つや二つ取ってもさしたる驚きでもないのだが(実際、ピューリッツァー賞も過去にもらっているわけだし)。彼がミュージシャンに出る以前と以後でポピュラー・ミュージックのあり方が変わってしまったことを思えば、今回の受賞については大きな意外性は無いとはいえる。

ただ、今回の件で違和感を抱くことがあるとすれば、歌詞「だけ」を評価された受賞されたという点だろうか。文学とは何かという大きな問題に触れる気もないけれど、彼があくまで「ミュージシャン」であり、「詩」ではなく「音楽」を作ってきたということは間違いない。あくまで歌詞は音楽の一要素であり、それだけを強調してもディランの素晴らしさは語れないだろう。当の私自身が、歌詞はほどんど聴き取れず歌詞カードもほとんど読まないまま現在に至っている。それは彼の歌詞よりも歌声とかサウンドの方に重きをおいて「音楽」に接していたから、という説明しかできそうもない。

現時点で、ディラン側から受賞に関する公式なコメントは出ていない。これはもう、今回の件について彼はさしたる関心もないという証拠だろう。かの哲学者サルトルのように、ディランもノーベル賞の受賞を拒否するのだろうか。

実際のところ、ファンにとってはかなりどうでもいい話だったかもしれない。ディランが本当に素晴らしいのは、レナード・コーエンもヴァン・モリソンもそうだが、この2016年になってもまだステージに立ちつづけて演奏をして作品を作り続けていることなのだから。

今回をきっかけに、またディランの作品を聴き直そうか、などという思いが少しよぎったが。が、この春に観た来日公演が前回と半分くらい内容が同じだった、というアレなものだったのでずっと聴かなくなっていたのだが・・・。それはともかく、まあおめでとう、というくらいは言いたい。

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