長い長い連勤は「20日」で一区切りにして、今日は休みをとった。題名の通りeastern youthのライブ、それも現在のメンバーとしては最後の京都公演だ。
開演が近づくごとに感傷的な気持ちも出てきたが、どうもいまいち気分がスッキリしない。理由はこの天気だろう。春の嵐というほどでもないが、ここ最近は不安的な気候が続いている。磔磔のサイトを覗いてみたら、いつの間にやらチケットは「sold out」となっていた。磔磔で彼らのライブが完売したというのは10年ぶりくらいではないだろうか。それはそれで嬉しいものの、しかしあの狭苦しい会場がすし詰めになると思うと正直気分は重たい。
午後5時20分、開場10分前に磔磔へ到着する。空は相変わらずどんよりとしていたが、幸い雨は降らなかった。私の整理番号は「A126番」とそれほど若い番号ではなかったものの、早くから待って入場して適当なところに陣取ったら前から2列目の左側を確保することができた。真っ平な磔磔なので前にいた方が断然観やすい(真ん中のより後ろだったら、もう演者の頭くらいしか見えない)。ドリンク代と引き換えた缶ビールを飲んでいたら、
「これで3人の京都ライブは最後かあ・・・」
とまた寂しさが高まってくる。そうしているうちに時計の針は午後6時を回り、開演である。田森氏、そして本ツアーをもって脱退する二宮氏が通る時に手を伸ばしたらタッチすることができた。そして目の前に陣取ってから、そういえばこちらから見て左が二宮サイドだったと気づく。今夜の私は実に良い場所に立てたと思う。
1曲目は予想通り新作「ボトムオブワールド」(15年)の“街の底”、そして“鳴らせよ 鳴らせ”と続く。以前に感想を書いたがこの3人の集大成ともいえる素晴らしいアルバムなのでお客の反応はすこぶる良い感じだ。久しぶりの完売公演なので暴れるバカが混じっているのではという一抹の不安があったが、後ろから強い圧力がかかるということもなく終始気持ちよくライブを観ることができた。このあたりはさすがeasternを長年観てきた人たちの姿勢であろう。ダイブやモッシュが起きれば「盛り上がる」という感覚は実に幼稚で単純なものがあると、こうしたライブに参加していると本当に思う。
よく言われることだが、磔磔という会場は特に音響が良いところではない。しかも私は前の方に陣取っていたため音自体にはそれほど素晴らしいとは感じられなかった。ただ、近距離で3人の演奏する姿を間近で観られたという事実は感慨深いものがある。
“ナニクソ節”が終わった後、
「お願いします」
と吉野氏が言うと、観客にとって実に驚くことが起きた。なんとドラムスの田森氏がマイクを手にとって話し始めたのでる。内容は先週誕生日を迎えましたという他愛もないことだが、おそらく始めて私が直に聞いた彼の生声である。このあたりが今回のツアーの位置づけを物語っているようでならない。
そして続いて演奏されたのは、なんと“月影”というだいぶ昔の曲である。間奏で「オー!オー!と」一緒になって歌っていて往年のファンたちは盛り上がっていたが、このあたりの作品をちゃんと聴きこんでいない私は少し取り残されたような感覚におちいった。
“踵鳴る”のあとにまた「お願いします」の合図で、二宮氏のMCだ。これもほとんど中身のない内容であり今回で脱退という雰囲気は一つもなかった。そしていつもは演奏前にいろいろとユーモアの交えたMCをする吉野氏はここまで全くしゃべっていない。ただ、花粉症か風邪なのかよくわからないが、やたらティッシュで鼻をかむ場面がありそれが笑いを誘った。普通の歌手なら歌える状態でもなかったかもしれないが、彼らの音楽には鼻の状態はそれほど影響がないようである。
私には音楽的知識がなくてeasternにしても何か音的に語る術はもっていなくて歯がゆい思いがするのだが、“万雷の拍手”などを観ていると、やはりこの3人が揃って鳴らさないとこの音は出ないのではと思ってしまう。最後は“荒野に針路を取れ”で終わる。「旅が続く」というフレーズが何度か出てくるこの曲で本編が締められたというのは何やら象徴的ではある。
アンコールが始まる前に、再び二宮氏のMCで、今回のツアーで卒業ということに、と切り出してきた。これからはアッちゃん(田森氏のこと)がセンターをやって、とふざけたことを言いながらも、
「・・・寂しいねえ・・・」
とこぼした時は、
「寂しいよ!」
と客席から叫び声が聞こえてきた。
ただ、
「バンドが解散するわけでもないし・・・」
と言っていたのには「え?そうなの?」と私には意外な話だった。そういうこともあってか最後の二度目のアンコールで“夜明けの唄”が終わり、
「ありがとう!またどこかで!」
と吉野氏が叫んで終演してもあまり会場は湿っぽい雰囲気にならなかったのは良かったと思う。ただ、終わってからステージの写真をさかんに撮影している人たちをちらほら見かけたのはいつもと違う光景だった。
演奏曲目は以下に記すが、全てが終わったのは午後8時10分ちかくだった。全19曲で実に2時間以上も演奏したのは彼らのこれまでのライブでも絶後だろう(いままでは1時間半かそこらだ)。少しでも多くの曲を最後のツアーで披露しようという彼らの姿勢に、14年ほど観てきた身としては胸を打つものがあった。
来月の梅田クラブクアトロの大阪公演が、私にとってはこの3人で最後のeastern youthのライブである。
【演奏曲目】
(1)街の底
(2)鳴らせよ 鳴らせ
(3)沸点36℃
(4)イッテコイ カエッテコイ
(5)茫洋
(6)ナニクソ節
(7)月影
(8)男子畢生危機一髪
(9)青すぎる空
(10)雨曝しなら濡れるがいいさ
(11)テレビ塔
(12)踵鳴る
(13)直に掴み取れ
(14)グッドバイ
(15)万雷の拍手
(16)荒野に針路を取れ
(アンコール1)
(17)夏の日の午後
(18)砂塵の彼方
(アンコール2)
(19)夜明けの唄
開演が近づくごとに感傷的な気持ちも出てきたが、どうもいまいち気分がスッキリしない。理由はこの天気だろう。春の嵐というほどでもないが、ここ最近は不安的な気候が続いている。磔磔のサイトを覗いてみたら、いつの間にやらチケットは「sold out」となっていた。磔磔で彼らのライブが完売したというのは10年ぶりくらいではないだろうか。それはそれで嬉しいものの、しかしあの狭苦しい会場がすし詰めになると思うと正直気分は重たい。
午後5時20分、開場10分前に磔磔へ到着する。空は相変わらずどんよりとしていたが、幸い雨は降らなかった。私の整理番号は「A126番」とそれほど若い番号ではなかったものの、早くから待って入場して適当なところに陣取ったら前から2列目の左側を確保することができた。真っ平な磔磔なので前にいた方が断然観やすい(真ん中のより後ろだったら、もう演者の頭くらいしか見えない)。ドリンク代と引き換えた缶ビールを飲んでいたら、
「これで3人の京都ライブは最後かあ・・・」
とまた寂しさが高まってくる。そうしているうちに時計の針は午後6時を回り、開演である。田森氏、そして本ツアーをもって脱退する二宮氏が通る時に手を伸ばしたらタッチすることができた。そして目の前に陣取ってから、そういえばこちらから見て左が二宮サイドだったと気づく。今夜の私は実に良い場所に立てたと思う。
1曲目は予想通り新作「ボトムオブワールド」(15年)の“街の底”、そして“鳴らせよ 鳴らせ”と続く。以前に感想を書いたがこの3人の集大成ともいえる素晴らしいアルバムなのでお客の反応はすこぶる良い感じだ。久しぶりの完売公演なので暴れるバカが混じっているのではという一抹の不安があったが、後ろから強い圧力がかかるということもなく終始気持ちよくライブを観ることができた。このあたりはさすがeasternを長年観てきた人たちの姿勢であろう。ダイブやモッシュが起きれば「盛り上がる」という感覚は実に幼稚で単純なものがあると、こうしたライブに参加していると本当に思う。
よく言われることだが、磔磔という会場は特に音響が良いところではない。しかも私は前の方に陣取っていたため音自体にはそれほど素晴らしいとは感じられなかった。ただ、近距離で3人の演奏する姿を間近で観られたという事実は感慨深いものがある。
“ナニクソ節”が終わった後、
「お願いします」
と吉野氏が言うと、観客にとって実に驚くことが起きた。なんとドラムスの田森氏がマイクを手にとって話し始めたのでる。内容は先週誕生日を迎えましたという他愛もないことだが、おそらく始めて私が直に聞いた彼の生声である。このあたりが今回のツアーの位置づけを物語っているようでならない。
そして続いて演奏されたのは、なんと“月影”というだいぶ昔の曲である。間奏で「オー!オー!と」一緒になって歌っていて往年のファンたちは盛り上がっていたが、このあたりの作品をちゃんと聴きこんでいない私は少し取り残されたような感覚におちいった。
“踵鳴る”のあとにまた「お願いします」の合図で、二宮氏のMCだ。これもほとんど中身のない内容であり今回で脱退という雰囲気は一つもなかった。そしていつもは演奏前にいろいろとユーモアの交えたMCをする吉野氏はここまで全くしゃべっていない。ただ、花粉症か風邪なのかよくわからないが、やたらティッシュで鼻をかむ場面がありそれが笑いを誘った。普通の歌手なら歌える状態でもなかったかもしれないが、彼らの音楽には鼻の状態はそれほど影響がないようである。
私には音楽的知識がなくてeasternにしても何か音的に語る術はもっていなくて歯がゆい思いがするのだが、“万雷の拍手”などを観ていると、やはりこの3人が揃って鳴らさないとこの音は出ないのではと思ってしまう。最後は“荒野に針路を取れ”で終わる。「旅が続く」というフレーズが何度か出てくるこの曲で本編が締められたというのは何やら象徴的ではある。
アンコールが始まる前に、再び二宮氏のMCで、今回のツアーで卒業ということに、と切り出してきた。これからはアッちゃん(田森氏のこと)がセンターをやって、とふざけたことを言いながらも、
「・・・寂しいねえ・・・」
とこぼした時は、
「寂しいよ!」
と客席から叫び声が聞こえてきた。
ただ、
「バンドが解散するわけでもないし・・・」
と言っていたのには「え?そうなの?」と私には意外な話だった。そういうこともあってか最後の二度目のアンコールで“夜明けの唄”が終わり、
「ありがとう!またどこかで!」
と吉野氏が叫んで終演してもあまり会場は湿っぽい雰囲気にならなかったのは良かったと思う。ただ、終わってからステージの写真をさかんに撮影している人たちをちらほら見かけたのはいつもと違う光景だった。
演奏曲目は以下に記すが、全てが終わったのは午後8時10分ちかくだった。全19曲で実に2時間以上も演奏したのは彼らのこれまでのライブでも絶後だろう(いままでは1時間半かそこらだ)。少しでも多くの曲を最後のツアーで披露しようという彼らの姿勢に、14年ほど観てきた身としては胸を打つものがあった。
来月の梅田クラブクアトロの大阪公演が、私にとってはこの3人で最後のeastern youthのライブである。
【演奏曲目】
(1)街の底
(2)鳴らせよ 鳴らせ
(3)沸点36℃
(4)イッテコイ カエッテコイ
(5)茫洋
(6)ナニクソ節
(7)月影
(8)男子畢生危機一髪
(9)青すぎる空
(10)雨曝しなら濡れるがいいさ
(11)テレビ塔
(12)踵鳴る
(13)直に掴み取れ
(14)グッドバイ
(15)万雷の拍手
(16)荒野に針路を取れ
(アンコール1)
(17)夏の日の午後
(18)砂塵の彼方
(アンコール2)
(19)夜明けの唄
渡辺美里「BREATH」(87年)
2015年4月19日 渡辺美里
○「BREATH」概説
「BREATH」は1987年7月15日に発売された、渡辺美里の3枚目のアルバムである。オリコンでは週間1位、年間でも9位に入る大ヒットを記録した。87年5月2日に先行シングルとして発売された“IT’S TOUGH/BOYS CRIED(あの時からかもしれない)”も最高位2位のヒットとなっている。90万枚のセールスを記録した、と彼女の特集をしたラジオ番組で紹介された記憶がある。
○アルバム・ジャケットについて
彼女の顔が全面に映し出される異様なデザインは、キング・クリムゾンやU2のアルバムを参考にしたものらしい。クリムゾンはもちろん有名なファースト・アルバム「クリムゾン・キングの宮殿」(69年)、U2については彼らの初期の代表作「WAR」(83年)で間違いないだろう。
そういえば亡くなった私の父親がこのCDを見て「気持ち悪い」と言っていたのを思い出す。
発売当時はレコード盤だったので、一辺が約30cmの大きさのジャケットで見たらもっと衝撃的だっただろう。そう、まだ時代はMP3どころかCDですら普及していなかったのである。ともあれ、ジャケットに関しては個人的にもあまり愛着はいまだに抱けないような気がする。
○初のセルフ・プロデュース作品という意義
初期の彼女を語る際に、共演したミュージシャンの豪華さを指摘されることが多い。小室哲哉や大江千里や岡村泰幸といった作家陣は言うまでもないが、本作より作曲家デビューする伊秩弘将はSPEEDを手掛けたことで有名になり、また編曲の西平彰は後に宇多田ヒカルとの仕事を残している。
しかし、そうした指摘は後付けというか、この頃の渡辺美里にとっては枝葉末節な要素だといえる。誰でも良かったというのは言い過ぎだろうが、この人が歌えばあとはどうでもいいという雰囲気が全盛期のこの人にはあった。それは彼女が敬愛するジャニス・ジョプリンと共通するものがある。ジャニスが初期に関わっていたバンドであるビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーはあまり高い技術が無かったと言われているけれど、それによってジャニスの歌手としての価値が薄れるものでもなかった。
過去2枚と本作が決定的に異なる点は、アルバムの「プロデューサー」として美里自身が名前を連ねたことである。それにともない本作の作詞は全て彼女自身の手によるものとなった。これは「歌手」としての役割にとどまらず「表現者・渡辺美里」という色合いも強く打ち出すことを意味している。それが本作で何よりも重要な点であると強調したい。
1曲目の“BOYS CRIED”から最後の“風になれたら”に至るまで、どこを切っても渡辺美里という世界観ができあがっている。私は音楽的知識がいまだに乏しいしプロデュースという行為も実際のところはよくわからないが、アルバムの隅々まで自分自身の色に染め上げるというのは「プロデュース」の一つの極北の姿であろう。
デビューの頃から周囲には、自分がしたいことは主張するように、と教えられてきたとどこかで語っていたことを思い出すが本作はそうした姿勢が見事に結実したものといえる。そんなこと考えると、彼女の顔が全面のジャケットもなんだか象徴的に思えてくる。
引き続き翌年に出る「ribbon」(88年)では、力強さを保ったままもっと鮮やかで開放的な世界を作り上げセールスも最高の結果を出すことになるが、もし渡辺美里を知りたいと思うなら「BREATH」と「ribbon」を聴けばだいたいのイメージは掴めるのではないだろうか。
一言でいえば、内に向かう「BREATH」、外に向かう「ribbon」というのが私の全体的なアルバムの印象である。
○当時の時代背景について
本作を語る際にはやはり当時の時代背景は切り離せないだろう。現在からすれば87年というのはバブル景気の絶頂というイメージになるだろうか。確かに調べてみれば、2月のNTT株上場にともなう「財テク」ブーム、6月には日経平均株価が2万5000円台へ突入し銀座の土地が1億円になるなどもこの年である。ただ、同年10月19日にはニューヨーク株式市場が大暴落する「ブラック・マンデー」と呼ばれる事件が起き、そうした状況は既にほころびを示していたが、90年代前半までは好景気が続いていく。
日本経済はそんな狂騒的な中で、特に努力をしなくても勝手に給料が上がっていくという現象が続いていた。それゆえ、いまでも根強い支持のある「良い大学に入って大企業に入れば一生安泰」という公式(ある時期まではそれは通用していた)がこの時代にできあがったといえよう。
しかし当時に少年時代を過ごしていた人間から見れば、そんなに明るいばかりでもなかったと記憶している。今はもう誰も騒ぐ話ではなくなったが、中学生が「いじめ」を苦に自殺したという事件が全国的に話題になったのは前年の1986年の2月のことだ。「受験戦争」という言葉も当時はよく聞いたものだが、エリートコースのレールに乗るために良い大学を入るという単一的な価値観に対して危機感を持った若者も少なくなかったのだろう。そうした時代を象徴するミュージシャンの一人が、例えば83年にデビューした尾崎豊だった。
両者は「女・尾崎」「男・美里」などと比較されていたらしいが、死のイメージがつきまとう尾崎と、格好悪いくらい生きることに執着している彼女とは方向性が全く違うと個人的は思う。ただ、当時の若者に対して歌を発信していたという点は共通するだろう。“BOYS CRIED”、“IT’S TOUGH”、“BORN TO SKIP”、“PAJAMA TIME”といった曲はそうした悩める青年のためのものであるように思えてならない。
○個々の楽曲について
(1)BOYS CRIED~あの時からかもしれない(作詞:MISATO、作曲:伊秩弘将、編曲:西平彰)
アルバムは、イントロと同時に美里の声がバーンと飛び出すこの曲から幕を開ける。冒頭から力いっぱいで初プロデュース作品の意気込みが強く感じられ、これまでの2作とは全く世界が築かれていることが一瞬でわかる。本作より参加の佐橋佳幸のアコースティック・ギターを軸にした音も新しい境地を切り開いている。
歌詞については、ニューヨークへ旅立つ好きな相手に思いを伝える、などと今までは勝手に解釈していたが改めて確認してみるとよくわからない内容だ。ただ一つ一つの言葉が率直かつ簡潔で、それがあの力強い歌声が重なると明確な世界が作り上げられていく。人によっては、ひねりが無いとか底が浅いといった見方をするかもしれないが、好き嫌いはともかくとしてこれはやはり天賦の才というものであろう。
曲名からして歌に登場するのは20代にいくかいかない青年であることは間違いない。
ただ、
<Like a child すべてを 信じてはいないよ>
と、子どもから大人になりつつある微妙な心情が歌詞にも表れている。
(2)HAPPY TOGETHER(作詞:MISATO、作曲・編曲:佐橋佳幸)
こちらは佐橋のエレキ・ギターを中心としたもので、作曲・編曲も彼が手がけている。ローリング・ストーンズあたりを意識したのだろうか、ブルースっぽい雰囲気の強いロック・ナンバーとなっている。DJ風の声、笑い声、手拍子、「ウー、ハー」と繰り返される擬音などが挿入されているが、こうした手法は以後の彼女の作品にもよく見られる。
これまでライブでは聴いたことはないが、かなり負担のかかる歌い方を終始している曲なので当然といえば当然かもしれない。
特に、
<みせかけだけのありふれたビートじゃまるで踊れやしない
だれでもみんな自由でいたいはずさ
Rocking ChairにKick! You can make me free!>
あたりの畳み掛けるような流れは、いまのこの人にはおそらく再現不可能だろう。若さと勢いと才能が作り上げたものともいえる。
それにしても、この部分の歌詞だけ見るとまるっきり佐野元春という感じだが、聴いている時には全くそんな印象は与えず完全に彼女の世界と化している。
(3)IT’S TOUGH(作詞:MISATO、作曲:伊秩弘将、編曲:西平彰)
先ほども触れたが、このアルバム唯一のシングル曲にしてヒット曲である。最近のライブで本作から披露されるものは極めて少ないが、これだけはよく取り上げられている。
神経質そうなキーボードの音と、「チュッ!チュッ!チュッ!・・・」というコーラスとの絡みで始まるイントロの部分は正直いまでもあまり好きにはなれない。ただ、曲間で何度も出てくるこのコーラスを聴いているうちに可愛らしく感じるようになった気がする。
これを書くために繰り返しアルバムを聴いて歌詞カードを読んでいたが、この曲に使われている言葉(「ウェイトレス」、「ノイズ」、「エゴ」、「スクラップ」、など)もまた佐野元春を連想してしまう。同じEPICソニーの出身とはいえ全く方向性の違う二人なので関連性など全く感じなかったが、今回そんなことを気づいてしまった。
歌を聴いている時はなんとなくはっきりした世界があるように錯覚してしまうが、この曲についても内容はそれほど明確なストーリー性があるわけではない。
ただ、
<Time is passing so fast
Hard times won’t last so long>
という一節は、悩み苦しむ時期などそんなに長くは続かないよ、と自分と同世代もしくは下の世代に投げかけているような気がする。
(4)MILK HALLでお会いしましょう(作詞:MISATO、作曲:佐橋佳幸、編曲:清水信之)
題名に出てくる「MILK HALL(ミルクホール)」とは、美里が通っていた東京都立松原高校そばにある(あった?)、夏の間だけ営業しているかき氷の店「ミルクホール石川」から取られている。
検索すると、店に関するブログが出てきた。
渡辺美里が愛したかき氷屋さん:ミルクホール石川
http://ice.hatenablog.jp/entry/20060911/1157929741
けっこう前の日記で「食べログ」の情報も途絶えがちなので、もう営業しているかどうかはわからない。それはともかく美里と佐橋、そして編曲の清水信之も松原高校の出身であり、それが縁で出来上がった曲なのだろう。そのためか歌詞には深刻さや苦悩を感じさせる表現も出てこないし、曲調も軽快なものになっている。
(5)BREATH(作詞:MISATO、作曲:伊秩弘将、編曲:清水信之)
ピアノとストリングス、そして吹奏楽器をバックにした7分を超えるバラード。レコード盤ではA面の最後を飾る曲だ。
力強くも抑制されて余裕のある歌いっぷりは全盛期の彼女ならではもので、流れるよう通して聴けるため実際ほどの長さは感じられない。
歌詞は少し大人っぽい世界を目指したように思えるが、
<くせのある文字 ゆずれない生き方も
曲がったえりも今のままでいて>
という一節は不器用な生き方をしている恋人への愛着を感じさせる。そしてそれはまた、歌っている本人の姿でもあるのだろう。
生で聴く機会はないと勝手に思っていたが、2000年に初めて西武ドームのライブに行った時にストリングスをバックに歌われた時の感動は今も生々しいものがある。
(6)RICHじゃなくても(作詞・作曲:MISATO、編曲:清水信之)
レコードB面の1曲目は、彼女の作品としては非常に珍しいスウィング・ジャズ調だ。アルバムの個々の楽曲を検討すれば音楽性はけっこう色々なものを並べているのがわかる。
ホーン・セクションをバックに、
<週末のチャイニーズカフェは
Richじゃなくても夢があふれている
ブローチ一つのドレスアップでも
小さなParty Swingしなきゃ意味がない>
という極めてストレートな世界が歌われる。特に「Swingしなきゃ意味がない」という部分はあまりにそのままで実にこの人らしい。しかしそれが凡庸な結果になっていないのは、やはり歌声の力が大きい。
ある時期までのライブではホーン隊を従えていたが、音的にも彼女の趣味嗜好が感じとれる1曲という気がする。
(7)BORN TO SKIP(作詞:MISATO、作曲:木根尚登、編曲:清水信之)
中国をイメージさせるメロディをもつこの曲は、アルバムで最も重要な曲かもしれない。勘違いかもしれないが、何かの本でこのアルバムについて「青春の痛み」と形容していたような記憶がある。この曲はまさにそうした内容で、非常に荒涼とした光景が続く。ぜひ歌詞は一読いただけばと思う。
http://petitlyrics.com/lyrics/23404
大人になっていくことへの不安や苦悩のようなものを凝縮した曲という気がするが、
<いい時代じゃないと ささやきかける大人(ヒト)達
僕達は今 この時代しか知らない>
という一節は特に秀逸で、大人の尺度ではどうにも理解できない思春期の青年の複雑な思いを見事に言い表していて未だに色褪せない響きがある。
ライブでも時おり披露される(今年の元日ライブでも歌われた)ので、彼女自身もそれなりに思い入れがある曲なのかもしれない。
(8)HERE COMES THE SUN(ビートルズに会えなかった)(作詞:MISATO、作曲:小室哲哉、編曲:西平彰)
美里が生まれた1966年にザ・ビートルズが来日を果たした。そういうわけで彼らに会う機会がなかったというテーマを歌っている。題名の“HERE COMES THE SUN”は実質的なラスト・アルバム「アビイ・ロード」(69年)の収録曲からとられている。
<12月に彼は星になった>
という一節は、1980年12月8日にジョン・レノンが射殺されたことを示している。
これもうろ覚えの記憶だが、93年(アルバム「BIG WAVE」が出たころ)の「月刊カドカワ」に載っていた彼女のインタビューで、私の世代はヒーローが不在なんです、というようなことを言っていたことを思い出す。そんな彼女のジェネレーション・ソングという気がする。
コーラスにはこの年の4月に発売された“Get Wild”でついにシングル・ヒットを出したTM-NETWORKの名前が載っている。楽曲もビートルズというよりTMの雰囲気となっている。
(9)PAJAMA TIME(作詞:MISATO、作曲:小室哲哉、編曲:清水信之)
小室哲哉が彼女に提供した曲で最も好きなのは“卒業”かこの“PAJAMA TIME”である。大ヒット曲“My Revolution”が一番有名であることに異論はないが、当時(86年)の私は小学4年生だった。よってリアル・タイムで聴いていたわけでもないし、正直にいえば、名曲とは思うものの、格別な思い入れは抱いていない。
無論このアルバムに入っている曲についても同時代でないし同じようなものなのだが、“Pajama Time”は別のところで私の記憶に残っている。アルバム「Lucky」(91年)で「信者」となった当時中学3年生の私は彼女に関する情報はいくらでもほしかった。その中で特に興味があったのはFM東京系のラジオ番組「渡辺美里の虹をみたかい」(放送期間は90年4月~93年3月)だった。しかし住んでいた地域(北海道登別市)はFM局の電波が届かないところだった。
それでも試しにある日の土曜の夜9時に窓際でラジオを持っていって周波数を合わせたら、あの“パイナップルロマンス”とイントロが流れて番組が聴こえてきたのである。夜中は電波が通りやすいことが奏功したのだ。
まだアルバムを全て揃えてなかった時でラジオで初めて知った曲がいくつかあったが、その一つがこれだった。寒さの厳しい北海道の冬の夜に、しかも窓際で聴いたこの曲はひときわ印象が残っている。そういうわけで、私にとってこの曲は冬のイメージと強く結びついている。
他の方の思い出も紹介したい。ネットでアルバムについての感想を探していたら、ライブ(99年の「うたの木オーケストラ」)でこの曲を聴いて、
<この河の流れが速すぎて 泳げない時は
この河の幅が広すぎて 渡れない時は
この河を飛べる大きな翼 今はないから
こぎ出せるボートを下さい>
という後半の部分で涙が出たというのを見つけた。私はこれを聴いて泣いた経験はないものの、最後の劇的な盛り上がり方は本当に見事だしなんとなくその気持ちはわかる。93年の「BIG WAVE TOUR」で初めて生で聴けた時は本当に嬉しかった。
本人も気に入っている作品のようで、リメイク・アルバムで再演されているしライブでも頻繁ではないが披露されてはいる。
(10)風になれたら(作詞:MISATO、作曲・編曲:佐橋佳幸)
アルバムの最後は佐橋のアコースティック・ギターを主体にした穏やかな曲で締めくくられる。ちなみに先ほど触れたラジオ番組「虹をみたかい」の前進が「風になれたら」(放送期間は87年10月~90年3月)という名前だった。
長い間このアルバムを聴いているが、この曲だけはなんだかアルバムでも異色だなあとなんとなく感じていた。その理由は歌詞を見ていて思ったが、むしろ次作「ribbon」に近い世界観だからという気がする。
一方、前年(86年10月22日)に発売されたシングル“BELIEVE”(オリコンで最高2位を記録)は本作に合っていると思うのだが、なぜか「ribbon」の方に収録されたのもなんとなく不思議だ。
「ふわり」、「ぽつり」、「くるり」、「ぽろん」と日本語らしい擬音が使われており、こうした表現も好きな人だなあと、いまさらながらに感じた次第である。
「BREATH」は1987年7月15日に発売された、渡辺美里の3枚目のアルバムである。オリコンでは週間1位、年間でも9位に入る大ヒットを記録した。87年5月2日に先行シングルとして発売された“IT’S TOUGH/BOYS CRIED(あの時からかもしれない)”も最高位2位のヒットとなっている。90万枚のセールスを記録した、と彼女の特集をしたラジオ番組で紹介された記憶がある。
○アルバム・ジャケットについて
彼女の顔が全面に映し出される異様なデザインは、キング・クリムゾンやU2のアルバムを参考にしたものらしい。クリムゾンはもちろん有名なファースト・アルバム「クリムゾン・キングの宮殿」(69年)、U2については彼らの初期の代表作「WAR」(83年)で間違いないだろう。
そういえば亡くなった私の父親がこのCDを見て「気持ち悪い」と言っていたのを思い出す。
発売当時はレコード盤だったので、一辺が約30cmの大きさのジャケットで見たらもっと衝撃的だっただろう。そう、まだ時代はMP3どころかCDですら普及していなかったのである。ともあれ、ジャケットに関しては個人的にもあまり愛着はいまだに抱けないような気がする。
○初のセルフ・プロデュース作品という意義
初期の彼女を語る際に、共演したミュージシャンの豪華さを指摘されることが多い。小室哲哉や大江千里や岡村泰幸といった作家陣は言うまでもないが、本作より作曲家デビューする伊秩弘将はSPEEDを手掛けたことで有名になり、また編曲の西平彰は後に宇多田ヒカルとの仕事を残している。
しかし、そうした指摘は後付けというか、この頃の渡辺美里にとっては枝葉末節な要素だといえる。誰でも良かったというのは言い過ぎだろうが、この人が歌えばあとはどうでもいいという雰囲気が全盛期のこの人にはあった。それは彼女が敬愛するジャニス・ジョプリンと共通するものがある。ジャニスが初期に関わっていたバンドであるビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーはあまり高い技術が無かったと言われているけれど、それによってジャニスの歌手としての価値が薄れるものでもなかった。
過去2枚と本作が決定的に異なる点は、アルバムの「プロデューサー」として美里自身が名前を連ねたことである。それにともない本作の作詞は全て彼女自身の手によるものとなった。これは「歌手」としての役割にとどまらず「表現者・渡辺美里」という色合いも強く打ち出すことを意味している。それが本作で何よりも重要な点であると強調したい。
1曲目の“BOYS CRIED”から最後の“風になれたら”に至るまで、どこを切っても渡辺美里という世界観ができあがっている。私は音楽的知識がいまだに乏しいしプロデュースという行為も実際のところはよくわからないが、アルバムの隅々まで自分自身の色に染め上げるというのは「プロデュース」の一つの極北の姿であろう。
デビューの頃から周囲には、自分がしたいことは主張するように、と教えられてきたとどこかで語っていたことを思い出すが本作はそうした姿勢が見事に結実したものといえる。そんなこと考えると、彼女の顔が全面のジャケットもなんだか象徴的に思えてくる。
引き続き翌年に出る「ribbon」(88年)では、力強さを保ったままもっと鮮やかで開放的な世界を作り上げセールスも最高の結果を出すことになるが、もし渡辺美里を知りたいと思うなら「BREATH」と「ribbon」を聴けばだいたいのイメージは掴めるのではないだろうか。
一言でいえば、内に向かう「BREATH」、外に向かう「ribbon」というのが私の全体的なアルバムの印象である。
○当時の時代背景について
本作を語る際にはやはり当時の時代背景は切り離せないだろう。現在からすれば87年というのはバブル景気の絶頂というイメージになるだろうか。確かに調べてみれば、2月のNTT株上場にともなう「財テク」ブーム、6月には日経平均株価が2万5000円台へ突入し銀座の土地が1億円になるなどもこの年である。ただ、同年10月19日にはニューヨーク株式市場が大暴落する「ブラック・マンデー」と呼ばれる事件が起き、そうした状況は既にほころびを示していたが、90年代前半までは好景気が続いていく。
日本経済はそんな狂騒的な中で、特に努力をしなくても勝手に給料が上がっていくという現象が続いていた。それゆえ、いまでも根強い支持のある「良い大学に入って大企業に入れば一生安泰」という公式(ある時期まではそれは通用していた)がこの時代にできあがったといえよう。
しかし当時に少年時代を過ごしていた人間から見れば、そんなに明るいばかりでもなかったと記憶している。今はもう誰も騒ぐ話ではなくなったが、中学生が「いじめ」を苦に自殺したという事件が全国的に話題になったのは前年の1986年の2月のことだ。「受験戦争」という言葉も当時はよく聞いたものだが、エリートコースのレールに乗るために良い大学を入るという単一的な価値観に対して危機感を持った若者も少なくなかったのだろう。そうした時代を象徴するミュージシャンの一人が、例えば83年にデビューした尾崎豊だった。
両者は「女・尾崎」「男・美里」などと比較されていたらしいが、死のイメージがつきまとう尾崎と、格好悪いくらい生きることに執着している彼女とは方向性が全く違うと個人的は思う。ただ、当時の若者に対して歌を発信していたという点は共通するだろう。“BOYS CRIED”、“IT’S TOUGH”、“BORN TO SKIP”、“PAJAMA TIME”といった曲はそうした悩める青年のためのものであるように思えてならない。
○個々の楽曲について
(1)BOYS CRIED~あの時からかもしれない(作詞:MISATO、作曲:伊秩弘将、編曲:西平彰)
アルバムは、イントロと同時に美里の声がバーンと飛び出すこの曲から幕を開ける。冒頭から力いっぱいで初プロデュース作品の意気込みが強く感じられ、これまでの2作とは全く世界が築かれていることが一瞬でわかる。本作より参加の佐橋佳幸のアコースティック・ギターを軸にした音も新しい境地を切り開いている。
歌詞については、ニューヨークへ旅立つ好きな相手に思いを伝える、などと今までは勝手に解釈していたが改めて確認してみるとよくわからない内容だ。ただ一つ一つの言葉が率直かつ簡潔で、それがあの力強い歌声が重なると明確な世界が作り上げられていく。人によっては、ひねりが無いとか底が浅いといった見方をするかもしれないが、好き嫌いはともかくとしてこれはやはり天賦の才というものであろう。
曲名からして歌に登場するのは20代にいくかいかない青年であることは間違いない。
ただ、
<Like a child すべてを 信じてはいないよ>
と、子どもから大人になりつつある微妙な心情が歌詞にも表れている。
(2)HAPPY TOGETHER(作詞:MISATO、作曲・編曲:佐橋佳幸)
こちらは佐橋のエレキ・ギターを中心としたもので、作曲・編曲も彼が手がけている。ローリング・ストーンズあたりを意識したのだろうか、ブルースっぽい雰囲気の強いロック・ナンバーとなっている。DJ風の声、笑い声、手拍子、「ウー、ハー」と繰り返される擬音などが挿入されているが、こうした手法は以後の彼女の作品にもよく見られる。
これまでライブでは聴いたことはないが、かなり負担のかかる歌い方を終始している曲なので当然といえば当然かもしれない。
特に、
<みせかけだけのありふれたビートじゃまるで踊れやしない
だれでもみんな自由でいたいはずさ
Rocking ChairにKick! You can make me free!>
あたりの畳み掛けるような流れは、いまのこの人にはおそらく再現不可能だろう。若さと勢いと才能が作り上げたものともいえる。
それにしても、この部分の歌詞だけ見るとまるっきり佐野元春という感じだが、聴いている時には全くそんな印象は与えず完全に彼女の世界と化している。
(3)IT’S TOUGH(作詞:MISATO、作曲:伊秩弘将、編曲:西平彰)
先ほども触れたが、このアルバム唯一のシングル曲にしてヒット曲である。最近のライブで本作から披露されるものは極めて少ないが、これだけはよく取り上げられている。
神経質そうなキーボードの音と、「チュッ!チュッ!チュッ!・・・」というコーラスとの絡みで始まるイントロの部分は正直いまでもあまり好きにはなれない。ただ、曲間で何度も出てくるこのコーラスを聴いているうちに可愛らしく感じるようになった気がする。
これを書くために繰り返しアルバムを聴いて歌詞カードを読んでいたが、この曲に使われている言葉(「ウェイトレス」、「ノイズ」、「エゴ」、「スクラップ」、など)もまた佐野元春を連想してしまう。同じEPICソニーの出身とはいえ全く方向性の違う二人なので関連性など全く感じなかったが、今回そんなことを気づいてしまった。
歌を聴いている時はなんとなくはっきりした世界があるように錯覚してしまうが、この曲についても内容はそれほど明確なストーリー性があるわけではない。
ただ、
<Time is passing so fast
Hard times won’t last so long>
という一節は、悩み苦しむ時期などそんなに長くは続かないよ、と自分と同世代もしくは下の世代に投げかけているような気がする。
(4)MILK HALLでお会いしましょう(作詞:MISATO、作曲:佐橋佳幸、編曲:清水信之)
題名に出てくる「MILK HALL(ミルクホール)」とは、美里が通っていた東京都立松原高校そばにある(あった?)、夏の間だけ営業しているかき氷の店「ミルクホール石川」から取られている。
検索すると、店に関するブログが出てきた。
渡辺美里が愛したかき氷屋さん:ミルクホール石川
http://ice.hatenablog.jp/entry/20060911/1157929741
けっこう前の日記で「食べログ」の情報も途絶えがちなので、もう営業しているかどうかはわからない。それはともかく美里と佐橋、そして編曲の清水信之も松原高校の出身であり、それが縁で出来上がった曲なのだろう。そのためか歌詞には深刻さや苦悩を感じさせる表現も出てこないし、曲調も軽快なものになっている。
(5)BREATH(作詞:MISATO、作曲:伊秩弘将、編曲:清水信之)
ピアノとストリングス、そして吹奏楽器をバックにした7分を超えるバラード。レコード盤ではA面の最後を飾る曲だ。
力強くも抑制されて余裕のある歌いっぷりは全盛期の彼女ならではもので、流れるよう通して聴けるため実際ほどの長さは感じられない。
歌詞は少し大人っぽい世界を目指したように思えるが、
<くせのある文字 ゆずれない生き方も
曲がったえりも今のままでいて>
という一節は不器用な生き方をしている恋人への愛着を感じさせる。そしてそれはまた、歌っている本人の姿でもあるのだろう。
生で聴く機会はないと勝手に思っていたが、2000年に初めて西武ドームのライブに行った時にストリングスをバックに歌われた時の感動は今も生々しいものがある。
(6)RICHじゃなくても(作詞・作曲:MISATO、編曲:清水信之)
レコードB面の1曲目は、彼女の作品としては非常に珍しいスウィング・ジャズ調だ。アルバムの個々の楽曲を検討すれば音楽性はけっこう色々なものを並べているのがわかる。
ホーン・セクションをバックに、
<週末のチャイニーズカフェは
Richじゃなくても夢があふれている
ブローチ一つのドレスアップでも
小さなParty Swingしなきゃ意味がない>
という極めてストレートな世界が歌われる。特に「Swingしなきゃ意味がない」という部分はあまりにそのままで実にこの人らしい。しかしそれが凡庸な結果になっていないのは、やはり歌声の力が大きい。
ある時期までのライブではホーン隊を従えていたが、音的にも彼女の趣味嗜好が感じとれる1曲という気がする。
(7)BORN TO SKIP(作詞:MISATO、作曲:木根尚登、編曲:清水信之)
中国をイメージさせるメロディをもつこの曲は、アルバムで最も重要な曲かもしれない。勘違いかもしれないが、何かの本でこのアルバムについて「青春の痛み」と形容していたような記憶がある。この曲はまさにそうした内容で、非常に荒涼とした光景が続く。ぜひ歌詞は一読いただけばと思う。
http://petitlyrics.com/lyrics/23404
大人になっていくことへの不安や苦悩のようなものを凝縮した曲という気がするが、
<いい時代じゃないと ささやきかける大人(ヒト)達
僕達は今 この時代しか知らない>
という一節は特に秀逸で、大人の尺度ではどうにも理解できない思春期の青年の複雑な思いを見事に言い表していて未だに色褪せない響きがある。
ライブでも時おり披露される(今年の元日ライブでも歌われた)ので、彼女自身もそれなりに思い入れがある曲なのかもしれない。
(8)HERE COMES THE SUN(ビートルズに会えなかった)(作詞:MISATO、作曲:小室哲哉、編曲:西平彰)
美里が生まれた1966年にザ・ビートルズが来日を果たした。そういうわけで彼らに会う機会がなかったというテーマを歌っている。題名の“HERE COMES THE SUN”は実質的なラスト・アルバム「アビイ・ロード」(69年)の収録曲からとられている。
<12月に彼は星になった>
という一節は、1980年12月8日にジョン・レノンが射殺されたことを示している。
これもうろ覚えの記憶だが、93年(アルバム「BIG WAVE」が出たころ)の「月刊カドカワ」に載っていた彼女のインタビューで、私の世代はヒーローが不在なんです、というようなことを言っていたことを思い出す。そんな彼女のジェネレーション・ソングという気がする。
コーラスにはこの年の4月に発売された“Get Wild”でついにシングル・ヒットを出したTM-NETWORKの名前が載っている。楽曲もビートルズというよりTMの雰囲気となっている。
(9)PAJAMA TIME(作詞:MISATO、作曲:小室哲哉、編曲:清水信之)
小室哲哉が彼女に提供した曲で最も好きなのは“卒業”かこの“PAJAMA TIME”である。大ヒット曲“My Revolution”が一番有名であることに異論はないが、当時(86年)の私は小学4年生だった。よってリアル・タイムで聴いていたわけでもないし、正直にいえば、名曲とは思うものの、格別な思い入れは抱いていない。
無論このアルバムに入っている曲についても同時代でないし同じようなものなのだが、“Pajama Time”は別のところで私の記憶に残っている。アルバム「Lucky」(91年)で「信者」となった当時中学3年生の私は彼女に関する情報はいくらでもほしかった。その中で特に興味があったのはFM東京系のラジオ番組「渡辺美里の虹をみたかい」(放送期間は90年4月~93年3月)だった。しかし住んでいた地域(北海道登別市)はFM局の電波が届かないところだった。
それでも試しにある日の土曜の夜9時に窓際でラジオを持っていって周波数を合わせたら、あの“パイナップルロマンス”とイントロが流れて番組が聴こえてきたのである。夜中は電波が通りやすいことが奏功したのだ。
まだアルバムを全て揃えてなかった時でラジオで初めて知った曲がいくつかあったが、その一つがこれだった。寒さの厳しい北海道の冬の夜に、しかも窓際で聴いたこの曲はひときわ印象が残っている。そういうわけで、私にとってこの曲は冬のイメージと強く結びついている。
他の方の思い出も紹介したい。ネットでアルバムについての感想を探していたら、ライブ(99年の「うたの木オーケストラ」)でこの曲を聴いて、
<この河の流れが速すぎて 泳げない時は
この河の幅が広すぎて 渡れない時は
この河を飛べる大きな翼 今はないから
こぎ出せるボートを下さい>
という後半の部分で涙が出たというのを見つけた。私はこれを聴いて泣いた経験はないものの、最後の劇的な盛り上がり方は本当に見事だしなんとなくその気持ちはわかる。93年の「BIG WAVE TOUR」で初めて生で聴けた時は本当に嬉しかった。
本人も気に入っている作品のようで、リメイク・アルバムで再演されているしライブでも頻繁ではないが披露されてはいる。
(10)風になれたら(作詞:MISATO、作曲・編曲:佐橋佳幸)
アルバムの最後は佐橋のアコースティック・ギターを主体にした穏やかな曲で締めくくられる。ちなみに先ほど触れたラジオ番組「虹をみたかい」の前進が「風になれたら」(放送期間は87年10月~90年3月)という名前だった。
長い間このアルバムを聴いているが、この曲だけはなんだかアルバムでも異色だなあとなんとなく感じていた。その理由は歌詞を見ていて思ったが、むしろ次作「ribbon」に近い世界観だからという気がする。
一方、前年(86年10月22日)に発売されたシングル“BELIEVE”(オリコンで最高2位を記録)は本作に合っていると思うのだが、なぜか「ribbon」の方に収録されたのもなんとなく不思議だ。
「ふわり」、「ぽつり」、「くるり」、「ぽろん」と日本語らしい擬音が使われており、こうした表現も好きな人だなあと、いまさらながらに感じた次第である。
渡辺美里「オーディナリー・ライフ」(15年)
2015年4月15日 渡辺美里
サブ・カルチャーというものに対してどうにも超えられない距離感が昔からあって、そのまま現在に至っている。それゆえ、例えば「ロックとは何か?」というような命題について論じる気持ちにはなれないし、そんなことを言う輩には全く共感を抱けなかった。2015年になった今もそういう人はたくさん存在するのだろうか?そういえばかつて「Don’t trust over 30」(30歳を超えた人間を信じるな、という意味)なる言葉を吐いていた連中はいまどこで何をしているのだろう。もう彼らにも年金や社会保険が必要な年齢になり、そうしたセリフも風化して意味がなくなってしまった。
そもそも「ロック」というものに大多数が共感できるような定義など無い。そんなあやふやな前提のままあれこれ論じたところで生産するものなどあるはずがないのだ。そんな「独りよがり」の連中が勝手に仮想敵を作り出し、自分の意に沿わない表現者を攻撃してきた。個々のロック観など自分の中で密かに抱いていればいいだろうし、そんなもののために悪罵を投げつけられる方はたまったものではない。振り返ってみると、渡辺美里という人はそういう犠牲者の代表格だったのではないだろうか。かつては叩かれても仕方ないような悪目立ちする言動をしてきた部分も否定しないが、美里はロックじゃないね、みたいな「批評」は全く大きなお世話だろう。そしてそんな無責任なことを言っていた人たちは消えてしまった。その一方で、彼女を支持する人間も同じくらい少なくなってしまったが。
私自身は1991年、中学3年の時にアルバム「Lucky」(91年)を手にしてからずっとこの人を観つづけてきた。いまデビュー30周年に突入しているが、そのうちの24年ほどお付き合いしていることになる。別にそれが神だったとかクソだったとかいう二分法で結論づけるつもりもない。ただ、38年ほどの人生の大半は彼女とともにあったということは厳然とした事実として残っているというだけだ。
しかし実は、こうやって言い切れるまでにけっこう長い時間がかかっている。90年代までは彼女をずっと聴いているなどと周囲に素直にいえる心境にはなれなかった。その原因はさきほどの「意識的な音楽ファン」といえる連中の存在が頭にあったからだろう。こうした人たちが渡辺美里を肯定するのは稀だった。しかし彼らが聴いている音楽がどれほどのものかといえば、現在では怪しいものがあるけれど。ともかく、この人の美点も欠点も全て受け入れた上で、私の人生は渡辺美里とともにありました、と自然体で言えるまで20年ほど費やしたと思う。ここまで複雑な思いをもって見てきた人も自分の人生の中でも他にはいない。
グダグダと述べてきたが、渡辺美里の30年間とは何だったのかと自分なりに整理してみたかったのだ。しかし、どうも現状ではスッキリした結論らしきものは出てきそうにない。やはり自分の半生と密接に関わっていることであり明確な位置づけをすることはできないということか。そういうことは諦めて、今回の作品について思うところを書いてみることにする。
今年の元日に渋谷公会堂でライブが行われたが、そこで4月1日に「オーディナリー・ライフ」という新作が出るという発表が彼女自身からあった。同じタイトル名でヴァン・モリソンの91年の作品があることを連想したのは会場で私だけだったと思うが、なんとなく気になる名前だとは感じた。
先行シングルの2曲(“ここから”、“夢ってどんな色してるの”)は彼女らしさがよく出ている佳曲とは思ったものの、その日に披露されたアルバム収録曲“今夜がチャンス”(ザ・モッズの森山達也が提供したと知ったのは後日のこと)が、なんだか昭和40年代くらいの歌謡曲のような印象を抱き、アルバムについての不安の方が大きくなったのが正直なところだった。
それからしばらくして、Facebookの公式ページでアルバムのジャケットと収録曲が発表された。そこでまず目を引いたのは、山口隆(サンボマスター)や片寄明人(GREAT3)など、これまでにない顔ぶれが作家陣にたくさんいたことである。しかし、先の“今夜がチャンス”を聴いた時の違和感を思いだし、余計に出来具合が心配になってきた。アルバム発売に先行してiTunes Storeに何曲か発売されたので“青空ハピネス”だけなんとなく買ってみたが、アルバムの全体像は全くつかめなかった。
そういう経緯もあり、今回について「も」本当に期待せずにいた。発売日4月1日に部屋に戻るとアマゾンから送られた本作がポストに入っていた。取り出してすぐに部屋のパソコンに入れて聴いてみる。そして1曲目の“鼓動”からかけてみた。そのままスーッと最後まで聴き通して、何度も何度も繰り返した。一晩で5回くらい流しただろうか。
本作を聴いて一番の印象は何かといえば、これまでの渡辺美里にないものを感じたということである。それはもう、自分が中学3年の頃から思い起こしても初めてのことである。
さきほど私は、彼女の新作については全く期待しないで臨んでいるというようなことを書いたが、それは少し嘘が入っている。心の底では、音楽性とか新しい挑戦とかどうでもいいから「渡辺美里らしさ」が出ていればもう十分だ、という思いがあった(それはライブ会場に行く時も同じ心境である)。
この20年の間でそんな自分の希望に適った作品といえば2000年に出た「Love GO!GO!」である。このアルバムでは調子のいい時の彼女のライブで観られるような躍動感のある声が奇跡的に収められている。しかしそれ以後は、酷いとはいえないまでも、何か煮え切らない作品が続くことになる。
今回の「オーディナリー・ライフ」は「Love GO!GO!」もしくは90年代前半あたりまでの彼女のような、彼女の存在を前面に押し出したものではない。だがそれにもかかわらず、物足りなさのようなものは感じなかった。その一番の要因は何かといえば、今回参加しているミュージシャンの空前絶後の顔ぶれだろう。そして彼らと美里との共演が非常にうまく噛み合っていることがなにより大きい。
表現者が活動を続けていくうちに自身の衰えやアイデアの枯渇により創作意欲が低下するということは避けられない宿命であるが、それを乗り切るための方法は何だろうか。一番良いのは、誰か他の人の助けを借りることである。組んだ相手に刺激され、それによって思いがけない方向に自分の表現が進んでいくこともありうるだろう。
ただ、これはあくまで一般論であって渡辺美里の場合はあてはまらないと個人的には思っていた。これまで他のアーティストと共演するにせよ、他人の曲をカバーするにせよ、目覚ましい成果があったとは言えないからだ。うまくいかない原因はわからないが、彼女がそれほど器用な表現者でないこと(他人とうまく絡めない)、そして自身のイメージなりスタイルなりを崩したくないという思いも強いのではないだろうか。またファンはファンで、彼女に対して冒険とか挑戦とかは全く求めてもいないはずである。そんなことを望むような音楽ファンはそもそもこういう歌手を聴くという選択もしないだろう。
本作の立役者は美里と共同でプロデューサーに名を連ねている佐橋佳幸だろう。これだけのメンツをかき集める人脈もさることながら、美里自身にもさまざまな提案やアドバイスをして共演のお膳立てをしたのは、佐橋自身の解説(アルバムの歌詞カードに収録されている)を読むだけでも容易に想像がつく。
これは適切な表現かはわからないが、本作は渡辺美里の作品の中でももっとも「音楽的」といえる。それは「渡辺美里ありき」という前提で作られたアルバムではないという意味だ。そんなことを書いていると「彼女の声が前面に出ていないということは、自分の望む作品ではないのでは?」という疑問も少しだけ頭をよぎった。しかし、実際にはアルバムを手にしてしばらく経ったいまも繰り返し聴き続け、これまでに経験したことのない不思議な充足感に包まれている自分がいる。
本作が彼女のキャリアにおいてどのような位置づけがされるのか、現時点ではよくわからない。ただ、30年という節目にふさわしい華のある内容であるということだけは、中3から聴いてきた人間の経験として確信をもって言える。
【個々の楽曲について】
さきほども書いたが、本作の歌詞カードには個々の曲について佐橋佳幸による解説が掲載されている。こうしたものがあるという点でも今回のアルバム制作において彼が大きな主導権を握っていたことがみてとれる。
かつて「ミュージック・マガジン」誌でどこかの泡沫ライター(名前は覚えているが紹介する価値もないので割愛する)が、俺が嫌いなのはミュージシャン自身による楽曲解説だ!などとほざいていたことを思い出す。ミュージシャンが書いてしまえばお前ごときのレベルでは仕事がなくなるからだろう。
それはともかく、聴き手をはぐらかしたいというのなら別として、何かを伝えたいと願っている表現者ならばこうした試みは個人的には歓迎したい。音楽でもなんでもいいのだが、サブ・カルチャーというのはそうした「人に伝えようとする努力」を放棄しているような気がしてならないからだ。
以下の文章は佐橋自身の文章を参照しながら、24年ほどのファン歴である私からの「おまけ」のようなものだ。本作について少しでも参考にでもなれば幸いと思いながら記すものである。
(1)鼓動(作詞・作曲:YO-KING、編曲:佐橋佳幸)
アルバムの冒頭は、彼女の作品に初めて参加の「真心ブラザーズ」YO-KINGによる楽曲。演奏は佐橋のアコースティック・ギターとDr.kyOnのアコーディオンだけという極めてシンプルな編成だ。ちなみにこの3人で「三ツ星団」としてライブ・ツアーをおこなったこともある。
こうした説明をすると美里のヴォーカルが主体になりそうに思えるが、実際には極めて控えめな感じで歌っている。
それについて佐橋の解説では、
<美里には声量を抑えて出来る限りマイクに近づいてもらい、
あたかもリスナーの耳元で歌っているかのような
唱法にチャレンジしてもらいました。>
と書いている。こうした「チャレンジ」を美里にうながすことによって、本作からは従来の彼女には見られない作風が生まれたのだろう。「Breath」(87年)や「ribbon」(88年)あたりの頃の「渡辺美里と、その他大勢のバック」という構図ではなく、彼女が演奏の方に溶け込んでいくという具合だ。そういう意味で本作について「音楽的」という表現を使ってみた。
全体的に郷愁を誘うフォーク・ソングだが、その中に語呂がいいとは思えない「ドクンドクン」という擬音が不思議なアクセントを与えている。
(2)夢ってどんな色してるの(作詞:河邉徹、作曲:杉本雄治、編曲:WEAVER&佐橋佳幸)
アルバムの先行シングルとして発売された曲で、ピアノ・ドラムス・ベースという編成のバンド「WEAVER」と先の「三ツ星団」との共演という形になっている。
このシングルでWEAVERを初めて知ることとなったが、メンバーは全員1988年生まれである。88年ということは「ribbon」が出た年だから、美里とは1世代ほど離れていることになる。それはともかくとして、キレのある演奏や瑞々しい印象を与えるサウンドは個人的にも好みの部類であり、今回のさまざまな共演の中でも最も成功した例だろう。WEAVERの力によって彼女の歌声に力強さが増しているように聴こえるからだ。
歌詞については別の機会に改めて触れたいが、作詞の河邉徹がイメージした渡辺美里という世界のような気がして興味深い。ともかく、WEAVERのライブも生で一度は観たいと感じるくらいに気に入った作品である。
WEAVER“こっちを向いてよ”
https://www.youtube.com/watch?v=SOQo1rjRFFo
それから、ネットでどなたかが指摘して気づいたのだが、一時に比べて体格もだいぶ絞られていることも注目していただきたい。そこには本作にかける彼女の並々ならぬ意気込みがあることに私たち聴き手も感じなければならないだろう。
渡辺美里 『「夢ってどんな色してるの」 ドキュメント映像&MV ショートVer.』
https://www.youtube.com/watch?v=49S19oqk_-0
(3)今夜がチャンス(作詞・作曲:森山達也、編曲:佐橋佳幸)
前の文章でも少し書いたが、本作の中でも「異色作」と個人的には感じている1曲。かつては同じエピック・ソニーに所属していたザ・モッズの森山達也との共演というのも意外だが、さらにバックにスカパラ・ホーンズ、さらにエレキ・ギターに土屋昌巳の名前まで出てくるというのには本当に驚いた。
佐橋の解説では「森山印のロックンロール・ソング」という表現をとっているが、個人的には(自分の苦手な)昭和40年代くらいの歌謡曲のような印象を元日ライブの時から受けた。具体的には何かと説明はできなが、例えば山本リンダのような・・・まあ、あくまでただのイメージとご了解いただきたい。
改めてアルバムで聴いてみると違和感はだいぶ薄まった感じはする。もはやこういう歌をうたう人も21世紀にはいなくなっただろうし貴重ではある、などと納得しながら聴いている次第だ。
(4)涙を信じない女(作詞・作曲:山口隆fromサンボマスター、編曲:佐橋佳幸、ストリングス・アレンジ:奈良部匠平)
美里とは全く縁があると思えないサンボマスター、山口隆の手による曲である。こうした人までかき集めた佐橋の人脈もすごいが、一方で往年のファンにはなじみ深い奈良部匠平の名前が出てきている。「lucky」(91年)あたりまで主に編曲で関わっていた人だ。今回は30周年の節目としてこうしたミュージシャンを呼んでいる点も本作の特徴だ。
複雑な曲調やリズムになっており佐橋は「国籍不明のサウンド」と書いているが、“今夜がチャンス”ほど個人的に違和感はなくスッと聴いている。作家陣がどんな人であろうと結局は渡辺美里の歌に落ち着くということなのか。ただ、彼女が従来のアプローチで歌っていたとしたら、ここまでの仕上がりになっていなかった気がする。佐橋のプロデュースの手腕もこのあたりでも感じとってしまう。
(5)点と線(作詞:森雪之丞、作曲:木根尚登、編曲:佐橋佳幸、ブラス・アレンジ:山本拓夫)
作曲はデビュー当時(85年)から交流のある木根尚登(TM-NETWORK)、そしてブラス・アレンジは彼女のライブでバンド・マスターを長年務めていた山本拓夫という同窓会的な顔ぶれが名を連ねている。プログラミングの石川鉄男も私のような聴き手には懐かしい名前だ。
木根がこれまで提供した曲に“eyes”、“さくらの花の咲くころに”、“kick off”など穏やかな感じのものばかりだったが、今回はホーン・セクションを中心にしたまた毛色の違うアレンジとなっている。
このあたりについては「戦後のR&Bを築き上げた先達へのオマージュ」という解説だが、そもそもR&Bとは何たるかもピンとこない私にとっては何もいえないし(「オマージュ」という言葉もなんだか好きになれない)、“今夜はチャンス”と同様、なんだか昔の古めかしい歌謡曲(またイメージだけだが和田アキ子あたり)を連想してしまう。いずれにせよ、佐橋の意図が強く出た作品なのだろう。
リズム・セクションは高橋幸宏(ドラムス)と小原礼(ベース)という豪華な布陣で、作詞はこれまた初めての森雪之丞が手掛けている。30周年の節目や「昭和」といったイメージをちりばめた歌詞で、日本を代表するプロ作詞家の言葉は美里とはまた違った世界を出している点は興味深いものとなっている。
(6)オーディナリー・ライフ(作詞:渡辺美里、作曲:渡辺美里&佐橋佳幸、編曲:森俊之)
キャロル・キングの“Natural woman”を目指したというアルバムのタイトル曲は、一転していかにも渡辺美里という調子のバラードである。「Ordinary Life」とは市井の人々の生活・人生といった意味合いだが、歌の中では「ありふれた日々」という言葉で表現されている。
<ありふれた日々が あまりに愛おしい>
という一節は、年齢を重ねるごとに受け止め方が変わってくるだろう。10代20代の人ならば、「ありふれた日」って刺激もない日のことでしょう?などと思うに違いない。しかし人生の折り返し点を過ぎてくると、そうした日々が永遠にものでないことにだんだんと気づいてくるのだ。
<夏が来るたびに
また ひとつ歳を重ねて
会いたい人がいる
もう 会えない人がいる>
<手放した夢も
失った自由も
きっと あなたへ続く>
といった部分には、たとえどんな人でも生き続けていたら様々な不幸に出会ったり苦渋を味わうことを示唆している。それはもちろん歌っている本人についても同じであり、彼女の30年の道のりを思いながら聴いているとまた胸に迫るものがある、個人的には本作で一番気に入っている曲である。
(7)A Reason(作詞・作曲:大江千里、編曲:佐橋佳幸)
こちらもデビュー時から親交のある大江千里の手による曲。間奏のサックスを演奏している中村哲は、美里のデビュー曲“I’m Free”の編曲を担当した人である。ほかにも後藤次利、村上“ポンタ”秀一とデビュー時に関わった人たちでバックを固めている。
これまでもずっと共演してきた千里なのでツボを押さえたという感じの曲だが、その中に、
<僕らはもう 道を選べないから>
という重たいフレーズが出てくるのが興味深い。それは美里であり千里のこともイメージしているのだろう。また私自身にものしかかってくる言葉である。
(8)Glory(作詞・作曲:Caravan、編曲:佐橋佳幸)
作詞・作曲を手掛けているCaravanは1974年生まれの男性シンガー・ソングライターである。FM局の友人に勧められて聴いて彼を気に入ったという美里、そして同じ時期にCaravanと知り合った佐橋との縁がこういう形に繋がったらしい。
確かに美里との相性は良いようで、本人が書いたのではと思えるまでの仕上がりになっている。Caravanの写実的な情景描写や言葉の使い方はかつての美里の世界観と重なってくるし、二人のよるコーラスも良い。この人も機会があれば生で観てみたいと思わせる。
Caravan “アイトウレイ ”
https://www.youtube.com/watch?v=JufBJdvVCzY
(9)真っ赤な月(作詞:片寄明人、作曲:伊秩弘将、編曲:有賀啓雄)
SPEEDを手掛けてその名前が広く知られるようになった伊秩弘将、そしてライブやアルバム制作で長年の付き合いのある有賀啓雄がここでは登場する。
これまでの彼女の曲では“小指”のような、感情表現を抑えて歌うスロウなバラードである。しかしそのような歌い方はこの人と相性が良くないような気がする。やはり明確に喜怒哀楽をつけてこそこの人の良さが出るのではないだろうか。別に悪いとは全く思ってないのだが、スーッと気持ちよく聴きながらもそのまま終わってしまうような印象である。
(10)青空ハピネス(作詞:渡辺美里、作曲:伊秩弘将、編曲:清水信之)
清水信之の名前を見るのも久しぶりだ。ギターの佐橋以外は全て彼が楽器などを手掛けているこの曲は21世紀版“恋したっていいじゃない”をテーマにしたものといっていいだろう。歌詞にも演奏もそれをイメージさせるものが散りばめられている。
間奏では「eyes」に収録されている“18才のライブ”でのドラムスの音が挿入されている。これを叩いていたのは、2年前に亡くなった青山純である。
正直いって、従来の彼女の枠にとどまっている印象を受けて本作の中ではあまり出来が良い部類と思えない。しかし、そもそも過去の曲の続編という意図で作ったものだし、遊び心は満載という雰囲気は楽しめるものである。
(11)Hello Again(作詞・作曲:Caravan、編曲:佐橋佳幸)
再びCaravanによる曲は、解説によるとアレンジではだいぶ実験的で凝ったことをしたようだ。それを知らなかったらバックのサウンドスケープ(音風景)には特に気にもとめなかっただろう。
もし佐橋が関わらなかったとしたら、こうした複雑な音をバックに歌うことを彼女は受け入れただろうか。聴きながらそんなことを思ってしまった。かつて何かの音楽雑誌のインタビューで、サウンド主義が嫌い、というような発言をしていたのがいまでもずっと頭に残っていたからだ。どうにでも解釈できそうな言葉だが、あまり凝った音楽をしたくないというような意味だろう。これまでのこの人の作ってきたものを考えればそう思えてくる。
渡辺美里という人は自分のスタイルというか型に強いこだわりがあるのだろう。それが彼女の明確なイメージを作りあげて成功した部分もあるが、ある時期からそれが足かせとなって表現の幅や可能性を狭めていったことも否定できない。また、器用に立ち回ることもできないことも大きかった。
そういう光景をずっと観てきた者としては、本作の多彩なゲストとの関わりや試みは少なからぬ感慨を覚えている。これ以後の活動にもこれが活かされたらと密かに願っている。果たしていつまで歌ってくれるかどうかは、よくわからないが。
(12)ここから(作詞・作曲:大江千里、編曲:佐橋佳幸)
本作の中で一番初めに世に出たシングル曲で、これも大江千里によるもの。シングルで発売されたときに日記で感想を書いているので、興味ある方は参照いただきたい。
渡辺美里「ここから」(14年)
http://30771.diarynote.jp/201405061102111592/
日記でも触れたが、これまでの彼女のイメージを踏襲しながら30年の流れを感じる部分もあり、長年共演してきた千里ならではという出来だ。美里自身も気に入っているようで、おそらくこれからのライブでも歌い続けるだろう。
そもそも「ロック」というものに大多数が共感できるような定義など無い。そんなあやふやな前提のままあれこれ論じたところで生産するものなどあるはずがないのだ。そんな「独りよがり」の連中が勝手に仮想敵を作り出し、自分の意に沿わない表現者を攻撃してきた。個々のロック観など自分の中で密かに抱いていればいいだろうし、そんなもののために悪罵を投げつけられる方はたまったものではない。振り返ってみると、渡辺美里という人はそういう犠牲者の代表格だったのではないだろうか。かつては叩かれても仕方ないような悪目立ちする言動をしてきた部分も否定しないが、美里はロックじゃないね、みたいな「批評」は全く大きなお世話だろう。そしてそんな無責任なことを言っていた人たちは消えてしまった。その一方で、彼女を支持する人間も同じくらい少なくなってしまったが。
私自身は1991年、中学3年の時にアルバム「Lucky」(91年)を手にしてからずっとこの人を観つづけてきた。いまデビュー30周年に突入しているが、そのうちの24年ほどお付き合いしていることになる。別にそれが神だったとかクソだったとかいう二分法で結論づけるつもりもない。ただ、38年ほどの人生の大半は彼女とともにあったということは厳然とした事実として残っているというだけだ。
しかし実は、こうやって言い切れるまでにけっこう長い時間がかかっている。90年代までは彼女をずっと聴いているなどと周囲に素直にいえる心境にはなれなかった。その原因はさきほどの「意識的な音楽ファン」といえる連中の存在が頭にあったからだろう。こうした人たちが渡辺美里を肯定するのは稀だった。しかし彼らが聴いている音楽がどれほどのものかといえば、現在では怪しいものがあるけれど。ともかく、この人の美点も欠点も全て受け入れた上で、私の人生は渡辺美里とともにありました、と自然体で言えるまで20年ほど費やしたと思う。ここまで複雑な思いをもって見てきた人も自分の人生の中でも他にはいない。
グダグダと述べてきたが、渡辺美里の30年間とは何だったのかと自分なりに整理してみたかったのだ。しかし、どうも現状ではスッキリした結論らしきものは出てきそうにない。やはり自分の半生と密接に関わっていることであり明確な位置づけをすることはできないということか。そういうことは諦めて、今回の作品について思うところを書いてみることにする。
今年の元日に渋谷公会堂でライブが行われたが、そこで4月1日に「オーディナリー・ライフ」という新作が出るという発表が彼女自身からあった。同じタイトル名でヴァン・モリソンの91年の作品があることを連想したのは会場で私だけだったと思うが、なんとなく気になる名前だとは感じた。
先行シングルの2曲(“ここから”、“夢ってどんな色してるの”)は彼女らしさがよく出ている佳曲とは思ったものの、その日に披露されたアルバム収録曲“今夜がチャンス”(ザ・モッズの森山達也が提供したと知ったのは後日のこと)が、なんだか昭和40年代くらいの歌謡曲のような印象を抱き、アルバムについての不安の方が大きくなったのが正直なところだった。
それからしばらくして、Facebookの公式ページでアルバムのジャケットと収録曲が発表された。そこでまず目を引いたのは、山口隆(サンボマスター)や片寄明人(GREAT3)など、これまでにない顔ぶれが作家陣にたくさんいたことである。しかし、先の“今夜がチャンス”を聴いた時の違和感を思いだし、余計に出来具合が心配になってきた。アルバム発売に先行してiTunes Storeに何曲か発売されたので“青空ハピネス”だけなんとなく買ってみたが、アルバムの全体像は全くつかめなかった。
そういう経緯もあり、今回について「も」本当に期待せずにいた。発売日4月1日に部屋に戻るとアマゾンから送られた本作がポストに入っていた。取り出してすぐに部屋のパソコンに入れて聴いてみる。そして1曲目の“鼓動”からかけてみた。そのままスーッと最後まで聴き通して、何度も何度も繰り返した。一晩で5回くらい流しただろうか。
本作を聴いて一番の印象は何かといえば、これまでの渡辺美里にないものを感じたということである。それはもう、自分が中学3年の頃から思い起こしても初めてのことである。
さきほど私は、彼女の新作については全く期待しないで臨んでいるというようなことを書いたが、それは少し嘘が入っている。心の底では、音楽性とか新しい挑戦とかどうでもいいから「渡辺美里らしさ」が出ていればもう十分だ、という思いがあった(それはライブ会場に行く時も同じ心境である)。
この20年の間でそんな自分の希望に適った作品といえば2000年に出た「Love GO!GO!」である。このアルバムでは調子のいい時の彼女のライブで観られるような躍動感のある声が奇跡的に収められている。しかしそれ以後は、酷いとはいえないまでも、何か煮え切らない作品が続くことになる。
今回の「オーディナリー・ライフ」は「Love GO!GO!」もしくは90年代前半あたりまでの彼女のような、彼女の存在を前面に押し出したものではない。だがそれにもかかわらず、物足りなさのようなものは感じなかった。その一番の要因は何かといえば、今回参加しているミュージシャンの空前絶後の顔ぶれだろう。そして彼らと美里との共演が非常にうまく噛み合っていることがなにより大きい。
表現者が活動を続けていくうちに自身の衰えやアイデアの枯渇により創作意欲が低下するということは避けられない宿命であるが、それを乗り切るための方法は何だろうか。一番良いのは、誰か他の人の助けを借りることである。組んだ相手に刺激され、それによって思いがけない方向に自分の表現が進んでいくこともありうるだろう。
ただ、これはあくまで一般論であって渡辺美里の場合はあてはまらないと個人的には思っていた。これまで他のアーティストと共演するにせよ、他人の曲をカバーするにせよ、目覚ましい成果があったとは言えないからだ。うまくいかない原因はわからないが、彼女がそれほど器用な表現者でないこと(他人とうまく絡めない)、そして自身のイメージなりスタイルなりを崩したくないという思いも強いのではないだろうか。またファンはファンで、彼女に対して冒険とか挑戦とかは全く求めてもいないはずである。そんなことを望むような音楽ファンはそもそもこういう歌手を聴くという選択もしないだろう。
本作の立役者は美里と共同でプロデューサーに名を連ねている佐橋佳幸だろう。これだけのメンツをかき集める人脈もさることながら、美里自身にもさまざまな提案やアドバイスをして共演のお膳立てをしたのは、佐橋自身の解説(アルバムの歌詞カードに収録されている)を読むだけでも容易に想像がつく。
これは適切な表現かはわからないが、本作は渡辺美里の作品の中でももっとも「音楽的」といえる。それは「渡辺美里ありき」という前提で作られたアルバムではないという意味だ。そんなことを書いていると「彼女の声が前面に出ていないということは、自分の望む作品ではないのでは?」という疑問も少しだけ頭をよぎった。しかし、実際にはアルバムを手にしてしばらく経ったいまも繰り返し聴き続け、これまでに経験したことのない不思議な充足感に包まれている自分がいる。
本作が彼女のキャリアにおいてどのような位置づけがされるのか、現時点ではよくわからない。ただ、30年という節目にふさわしい華のある内容であるということだけは、中3から聴いてきた人間の経験として確信をもって言える。
【個々の楽曲について】
さきほども書いたが、本作の歌詞カードには個々の曲について佐橋佳幸による解説が掲載されている。こうしたものがあるという点でも今回のアルバム制作において彼が大きな主導権を握っていたことがみてとれる。
かつて「ミュージック・マガジン」誌でどこかの泡沫ライター(名前は覚えているが紹介する価値もないので割愛する)が、俺が嫌いなのはミュージシャン自身による楽曲解説だ!などとほざいていたことを思い出す。ミュージシャンが書いてしまえばお前ごときのレベルでは仕事がなくなるからだろう。
それはともかく、聴き手をはぐらかしたいというのなら別として、何かを伝えたいと願っている表現者ならばこうした試みは個人的には歓迎したい。音楽でもなんでもいいのだが、サブ・カルチャーというのはそうした「人に伝えようとする努力」を放棄しているような気がしてならないからだ。
以下の文章は佐橋自身の文章を参照しながら、24年ほどのファン歴である私からの「おまけ」のようなものだ。本作について少しでも参考にでもなれば幸いと思いながら記すものである。
(1)鼓動(作詞・作曲:YO-KING、編曲:佐橋佳幸)
アルバムの冒頭は、彼女の作品に初めて参加の「真心ブラザーズ」YO-KINGによる楽曲。演奏は佐橋のアコースティック・ギターとDr.kyOnのアコーディオンだけという極めてシンプルな編成だ。ちなみにこの3人で「三ツ星団」としてライブ・ツアーをおこなったこともある。
こうした説明をすると美里のヴォーカルが主体になりそうに思えるが、実際には極めて控えめな感じで歌っている。
それについて佐橋の解説では、
<美里には声量を抑えて出来る限りマイクに近づいてもらい、
あたかもリスナーの耳元で歌っているかのような
唱法にチャレンジしてもらいました。>
と書いている。こうした「チャレンジ」を美里にうながすことによって、本作からは従来の彼女には見られない作風が生まれたのだろう。「Breath」(87年)や「ribbon」(88年)あたりの頃の「渡辺美里と、その他大勢のバック」という構図ではなく、彼女が演奏の方に溶け込んでいくという具合だ。そういう意味で本作について「音楽的」という表現を使ってみた。
全体的に郷愁を誘うフォーク・ソングだが、その中に語呂がいいとは思えない「ドクンドクン」という擬音が不思議なアクセントを与えている。
(2)夢ってどんな色してるの(作詞:河邉徹、作曲:杉本雄治、編曲:WEAVER&佐橋佳幸)
アルバムの先行シングルとして発売された曲で、ピアノ・ドラムス・ベースという編成のバンド「WEAVER」と先の「三ツ星団」との共演という形になっている。
このシングルでWEAVERを初めて知ることとなったが、メンバーは全員1988年生まれである。88年ということは「ribbon」が出た年だから、美里とは1世代ほど離れていることになる。それはともかくとして、キレのある演奏や瑞々しい印象を与えるサウンドは個人的にも好みの部類であり、今回のさまざまな共演の中でも最も成功した例だろう。WEAVERの力によって彼女の歌声に力強さが増しているように聴こえるからだ。
歌詞については別の機会に改めて触れたいが、作詞の河邉徹がイメージした渡辺美里という世界のような気がして興味深い。ともかく、WEAVERのライブも生で一度は観たいと感じるくらいに気に入った作品である。
WEAVER“こっちを向いてよ”
https://www.youtube.com/watch?v=SOQo1rjRFFo
それから、ネットでどなたかが指摘して気づいたのだが、一時に比べて体格もだいぶ絞られていることも注目していただきたい。そこには本作にかける彼女の並々ならぬ意気込みがあることに私たち聴き手も感じなければならないだろう。
渡辺美里 『「夢ってどんな色してるの」 ドキュメント映像&MV ショートVer.』
https://www.youtube.com/watch?v=49S19oqk_-0
(3)今夜がチャンス(作詞・作曲:森山達也、編曲:佐橋佳幸)
前の文章でも少し書いたが、本作の中でも「異色作」と個人的には感じている1曲。かつては同じエピック・ソニーに所属していたザ・モッズの森山達也との共演というのも意外だが、さらにバックにスカパラ・ホーンズ、さらにエレキ・ギターに土屋昌巳の名前まで出てくるというのには本当に驚いた。
佐橋の解説では「森山印のロックンロール・ソング」という表現をとっているが、個人的には(自分の苦手な)昭和40年代くらいの歌謡曲のような印象を元日ライブの時から受けた。具体的には何かと説明はできなが、例えば山本リンダのような・・・まあ、あくまでただのイメージとご了解いただきたい。
改めてアルバムで聴いてみると違和感はだいぶ薄まった感じはする。もはやこういう歌をうたう人も21世紀にはいなくなっただろうし貴重ではある、などと納得しながら聴いている次第だ。
(4)涙を信じない女(作詞・作曲:山口隆fromサンボマスター、編曲:佐橋佳幸、ストリングス・アレンジ:奈良部匠平)
美里とは全く縁があると思えないサンボマスター、山口隆の手による曲である。こうした人までかき集めた佐橋の人脈もすごいが、一方で往年のファンにはなじみ深い奈良部匠平の名前が出てきている。「lucky」(91年)あたりまで主に編曲で関わっていた人だ。今回は30周年の節目としてこうしたミュージシャンを呼んでいる点も本作の特徴だ。
複雑な曲調やリズムになっており佐橋は「国籍不明のサウンド」と書いているが、“今夜がチャンス”ほど個人的に違和感はなくスッと聴いている。作家陣がどんな人であろうと結局は渡辺美里の歌に落ち着くということなのか。ただ、彼女が従来のアプローチで歌っていたとしたら、ここまでの仕上がりになっていなかった気がする。佐橋のプロデュースの手腕もこのあたりでも感じとってしまう。
(5)点と線(作詞:森雪之丞、作曲:木根尚登、編曲:佐橋佳幸、ブラス・アレンジ:山本拓夫)
作曲はデビュー当時(85年)から交流のある木根尚登(TM-NETWORK)、そしてブラス・アレンジは彼女のライブでバンド・マスターを長年務めていた山本拓夫という同窓会的な顔ぶれが名を連ねている。プログラミングの石川鉄男も私のような聴き手には懐かしい名前だ。
木根がこれまで提供した曲に“eyes”、“さくらの花の咲くころに”、“kick off”など穏やかな感じのものばかりだったが、今回はホーン・セクションを中心にしたまた毛色の違うアレンジとなっている。
このあたりについては「戦後のR&Bを築き上げた先達へのオマージュ」という解説だが、そもそもR&Bとは何たるかもピンとこない私にとっては何もいえないし(「オマージュ」という言葉もなんだか好きになれない)、“今夜はチャンス”と同様、なんだか昔の古めかしい歌謡曲(またイメージだけだが和田アキ子あたり)を連想してしまう。いずれにせよ、佐橋の意図が強く出た作品なのだろう。
リズム・セクションは高橋幸宏(ドラムス)と小原礼(ベース)という豪華な布陣で、作詞はこれまた初めての森雪之丞が手掛けている。30周年の節目や「昭和」といったイメージをちりばめた歌詞で、日本を代表するプロ作詞家の言葉は美里とはまた違った世界を出している点は興味深いものとなっている。
(6)オーディナリー・ライフ(作詞:渡辺美里、作曲:渡辺美里&佐橋佳幸、編曲:森俊之)
キャロル・キングの“Natural woman”を目指したというアルバムのタイトル曲は、一転していかにも渡辺美里という調子のバラードである。「Ordinary Life」とは市井の人々の生活・人生といった意味合いだが、歌の中では「ありふれた日々」という言葉で表現されている。
<ありふれた日々が あまりに愛おしい>
という一節は、年齢を重ねるごとに受け止め方が変わってくるだろう。10代20代の人ならば、「ありふれた日」って刺激もない日のことでしょう?などと思うに違いない。しかし人生の折り返し点を過ぎてくると、そうした日々が永遠にものでないことにだんだんと気づいてくるのだ。
<夏が来るたびに
また ひとつ歳を重ねて
会いたい人がいる
もう 会えない人がいる>
<手放した夢も
失った自由も
きっと あなたへ続く>
といった部分には、たとえどんな人でも生き続けていたら様々な不幸に出会ったり苦渋を味わうことを示唆している。それはもちろん歌っている本人についても同じであり、彼女の30年の道のりを思いながら聴いているとまた胸に迫るものがある、個人的には本作で一番気に入っている曲である。
(7)A Reason(作詞・作曲:大江千里、編曲:佐橋佳幸)
こちらもデビュー時から親交のある大江千里の手による曲。間奏のサックスを演奏している中村哲は、美里のデビュー曲“I’m Free”の編曲を担当した人である。ほかにも後藤次利、村上“ポンタ”秀一とデビュー時に関わった人たちでバックを固めている。
これまでもずっと共演してきた千里なのでツボを押さえたという感じの曲だが、その中に、
<僕らはもう 道を選べないから>
という重たいフレーズが出てくるのが興味深い。それは美里であり千里のこともイメージしているのだろう。また私自身にものしかかってくる言葉である。
(8)Glory(作詞・作曲:Caravan、編曲:佐橋佳幸)
作詞・作曲を手掛けているCaravanは1974年生まれの男性シンガー・ソングライターである。FM局の友人に勧められて聴いて彼を気に入ったという美里、そして同じ時期にCaravanと知り合った佐橋との縁がこういう形に繋がったらしい。
確かに美里との相性は良いようで、本人が書いたのではと思えるまでの仕上がりになっている。Caravanの写実的な情景描写や言葉の使い方はかつての美里の世界観と重なってくるし、二人のよるコーラスも良い。この人も機会があれば生で観てみたいと思わせる。
Caravan “アイトウレイ ”
https://www.youtube.com/watch?v=JufBJdvVCzY
(9)真っ赤な月(作詞:片寄明人、作曲:伊秩弘将、編曲:有賀啓雄)
SPEEDを手掛けてその名前が広く知られるようになった伊秩弘将、そしてライブやアルバム制作で長年の付き合いのある有賀啓雄がここでは登場する。
これまでの彼女の曲では“小指”のような、感情表現を抑えて歌うスロウなバラードである。しかしそのような歌い方はこの人と相性が良くないような気がする。やはり明確に喜怒哀楽をつけてこそこの人の良さが出るのではないだろうか。別に悪いとは全く思ってないのだが、スーッと気持ちよく聴きながらもそのまま終わってしまうような印象である。
(10)青空ハピネス(作詞:渡辺美里、作曲:伊秩弘将、編曲:清水信之)
清水信之の名前を見るのも久しぶりだ。ギターの佐橋以外は全て彼が楽器などを手掛けているこの曲は21世紀版“恋したっていいじゃない”をテーマにしたものといっていいだろう。歌詞にも演奏もそれをイメージさせるものが散りばめられている。
間奏では「eyes」に収録されている“18才のライブ”でのドラムスの音が挿入されている。これを叩いていたのは、2年前に亡くなった青山純である。
正直いって、従来の彼女の枠にとどまっている印象を受けて本作の中ではあまり出来が良い部類と思えない。しかし、そもそも過去の曲の続編という意図で作ったものだし、遊び心は満載という雰囲気は楽しめるものである。
(11)Hello Again(作詞・作曲:Caravan、編曲:佐橋佳幸)
再びCaravanによる曲は、解説によるとアレンジではだいぶ実験的で凝ったことをしたようだ。それを知らなかったらバックのサウンドスケープ(音風景)には特に気にもとめなかっただろう。
もし佐橋が関わらなかったとしたら、こうした複雑な音をバックに歌うことを彼女は受け入れただろうか。聴きながらそんなことを思ってしまった。かつて何かの音楽雑誌のインタビューで、サウンド主義が嫌い、というような発言をしていたのがいまでもずっと頭に残っていたからだ。どうにでも解釈できそうな言葉だが、あまり凝った音楽をしたくないというような意味だろう。これまでのこの人の作ってきたものを考えればそう思えてくる。
渡辺美里という人は自分のスタイルというか型に強いこだわりがあるのだろう。それが彼女の明確なイメージを作りあげて成功した部分もあるが、ある時期からそれが足かせとなって表現の幅や可能性を狭めていったことも否定できない。また、器用に立ち回ることもできないことも大きかった。
そういう光景をずっと観てきた者としては、本作の多彩なゲストとの関わりや試みは少なからぬ感慨を覚えている。これ以後の活動にもこれが活かされたらと密かに願っている。果たしていつまで歌ってくれるかどうかは、よくわからないが。
(12)ここから(作詞・作曲:大江千里、編曲:佐橋佳幸)
本作の中で一番初めに世に出たシングル曲で、これも大江千里によるもの。シングルで発売されたときに日記で感想を書いているので、興味ある方は参照いただきたい。
渡辺美里「ここから」(14年)
http://30771.diarynote.jp/201405061102111592/
日記でも触れたが、これまでの彼女のイメージを踏襲しながら30年の流れを感じる部分もあり、長年共演してきた千里ならではという出来だ。美里自身も気に入っているようで、おそらくこれからのライブでも歌い続けるだろう。
ヴァン・モリソンの「デュエッツ:リワーキング・ザ・カタログ」、着実に売れてます
2015年4月12日 音楽
アマゾンにあるヴァン・モリソンの新作アルバム「「デュエッツ:リワーキング・ザ・カタログ」(15年)のページをことあるごとに確認している。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%84-%E3%83%AA%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%82%B0-%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/B00TKGOKFG
そして、
「〇点在庫あり」
という部分にいつも注目している。私が最初に見たときは15点ほどの在庫だったが、それから数日で在庫がゼロになったのだ。それからまた「20点在庫あり」と表示が切り替わる。再入荷されたのだろう。そしてさきほど見たときには「7点在庫あり」となっている。売り上げランキングでも「音楽>ロック」の部門で「21位」だった。一度も日本に来たこともないミュージシャンと考えてみれば、なかなか立派な数字ではないだろうか。
この光景は彼の作品が確実に売れていることを確認できるという点で非常に面白い。そして、この日本でもヴァン・モリソンを金を払ってまで聴きたいと思っている人が存在していることを知り、ファンとしては本当に胸が熱くなってくる。
ページを飛んでいただければおわかりになるが、私もカスタマー・レビューに投稿している。本作の売り上げに少しでも貢献しているとすれば、この上のない光栄だ。
この日記でも感想および、You Tubeにある全曲のリンク(違法ではありません)を張っているので、興味を持った方はぜひご覧いただきたい。
http://30771.diarynote.jp/201503280905031493/
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%84-%E3%83%AA%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%82%B0-%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/B00TKGOKFG
そして、
「〇点在庫あり」
という部分にいつも注目している。私が最初に見たときは15点ほどの在庫だったが、それから数日で在庫がゼロになったのだ。それからまた「20点在庫あり」と表示が切り替わる。再入荷されたのだろう。そしてさきほど見たときには「7点在庫あり」となっている。売り上げランキングでも「音楽>ロック」の部門で「21位」だった。一度も日本に来たこともないミュージシャンと考えてみれば、なかなか立派な数字ではないだろうか。
この光景は彼の作品が確実に売れていることを確認できるという点で非常に面白い。そして、この日本でもヴァン・モリソンを金を払ってまで聴きたいと思っている人が存在していることを知り、ファンとしては本当に胸が熱くなってくる。
ページを飛んでいただければおわかりになるが、私もカスタマー・レビューに投稿している。本作の売り上げに少しでも貢献しているとすれば、この上のない光栄だ。
この日記でも感想および、You Tubeにある全曲のリンク(違法ではありません)を張っているので、興味を持った方はぜひご覧いただきたい。
http://30771.diarynote.jp/201503280905031493/
eastern youth「ボトムオブザワールド」(15年)
2015年3月29日 CD評など
Yahoo!のニュースで、eastern youthのベースが脱退、という文字を見たのは2月の前半くらいだったか。Yahoo!のトップに載るほどに知られているバンドだったか?という違和感とともに、「解散」とか「活動休止」ではなく、今回出るアルバムにともなうツアーをもって二宮友和が抜けるというその内容にも少なからず驚かされた。
ギターとヴォーカルの担当である吉野寿は以前どこかのインタビューで、メンバーの誰かが抜けたらどうしますか?という質問に対して「即解散」と答えていたのを思い出した。いまのところバンドからは明確に声明は出ていないものの、ツアーの最後である札幌公演が終わった時点で正式な発表があるのではないだろうか。
本音をいえば、彼らが解散するとしても意外性は何も感じないしショックも大きくはない。作品を出し続けるという点から考えればバンドはもう頭打ちという思いが以前からあったからだ。個人的に彼らのアルバムをちゃんと聴いていたのは「DON QUIJOTE」(04年)あたりまでだったかと思う。それ以後の作品や楽曲についての記憶は、一応ライブの前には常に予習して聴いてはいたのだが、ほとんど残っていない。
そもそも私はeastern youthの世界観が心の底から好きなのかどうかはだいぶ怪しいところがある。吉野の歌詞における言葉の使い方、またはアルバムのデザインなども自分の好みに合っているわけでもない。例えば“踵鳴る”というような名前の曲を自ら進んで聴くことはないだろう。何か自分の感覚とは違う気がするからだ。
私が彼らに惹かれたのは3人の出す音であり、ライブだった。偶然CDショップで視聴した「感受性応答セヨ」(01年)の冒頭である“夜明けの唄”のイントロに何か直感するものがあり、そしてそれが全てだったような気がする。初めてライブを体験したのは翌年の南アメリカ村BIG CATである。観たくて観たくて仕方ない気持ちで臨んだライブだったが、そんな私の期待を十二分に応えてくれた素晴らしい内容だったことを今でも覚えている。
以後も新作が出ればいつも買っていて、ツアーがあれば大阪もしくは京都の公演は足を運んでいた。CDもライブにも金を出し続けていたのだから、彼らの理解者はいえないまでもそんなに悪い客でもなかっただろう。
「アルバムもたいして気に入ってもいないのに、どうしてライブに行き続けたんだ?」
と疑問を抱く方がいるかもしれない。確かに表面的な作風は私の好みに合致はしなかった昨今であるが、バンドとしての彼らの音は別に錆びついていないとわかっていたからである。実際、ライブで観られる彼らはいつも変わらず素晴らしかった。
それゆえ今回の「ボトムオブザワールド」についても、この3人で最後の作品とはいえ、アルバム自体には特に大きな期待はしなかった。最後だからといって何か劇的な変化があるとも思えなかったからだ。いや、そもそも私は彼らに対して大きな変化というものを望んですらいなかったのだろう。
1曲目の“街の底”はヒップホップっぽい歌い方で始まる。おそらく今までにはなかったアプローチだろうが「あんまり似合っていないなあ」というのが最初の印象だった。しかしサビに入り3人の音がバーンと出て吉野が絶叫した瞬間に、その思いは一変してしまった。
eastern youth「街の底」ミュージックビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=7ilUtaTAMxI
「これは・・・俺がいつもライブで求めているeastern youthだ!」
23年間一緒にやってきた3人が、最後の最後にきてとんでもない作品を作ってしまったのである。その底力には本当に感動してしまった。
試しに「感受性応答セヨ」を聴き返してみが、今回の音はそれにも負けていない。細かい作風について好みがあるかもしれないが、バンドの出す音としては「最高傑作」といいたい(こういう言葉は本来軽々しく使ってはいけないのだが、もうこういうことを書く機会も無いのだからそう結論づけさせてほしい)。
1点触れておきたいことがある。アルバムが発売されたころ、「TVブロス」誌の音楽レビュー欄で本作が触れられていた。そこに、経済的な理由で活動を止めようとしたこともあった、ということが書かれていたのが衝撃だった。ミュージシャンの台所事情など私には想像のつかない世界なのだが、どんなに続けたくても現実的なお金のやりくりができなくなるという事態も当然出てくるのだと今更ながらに知ることとなった。
本作に“ナニクソ節”という曲がある。
そこに、
<涙が出そうだ だけど泣きたくねえ
ぶっ倒れそうだ だけど負けたくねえ>
という一節がある。文字に起こしてみるとあまりに陳腐でお世辞にも恰好いいとはいえないけれど、3人がどんな思いでスタジオに入りこの曲を録音したのかと想像してみると、本当に胸がいっぱいになってくる。
彼らのレーベルである「裸足の音楽社」に、
<今年6月までのツアーをもって脱退することにしました。
新作「ボトムオブザワールド」を作り終えて、自分がeastern youthでできることは全てやりきった、
と実感したことが理由です。92年より23年やってきましたがとても充実した時間でした。
苦楽を共にしたメンバー、スタッフ、そして聴いてくださった皆様に心から感謝しています。
ありがとうございました。>
という二宮のコメントが載っているが、本作を聴けば「全てやりきった」というのは本当に納得している。
おそらく今回のツアーでも、いつも通り新作から大半とそれ以外を数曲という流れになるだろう。しかしこれだけのアルバムを作ったのだから、絶対に素晴らしい内容になるのは間違いない。それが「有終の美」となってしまうのだから単純に喜べない部分もあるけれど、最高のライブを観られることを楽しみに京都公演と大阪公演を待ちたい。
ギターとヴォーカルの担当である吉野寿は以前どこかのインタビューで、メンバーの誰かが抜けたらどうしますか?という質問に対して「即解散」と答えていたのを思い出した。いまのところバンドからは明確に声明は出ていないものの、ツアーの最後である札幌公演が終わった時点で正式な発表があるのではないだろうか。
本音をいえば、彼らが解散するとしても意外性は何も感じないしショックも大きくはない。作品を出し続けるという点から考えればバンドはもう頭打ちという思いが以前からあったからだ。個人的に彼らのアルバムをちゃんと聴いていたのは「DON QUIJOTE」(04年)あたりまでだったかと思う。それ以後の作品や楽曲についての記憶は、一応ライブの前には常に予習して聴いてはいたのだが、ほとんど残っていない。
そもそも私はeastern youthの世界観が心の底から好きなのかどうかはだいぶ怪しいところがある。吉野の歌詞における言葉の使い方、またはアルバムのデザインなども自分の好みに合っているわけでもない。例えば“踵鳴る”というような名前の曲を自ら進んで聴くことはないだろう。何か自分の感覚とは違う気がするからだ。
私が彼らに惹かれたのは3人の出す音であり、ライブだった。偶然CDショップで視聴した「感受性応答セヨ」(01年)の冒頭である“夜明けの唄”のイントロに何か直感するものがあり、そしてそれが全てだったような気がする。初めてライブを体験したのは翌年の南アメリカ村BIG CATである。観たくて観たくて仕方ない気持ちで臨んだライブだったが、そんな私の期待を十二分に応えてくれた素晴らしい内容だったことを今でも覚えている。
以後も新作が出ればいつも買っていて、ツアーがあれば大阪もしくは京都の公演は足を運んでいた。CDもライブにも金を出し続けていたのだから、彼らの理解者はいえないまでもそんなに悪い客でもなかっただろう。
「アルバムもたいして気に入ってもいないのに、どうしてライブに行き続けたんだ?」
と疑問を抱く方がいるかもしれない。確かに表面的な作風は私の好みに合致はしなかった昨今であるが、バンドとしての彼らの音は別に錆びついていないとわかっていたからである。実際、ライブで観られる彼らはいつも変わらず素晴らしかった。
それゆえ今回の「ボトムオブザワールド」についても、この3人で最後の作品とはいえ、アルバム自体には特に大きな期待はしなかった。最後だからといって何か劇的な変化があるとも思えなかったからだ。いや、そもそも私は彼らに対して大きな変化というものを望んですらいなかったのだろう。
1曲目の“街の底”はヒップホップっぽい歌い方で始まる。おそらく今までにはなかったアプローチだろうが「あんまり似合っていないなあ」というのが最初の印象だった。しかしサビに入り3人の音がバーンと出て吉野が絶叫した瞬間に、その思いは一変してしまった。
eastern youth「街の底」ミュージックビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=7ilUtaTAMxI
「これは・・・俺がいつもライブで求めているeastern youthだ!」
23年間一緒にやってきた3人が、最後の最後にきてとんでもない作品を作ってしまったのである。その底力には本当に感動してしまった。
試しに「感受性応答セヨ」を聴き返してみが、今回の音はそれにも負けていない。細かい作風について好みがあるかもしれないが、バンドの出す音としては「最高傑作」といいたい(こういう言葉は本来軽々しく使ってはいけないのだが、もうこういうことを書く機会も無いのだからそう結論づけさせてほしい)。
1点触れておきたいことがある。アルバムが発売されたころ、「TVブロス」誌の音楽レビュー欄で本作が触れられていた。そこに、経済的な理由で活動を止めようとしたこともあった、ということが書かれていたのが衝撃だった。ミュージシャンの台所事情など私には想像のつかない世界なのだが、どんなに続けたくても現実的なお金のやりくりができなくなるという事態も当然出てくるのだと今更ながらに知ることとなった。
本作に“ナニクソ節”という曲がある。
そこに、
<涙が出そうだ だけど泣きたくねえ
ぶっ倒れそうだ だけど負けたくねえ>
という一節がある。文字に起こしてみるとあまりに陳腐でお世辞にも恰好いいとはいえないけれど、3人がどんな思いでスタジオに入りこの曲を録音したのかと想像してみると、本当に胸がいっぱいになってくる。
彼らのレーベルである「裸足の音楽社」に、
<今年6月までのツアーをもって脱退することにしました。
新作「ボトムオブザワールド」を作り終えて、自分がeastern youthでできることは全てやりきった、
と実感したことが理由です。92年より23年やってきましたがとても充実した時間でした。
苦楽を共にしたメンバー、スタッフ、そして聴いてくださった皆様に心から感謝しています。
ありがとうございました。>
という二宮のコメントが載っているが、本作を聴けば「全てやりきった」というのは本当に納得している。
おそらく今回のツアーでも、いつも通り新作から大半とそれ以外を数曲という流れになるだろう。しかしこれだけのアルバムを作ったのだから、絶対に素晴らしい内容になるのは間違いない。それが「有終の美」となってしまうのだから単純に喜べない部分もあるけれど、最高のライブを観られることを楽しみに京都公演と大阪公演を待ちたい。
ヴァン・モリソン「デュエッツ:リワーキング・ザ・カタログ」(15年)
2015年3月28日 CD評など
ヴァン・モリソンが久しぶりに新作を出すというニュースを知ったのは今年に入ってからだろうか。しかし題名は「Duets」という名前で、察するに他のアーティストとのデュエットをする企画盤のようだ。この人はいつまで経っても来日しないまま、ついに今年で70歳を迎えようとしている。もはや絶望的だしこちらから観に行ってやろうと思い立ち渡英したのは2007年である。しかしそれからもすでに8年が経過したことになる。もう好きなことをしていられたら彼は満足なのだろう。それゆえ本作についても、
「まあ、好きにしたらいいさ。ただ企画盤だし、絶対に買いはするけど、そんなに繰り返して聴くこともないだろうなあ」
などと発売直前までは鷹揚な態度で構えていた。
そんな思いが少し変わったのは、You Tubeでマイケル・ブーブレとの“Real Real Gone”を最初に聴いたあたりだったと思う。何やらいつにも増して元気の良い歌声をしているモリソンの姿がそこにあったからだ。バックの音も心なしか力強く感じる。
Van Morrison, Michael Bublé - Real Real Gone
https://www.youtube.com/watch?v=pRDHApDmTuI
「これはけっこう期待できるかもしれない」
そしてまたしばらくすると、なんと「ローリング・ストーン」のサイトでアルバム収録曲を全て視聴できるというのである。いつになく気合いのこもった試みである。たいがいはこういうのを無視して現物のCDが聴くまで放っておく人間なのだが、ここで2曲、3曲と聴き続け、最終的には全16曲を制覇してしまった。
そして心地よい疲れと満足感の中に浸りながら、
「今回は個人的に、21世紀最高の作品だ」
という確信を得るまでになる。
さきほどの「ローリング・ストーン」のサイトで、本作はモリソンの敬愛するミュージシャンと共演して自身の曲を歌うという他に、彼の長いキャリアの中でもあまり知られていない楽曲を取り上げるという意もあったことが触れられている。アルバムに収録されている曲は確かに熱心なファンしか知らない曲ばかりだ。シングルになったかどうかまでは確かめられないが、少なくとも「ヒット曲」というのは1つも収められていない。
今から20年ほど前に「ノー・プリマドンナ」(94年)というモリソンのトリビュート・アルバムが発売された。しかしそのプロデュースをしたのは当のモリソン本人である。トリビュート・アルバムを対象となる人間が監修するというのはなんとも彼の偏屈さを伝えて余りあるものだが、今回についても「企画盤」などという表面的な形を超えて彼の強い意向が出ている作品である。
選曲については、You Tubeで観たインタビューを確認する限りはモリソン本人が選んだり先方の意見も反映されたりと色々だったらしい。
ヴァン・モリソン『デュエッツ:リワーキング・ザ・カタログ』インタビュー(日本語字幕付)
https://www.youtube.com/watch?v=TLIsPGRRbwM
しかし、今回選ばれた楽曲の数々については本当に唸らされるものがある。「安息の旅」(77年)、「コモン・ワン」(80年)、「時の流れに」(83年)など、これまでお世辞にも積極的な評価がされたとはいえない、またよほど熱心なファン以外は聴きこんでいないアルバムから取り上げられているのだ。21世紀以降の作品からも4曲(つまり、全体の4分の1だ)入っているのも特徴的だろう。「リメイク」という言葉には過去の焼き直しというような後ろ向きの印象を受けるのが常であるが、本作に関しては作者の意地やこだわりを嫌でも感じとってしまう。
私自身も、例えば「コモン・ワン」など15分以上の曲が2曲ある異色作であり、1枚を通して聴いた記憶もない。だが今回をきっかけに過去の作品をパソコンに取り入れることにした。別に彼の音楽に飽きたというのとは違うが、やはり20年もファンをしていたらダレるというような状態になってしまうのは避けられない。しかし本作はそうした私の気持ちを正すような役割を果たすことになった。
本作を聴いて再認識したのは、いつも同じことを言っているような気がするが、彼の音楽が持つ変わらぬ力強さや生命力である。ビートルズと同じ頃に活動を始め、ロックだのパンクだのテクノだのといった時代の波に全く流されることなく現在まで一貫して守り続けた彼の音楽性は、もはや人間国宝とか天然記念物といってもいいくらい尊いものだ。それはヒットしたとかシングルになったとかいった話とは、一切関係がない。本作はそうしたことに改めて気づかされることとなった。
作品の聴きこみ方や個々の楽曲についての思い入れはファンそれぞれなのだが、個人的には“Carrying A Torch”、“These Are The Days”、“Streets Of Arklow”あたりの再演は「すごくわかる!」と激しく同意したくなった。これらの楽曲が現在のモリソンの声で聴けるというのは本当に嬉しい驚きである。
Van Morrison, Clare Teal - Carrying A Torch (Audio)
https://www.youtube.com/watch?v=SrbFG1BzUbo
Van Morrison -These are the Days- (feat. Natalie Cole)
https://www.youtube.com/watch?v=cqYmvn2dBh0
Van Morrison -Streets of Arklow- (feat. Mick Hucknall)
https://www.youtube.com/watch?v=pw4v98Wynw8
1曲1曲を聴きながら、
「私はこの人は心の底から好きなんだなあ・・・」
と、しみじみ実感しているところである。初めて彼のライブを観た時に、現存する歌手の中で最高峰、などと日記で書いた記憶があるがその思いは今も変わらない。
多彩なゲストについても詳しく触れなければならないのだが、私の知識で書けるようなことはあまりない(ジョージ・ベンソンという人は初めて名前を知った。私のレベルはその程度である)。ただ、いわゆる「ロック」というジャンルからは距離のある人が大半なのはやはりモリソンらしい。
一番感じたのは、ゲストの力によっていつもの彼のアルバムよりも開放感のようなものが強いということである。ヴァン・モリソンは(その人間性はともかくとして)音楽に排他的なものがあると感じたことは一切ない。しかし、本作を聴いているとやはり商業性や大衆性という要素は薄めな人なのかもしれない、という思いも頭に少しよぎった。マイケル・ブーブレとの共演などすごく典型的で、シングル曲にもなりそうなほどの勢いや明るさがある。そうした空気が本作独自の魅力の一つかもしれない。
私が今回もっとも望んでいるのは、マイケル・ブーブレでもジョス・ストーンでもスティーヴ・ウィンウッドでも構わないのだが、彼らのファンがこれをきっかけに本作そしてモリソンの音楽に触れてもらえたらということだ。
解説を書いている大鷹俊一さんも、
<正直言って、今からヴァンの作品を聴こうとするのはなかなか大変だ。ファンの人にお薦めを聞いて、何枚ものアルバムを挙げられ途方に暮れたなんて人もいえるかもしれない。そうした人にとってもこのアルバムはとてもいい入り口にもなっていると言える。>
と書かれているけれど、それは私も同じ思いである。残念ながら“グロリア”や“ムーンダンス”など代表曲が一切ないのが入門編としては厳しいが、それは「ベスト・オブ・ヴァン・モリソン」(90年)が最も手頃なものになっている。
70歳のじいさんでしょう?と年齢とか衰えを気にする方もいるかもしれない。しかし、それはこの人にとっては全く関係ないことを、実際に聴いてみれば気づくはずだ。好き嫌いはもう仕方ないが、本作を聴けば何がしか感じるものがあると信じている。私は20年程度しかファン歴は無いけれど、ある程度は参考情報にしていただければと思う。
必要なことはとりあえず書いてみた。あとは最後に自分の正直な思いを吐き出して締めたい。
今日まで生きてきて、本当に良かった。これを聴くことができたのだから。
You Tubeで個々の楽曲は聴けるので、全て載せておく。
Van Morrison -Some Peace of Mind- (feat. Bobby Womack)
https://www.youtube.com/watch?v=kQ8rxABCRYM
Van Morrison -Lord, If I Ever Needed Someone- (feat. Mavis Staples)
https://www.youtube.com/watch?v=PHDWn7rY9cA
Van Morrison -Higher Than the World- (feat. George Benson)
https://www.youtube.com/watch?v=9oRONTzpZW8
Van Morrison -Wild Honey- (feat. Joss Stone)
https://www.youtube.com/watch?v=YnMq7QXqnoM
Van Morrison -Whatever Happened to P.J. Proby- (feat. P.J. Proby)
https://www.youtube.com/watch?v=eKfd7i1NIEA
Van Morrison -The Eternal Kansas City- (feat. Gregory Porter)
https://www.youtube.com/watch?v=k5B-VKLUm2Y
Van Morrison -Get on With the Show- (feat. Georgie Fame)
https://www.youtube.com/watch?v=kGPBEEOmCBU
Van Morrison -Rough God Goes Riding- (feat. Shana Morrison)
https://www.youtube.com/watch?v=u6RfxHHz4uY
Van Morrison -Fire in the Belly- (feat. Steve Winwood)
https://www.youtube.com/watch?v=aH9R0KN7y5s
Van Morrison -Born to Sing- (feat. Chris Farlowe)
https://www.youtube.com/watch?v=snQOD_UgqX4
Van Morrison -Irish Heartbeat- (feat. Mark Knopfler)
https://www.youtube.com/watch?v=drUkTkQB70I
Van Morrison -How Can a Poor Boy- (feat. Taj Mahal)
https://www.youtube.com/watch?v=8D9CuksR2iY
「まあ、好きにしたらいいさ。ただ企画盤だし、絶対に買いはするけど、そんなに繰り返して聴くこともないだろうなあ」
などと発売直前までは鷹揚な態度で構えていた。
そんな思いが少し変わったのは、You Tubeでマイケル・ブーブレとの“Real Real Gone”を最初に聴いたあたりだったと思う。何やらいつにも増して元気の良い歌声をしているモリソンの姿がそこにあったからだ。バックの音も心なしか力強く感じる。
Van Morrison, Michael Bublé - Real Real Gone
https://www.youtube.com/watch?v=pRDHApDmTuI
「これはけっこう期待できるかもしれない」
そしてまたしばらくすると、なんと「ローリング・ストーン」のサイトでアルバム収録曲を全て視聴できるというのである。いつになく気合いのこもった試みである。たいがいはこういうのを無視して現物のCDが聴くまで放っておく人間なのだが、ここで2曲、3曲と聴き続け、最終的には全16曲を制覇してしまった。
そして心地よい疲れと満足感の中に浸りながら、
「今回は個人的に、21世紀最高の作品だ」
という確信を得るまでになる。
さきほどの「ローリング・ストーン」のサイトで、本作はモリソンの敬愛するミュージシャンと共演して自身の曲を歌うという他に、彼の長いキャリアの中でもあまり知られていない楽曲を取り上げるという意もあったことが触れられている。アルバムに収録されている曲は確かに熱心なファンしか知らない曲ばかりだ。シングルになったかどうかまでは確かめられないが、少なくとも「ヒット曲」というのは1つも収められていない。
今から20年ほど前に「ノー・プリマドンナ」(94年)というモリソンのトリビュート・アルバムが発売された。しかしそのプロデュースをしたのは当のモリソン本人である。トリビュート・アルバムを対象となる人間が監修するというのはなんとも彼の偏屈さを伝えて余りあるものだが、今回についても「企画盤」などという表面的な形を超えて彼の強い意向が出ている作品である。
選曲については、You Tubeで観たインタビューを確認する限りはモリソン本人が選んだり先方の意見も反映されたりと色々だったらしい。
ヴァン・モリソン『デュエッツ:リワーキング・ザ・カタログ』インタビュー(日本語字幕付)
https://www.youtube.com/watch?v=TLIsPGRRbwM
しかし、今回選ばれた楽曲の数々については本当に唸らされるものがある。「安息の旅」(77年)、「コモン・ワン」(80年)、「時の流れに」(83年)など、これまでお世辞にも積極的な評価がされたとはいえない、またよほど熱心なファン以外は聴きこんでいないアルバムから取り上げられているのだ。21世紀以降の作品からも4曲(つまり、全体の4分の1だ)入っているのも特徴的だろう。「リメイク」という言葉には過去の焼き直しというような後ろ向きの印象を受けるのが常であるが、本作に関しては作者の意地やこだわりを嫌でも感じとってしまう。
私自身も、例えば「コモン・ワン」など15分以上の曲が2曲ある異色作であり、1枚を通して聴いた記憶もない。だが今回をきっかけに過去の作品をパソコンに取り入れることにした。別に彼の音楽に飽きたというのとは違うが、やはり20年もファンをしていたらダレるというような状態になってしまうのは避けられない。しかし本作はそうした私の気持ちを正すような役割を果たすことになった。
本作を聴いて再認識したのは、いつも同じことを言っているような気がするが、彼の音楽が持つ変わらぬ力強さや生命力である。ビートルズと同じ頃に活動を始め、ロックだのパンクだのテクノだのといった時代の波に全く流されることなく現在まで一貫して守り続けた彼の音楽性は、もはや人間国宝とか天然記念物といってもいいくらい尊いものだ。それはヒットしたとかシングルになったとかいった話とは、一切関係がない。本作はそうしたことに改めて気づかされることとなった。
作品の聴きこみ方や個々の楽曲についての思い入れはファンそれぞれなのだが、個人的には“Carrying A Torch”、“These Are The Days”、“Streets Of Arklow”あたりの再演は「すごくわかる!」と激しく同意したくなった。これらの楽曲が現在のモリソンの声で聴けるというのは本当に嬉しい驚きである。
Van Morrison, Clare Teal - Carrying A Torch (Audio)
https://www.youtube.com/watch?v=SrbFG1BzUbo
Van Morrison -These are the Days- (feat. Natalie Cole)
https://www.youtube.com/watch?v=cqYmvn2dBh0
Van Morrison -Streets of Arklow- (feat. Mick Hucknall)
https://www.youtube.com/watch?v=pw4v98Wynw8
1曲1曲を聴きながら、
「私はこの人は心の底から好きなんだなあ・・・」
と、しみじみ実感しているところである。初めて彼のライブを観た時に、現存する歌手の中で最高峰、などと日記で書いた記憶があるがその思いは今も変わらない。
多彩なゲストについても詳しく触れなければならないのだが、私の知識で書けるようなことはあまりない(ジョージ・ベンソンという人は初めて名前を知った。私のレベルはその程度である)。ただ、いわゆる「ロック」というジャンルからは距離のある人が大半なのはやはりモリソンらしい。
一番感じたのは、ゲストの力によっていつもの彼のアルバムよりも開放感のようなものが強いということである。ヴァン・モリソンは(その人間性はともかくとして)音楽に排他的なものがあると感じたことは一切ない。しかし、本作を聴いているとやはり商業性や大衆性という要素は薄めな人なのかもしれない、という思いも頭に少しよぎった。マイケル・ブーブレとの共演などすごく典型的で、シングル曲にもなりそうなほどの勢いや明るさがある。そうした空気が本作独自の魅力の一つかもしれない。
私が今回もっとも望んでいるのは、マイケル・ブーブレでもジョス・ストーンでもスティーヴ・ウィンウッドでも構わないのだが、彼らのファンがこれをきっかけに本作そしてモリソンの音楽に触れてもらえたらということだ。
解説を書いている大鷹俊一さんも、
<正直言って、今からヴァンの作品を聴こうとするのはなかなか大変だ。ファンの人にお薦めを聞いて、何枚ものアルバムを挙げられ途方に暮れたなんて人もいえるかもしれない。そうした人にとってもこのアルバムはとてもいい入り口にもなっていると言える。>
と書かれているけれど、それは私も同じ思いである。残念ながら“グロリア”や“ムーンダンス”など代表曲が一切ないのが入門編としては厳しいが、それは「ベスト・オブ・ヴァン・モリソン」(90年)が最も手頃なものになっている。
70歳のじいさんでしょう?と年齢とか衰えを気にする方もいるかもしれない。しかし、それはこの人にとっては全く関係ないことを、実際に聴いてみれば気づくはずだ。好き嫌いはもう仕方ないが、本作を聴けば何がしか感じるものがあると信じている。私は20年程度しかファン歴は無いけれど、ある程度は参考情報にしていただければと思う。
必要なことはとりあえず書いてみた。あとは最後に自分の正直な思いを吐き出して締めたい。
今日まで生きてきて、本当に良かった。これを聴くことができたのだから。
You Tubeで個々の楽曲は聴けるので、全て載せておく。
Van Morrison -Some Peace of Mind- (feat. Bobby Womack)
https://www.youtube.com/watch?v=kQ8rxABCRYM
Van Morrison -Lord, If I Ever Needed Someone- (feat. Mavis Staples)
https://www.youtube.com/watch?v=PHDWn7rY9cA
Van Morrison -Higher Than the World- (feat. George Benson)
https://www.youtube.com/watch?v=9oRONTzpZW8
Van Morrison -Wild Honey- (feat. Joss Stone)
https://www.youtube.com/watch?v=YnMq7QXqnoM
Van Morrison -Whatever Happened to P.J. Proby- (feat. P.J. Proby)
https://www.youtube.com/watch?v=eKfd7i1NIEA
Van Morrison -The Eternal Kansas City- (feat. Gregory Porter)
https://www.youtube.com/watch?v=k5B-VKLUm2Y
Van Morrison -Get on With the Show- (feat. Georgie Fame)
https://www.youtube.com/watch?v=kGPBEEOmCBU
Van Morrison -Rough God Goes Riding- (feat. Shana Morrison)
https://www.youtube.com/watch?v=u6RfxHHz4uY
Van Morrison -Fire in the Belly- (feat. Steve Winwood)
https://www.youtube.com/watch?v=aH9R0KN7y5s
Van Morrison -Born to Sing- (feat. Chris Farlowe)
https://www.youtube.com/watch?v=snQOD_UgqX4
Van Morrison -Irish Heartbeat- (feat. Mark Knopfler)
https://www.youtube.com/watch?v=drUkTkQB70I
Van Morrison -How Can a Poor Boy- (feat. Taj Mahal)
https://www.youtube.com/watch?v=8D9CuksR2iY
この日の追加公演を買うかどうかは少し判断に迷った。先日に引き続き平日のライブだったからである。月曜日は大事をとって早めに仕事を終わらせてもらったけれど、またすぐ3日後になって、
「すいませーん。本日もお世話になりますう」
などと頼むことは小心な私にはできない芸当だ。また3月は年度末ということで職場も慌ただしい。今月に入ってから残業する日も増えている。そういうわけで周囲にはとりあえず黙って作業をすることにした。1時間半あれば淀屋橋までは充分に間に合うことは先日実証されている。ともかく定時に終わることを願うだけだ。
30分も残業すればもうアウトだったわけだが、またしても日頃のおこないのおかげもあってか定時ギリギリで終えることができた(そんなに余裕はなかったが)。すぐに阪急烏丸まで走っていくと5時41分発の快速急行に間に合うことができた。
「今日も開演に間に合うぞ」
と心の中で静かに喜んだ。電車は大きな遅延もなく大阪に到着し、フェスティバルホールの前には6時40分に行くことができた。
今回の追加公演は発売開始からしばらく経つまで気づかなかったしチケットの購入手続きをとったのも公演1週間前ということもあり、座席は2階の4列目だった。当日券も発売されていたが、2階席は後方3列が空いているくらいの状態だった。3階の状況は確認できなかったもののA席は完売していたようだし、8割くらいは埋まったかと思われる。
今夜特筆した点は“Late For The Sky”に加えて“The Pretender”も披露されたことだろうか。しかも、どちらも客席からのリクエストに応えてという形である。いずれのリクエストも1階席後方から声が聞こえたので「同一人物か?」と訝しく思ったけれど、何も声が上がらなければ2曲とも演奏されずじまい・・・という可能性もあったということを考えるとなんとも複雑な気がする。
また、ジャクソンはこうやってリクエストに応じてやってしまう人なので、そこに付け込まれたという感じもぬぐえない。個人的にはライブ全体の流れが崩れることになるリクエストなどしない方がいいという立場である。実際、今夜のジャクソンは“For A Dancer”で2度もトチッたし、“Standing In The Breach”の冒頭でも少ししくじっていたし、それが強引なリクエストの影響があった可能性も否定できないだろう(単に66歳という年齢の問題もあるかもしれないが)。
本編最後の合図である“Running On Empty”が始まった時は9時27分だった。
この時に、
「今夜はアンコール3曲分の時間は残っている!」
さらに日本公演最終日ということもあり、“Load Out”の登場を願いながらアンコールで拍手を送った。しかし1曲目は初日と同じ流れで、ここで10分以上は費やしてしまった。2回目のアンコールはあったものの、出てきたのは“Before The Deluge”である。洪水をテーマにした曲であり、「3・11」以後で初めての来日になるからジャクソンらしいといえばそうなのだが少し意表を突かれた。
この曲が終わってもう10時前だったので打ち止めと思ったら、ジャクソンが指1本を高く差し出し会場はさらに盛り上がる。そうして始まったのが“I Am A Patriot”である。これを喜ぶファンはどれほどいるのかよくわからないが、とりあえず目いっぱい最後まで演奏したジャクソンとバンドには感謝するほかはない。
今回の来日公演は5年ぶりである。さらに5年後のジャクソンは70歳を超えている。果たして次回また彼に出会える機会はあるのだろうか。ライブに行くとそんなことばかり考える今日この頃である。まあ、私が生きているかどうかもわからない話だから考えても仕方ないことか。
最後に曲目を記しておく。
【演奏曲目】
(1)The Barricades Of Heaven
(2)Looking Into You
(3)The Long Way Around
(4)Leaving Winslow
(5)These Days
(6)Shaky Town
(7)Late For The Sky
(8)I’m Alive
(9)Something Fine
(10)You Know The Night
(11)For A Dancer
(15分間の休憩)
(12)Your Bright Baby Blues
(13)The Pretender
(14)If I Could Be Anywhere
(15)Lives In The Balance
(16)Standing In The Breach
(17)Looking East
(18)Far From The Arms Of Hunger
(19)Doctor My Eyes
(20)Running On Empty
<アンコール1>
(21)Take It Easy ~Our Lady Of The Well
<アンコール2>
(22)Before The Deluge
(23)I Am A Patriot
「すいませーん。本日もお世話になりますう」
などと頼むことは小心な私にはできない芸当だ。また3月は年度末ということで職場も慌ただしい。今月に入ってから残業する日も増えている。そういうわけで周囲にはとりあえず黙って作業をすることにした。1時間半あれば淀屋橋までは充分に間に合うことは先日実証されている。ともかく定時に終わることを願うだけだ。
30分も残業すればもうアウトだったわけだが、またしても日頃のおこないのおかげもあってか定時ギリギリで終えることができた(そんなに余裕はなかったが)。すぐに阪急烏丸まで走っていくと5時41分発の快速急行に間に合うことができた。
「今日も開演に間に合うぞ」
と心の中で静かに喜んだ。電車は大きな遅延もなく大阪に到着し、フェスティバルホールの前には6時40分に行くことができた。
今回の追加公演は発売開始からしばらく経つまで気づかなかったしチケットの購入手続きをとったのも公演1週間前ということもあり、座席は2階の4列目だった。当日券も発売されていたが、2階席は後方3列が空いているくらいの状態だった。3階の状況は確認できなかったもののA席は完売していたようだし、8割くらいは埋まったかと思われる。
今夜特筆した点は“Late For The Sky”に加えて“The Pretender”も披露されたことだろうか。しかも、どちらも客席からのリクエストに応えてという形である。いずれのリクエストも1階席後方から声が聞こえたので「同一人物か?」と訝しく思ったけれど、何も声が上がらなければ2曲とも演奏されずじまい・・・という可能性もあったということを考えるとなんとも複雑な気がする。
また、ジャクソンはこうやってリクエストに応じてやってしまう人なので、そこに付け込まれたという感じもぬぐえない。個人的にはライブ全体の流れが崩れることになるリクエストなどしない方がいいという立場である。実際、今夜のジャクソンは“For A Dancer”で2度もトチッたし、“Standing In The Breach”の冒頭でも少ししくじっていたし、それが強引なリクエストの影響があった可能性も否定できないだろう(単に66歳という年齢の問題もあるかもしれないが)。
本編最後の合図である“Running On Empty”が始まった時は9時27分だった。
この時に、
「今夜はアンコール3曲分の時間は残っている!」
さらに日本公演最終日ということもあり、“Load Out”の登場を願いながらアンコールで拍手を送った。しかし1曲目は初日と同じ流れで、ここで10分以上は費やしてしまった。2回目のアンコールはあったものの、出てきたのは“Before The Deluge”である。洪水をテーマにした曲であり、「3・11」以後で初めての来日になるからジャクソンらしいといえばそうなのだが少し意表を突かれた。
この曲が終わってもう10時前だったので打ち止めと思ったら、ジャクソンが指1本を高く差し出し会場はさらに盛り上がる。そうして始まったのが“I Am A Patriot”である。これを喜ぶファンはどれほどいるのかよくわからないが、とりあえず目いっぱい最後まで演奏したジャクソンとバンドには感謝するほかはない。
今回の来日公演は5年ぶりである。さらに5年後のジャクソンは70歳を超えている。果たして次回また彼に出会える機会はあるのだろうか。ライブに行くとそんなことばかり考える今日この頃である。まあ、私が生きているかどうかもわからない話だから考えても仕方ないことか。
最後に曲目を記しておく。
【演奏曲目】
(1)The Barricades Of Heaven
(2)Looking Into You
(3)The Long Way Around
(4)Leaving Winslow
(5)These Days
(6)Shaky Town
(7)Late For The Sky
(8)I’m Alive
(9)Something Fine
(10)You Know The Night
(11)For A Dancer
(15分間の休憩)
(12)Your Bright Baby Blues
(13)The Pretender
(14)If I Could Be Anywhere
(15)Lives In The Balance
(16)Standing In The Breach
(17)Looking East
(18)Far From The Arms Of Hunger
(19)Doctor My Eyes
(20)Running On Empty
<アンコール1>
(21)Take It Easy ~Our Lady Of The Well
<アンコール2>
(22)Before The Deluge
(23)I Am A Patriot
今日はいつもより25分早く仕事を切り上げさせてもらい、勤務先から阪急烏丸駅へと向かった。2時間もあれば会場のフェスティバルホールまでは余裕と思っていたものの、6時20分に着いた時にはけっこう驚いた。遅延がなければ移動に1時間半もかからないことになる。本当は休みが取れたら一番よかったのだが、それはまあ仕方ない。
入口前でパンフレット(2000円)を買って入場し、しばらくはロビーで携帯をいじって一休みしてから席についた。今回は1階席の前から8列目の右端という良席で、ステージがもう目の前にある。しかも驚いたことに、フラッシュを使用しないという条件で携帯撮影もOKというアナウンスが流れている(高機能のカメラや動画撮影は不可)。それを聞いてさっそくステージや会場を開演前から撮っているうちに7時が回って開演となった。本日は完売御礼である。
ジャクソン・ブラウンの5年ぶりの来日公演、個人的には6度目のライブである。海外ミュージシャンで一番多く観ているのは彼に間違いない。「なぜ同じミュージシャンを何度も観に行くのか?」と訝しがる人もいるかもしれないが、これはお金に代えられるものではないのだ、と答えるほかはない。3000人収容のフェスティバルホールが完売した理由も私と同じような思いを抱いている人が一定数存在することの証明である
今回のツアーに関する情報は全く入れずに臨んだものの、一発目の“Barricades Of Heaven”のイントロが始まった時に、そういえばこの曲が1曲目だとネットのどこかで見たなあ、といまさらながら思い出してしまった。3曲目の“Long Way Around”の冒頭で不自然な歓声が起きていたが、たぶんコード進行が一緒の“These Days”と勘違いした人が何人かいたのだと思われる。
バンドはジャクソンがギターもしくはピアノ、他はベース、ドラムス、キーボード、ギターが2人、黒人女性コーラスが2人という布陣だ。技術的なことは正直わからないけれど、演奏は手堅く無駄がないという感じだ。いや、上手いとか下手とかという次元ではなく、ジャクソンの音楽だけが持つ憂いを含んだような音を見事に演出しているところが素晴らしい。1曲目からもうグングンと引き付けられていった。
曲目は最後に記しているけれど、大傑作である最新作「Standing In The Breach」(14年)を軸に、旧作からも名曲が惜しみなく披露された充実した内容となった。“Late For The Sky”は観客のリクエストに応えて出てきたもので、何もなければ演奏されなかったらしい。そのリクエストしていたのは私の2列くらい後方にいたうるさいジジイで、東京では俺の知り合いが“Late For The Sky”をお願いしたから演奏されたなどと、開演前にグチャグチャ言っていた輩である。終演してからも、
「俺がリクエストしたから“Late For The Sky”を聴けたんや!」
などと自慢げに話していた。しかし、果たしてこれがベストの選択だったかどうかは疑わしい。確かに“Late For The Sky”は披露されたけれど、その代わりに1曲何か別の曲が無くなったわけである。それが“The Pretender”だったかもしれないし、他の会場のアンコールで披露された“Before The Deluge”だった可能性もある。
そう、今回の大阪公演は“The Pretender”が出てこなかったのだ。これがもっとも好きな自分としては少々残念な思いもある。さらに、もしジジイのリクエストがなければ“Late For The Sky”も演奏されなかったことになる。私はもう何度も彼のライブを観ているからそれでもまあいいやと諦められるけれど、初めて観に来た方にとってはどうなのかなあというモヤモヤした思いが残った。
そんな些末なことはあったものの、極東の島国のライブとて手抜きのしないジャクソンなので午後10時の手前まで演奏して大阪公演1日目は無事に終了した。広島公演を挟んで、またこの場所で追加公演がおこなわれる。人生7度目のジャクソン・ブラウンは、もう間近である。
【演奏曲目】
(1)Barricades Of Heaven
(2)Something Fine
(3)The Long Way Around
(4)Leaving Winslow
(5)These Days
(6)Late For The Sky
(7)Shaky Town
(8)I’m Alive
(9)You Know The Night
(10)For a Dancer
(11)Fountain Of Sorrow
(15分間の休憩)
(12)Your Bright Baby Blues
(13)Rock Me On The Water
(14)If I Could Be Anywhere
(15)Which Side?
(16)Standing In The Breach
(17)Looking East
(18)The Birds Of St. Marks
(19)The Late Show
(20)Doctor My Eyes
(21)Running On Empty
<アンコール>
(22)Take It Easy~Our Lady of The Well
入口前でパンフレット(2000円)を買って入場し、しばらくはロビーで携帯をいじって一休みしてから席についた。今回は1階席の前から8列目の右端という良席で、ステージがもう目の前にある。しかも驚いたことに、フラッシュを使用しないという条件で携帯撮影もOKというアナウンスが流れている(高機能のカメラや動画撮影は不可)。それを聞いてさっそくステージや会場を開演前から撮っているうちに7時が回って開演となった。本日は完売御礼である。
ジャクソン・ブラウンの5年ぶりの来日公演、個人的には6度目のライブである。海外ミュージシャンで一番多く観ているのは彼に間違いない。「なぜ同じミュージシャンを何度も観に行くのか?」と訝しがる人もいるかもしれないが、これはお金に代えられるものではないのだ、と答えるほかはない。3000人収容のフェスティバルホールが完売した理由も私と同じような思いを抱いている人が一定数存在することの証明である
今回のツアーに関する情報は全く入れずに臨んだものの、一発目の“Barricades Of Heaven”のイントロが始まった時に、そういえばこの曲が1曲目だとネットのどこかで見たなあ、といまさらながら思い出してしまった。3曲目の“Long Way Around”の冒頭で不自然な歓声が起きていたが、たぶんコード進行が一緒の“These Days”と勘違いした人が何人かいたのだと思われる。
バンドはジャクソンがギターもしくはピアノ、他はベース、ドラムス、キーボード、ギターが2人、黒人女性コーラスが2人という布陣だ。技術的なことは正直わからないけれど、演奏は手堅く無駄がないという感じだ。いや、上手いとか下手とかという次元ではなく、ジャクソンの音楽だけが持つ憂いを含んだような音を見事に演出しているところが素晴らしい。1曲目からもうグングンと引き付けられていった。
曲目は最後に記しているけれど、大傑作である最新作「Standing In The Breach」(14年)を軸に、旧作からも名曲が惜しみなく披露された充実した内容となった。“Late For The Sky”は観客のリクエストに応えて出てきたもので、何もなければ演奏されなかったらしい。そのリクエストしていたのは私の2列くらい後方にいたうるさいジジイで、東京では俺の知り合いが“Late For The Sky”をお願いしたから演奏されたなどと、開演前にグチャグチャ言っていた輩である。終演してからも、
「俺がリクエストしたから“Late For The Sky”を聴けたんや!」
などと自慢げに話していた。しかし、果たしてこれがベストの選択だったかどうかは疑わしい。確かに“Late For The Sky”は披露されたけれど、その代わりに1曲何か別の曲が無くなったわけである。それが“The Pretender”だったかもしれないし、他の会場のアンコールで披露された“Before The Deluge”だった可能性もある。
そう、今回の大阪公演は“The Pretender”が出てこなかったのだ。これがもっとも好きな自分としては少々残念な思いもある。さらに、もしジジイのリクエストがなければ“Late For The Sky”も演奏されなかったことになる。私はもう何度も彼のライブを観ているからそれでもまあいいやと諦められるけれど、初めて観に来た方にとってはどうなのかなあというモヤモヤした思いが残った。
そんな些末なことはあったものの、極東の島国のライブとて手抜きのしないジャクソンなので午後10時の手前まで演奏して大阪公演1日目は無事に終了した。広島公演を挟んで、またこの場所で追加公演がおこなわれる。人生7度目のジャクソン・ブラウンは、もう間近である。
【演奏曲目】
(1)Barricades Of Heaven
(2)Something Fine
(3)The Long Way Around
(4)Leaving Winslow
(5)These Days
(6)Late For The Sky
(7)Shaky Town
(8)I’m Alive
(9)You Know The Night
(10)For a Dancer
(11)Fountain Of Sorrow
(15分間の休憩)
(12)Your Bright Baby Blues
(13)Rock Me On The Water
(14)If I Could Be Anywhere
(15)Which Side?
(16)Standing In The Breach
(17)Looking East
(18)The Birds Of St. Marks
(19)The Late Show
(20)Doctor My Eyes
(21)Running On Empty
<アンコール>
(22)Take It Easy~Our Lady of The Well
朝食をとるべきか、という愚問
2015年3月13日 日常清々しい朝、というものを経験した記憶が自分にはない。20代半ばまでは上の血圧が100を切るほどの低血圧で、とにかく朝起きるのが苦痛でしかたなかった。
社会人になってから血圧だけは正常値に近づいていったものの、目が覚めたときの苦しさや気持ち悪さは基本的に変わっていないと思う。
目が覚めて頭がそれなりに動くまで2時間くらいは必要だろうか。そんな人間だから朝食も美味しいと感じたことはない。ただ、朝食は取ったほうがいい、という強固な思い込みもあってか、よほど寝坊などしない限りは食べるようにしている。
しかし、なんとなく自分の生活スタイルに合わないなあ、と事あるごとに違和感を抱いていた。
先日Facebookか何かに流れていた情報だったが、一流アスリートといえる人でもきちんと朝食をとってない人が多いという話を見かけた。朝食をとるのが体に良いか悪いか、という問題は現在も結論が出ていないようである。
しかし、よく考えてみると上の命題の統一見解を出すというのはほとんど意味がないことに気づいた。人の身体は千差万別であり、体調の良し悪しだってそれぞれ違うからだ。
アスリートが実践している健康法を特に大きな運動をしないサラリーマンが真似することが適切なのか。日野原重明さんのような人と同じようなことを10代20代の若い人たちが手本にするのもナンセンスだと思う。
そんなことを考えて、自分の朝食についても見直してみることにした。
まず、起きたときのお腹の状態を分析してみる。だいたいの場合、胃のあたりが重く感じて食事をしたい気持ちになることはない。一方、何も食べなかったら午前中の早い段階で空腹感がおとずれる(そこそこ食べても正午にはお腹が鳴ってくる)。だから、朝食を全くなくすという選択もしたくない。
そこでここしばらくは、朝はカップで売っているスープや雑炊、あとは緑茶やココアなどにしている。要するに、液状で胃腸に負担があまりかからないようにした食事に切り替えたのである。
そうしてからの体調はおおむね良好といえる。お腹が重たく感じないし頭も以前よりはスッキリした気がする。
もちろん、良いことばかりでもない。空腹感が始まる時間が以前より1時間くらい早くなってもきたのだ。しかし、まあ昼前は腹が減るものだ、と言い聞かせれば切り抜けられる気がする。
別にこの方法は他人に勧めたいわけではない。朝食を全く食べない人もいれば、しっかり食べないと午前中を乗り切れないという人だって存在するに決まっている。そうではなくて、自分の体調にとって何がベストか、ということを見究められることが大事なのだ。
誰になんと言われようと私はこのやり方で何年も調子良く生活してるんだ、と自信をもって言えることが一番であり、またそれが本当の「自己管理」というものだろう。
もうしばらく、自分の身体と相談しながら、朝の生活のあり方を模索していきたい。
社会人になってから血圧だけは正常値に近づいていったものの、目が覚めたときの苦しさや気持ち悪さは基本的に変わっていないと思う。
目が覚めて頭がそれなりに動くまで2時間くらいは必要だろうか。そんな人間だから朝食も美味しいと感じたことはない。ただ、朝食は取ったほうがいい、という強固な思い込みもあってか、よほど寝坊などしない限りは食べるようにしている。
しかし、なんとなく自分の生活スタイルに合わないなあ、と事あるごとに違和感を抱いていた。
先日Facebookか何かに流れていた情報だったが、一流アスリートといえる人でもきちんと朝食をとってない人が多いという話を見かけた。朝食をとるのが体に良いか悪いか、という問題は現在も結論が出ていないようである。
しかし、よく考えてみると上の命題の統一見解を出すというのはほとんど意味がないことに気づいた。人の身体は千差万別であり、体調の良し悪しだってそれぞれ違うからだ。
アスリートが実践している健康法を特に大きな運動をしないサラリーマンが真似することが適切なのか。日野原重明さんのような人と同じようなことを10代20代の若い人たちが手本にするのもナンセンスだと思う。
そんなことを考えて、自分の朝食についても見直してみることにした。
まず、起きたときのお腹の状態を分析してみる。だいたいの場合、胃のあたりが重く感じて食事をしたい気持ちになることはない。一方、何も食べなかったら午前中の早い段階で空腹感がおとずれる(そこそこ食べても正午にはお腹が鳴ってくる)。だから、朝食を全くなくすという選択もしたくない。
そこでここしばらくは、朝はカップで売っているスープや雑炊、あとは緑茶やココアなどにしている。要するに、液状で胃腸に負担があまりかからないようにした食事に切り替えたのである。
そうしてからの体調はおおむね良好といえる。お腹が重たく感じないし頭も以前よりはスッキリした気がする。
もちろん、良いことばかりでもない。空腹感が始まる時間が以前より1時間くらい早くなってもきたのだ。しかし、まあ昼前は腹が減るものだ、と言い聞かせれば切り抜けられる気がする。
別にこの方法は他人に勧めたいわけではない。朝食を全く食べない人もいれば、しっかり食べないと午前中を乗り切れないという人だって存在するに決まっている。そうではなくて、自分の体調にとって何がベストか、ということを見究められることが大事なのだ。
誰になんと言われようと私はこのやり方で何年も調子良く生活してるんだ、と自信をもって言えることが一番であり、またそれが本当の「自己管理」というものだろう。
もうしばらく、自分の身体と相談しながら、朝の生活のあり方を模索していきたい。
今年もらった義理チョコについて
2015年2月14日 日常 コメント (4)
先月の終わりに有志で新年会をした時、彼氏持ちの女性から「バレンタインの前倒し」とかなんとか言われて小さな茶色い紙封筒を渡された。別に何か彼女に対して世話をしているわけでもなく、かといって断る理由も別にないので、ありがとうございます、と事務的に礼を言いながら受け取ったような気がする。
どうせチョコだし冬なら大丈夫だろうとそのまま開けずに放置していた。それから数日後、別の新年会でまた会った彼女から、中身を見た?と訊かれたので「へえ?」と思い、部屋に戻ってから封筒を開けてみることにした。すると、ゴソッと出てきたのが写真のものである。
「一目で義理とわかるチョコ」という広告で知られるアレが、たった一つだけ入っていたのだ。
ちょっと予想もしない中身だっただけに、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。いや、実際はそこまでショックを受けていたわけでもないが、なぜわざわざこれを封筒に包んで私によこしたのか。先方の意図が全くわからず困惑したというのが正直なところである。
周囲にいる何人かにこのことを話した結果、たぶん何も考えてないのだろう、と誰もが異口同音に答えた。私もおそらくそんなところだと思うのだが、一方で何かメッセージが含まれているように勝手に解釈してもいる。
例えば、
「悔しかったら、ちゃんとした本命のチョコをもらってみろや!」
というような、そんな深読み(?)をしている自分がいる。妙齢の女性の考えていることは私のような人間にはどうにも理解できない。
それはともかくとして、個人的には一方的にもらうというのは好きではないのでホワイトデーのお礼を考えているのだが、物が物だけに何をどうやってお返しすればよいのか。それがいま非常に悩ましい問題になっている。
どうせチョコだし冬なら大丈夫だろうとそのまま開けずに放置していた。それから数日後、別の新年会でまた会った彼女から、中身を見た?と訊かれたので「へえ?」と思い、部屋に戻ってから封筒を開けてみることにした。すると、ゴソッと出てきたのが写真のものである。
「一目で義理とわかるチョコ」という広告で知られるアレが、たった一つだけ入っていたのだ。
ちょっと予想もしない中身だっただけに、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。いや、実際はそこまでショックを受けていたわけでもないが、なぜわざわざこれを封筒に包んで私によこしたのか。先方の意図が全くわからず困惑したというのが正直なところである。
周囲にいる何人かにこのことを話した結果、たぶん何も考えてないのだろう、と誰もが異口同音に答えた。私もおそらくそんなところだと思うのだが、一方で何かメッセージが含まれているように勝手に解釈してもいる。
例えば、
「悔しかったら、ちゃんとした本命のチョコをもらってみろや!」
というような、そんな深読み(?)をしている自分がいる。妙齢の女性の考えていることは私のような人間にはどうにも理解できない。
それはともかくとして、個人的には一方的にもらうというのは好きではないのでホワイトデーのお礼を考えているのだが、物が物だけに何をどうやってお返しすればよいのか。それがいま非常に悩ましい問題になっている。
サザンオールスターズの「謝罪」をめぐる一件について
2015年1月21日 時事ニュース去年の大晦日におこなわれたサザンオールスターズの「年越ライブ」におけるパフォーマンスが騒動を起こしている。事の発端は桑田佳祐の言動(紫綬褒章の扱い、天皇陛下らしき物真似、“ピースとハイライト”の歌詞など)が批判を浴び、所属事務所の「アミューズ」前では抗議行動が起こり、アミューズは「謝罪文」を出して桑田本人も自身のラジオ番組で「謝罪」をするまでに至った。
一連の流れを見て個人的に感じたことは、大きく分けて2つある。一つは、サザン側の対応がかなり無難だったのに対して、ネット上では「謝罪」についてかなりズレた意見を持った人をたくさん見かけたことである。
特に印象に残っているのが、今回の「謝罪」は「表現の自由」を侵すものだ、という危機感を抱いたものと、「謝罪」をするなんて「ロック」じゃない、というような「ロック」観に関するものだ。
いずれにしても、世間の感覚からはかなりかけ離れているといわざるを得ない。
まず、サザンの所属事務所であるアミューズが出した「謝罪文」(あくまでカッコつき)を確認してみよう。
<サザンオールスターズ年越ライブ2014に関するお詫び
いつもサザンオールスターズを応援いただき、誠にありがとうございます。
この度、2014年12月に横浜アリーナにて行われた、サザンオールスターズ年越ライブ2014「ひつじだよ!全員集合!」の一部内容について、お詫びとご説明を申し上げます。
このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。また昨年秋、桑田佳祐が、紫綬褒章を賜るという栄誉に浴することができましたことから、ファンの方々に多数お集まりいただけるライブの場をお借りして、紫綬褒章をお披露目させていただき、いつも応援して下さっている皆様への感謝の気持ちをお伝えする場面も作らせていただきました。その際、感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます。
また、紅白歌合戦に出演させて頂いた折のつけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません。
また、一昨年のライブで演出の為に使用されたデモなどのニュース映像の内容は、緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用したものです。
以上、ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません。
毎回、最高のライブを作るよう全力を尽くしておりますが、時として内容や運営に不備もあるかと思います。すべてのお客様にご満足いただき、楽しんでいただけるエンタテインメントを目指して、今後もメンバー、スタッフ一同、たゆまぬ努力をして参る所存です。
今後ともサザンオールスターズを何卒よろしくお願い申し上げます。
株式会社アミューズ>
いちおうタイトルに「お詫び」と書いてはいるが、本文の中に特定の対象(天皇陛下や安倍政権など)への謝罪など、どこにも述べられていないではないか。これは要するに「このたびは世間をお騒がせてすみませんでした」という「平謝り」の程度にすぎないし、これ以上深読みできる箇所もないだろう。
おそらくサザン側はそれなりの話題を集めることを見込んでパフォーマンスをおこなったが、予想外に否定的な反応が大きかったため、こうした「謝罪文」を出して事態の収拾をはかったというのが素直な推測の仕方ではないか。めまぐるしい音楽業界で30年以上も第一線で活躍している人だし、そこまでの計算高さは持っていて当然である(「才能」などというわけのわからない要因だけでここまで続けられるわけがないのだ)。
それなのに、こんな中身のない「謝罪文」を出したくらいで、
「ロックが権力に屈した!表現の自由の危機だ!」
などとわめく人たちは、かなりヤバいと思う。
勲章をポケットから取り出してオークションの真似をしたというのも、受賞が嬉しくて気分が高まって行き過ぎてしまった、という程度だろう。それ以上に何か深い魂胆などあるわけがない。そもそもの話、勲章に対して否定的な考えを持っているならば最初から受け取りを辞退していたに決まっている。
もっと一般的な話になるが、別に紫綬褒章でなくても、何かの記念で戴いた賞状やメダルなどを雑に扱われるのを見て気分が良くなる人間などいるのか?私は別に国粋主義者でもなんでもないけれど、いままで生きてきた経験からすれば、勲章を軽々しく扱って非難されるというのは「まあ、そう思う人も出てくるだろうね」という感覚である。たまたま勲章だったから話が大きくなっただけのことだろう。
「表現の自由」うんぬんのレベルでいえば、サザンおよび桑田の音楽に「明らかに危険!」というような、警察が飛んでくるほどの表現は出てこない。せいぜい、頭の固い人たちが顔をしかめる、といった程度のものである。肯定的な言い方をすれば、メジャーな立場にいながら微妙な領域できわどい挑戦をして少しずつ表現の枠を広げてきたというのが彼の仕事だったのではないか。というよりも、規制だらけな公共の電波などを舞台にするならばおのずとそのような限定的なことしかできないだろう。
ましてやサザンは、国営放送のNHKでパフォーマンスをしたのである。40%という異様な高視聴率の紅白歌合戦なのだから、不特定多数の聴衆がいるわけだ。場末の小さなライブハウスで名もなきミュージシャンがおこなったものとは次元は全く違う。表現などにまるで理解のない人たちから誹謗中傷などが出てきて当然だし、日本の音楽産業のど真ん中にいるバンドなのだから社会への影響は大きいと思われても仕方ないだろう。
これも一般的な話になるが、社会に出たからには言動に対してそれなりに責任がともなってくるのは不可避なことである。「アーティストだから」、「ロックだから」、「表現の自由だから」などといって開き直るような真似は許されるものではない。それはいつの時代でも同じことである。そう考えてみれば、あの程度の「謝罪」をしたことは別にそれほどおかしいこととは思えないのだが、そう考えない人も一定数は存在するようだ。
周囲の迷惑も考えずモッシュやダイブをする連中も同様だが、何かあれば「ロック」だの「表現の自由」だのと安易に口に出すクズに対しては、
「そんなこと言って何でも許されると思うなよ、クソガキ」
とだけは言っておきたい。別に私は挑発する意図で述べたつもりはない。ただ、自分の言動に対して責任が取れないというのは大人ではなく子どもだろう、と当たり前の指摘をしたかったまでだ。
それはともかく、メジャーな立場にいるサザンに対して、例えば3Dプリンターで女性器をかたどった「アート」を作って逮捕された「ろくでなし子」さんのような事例などと一緒くたにして「表現の自由」が語られているように感じる。しかし、逮捕とか起訴とかいった法に抵触する恐れがあるという話と比較してみれば、サザンの「謝罪」をめぐる一件は、「表現の自由」が侵される、といった次元からはだいぶ異なる。国家権力に対して批判的な視線を持つのは大事であるが、なんでもかんでも不信感を抱いてしまったらもうこの国で生きていけなくなるレベルになるだろう。だからヤバいと言っているのである。
最後に、「謝罪」をしたからサザンは「ロック」じゃない、とかいった意味不明で頭の痛くなるコメントの方についても触れてみたい。
ミュージシャンを「権力/反権力」だのと区分けするのはあまり妥当な気はしないが、日本で最も商業的に成功しているバンドの一つであるサザンは、そのような括りに入れるならば明らかに「権力」の側ではないか。そのサザンに対して反体制とか反権力とかを求める聴き手は、根本がズレているとしかいえない。
たぶんそういう人たちは、
「いや、俺(私)はサザンの音楽を聴いた時にロックを感じた。この魂の奥底を揺さぶられるような衝撃は間違いない。だから、サザンには謝罪などしてほしくなかった」
といった心境なのだろう。自分の中に確固とした(しかし実は客観的な根拠が一つもない)「ロック観」というものがあり、それにそぐわない言動はどうにも心情的に許すことができないのだ。
私も高校1年くらいはそんな時期(サザンに対してではない)があったから気持ちもわからないではない。露骨にいえば「信者」というような状態だが、そういう時期もある時点で終わりになった。自分が強烈に執着しているものが必ずしも世間でも受け入れられているわけではなく、それどころか非難や嘲笑の対象でもあると、雑誌などを読んでいるうちに気づかされたのである。
その時点では実に悲しく惨めな経験であったけれど、同時にそれは「社会」というものを知る一つのきっかけとなったのだから悪いことばかりでもない。いや、そもそも自分の独断や偏見を受け入れる余地などこの世界にはそれほどないということを自覚するのが「大人になる」ということだろう。
それゆえ、上のような独りよがりな価値観の人を見ると、
「ロックが反権力などという価値観は60年代までだろう?もうロックについて誰もが共有できる概念などないし(もともと無かったともいえる)、いまはロックにも介護保険や年金が話題になるような時代なんだ。いい加減に目を覚まして大人になれよ」
などと、足元をすくうようなことを言いたくなってくる。何よりも、そういう人たちはかつての自分の姿と重なって見えてくるからなのだ。
ロックやポップスといったものに一定の距離を置きながらも時々CDを買ったりライブを行ったりしているのだが、「大人になれなくなる」という点でこうした音楽は有害になるのかなあ、と悲しい気持ちになってくる今回の件であった。
一連の流れを見て個人的に感じたことは、大きく分けて2つある。一つは、サザン側の対応がかなり無難だったのに対して、ネット上では「謝罪」についてかなりズレた意見を持った人をたくさん見かけたことである。
特に印象に残っているのが、今回の「謝罪」は「表現の自由」を侵すものだ、という危機感を抱いたものと、「謝罪」をするなんて「ロック」じゃない、というような「ロック」観に関するものだ。
いずれにしても、世間の感覚からはかなりかけ離れているといわざるを得ない。
まず、サザンの所属事務所であるアミューズが出した「謝罪文」(あくまでカッコつき)を確認してみよう。
<サザンオールスターズ年越ライブ2014に関するお詫び
いつもサザンオールスターズを応援いただき、誠にありがとうございます。
この度、2014年12月に横浜アリーナにて行われた、サザンオールスターズ年越ライブ2014「ひつじだよ!全員集合!」の一部内容について、お詫びとご説明を申し上げます。
このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。また昨年秋、桑田佳祐が、紫綬褒章を賜るという栄誉に浴することができましたことから、ファンの方々に多数お集まりいただけるライブの場をお借りして、紫綬褒章をお披露目させていただき、いつも応援して下さっている皆様への感謝の気持ちをお伝えする場面も作らせていただきました。その際、感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます。
また、紅白歌合戦に出演させて頂いた折のつけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません。
また、一昨年のライブで演出の為に使用されたデモなどのニュース映像の内容は、緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用したものです。
以上、ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません。
毎回、最高のライブを作るよう全力を尽くしておりますが、時として内容や運営に不備もあるかと思います。すべてのお客様にご満足いただき、楽しんでいただけるエンタテインメントを目指して、今後もメンバー、スタッフ一同、たゆまぬ努力をして参る所存です。
今後ともサザンオールスターズを何卒よろしくお願い申し上げます。
株式会社アミューズ>
いちおうタイトルに「お詫び」と書いてはいるが、本文の中に特定の対象(天皇陛下や安倍政権など)への謝罪など、どこにも述べられていないではないか。これは要するに「このたびは世間をお騒がせてすみませんでした」という「平謝り」の程度にすぎないし、これ以上深読みできる箇所もないだろう。
おそらくサザン側はそれなりの話題を集めることを見込んでパフォーマンスをおこなったが、予想外に否定的な反応が大きかったため、こうした「謝罪文」を出して事態の収拾をはかったというのが素直な推測の仕方ではないか。めまぐるしい音楽業界で30年以上も第一線で活躍している人だし、そこまでの計算高さは持っていて当然である(「才能」などというわけのわからない要因だけでここまで続けられるわけがないのだ)。
それなのに、こんな中身のない「謝罪文」を出したくらいで、
「ロックが権力に屈した!表現の自由の危機だ!」
などとわめく人たちは、かなりヤバいと思う。
勲章をポケットから取り出してオークションの真似をしたというのも、受賞が嬉しくて気分が高まって行き過ぎてしまった、という程度だろう。それ以上に何か深い魂胆などあるわけがない。そもそもの話、勲章に対して否定的な考えを持っているならば最初から受け取りを辞退していたに決まっている。
もっと一般的な話になるが、別に紫綬褒章でなくても、何かの記念で戴いた賞状やメダルなどを雑に扱われるのを見て気分が良くなる人間などいるのか?私は別に国粋主義者でもなんでもないけれど、いままで生きてきた経験からすれば、勲章を軽々しく扱って非難されるというのは「まあ、そう思う人も出てくるだろうね」という感覚である。たまたま勲章だったから話が大きくなっただけのことだろう。
「表現の自由」うんぬんのレベルでいえば、サザンおよび桑田の音楽に「明らかに危険!」というような、警察が飛んでくるほどの表現は出てこない。せいぜい、頭の固い人たちが顔をしかめる、といった程度のものである。肯定的な言い方をすれば、メジャーな立場にいながら微妙な領域できわどい挑戦をして少しずつ表現の枠を広げてきたというのが彼の仕事だったのではないか。というよりも、規制だらけな公共の電波などを舞台にするならばおのずとそのような限定的なことしかできないだろう。
ましてやサザンは、国営放送のNHKでパフォーマンスをしたのである。40%という異様な高視聴率の紅白歌合戦なのだから、不特定多数の聴衆がいるわけだ。場末の小さなライブハウスで名もなきミュージシャンがおこなったものとは次元は全く違う。表現などにまるで理解のない人たちから誹謗中傷などが出てきて当然だし、日本の音楽産業のど真ん中にいるバンドなのだから社会への影響は大きいと思われても仕方ないだろう。
これも一般的な話になるが、社会に出たからには言動に対してそれなりに責任がともなってくるのは不可避なことである。「アーティストだから」、「ロックだから」、「表現の自由だから」などといって開き直るような真似は許されるものではない。それはいつの時代でも同じことである。そう考えてみれば、あの程度の「謝罪」をしたことは別にそれほどおかしいこととは思えないのだが、そう考えない人も一定数は存在するようだ。
周囲の迷惑も考えずモッシュやダイブをする連中も同様だが、何かあれば「ロック」だの「表現の自由」だのと安易に口に出すクズに対しては、
「そんなこと言って何でも許されると思うなよ、クソガキ」
とだけは言っておきたい。別に私は挑発する意図で述べたつもりはない。ただ、自分の言動に対して責任が取れないというのは大人ではなく子どもだろう、と当たり前の指摘をしたかったまでだ。
それはともかく、メジャーな立場にいるサザンに対して、例えば3Dプリンターで女性器をかたどった「アート」を作って逮捕された「ろくでなし子」さんのような事例などと一緒くたにして「表現の自由」が語られているように感じる。しかし、逮捕とか起訴とかいった法に抵触する恐れがあるという話と比較してみれば、サザンの「謝罪」をめぐる一件は、「表現の自由」が侵される、といった次元からはだいぶ異なる。国家権力に対して批判的な視線を持つのは大事であるが、なんでもかんでも不信感を抱いてしまったらもうこの国で生きていけなくなるレベルになるだろう。だからヤバいと言っているのである。
最後に、「謝罪」をしたからサザンは「ロック」じゃない、とかいった意味不明で頭の痛くなるコメントの方についても触れてみたい。
ミュージシャンを「権力/反権力」だのと区分けするのはあまり妥当な気はしないが、日本で最も商業的に成功しているバンドの一つであるサザンは、そのような括りに入れるならば明らかに「権力」の側ではないか。そのサザンに対して反体制とか反権力とかを求める聴き手は、根本がズレているとしかいえない。
たぶんそういう人たちは、
「いや、俺(私)はサザンの音楽を聴いた時にロックを感じた。この魂の奥底を揺さぶられるような衝撃は間違いない。だから、サザンには謝罪などしてほしくなかった」
といった心境なのだろう。自分の中に確固とした(しかし実は客観的な根拠が一つもない)「ロック観」というものがあり、それにそぐわない言動はどうにも心情的に許すことができないのだ。
私も高校1年くらいはそんな時期(サザンに対してではない)があったから気持ちもわからないではない。露骨にいえば「信者」というような状態だが、そういう時期もある時点で終わりになった。自分が強烈に執着しているものが必ずしも世間でも受け入れられているわけではなく、それどころか非難や嘲笑の対象でもあると、雑誌などを読んでいるうちに気づかされたのである。
その時点では実に悲しく惨めな経験であったけれど、同時にそれは「社会」というものを知る一つのきっかけとなったのだから悪いことばかりでもない。いや、そもそも自分の独断や偏見を受け入れる余地などこの世界にはそれほどないということを自覚するのが「大人になる」ということだろう。
それゆえ、上のような独りよがりな価値観の人を見ると、
「ロックが反権力などという価値観は60年代までだろう?もうロックについて誰もが共有できる概念などないし(もともと無かったともいえる)、いまはロックにも介護保険や年金が話題になるような時代なんだ。いい加減に目を覚まして大人になれよ」
などと、足元をすくうようなことを言いたくなってくる。何よりも、そういう人たちはかつての自分の姿と重なって見えてくるからなのだ。
ロックやポップスといったものに一定の距離を置きながらも時々CDを買ったりライブを行ったりしているのだが、「大人になれなくなる」という点でこうした音楽は有害になるのかなあ、と悲しい気持ちになってくる今回の件であった。
選挙権をどう行使したらよいかわからない方へ
2014年12月14日 日常
衆議院選挙がおこなわれる。世間では「争点のわからない」というような声をよく耳にするし、私自身もどうしていいのか最近まで悩んでいた。
そもそも政治への関心は薄いし、政党や政治家というのが私たち国民の生活にどのような影響を与えているのかも今ひとつピンとこない。そんな人間が選挙演説やビラを見たところで何を判断できるというのか。それが正直な感想である。
しかしながら、今回の選挙は自民・公明あわせて約300議席を占めるという予測には少なからず違和感を抱いていることも確かだ。現政権の進めている政策が具体的にどうかという以前に、この国のあり方が一部の人たちの意見にドッと傾いていることに対して不安なのだ。保守や革新などというようなイデオロギーの区分けはあまり意味がない。どんな思想にせよ極端な方向に偏って進んでいくことが危険なのだ。
橘玲さんが著書「不愉快なことには理由がある」(12年。集英社)の中で、
<政策的に重要で、専門家のあいだで合意が成立しない問題は、民主制(デモクラシー)社会では最後は素人が選択するしかありません。
幸いなことに、いまでは素人の集合知が少数の専門家よりも正しいことがわかっています。>(P.5)
と述べている。そして「素人の集合知」が正しく機能するためには「たくさんの風変りな意見」(P.6)が必要になると結論づけている。本書はこうした考え方をもとに政治や経済などを述べているが、選挙についてはこういう箇所がある。
<混迷する日本の政治を担う人物を、私たちはどう選べばいいのでしょうか。
じつはこれは、科学的にはすでに答えが出ています。
ひとつは、候補者の演説など聞かずに直感で決めればいい、というものです。>(P.73)
これは、人間はわずか数秒間の印象によって全てを判断してしまうという実験結果をもとにした意見だが、一方で私たちは容姿や風貌といった外見の要素に引きずられるため直感に頼るのも危険であるという指摘もされている。
ならば、そうした歪みをなるべく矯正して投票することができないか。そんなことを考えているうちにこんな方法を思い付いた。
まず小選挙区の候補者の選び方だが、自民および公明(つまり現政権)を除いた候補者のクジを作りそこで引き当てた人に投票する。比例代表については、小選挙区に入れた候補者の党を排除してまたクジ引きをして決めるのである。こうすれば、候補者を見た目で選ぶようなことは絶対にない。
これを見て、ふざけるな、と激怒した方もいるだろう。
「お前はこの国の行方について何か真剣に考えていないのか?」
という疑問を持ったかもしれない。確かに私も日本国民としてそれなりに思いはあるし「こんな国になってほしい」という考えもなくはない。しかし、現政権が進めている政策に比べて自分の考えの方が優っているなどと言える自信が、私には全くないのだ。
各種メディアで、今回の選挙はこういう選択をするべきだ、など主張する有識者と私との決定的な違いはここである。彼らは自分の考えに絶対の自信を持っているのだろう。だが私は、選挙や政治に限らず、おおよそ「自信」や「確信」といったものは抱いていないのである。それは私が歩んだ38年半ほどの人生が物語っている。
もし私に素晴らしい思想や行動力があったとしたら、現在こんな状態になっていなかっただろう。別にニヒリズムとかそういうことではなく、自分の半生を冷静に振り返ったらそんな結論に至っただけのことだ。
また、あらゆるイデオロギーからなるべく自由になって選挙に臨むことができないかという思いもあった。それをするとしたら上のような方法が一番なのではないか。
「でも、もしこれで社民党とか共産党とか引いたら・・・なんか嫌だなあ」
などと思うとしたら、それは貴方もまたある種のイデオロギーにしっかりと染まっていることの証だろう。国粋主義とか共産主義といったものには否定的な人でも、自分の中にあるイデオロギーの執着についてはなかなか自覚できないものだ。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、昔の富も権力もない平民たちはどんな悲惨なことが起きても空に向かってひたすら祈るしかなかった。そしてその結果を黙って受け入れて人生を終えてきたのである。ただ、彼らは選挙権という権利すら持ってなかったわけだが。
少し前に起きた民主党の大勝、そして現在の自民党政権の揺れ戻しも、原因は人為的なものではないのか?そして、その不自然な人為に勝てるものがあるとすればそれは自然な成り行き、つまり「偶然性」ではないだろうか。
そういうわけで、今回の選挙はクジで決めて、その結果については何も言うまいと思っている。いやそもそも、たかが内閣の顔ぶれが変わったくらいで自分の人生の全てが決まるとも考えていない人間だからこんな真似ができたのかもしれない。
いちおう自分なりに説明したつもりだが、これで納得のいかない人もいるかもしれない。しかし、文句を言われる前に、かつてこの国の首相だった人の言葉をまず切り出しておこう。
「私は、あなたとは違うんです」
と。
そもそも政治への関心は薄いし、政党や政治家というのが私たち国民の生活にどのような影響を与えているのかも今ひとつピンとこない。そんな人間が選挙演説やビラを見たところで何を判断できるというのか。それが正直な感想である。
しかしながら、今回の選挙は自民・公明あわせて約300議席を占めるという予測には少なからず違和感を抱いていることも確かだ。現政権の進めている政策が具体的にどうかという以前に、この国のあり方が一部の人たちの意見にドッと傾いていることに対して不安なのだ。保守や革新などというようなイデオロギーの区分けはあまり意味がない。どんな思想にせよ極端な方向に偏って進んでいくことが危険なのだ。
橘玲さんが著書「不愉快なことには理由がある」(12年。集英社)の中で、
<政策的に重要で、専門家のあいだで合意が成立しない問題は、民主制(デモクラシー)社会では最後は素人が選択するしかありません。
幸いなことに、いまでは素人の集合知が少数の専門家よりも正しいことがわかっています。>(P.5)
と述べている。そして「素人の集合知」が正しく機能するためには「たくさんの風変りな意見」(P.6)が必要になると結論づけている。本書はこうした考え方をもとに政治や経済などを述べているが、選挙についてはこういう箇所がある。
<混迷する日本の政治を担う人物を、私たちはどう選べばいいのでしょうか。
じつはこれは、科学的にはすでに答えが出ています。
ひとつは、候補者の演説など聞かずに直感で決めればいい、というものです。>(P.73)
これは、人間はわずか数秒間の印象によって全てを判断してしまうという実験結果をもとにした意見だが、一方で私たちは容姿や風貌といった外見の要素に引きずられるため直感に頼るのも危険であるという指摘もされている。
ならば、そうした歪みをなるべく矯正して投票することができないか。そんなことを考えているうちにこんな方法を思い付いた。
まず小選挙区の候補者の選び方だが、自民および公明(つまり現政権)を除いた候補者のクジを作りそこで引き当てた人に投票する。比例代表については、小選挙区に入れた候補者の党を排除してまたクジ引きをして決めるのである。こうすれば、候補者を見た目で選ぶようなことは絶対にない。
これを見て、ふざけるな、と激怒した方もいるだろう。
「お前はこの国の行方について何か真剣に考えていないのか?」
という疑問を持ったかもしれない。確かに私も日本国民としてそれなりに思いはあるし「こんな国になってほしい」という考えもなくはない。しかし、現政権が進めている政策に比べて自分の考えの方が優っているなどと言える自信が、私には全くないのだ。
各種メディアで、今回の選挙はこういう選択をするべきだ、など主張する有識者と私との決定的な違いはここである。彼らは自分の考えに絶対の自信を持っているのだろう。だが私は、選挙や政治に限らず、おおよそ「自信」や「確信」といったものは抱いていないのである。それは私が歩んだ38年半ほどの人生が物語っている。
もし私に素晴らしい思想や行動力があったとしたら、現在こんな状態になっていなかっただろう。別にニヒリズムとかそういうことではなく、自分の半生を冷静に振り返ったらそんな結論に至っただけのことだ。
また、あらゆるイデオロギーからなるべく自由になって選挙に臨むことができないかという思いもあった。それをするとしたら上のような方法が一番なのではないか。
「でも、もしこれで社民党とか共産党とか引いたら・・・なんか嫌だなあ」
などと思うとしたら、それは貴方もまたある種のイデオロギーにしっかりと染まっていることの証だろう。国粋主義とか共産主義といったものには否定的な人でも、自分の中にあるイデオロギーの執着についてはなかなか自覚できないものだ。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、昔の富も権力もない平民たちはどんな悲惨なことが起きても空に向かってひたすら祈るしかなかった。そしてその結果を黙って受け入れて人生を終えてきたのである。ただ、彼らは選挙権という権利すら持ってなかったわけだが。
少し前に起きた民主党の大勝、そして現在の自民党政権の揺れ戻しも、原因は人為的なものではないのか?そして、その不自然な人為に勝てるものがあるとすればそれは自然な成り行き、つまり「偶然性」ではないだろうか。
そういうわけで、今回の選挙はクジで決めて、その結果については何も言うまいと思っている。いやそもそも、たかが内閣の顔ぶれが変わったくらいで自分の人生の全てが決まるとも考えていない人間だからこんな真似ができたのかもしれない。
いちおう自分なりに説明したつもりだが、これで納得のいかない人もいるかもしれない。しかし、文句を言われる前に、かつてこの国の首相だった人の言葉をまず切り出しておこう。
「私は、あなたとは違うんです」
と。
映画「寄生獣」を観てきた
2014年12月1日 CD評など
先週の土曜日に公開となった映画「寄生獣」を観るため、仕事が終わってからTOHOシネマズ二条へ向かった。当初は日曜日に行こうと思っていたのだが、毎月1日の「映画の日」は1000円で観られるということで翌日に変更した次第である。
そういえば前に映画を観たのはいつのことだろう。これが今年初めてではないかと思う。まったくといっていいほど映画は観ない人間なのだが、それでも足を運んだのは原作のマンガにそれなりの思い入れがあるからに他ならない。
「寄生獣」は90~95年にかけて「月刊アフタヌーン」誌に連載されたマンガである。物語は人間の脳を奪って成長し他の人間を食べてしまう「パラサイト(寄生生物)」という生命体の登場で幕を開ける。主人公は泉新一という高校生で、彼もまたパラサイトに襲われて脳を奪われそうになるが偶然があって逃れることができた。その代わりにパラサイトは新一の右手を奪ってしまう。右手にちなんで「ミギー」と名乗るようになったそのパラサイトと新一との共生生活がここから始まり、新一と彼の関わる人たちは数奇な運命に巻き込まれていく・・・。話の流れはそんなところである。マンガの累計部数は2014年時点で1300万部に達しており、いくつかの賞も獲得している名作だ。
当初はハリウッドで実写化される予定だったが企画の段階で進行が止まりそのまま2013年に契約そのものが消えてしまう。結局、約20年の時を経て日本で映画化およびアニメ化されるという運びとなった少々いわくつきの作品だ
アニメは関西地域で放送されていないため「日テレオンデマンド」という日本テレビの有料サービスを使って観ている。全話を視聴するセットは1800円くらいしただろうか。
映画は今回と来年の春との2編で完結となっている。そうなると単行本では全10巻にわたる内容を映画では4時間足らずでまとめなければならない。そういう制約のもとでどのように作品が再構成されるか。個人的にはそのあたりが一番興味深かった。結果として、物語のある部分は完全に切り落とし、原作に出てくる印象的な場面を活かしながら大幅に構成を変更する形がとられている。マンガを読んでいる立場からすれば「なるほど。こうした形に変えたか」となかなか感心した。原作の世界をなるべく壊さないようにしたいという製作者側の敬意や苦心は見てとれる。だが、そこまでが限界だったかな、というのが最後まで観ての率直な感想である。
映画を観るまでは、原作が安っぽいCGなどでぶち壊しにならないだろうか、というような不安を抱いていた。しかし私の予測は別の意味で外れた。今回の一番の問題点は、原作の全編にわたって流れる根本的な世界観が描けていないということである。
「寄生獣」というタイトルや「パラサイト」という人を食う生き物が出てくるなどの断片的な情報でこの作品について禍々しいイメージを抱いている方も少なくないだろう(かつての私が実にそうだった)。しかし、実際に読んだ方には説明するまでもないが、この作品の魅力や凄さは全く別のところにある。新一をはじめ、周囲の家族や友人、またはパラサイトまで物語の中でそれぞれが思い悩む場面が出てくる。言葉にすると非常に陳腐な感じになってくるけれど、「人生とは?人間とは?生命とは?家族とは?」といった問いがマンガによって極めて平易な形で提示されているのである。
しかし残念ながら、映画でその辺りのところがうまく表現されることはなく、凡庸なSF作品にまとまってしまった。原作の大事なところを踏まえずにいくらCGを駆使しようが役者が頑張ろうが(パラサイトの演技自体はなかなか面白かったけど)、表面をなぞっているだけに過ぎない。それはアニメ版についても同様である。だから、いくら映画やアニメを観たところで原作の「要約」を知るというのがせいぜいのところだろう。小説でも映画でもマンガでも、「要約」を見る限りでは「物語そのもの」には触れられない。哲学者の鶴見俊輔が「人生、2度目の衝撃でした」と言わしめたものは原作の中にしか存在しない。
今回のアニメ化および映画化にあたり原作を読み直してみたのだが、改めて物語の持つ世界観や作者の画力を思い知らされた。それは逆説的なことだが、アニメや映画と比較したことによって気づいたことである。
アニメや映画の出来のことがともかく、この作品また世間に関心を持ってもらえる機会ができたのは本当に嬉しいと思っている。映画やアニメを推す気持ちにはなれないが、これを機会にぜひ原作に目を触れる人が少しでも増えたらと願っている。
個人的にはもう来春の完結編に期待することは無いのだけれど、物語の変わった部分がどのように展開されるのかだけは少し気になっているのでまた映画館に行くつもりではある。
そういえば前に映画を観たのはいつのことだろう。これが今年初めてではないかと思う。まったくといっていいほど映画は観ない人間なのだが、それでも足を運んだのは原作のマンガにそれなりの思い入れがあるからに他ならない。
「寄生獣」は90~95年にかけて「月刊アフタヌーン」誌に連載されたマンガである。物語は人間の脳を奪って成長し他の人間を食べてしまう「パラサイト(寄生生物)」という生命体の登場で幕を開ける。主人公は泉新一という高校生で、彼もまたパラサイトに襲われて脳を奪われそうになるが偶然があって逃れることができた。その代わりにパラサイトは新一の右手を奪ってしまう。右手にちなんで「ミギー」と名乗るようになったそのパラサイトと新一との共生生活がここから始まり、新一と彼の関わる人たちは数奇な運命に巻き込まれていく・・・。話の流れはそんなところである。マンガの累計部数は2014年時点で1300万部に達しており、いくつかの賞も獲得している名作だ。
当初はハリウッドで実写化される予定だったが企画の段階で進行が止まりそのまま2013年に契約そのものが消えてしまう。結局、約20年の時を経て日本で映画化およびアニメ化されるという運びとなった少々いわくつきの作品だ
アニメは関西地域で放送されていないため「日テレオンデマンド」という日本テレビの有料サービスを使って観ている。全話を視聴するセットは1800円くらいしただろうか。
映画は今回と来年の春との2編で完結となっている。そうなると単行本では全10巻にわたる内容を映画では4時間足らずでまとめなければならない。そういう制約のもとでどのように作品が再構成されるか。個人的にはそのあたりが一番興味深かった。結果として、物語のある部分は完全に切り落とし、原作に出てくる印象的な場面を活かしながら大幅に構成を変更する形がとられている。マンガを読んでいる立場からすれば「なるほど。こうした形に変えたか」となかなか感心した。原作の世界をなるべく壊さないようにしたいという製作者側の敬意や苦心は見てとれる。だが、そこまでが限界だったかな、というのが最後まで観ての率直な感想である。
映画を観るまでは、原作が安っぽいCGなどでぶち壊しにならないだろうか、というような不安を抱いていた。しかし私の予測は別の意味で外れた。今回の一番の問題点は、原作の全編にわたって流れる根本的な世界観が描けていないということである。
「寄生獣」というタイトルや「パラサイト」という人を食う生き物が出てくるなどの断片的な情報でこの作品について禍々しいイメージを抱いている方も少なくないだろう(かつての私が実にそうだった)。しかし、実際に読んだ方には説明するまでもないが、この作品の魅力や凄さは全く別のところにある。新一をはじめ、周囲の家族や友人、またはパラサイトまで物語の中でそれぞれが思い悩む場面が出てくる。言葉にすると非常に陳腐な感じになってくるけれど、「人生とは?人間とは?生命とは?家族とは?」といった問いがマンガによって極めて平易な形で提示されているのである。
しかし残念ながら、映画でその辺りのところがうまく表現されることはなく、凡庸なSF作品にまとまってしまった。原作の大事なところを踏まえずにいくらCGを駆使しようが役者が頑張ろうが(パラサイトの演技自体はなかなか面白かったけど)、表面をなぞっているだけに過ぎない。それはアニメ版についても同様である。だから、いくら映画やアニメを観たところで原作の「要約」を知るというのがせいぜいのところだろう。小説でも映画でもマンガでも、「要約」を見る限りでは「物語そのもの」には触れられない。哲学者の鶴見俊輔が「人生、2度目の衝撃でした」と言わしめたものは原作の中にしか存在しない。
今回のアニメ化および映画化にあたり原作を読み直してみたのだが、改めて物語の持つ世界観や作者の画力を思い知らされた。それは逆説的なことだが、アニメや映画と比較したことによって気づいたことである。
アニメや映画の出来のことがともかく、この作品また世間に関心を持ってもらえる機会ができたのは本当に嬉しいと思っている。映画やアニメを推す気持ちにはなれないが、これを機会にぜひ原作に目を触れる人が少しでも増えたらと願っている。
個人的にはもう来春の完結編に期待することは無いのだけれど、物語の変わった部分がどのように展開されるのかだけは少し気になっているのでまた映画館に行くつもりではある。
周囲がよく見えることは良いことなのか、悪いことなのか
2014年11月10日 お仕事今月いっぱいで今の職場を離れるという人が自分の近くにいる。特別親しいわけでもないが色々と思うことがでてきたのでそれを書いてみたい。
彼が仕事を辞める理由は、休日の取得をめぐって会社の上役からめちゃくちゃ怒られたのがきっかけと噂で聞いている。その会社は仕事内容はかなり単純な部類に入るものの、仕事の振られ方がけっこうキツいものがあり、日勤・夜勤・そしてまた夜勤というような3連勤を強いられることもある。希望通りに休みを取ることも難しい。そんなことで揉めたようだ。
辞める本人の立場からすれば、
「仕事がキツいし、休みも取れない。やってられない」
という心境だったのだろう。
しかし、彼の周囲にいる人たちの目は一様に厳しい。「あいつアホや」とか「あんなの、どこいっても続かんわ」とか「すぐ辞める」などと異口同音に唱えている。しかし、それも仕方ないといえる。彼の仕事ぶりは平均以下、社員の立場なのに学生のバイトよりもできない。滑舌も悪く雑談でちゃんと受け答えをするのも厳しい。しかもアゴが弱いのか、麺類をすすることができずクチャクチャ噛んで食べたりもする(これはあまり本題と関係ないか)。
そんな彼が何年もその職場にいることができたのは、別に彼が辛抱強かったということではない。直属の上司や周囲の人たちの温情があってのものだった。
ある方が、
「Iさん(上司の方)の下で無理だったら、あいつはどこも無理とちゃうか・・・」
と言っていたが、私も全く同感である。彼はここまで「必死で生きてきた」のではない。周囲の人の協力によって「生かされた」だけである。しかし当の本人は自分のことしか見えないから、そんなことはわからず今回の決断になったのだろう。
こういう事例を見ると、つくづく「鳥瞰」とか「俯瞰」いった、世の中全体を見る力がこういう時に必要だなあと感じる。
彼に限らず、
「こんなに必死で働いているのに、休みも無いしこんな安い給料ではやってられませんわ!」
とわめく輩はどこでも存在する。これは給料の額以上の仕事をしてもらわないと組織が回らないという問題もあるが、こうした人は往々にして仕事ぶりはほとんど駄目ということが多い。その理由は簡単で、全体を見渡す力が欠けているということなのだろう。目の前の仕事だけで手一杯になる人間に難しい業務ができるはずもない。
一番おそろしいのは新聞業界で、あそこは給料以上に仕事をしている人間など一人も存在しない。彼らの収入源は、ラジオ放送が開始される以前から築き上げられた宅配新聞による。その先人の遺産を食いつぶしているだけなのだ。しかし当事者たちは、自分は必死で仕事をしているつもりでいるのだから、もう何も見えていないというしかない。
私が新聞業界の片隅から離れるきっかけをしたのは、
「自分の給料を担保しているものは何なのだ?」
という疑問が湧いたことも大きかった気がする。
私自身は新聞社の子会社で本社の半分程度の給与額だったけれど、まるで不良債権処理のような一向に収益につながらない業務ばかりやってどうして給料がもらえるのか?と気持ち悪くて仕方なかった。しかし、それが宅配新聞の収益のおかげだと理解できるまでにだいぶ時間を費やす。
だが、新聞業界がどのようなメカニズムで動いているかをわからなければ、そこを離れることもなかったかもしれない。そうなると、何も知らない方が幸せだったという結論も導き出すことも可能だろう。しかし業界も会社も、そこで働く人にも全く希望を持てない自分にはそれは無理であった。
アレクサンドロス大王が生きた時代を舞台にした岩明均氏の漫画「ヒストリエ」(講談社)の1巻冒頭で登場するヘルミアス(哲学者プラトンの弟子の一人)が、
<大地は・・・実は球形をしてたんだ>(P.7)
<ほら・・・世界の形がわかったら・・・次にする事って何だろう・・・?>(P.8)
という台詞が出てくる。物語の舞台は紀元前343年、世界は平らだと誰もが思っていた時代の話である。
地球の形がわかったら今度はそれを確かめに行こうという気持ちになる、ということなのだろう。無論私が組織を去ったのはそんなロマンに満ちたものではないが、そういう気持ちは持っておきたいような気はする。
彼が仕事を辞める理由は、休日の取得をめぐって会社の上役からめちゃくちゃ怒られたのがきっかけと噂で聞いている。その会社は仕事内容はかなり単純な部類に入るものの、仕事の振られ方がけっこうキツいものがあり、日勤・夜勤・そしてまた夜勤というような3連勤を強いられることもある。希望通りに休みを取ることも難しい。そんなことで揉めたようだ。
辞める本人の立場からすれば、
「仕事がキツいし、休みも取れない。やってられない」
という心境だったのだろう。
しかし、彼の周囲にいる人たちの目は一様に厳しい。「あいつアホや」とか「あんなの、どこいっても続かんわ」とか「すぐ辞める」などと異口同音に唱えている。しかし、それも仕方ないといえる。彼の仕事ぶりは平均以下、社員の立場なのに学生のバイトよりもできない。滑舌も悪く雑談でちゃんと受け答えをするのも厳しい。しかもアゴが弱いのか、麺類をすすることができずクチャクチャ噛んで食べたりもする(これはあまり本題と関係ないか)。
そんな彼が何年もその職場にいることができたのは、別に彼が辛抱強かったということではない。直属の上司や周囲の人たちの温情があってのものだった。
ある方が、
「Iさん(上司の方)の下で無理だったら、あいつはどこも無理とちゃうか・・・」
と言っていたが、私も全く同感である。彼はここまで「必死で生きてきた」のではない。周囲の人の協力によって「生かされた」だけである。しかし当の本人は自分のことしか見えないから、そんなことはわからず今回の決断になったのだろう。
こういう事例を見ると、つくづく「鳥瞰」とか「俯瞰」いった、世の中全体を見る力がこういう時に必要だなあと感じる。
彼に限らず、
「こんなに必死で働いているのに、休みも無いしこんな安い給料ではやってられませんわ!」
とわめく輩はどこでも存在する。これは給料の額以上の仕事をしてもらわないと組織が回らないという問題もあるが、こうした人は往々にして仕事ぶりはほとんど駄目ということが多い。その理由は簡単で、全体を見渡す力が欠けているということなのだろう。目の前の仕事だけで手一杯になる人間に難しい業務ができるはずもない。
一番おそろしいのは新聞業界で、あそこは給料以上に仕事をしている人間など一人も存在しない。彼らの収入源は、ラジオ放送が開始される以前から築き上げられた宅配新聞による。その先人の遺産を食いつぶしているだけなのだ。しかし当事者たちは、自分は必死で仕事をしているつもりでいるのだから、もう何も見えていないというしかない。
私が新聞業界の片隅から離れるきっかけをしたのは、
「自分の給料を担保しているものは何なのだ?」
という疑問が湧いたことも大きかった気がする。
私自身は新聞社の子会社で本社の半分程度の給与額だったけれど、まるで不良債権処理のような一向に収益につながらない業務ばかりやってどうして給料がもらえるのか?と気持ち悪くて仕方なかった。しかし、それが宅配新聞の収益のおかげだと理解できるまでにだいぶ時間を費やす。
だが、新聞業界がどのようなメカニズムで動いているかをわからなければ、そこを離れることもなかったかもしれない。そうなると、何も知らない方が幸せだったという結論も導き出すことも可能だろう。しかし業界も会社も、そこで働く人にも全く希望を持てない自分にはそれは無理であった。
アレクサンドロス大王が生きた時代を舞台にした岩明均氏の漫画「ヒストリエ」(講談社)の1巻冒頭で登場するヘルミアス(哲学者プラトンの弟子の一人)が、
<大地は・・・実は球形をしてたんだ>(P.7)
<ほら・・・世界の形がわかったら・・・次にする事って何だろう・・・?>(P.8)
という台詞が出てくる。物語の舞台は紀元前343年、世界は平らだと誰もが思っていた時代の話である。
地球の形がわかったら今度はそれを確かめに行こうという気持ちになる、ということなのだろう。無論私が組織を去ったのはそんなロマンに満ちたものではないが、そういう気持ちは持っておきたいような気はする。
ジャクソン・ブラウン「スタンディング・イン・ザ・ブリーチ」(14年)
2014年11月9日 CD評など
ふと、
「ジャクソン・ブラウンの情報が最近全くないけど、元気にしてるかなあ?」
と思ったのは10月に入るか入らないかの頃だった気がする。別に彼のことを忘れていたわけでもないし、パソコンやスマホでライブ・アルバムなどは時おり聴いてはいた。しかし積極的に情報を仕入れていたわけではなく、彼の動静が自分に入ってくるようなことはなかった。
そこでYouTubeを検索してみたら、2012年のライブが出てきた。
Jackson Browne - Farther On - Denver 2012 - Part 4
https://www.youtube.com/watch?v=fSnJdiUG1Ko
代表作である「Late For The Sky」(74年)に収録されている名曲だが、これを観た時には、
「声の力は弱ってるかなあ・・・」
という印象を受けてしまった。他人に対して老けただの禿げただの言うのは天に唾する行為とわかってはいるのだが、しばらく彼の姿を見てなかった身としてはそう感じずにはいられなかったのである。最後にライブを観たのは、調べてみると2010年3月8日、シェリル・クロウとのジョイント・ライブとなっている。
「あまり活動してないのかなあ、それとも体の調子が悪いのか・・・」
と勝手に思ってしまっていたので、
「2014年10月8日発売」
と、6年ぶりの新作「スタンディング・イン・ザ・ブリーチ」の発売情報が目に飛び込んだ時は本当に驚いた。そして間髪いれずにAmazonで購入手続きをしてしまった。今回のアルバムはいつもと違う内容になるのでは?とジャケットを見た時に直感が働いたからである。
前作「時の征者」(08年)や前々作「ネイキッド・ライド・ホーム」(02年)はジャクソンの写真がジャケットになっていたが、今回はガレキの中を歩く二人となっているのも不思議と強く印象に残った。これはアルバム解説に書いてあるが、2010年にハイチで起きた大地震の直後の現場である。
ジャクソンが政治的な内容の曲を作ったり慈善目的のイベントに参加するようになったのは1980年代に入ってからだろうか。
あるファンの方が「ライヴズ・イン・ザ・バランス」(86年)について書いた文章の中で、
http://www009.upp.so-net.ne.jp/wcr/lives_in_the_balance.html
<このアルバムを聴くと「恋愛について歌う時のジャクソンはあんなにも深い歌詞が書けるのに、政治について歌う時の彼はどうしてこんなに単純になってしまうのだろう」と複雑な気分になってしまうというのも、私の正直な感想です。>
と評しているが、私自身は彼の歌詞などわからないのだけど、80年代以降の彼の作品が以前とは変わってしまったという印象は同じである。政治的な内容が盛り込まれていく一方、彼が持っていた作品の瑞々しさのようなものが薄れていったような気がしてならない。
思い起こせば80年代というのは音楽に関わる大きなチャリティ・イベントがさかんに開催された時代である。もっとも有名なのは、かの「ウィ・アー・ザ・ワールド」だろう。芸術は飢えた子どもに対して何ができるか?というような命題は昔からあったようだが、ジャクソン自身も反原発とかアパルトヘイト反対などのイベントにも積極的に参加しその姿勢は今も変わっていない。
なぜミュージシャンや芸術家がそのような運動に駆り立てられるのかは私には正直あまりピンとこないのだけど、ライブなどで世界中を回っていると色々と見えることもあるのかなあという気はする。
ただ、私としてはあまりこうした運動に積極的に賛同する気にはどうにもなれない。これは機会があったらまたどこかで書こうと思っているが、地球温暖化とか少子高齢化といった大きな問題が人間ごときの力でどうにかなるとは思えないのである。少なくとも凡人以下の私が解決できるレベルではないと認識している。
だからといって、別にジャクソンを非難しているわけでない。彼は現在でもホール規模の会場は満席にするほど日本でも人気があるミュージシャンである。しかし、それは彼が社会派だからとかいった理由からではない。山下達郎が自身のラジオ番組でジャクソンの特集をしたとき、ジャクソンのライブには海外ミュージシャンに見られる「手抜き」のようなものが見られない、と解説してくれた。それが彼に興味を持つきっかけとなった。これまで彼のライブは5回観ているけれど、いずれも素晴らしい内容だった。私たちがジャクソンを本当に好きなのは、ミュージシャンとしての彼の誠実さにあると確信している。それが言いたかったまでのことだ。
五十嵐正さんのアルバム解説によれば、アルバムに入っている10曲(日本盤はボーナス・トラックが1曲追加されている)のうち6曲は既にどこかで発表されているものだという。作った時期もバラバラで、1曲目の”ザ・バーズ・オブ・セント・マークス”はなんと彼が18歳の時に書いたものである。他にウディ・ガスリー(ボブ・ディランなどに多大な影響を与えたアメリカのフォーク・ミュージシャン)の曲を再編したもの、キューバのカルロス・ヴァレーラの曲に英詞をつけたものなど、楽曲だけを見れば全く統一性は無いといえる。
最初に聴いた時は、最近のアルバムの中でもひときわガサガサした音質だなあと感じた。そしてジャクソンの歌声も、近年のライブを観た時と同様に、力も落ちているなあと思ってしまった。それが第一印象である。楽曲もどちらかといえば淡々としている気がするし、演奏もグングン引っ張ってるようなものでもない。
こういう機会だから書くけれど、よほど熱心なファンを除いてこの25年ほどのジャクソンの作品をちゃんと聴いた人は多くないのではないだろうか。私もそんな聴き手であり、本作も残念ながらそれに連なる内容と一瞬は思ったのである。
しかし、何度かアルバムをかけているうちにそんな第一印象はどんどん変化していった。アルバムを出した直後に66歳を迎えたジャクソンの歌声は、確かに表面的な力強さは無いだろう。2曲目は”Yeah Yeah”という曲で、実際に何度もイエーイエーと歌われるのだが、初期のビートルズのような若者の持つ軽快さは求めるべくもない。が、そんなところとは全く別の次元で彼の歌声に力があることがほどなくして気付いたのである。60代の後半にさしかかったのに、まだ創作に向かう生命力というのだろうか。正直いえば本当のところはよくわからないのだけど、近年の彼にはない魅力を本作に見出してしまったのである。
そうなると、ザラついた音質についても大人しめな演奏についても、彼の歌声をうまく引き立たせているように感じられるようになった。むやみに力んだり若作りするような真似をせず、現在のあるがままのジャクソン・ブラウンをうまく録音したことが本作の成功要因かもしれない。
結果として、今でもずっとアルバムを聴き続けている。最初から最後まで通して聴くこともあれば適当に曲を選ぶことあるけれど、飽きるというのような状態が自分には訪れない。Facebookでこのアルバムを載せた時には「米の飯のような」などとアホくさい表現をしてみたが、音楽を聴いても全く飽きも疲れもしないというような経験は自分の中ではちょっと思いつかない。
本作はニック・ロウの「ザ・コンヴィンサー」(01年)やブルース・スプリングスティーンの「マジック」(07年)などに並び、21世紀に出たアルバムの中では自分にとって最重要な1枚となるだろう。
「ジャクソン・ブラウンの情報が最近全くないけど、元気にしてるかなあ?」
と思ったのは10月に入るか入らないかの頃だった気がする。別に彼のことを忘れていたわけでもないし、パソコンやスマホでライブ・アルバムなどは時おり聴いてはいた。しかし積極的に情報を仕入れていたわけではなく、彼の動静が自分に入ってくるようなことはなかった。
そこでYouTubeを検索してみたら、2012年のライブが出てきた。
Jackson Browne - Farther On - Denver 2012 - Part 4
https://www.youtube.com/watch?v=fSnJdiUG1Ko
代表作である「Late For The Sky」(74年)に収録されている名曲だが、これを観た時には、
「声の力は弱ってるかなあ・・・」
という印象を受けてしまった。他人に対して老けただの禿げただの言うのは天に唾する行為とわかってはいるのだが、しばらく彼の姿を見てなかった身としてはそう感じずにはいられなかったのである。最後にライブを観たのは、調べてみると2010年3月8日、シェリル・クロウとのジョイント・ライブとなっている。
「あまり活動してないのかなあ、それとも体の調子が悪いのか・・・」
と勝手に思ってしまっていたので、
「2014年10月8日発売」
と、6年ぶりの新作「スタンディング・イン・ザ・ブリーチ」の発売情報が目に飛び込んだ時は本当に驚いた。そして間髪いれずにAmazonで購入手続きをしてしまった。今回のアルバムはいつもと違う内容になるのでは?とジャケットを見た時に直感が働いたからである。
前作「時の征者」(08年)や前々作「ネイキッド・ライド・ホーム」(02年)はジャクソンの写真がジャケットになっていたが、今回はガレキの中を歩く二人となっているのも不思議と強く印象に残った。これはアルバム解説に書いてあるが、2010年にハイチで起きた大地震の直後の現場である。
ジャクソンが政治的な内容の曲を作ったり慈善目的のイベントに参加するようになったのは1980年代に入ってからだろうか。
あるファンの方が「ライヴズ・イン・ザ・バランス」(86年)について書いた文章の中で、
http://www009.upp.so-net.ne.jp/wcr/lives_in_the_balance.html
<このアルバムを聴くと「恋愛について歌う時のジャクソンはあんなにも深い歌詞が書けるのに、政治について歌う時の彼はどうしてこんなに単純になってしまうのだろう」と複雑な気分になってしまうというのも、私の正直な感想です。>
と評しているが、私自身は彼の歌詞などわからないのだけど、80年代以降の彼の作品が以前とは変わってしまったという印象は同じである。政治的な内容が盛り込まれていく一方、彼が持っていた作品の瑞々しさのようなものが薄れていったような気がしてならない。
思い起こせば80年代というのは音楽に関わる大きなチャリティ・イベントがさかんに開催された時代である。もっとも有名なのは、かの「ウィ・アー・ザ・ワールド」だろう。芸術は飢えた子どもに対して何ができるか?というような命題は昔からあったようだが、ジャクソン自身も反原発とかアパルトヘイト反対などのイベントにも積極的に参加しその姿勢は今も変わっていない。
なぜミュージシャンや芸術家がそのような運動に駆り立てられるのかは私には正直あまりピンとこないのだけど、ライブなどで世界中を回っていると色々と見えることもあるのかなあという気はする。
ただ、私としてはあまりこうした運動に積極的に賛同する気にはどうにもなれない。これは機会があったらまたどこかで書こうと思っているが、地球温暖化とか少子高齢化といった大きな問題が人間ごときの力でどうにかなるとは思えないのである。少なくとも凡人以下の私が解決できるレベルではないと認識している。
だからといって、別にジャクソンを非難しているわけでない。彼は現在でもホール規模の会場は満席にするほど日本でも人気があるミュージシャンである。しかし、それは彼が社会派だからとかいった理由からではない。山下達郎が自身のラジオ番組でジャクソンの特集をしたとき、ジャクソンのライブには海外ミュージシャンに見られる「手抜き」のようなものが見られない、と解説してくれた。それが彼に興味を持つきっかけとなった。これまで彼のライブは5回観ているけれど、いずれも素晴らしい内容だった。私たちがジャクソンを本当に好きなのは、ミュージシャンとしての彼の誠実さにあると確信している。それが言いたかったまでのことだ。
五十嵐正さんのアルバム解説によれば、アルバムに入っている10曲(日本盤はボーナス・トラックが1曲追加されている)のうち6曲は既にどこかで発表されているものだという。作った時期もバラバラで、1曲目の”ザ・バーズ・オブ・セント・マークス”はなんと彼が18歳の時に書いたものである。他にウディ・ガスリー(ボブ・ディランなどに多大な影響を与えたアメリカのフォーク・ミュージシャン)の曲を再編したもの、キューバのカルロス・ヴァレーラの曲に英詞をつけたものなど、楽曲だけを見れば全く統一性は無いといえる。
最初に聴いた時は、最近のアルバムの中でもひときわガサガサした音質だなあと感じた。そしてジャクソンの歌声も、近年のライブを観た時と同様に、力も落ちているなあと思ってしまった。それが第一印象である。楽曲もどちらかといえば淡々としている気がするし、演奏もグングン引っ張ってるようなものでもない。
こういう機会だから書くけれど、よほど熱心なファンを除いてこの25年ほどのジャクソンの作品をちゃんと聴いた人は多くないのではないだろうか。私もそんな聴き手であり、本作も残念ながらそれに連なる内容と一瞬は思ったのである。
しかし、何度かアルバムをかけているうちにそんな第一印象はどんどん変化していった。アルバムを出した直後に66歳を迎えたジャクソンの歌声は、確かに表面的な力強さは無いだろう。2曲目は”Yeah Yeah”という曲で、実際に何度もイエーイエーと歌われるのだが、初期のビートルズのような若者の持つ軽快さは求めるべくもない。が、そんなところとは全く別の次元で彼の歌声に力があることがほどなくして気付いたのである。60代の後半にさしかかったのに、まだ創作に向かう生命力というのだろうか。正直いえば本当のところはよくわからないのだけど、近年の彼にはない魅力を本作に見出してしまったのである。
そうなると、ザラついた音質についても大人しめな演奏についても、彼の歌声をうまく引き立たせているように感じられるようになった。むやみに力んだり若作りするような真似をせず、現在のあるがままのジャクソン・ブラウンをうまく録音したことが本作の成功要因かもしれない。
結果として、今でもずっとアルバムを聴き続けている。最初から最後まで通して聴くこともあれば適当に曲を選ぶことあるけれど、飽きるというのような状態が自分には訪れない。Facebookでこのアルバムを載せた時には「米の飯のような」などとアホくさい表現をしてみたが、音楽を聴いても全く飽きも疲れもしないというような経験は自分の中ではちょっと思いつかない。
本作はニック・ロウの「ザ・コンヴィンサー」(01年)やブルース・スプリングスティーンの「マジック」(07年)などに並び、21世紀に出たアルバムの中では自分にとって最重要な1枚となるだろう。
BONNIE PINK大阪公演(2014年11月5日、なんばHatch)
2014年11月5日現在の勤務時間は午前9時半から午後5時半となっている。何もなければ定時で終わることができるが、作業の進行により6時あたりまで残業をする場合もある。
今日はBONNIE PINKのライブがある。開演は午後7時半だ。ザッと算出したところでは、どんなに頑張っても会場のなんばHatchまで1時間半は必要になってくる。定時になれば開演ギリギリ間に合うかどうだ。残業が生じれば、もちろん間に合わない。
そこで、あまりしたくないが、職場のボスに「予定あるんで、10分でも前倒しで切り上げさせてもらえませんかねえ?」と切り出した。ボスは渋い顔をしたが、じゃあ15分前に出勤したら?という名案が出されたのでそれで進めることにした。
結果として、仕事は8時間後の午後5時15分にキッチリ業務が終了した。水曜日は通常より人が足りないため残業が発生することも多かったが、この辺りで私の運が強かったのかもしれない。すぐに荷物を抱えて阪急の烏丸駅から梅田行きの特急に乗り込む。その時点で5時半だった。よほどのことが無い限り開演は間に合う感じだ。
こうやって時間を工面したライブ当日である。さぞかし私がライブを待ち望んでいたのであろうと思う方もいるかもしれないが、特に何かドキドキしながら電車に乗ったわけでもない。それは会場で出会ったライブ仲間にしても心境は似たようなものだろう。公演直前になっても過去の作品を2、3枚聴く程度であった。この人のライブに過剰な期待を抱くのは実に危険なのだから。
ただ、今回のライブは「デビュー20周年突入」も節目ということもあってか、いわゆる「サプライズ」といえるような企画が発表されていた。
<今回のBONNIE PINK TOUR 2014 "Almost 20"では、遂にデビューアルバム「Blue Jam」収録曲を演奏します!
ただし、各会場ごとにルーレットで選曲されるため、その時が来るまではBONNIEにもわかりません!!
>
と、公式サイトに書いていたのである。
95年に発表された「Blue Jam」は往年のファンにはかなり思い入れの強い作品で(最初に出したアルバム3枚が特に評価が高いように思われる)、また過去の作品は全くライブに取り入れないこの人にあっては実に貴重な機会なのは間違いない。だが、世間の反応は鈍いようでライブのチケットは軒並み「発売中」である。
しかし、いろいろと思いを巡らせてみれば、それも当然かもしれない。中川淳一郎さんが「ウェブはバカと暇人のもの:現場からのネット敗北宣言」(09年。光文社新書)のどこかに書いてあったことだが、例えばネットで新しい商品を話題にさせるためには、「従来の商品より100倍の◯◯!」というくらいのインパクトが無いと難しい、というのである(手元に本書が見当たらず正確な引用ができません。申し訳ありません)。
その辺りを踏まえると、アルバムから1〜2曲を披露する、という程度で話題を広げるのも難しい時代といえる。やはり「アルバム全曲再現!」くらいをして初めてネットで取り上げられるということだろう。実際、例えば佐野元春が「SOMEDAY」(83年)発売30周年を記念して全曲再現ライブを試みている。いや、もしかしたら、1枚アルバムをするくらいでは誰も驚かない状況になっているかもしれないが。
そんなことを車中で考えているうちに、グッスリと眠ってしまった。気が付けば終点の梅田である。所要時間は40分程度のはずだが、なんだか10分くらい遅れが出ている。アナウンスを聞いたところでは、何か電車の止まる事態があったらしい。寝ぼけながらも急いで地下鉄御堂筋線へ向かい難波駅へ。そしていつも通り「どこは向かえば会場なんだ?」と道に迷いながらなんとか会場へ着く。その時点で6時50分の少し前だったか。開演10分前である。思ったほど余裕がなかったな。
会場入りする前に入口にある看板代わりの電光掲示(というのか?)の写真をスマホで取ろうとしたら、それこそ「Blue Jam」から彼女を見ているBさんが後ろにいた。彼はデジカメで電光掲示を撮影していた。別に運命的というわけでもないが、結果として二人同時に入場となる。
いつもはファンクラブ会員であるBさんに便乗してチケットを取ってもらっていたが、今回は私が勘違いしたこともありファミリーマートの先行予約で買った席となる。勝手に席種が立ち見席と思ってしまい、
「立ち見なら開演ギリギリの入場だし良い番号でも仕方ねえや」
と、さらに勘違いしたためである。実際は椅子を並べる指定席であったのだが。
私が座ったのは「M列」の右側だった。中央より少し後ろというところで、いつものファンクラブ先行と比べるとステージが遠く感じる。そして、イスを並べてみるとなんばHatchってこれくらいしか人がはいらないんだなあと気づき、節目のライブにしてはその辺が少し寂しくもあった。そんなことを思っていたら、すぐ10分ほど時間が経ち開演である。
1曲目は10年のアルバム「Dear Diary」から”Is This Love?”、そして01年の「Just A Girl」から”再生”という流れだった。どちらもアルバムを出した時のツアー以来披露していないような気がするが、相変わらず微妙な選曲という気がする。そして、ライブでは初めて演奏する、というようなことをMCで強調しながら歌われたのがシングル「カイト」(10年)のカップリング曲の”Busy-Busy-Bee”だった。この辺りまできて、「今日のライブも平常運転だなあ」という予測が立ってきた。
遠くからでも表情は冴えていたように見えたし、パフォーマンス自体は悪くなかったとは思う。ライブの節目節目でも、やはり20年目ということを意識している様子もうかがえる。八橋義幸と二人だけで”Grow”を歌ったり、久しぶりにエレキ・ギターを抱えて”Call My Name”を歌ったあたりはそんな気がしたのだ。しかしそれは過去の再現以上のものを見出せなかったのもまた苦しいところである。BONNIE、八橋、そして鈴木正人の3氏での”スキKILLER”のステップは可愛らしかったけどね。
そんなことを思いながら座ってほおづえを突いてライブを観ているうちに、ついに問題のコーナーの登場である。舞台の袖の左手にルーレットが現れた。が、遠くで確認できないものの、ルーレットは何かおかしい。BONNIE本人が、「Blue Jam」は8曲入ってるけどルーレットは6曲しかないという指摘はしないでください、というような説明があった。実際には”Freak”と”Maze Of Love”が抜けていたらしい。よって、これからまだツアーはいくつか残っているものの、この2曲が披露されるということはありえない。
文句を言っても仕方ないけれど、これは「看板に偽りあり」というものだろう。しかし一方、これがBONNIE PINKという人なのかなあと変に納得している自分もいる。
ルーレットは、会場から2人が壇上にあがり矢を放ってもらうというものだった。いずれも兵庫県から来た男性と女性が選ばれたが、二人とも”オレンジ”を当てたいと言っていたのが印象的だった。私はおそらく3回以上はライブで観ているので、”オレンジ”だけは止めてくれと思っていたが。結果として”Scarecrow”と”背中”が選ばれたのにはけっこう安堵した。いずれも私はライブで未見のものだったからだ。
私が彼女を初めて観たのが2000年8月4日であるから、14年目にしてこの2曲を聴けたことになる。そういうことを考えると貴重な一夜であったことは間違いないし、なんだかんだ言っても2曲聴けたのはとても嬉しかったと素直に書いておきたい。
アンコールを入れて18曲、2時間ほどの内容だった。終演後のライブ仲間との打ち上げで、2時間半ほどしてくれたら、という感想を言った方もいたが、平常運転の内容で2時間でも3時間も印象は変わらないような気がすると思ったのは私だけだろうか。
ライブの演出も実にシンプルだったし、デビュー10周年の時のようなシングルばかりをするということもなかった。だから、今日来た人がどれほど満足したのかというと、その辺りは微妙なところだったろう。私もルーレット以外に書くべきものがつかず感想を放置してしまったが、やはり「Blue Jam」の件は記したかったので遅めのレポート提出とさせてもらった。来年はアルバムを出すと言っていたし、2015年もどこかで動く姿は観られるだろう。その時もあまり期待せずに待つころにする。最後に曲目を記す。
【演奏曲目】
(1)Is This Love?
(2)再生
(3)Busy-Busy-Bee
(4)Rise and Shine
(5)スキKILLER
(6)Evil and Flowers
(7)Building a Castle
(8)Only For Him
<ルーレットのコーナー>
(9)Scarecrow
(10)背中
(11)Grow
(12)Home Sweet Home
(13)Fish
(14)Call My Name
(15)Heaven’s Kitchen
(16)Private Laughter
<アンコール>
(17)Tonight, the Night
(18)Last Kiss
今日はBONNIE PINKのライブがある。開演は午後7時半だ。ザッと算出したところでは、どんなに頑張っても会場のなんばHatchまで1時間半は必要になってくる。定時になれば開演ギリギリ間に合うかどうだ。残業が生じれば、もちろん間に合わない。
そこで、あまりしたくないが、職場のボスに「予定あるんで、10分でも前倒しで切り上げさせてもらえませんかねえ?」と切り出した。ボスは渋い顔をしたが、じゃあ15分前に出勤したら?という名案が出されたのでそれで進めることにした。
結果として、仕事は8時間後の午後5時15分にキッチリ業務が終了した。水曜日は通常より人が足りないため残業が発生することも多かったが、この辺りで私の運が強かったのかもしれない。すぐに荷物を抱えて阪急の烏丸駅から梅田行きの特急に乗り込む。その時点で5時半だった。よほどのことが無い限り開演は間に合う感じだ。
こうやって時間を工面したライブ当日である。さぞかし私がライブを待ち望んでいたのであろうと思う方もいるかもしれないが、特に何かドキドキしながら電車に乗ったわけでもない。それは会場で出会ったライブ仲間にしても心境は似たようなものだろう。公演直前になっても過去の作品を2、3枚聴く程度であった。この人のライブに過剰な期待を抱くのは実に危険なのだから。
ただ、今回のライブは「デビュー20周年突入」も節目ということもあってか、いわゆる「サプライズ」といえるような企画が発表されていた。
<今回のBONNIE PINK TOUR 2014 "Almost 20"では、遂にデビューアルバム「Blue Jam」収録曲を演奏します!
ただし、各会場ごとにルーレットで選曲されるため、その時が来るまではBONNIEにもわかりません!!
>
と、公式サイトに書いていたのである。
95年に発表された「Blue Jam」は往年のファンにはかなり思い入れの強い作品で(最初に出したアルバム3枚が特に評価が高いように思われる)、また過去の作品は全くライブに取り入れないこの人にあっては実に貴重な機会なのは間違いない。だが、世間の反応は鈍いようでライブのチケットは軒並み「発売中」である。
しかし、いろいろと思いを巡らせてみれば、それも当然かもしれない。中川淳一郎さんが「ウェブはバカと暇人のもの:現場からのネット敗北宣言」(09年。光文社新書)のどこかに書いてあったことだが、例えばネットで新しい商品を話題にさせるためには、「従来の商品より100倍の◯◯!」というくらいのインパクトが無いと難しい、というのである(手元に本書が見当たらず正確な引用ができません。申し訳ありません)。
その辺りを踏まえると、アルバムから1〜2曲を披露する、という程度で話題を広げるのも難しい時代といえる。やはり「アルバム全曲再現!」くらいをして初めてネットで取り上げられるということだろう。実際、例えば佐野元春が「SOMEDAY」(83年)発売30周年を記念して全曲再現ライブを試みている。いや、もしかしたら、1枚アルバムをするくらいでは誰も驚かない状況になっているかもしれないが。
そんなことを車中で考えているうちに、グッスリと眠ってしまった。気が付けば終点の梅田である。所要時間は40分程度のはずだが、なんだか10分くらい遅れが出ている。アナウンスを聞いたところでは、何か電車の止まる事態があったらしい。寝ぼけながらも急いで地下鉄御堂筋線へ向かい難波駅へ。そしていつも通り「どこは向かえば会場なんだ?」と道に迷いながらなんとか会場へ着く。その時点で6時50分の少し前だったか。開演10分前である。思ったほど余裕がなかったな。
会場入りする前に入口にある看板代わりの電光掲示(というのか?)の写真をスマホで取ろうとしたら、それこそ「Blue Jam」から彼女を見ているBさんが後ろにいた。彼はデジカメで電光掲示を撮影していた。別に運命的というわけでもないが、結果として二人同時に入場となる。
いつもはファンクラブ会員であるBさんに便乗してチケットを取ってもらっていたが、今回は私が勘違いしたこともありファミリーマートの先行予約で買った席となる。勝手に席種が立ち見席と思ってしまい、
「立ち見なら開演ギリギリの入場だし良い番号でも仕方ねえや」
と、さらに勘違いしたためである。実際は椅子を並べる指定席であったのだが。
私が座ったのは「M列」の右側だった。中央より少し後ろというところで、いつものファンクラブ先行と比べるとステージが遠く感じる。そして、イスを並べてみるとなんばHatchってこれくらいしか人がはいらないんだなあと気づき、節目のライブにしてはその辺が少し寂しくもあった。そんなことを思っていたら、すぐ10分ほど時間が経ち開演である。
1曲目は10年のアルバム「Dear Diary」から”Is This Love?”、そして01年の「Just A Girl」から”再生”という流れだった。どちらもアルバムを出した時のツアー以来披露していないような気がするが、相変わらず微妙な選曲という気がする。そして、ライブでは初めて演奏する、というようなことをMCで強調しながら歌われたのがシングル「カイト」(10年)のカップリング曲の”Busy-Busy-Bee”だった。この辺りまできて、「今日のライブも平常運転だなあ」という予測が立ってきた。
遠くからでも表情は冴えていたように見えたし、パフォーマンス自体は悪くなかったとは思う。ライブの節目節目でも、やはり20年目ということを意識している様子もうかがえる。八橋義幸と二人だけで”Grow”を歌ったり、久しぶりにエレキ・ギターを抱えて”Call My Name”を歌ったあたりはそんな気がしたのだ。しかしそれは過去の再現以上のものを見出せなかったのもまた苦しいところである。BONNIE、八橋、そして鈴木正人の3氏での”スキKILLER”のステップは可愛らしかったけどね。
そんなことを思いながら座ってほおづえを突いてライブを観ているうちに、ついに問題のコーナーの登場である。舞台の袖の左手にルーレットが現れた。が、遠くで確認できないものの、ルーレットは何かおかしい。BONNIE本人が、「Blue Jam」は8曲入ってるけどルーレットは6曲しかないという指摘はしないでください、というような説明があった。実際には”Freak”と”Maze Of Love”が抜けていたらしい。よって、これからまだツアーはいくつか残っているものの、この2曲が披露されるということはありえない。
文句を言っても仕方ないけれど、これは「看板に偽りあり」というものだろう。しかし一方、これがBONNIE PINKという人なのかなあと変に納得している自分もいる。
ルーレットは、会場から2人が壇上にあがり矢を放ってもらうというものだった。いずれも兵庫県から来た男性と女性が選ばれたが、二人とも”オレンジ”を当てたいと言っていたのが印象的だった。私はおそらく3回以上はライブで観ているので、”オレンジ”だけは止めてくれと思っていたが。結果として”Scarecrow”と”背中”が選ばれたのにはけっこう安堵した。いずれも私はライブで未見のものだったからだ。
私が彼女を初めて観たのが2000年8月4日であるから、14年目にしてこの2曲を聴けたことになる。そういうことを考えると貴重な一夜であったことは間違いないし、なんだかんだ言っても2曲聴けたのはとても嬉しかったと素直に書いておきたい。
アンコールを入れて18曲、2時間ほどの内容だった。終演後のライブ仲間との打ち上げで、2時間半ほどしてくれたら、という感想を言った方もいたが、平常運転の内容で2時間でも3時間も印象は変わらないような気がすると思ったのは私だけだろうか。
ライブの演出も実にシンプルだったし、デビュー10周年の時のようなシングルばかりをするということもなかった。だから、今日来た人がどれほど満足したのかというと、その辺りは微妙なところだったろう。私もルーレット以外に書くべきものがつかず感想を放置してしまったが、やはり「Blue Jam」の件は記したかったので遅めのレポート提出とさせてもらった。来年はアルバムを出すと言っていたし、2015年もどこかで動く姿は観られるだろう。その時もあまり期待せずに待つころにする。最後に曲目を記す。
【演奏曲目】
(1)Is This Love?
(2)再生
(3)Busy-Busy-Bee
(4)Rise and Shine
(5)スキKILLER
(6)Evil and Flowers
(7)Building a Castle
(8)Only For Him
<ルーレットのコーナー>
(9)Scarecrow
(10)背中
(11)Grow
(12)Home Sweet Home
(13)Fish
(14)Call My Name
(15)Heaven’s Kitchen
(16)Private Laughter
<アンコール>
(17)Tonight, the Night
(18)Last Kiss
「自称病気」の営業社員がいきなり復職し、なぜか自分の部署へ来た話
2014年10月20日 お仕事今日は朝から空は曇っていた。降水確率は午後から80パーセントと高いため、自転車を断念して傘を持って地下鉄まで向かった。駅に着くころには小雨が降り始めていた。
「帰りはバスになるな・・・。雨の日にバスへ乗るのは嫌だなあ」
そう思いながら勤務先に着いた。それだけの一日で終わるはずだった。
だが、ある人のきっかけで大きく変わることになる。
いつものように9時半から作業をしていたら、
「おはようございます」
と数ヶ月ぶりに見る顔がそこにあった。それはいつの間にか会社から姿を消していた営業社員のA氏だった。
しかし私は特別驚くことはなかった。先週の終わりに職場のボスから、
「渡部くん、A君は知ってるか?」
と仕事中に訊かれたからだ。その時はなぜそんな質問をされたのか理解できなかった。
「ついに辞めたのかなあ」
と思ったのだが、事実はその逆だったようである。
勘の鋭い方ならこの辺りでだいたいのことは予測できたかもしれない。ちゃんと説明すれば、営業社員のA氏は「病気」を理由に休職していた人である。そしてこのたび復職したわけだが、営業ではなく私がいる内勤部門での復帰となったようだ。
我ながら歯切れの悪い書き方をしているが、それについても理由がある。
A氏について、私は会社およびボスから具体的な説明は一切もらっていないのだ。さきほど書いたことは、私が職場でボスと誰かの会話を盗み聞きした内容をもとに推測も入れながらのものである。だから、本当のことは若干異なる部分もあるかもしれない。
今朝にしてみても、ボスから彼についての説明は一切なかった。私は部外者の派遣社員とはいえ同じ職場で作業するわけである。耳打ち程度でも彼について伝えるべきではないだろうか。
しかし一番イヤだったのはA氏とすれ違った時に、
「よろしく頼むわ。(俺は)新米やし」
と言われたことだった。これには蚊も殺さないような顔をした私でもかなりカチンときた次第である。
「新米って何よ?あんたここの会社の人間で、待遇も正社員で経験もこっちより上でしょ?時給労働の派遣社員を相手に何を甘ったれた無責任なことをほざいてんだよ!うんこ食ってろ!」
などと、はらわたが煮えくり返ってしまったのだ。
そして、かつての勤務先の同じ職場で働いたこともある「自称病気」の人が脳裏に浮かんだ。
いま私が「自称病気」などという表記を使っていることについて違和感を持った方もいるかもしれない。こいつは心の病に対して理解について全くないけしからん奴だと思った人がいてもおかしくないだろう。
確かに私は(大学で心理学を専攻していたくせに)精神病などの知識は基本的に無い。ただ、心に病のある人の希望に応える形に環境を設定して復職させるというようなやり方には全く反対である。その点では「理解がない」と思っていただいて結構だ。
だいたい「自称病気」の人に対して「ああこの人は病気なんだな」と確信できる人などそれほどいるのだろうか。
大半の人は、
「あの人はやる気がなさそう」
とか
「あの人はちっとも仕事をしない」
という印象以上のものを感じないだろう。骨折や感染症などといった病気とは全く異なる性質のものだから当然ではある。だから「私は病気なんです」と言われても簡単に納得はできない。「はあ、そうですか。大変ですね」と適当に相づちを打つしかないだろう。私が「自称病気」と書いたのはその辺のことを表現したかったまでである。
では、かつて一緒に仕事をしたことのある「自称病気」のB氏について触れてみたい。彼の姿がA氏とあまりにオーバーラップしてしまったからだ。
私がかつての職場(新聞社の子会社)へ入社して、企画事業局という事業(イベント)に関する部門に配属された。その時にB氏も企画事業局に配属していた。彼の待遇は本社(新聞社)の社員であり、子会社に出向という立場である。
このあたりの経緯は複雑だが、簡単に要約すると私たち子会社の社員に仕事を引き継ぎができたら本社社員は別の部署へ異動するという労使間(会社と労働組合との間)の約束があったのである。そういうわけで、それから3ヶ月後だったろうか、B氏は企画事業局を去ることとなる。彼が次に行った先は広告局、つまり新聞広告の営業部門である。
B氏にとってそれは不本意な異動だったようで、企画事業局に戻りたい、と何かある度に愚痴をこぼしていたようである。そしてそれから3年ほど経ち、私の職場からは管理職を除き本社社員はいなくなった。これで区切りがついたと会社が考えたためか、しばらく経った異動の時期に、事業を離れた本社社員をまた事業に戻すという人事を発令したのである。
この人事がパンドラの箱となってしまった。
これを知ったB氏は「俺も事業に戻してくれ!」と激しく主張するようになったである。ほどなくして彼の姿は会社から見えなくなる。何かに理由をつけて休職したのだろう。そしてどれほど過ぎた頃だろうか、人事異動などない2月の時期にいきなり彼が滋賀の事業部門へと戻ってきたのである。そしてその次の人事異動の時期には京都の事業局へ戻り、晴れて私と同じ職場の人間となったのである・・・。
面白い共通項だが、この一連の流れについても私は職場の上司から一切の説明は無かった。事情が事情とはいえ、非公式でも部下に周知をして協力をうながすなどの処置をとるべきだったのではないか。それゆえB氏のことについても私が聞いた情報や記憶を編集しただけのことである。
大前提の話になるが、何も説明できない人事異動について納得などできない。組織の原理原則は徹底してほしいというのが私の考えである。
本当に納得がいかない話だったし、当時の事業局長と飲んだ時にB氏について切り出してみた。おそらく私は、こんな人事は覆らないんですか?というような質問をしたのだろう。すると返ってきた言葉は、産業医の言うことは社長でも反対できない、ということだった。産業医が、事業局に異動させないと快方に向かわない、などと言ったらそれに従うしかないというのである。
ここが私の一番の疑問なのだが、本人の言いなりになって希望の仕事をさせることによって病気が回復するなどということはあり得るのだろうか?
確かにその方が気持ちが楽になるかもしれない。しかしそれは、まだ治療法の確立できてなかった結核患者をサナトリウムに隔離して自然治癒を期待するようなやり方を連想してしまう。そもそも「健康」と「病気」との区別が困難な状態に対して具体的な対処法などあるはずがないのだ。
「あんなのが病気というなら、私も病気や!」
と吐き捨てた人もいたが、私も同感である。
さらに言わせてもらえば、
「病気病気と言うけれど、じゃあ五体満足になればバリバリ働くようになるのか?」
という疑問も常にあった。
少なくともB氏に関していえば、事業局に戻ってから水を得た魚のように働き出したという場面を確認することはなかった。彼について一番気になったのは、ある一つのイベントについてだけやたら熱を入れているという点だった。空いている時間があればそれに関する団体の事務所へ通って何時間も職場へ戻ってこない、ということもたびたびあった。
ある仕事について私は彼と一緒に行動しなければならない時もあったが、外に出てどこにいってるのかわからない状態も多く、彼に仕事を振ることはほとんどしなかった。具体的にいえば私が9割、彼にしてもらった作業は1割、そんなところだった。
そういう状況が続いていたので、少し嫌味のようなことを言ったら、
「渡部っち・・・それって、俺が仕事をしてないと言いたいわけぇ?」
などと、まさに働かない人間が口に出す常套句が出てきてガックリきたことも忘れられない。
彼が事業に戻ってきてからしばらく経った頃だろうか。あるイベントの時に、私の直属の上司がなにやらB氏についての話題をしていた。その時に聞いた内容が忘れられない。
「昔は別に病気のようなことはなかったんやけどなあ・・・。嫌いな仕事はしない奴やったけど」
組織人の立場で仕事を選り好みしていたという時点で、「あれはマズい奴だ」と上司は勘づくべきだったのではないだろうか。まあ、その程度の感覚しかなかったということだが。
仕事の内容などたいして関係が無い。もともと仕事をしない人間なのだ。
こういう情報が入ると、彼の「病気」の温床はずっと前から存在していたので
はないかと嫌でも思ってしまう。また、自分に合わない仕事があったら「こんなの私には無理ですわ」と言えばそれが通ってしまうような職場のあり方も拍車をかけていたのだろう。
ある時期にB氏がまとまった休みを取っていた時がある。噂を聞けば、沖縄に行ったというのだ。この辺も、それはちょっとなあ、と少なからず違和感を抱いた出来事だった。これは香山リカさんの『「私はうつ」と言いたがる人たち」(08年、PHP新書)にも似たようなことが書いていたが、自分は病気だ病気だと言っている立場の人が大っぴらにバカンスを楽しめるというのは何か整合性がともなっていない気がするのだ。人目を気にしていないというか、社会性が欠けているのだろう。
ここまできてもっと露骨なことを書かせてもらうが、
「僕は病気だし好きな仕事しかしたくないんけど、給料は満額欲しいし有休も消化したいです」
と彼が腹の中で思っているようでならなかったのだ。酷いことを言う奴だと憤る人もいるかもしれないが、いままでの事例を見てもらえばそう思っても仕方ないだろう。
私が彼に対して苦々しく思っていたもう一つの理由は、私が子会社の社員であり向こうは本社社員で立場の違いがあったことである。単に収入だけなら倍以上の差がついていた。「自称病気」という理由があるからといって、なぜもっと格下の立場の人間がその責任を負わなければならないのか?この場を借りて書くが、給料を多くもらってる人間が余計に働かないといけないのは当然である。しかし実際はコピペもできない人間が年収1000万をもらっていたというような、重篤なモラル・ハザードを引き起こす職場であった。
自分の希望の部署に戻り、好きなイベントだけやれる環境になりB氏は満足、かと端から見て思っていたら、ほどなくして「写真報道部に行きたい」と希望を出すようになったという話も聞いた。それについては現在のところ受け入れられていないようだが、B氏の仕事観もかなりデタラメなものだなと感じてしまう。
今回はかなり個人的な恨みつらみも書いてしまったが、具体的に事例を書いたほうが私の思うところも伝わりやすいと思いこういう手法を試してみた。
日本が右肩上がりの経済状態だった時は、仕事をしない社員をどう処遇するかという問題はあまり表面化しなかった。首を切る/切らないとかで問題を起こすくらいなら黙って賃金を払っていた方が良かったのだ。
しかし、今はもうそんな時代ではない。
「リストラ」と称した人員削減も経営手法の一つとして定着したし、若い人に目を向ければ就職もかつてに比べたら非常に厳しいものになっている。
端的にいえば、会社も社員も苦しくて余裕が無くなったのだ。そんな状況でB氏のような人たちに手を差し伸ばしてと言われても、私のような立場でそれは無理というものだ。実際の話、直属の上司に「あいつ病気やし、助けてやれや」などと頼まれたこともないのだから、何もしなくても問題ないはずだけどね。
そして今日の話に戻ればA氏も内勤の職場に移りたい、と休職する前に主張していたというのである。うわあ、どこかの誰かさんと同じ論理じゃねえの。
しかも、戻ってきた彼は不自然に顔が黒くなっているのが異様だ。まるで「丘サーファーで」ある。それを見た人が口々に、
「黒くなってますねえ」
と言い、ある人が、
「チャラ黒いよね(笑)」
とつぶやいたのが最高だった。チャラい感じのする黒さ、ということか。上手い!今年最高のフレーズだと思った。だが、彼が休職中をどう過ごしていたのかと思うと、また例の人と重なる気がしてくる。
明日以降の職場はどうなるのだろう。子会社の社員よりさらに格下の派遣社員の身になってからも、あの時のような思いを私はまた経験するのだろうか。そう考えると嫌な気持ちになって昼休みを過ごした。
そしてまた職場に戻ってくると、A氏の姿はなくなっていた。ボスの会話を聞いていたら、今日は初日だから2時間で終業となったそうである。会社も処遇に対して困ってるんだなあと同情する一方、こっちにも少しは情報を流せよとムッとしながら本日の業務を終えた次第である。
「帰りはバスになるな・・・。雨の日にバスへ乗るのは嫌だなあ」
そう思いながら勤務先に着いた。それだけの一日で終わるはずだった。
だが、ある人のきっかけで大きく変わることになる。
いつものように9時半から作業をしていたら、
「おはようございます」
と数ヶ月ぶりに見る顔がそこにあった。それはいつの間にか会社から姿を消していた営業社員のA氏だった。
しかし私は特別驚くことはなかった。先週の終わりに職場のボスから、
「渡部くん、A君は知ってるか?」
と仕事中に訊かれたからだ。その時はなぜそんな質問をされたのか理解できなかった。
「ついに辞めたのかなあ」
と思ったのだが、事実はその逆だったようである。
勘の鋭い方ならこの辺りでだいたいのことは予測できたかもしれない。ちゃんと説明すれば、営業社員のA氏は「病気」を理由に休職していた人である。そしてこのたび復職したわけだが、営業ではなく私がいる内勤部門での復帰となったようだ。
我ながら歯切れの悪い書き方をしているが、それについても理由がある。
A氏について、私は会社およびボスから具体的な説明は一切もらっていないのだ。さきほど書いたことは、私が職場でボスと誰かの会話を盗み聞きした内容をもとに推測も入れながらのものである。だから、本当のことは若干異なる部分もあるかもしれない。
今朝にしてみても、ボスから彼についての説明は一切なかった。私は部外者の派遣社員とはいえ同じ職場で作業するわけである。耳打ち程度でも彼について伝えるべきではないだろうか。
しかし一番イヤだったのはA氏とすれ違った時に、
「よろしく頼むわ。(俺は)新米やし」
と言われたことだった。これには蚊も殺さないような顔をした私でもかなりカチンときた次第である。
「新米って何よ?あんたここの会社の人間で、待遇も正社員で経験もこっちより上でしょ?時給労働の派遣社員を相手に何を甘ったれた無責任なことをほざいてんだよ!うんこ食ってろ!」
などと、はらわたが煮えくり返ってしまったのだ。
そして、かつての勤務先の同じ職場で働いたこともある「自称病気」の人が脳裏に浮かんだ。
いま私が「自称病気」などという表記を使っていることについて違和感を持った方もいるかもしれない。こいつは心の病に対して理解について全くないけしからん奴だと思った人がいてもおかしくないだろう。
確かに私は(大学で心理学を専攻していたくせに)精神病などの知識は基本的に無い。ただ、心に病のある人の希望に応える形に環境を設定して復職させるというようなやり方には全く反対である。その点では「理解がない」と思っていただいて結構だ。
だいたい「自称病気」の人に対して「ああこの人は病気なんだな」と確信できる人などそれほどいるのだろうか。
大半の人は、
「あの人はやる気がなさそう」
とか
「あの人はちっとも仕事をしない」
という印象以上のものを感じないだろう。骨折や感染症などといった病気とは全く異なる性質のものだから当然ではある。だから「私は病気なんです」と言われても簡単に納得はできない。「はあ、そうですか。大変ですね」と適当に相づちを打つしかないだろう。私が「自称病気」と書いたのはその辺のことを表現したかったまでである。
では、かつて一緒に仕事をしたことのある「自称病気」のB氏について触れてみたい。彼の姿がA氏とあまりにオーバーラップしてしまったからだ。
私がかつての職場(新聞社の子会社)へ入社して、企画事業局という事業(イベント)に関する部門に配属された。その時にB氏も企画事業局に配属していた。彼の待遇は本社(新聞社)の社員であり、子会社に出向という立場である。
このあたりの経緯は複雑だが、簡単に要約すると私たち子会社の社員に仕事を引き継ぎができたら本社社員は別の部署へ異動するという労使間(会社と労働組合との間)の約束があったのである。そういうわけで、それから3ヶ月後だったろうか、B氏は企画事業局を去ることとなる。彼が次に行った先は広告局、つまり新聞広告の営業部門である。
B氏にとってそれは不本意な異動だったようで、企画事業局に戻りたい、と何かある度に愚痴をこぼしていたようである。そしてそれから3年ほど経ち、私の職場からは管理職を除き本社社員はいなくなった。これで区切りがついたと会社が考えたためか、しばらく経った異動の時期に、事業を離れた本社社員をまた事業に戻すという人事を発令したのである。
この人事がパンドラの箱となってしまった。
これを知ったB氏は「俺も事業に戻してくれ!」と激しく主張するようになったである。ほどなくして彼の姿は会社から見えなくなる。何かに理由をつけて休職したのだろう。そしてどれほど過ぎた頃だろうか、人事異動などない2月の時期にいきなり彼が滋賀の事業部門へと戻ってきたのである。そしてその次の人事異動の時期には京都の事業局へ戻り、晴れて私と同じ職場の人間となったのである・・・。
面白い共通項だが、この一連の流れについても私は職場の上司から一切の説明は無かった。事情が事情とはいえ、非公式でも部下に周知をして協力をうながすなどの処置をとるべきだったのではないか。それゆえB氏のことについても私が聞いた情報や記憶を編集しただけのことである。
大前提の話になるが、何も説明できない人事異動について納得などできない。組織の原理原則は徹底してほしいというのが私の考えである。
本当に納得がいかない話だったし、当時の事業局長と飲んだ時にB氏について切り出してみた。おそらく私は、こんな人事は覆らないんですか?というような質問をしたのだろう。すると返ってきた言葉は、産業医の言うことは社長でも反対できない、ということだった。産業医が、事業局に異動させないと快方に向かわない、などと言ったらそれに従うしかないというのである。
ここが私の一番の疑問なのだが、本人の言いなりになって希望の仕事をさせることによって病気が回復するなどということはあり得るのだろうか?
確かにその方が気持ちが楽になるかもしれない。しかしそれは、まだ治療法の確立できてなかった結核患者をサナトリウムに隔離して自然治癒を期待するようなやり方を連想してしまう。そもそも「健康」と「病気」との区別が困難な状態に対して具体的な対処法などあるはずがないのだ。
「あんなのが病気というなら、私も病気や!」
と吐き捨てた人もいたが、私も同感である。
さらに言わせてもらえば、
「病気病気と言うけれど、じゃあ五体満足になればバリバリ働くようになるのか?」
という疑問も常にあった。
少なくともB氏に関していえば、事業局に戻ってから水を得た魚のように働き出したという場面を確認することはなかった。彼について一番気になったのは、ある一つのイベントについてだけやたら熱を入れているという点だった。空いている時間があればそれに関する団体の事務所へ通って何時間も職場へ戻ってこない、ということもたびたびあった。
ある仕事について私は彼と一緒に行動しなければならない時もあったが、外に出てどこにいってるのかわからない状態も多く、彼に仕事を振ることはほとんどしなかった。具体的にいえば私が9割、彼にしてもらった作業は1割、そんなところだった。
そういう状況が続いていたので、少し嫌味のようなことを言ったら、
「渡部っち・・・それって、俺が仕事をしてないと言いたいわけぇ?」
などと、まさに働かない人間が口に出す常套句が出てきてガックリきたことも忘れられない。
彼が事業に戻ってきてからしばらく経った頃だろうか。あるイベントの時に、私の直属の上司がなにやらB氏についての話題をしていた。その時に聞いた内容が忘れられない。
「昔は別に病気のようなことはなかったんやけどなあ・・・。嫌いな仕事はしない奴やったけど」
組織人の立場で仕事を選り好みしていたという時点で、「あれはマズい奴だ」と上司は勘づくべきだったのではないだろうか。まあ、その程度の感覚しかなかったということだが。
仕事の内容などたいして関係が無い。もともと仕事をしない人間なのだ。
こういう情報が入ると、彼の「病気」の温床はずっと前から存在していたので
はないかと嫌でも思ってしまう。また、自分に合わない仕事があったら「こんなの私には無理ですわ」と言えばそれが通ってしまうような職場のあり方も拍車をかけていたのだろう。
ある時期にB氏がまとまった休みを取っていた時がある。噂を聞けば、沖縄に行ったというのだ。この辺も、それはちょっとなあ、と少なからず違和感を抱いた出来事だった。これは香山リカさんの『「私はうつ」と言いたがる人たち」(08年、PHP新書)にも似たようなことが書いていたが、自分は病気だ病気だと言っている立場の人が大っぴらにバカンスを楽しめるというのは何か整合性がともなっていない気がするのだ。人目を気にしていないというか、社会性が欠けているのだろう。
ここまできてもっと露骨なことを書かせてもらうが、
「僕は病気だし好きな仕事しかしたくないんけど、給料は満額欲しいし有休も消化したいです」
と彼が腹の中で思っているようでならなかったのだ。酷いことを言う奴だと憤る人もいるかもしれないが、いままでの事例を見てもらえばそう思っても仕方ないだろう。
私が彼に対して苦々しく思っていたもう一つの理由は、私が子会社の社員であり向こうは本社社員で立場の違いがあったことである。単に収入だけなら倍以上の差がついていた。「自称病気」という理由があるからといって、なぜもっと格下の立場の人間がその責任を負わなければならないのか?この場を借りて書くが、給料を多くもらってる人間が余計に働かないといけないのは当然である。しかし実際はコピペもできない人間が年収1000万をもらっていたというような、重篤なモラル・ハザードを引き起こす職場であった。
自分の希望の部署に戻り、好きなイベントだけやれる環境になりB氏は満足、かと端から見て思っていたら、ほどなくして「写真報道部に行きたい」と希望を出すようになったという話も聞いた。それについては現在のところ受け入れられていないようだが、B氏の仕事観もかなりデタラメなものだなと感じてしまう。
今回はかなり個人的な恨みつらみも書いてしまったが、具体的に事例を書いたほうが私の思うところも伝わりやすいと思いこういう手法を試してみた。
日本が右肩上がりの経済状態だった時は、仕事をしない社員をどう処遇するかという問題はあまり表面化しなかった。首を切る/切らないとかで問題を起こすくらいなら黙って賃金を払っていた方が良かったのだ。
しかし、今はもうそんな時代ではない。
「リストラ」と称した人員削減も経営手法の一つとして定着したし、若い人に目を向ければ就職もかつてに比べたら非常に厳しいものになっている。
端的にいえば、会社も社員も苦しくて余裕が無くなったのだ。そんな状況でB氏のような人たちに手を差し伸ばしてと言われても、私のような立場でそれは無理というものだ。実際の話、直属の上司に「あいつ病気やし、助けてやれや」などと頼まれたこともないのだから、何もしなくても問題ないはずだけどね。
そして今日の話に戻ればA氏も内勤の職場に移りたい、と休職する前に主張していたというのである。うわあ、どこかの誰かさんと同じ論理じゃねえの。
しかも、戻ってきた彼は不自然に顔が黒くなっているのが異様だ。まるで「丘サーファーで」ある。それを見た人が口々に、
「黒くなってますねえ」
と言い、ある人が、
「チャラ黒いよね(笑)」
とつぶやいたのが最高だった。チャラい感じのする黒さ、ということか。上手い!今年最高のフレーズだと思った。だが、彼が休職中をどう過ごしていたのかと思うと、また例の人と重なる気がしてくる。
明日以降の職場はどうなるのだろう。子会社の社員よりさらに格下の派遣社員の身になってからも、あの時のような思いを私はまた経験するのだろうか。そう考えると嫌な気持ちになって昼休みを過ごした。
そしてまた職場に戻ってくると、A氏の姿はなくなっていた。ボスの会話を聞いていたら、今日は初日だから2時間で終業となったそうである。会社も処遇に対して困ってるんだなあと同情する一方、こっちにも少しは情報を流せよとムッとしながら本日の業務を終えた次第である。
「ヒヤリ・ハット」の段階で済ませるために
2014年9月18日 お仕事 コメント (2)いましている仕事の内容は商品の出荷と入荷にともなう作業である。その作業のために必要な備品がいくつかある。ボールペン、検品印(ハンコ)、そしてカッター だ。それらを全て左胸のポケットに入れながら作業をしていたわけだが、身体をかがめている時に備品をボトボト落とすことがあり、自分でもそれが気になっていた。作業に支障が出るのはもちろん、そんなことを続けていればいずれ備品を無くすことになるだろう。
いや、既に2個あった検品印の一個は紛失しているし、ボールペンも2本ほどどっかに吹っ飛ばしている。そして先日は部屋から持ってきた自分のカッターがどこかに消えてしまった。
「このままではマズい。何か対策を立てなければ」
と思っていながらも特に何かすることもなく、ハンコやペンを落としながら作業を続けていた。
しかし連休明けの火曜日に、これは看過できないなと思われる出来事が起きた。
いつものように出勤して作業して15分ほど経った頃だろうか。届いた荷物をチェックしていた職場のボスが、
「これ・・・うちのカッターやないやろうなあ?」
と顔をしかめながら持っていたのは、先日私が見失った自前のカッターであった。
出荷の際にどこかの荷物の中に入って落としてしまい、それが返送されてきたようである。
「ああ・・・それは・・・僕のですけど・・・」
と恐る恐る言うと、
「それは・・・まずいで」
と渋い顔をしたまま、それはカッターの入った封筒らしく、その右下には、
「カッターの刃が出たまま入ってました。気をつけてください」
というメッセージが書かれていたのである。
「刃が出てたりしたら商品に傷がつくし、これからは絶対やめてや」
と言われ、
「はい、すいません」
と私も素直に謝って、
「商品に傷付いたらマズいなあ。やっぱりこれからは何か対策をとらないとなあ」
と思いながら作業に戻った。
しかしボスとしてはそれで気は収まらなかったようで、しばらくしてまた私の近くに寄って、小声でこんなことを言った。
「今回は・・・取引先のやさしいお姉さんだったから良かったけど、もし消費者にこれが行ってたら・・・何千万の損害賠償とか請求されていたかもしれないで。これからは気をつけてや」
鈍感な私でも、何千万の損害賠償、などと言われたら動揺してしまう。なんか額あたりに青い縦線が入ったような、そんな瞬間だった。
「失敗学」の専門家の畑村洋太郎(東京大学名誉教授)さんの何かの本で知ったのだが、「ヒヤリ・ハット」という言葉がある。重大な事件が起きる一歩手前でそれが発見されるという瞬間のことだ。事故になる寸前を経験して「ヒヤリ」としたとか「ハット」したという意味である。
さっきも書いた通り、これまで作業をしてきた過程で「ヒヤリ・ハット」の瞬間をいくつもやらかしている。そしてこれまでの経験からすれば、決定的なことしでかす危険性もかなり大きい気がする。少なくともカッターを荷物とともに入れることは十分にあり得る。
原因はもうわかっている。ポケットのような場所にカッターを入れて作業をしているからだ。もうそれで1日に何度も落としているし、ここをどうにかしないといけない。
それで最近は文房具店などにいって、ポケットに代わる文房具入れがないかと探している。首にぶらさがるようなものが良いかと思っているが適当なものは見つからない。
だからといって、年配の男性のようにウエストポーチを腰に付けるのはちょっと格好悪いだろうなあ。
いや、既に2個あった検品印の一個は紛失しているし、ボールペンも2本ほどどっかに吹っ飛ばしている。そして先日は部屋から持ってきた自分のカッターがどこかに消えてしまった。
「このままではマズい。何か対策を立てなければ」
と思っていながらも特に何かすることもなく、ハンコやペンを落としながら作業を続けていた。
しかし連休明けの火曜日に、これは看過できないなと思われる出来事が起きた。
いつものように出勤して作業して15分ほど経った頃だろうか。届いた荷物をチェックしていた職場のボスが、
「これ・・・うちのカッターやないやろうなあ?」
と顔をしかめながら持っていたのは、先日私が見失った自前のカッターであった。
出荷の際にどこかの荷物の中に入って落としてしまい、それが返送されてきたようである。
「ああ・・・それは・・・僕のですけど・・・」
と恐る恐る言うと、
「それは・・・まずいで」
と渋い顔をしたまま、それはカッターの入った封筒らしく、その右下には、
「カッターの刃が出たまま入ってました。気をつけてください」
というメッセージが書かれていたのである。
「刃が出てたりしたら商品に傷がつくし、これからは絶対やめてや」
と言われ、
「はい、すいません」
と私も素直に謝って、
「商品に傷付いたらマズいなあ。やっぱりこれからは何か対策をとらないとなあ」
と思いながら作業に戻った。
しかしボスとしてはそれで気は収まらなかったようで、しばらくしてまた私の近くに寄って、小声でこんなことを言った。
「今回は・・・取引先のやさしいお姉さんだったから良かったけど、もし消費者にこれが行ってたら・・・何千万の損害賠償とか請求されていたかもしれないで。これからは気をつけてや」
鈍感な私でも、何千万の損害賠償、などと言われたら動揺してしまう。なんか額あたりに青い縦線が入ったような、そんな瞬間だった。
「失敗学」の専門家の畑村洋太郎(東京大学名誉教授)さんの何かの本で知ったのだが、「ヒヤリ・ハット」という言葉がある。重大な事件が起きる一歩手前でそれが発見されるという瞬間のことだ。事故になる寸前を経験して「ヒヤリ」としたとか「ハット」したという意味である。
さっきも書いた通り、これまで作業をしてきた過程で「ヒヤリ・ハット」の瞬間をいくつもやらかしている。そしてこれまでの経験からすれば、決定的なことしでかす危険性もかなり大きい気がする。少なくともカッターを荷物とともに入れることは十分にあり得る。
原因はもうわかっている。ポケットのような場所にカッターを入れて作業をしているからだ。もうそれで1日に何度も落としているし、ここをどうにかしないといけない。
それで最近は文房具店などにいって、ポケットに代わる文房具入れがないかと探している。首にぶらさがるようなものが良いかと思っているが適当なものは見つからない。
だからといって、年配の男性のようにウエストポーチを腰に付けるのはちょっと格好悪いだろうなあ。
渡辺美里「Baby Faith」(94年)
2014年9月10日 渡辺美里 コメント (2)
少し前にも触れたが、現在の渡辺美里はデビュー30周年に入っている。
かつて私は個人サイトを作ったことがあり、それに合わせてブログというものも始めたわけだが、その目的の一つが彼女についての文章を書いて載せることがあった。しかしながら誰かに強制されるというわけでもないし、まとまった文章を書くのもけっこう手間だし、ほとんど何もしないまま現在にいたってしまった。サイトはinfoseekの無料サービスを借りていたのだが、いつの間にやらサービス終了で消えてしまっている。よって、いま自分のサイトというのは持っていない。
彼女の作品についてブログに書いたこともあるが、「ribbon」(88年)や「BIG WAVE」(93年)など、片手で数えられるほどしかない。ただ、「ribbon」や「BIG WAVE」で検索してここを辿り着く人が毎週のように存在する。それはひとえに、ネット上で彼女についての情報が乏しいからに違いない。
いまさら渡辺美里について語ることなどあるのだろうか。そういう思いも無いわけではないが、自分の頭の中にあるもの何かの形で残したい気持ちも消えていない。そういうわけで、デビュー30周年の間にできるだけのことはしたいと思う。たぶんいまから5年後のデビュー35周年の頃には私の気持ちやテンションが今より上がっている可能性も低いだろう。
その足がかりに、今回は今から20年前に発売されたアルバム「Baby Faith」(94年)を、当時の思い出を交えながら触れてみたい。私の日記としてはかなり長い部類になるので、少しずつ区切って書いていく。
◯「BIG WAVE」発売以後
1993年というのは、私が渡辺美里の「信者」を辞めた年であり、その点で個人的には節目といえる年であった。「BIG WAVE」についてはブログで書いてあるので参照いただきたい。
渡辺美里「BIG WAVE」(93年)
http://30771.diarynote.jp/201104231407489768/
このアルバムを聴いて「信者」を辞めはしたものの、かといって彼女に代わる存在もいないというモヤモヤした状態がずっと続いていた。そしてその気持ちは1993年12月19日(日)北海道厚生年金会館におこなわれた『misato BIG WAVE TOUR ’93 』の札幌公演を観た時も変わることはなかった。
ネットでライブについて調べてみたら、なんとその日の演奏曲目を載せている人がいた。
YUMENO BLOG ~ 愛した季節の薫り 孤高のフォークシンガー・松山千春の世界を綴ろう~ 夢野旅人
http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11442652277.html
なかなか貴重な情報なので、この場所でも曲目を引用しておく。
~イントロダクション~
01.ジャングル チャイルド
02.IT’S TOUGH
03.恋するパンクス
04.夏が来た!
05.BELIEVE
06.PAJAMA TIME
07.若きモンスターの逆襲
08.BOYS CRIED(あの時からかもしれない)
09.JUMP
~インストゥルメンタル~
10.虹をみたかい
11.やるじゃん女の子
12.BORN TO SKIP
13.I WILL BE ALRIGHT
14.19才の秘かな欲望~NEWS ~
15.ブランニューヘヴン
16.BIGWAVEやってきた
--- --encore01---
17.Oh! ダーリン
18.恋したっていいじゃない
19.GROWIN’ UP
--- ---encore02---
20.いつかきっと
21.My Revolution(アカペラ)
これを書いている方は、
<渡辺美里 27歳。 この人に、限界という言葉はないんじゃないか。 そう思えるライブだった。 過去のライブを容易く乗り越えていく。 1993年は、間違いなく渡辺美里の黄金期だったと思う。>
と褒めちぎっているけれど、私はまったくそんな感想を抱けなかった。「生涯最高のライブ」とまで感じた(それは現在も変わらない)前年の「スタジアム伝説」(1992年8月18日、真駒内アイスアリーナ)を観たときに得た高揚感とは比較のしようもない内容であったからだ。いや別に悪くもなかったのだけど、それ以上のものはなかった。それはアルバム「BIG WAVE 」を聴いた印象と一致する。
大好きな”Pajama Time” や”いつかきっと”などの曲が聴けて良かったとか、最後の”いつかきっと”の途中で泣いて歌えなくなり、そのお詫びだったのか、最後でアカペラの”My Revolution”を一節だけ披露した(今では信じられない話だろうが、当時は”My Revolution”や”10years”はライブで必ず歌われる曲ではなかった)ことが断片的に印象に残っているが、全体としては観る者を圧倒させる内容ではなかった。
ともかく新作もアルバムも不完全燃焼という感じを抱きながら、私の1993年が終わった。当時の私は高校2年、クラスではいじめの前段階のような状態にあり円形脱毛症ができたこともあった。振り返ってもろくな思い出がない年である。あまり本題とは関係の無い話であるが。
◯2枚の先行シングル
94年に入ってしばらくは彼女についての記憶はあまり残っていない。3月21日に93年のライブなどが収められた映像作品「Misato Born8 Brand New Heaven」(VHSのビデオテープの時代だ)が出て、すぐ買ったものの通して観たのは1回くらいだったと思う(中身の記憶については全くない)。
そうしているうちに、”真夏のサンタクロース”という新曲が出るという情報が入ってきた。しかもショッキングなことに、またしてもあの小林武史が関わっているというのである。
この時点で、
「今回ももう駄目だな」
と勝手に決めつけてしまった。5月21日が発売日だから前日の20日に買ったわけだが、調べてみるとこの日は「ミュージック・ステーション」(テレビ朝日系列)に出演して新曲を披露している。
それからしばらくして「Baby Faith」という新作アルバムが9月7日に発売されるという情報が入る(これについては何も覚えてないが、音楽雑誌で知ったのだろう)。その先行シングルとして”チェリーが3つ並ばない”が8月1日に発売された。この曲はその発売日の前の7月29日に「ミュージック・ステーション」で披露されたが、”真夏のサンタクロース”以上に印象の薄い曲、というのが率直な感想だった。この時点でもう新作に対する期待はゼロに近くなった。先行シングル2枚がパッとしないのにアルバムの内容が良いという可能性は極めて低いと考えるのが自然だろう。
しかし、ここから事態が思わぬ方向へと流れていく。きっかけは徳永英明のラジオ番組(放送日はわからないが、FM東京系列の「徳永英明のRadio days」)に彼女がゲストで出て、「Baby Faith」の収録曲が紹介され、ここで初めて”初恋”と”Baby”を聴いた時だった。
「え?」
とラジオに顔を向けた。
「これは・・・前作とは勝手が違うのでは?」
と思いを新たにした。そしてアルバムの出荷日である9月6日に、学校から買える途中で「Baby Faith」(初回限定版)を手にして居間のコンポで聴いてみた。もう記憶はかなり薄れているけれど、1曲目の”あなたの全部”から”20th Century Children”までの流れを聴いた時に、
「今回は・・・良い!」
そう確信して安堵したのは間違いない。
ここまで「BIG WAVE」発売から「Baby Faith」発売日に至るところの流れを具体的に書いてきたが、当時の自分は北海道という僻地にいながらもテレビやラジオや雑誌を追いかけて、可能な限り彼女について情報を集めていたのだと実感した。
もはや自分は「信者」ではなかったはずだが、これだけ熱意をそそいだ存在はおそらく人生最初で最後だろう。それは私がまだ18歳と若かったから、というだけではない。彼女から与えられたものがあまりに大きかったとしか言うしかない。
◯「Baby Faith」アルバム概説
「Baby Faith」は94年9月7日に発売された、渡辺美里の9枚目(92年のセルフ・カバーアルバム「HELLO LOVERS」を勘定に入れなければ8枚目)のアルバムである。
プロデューサーは前作「BIG WAVE」(93年)に続いて、サザンオールスターズやミスター・チルドレンで知られる小林武史が手掛けた。「BIG WAVE」で書いた通りだが、小林武史と組んだというのは悪い意味で転機となったというのが私の見解である。だから今回もまた彼の名前が出た時はかなり失望したものだ。
しかしながら、本作は「BIG WAVE」で失ってしまった彼女の持つ力強さ・せつなさ・可愛らしさといった要素、端的にいえば「渡辺美里らしさ」がかなりの部分を取り戻している。彼女自身も「BIG WAVE」については不完全燃焼の感があったらしい。小林武史のいいようにされたのかもしれないが、今回はその小林すらも飲み込んで自分のカラーを押し出すことに成功している。
これを聴いた時には、
「渡辺美里が帰ってきた!」
と快哉を叫んだくらいだ。
しかしながらチャート的には、ブレイクしたばかりミスター・チルドレンの「アトミック・ハート」に首位の座を奪われる結果となった(最高位は2位)。「Lovin’ You」(86年)から8年続いたアルバム・チャート1位の記録もここで途絶え、売上げについても60万枚を売り上げていた前作を大幅に下回る(35.1万枚)。
今も昔も、時代を先取りしようとかトレンドに乗ろうとかいったことを考えて音楽を聴いたこともほとんど無い。
しかしそんな自分にとってもこの時は、
「なんだか時代が変わってきたようだな・・・」
と、世代交代のようなものを感じさせる光景であった。
これ以後も彼女は大きなブランクも無く活動を続けているわけだが、勢いや力を徐々に失っていくことになる。
今回この文章を書くために個々の楽曲をくり返し聴いたり歌詞カードを眺めたりしたわけだが、、その「渡辺美里らしさ」が無くなっていく序章のような部分も見て取れて、なんともやり切れない気持ちも出てきた。「BIG WAVE」以後の彼女が何を失ったかについては、最後の楽曲メモで触れてみることにする。
当時はまだ彼女に対する思いがかなり大きかったため、昔の思い出を書くだけでずいぶん長いものと鳴ってしまった。ただ、この20年間に出した作品では最高傑作と位置づけることは美里ファンの間でも異論は無い内容だとは断言したい。
◯個々の楽曲についてのメモ
(1)あなたの全部(作詞:渡辺美里 作曲・編曲:小林武史)
アルバムの冒頭は、シングル未収録のこの曲から始まる。
<深呼吸して見送る
悲しい決意で
発車のベルがホームに響く>
と別れの場面を歌っているがそれと同時に、
<夕立のあとぬけるよな 青空 広がる
新しい靴 人の波 背のびしていた>
という清々しい情景を交え、全体的にはせつないながらも爽やかという、彼女らしい歌である。
(2)20th Century Children(作詞:渡辺美里 作曲:渡辺美里/小林武史 編曲:小林武史)
浦沢直樹のマンガ「本格冒険漫画 20世紀少年」の作品名は、T・レックスの73年のヒット曲”20th Century Boy”に因んだものであるが、この”20th Century Children”もそうなのだろう。アレンジや曲調もなんとなくT・レックスを連想させる。
さきほど「渡辺美里らしさ」という表現を使ったが、この曲についてはその「らしさ」が損なわれている箇所が目立つ。
例えば、
<NO.1ギャングスターきどっても マシンガンがない>
というところは、無理やりに言葉を詰め込んだような部分が違和感を抱くというか、自分に耳にはスッと入り切れないのである。
かつては明瞭簡潔な言葉を使って写実的な美しい情景を描いたが、「BIG WAVE」での路線変更からはそのあたりが上手くできなくなった感がある。ただ曲全体としては彼女の力強い声と演奏が良く合っている。
(3)真夏のサンタクロース(作詞:渡辺美里 作曲:渡辺美里/佐橋佳幸 編曲:小林武史)
前述したがアルバム先行シングルの1枚(最高位は14位)。アコースティック・ギターのリズムを軸にしたアレンジがあっさりし過ぎてシングルしては弱いなあと当時は感じた気がする。ただ、歌詞については見るべきところがある。
彼女について否定的な印象をもつ理由の一つに、その世界観の青さというか幼さがあるだろう。しかしそもそも話であるが、ロックやポップスなどというのはティーンネイジャーに捧げる音楽である。「大人のロック」などというのは矛盾した語義である。大半の大人というのは、そうした音楽そのものを聴かなくなるのではないか。
渡辺美里は当時28歳であり、聴く方にとっても「いまさらロックやポップスなんて・・・」と思うようになり、それで彼女の歌から離れていったという側面もあったのではないだろうか。
この曲の中に出てくる、
<友達は五月に
子供が生まれ
友達のひとりはもう返らない>
という一節は、10代の人間の視点ではなくもっと年月を重ねている人のそれだろう。この曲は従来の彼女の世界観を保ちつつ30代や40代の人たちのための歌を作っていける可能性を示唆している。むろんファン離れの理由はそれだけでは無いのだけど、こうした世界を確立していけば、年齢を重ねていく支持者の心ももう少しつなぎ止められたのではないか。この曲を聴くたびにそんな無念さを勝手に感じることがある。
(4)SHOUT[ココロの花びら](作詞:渡辺美里 作曲:みやもとこうじ 編曲:小林武史)
現在のライブでたまに披露されていて本人は割と気に入ってるのかもしれないが、個人的にはあまり好きではない。歌詞はストリート感覚を出そうと試みたのかもしれないが、それは優等生的な彼女のイメージとはいま一つそぐわない気がする。
それ以上に、
<刹那的なまなざしはインスタントでチープなサヴォタージュ
反逆は静脈に針さすことでは満たされないだろう>
あたりの言葉の詰め込み方は、いつ聴いても流れが悪く無理があるように感じる。「Baby Faith」は自分の中でよく聴いているアルバムの一つだが、どうにも「BIG WAVE」以前の作品と並べる気になれないのはこの歌詞の使い方が大きい。
(5)初恋(作詞:渡辺美里 作曲:みやもとこうじ 編曲:小林武史)
歌いっぷりについてはこの曲が本作のベストだろう。前述した徳永英明のラジオの中でこれを初めて聴いたとき少なからぬショックを受けたことを今でも覚えている。
当時どこかの音楽雑誌で彼女がアルバムの個々の楽曲についてコメントがあったが、”初恋”は「ハード・ロック」だと確か書いてあった。
しかしパッと聴いた感じは、
<野原越えて 山越えて
あの丘 いっしょに登ろう
大きな くりの木の向こう
なつかしい 校舎見える>
という歌詞のように、いかにも日本的情緒のある光景である。後半の力強い歌声でドラマティックにもっていく流れはいま聴いても圧巻だ。こうした世界を作り上げることのできる表現者は他に思い当たらない。
生で聴く機会は無いだろうと勝手に思っていたが、06年に山梨で行われた野外ライブで披露し本当に驚かされた。
(6)CHANGE(作詞:渡辺美里 作曲・編曲:小林武史)
冒頭に「ヘイヘイ、ヘイヘイ」と船をこぐ時の掛け声のようなコーラスが出てくる。歌詞には航海をイメージする言葉がちらつくが、航海そのものというよりも新しい場所へ旅立つようなテーマとなっている気がする。
<20世紀も終わりに近い>
という一節は、1994年に聴いた当時は不思議に印象に残ったことが忘れられない。言葉遣いや楽曲は「BIG WAVE」の延長線上にありそれほど特色があるとも思えないが、前作よりも歌声がずっと伸び伸びとしているのが救いとなっている。
(7)BABY(作詞:渡辺美里 作曲:渡辺美里/佐橋佳幸 編曲:小林武史)
これはギターでないと出来ないメロディだと雑誌の楽曲解説で言っていたことを覚えている。
<BABYの部分 こわれたハートの真ん中で
みんな 抱きしめてる 宝物
BABYの部分 ずっとなくしちゃダメだよ
がんばって輝いていなくちゃ>
という、活字に起こしてみるとなんともたわいもない印象を受ける歌詞だが、エレキギターのカッティングと彼女の歌声がグイグイと引っ張る、可愛らしさ満開の曲である。ラジオで初めて聴いた時は”初恋”と同様に、いま聴いても胸が締め付けられるような思いのする本作のハイライトである。
(8)チェリーが3つ並ばない(作詞:渡辺美里 作曲:石井恭史 編曲:小林武史)
アルバムの先行シングルであり現在もライブではよく歌われる曲だが、初めてテレビで聴いた時から現在に至るまで、さっぱり良さがわからない。ホーン・セクションのほか様々な効果音を曲中に挿入し賑やかな雰囲気を出しているが、いま一つパッとしない仕上がりになっているのは肝心の楽曲が平凡なためだろうか。
こういう機会なので記してみるが、ライブで演奏されたらテンションの下がる個人的「3大ガッカリ」はこの曲と”ジャングル チャイルド”、そして”スピリッツ”である。
(9)こんな風の日には(作詞:渡辺美里 作曲:みやもとこうじ 編曲:Richard Dodd)
シングル”チェリーが3つ並ばない”のカップリング曲という扱いだったが、自分にとってはこちらの方が気に入っていた。力強いドラムのビートがゆっくりと盛り上げていく楽曲だがその中に、
<捨てねこ みないふりして
遠回りしても鳴き声が
耳からはなれない>
という切ない歌詞が入ったり、
<一番星と書かれたトラックが
はねをあげながら走り去ってゆく
朝の光につつまれて くじけそうな心と
青いかさ空高く とばしてみたい
こんな風の日には>
というような清新な光景が出てくるのが素晴らしい。一度ライブで聴いてみたいと秘かに願っている曲の一つである。
(10)ムーンライト ピクニック(作詞:渡辺美里 作曲:渡辺美里/佐橋佳幸 編曲:小林武史)
こちらはシングル”真夏のサンタクロース”のカップリングで、アコースティック・ギターが繰り出す軽快なジャングル・ビートに乗って、夜の街へ飛び出そうと、歌う。「SHOUT」のような妙なストリート感覚もなく、言葉の回りも悪くない。ライブ映えしそうだが実際にはほとんど演奏されておらず、私も2007年の時に2回(横浜、熊本)しかライブで聴いたことがない曲である。
(11)I Wish(作詞:渡辺美里 作曲・編曲:小室哲哉)
小室哲哉が提供した現在のところ最後の曲、と少し前まで思っていたが、91年のアルバム「Lucky」制作時にはできていたということをネットで知った。「Lucky」に収録するのには雰囲気が違うという判断だったのだろう。では、本当に二人が最後に共同作業をしたのは92年の”青空”が最後ということになるか。私にとっては別にこの二人のコンビが最高とも思っていないのであまり関心もないけれど。
<きみが飛び出した夜 冷たい雨 木々をぬらし
あの日新聞から 昭和という文字が消えた>
という歌詞は、昭和から平成へと年号が変わってまもない時期に作られた曲であることを示唆している。
アコースティック・ギターが主体なアレンジで打ち込みは使用されておらず、小室哲哉のカラーはあまり感じない。全体的に大人しく湿っぽい調子で、確かに鮮やかで力強い「Lucky」の世界観とはそぐわないだろう。むしろ次のオリジナル・アルバム「Spirits」(96年)、楽曲でいえば”キャッチボール”あたりの雰囲気に似ている気がする。
かつて私は個人サイトを作ったことがあり、それに合わせてブログというものも始めたわけだが、その目的の一つが彼女についての文章を書いて載せることがあった。しかしながら誰かに強制されるというわけでもないし、まとまった文章を書くのもけっこう手間だし、ほとんど何もしないまま現在にいたってしまった。サイトはinfoseekの無料サービスを借りていたのだが、いつの間にやらサービス終了で消えてしまっている。よって、いま自分のサイトというのは持っていない。
彼女の作品についてブログに書いたこともあるが、「ribbon」(88年)や「BIG WAVE」(93年)など、片手で数えられるほどしかない。ただ、「ribbon」や「BIG WAVE」で検索してここを辿り着く人が毎週のように存在する。それはひとえに、ネット上で彼女についての情報が乏しいからに違いない。
いまさら渡辺美里について語ることなどあるのだろうか。そういう思いも無いわけではないが、自分の頭の中にあるもの何かの形で残したい気持ちも消えていない。そういうわけで、デビュー30周年の間にできるだけのことはしたいと思う。たぶんいまから5年後のデビュー35周年の頃には私の気持ちやテンションが今より上がっている可能性も低いだろう。
その足がかりに、今回は今から20年前に発売されたアルバム「Baby Faith」(94年)を、当時の思い出を交えながら触れてみたい。私の日記としてはかなり長い部類になるので、少しずつ区切って書いていく。
◯「BIG WAVE」発売以後
1993年というのは、私が渡辺美里の「信者」を辞めた年であり、その点で個人的には節目といえる年であった。「BIG WAVE」についてはブログで書いてあるので参照いただきたい。
渡辺美里「BIG WAVE」(93年)
http://30771.diarynote.jp/201104231407489768/
このアルバムを聴いて「信者」を辞めはしたものの、かといって彼女に代わる存在もいないというモヤモヤした状態がずっと続いていた。そしてその気持ちは1993年12月19日(日)北海道厚生年金会館におこなわれた『misato BIG WAVE TOUR ’93 』の札幌公演を観た時も変わることはなかった。
ネットでライブについて調べてみたら、なんとその日の演奏曲目を載せている人がいた。
YUMENO BLOG ~ 愛した季節の薫り 孤高のフォークシンガー・松山千春の世界を綴ろう~ 夢野旅人
http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11442652277.html
なかなか貴重な情報なので、この場所でも曲目を引用しておく。
~イントロダクション~
01.ジャングル チャイルド
02.IT’S TOUGH
03.恋するパンクス
04.夏が来た!
05.BELIEVE
06.PAJAMA TIME
07.若きモンスターの逆襲
08.BOYS CRIED(あの時からかもしれない)
09.JUMP
~インストゥルメンタル~
10.虹をみたかい
11.やるじゃん女の子
12.BORN TO SKIP
13.I WILL BE ALRIGHT
14.19才の秘かな欲望~NEWS ~
15.ブランニューヘヴン
16.BIGWAVEやってきた
--- --encore01---
17.Oh! ダーリン
18.恋したっていいじゃない
19.GROWIN’ UP
--- ---encore02---
20.いつかきっと
21.My Revolution(アカペラ)
これを書いている方は、
<渡辺美里 27歳。 この人に、限界という言葉はないんじゃないか。 そう思えるライブだった。 過去のライブを容易く乗り越えていく。 1993年は、間違いなく渡辺美里の黄金期だったと思う。>
と褒めちぎっているけれど、私はまったくそんな感想を抱けなかった。「生涯最高のライブ」とまで感じた(それは現在も変わらない)前年の「スタジアム伝説」(1992年8月18日、真駒内アイスアリーナ)を観たときに得た高揚感とは比較のしようもない内容であったからだ。いや別に悪くもなかったのだけど、それ以上のものはなかった。それはアルバム「BIG WAVE 」を聴いた印象と一致する。
大好きな”Pajama Time” や”いつかきっと”などの曲が聴けて良かったとか、最後の”いつかきっと”の途中で泣いて歌えなくなり、そのお詫びだったのか、最後でアカペラの”My Revolution”を一節だけ披露した(今では信じられない話だろうが、当時は”My Revolution”や”10years”はライブで必ず歌われる曲ではなかった)ことが断片的に印象に残っているが、全体としては観る者を圧倒させる内容ではなかった。
ともかく新作もアルバムも不完全燃焼という感じを抱きながら、私の1993年が終わった。当時の私は高校2年、クラスではいじめの前段階のような状態にあり円形脱毛症ができたこともあった。振り返ってもろくな思い出がない年である。あまり本題とは関係の無い話であるが。
◯2枚の先行シングル
94年に入ってしばらくは彼女についての記憶はあまり残っていない。3月21日に93年のライブなどが収められた映像作品「Misato Born8 Brand New Heaven」(VHSのビデオテープの時代だ)が出て、すぐ買ったものの通して観たのは1回くらいだったと思う(中身の記憶については全くない)。
そうしているうちに、”真夏のサンタクロース”という新曲が出るという情報が入ってきた。しかもショッキングなことに、またしてもあの小林武史が関わっているというのである。
この時点で、
「今回ももう駄目だな」
と勝手に決めつけてしまった。5月21日が発売日だから前日の20日に買ったわけだが、調べてみるとこの日は「ミュージック・ステーション」(テレビ朝日系列)に出演して新曲を披露している。
それからしばらくして「Baby Faith」という新作アルバムが9月7日に発売されるという情報が入る(これについては何も覚えてないが、音楽雑誌で知ったのだろう)。その先行シングルとして”チェリーが3つ並ばない”が8月1日に発売された。この曲はその発売日の前の7月29日に「ミュージック・ステーション」で披露されたが、”真夏のサンタクロース”以上に印象の薄い曲、というのが率直な感想だった。この時点でもう新作に対する期待はゼロに近くなった。先行シングル2枚がパッとしないのにアルバムの内容が良いという可能性は極めて低いと考えるのが自然だろう。
しかし、ここから事態が思わぬ方向へと流れていく。きっかけは徳永英明のラジオ番組(放送日はわからないが、FM東京系列の「徳永英明のRadio days」)に彼女がゲストで出て、「Baby Faith」の収録曲が紹介され、ここで初めて”初恋”と”Baby”を聴いた時だった。
「え?」
とラジオに顔を向けた。
「これは・・・前作とは勝手が違うのでは?」
と思いを新たにした。そしてアルバムの出荷日である9月6日に、学校から買える途中で「Baby Faith」(初回限定版)を手にして居間のコンポで聴いてみた。もう記憶はかなり薄れているけれど、1曲目の”あなたの全部”から”20th Century Children”までの流れを聴いた時に、
「今回は・・・良い!」
そう確信して安堵したのは間違いない。
ここまで「BIG WAVE」発売から「Baby Faith」発売日に至るところの流れを具体的に書いてきたが、当時の自分は北海道という僻地にいながらもテレビやラジオや雑誌を追いかけて、可能な限り彼女について情報を集めていたのだと実感した。
もはや自分は「信者」ではなかったはずだが、これだけ熱意をそそいだ存在はおそらく人生最初で最後だろう。それは私がまだ18歳と若かったから、というだけではない。彼女から与えられたものがあまりに大きかったとしか言うしかない。
◯「Baby Faith」アルバム概説
「Baby Faith」は94年9月7日に発売された、渡辺美里の9枚目(92年のセルフ・カバーアルバム「HELLO LOVERS」を勘定に入れなければ8枚目)のアルバムである。
プロデューサーは前作「BIG WAVE」(93年)に続いて、サザンオールスターズやミスター・チルドレンで知られる小林武史が手掛けた。「BIG WAVE」で書いた通りだが、小林武史と組んだというのは悪い意味で転機となったというのが私の見解である。だから今回もまた彼の名前が出た時はかなり失望したものだ。
しかしながら、本作は「BIG WAVE」で失ってしまった彼女の持つ力強さ・せつなさ・可愛らしさといった要素、端的にいえば「渡辺美里らしさ」がかなりの部分を取り戻している。彼女自身も「BIG WAVE」については不完全燃焼の感があったらしい。小林武史のいいようにされたのかもしれないが、今回はその小林すらも飲み込んで自分のカラーを押し出すことに成功している。
これを聴いた時には、
「渡辺美里が帰ってきた!」
と快哉を叫んだくらいだ。
しかしながらチャート的には、ブレイクしたばかりミスター・チルドレンの「アトミック・ハート」に首位の座を奪われる結果となった(最高位は2位)。「Lovin’ You」(86年)から8年続いたアルバム・チャート1位の記録もここで途絶え、売上げについても60万枚を売り上げていた前作を大幅に下回る(35.1万枚)。
今も昔も、時代を先取りしようとかトレンドに乗ろうとかいったことを考えて音楽を聴いたこともほとんど無い。
しかしそんな自分にとってもこの時は、
「なんだか時代が変わってきたようだな・・・」
と、世代交代のようなものを感じさせる光景であった。
これ以後も彼女は大きなブランクも無く活動を続けているわけだが、勢いや力を徐々に失っていくことになる。
今回この文章を書くために個々の楽曲をくり返し聴いたり歌詞カードを眺めたりしたわけだが、、その「渡辺美里らしさ」が無くなっていく序章のような部分も見て取れて、なんともやり切れない気持ちも出てきた。「BIG WAVE」以後の彼女が何を失ったかについては、最後の楽曲メモで触れてみることにする。
当時はまだ彼女に対する思いがかなり大きかったため、昔の思い出を書くだけでずいぶん長いものと鳴ってしまった。ただ、この20年間に出した作品では最高傑作と位置づけることは美里ファンの間でも異論は無い内容だとは断言したい。
◯個々の楽曲についてのメモ
(1)あなたの全部(作詞:渡辺美里 作曲・編曲:小林武史)
アルバムの冒頭は、シングル未収録のこの曲から始まる。
<深呼吸して見送る
悲しい決意で
発車のベルがホームに響く>
と別れの場面を歌っているがそれと同時に、
<夕立のあとぬけるよな 青空 広がる
新しい靴 人の波 背のびしていた>
という清々しい情景を交え、全体的にはせつないながらも爽やかという、彼女らしい歌である。
(2)20th Century Children(作詞:渡辺美里 作曲:渡辺美里/小林武史 編曲:小林武史)
浦沢直樹のマンガ「本格冒険漫画 20世紀少年」の作品名は、T・レックスの73年のヒット曲”20th Century Boy”に因んだものであるが、この”20th Century Children”もそうなのだろう。アレンジや曲調もなんとなくT・レックスを連想させる。
さきほど「渡辺美里らしさ」という表現を使ったが、この曲についてはその「らしさ」が損なわれている箇所が目立つ。
例えば、
<NO.1ギャングスターきどっても マシンガンがない>
というところは、無理やりに言葉を詰め込んだような部分が違和感を抱くというか、自分に耳にはスッと入り切れないのである。
かつては明瞭簡潔な言葉を使って写実的な美しい情景を描いたが、「BIG WAVE」での路線変更からはそのあたりが上手くできなくなった感がある。ただ曲全体としては彼女の力強い声と演奏が良く合っている。
(3)真夏のサンタクロース(作詞:渡辺美里 作曲:渡辺美里/佐橋佳幸 編曲:小林武史)
前述したがアルバム先行シングルの1枚(最高位は14位)。アコースティック・ギターのリズムを軸にしたアレンジがあっさりし過ぎてシングルしては弱いなあと当時は感じた気がする。ただ、歌詞については見るべきところがある。
彼女について否定的な印象をもつ理由の一つに、その世界観の青さというか幼さがあるだろう。しかしそもそも話であるが、ロックやポップスなどというのはティーンネイジャーに捧げる音楽である。「大人のロック」などというのは矛盾した語義である。大半の大人というのは、そうした音楽そのものを聴かなくなるのではないか。
渡辺美里は当時28歳であり、聴く方にとっても「いまさらロックやポップスなんて・・・」と思うようになり、それで彼女の歌から離れていったという側面もあったのではないだろうか。
この曲の中に出てくる、
<友達は五月に
子供が生まれ
友達のひとりはもう返らない>
という一節は、10代の人間の視点ではなくもっと年月を重ねている人のそれだろう。この曲は従来の彼女の世界観を保ちつつ30代や40代の人たちのための歌を作っていける可能性を示唆している。むろんファン離れの理由はそれだけでは無いのだけど、こうした世界を確立していけば、年齢を重ねていく支持者の心ももう少しつなぎ止められたのではないか。この曲を聴くたびにそんな無念さを勝手に感じることがある。
(4)SHOUT[ココロの花びら](作詞:渡辺美里 作曲:みやもとこうじ 編曲:小林武史)
現在のライブでたまに披露されていて本人は割と気に入ってるのかもしれないが、個人的にはあまり好きではない。歌詞はストリート感覚を出そうと試みたのかもしれないが、それは優等生的な彼女のイメージとはいま一つそぐわない気がする。
それ以上に、
<刹那的なまなざしはインスタントでチープなサヴォタージュ
反逆は静脈に針さすことでは満たされないだろう>
あたりの言葉の詰め込み方は、いつ聴いても流れが悪く無理があるように感じる。「Baby Faith」は自分の中でよく聴いているアルバムの一つだが、どうにも「BIG WAVE」以前の作品と並べる気になれないのはこの歌詞の使い方が大きい。
(5)初恋(作詞:渡辺美里 作曲:みやもとこうじ 編曲:小林武史)
歌いっぷりについてはこの曲が本作のベストだろう。前述した徳永英明のラジオの中でこれを初めて聴いたとき少なからぬショックを受けたことを今でも覚えている。
当時どこかの音楽雑誌で彼女がアルバムの個々の楽曲についてコメントがあったが、”初恋”は「ハード・ロック」だと確か書いてあった。
しかしパッと聴いた感じは、
<野原越えて 山越えて
あの丘 いっしょに登ろう
大きな くりの木の向こう
なつかしい 校舎見える>
という歌詞のように、いかにも日本的情緒のある光景である。後半の力強い歌声でドラマティックにもっていく流れはいま聴いても圧巻だ。こうした世界を作り上げることのできる表現者は他に思い当たらない。
生で聴く機会は無いだろうと勝手に思っていたが、06年に山梨で行われた野外ライブで披露し本当に驚かされた。
(6)CHANGE(作詞:渡辺美里 作曲・編曲:小林武史)
冒頭に「ヘイヘイ、ヘイヘイ」と船をこぐ時の掛け声のようなコーラスが出てくる。歌詞には航海をイメージする言葉がちらつくが、航海そのものというよりも新しい場所へ旅立つようなテーマとなっている気がする。
<20世紀も終わりに近い>
という一節は、1994年に聴いた当時は不思議に印象に残ったことが忘れられない。言葉遣いや楽曲は「BIG WAVE」の延長線上にありそれほど特色があるとも思えないが、前作よりも歌声がずっと伸び伸びとしているのが救いとなっている。
(7)BABY(作詞:渡辺美里 作曲:渡辺美里/佐橋佳幸 編曲:小林武史)
これはギターでないと出来ないメロディだと雑誌の楽曲解説で言っていたことを覚えている。
<BABYの部分 こわれたハートの真ん中で
みんな 抱きしめてる 宝物
BABYの部分 ずっとなくしちゃダメだよ
がんばって輝いていなくちゃ>
という、活字に起こしてみるとなんともたわいもない印象を受ける歌詞だが、エレキギターのカッティングと彼女の歌声がグイグイと引っ張る、可愛らしさ満開の曲である。ラジオで初めて聴いた時は”初恋”と同様に、いま聴いても胸が締め付けられるような思いのする本作のハイライトである。
(8)チェリーが3つ並ばない(作詞:渡辺美里 作曲:石井恭史 編曲:小林武史)
アルバムの先行シングルであり現在もライブではよく歌われる曲だが、初めてテレビで聴いた時から現在に至るまで、さっぱり良さがわからない。ホーン・セクションのほか様々な効果音を曲中に挿入し賑やかな雰囲気を出しているが、いま一つパッとしない仕上がりになっているのは肝心の楽曲が平凡なためだろうか。
こういう機会なので記してみるが、ライブで演奏されたらテンションの下がる個人的「3大ガッカリ」はこの曲と”ジャングル チャイルド”、そして”スピリッツ”である。
(9)こんな風の日には(作詞:渡辺美里 作曲:みやもとこうじ 編曲:Richard Dodd)
シングル”チェリーが3つ並ばない”のカップリング曲という扱いだったが、自分にとってはこちらの方が気に入っていた。力強いドラムのビートがゆっくりと盛り上げていく楽曲だがその中に、
<捨てねこ みないふりして
遠回りしても鳴き声が
耳からはなれない>
という切ない歌詞が入ったり、
<一番星と書かれたトラックが
はねをあげながら走り去ってゆく
朝の光につつまれて くじけそうな心と
青いかさ空高く とばしてみたい
こんな風の日には>
というような清新な光景が出てくるのが素晴らしい。一度ライブで聴いてみたいと秘かに願っている曲の一つである。
(10)ムーンライト ピクニック(作詞:渡辺美里 作曲:渡辺美里/佐橋佳幸 編曲:小林武史)
こちらはシングル”真夏のサンタクロース”のカップリングで、アコースティック・ギターが繰り出す軽快なジャングル・ビートに乗って、夜の街へ飛び出そうと、歌う。「SHOUT」のような妙なストリート感覚もなく、言葉の回りも悪くない。ライブ映えしそうだが実際にはほとんど演奏されておらず、私も2007年の時に2回(横浜、熊本)しかライブで聴いたことがない曲である。
(11)I Wish(作詞:渡辺美里 作曲・編曲:小室哲哉)
小室哲哉が提供した現在のところ最後の曲、と少し前まで思っていたが、91年のアルバム「Lucky」制作時にはできていたということをネットで知った。「Lucky」に収録するのには雰囲気が違うという判断だったのだろう。では、本当に二人が最後に共同作業をしたのは92年の”青空”が最後ということになるか。私にとっては別にこの二人のコンビが最高とも思っていないのであまり関心もないけれど。
<きみが飛び出した夜 冷たい雨 木々をぬらし
あの日新聞から 昭和という文字が消えた>
という歌詞は、昭和から平成へと年号が変わってまもない時期に作られた曲であることを示唆している。
アコースティック・ギターが主体なアレンジで打ち込みは使用されておらず、小室哲哉のカラーはあまり感じない。全体的に大人しく湿っぽい調子で、確かに鮮やかで力強い「Lucky」の世界観とはそぐわないだろう。むしろ次のオリジナル・アルバム「Spirits」(96年)、楽曲でいえば”キャッチボール”あたりの雰囲気に似ている気がする。
「アイス・バケツ・チャレンジ」を見てモヤモヤしている方へ
2014年8月22日 時事ニュース コメント (2)たしか最初は、孫正義さんが氷バケツをかぶった、という話をFacebookかTwitterあたりで見かけたと記憶している。それからALS(筋萎縮性側索硬化症)の支援うんぬんということを知り「アイス・バケツ・チャレンジ(Ice Bucket Challenge)」という名前にたどりついた。
アイス・バケツ・チャレンジとは、ソーシャル・メディアを通じて今年から広がっている慈善運動の一種だ。ウィキペディアに載っていたルールは以下の通りだ。
<バケツに入った氷水(アメリカのスポーツ界では氷水は祝福を意味しアイス・バケツ・チャレンジでは元気を与える意味がある)を頭からかけている様子を撮影し、それをフェイスブックやツイッターなどの交流サイトで公開する、あるいは100ドルをALS協会に寄付する、あるいはその両方を行うかを選択する。そして次にやってもらいたい人物を3人指名し、指名された人物は24時間以内にいずれかの方法を選択する。>
この動きはアメリカで始まったようで、それがプロスポーツ選手などに広まって影響が爆発した。それが日本にも飛び火し、孫正義、山中伸弥、田村淳、浜崎あゆみなど各界の有名人が氷水をかぶるパフォーマンスを公開し、動きは全国的なものになりつつある。そして、こういう動きに対しては賛否の意見もだんだんと激しくなってきているような気もする。
「確かに難病のALSを世間に認知させてASL協会に寄付金が集まるのは良いことに違いないけど、なんか釈然としないなあ」
とモヤモヤした気持ちになっている人も多いのではないだろうか。かくいう自分もそんな一人であった。そこで自分の気持ちを整理する意味を込めて、アイス・バケツ・チャレンジについて少々触れてみたい。
アイス・バケツ・チャレンジを問題にする場合、おそらくこんな反論が想定されるだろう。
(1)アイス・バケツ・チャレンジによってALSという難病について知らなかった人たちの理解を深めるきっかけとなった。それにケチをつけるのは許せない。
(2)アイス・バケツ・チャレンジによってALSを支援する団体に多額の寄付が集まっている。それにケチをつけるのは許せない。
(3)アイス・バケツ・チャレンジは、ASLで苦しんでいる人たちを支援しようという「純粋な動機」によって始まった。それにケチをつけるのは許せない。
このあたりではないかと思う。これらを検証していきたい。
そもそも大前提の話になるけれど、氷水をかぶるというパフォーマンスとALSとの間に繋がるものは、一切ない。このあたりが多くの方が混乱してしまう点だと思うので、ここははっきりさせておきたい。
そこでまず(1)ALSへの理解についてであるが、もし本当に「ALSを理解したい」というならば、この病気がどのように発症し、いかなる症状が出てくるのか、そういう知識を得なければいけないだろう。また、もっと本気になったらその関係の病棟に行き実際に患者の様子を見学する、または直接会って話を聞いてみる。それが本当に病気を理解するということだろう。
翻って、氷水をかぶる人たちの姿を見ることによってALSへの理解深まることなどあり得るだろうか。はっきりいって、それは未来永劫あり得ない。なぜなら、両者にはいかなる接点も無いのだから。
(2)、(3)については共通するところがあるので、まとめてみる。ALS協会に寄付金が集まるというのは誠に結構である。ASLで苦しんでいる人たちを見て行動を起こそうとした動機も別に個人的には否定する気持ちもない。
そこで、こちらからも質問させてほしい。
「寄付金が集まることや動機が純粋であることと、氷水をかぶるという行為が馬鹿げていることと、一体なんの関係があるだろうか?」
と。
アイス・バケツ・チャレンジの大きな問題はALSの支援という深刻な動機、そして氷水をかぶるというお祭り騒ぎのような行為という本来は全く合わない二つの要素が結びついた点であろう。
音楽の世界でもこういうことは多い。「チャリティ」と称してライブやコンサートを開いて寄付金を募るというアレである。代表的なイベントといえば80年代の「ライブ・エイド」や90年代の「アクト・アゲンスト・エイズ」といったものだろう。前者はアフリカ難民救済で後者はエイズの啓発という主旨だった。こうしたものに私は積極的に賛同したいと思わなかったが、昔は自分の根性が曲がっているからだと理由づけていた。しかし現在では音楽イベントとそうした政治的な主旨の相性が悪いと結論づけるようになった。どう考えても両者に結びつく要因が見出せないのだ。それゆえどんなに動機が立派であろうと、その運動が成功したら多額のお金が集まろうとも、私はこうしたものに参加する気が起きない。
だから、アイス・バケツ・チャレンジに対して釈然としないものを感じる人は、間違ってはいないはずだ。氷バケツとALSとは何の関係もないのだから。その点については自信を持ってほしい。両者はそれぞれ別個に考えるべきものなのである。
そうなると、次は氷バケツをかぶるという行為を単独で考える番だ。
これまで私は氷水を頭にかけるということはしたことがないし、おそらく死ぬまですることもないだろう。なぜならば、そんな行為をする時があるとすれば「罰」としてやるとしか思えないからだ。道で歩いて見かけることもないだろう。ALSうんぬんを切り離してみれば、こんな真似がどれほど馬鹿げているか身に沁みて感じるはずだ。しかもSNSでその模様を公開するとなっては・・・もう言葉にならない。
だからといって、別に私は「こんなバカな真似は止めろや!」と吠えるつもりもない。もはやアイス・バケツ・チャレンジは「お祭り」なのである。踊りたい人たちに止めろというのは野暮というものだ。氷水をかぶることの危険性うんぬんも話題に出てきているが、それは「自己責任」で処理せよと個人的には片付けておきたい。
私は有名人でもなんでもないから指名される心配もないだろうが、もし指名した人間がいたら「俺を殺す気か?」と言って先方との交流を絶つだろう。また友人知人が氷水をかぶってショック死したとしても、こんな理由では線香一本立てる気持ちにもならない。おそらく陰で「バーカ」と言って終わりだと思う。
アイス・バケツ・チャレンジについての私自身の見解はこんなところである。
アイス・バケツ・チャレンジとは、ソーシャル・メディアを通じて今年から広がっている慈善運動の一種だ。ウィキペディアに載っていたルールは以下の通りだ。
<バケツに入った氷水(アメリカのスポーツ界では氷水は祝福を意味しアイス・バケツ・チャレンジでは元気を与える意味がある)を頭からかけている様子を撮影し、それをフェイスブックやツイッターなどの交流サイトで公開する、あるいは100ドルをALS協会に寄付する、あるいはその両方を行うかを選択する。そして次にやってもらいたい人物を3人指名し、指名された人物は24時間以内にいずれかの方法を選択する。>
この動きはアメリカで始まったようで、それがプロスポーツ選手などに広まって影響が爆発した。それが日本にも飛び火し、孫正義、山中伸弥、田村淳、浜崎あゆみなど各界の有名人が氷水をかぶるパフォーマンスを公開し、動きは全国的なものになりつつある。そして、こういう動きに対しては賛否の意見もだんだんと激しくなってきているような気もする。
「確かに難病のALSを世間に認知させてASL協会に寄付金が集まるのは良いことに違いないけど、なんか釈然としないなあ」
とモヤモヤした気持ちになっている人も多いのではないだろうか。かくいう自分もそんな一人であった。そこで自分の気持ちを整理する意味を込めて、アイス・バケツ・チャレンジについて少々触れてみたい。
アイス・バケツ・チャレンジを問題にする場合、おそらくこんな反論が想定されるだろう。
(1)アイス・バケツ・チャレンジによってALSという難病について知らなかった人たちの理解を深めるきっかけとなった。それにケチをつけるのは許せない。
(2)アイス・バケツ・チャレンジによってALSを支援する団体に多額の寄付が集まっている。それにケチをつけるのは許せない。
(3)アイス・バケツ・チャレンジは、ASLで苦しんでいる人たちを支援しようという「純粋な動機」によって始まった。それにケチをつけるのは許せない。
このあたりではないかと思う。これらを検証していきたい。
そもそも大前提の話になるけれど、氷水をかぶるというパフォーマンスとALSとの間に繋がるものは、一切ない。このあたりが多くの方が混乱してしまう点だと思うので、ここははっきりさせておきたい。
そこでまず(1)ALSへの理解についてであるが、もし本当に「ALSを理解したい」というならば、この病気がどのように発症し、いかなる症状が出てくるのか、そういう知識を得なければいけないだろう。また、もっと本気になったらその関係の病棟に行き実際に患者の様子を見学する、または直接会って話を聞いてみる。それが本当に病気を理解するということだろう。
翻って、氷水をかぶる人たちの姿を見ることによってALSへの理解深まることなどあり得るだろうか。はっきりいって、それは未来永劫あり得ない。なぜなら、両者にはいかなる接点も無いのだから。
(2)、(3)については共通するところがあるので、まとめてみる。ALS協会に寄付金が集まるというのは誠に結構である。ASLで苦しんでいる人たちを見て行動を起こそうとした動機も別に個人的には否定する気持ちもない。
そこで、こちらからも質問させてほしい。
「寄付金が集まることや動機が純粋であることと、氷水をかぶるという行為が馬鹿げていることと、一体なんの関係があるだろうか?」
と。
アイス・バケツ・チャレンジの大きな問題はALSの支援という深刻な動機、そして氷水をかぶるというお祭り騒ぎのような行為という本来は全く合わない二つの要素が結びついた点であろう。
音楽の世界でもこういうことは多い。「チャリティ」と称してライブやコンサートを開いて寄付金を募るというアレである。代表的なイベントといえば80年代の「ライブ・エイド」や90年代の「アクト・アゲンスト・エイズ」といったものだろう。前者はアフリカ難民救済で後者はエイズの啓発という主旨だった。こうしたものに私は積極的に賛同したいと思わなかったが、昔は自分の根性が曲がっているからだと理由づけていた。しかし現在では音楽イベントとそうした政治的な主旨の相性が悪いと結論づけるようになった。どう考えても両者に結びつく要因が見出せないのだ。それゆえどんなに動機が立派であろうと、その運動が成功したら多額のお金が集まろうとも、私はこうしたものに参加する気が起きない。
だから、アイス・バケツ・チャレンジに対して釈然としないものを感じる人は、間違ってはいないはずだ。氷バケツとALSとは何の関係もないのだから。その点については自信を持ってほしい。両者はそれぞれ別個に考えるべきものなのである。
そうなると、次は氷バケツをかぶるという行為を単独で考える番だ。
これまで私は氷水を頭にかけるということはしたことがないし、おそらく死ぬまですることもないだろう。なぜならば、そんな行為をする時があるとすれば「罰」としてやるとしか思えないからだ。道で歩いて見かけることもないだろう。ALSうんぬんを切り離してみれば、こんな真似がどれほど馬鹿げているか身に沁みて感じるはずだ。しかもSNSでその模様を公開するとなっては・・・もう言葉にならない。
だからといって、別に私は「こんなバカな真似は止めろや!」と吠えるつもりもない。もはやアイス・バケツ・チャレンジは「お祭り」なのである。踊りたい人たちに止めろというのは野暮というものだ。氷水をかぶることの危険性うんぬんも話題に出てきているが、それは「自己責任」で処理せよと個人的には片付けておきたい。
私は有名人でもなんでもないから指名される心配もないだろうが、もし指名した人間がいたら「俺を殺す気か?」と言って先方との交流を絶つだろう。また友人知人が氷水をかぶってショック死したとしても、こんな理由では線香一本立てる気持ちにもならない。おそらく陰で「バーカ」と言って終わりだと思う。
アイス・バケツ・チャレンジについての私自身の見解はこんなところである。