日垣隆「電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。」(11年、講談社)
2011年5月31日 読書
今日をもって、部屋に宅配してもらっている新聞を終わりにした。これからまた新聞を購読することは、少なくとも紙の新聞という形では、もうないだろう。今年の4月まで新聞社の子会社で働いていた関係上とらざるをえなかったが、そういう「しがらみ」も無くなったことだし、スッパリと断ち切ったわけだ。
作家•ジャーナリストの日垣隆さんはこれまでの著書や有料メルマガなどで新聞の不毛さを指摘し続けてきた。そして、今年の4月28日(私が前の会社を出た最後の日)に発売された本書はその極めつけとなっている。これを読んでしまったら、もはや新聞の存在意義など吹っ飛んでしまうこと間違いない。本日は私にとっての「新聞購読最期の日」であるため、これを記念して本書を紹介してみたい。
新聞業界の先行きについて書かれた本で、歌川令三「新聞がなくなる日」(05年、草思社)というものがある。これも日垣さんの「すぐに稼げる文章術」(06年、幻冬舎文庫)で紹介されていたものだが、毎日新聞社に長年勤めていた人が新聞業界の過去•現在•未来について論じている。
この本の冒頭で日本の新聞がたどった歴史が触れられている。それによれば日本最古の「日刊新聞」は1830(明治3)年の「横浜毎日新聞」だという。「グーテンベルクの活版印刷術を用いた最古の日刊紙」(本書P.17)だ。ちなみに横浜が新聞誕生の地ということで「日本新聞博物館」が00年10月に設立されている。
我が国における新聞普及の速度はかなり速かった。江戸時代から民衆の識字率は高かったうえに、売り捌き店(新聞販売店)も全国に広がって行く。そして日本独自の新聞経営は20世紀初頭で早くも確立される。きっかけは1904年から05年に起きた日露戦争だった。当時の新聞は戦況を伝える唯一のメディアだったからである。日清戦争から日露戦争までの10年間で新聞の部数は10倍にふくれあがる。
肝心の新聞経営のことだが、当時ですでに以下のようなシステムができあがっている(以下はP.19-20より)。
•部数増のおかげて、個別配達網が確立した。
•月極め読者獲得のための販売合戦が激化した。拡張のためには付録や増ページなど何でもありの企業文化ができ上がった。1907年、時事新報は創刊25周年記念号でページ数が200を超える新聞を発行。この記録はいまだに破られていない。
•手動の平版印刷機の代わりに、輪転機が導入された。
•多色刷りのカラー印刷が始まった。
•広告集めが軌道に乗った(広告代理店「電通」の前身、「日本広告」が1901年に誕生)。
•新聞販売促進策として、美人コンクール、遠泳大会、四国八十八箇所の巡礼競争、全国テニス大会などの事業部門が開設された。
宅配新聞、新聞広告、輪転機にカラー印刷、文化事業など、現在も新聞社でおこなわれている業務の基礎は全てこの時代にできあがっているといえよう。特に新聞業界の安定的な経営の柱となった宅配新聞制度は重要だ。「まだラジオもなかった頃、すでに、世界一の戸別配達制度ができ上がっていた」(P,20)のである。著者はこうした新聞の経営法を「日露戦争式ビジネスモデル」または「20世紀モデル」と称している。
このビジネスモデルはなかなか強固で完成度の高いもので、1950年代にテレビという新たなメディアが登場したときも、その親会社となったり「◯◯新聞」の冠付きのニュースを流したりして、依然マスコミの王者に君臨していた。その間に新聞社で大きな技術革新といえば1980年にコンピューターによる新聞制作技術が開発され、鉛の活字の存在が消えたことだろうか。新聞制作にも「デジタル化」が押し寄せたわけだが、明治以来のビジネスモデルはそれ以外にほとんど変化することがなかった。新聞の経営モデルはそれくらい「凄かった」のである。あくまで過去形ではあるが。
しかしそれに翳りが見えたのは「インターネット元年」と言われた1996年であろう。かくいう私も「インターネット」なるものを触ったのもこの年であった。これを機会に新聞は、いやテレビをはじめ旧来のメディアは軒並み経営が右肩下がりとなっていく。著者が新聞を「20世紀モデル」と表現したのは実に見事というしかない。つまり、21世紀には通用しないものだからである。テレビもラジオもアナログからデジタルに移行しつつある中、新聞だけが取り残されている。かつては強みであった20世紀モデルのあちこちに綻びが出てきているからだ。では、ここからは日垣さんの指摘を紹介しよう。
<新聞業界は落ちるところまで落ちたかに見えるが、違う。さらに深い奈落の底がある。
かつてなら新聞をとらないと恥ずかしい思いをせざるをえない時代があった。けれども、今はそんなことはない。ネットで充分と考える賢明な人が圧倒的になった。
もともと宅配新聞は、自ら新聞を選ぶ頭脳さえ使わない、単なる「習慣だった」と本当のことを言ったのである。
(中略)
私も宅配新聞を読む習慣を経って久しい。新聞は知恵を研鑽する手段としてはもう役割を終えた。
晩酌と等価の習慣にすぎない。>(P.99-100)
宅配新聞は習慣であると喝破したのはさすがだが、私自身を例にすれば「習慣」のレベルにすら至らなかったといえる。毎日届けられる新聞も広げることは滅多にない。そのまま古紙回収に出すか、近所の居酒屋のキッチンに敷かれて活用されるかのどちらかだった。しかしそれでも仕事をするのにほとんど支障がなかった(新聞業界の片隅で働いていたのにもかかわらず!)。また、毎日読んでるからといって仕事ができるというわけでもない、という事実も付け加えておこう。
日垣さんは続ける。
<そもそも新聞は、必要なのだろうか。
いや、実はもう13年ほど前に私の結論は出ている。
必要など、ない。>(P.103)
文章はさらに続く、しかも徹底的に。
<新聞社の方々にお聞きしたい。
なぜ毎日毎日「同じ量のニュース」があるのか。逆に談合による一斉休刊日には、なぜ一行もないのですかねえ。
私も、よく取材されることがある。一昨日も、昨日も、依頼があった。ここのところ7年ほど、新聞社からの取材は原則断っている。
つまらないからだ。
記事もつまらないし、大切なことを、わかりやすく喋っても、新聞記者の多くは、摩訶不思議な教育機関でもあるのか、コメントをつまらなく縮める技に秀でている。
これは大変な技術かもしれない。すごい伝統だ。
間違って数日前、西日本新聞の取材を受けてしまった。テーマがおもしろそうだったからだ。けれども長大な記事を見て、やっぱりこうなるのかと思った。
見事に、つまらないものに化けていたからである。すべて電話かメールの取材だろう。直接合っていたら、ここまで阿呆な記事にはなりえない。なるのかな(笑)
雑誌で酷い取材者もいるけれど、新聞ほどではない。経験上、それは断言できる。>(P.103-104)
<雑誌だった、本だって、つまらないものが多いではないか、という反論もあろうかと思う。
ならば、買わなければいい。
そういうふうになっている。
新聞だけは、宅配制度と、再販制度による景品物量作戦で、かろうじて延命しているにすぎない。>(P.106)
<なぜ新聞各紙の中身が8割方も酷似したものになるかと言えば、昔から「黒板協定」だの「ぶら下がり」だのという各種談合を各社が繰り返してきたからだ。>(P.113)
<満州事変を機にポツダム宣言受諾まで新聞統制が行われ、いわゆる「1県1紙」となったわけだが、この独禁法違反としか思えぬ状況は、今でも維持されている。
重大な、そして恥ずべき既得権益だ。おおむね各県で一つだけの地方紙が独占を未だ継承しているため、地方紙のほうが全国紙より部数の減少が穏やかなのである。>(P.128)
<テレビの凋落が激しいと言われる。しかし、やはり同時にナマで見るという連帯感にかなうものはない。一方、デンマーク戦(引用者注:サッカーW杯南アフリカ大会のこと)翌日の新聞は、日経新聞電子版が5時35分に第一報をブチこめただけで、5時にiPhoneで配信される産経新聞を始め、宅配の全国紙•地方紙は「サッカー」などまるで行われていないかのような紙面作りになっていた。
笑える。
新聞の武器は速報性だったはずだ。そこにテレビがとってかわり、正確性や掘り下げなどが付加価値と胸を張るようになった。だが、何も書けないジレンマに今、何の価値があるというのだろう。>(P.189-190)
引用ばかりで恐縮だが、これだけ読めばもう充分ではないだろうか。私はかつて、新聞をちゃんと読もうと思った時期がないわけではないが、ついに行動に移すことがなかった。それは私自身の怠惰と思っていたけれど、どうやら違っていたようだ。
やはり、新聞の中身が面白くないから。これに尽きる。
そして日垣さんはその理由を余す事無く伝えている。記者クラブや新聞協定や宅配新聞や「1県1紙」などの悪習、その日その日の報告をするだけでデータベースの価値しかない記事内容、そして速報性においても他メディアから大きく遅れを取っている、などなど•••。こんなメディアだから広告だってどんどん離れていく。
私の周囲で新聞を購読している人はほとんどいない。そして私もそこに加わった。しかし、それは当然の結果であろう。
これに対して、新聞業界はこのような指摘に負けることなく、また20世紀の(笑)黄金時代を取り戻すことができるだろうか。私はそう思わないのでこの世界から身を引いたわけである。
たぶん浮上しないだろう。なぜならば、この業界は人的資源も実に乏しいからだ。新聞社の子会社という現場の片隅の片隅にいたから、それは多少はわかる(笑)。
「せめて自分が退職までは大丈夫だろう•••」
そう願って、あれから10年もこの先10年も、新聞業界にしがみつこうとお考えの方には「頑張ってね!」という言葉しか私はもっていない。こういう人は直下型地震が起きても自分だけは無事だと根拠もなく考える人種だから、もはや救う方法はないのである。
それにしても、この本はもっと色々なことが書いてあるのだが、新聞のことに特化してしまった。著者には少し失礼だったかもしれないが、あまりに指摘がすごかったのでご了承いただきたい。
作家•ジャーナリストの日垣隆さんはこれまでの著書や有料メルマガなどで新聞の不毛さを指摘し続けてきた。そして、今年の4月28日(私が前の会社を出た最後の日)に発売された本書はその極めつけとなっている。これを読んでしまったら、もはや新聞の存在意義など吹っ飛んでしまうこと間違いない。本日は私にとっての「新聞購読最期の日」であるため、これを記念して本書を紹介してみたい。
新聞業界の先行きについて書かれた本で、歌川令三「新聞がなくなる日」(05年、草思社)というものがある。これも日垣さんの「すぐに稼げる文章術」(06年、幻冬舎文庫)で紹介されていたものだが、毎日新聞社に長年勤めていた人が新聞業界の過去•現在•未来について論じている。
この本の冒頭で日本の新聞がたどった歴史が触れられている。それによれば日本最古の「日刊新聞」は1830(明治3)年の「横浜毎日新聞」だという。「グーテンベルクの活版印刷術を用いた最古の日刊紙」(本書P.17)だ。ちなみに横浜が新聞誕生の地ということで「日本新聞博物館」が00年10月に設立されている。
我が国における新聞普及の速度はかなり速かった。江戸時代から民衆の識字率は高かったうえに、売り捌き店(新聞販売店)も全国に広がって行く。そして日本独自の新聞経営は20世紀初頭で早くも確立される。きっかけは1904年から05年に起きた日露戦争だった。当時の新聞は戦況を伝える唯一のメディアだったからである。日清戦争から日露戦争までの10年間で新聞の部数は10倍にふくれあがる。
肝心の新聞経営のことだが、当時ですでに以下のようなシステムができあがっている(以下はP.19-20より)。
•部数増のおかげて、個別配達網が確立した。
•月極め読者獲得のための販売合戦が激化した。拡張のためには付録や増ページなど何でもありの企業文化ができ上がった。1907年、時事新報は創刊25周年記念号でページ数が200を超える新聞を発行。この記録はいまだに破られていない。
•手動の平版印刷機の代わりに、輪転機が導入された。
•多色刷りのカラー印刷が始まった。
•広告集めが軌道に乗った(広告代理店「電通」の前身、「日本広告」が1901年に誕生)。
•新聞販売促進策として、美人コンクール、遠泳大会、四国八十八箇所の巡礼競争、全国テニス大会などの事業部門が開設された。
宅配新聞、新聞広告、輪転機にカラー印刷、文化事業など、現在も新聞社でおこなわれている業務の基礎は全てこの時代にできあがっているといえよう。特に新聞業界の安定的な経営の柱となった宅配新聞制度は重要だ。「まだラジオもなかった頃、すでに、世界一の戸別配達制度ができ上がっていた」(P,20)のである。著者はこうした新聞の経営法を「日露戦争式ビジネスモデル」または「20世紀モデル」と称している。
このビジネスモデルはなかなか強固で完成度の高いもので、1950年代にテレビという新たなメディアが登場したときも、その親会社となったり「◯◯新聞」の冠付きのニュースを流したりして、依然マスコミの王者に君臨していた。その間に新聞社で大きな技術革新といえば1980年にコンピューターによる新聞制作技術が開発され、鉛の活字の存在が消えたことだろうか。新聞制作にも「デジタル化」が押し寄せたわけだが、明治以来のビジネスモデルはそれ以外にほとんど変化することがなかった。新聞の経営モデルはそれくらい「凄かった」のである。あくまで過去形ではあるが。
しかしそれに翳りが見えたのは「インターネット元年」と言われた1996年であろう。かくいう私も「インターネット」なるものを触ったのもこの年であった。これを機会に新聞は、いやテレビをはじめ旧来のメディアは軒並み経営が右肩下がりとなっていく。著者が新聞を「20世紀モデル」と表現したのは実に見事というしかない。つまり、21世紀には通用しないものだからである。テレビもラジオもアナログからデジタルに移行しつつある中、新聞だけが取り残されている。かつては強みであった20世紀モデルのあちこちに綻びが出てきているからだ。では、ここからは日垣さんの指摘を紹介しよう。
<新聞業界は落ちるところまで落ちたかに見えるが、違う。さらに深い奈落の底がある。
かつてなら新聞をとらないと恥ずかしい思いをせざるをえない時代があった。けれども、今はそんなことはない。ネットで充分と考える賢明な人が圧倒的になった。
もともと宅配新聞は、自ら新聞を選ぶ頭脳さえ使わない、単なる「習慣だった」と本当のことを言ったのである。
(中略)
私も宅配新聞を読む習慣を経って久しい。新聞は知恵を研鑽する手段としてはもう役割を終えた。
晩酌と等価の習慣にすぎない。>(P.99-100)
宅配新聞は習慣であると喝破したのはさすがだが、私自身を例にすれば「習慣」のレベルにすら至らなかったといえる。毎日届けられる新聞も広げることは滅多にない。そのまま古紙回収に出すか、近所の居酒屋のキッチンに敷かれて活用されるかのどちらかだった。しかしそれでも仕事をするのにほとんど支障がなかった(新聞業界の片隅で働いていたのにもかかわらず!)。また、毎日読んでるからといって仕事ができるというわけでもない、という事実も付け加えておこう。
日垣さんは続ける。
<そもそも新聞は、必要なのだろうか。
いや、実はもう13年ほど前に私の結論は出ている。
必要など、ない。>(P.103)
文章はさらに続く、しかも徹底的に。
<新聞社の方々にお聞きしたい。
なぜ毎日毎日「同じ量のニュース」があるのか。逆に談合による一斉休刊日には、なぜ一行もないのですかねえ。
私も、よく取材されることがある。一昨日も、昨日も、依頼があった。ここのところ7年ほど、新聞社からの取材は原則断っている。
つまらないからだ。
記事もつまらないし、大切なことを、わかりやすく喋っても、新聞記者の多くは、摩訶不思議な教育機関でもあるのか、コメントをつまらなく縮める技に秀でている。
これは大変な技術かもしれない。すごい伝統だ。
間違って数日前、西日本新聞の取材を受けてしまった。テーマがおもしろそうだったからだ。けれども長大な記事を見て、やっぱりこうなるのかと思った。
見事に、つまらないものに化けていたからである。すべて電話かメールの取材だろう。直接合っていたら、ここまで阿呆な記事にはなりえない。なるのかな(笑)
雑誌で酷い取材者もいるけれど、新聞ほどではない。経験上、それは断言できる。>(P.103-104)
<雑誌だった、本だって、つまらないものが多いではないか、という反論もあろうかと思う。
ならば、買わなければいい。
そういうふうになっている。
新聞だけは、宅配制度と、再販制度による景品物量作戦で、かろうじて延命しているにすぎない。>(P.106)
<なぜ新聞各紙の中身が8割方も酷似したものになるかと言えば、昔から「黒板協定」だの「ぶら下がり」だのという各種談合を各社が繰り返してきたからだ。>(P.113)
<満州事変を機にポツダム宣言受諾まで新聞統制が行われ、いわゆる「1県1紙」となったわけだが、この独禁法違反としか思えぬ状況は、今でも維持されている。
重大な、そして恥ずべき既得権益だ。おおむね各県で一つだけの地方紙が独占を未だ継承しているため、地方紙のほうが全国紙より部数の減少が穏やかなのである。>(P.128)
<テレビの凋落が激しいと言われる。しかし、やはり同時にナマで見るという連帯感にかなうものはない。一方、デンマーク戦(引用者注:サッカーW杯南アフリカ大会のこと)翌日の新聞は、日経新聞電子版が5時35分に第一報をブチこめただけで、5時にiPhoneで配信される産経新聞を始め、宅配の全国紙•地方紙は「サッカー」などまるで行われていないかのような紙面作りになっていた。
笑える。
新聞の武器は速報性だったはずだ。そこにテレビがとってかわり、正確性や掘り下げなどが付加価値と胸を張るようになった。だが、何も書けないジレンマに今、何の価値があるというのだろう。>(P.189-190)
引用ばかりで恐縮だが、これだけ読めばもう充分ではないだろうか。私はかつて、新聞をちゃんと読もうと思った時期がないわけではないが、ついに行動に移すことがなかった。それは私自身の怠惰と思っていたけれど、どうやら違っていたようだ。
やはり、新聞の中身が面白くないから。これに尽きる。
そして日垣さんはその理由を余す事無く伝えている。記者クラブや新聞協定や宅配新聞や「1県1紙」などの悪習、その日その日の報告をするだけでデータベースの価値しかない記事内容、そして速報性においても他メディアから大きく遅れを取っている、などなど•••。こんなメディアだから広告だってどんどん離れていく。
私の周囲で新聞を購読している人はほとんどいない。そして私もそこに加わった。しかし、それは当然の結果であろう。
これに対して、新聞業界はこのような指摘に負けることなく、また20世紀の(笑)黄金時代を取り戻すことができるだろうか。私はそう思わないのでこの世界から身を引いたわけである。
たぶん浮上しないだろう。なぜならば、この業界は人的資源も実に乏しいからだ。新聞社の子会社という現場の片隅の片隅にいたから、それは多少はわかる(笑)。
「せめて自分が退職までは大丈夫だろう•••」
そう願って、あれから10年もこの先10年も、新聞業界にしがみつこうとお考えの方には「頑張ってね!」という言葉しか私はもっていない。こういう人は直下型地震が起きても自分だけは無事だと根拠もなく考える人種だから、もはや救う方法はないのである。
それにしても、この本はもっと色々なことが書いてあるのだが、新聞のことに特化してしまった。著者には少し失礼だったかもしれないが、あまりに指摘がすごかったのでご了承いただきたい。