パートに対する愚痴を書き続けていると、

「なんか対策をとらないと、このままだと駄目なんじゃないの?」

と思う方もいるだろう。だが、いまのところ改善の見込みは全くない。

問題のパートであるT氏に対して強く言える立場にあるのは、彼(そして私)について人事権を握っているボスである。しかしその肝心なボスはあまり機能していないのが現状だ。

これは以前も言ったけれど、早朝から働いてくれるパートがなかなか見つからないということが大きい。そうでなければ、無断欠勤したパートを変わらず雇い続ける必要もないだろう。この件もうやむやになったみたいだし、T氏も「こんなところなら、もっとサボっても平気だろう」と味をしめたのではないかと想像する。

しかし、それとは別な問題もまた出てきている。

先日、職場にいる一人とすれ違った時に、

「渡部君。俺、あのオッサン気持ち悪いわ。なんとかしてくれえ」

といきなり言われたのだ。

「オッサンって、ボスのことですか?

と訊ねたら、

「おお、そうや」

とのことだった。ボスが「気持ち悪い」とはどういうことか、その時は理由がわからなかった。

それから昼休みをはさんでまた作業に戻る時、別の人から、

「あのオッサンになんとか言ってくれよ」

とまた話題が出てきたのである。

もう意味不明なので、

「なんかあったんですか?」

と理由を訊いてみたら、

「新しく入ったパートの女性にな、ずっとくっついて仕事を教えてるんや。こんなこと、この3年間で初めてやで」

ああ・・・ボス。お気に入りの女性が入ったのは誠に結構な話ではございますが、朝の男性にも同じくらい念入りに指導していただけませんかねえ。

ボスがこの状態では、職場環境はしばらくこのまま、いやもっと悪くなるかもしれない気がしてくる。

1月に新しい仕事場で働いてから、慢性的な疲れに悩まされ続けてている。その原因は明白だ。必要以上に早く起きているからだ。前にも書いているけれど、今は始業時間が7時で終業が16時である。早く終われるのは良いですねと周囲からよく言われるし、私自身も当初は「自分の時間がもっと有効に使える」と好意的に思っていた。しかし実際はといえば、仕事が終わった時点で体はもう相当疲れた状態になっているのだ。よって部屋に帰ったらバタンとすぐ寝てしまうことも多い。ひどい時はそのまま朝を迎えることもある。そんな日常が続いているから、時間を有効に活用しているとは全くいえない。いきおい、この日記も滞りがちだ。

そんな私にさらなる追い打ちをかけるのが、例の男性パートの存在である。最近はこの話ばかり書いているけれど、毎日のようにろくでもないネタを提供してくるのでたまらない。

今日の9時半ごろ、悪いことが重なりパートのT氏と同じ業務をすることになった。作業内容は、先日に私がT氏に教えた、はずだが向こうは上の空で何も聞いてなかったものである。そして彼は予想通りろくに動かないし作業もできない。

その姿を現場責任者の方が、

「こないだ渡部君から教えてもらったんじゃないの?」

と怪訝そうに言ったら向こうは、

「いやあ。教えてもらってないので、できませんわ。ワハハハハ」

とニヤニヤしながら平気でそんなセリフを吐いたのである。

これには仏の顔の私もブチンと切れそうになったけれど、こうした彼の反応は予想通りでもあった。ろくに仕事を覚えないくせに、いざ作業をしなければならない状況になったら「教えてもらってないから、できない」と言うに決まってるだろうと。そう確信していたら、悲しいかなその通りになってしまった。実にあほらしい。

気分の悪くなる出来事は続く。通常業務の中に商品の在庫管理も含まれているのが、ある商品に、

「あと出し」

という付箋が貼ってあるものが1個あった。それを見たT氏が、

「これ、あと出しって書いてあるんやけど、もっと新しい商品が1個あるんや。この付箋をはがしてこっちに付けたらいいんやろか?」

と勝手なことを言い出したのである。私は事情があまり飲み込めなったけれど、現場責任者に確認をとった方が無難だろうと思った。こうした判断についてもT氏は粗雑である。

そこで、

「あのー、あと出しと言っても・・・」

と、とりあえず制止しようとしたら、

「なんや、あと出しの意味も知らんのか?いいか。商品は先に入れた商品を先に出すんや。古い商品のほうがいわば兄貴でな・・・」

などと、偉そうに「あと出し」の意味について説明しだしてきたのである。

バカ野郎、である。こちらはこれでも簿記2級検定を持っているのだ。なんで3級で習う「先入先出法」についてお前なんぞに説明を受けなければいけないんだ。しかも兄貴とか弟とか、例え話も意味不明だぞ。ふざけるな。

ともかく、そんなくだらない共同作業をなんとか終えて、我々はまたそれぞれ別の持ち場に戻った。

気分悪いなあと思いながら気を取り直して作業を続けていると、まもなくT氏がまた背後に現れた。喫煙である。

もうタバコについて何も言うつもりもないし、T氏を見ないで作業を続ける。しかし彼はゆっくりと満足げにタバコを吸っていてなかなか場所を離れない。いつも彼を見て思うのだが、タバコを吸っている時の彼の表情は「恍惚」と形容したくなるほどである。あんなに美味しそうに喫煙しているのを見るとなんだか自分もしたくなってくる、わけはない。

イライラしながら作業をしている私に対して彼は、

「今日の(私が担当する)荷物はえらい少なかったみたいやね?」

とまた無駄話をふっかけてくるではないか。

確かに今日はたまたま荷物の量は多くなかった。しかしだからといって作業スピードを遅くしたこともない。よって今日は仕事を10分くらい前倒ししたのである。もしこれがT氏だったら、

「今日は荷物が少ないから、あと1本余計にタバコが吸える」

と考えるに決まっている。

そんなことを内心では思いながら、

「あー、どうも土曜日に商品がたくさん入ったらしくて、今日は少なかったようですよ」

とまともに返答して作業を続けた。

しかしT氏はまだタバコを吸い続け、持ち場に戻ろうとしない。それどころか、

「あー!渡部君。ここ蚊っ、蚊が多いわ!」

とわめき出したのである。これは職場の人に言われたことだが、夏は蚊がかなり発生するらしい。そこで突っ立ってタバコを吸ってたら餌食になるに決まっているだろうが。

「蚊のエサにならないようにね」

と表向きは適当にあしらったものの、

「あいつ、蚊からフィラリアでももらわないかなあ」

と腹の中で願ってしまった次第である。
パートの無断欠勤もありバタバタした今週であったが、今日で平日が終わる。問題のパートであるT氏の姿は、早朝の時点では見かけなかった。やっと観念して別の持ち場で業務をしているのだろう。

T氏と私は全く別の場所でそれぞれ仕事をしている。だから基本的には顔を合わすことはない。が、実際のところT氏はちょくちょく私の背後にやってくる。私の持ち場のすぐ近くに喫煙スペースがあるからだ。

T氏はかなりのヘビースモーカーらしく、私が確認しただけでも勤務時間内で3回タバコを吸いに来ていた。当初はたいして気にもとめなかったけれど、そう思っていない人も職場にはいる。

「パートで4時間しか勤務時間がないのに(たびたび喫煙するのは)おかしい。それくらいの間、我慢できんのか?」

「他のパートの人はトイレに行くくらいなのに・・・。こないだ見た時は、コーヒーを飲んでたのよ。もう仕事が終わったような感じで・・・」

とT氏の行動を苦々しく思っている声は聞こえてきていた。ちなみに、上の発言をしていたのは、いずれも非喫煙者である。

しかしながら救いが無いのは、我々の一番の上司であるボスがタバコを吸う点にある。おそらくT氏が最初にここへ来た時に、適当にタバコとか休みを入れていいよ、とか口走ったのだろう(私もボスからそんなことを初日に言われた)。そしてT氏はそれを都合良く(自分の心の中で)拡大解釈していると思われる。もし何か言おうものなら、

「なんですか!ボスが良いと言ったんですよ!」

などと、少しも悪びれることなくキッパリ言い返してくるだろう。そういうことが容易に予想がつくので私自身は何か声をかける気など絶対におきない。

それにしても、T氏のように堂々とタバコやコーヒーで20分も30分もサボられた日には、こちらも気分が悪くなってくる。

さすがにタバコは中毒性があるので喫煙する人に「吸うな!」とまで言うつもりはない。そうした動きに対して喫煙者は必死になって抵抗するのは目に見えている。私も酒やラーメンを止めろと強制されたらキツい(ただ、私は就業中に酒やラーメンを摂取することはあり得ない)。

だが、喫煙している間は確実にその人の業務が止まっているのもまた事実である。T氏のようにちょくちょく吸う人間だったらそうした時間の損失も1ヶ月や1年という単位で見れば小さいものではない。喫煙者は給料から月5000円カットするとかいった「マイナス手当」でも制定したら良いんじゃないかなあ、などとおかしな思いつきをしてしまった。T氏のような人がそばにいると、こっちもなんだか調子が狂ってくるようだ。

それにしてもT氏のマイペースぶりは実に恐ろしい。この日も、

「Tさん。この作業をお願いします」

と言われたら、

「ノドがかわいたんで、ちょっと下で休んでからにしますわ」

と答えたので、指示を出した人が絶句していた。もう、休むのが当然という姿勢なのだ。

これを読んだ方の中には、

「なんでこんなパートを雇うんだ?正社員でもないし切ったらいいだろうが」

と思ったかもしれない。しかし職場としては朝の7時から来てくれる人、しかも男性など募集してもそうそう来てくれないという厳しい事情があるのだ。だから、いないよりはマシ、という判断で現状が続いているわけである。

ただ、新しい業務に就いたT氏に対して、

「この人は使えないので要りません」

と現場責任者から上司に申し出があった場合、もう居場所がなくなってしまう可能性も否定できない。ただ確実なのは、T氏これからもずーっとこのペースで仕事をし続けるということだ。

懲りてねえ

2013年5月30日 お仕事
午前6時10分ごろ、外はまだ霧雨が降っているような状況だった。しかし天気予報では午後には雨があがるということだったので、多少濡れても自転車で仕事場まで向かう。パートの無断欠勤もあってこの2日間は何かとゴタゴタしていた。しかし今日からまた仕切り直ししていきたい。そう願っていた。

始業時間の10分前くらいには勤務地に到着するようにしている。仕事を始める前に準備作業のようなものがあるからだ。これに対して、パートのT氏はいつも始業時間ギリギリにやってくる。厳密にいえば、実際に仕事で動き始めるのは7時を過ぎてからである。現場責任者の方は彼のその姿を見ていて、以前からずっと内心ではイライラしていた。だから今回の無断欠勤をきっかけに、「あいつはいらない」と上司に配置転換を進言してしまったのである。

「さあ、昨日と同じくまた一人で作業か。頑張ろう」

と気持ちを切り替えて始めようとしたら、別の業務をするはずのT氏もなぜか私のそばに来ているではないか。

そして、

「やりますわ。その荷物、持ちますわ」

と何食わぬ顔で、これまでのように手伝おうとしているではないか。

「いやいやいやいや。あんた、業務内容が変わったんじゃないの?なんで俺と同じ場所にいるんだよ?」

と腹の中では思ったけれど、もしかしたら上司と相談して事態が変わった可能性もあり得るし、とりあえず黙って一緒に作業をして様子を見ることにした。しばらくすると案の定、「向こうへ行け」とT氏は上司から言われて消えてしまった。やれやれ、である。

T氏とはこれで顔を合わせることなく1日が終わりました、となればまあ良かったのだが、残念ながら世の中はそううまく回らない。

作業が開始して2時間半ほど経ち、朝の業務は一段落をついた頃である。他の場所で作業している方から、

「渡部君がいままでしていた業務をTさんにも覚えてもらいたいから、教えてやってくれない?」

と頼まれたのである。

思わず、

「はあ・・・まあ・・・いいですけど・・・」

と歯切れの悪い返事をしてしまったが、実際どうにも気が進まなかった。T氏が私の言うことを聞いてちゃんと動いてくれるとはとても思えないからだ。

数分後、T氏が私のところに来たので、

「じゃあ、最初の作業はですね」

と説明しようとした途端、

「じゃあ、こっちの方をしますわ」

と勝手に作業を始めたのである。

「おいおいおいおい。ちょっと待てよ。ここでの作業内容を知らないだろうが?何を考えてるんだよ」

と内心では思ったのだが、向こうはどんどん仕事を進めていく。もう仕方ないので、彼がやってない業務をとりあえず処理することにした。

後になって気づいたけれど、私がした作業の方がどちらかといえば面倒くさい内容である。たぶん向こうは瞬間的にその辺りを察知し楽な方の業務を選び、そうでない方をこちらに押しつけるのだろう。そういえばかつての職場で、仕分けする荷物が大量に届くといった面倒な場面になるとスッといなくなる人間がいた。それはもう筋金入りで仕事をしないタイプだった、そしてT氏はそれと同類に違いない。

それでもいくつか引き継ぎというか業務内容で彼に伝えることがあったので、頃合いをみて声をかけようとタイミングを待っていた。が、T氏は自分のやった仕事が片付くと何も言わずにどこかへ向かって行く。追いかけていってみれば、そこは喫煙所だった。

時間もないので、そのまま彼の横で業務内容について説明することにした。こちらは教える側なので、ここではああしてこうして、という調子でするのが普通だけれど、相手はこんな人間である。あまり偉そうに言ってへそを曲げられても困るので、

「こういう作業があるんですよ。だからこんな流れでやればスムーズにできると思うんで、僕はいつもこんな感じでやっているので・・・できれば同じようにやっていだければ嬉しい?みたいな?」

と、思い切り気をつかいまくって説明をしていた。この日記を読んで私に対して傍若無人な印象を受けている方がいるかもしれないが、実際は蚊も殺せないような風貌の人間である。

しかし先方といえばそんなこちらの配慮もおかまいなしで、

「ああん?あー、わかったわかった」

と明後日の方向を見ながら、実に満足した表情でタバコの煙を吐き出しているではないか。これはまるっきり人の話を聞いていないぞ。

まだ業務が残っていたので、とりあえず一方的に必要なことを言ってその場を離れた。しかしたぶん、向こうの頭の中には何も残っていないだろう。

一人で現場に戻ると、

「あれ?Tさんはどこいったの?」

と訊かれたので、

「ええと・・・タバコですが・・・」

と答えたら向こうは呆れた顔をして、

「すぐに戻ってくるように言って。そんなに何度も・・・休み過ぎやわ」

実際のところ、T氏は4時間というそれほど長いといえない勤務時間の中で何度もタバコを吸うのが日常となっている。それだけでもアレなのに、喫煙所で職場の(外勤の)人と談笑している姿もよく見かけた。私が見る限り、T氏がタバコ関係で休んでいる時間はトータルで20〜30分になるのではないだろうか。勤務時間の実に8分の1くらいを占めているのである。彼のほかにパートで雇用されている人が数人いるけれど、同じような真似をしている人はもちろんいない。せいぜいトイレに行くくらいである。

T氏はタバコも吸いたいし面倒な作業も極力したくないから、自分勝手にできた以前のポジションが一番都合が良かったのは間違いない。だからこそ、今朝も私と同じ場所にきて同じ作業をしようとしたのだ。しかし、それもこれも彼自身の無断欠勤のおかげでつぶれてしまったわけだが。

そんな彼を見て、私が思ったことはただ一つだけである。

「こいつ・・・ぜんぜん懲りてねえよ」

明日以降もこんな光景が続くのだろうか。そう考えるとまた憂鬱な気持ちになってくる。

今月はずっと日記を書かずにここまできてしまった。どうしてそうなったかといえば、日々の業務で体の疲れがとれない状態が今も続いており、どうにも文章を作る気力が起きなかったのである。そもそも、文章を書いたからといって収入が発生するわけでもないし、大量の読者が待ち望んでいるブログでもない。具体的に反響があるわけでもない。かつての職場の上司たちがこれを読んでいるという話も耳にするけれど、

「ちゃんと中身を理解してるのか?本当にわかっていれば身につまされて読めなくなるはずだけど・・・」

と思ってしまうのだ。少なくとも自分はそういう意図を持ってこれを書いてきた部分もあるんだけどね。その辺りが、私の文章力が低いせいか、どうも伝わらないらしいが。

しかし昨日からちょっと書いてみたい出来事が続いたので、久しぶりに更新をしてみたい。

といっても、実際に文章にしてみればたいした話ではない。いつも午前中は一緒に作業をしているパートの男性が先日、無断欠勤をしたというだけのことである。彼はこれまでもすでに2回遅刻をしている。それでもその時はやって来たのだが、今回はついに職場へ訪れることはなかった。

小心な自分が同じ立場だったら、そんな失敗をすればもうそのまま消え去ってしまったと思う。しかし彼は今日、何食わぬ顔で出勤してきたのだ。これにはけっこう驚いた。たくましいというか厚顔無恥というか、ともかく呆気にとられてしまった。だがもちろんそのままで済むはずもなく、上司に呼ばれていったん現場から消えてしまった。クビにされたのかなと一瞬思ったが、業務の変更を言い渡されたらしい。結局、これまでの仕事を私ひとりですることになった。しかし、今日はなぜか二人でおこなうペースとたいして違いはなかった。彼のこれまでの仕事ぶりについては、その辺から推測していただければと願う。

そして、仕事場で彼とすれ違う場面は何度かあったものの、こちらに声をかけてくることが一度としてなかった。それについては、

「まあ、上司に絞られて今日は気分も悪かったんだろうな」

と個人的にはそう解釈していたし、それ以上は特に何も思わなかった。

が、周囲はどうもそう感じていなかったようである。

仕事が一段落ついて休憩に入っていた時、同じ職場の方から、

「渡部くん。T(問題のパート)さんから何か言われた?」

と訊ねられたのである。

この質問にやや面食らった私は、

「いや、別に言われてないですけど・・・」

と正直に答えてしまう。

すると先方は、

「えー。普通は”昨日は休んですいませんでした”とか言うのが常識でしょう?信じられないわー」

という反応が返ってきたのであった。

個人的にはそれほど大きな迷惑がかかったわけでもないし(そもそも彼の仕事ぶりをアテにしたことがない)、職場に出てこなかった時も「またか」と思っただけである。しかし、先方のような捉え方もあるのだろう。いや、こう考えるほうが普通なのかもしれない。

別に強がりでもなんでもなく、謝罪みたいなものはしてほしいとは全く思っていない。これは読んでる方にうかがいたいのだが、謝ってもらったら気分というのは良くなるのだろうか。改まってそんなことをしてもらっても別に・・・と個人的には思うのだが。

もっといえば、これは経験則であって何の根拠も無いけれど、人間というのは本質的に(老若男女を問わず)「謝る」という行為が嫌いな気がするのである。私自身も頭を下げるというのは大嫌いだから、他人にそれを求める気にもならない。それだけの話だ。

ただ彼に対して、同じ過ちをまた繰り返してほしくない、とだけは願っている。懲りてくれたらそれでいい、と。自分に迷惑をかけてくる相手に対しては、そう接しているつもりだ。

しかしながら、こうした私の思いも残念ながら水泡に帰すことが常である。

以前にこんなことがあった。職場の同僚と飲んでいる時に相手と口論のような状態になり、テンションが上がった彼が私の胸ぐらを掴んだ末にシャツを破ってしまったという出来事があった。日常の業務では優柔不断でろくに責任感もない割にこうした席ではこんな行動で出るんだなと呆れたが、これが話の本題ではない。

その後も何かあるたび、彼にこのときの出来事を持ち出してみた(こういう仕打ちをされたら、私は二度と忘れないので)。しかし、向こうは反省しているどころか、

「まだそんなこと言うのか?」

という反応を返してくるばかりだった。さきほど書いた通り、私は別に謝罪とかして欲しいのではない。ただ、彼の言動を通じてこれだけは確信できた。彼は自分のやったことを「間違った」とか「失敗した」とかは全く思っていないということを。

少しでも懲りていれば、今度から気をつけようとか思うはずである。しかし、彼の言動にはそうしたフシが欠片も見られなかった。謝罪するとかしないとかよりも、そうしたことに私は深い絶望感を抱いたのである。人間ってそうそう変われないだな、という私の頑迷な思い込みはこうした経験が裏打ちされている。

今回の無断欠勤をした彼についても、このシャツを破った人間と重なって仕方がない。果たしてまた同じ行為を彼は繰り返してしまうのか。個人的には、再犯の可能性強し、としか思えてならないのだが。

なんだかよくわからないまま世間に広がっている言葉に出会う時がある。タイトルに挙げた「上から目線」というのがその一つだ。いったいこの言葉はいつから広まったのだろう。この言葉自体は昔からある表現であるが、ここまで日常的に使われるようになったのは明らかに21世紀を迎えてから以降のことだ。

ちなみに、私はこの「上から目線」という表現が好きではない。自分からこの表現は使わないように意識もしているし、人から言われるのももの凄く嫌だ。

そもそも他人に対して「あなたの態度は、上から目線だ」などと言う人間は自分をどういう立場だと思っているのだろうか。さすがに「下から目線」とまで卑屈になっていないだろうが、おそらく「誰に対しても平等で水平なフラットな目線」とでも考えているのだろう。しかしそれはかなり傲慢な思い込みである。自分の思想について「リベラル(リベラリズム、自由主義)です」と言うのになんだか似ている。リベラルというのは基本的に褒め言葉なので周囲から言われるものであり、自分から主張するものは実に鼻持ちならない。

かつての日記で、

「俺は人の意見を認められない奴は駄目なんや」

という言葉が一番嫌いだと書いたことがある。

私の最も嫌いな言葉(2012年11月7日 )
http://30771.diarynote.jp/201211072326301700/

それと同じ臭いをこの「上から目線」から嗅ぎ取ってしまうのだ。こういうことを言う人は自分の立場を勘定に入れていないのではないか。かつての職場の後輩でちょくちょくこれを連発する人間がいたけれど、どうも見下された気がして彼に対して「あんたバカぁ?」といつも不快に感じていた。そういう経験もあり、私はこの言葉を極力使わないように心がけている。

本題からズレるのでここでは詳しく論じないけれど、「Jポップ」というも私は使わない。これもいつの間にか世間に定着してしまった感があるが、最初にこの言葉を聞いた時は、

「なんて安っぽい響きなんだ・・・」

とものすごい違和感を抱いたし、今もその気持ちはあまり変わらない。

そんな私と似たような思いを感じた人に佐野元春がいる。かつて「日経エンターテイメント」に載っていた彼へのインタビュー記事で、音楽はもっと世界に開かれてるから「J」などと狭めるものではない、といった主旨の発言をしていてものすごく共感を覚えた。また、やはりミュージシャンだけあって言葉に対する感覚もかなり鋭いんだなと感心したものである。

そうした佐野の姿勢と比べると、現在も発行しているかどうかは知らないが「Jポップ」という題名をつけた雑誌、また無批判にそこへ文章を書いている連中(自称「評論家」とか「ジャーナリスト」などと言ってる、言葉を大事にするはずの人たち)はものすごく見劣りがしてしまう。

やはり話はズレてきたので修正するが、上手な文章を書こうとすると、語彙(ボキュブラリー)の豊富にすることがまず頭に思い浮かぶ方も多いかもしれない。しかし、自分でも意味がよくわかっていない言葉を使わないとか無駄な表現を削るとか、そういう工夫も語彙を増やすのと同じくらいに大事である。少なくとも自分はそのようなことを念頭に入れながら文章を作っているつもりだ。こうした言葉の吟味というか選び方の小さな積み重ねがその人の個性とかセンスというものにつながっていくと信じているからである。

昔の日本の歌謡曲については全く詳しくないし興味もほとんどないけれど、田端義夫のアルバムは1枚だけ持っていた。買った時期は96年から97年の間(同志社大学の田辺キャンパスに通っていた時期)、近鉄京田辺駅ちかくの古本屋で手に入れたものである。タイトルは「田端義夫全曲集」で、発売日が93年の11月21日となっている。今からもう20年前だ。しかし1曲目が”歌手生活五十五周年記念 人生の船はヨーソロ!”となっている。この時すでにそれだけのキャリアがあったわけだ。

しかし、おおよそ関心のないジャンルにいるバタヤンのCDをなぜ私は買う気になったのか。それは何かのテレビで彼の歌う姿、もっと正確にいえばギターを抱えた格好が強く印象に残っていたからなのは間違いない。You Tubeで確認できるが、アゴが乗るくらいにギターを高く持ったあのスタイルは他に観た記憶がない。

さらなる衝撃を受けたのは、ギターそのものであった。ギターの上の側面、つまりアゴが乗る部分が使い過ぎてすり減っているのだ。それはこの歌手が気の遠くなるような長い年月を歩んできたのかを音楽以上に雄弁に物語るものであった。

バタヤンについてもう一つ記憶に残っているが、テレビ番組「いつみても波瀾万丈」(日本テレビ系列)にゲスト出演したのを観た時のことである(調べてみると放送日は1993年10月31日だった。「田端義夫全曲集」の出る直前だ)。

その名の通り、ゲストの波瀾万丈な人生を紹介する番組だったが、貧乏なため小さい時から魚を売る仕事を手伝わされ周囲からバカにされたこと、右目が病気になったがお金がないため治すことができず失明してしまったこと、その2つのエピソードだけは今でも頭に残っている。もう20年も前のことで記憶は全く定かではないが、この番組でさきほどのギターを私は見たのだろうか。しかしそれはもう確認のしようもない。

97年に「高千穂・神話の里フェスティバル」で共演をしたソウル・フラワー・ユニオンの中川敬がどこかの雑誌で、ロバート・ジョンソンに会ったようだ、というような発言を見かけた記憶がある。悪魔と魂を引き換えに驚異的なギター・テクニックを手に入れた、などという伝説もあるブルース・マンである。しかしジョンソンが生まれたのは1911年だから、バタヤンとはわずか8歳しか違わない。ちなみに同い年の歌手として、ナット・キング・コールがいる。

中川が時事通信で「うたのありか〜戦前の流行り唄」という連載でバタヤンについて書いているものをネットで見つけた。

http://twitpic.com/ai4dit

<船内や呑み屋の宴から漏れ聴こえてくる唄声に耳を傾け、気に入ったら即採譜して持ち曲にしてゆくという、唄に対する並々ならぬ好奇心。ヒット曲<島育ち>もそんな具合に新橋の屋台で巡り会った運命の唄だ。>

この逸話は、1933年に音楽学者のロマックス親子によってルイジアナのアンゴラ刑務所で「発見」されたミュージシャン、レッドベリーを連想させる。殺人の罪で収監されていたレッドベリーはブルース、バラッド(伝承歌)、労働歌、宗教歌など様々な種類の歌を記憶していた脅威のミュージシャンであった。彼の音楽は録音されることになり、例えばクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)が”C.C.Rider”をカバーするなど、後世のミュージシャンに多くの影響を与えた。ちなみにヴァン・モリソンが最も敬愛する一人が、このレッドベリーである。

バタヤンの歌にしても我が国の遠い遠い歴史が刻まれている。終戦直後の1946(昭和21)年に出したヒット曲”かえり船”は、You Tubeにあった動画(何かのテレビ番組)ではこんなナレーションに導かれて始まる。

<「みなさま。本当に、ご苦労さまでした。この船は、日本(にっぽん)の船です。」

そんな放送のあと、船内にこのメロディーが流れてきました。

”かえり船”

田端義夫さんです。>

戦争が終わり、外地から日本へ引き揚げてきた気持ちを「実感としてわかる」という人は現在においてもはやごく少数だろう。バタヤンはそんな時代を背負いながら21世紀まで歌い続けてきた歌手だったのである。それから90歳になってもアルバムを出したというのは凄すぎてもはや形容する言葉も見つからない。

だがその長い旅も、94年をもって幕引きとなってしまった。奇しくも、翌月に歌手生活75周年を記念したドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」が公開されるという矢先のことである。

私が知らないだけで、この国にもこのような凄い人はたくさんにいるのだろう。そうした功績が将来も評価されたり継承されるのだろうか。私はそんな使命も才能もないけれど、久しぶりに「田端義夫全曲集」を聴きながら考えてしまった。

あのボロボロのギターが脳裏にあると、その響きはまた格別な思いがする。いまはただただ合掌するばかりだ。
認めたくないけれど、明らかにこれは花粉が原因なのだろう。鼻水やくしゃみも断続的に出てくる。あくまで軽度の症状であるものの、なんとかならないのかと思ってきた。

花粉症の対策でいつも思い出すのは、ハーブティーである。渡辺美里がかつてこれで治したと、ラジオかライブのMCで言っていたからだ。当時はまさか自分がこうした症状が出てくると思っていなかったので、聞き流していたけれど。

病院や薬の世話になりたくない自分としては、お茶で体質改善ができれば万々歳ではある。そこで最寄りのドラッグストアーに入ってみる。しかし、置いてあるのは烏龍茶やジャスミンティーなど普通のお茶ばかりでハーブティーの姿はない。そんな都合よくあるわけもないだろうが。

お店に設置されている花粉症関連のコーナーを見ても、置いてあるのはマスク、のどあめ、そして鼻の中に塗るクリームくらいである。お茶は無いのかなあと思ったら、1点だけ商品があった。

それは「甜茶(てんちゃ)」という中国産のお茶である。中国では甘みのあるお茶全般を甜茶と呼ぶ、と箱の側面に書かれている。しかし花粉症のカの字も書かれていない。

ただ、

<春先や季節の変わり目に>

という、なんとも微妙な一文が入っているだけである。薬効についても一切触れていない。これは飲んでも意味がないかなあと思ったが、さきの春先うんぬんという表記が気になったし、30袋入って1箱498円だから効果がなくてもダメージはそんなに少ないだろう。というわけで、これを1箱買ってみた。

部屋に戻ってさっそく飲んでみた。特に強い香りがあるわけでもないけれど、砂糖が入ってるような甘さがあって結構美味しい。

肝心の効果であるが、実感としては「それなりにある」と判断したい。このお茶を飲んでからは目のかゆみや鼻水などの症状は、ゼロとはいかないけれど、気にならない程度には収まった。ただ、飲まないまま何時間も経つとクシャミがまた出てくる。そこでお茶をまた飲むと症状が収まるという具合だ。

いま「甜茶 花粉症」で検索したら、医学的に花粉症に効くと証明されている、と書かれたサイトを見つけた。会社としても「花粉症に効果あり」と言って売りたいところだが、薬事法などの関係で上のような微妙な表記にしているのだろう。

参考までに私が飲んだものを記す。

【井藤漢方製薬】 甜茶100% 60g(2g×30袋)
http://item.rakuten.co.jp/beta/n1289/

これで花粉の季節を切り抜けれたらありがたいけれど、さてどうなることやら。
仕事を終えて部屋に戻ると、郵便局から「郵便物等お預かりのお知らせ」が届いていた。先日オークションで落札したBABYMETALのチケットに違いない。しかしお知らせを確認すると、少し変わっていることに気づく。

送り主の名前が、

「◯ツカ 様」

と名字だけ、しかもカタカナ表記になっているではないか。これで受け付けてもらえるのか?と一瞬疑問に思ったが、郵送方法はレターパックだからポストに投函するだけである。これで大丈夫なのだろう。

そういえばこのオークションの注意事項にも、

<・いたずら入札防止、他のお取引の安全を守るため当方の情報は一切お教えすることができないことをご理解ください。>

という文言があったのも気になった。なんだかもっともらしいことを書いているけれど、要するにネットでダフ屋行為をしているのが後ろめたいのだろうなと邪推してしてしまう。

しかし、そんな努力をしても無駄だろうな、とこちらは確信していた。郵便局で受け取ったチケットを確認してみれば、セブンイレブンで発券されたそれにはしっかり先方のフルネームが印刷されているのである。私もチケットはよく発券しているから、その辺のことは承知している。

貴重なチケットを譲ってもらったことに感謝する一方で、

「お・ま・え・は・あ・ほ・か」

とも思ってしまった次第である。

最近、いやこの1年ほどライブのチケット情報を見逃していることがやたらに多い。音楽雑誌もFMラジオも音楽サイトもろくに確認していないからだろう。

またSNSが発達した時代なので、気になる情報はmixiやTwitterなどに出てくるだろうという何の根拠もない思い込みも自分にはあった。たとえ情報が流れていたとしても、自分がしっかり見ていないと情報が無いことと同じである。

今回のBABYMETALのライブについても同様だった。2度あったチケット先行予約はもちろんのこと、一般販売も知らないうちに始まっていた。チケットは言うまでもなく完売である。

BABYMETALって何?という方は、You Tubeで検索していただきたい。この日記では昨年末に少し触れてもいる。

偶然出会ったBABYMETAL(ベビーメタル)について
2012年12月20日
http://30771.diarynote.jp/201212202258422293/

東京しか公演がないけれど、いつまで続けてくれるのかわからないグループである。「いつ観るの?いまでしょ!」というところだが、その割にはチケット情報に鈍感だった自分がいる。しかしもう完売したものは仕方ない。というわけで、オークションでチケットを手に入れることにした。調べていると、それほど多くはないがチケットが出品されていた。そのうちの1件で入札をしてみる。価格は1万円に設定した。定価は5500円である。

しかし、予想していたことだが、時間が経つにつれてチケットの値段がどんどんつり上がっていった。結局、1万円を超えてしまう。自分の懐事情を考えると、これ以上の競争はちょっと厳しい。

そこで他の出品を見てみると、即決価格(その金額で入札すれば落札となる価格)が8500円というのがあるではないか。

「さっきの値段の上がり方を見ると、1万円以下で落札は難しそうだな」

と判断し、この値段で手を打とうと決めて8500円の入札をした。これでめでたく落札である。

しかし、この出品に関する「注意事項」は少し違和感を抱いた。以下がそれである。

<こちらからの連絡を待たずに、オークション終了後1時間以内に以下の必要事項の連絡と24時間以内の代金支払いをお願いします。

【郵便番号】
【住所】
【氏名】
【連絡先】
【配送方法】

・期限を守れなかった場合は【落札者都合によるキャンセル】として対応させていただきますのでお気をつけください。

・いたずら入札防止、他のお取引の安全を守るため当方の情報は一切お教えすることができないことをご理解ください。

・ノークレーム・ノーリターンでお願いします。
・入札後、落札後のキャンセルは一切受け付けません。
・コンサート内容の変更や延期、中止に伴う返金返品は不可となりますのでご注意ください>

1時間以内に必要事項を送り、24時間以内に入金しろと指定するとは、なかなか強気な商売である。

「てめえ、ネットでダフ屋行為をしてるような輩が何を偉そうにしてるんだ!殺すぞ!」

という思いもなくはなかったが、こちらとしてはなんとかプラチナ・チケットを手にいれなければならない弱い立場であるし、言われる通りに必要事項を、

「取り引き修了までよろしくお願いします」

などと丁寧に応対して、入金もすぐにネットで手続きをとった。送料と手数料を含めて合計9289円となる。

チケットの発送方法については、

<・ヤマトの宅急便着払い 60サイズ 東京23区より発送
・レターパックプラス 500円
・レターパックライト 350円>

の3種類が用意されていた。レターパックプラスとレターパックライトの違いもわからないまま、ろくに調べもせずにレターパックプラスを指定する。果たしてこれで良かったのだろうか。まあ、無事に届けばどうでもいいか。

ところで、最初に入札したチケットの行方が気になるので調べてみたら、最終的に落札価格は「1万6500円」まで跳ね上がっていた。定価の3倍である。競争しなくて良かったとつくづく思う。

ところで、ライブ当日(6月30日)の時点で、私の去就は不明である。現在の仕事はとりあえず5月までの契約となっており、その後に関しては未定だからだ。そんな状況で上京してライブを観に行くと言ったら、ディスプレイの向こうからアホーアホーという声が聞こえてきそうである。しかし、私のこういう体質は昔からなのでいくら批判や説得をしても無駄なのだ。

肝心のライブはどんな様子なのかはYou Tube で「BABYMETAL」を検索したら動画がいくつか出てくるのでご覧いただきたい。去年のシンガポール公演の模様がまとまった時間観ることができるのでおすすめである。それにしても、日本もシンガポールもお客のノリは異様に高い。

そして、この空間で「キツネだお」のポーズをしながら「Xジャンプ」をするのが、今年の私の目標(?)の一つである。
(1)世界は慈悲を待っている
(2)虹をつかむ人
(3)La Vita e Bella
(4)愛のためにできたこと
(5)ポーラスタア
(6)君と往く道
(7)ビートニクス
(8)君と一緒でなけりゃ
(9)詩人の恋
(10)スーパー・ナチュラル・ウーマン
(11)食事とベッド
(12)Zooey

佐野元春が「ZOOEY」(ゾーイ)という新作を出すという情報を知ったのは今年の1月だっただろうか。その時は、「まあ買うけどさ・・・」、という程度の認識でほとんど期待らしきものはしてなかった。前作「Coyote」(07年)を作ったメンバーとまたアルバムを作ったということだったからである。

「Coyote」の感想は出てから書いたけれど、

佐野元春「Coyote」(07年) 2007年10月5日
http://30771.diarynote.jp/200710082027370000/

我ながら、苦渋に満ちた感想だな・・・と思うものの、その印象は今も変わっていない。そして、アルバムに収まっている曲も”君が気高い孤独なら ”以外は全く記憶にない(アマゾンでは恐ろしいほど絶賛されているが・・・)。

それから6年ぶり、かと思ったら、その間に「リメイク・アルバム」なるものが出ていたのをすっかり忘れていた。

佐野元春「月と専制君主」(11年) 2011年2月11日
http://30771.diarynote.jp/201102122346173001/

これを読み返してみると、「Coyote」と似たような印象を持っていたようである。そしてこの「月と専制君主」にしても、ほとんど聴いた記憶が残っていないのは同様である。

そもそもの話であるが、私がリアル・タイム(92年以降)で彼のアルバムをしっかり聴いた覚えたほとんどない。それこそ「SWEET16」(92年)と「The CIrcle」(93年)という、ザ・ハートランドと一緒に作ったアルバムが最後ではないだろうか。ハートランドを解散してからは、のめり込んで聴いた作品は無いのである。これ間に出た作品で最も繰り返し聴いたのは「THE SUN」(04年)に間違いないが、それすらも愛聴盤と言えるほどではなかった。

その理由は何か。それは一応、自分の中では固まっている。

一緒にやっているバンドである。

ハートランドを解散して以降、佐野は腕利きのベテラン・ミュージシャンを揃えた「ザ・ホーボーキング・バンド」と活動を主にしてきた。錚々たる顔ぶれに最初は私も期待を大きくして作品を待っていたが、実際の印象はさきほど書いた通りである。ホーボーキング・バンドの持っている実力は誰もが認めるところだろうが、それが作品に結実しているかといったら、正直いってなんだか少し物足りないところが否めない。ハートランドの時ほどには佐野元春の良さが出ていないような、そんな思いを常にしていた。

彼のライブを初めて観たのは、98年3月29日の大阪フェスティバルホールである。なぜこの時にチケットを取ったかはあまり思い出せないが、「The Barn Tour」の最終日が大阪だったことが一番の要因だった気がする。実際その日は、「The Barn」(97年)のプロデューサーであるジョン・サイモン、そしてザ・バンドのキーボード奏者、ガース・ハドソンがゲスト出演するという特別な一夜であったのだけど、ライブそのものについてはあまり印象に残っていることがない(終演しても拍手がしばらく止まなかったが・・・)。

ともかく、作品についてもライブについてもそんな印象だったので、アルバムはいつも買ってはいたものの、ライブは節目節目(デビュー20周年記念とか、30周年記念とか)くらいに足を運ぶという具合であった。

この際だから、もっと余談を書きたい。

バンドに対する違和感がさらに強くなった出来事がある。それは05年の終わりに観たライブである。それは堂島孝平が佐野元春とジョイントをするという内容であった。感想も書いてある。

堂島孝平 featuring 佐野元春 神戸公演(05年12月4日、チキンジョージ) 
http://30771.diarynote.jp/200512112316390000/
この時の感想にも書いているが、これまで観ていた佐野よりもなんだか元気に見えたのがとても印象に残っていた。そして、これはバンドのせいだな、と思ったのである。荒削りでも若い人たちと組んだ方が良いのでは、などと不遜な感想を抱いたような気もする。そんなライブであった。

ライブも作品もそんな印象だったので、「Coyote」を作ったミュージシャンと新たに「ザ・コヨーテバンド」と称してツアーをしているという情報も、スーッと頭の中に抜けていった。

そんな印象が一変したのは、ダウンロードで先行販売した”世界は慈悲を待っている”(13年)を彼のラジオ番組で聴いた時だった。

佐野元春”世界は慈悲を待っている”(13年) 2013年2月6日
http://30771.diarynote.jp/201302062248208906/


この瞬間に、

「これは、いつもと違うかも?」

と直感し、この曲とそれ以前にダウンロード販売されていた”La Vita é Bella (ラ・ヴィータ・エ・ベラ) ”(12年)を2曲買ってみた。ザ・コヨーテバンドの音は明らかに「Coyote」から深化していることが伝わってくる。珍しく新作を待つのが楽しみになってきた。そして3月13日、佐野の誕生日でもあるこの日に「ZOEEY」が私の手元に届いた(ただ、この日はネットでライブの生中継を観ていたので、ちゃんとアルバムを通して聴いたのは翌日であったが)。

内容は期待を遥かに超えるものだった。全編を通して、これ以上ないほど活き活きとした佐野元春がいる。発売日に57歳となったわけだが、そんな年齢に似つかわしくないほど瑞々しく、先行配信した2曲はもちろんのこと、”ポーラスタア”や”ビートニクス”の演奏も力強い。

穏やかな曲群も良い。具体的に言いにくいけれど、最近は影をひそめていた「佐野元春らしさ」が全面に出ている、というところだろうか。そうした懐かしさのような雰囲気が感じられるのだ。

”君と一緒でなけりゃ”で飛び出す、

「人間なんて みんなバカさぁ」

という投げやりなフレーズも実に見事に決まっている。

しかし極めつけはやはり、”スーパー・ナチュラル・ウーマン”だろう。奔放な女性への讃歌という感じのこの曲のはじけ具合は、いままでの彼の作品でもちょっと比べるものが思いつかないほどである(ところで、この曲はずいぶん露骨な表現が使われているような気がするが私の聞き違いだろうか。歌詞カードは「刹那」と書いているが、「ヴァギ◯」と聞こえるのだが・・・)。

だからといって、別に今回いきなり彼の作曲能力や歌唱法が冴えたというわけでは決してない。やはりザ・コヨーテバンドとの関わりが彼の楽曲またパフォーマーとしての魅力をクッキリと伝わる傑作に結実させたのだろう。

3月13日の生中継ライブも、そんな彼らの生み出す音の素晴らしさが伝わるものだった。ただ、声が出てなかったなあ、という相変わらずの不安要因があったけれど・・・。それでも、チケットを取った5月の大阪公演には期待したい。

今回はオリジナル・アルバムとして6年ぶりである。次に彼が新作を出すのは彼が還暦になった時だろうか。ずっと渋い感想ばかり述べていたし、次に褒められる日が訪れるかどうかもわからないので、この機会に言っておきたい。

2013年のベスト・アルバム最有力候補が登場である。
少しずつ朝日が昇るのが早くなり気温も暖かくなってきて万々歳、と思っていたが、そうでもない人が少なからずいる。花粉のせいである。

症状のキツい人には1年間で最も憂鬱な季節だという。私は花粉症の傾向にある、という程度でそれほどひどくはならないのでまだマシな方だ。

ただ先日急に暖かくなった時は少し苦しかった。クシャミ、透明な鼻水が出る、目の周辺がかゆくなる(充血には至らない)など体に変化が出てきたからだ。

それでも、

「まあ、医者にかかるほどでもないか」

と、屋外の作業でもマスク一つせずに仕事をしていた。コンビニで買ったハーブ入りの飴をなめると、心なしか症状が収まったような気がする。私の症状はその程度のものだった。

しかしそれから数日後の朝、目覚めた時に強い違和感をおぼえる。なんだか喉と鼻がやたらと詰まっているのだ。喉はタンが絡んでいて痛みも感じる。しかも声が恐ろしいほどガラガラになっているではないか。これは昨日までの症状と全く違うものだった。

「これは花粉症でなくて、風邪の症状では?」

と真っ先に思った。ただ、熱など明確に風邪とわかるような症状が出ていないのも事実である。

とりあえず近所のドラッグストアで風邪薬、それも喉の痛みに効きそうなものを買って飲んでみた。

しかしその後、ノドと声の調子は全く良くならない。一方、クシャミや鼻水といった花粉症の時に出てくる症状は薬を飲んだとたんピタリと収まった。これは一体、どうなってるんだ?

ニュースでは中国からのPM2.5や黄砂といった大気汚染のニュースで騒がしい。これも原因な気がするが、もはや自分の症状について何の確信ももてない。とりあえず、飴をなめてるしかないのかなあ。

午前10時30分を少し過ぎた頃、なぜか私は地下鉄「松ヶ崎」近くにある自動車教習所の近くにいた。その理由を説明するためには先日の午後までさかのぼらなければならない。

昨日(3月2日)は自分にとって貴重な、何の用事も入っていない純粋な休日だった。かといって何か予定を入れているわけでもないし、どこかに遠出をする経済的な余裕もない。そして何よりも、雪がちらつく寒い日だった。なんでも1月の気温に逆戻りしたとかなんとか。そして次の金曜日には最高気温が20度になるという予報だから訳が分からない。

しかし部屋にいても、寒くて動けず何もしないまま1日が終わってしまうに決まっている。そこで何冊かの本と弁当(行く途中で購入)と水筒を持って同志社大学まで自転車で向かった。そしてラウンジや図書館でしばらく本を読んで過ごした。3時間ほど経っただろうか。日も暮れてきたので部屋に帰ろうとして、自転車の置いていた場所へ戻る。

しかし、そこに私の自転車はなかった。一瞬、目を疑った。周囲を見渡しても明らかに自転車はない。

「またしても盗まれたか?」

かつて烏丸今出川の交差点付近に置いて2回も紛失した経験(そのうち1件は、カギを壊された状態で戻ってきた)のある私としては、まず盗難の線を疑った。これで自転車の紛失は3回目だ。しかも、同じ烏丸今出川付近で。

しかし、たぶん盗難ではない、とすぐ思い直した。

近くに、

「自転車撤去強化区域」

の看板が目に入ったからだ。そしてこの看板の右下に最新の撤去日が記されており、

「3月2日」

と本日の日付になっているではないか。

「ああ、これか・・・」

と全てを納得した。保管場所は松ヶ崎、引き取りの受付時間は10時30分から午後6時である。その時はもう午後5時30分を回っていたので、この日は諦めることにする。そのまま寒空の下をトボトボと歩いて帰った。大学から部屋までは徒歩18分の距離である。

歩きながらも考えることは自転車のことばかりである。

「まあ、保管場所にあったらあったで終わりだけど、そこになかったらどうしよう?」

「仕事に行くのも不便になる。毎日、始発バスに乗らなければならない」

「いま新しい自転車を買う余裕なんてないぞ」

自転車が無くなると、自分の生活に壊滅的打撃を受けることを身に沁みて感じた。

そうして翌日、地下鉄に乗って松ヶ崎まで足を運んだ。窓口の人に、

「同志社大学のあたりに昨日の午後、自転車を置いたんですが・・・」

と恐る恐る言うと、

「あー、午後2時くらいに撤去をしましたねえ」

という返事だ。まさに私が置いていた時間ピッタリである。

そして何やら書類に記入をし身分証明書を渡して、保管料2300円を払った。

「まだ、撤去されたかどうかわからないですが・・・」

と言うと、

「なかったら、お金はお返しします」

とのことである。とりあえず、保管料は支払わねばならないという。

係の人が置き場に案内してくれた。自転車は撤去日ごとにまとめて並べられている。そして「3月2日」のところに行くと・・・あった、見覚えのある黒い自転車が。これでようやく日常生活に戻れる、と安堵した。そのまま自転車で部屋まで戻った。

撤去強化区域にわざわざ自転車を置いていたのは迂闊だったが、大学周辺に駐輪場が皆無なのが一番問題だと思う(かつては大学内に置いていたが、いまは大学の発行するステッカーがなければ不可)。しかし、それもまたしばらくしたら少し改善されるだろう。京都市内で増えている有料の駐輪場(ガチャッと差し込むタイプ)が烏丸今出川の交差点で設置工事をしているからだ。

別に150円とかそこらの駐輪料金のケチるつもりは私にはない。盗難防止も含めて駐輪場に置いておいた方が良いに決まっている。保管料2300円と取られるよりはずっと経済的なのだから。

早く駐輪場ができないかな。

自転車のカギ

2013年2月28日 日常
多くの人も同じだと思うが、出勤で外へ出る時間はギリギリにしている。部屋から勤務地までの時間はわかっているので、そこから出発する時間を導き出す、というのは誰でもやっていることだろう。

私の場合は自転車で35分くらいかかるので、そこに10分ほど余裕を入れて45分前に部屋を出るようにしている。コンビニに寄ったりしても、始業時間の5分から10分前には到着できるように設定しているのだ。そんな生活をして2ヶ月ほどになる。

この日も6時10分くらいに、そろそろ出かけようかなあ、といつもの調子で部屋を出ようとしたら思いがけない異変に気づいた。自転車のカギを置いてあるいつもの場所に、カギがないのである。どこか別の場所にまぎれてしまったようだ。もう出発時間のギリギリで、探している時間はもう無い。

しかしこの非常事態にあって、けっこう私は冷静であった。

「ええと、6時28分のバスに乗って、タクシーで行けばいつも通りに間に合うだろう」

と計算ができていたからだ。以前に最寄りのバス停の時刻表を確認していたのが功を奏した。

そして6時28分発のバスに乗りこんだ。そのバスは少し様子がおかしかった。運転手のほかにもう一人、制服を着た初老の職員が出口の近くに立っている。そして出て行くお客に、ありがとうございました、と言って挨拶をしているのだ。

どうも運転しているのは入りたてで、年配の職員はその指導に当たっているようだ。

バスに乗ってからは、ひたすら勤務地まで行く経路を頭で考えていた。

「最寄りのバス停から職場まで歩いて15分だから、タクシーをつかまえないと間に合わないなあ。パッと乗れるかなあ」

とその辺りが不安で焦っていた。だが、私よりもっとイライラしていた乗客がいた。バスの前方に立っていた男性が、吊り輪を持つ手を震わせながら年配職員に文句を言っている。どうもバスが送れていることに苛立ってるようだ。

「なにぶん運転手が現在研修中でして・・・」

と年配職員が頭を下げても、

「だったら(年配職員が)横についてる意味ないやろが」

「電車だって1分遅れても、申し訳ありませんでした、と謝罪するで」

「この、公務員が」

と攻撃し続けて、バス停に着くやいなや足早に駅へと走っていった。

正直いえば、京都市の借金を膨らませ続けている市バスや地下鉄に対して私も良い印象を持っていない。ただ彼らは彼らなりの苦労があるのだなとこの時は思った。

ただ、

「たくさん給料もらってるんだからそれくらいの仕打ちを受けても当然でしょ?」

と大半の京都市民からは、そう言われておしまいだろうけど。

幸い車の通りが多い場所だったので、タクシーはすぐ乗ることができた。結果として、始業5分前に勤務先へ到着する。そこからはいつも通りの1日であった。

ちなみに自転車のカギは、部屋に戻ってから探すと、5分ほどで出てきた。朝もう少し早く気がついていれば無駄な出費をしなくても良かったのにと、今更ながらに後悔をした。

上には上がいるものだ
晴れた日は午前6時15分には、雨の日は午前5時48分(始発バスの10分前)には部屋へ出るようになって2ヶ月近くが経過した。少し前は真っ暗だった外も最近は少しずつ明るくなってきている。

午前6時台で開いている店といえば、コンビニかファーストフードばかりだ。開店が早いところといえばパンだろうけど、せいぜい早くて7時である。しかし通勤の途中、6時半ごろの時点で既に開いているお店を見つけていた。けっこう昔からやっていそうな感じのところで、ガラスケースの中にサンドイッチなどが並んでいる。

「ずいぶん早くから開けてるなあ。6時開店かな?」

と気になって、今朝はここで買ってみることにした。店の前に自転車を停めてガラスケースの前に立つと、初老の女性が、

「はい、いらっしゃいませ。今日は寒いですねえ」

と言いながら出て来た。何がおすすめかもわからないので、とりあえず目についたサラミサンドとウインナーロールを注文しながら、

「あのー、ここは何時から開いてるんですか?

と訊ねたら、

「5時からです。朝から並んでる人もいるんですよ」

という返事がかえってきた。まさか5時から開いているとは思わなかった。しかも、それを待っている人もいるとはさらに驚きである。

自分も最近は4時半に起きて7時から仕事をしてるのだが、

「3時に起きて、揚げ物とか作ってるんですよお」

と言っていたこちらの女性はさらに上を言っているわけだ。いったいこの生活を何年続けているのだろうか。並んで待って買っているお客もどんな暮らしをしているのか。そんなことを考えると頭がクラクラしてくる早朝であった。
先月の終わりに中島美嘉が新作アルバム「REAL」を発表した。出荷日に二条駅の大垣書店で初回盤を手に入れる。その中に、これはいつものことだが、CDを買った人の特典としてツアーのチケット先行予約の案内が封入されている。

私にとって中島美嘉の不思議な点に、その人気がどの程度のものかなのか、ということがある。私は「LOVE」(03年)のあたりからずっとライブに足を運んでいるけれど、チケットが取れなかったという経験はない。だいたいこの購入者の先行予約で申し込んでいるけれど、ずっと当選し続けている。チケット自体はいつも売り切れているわけだが、毎年紅白に出ている人のわりには競争率は思うほど激しくないというのが実感である。

今回は大阪公演が7月26日(金)、27日(土)とフェスティバルホールで設定されている。仕事が早く終わるので金曜日が希望だったが、

「やはり、万が一はずれた時のために、土曜日も申し込んでおこうか」

と「第2希望」で土曜日の公演も申し込んだ「つもりだった」。

それからしばらく経って、先日の15日(金)の午後6時にメールが届いた。件名は

<「中島美嘉」当選のご案内>

である。たぶん大丈夫だと思っていたものの、とりあえずチケットを確保できてひと安心、のはずだった。

しかし、おかしい。なんかわからないけど、「当選のご案内」が2件も届いているのである。

「おかしいなあ。なんで2件も当選通知がきているのか」

と思って詳細を確認して、ああ、と頭をかかえてしまった。メールの冒頭だけ紹介する。

<ワタベ カズアキ様

以下の内容で当選が決定しました。

「中島美嘉」CD購入者特別抽選先行(一次)
2013年07月26日(金) 18:30開演
大阪:フェスティバルホール>

もう1つは、

<ワタベ カズアキ様

以下の内容で当選が決定しました。

「中島美嘉」CD購入者特別抽選先行(一次)
2013年0 7月27日(土) 18:00開演
大阪:フェスティバルホール>

である。

何をしていたんだ、私は。第1希望とか第2希望ではなく、ただ別々に公演を申し込んでいたのではないか。しかも、おめでたいことに、2件とも当選するとは。

1件くらい外れても良かったのに。

さきほど私が彼女の人気に対してグダグダ書いた理由が多少は感じていただけただろうか。

しかし、何よりも自分の不注意や用心のなさに嫌になってくる。こんなことを日常でもするから仕事でもヘマをやらかすんだ。しかし、こういう自分の欠陥は一生治らないのだろうか。お金の工面よりも、そういう駄目さ加減を再確認したことのほうが辛い。

お金はお金で大変だ。チケット代と手数料を入れて代金は7400円。が、2枚である。カード決済なのでキャンセルは不可能である。どこで穴埋めをすれば良いのやら。

別に中島美嘉のライブを2公演を観るのはやぶさかではない。

いやあ、2日連続でライブを観れるなんて楽しみだなあ。

などと、いつから私はこの人のそんな熱心なファンになってしまったのやら。BONNIE PINKだって2日連続で観ないんだけどなあ。チケットを取れたのは嬉しいものの、なんだか後味の悪い結果である。
冬来たりなば春遠からじ
日記を書こうとして気づいたが、新しい職場に来てもう1ヶ月の期間が過ぎていた。どんな場所でどんな仕事をしようとも最初はギクシャクするけれど、作業の内容を覚えるにつれて徐々に自分の役割も明確になり業務が回るようになってくる。所詮は派遣社員という立場での仕事なのだから、当たり前のように仕事をしないと困るのだが。

実際、仕事よりも大変なのは日々の出勤なのは間違いない。始業時間が午前7時というのは、全国平均で見てもかなり早い時間だろう。「ポップ・アート」という芸術ジャンルの代表の一人であるアンディ・ウォーホルは、ニューヨークでは生きることそれ自体が重労働だ、というようなことを言ったらしい(すいません。出典がわかりませんでした)。それをもじっていえば、起きることそれ自体が重労働だ、という感じの毎日である。

まだ真っ暗なうちから部屋を出る生活を続けていると、日頃は気にしないことに目が届くようになってくる。それは、日の出についてである。部屋から自転車で30分かけて勤務地に向かうのだが(これを周囲に話すとみんな渋い顔をする。そんなに大変なことだろうか)、勤務地に着く頃(午前6時50分ごろ)には空が白んでくる。そんなことをしているうちに、外の明るさに対して敏感になってくるのだ。

写真はボヤけているけれど、本日の午前6時15分ごろ、部屋を出た直後の画像である。真っ暗ではあるものの、少しだけ空が明るくなってきていることがわかるだろうか。ちょっと前はこの時間は真っ暗だったけれど、徐々に日の出も早くなってきていることに気づいて思わず撮影したわけである。

毎日毎日、暗くて寒い中を自転車をこいでいると、こういう変化に嫌でも反応してしまうのだ。

起きるたびに、

「寒いなあ。早くこんな冬が終わらないかなあ」

とそればかり考えているからだろう。

しかし、こうやって日の出の変化を実感すると、

「冬来たりなば春遠からじ」

(厳しく寒い冬が来たということは、暖かい春が目の前にきている)

というどこかで見つけた言葉(何かの漫画のセリフだったような)が思い浮かび、もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。

ところで、ネットで調べているとこの言葉は文字通りの意味というよりも、

<厳しい冬がくれば、春はすぐその隣、人生の厳しい冬もいつまでも続くわけではなく、希望に満ちた未来がすぐ後ろに控えている。>

http://ことわざ.biz/2006/12/post_27.html

という人生を季節に例えて使うことわざのようだ。

私の人生はまだまだ冬が続いている。もう少し耐えれば季節としての春は1ヶ月くらいで訪れるだろうが、果たして人生の春は自分にやってくるのだろうか。
音楽産業というものがどうなろうとCDの売上げが落ちようと、個人的にはもはやどうでもいい。そんなことを先日の日記で少し述べた。しかしながらまた音楽に関する「暗いニュース」が目に飛び込んできてなかなか興味をそそられたので、同じようなテーマになってしまうが書かせてもらおういと思う。

出典元はニュースブログ「サイゾーウーマン」の

<やっぱりお寒い音楽業界 AKB48、CDバカ売れの陰で、新人アーティストは「初回プレス50枚」の現実>

であった。

http://www.cyzowoman.com/2013/02/post_7915.html

題名を見ただけで内容の想像がつくと思われるが、2012年度のヒットチャートはAKB関連とジャニーズ関係だけで埋め尽くされるという結果になっている。そうした状況の中でこれからデビューする新人アーティストの扱いはかなり悲惨なものになっているというのだ。

<「先日ソニー・ミュージックエンタテインメントからデビューすることになった新人アーティストですが、CDの初回プレス枚数はたったの50枚だったそうです。これはつまり、CDのヒットや売上などはまったく視野に入っていないということ。今は、音楽配信が主流ですし、それでもあえてCDを作ったのは、CDジャケットを制作するデザイナーや、プレス工場に仕事を与えるためでしょうね。50枚といったら、試聴機用や各テレビ・ラジオ局に配布されるプロモーション版と変わらない枚数で、大型のタワーレコードや新星堂に1枚ずつ置かれれば、すぐになくなくなってしまいますよ。こんな時代にデビューするアーティストは、正直不幸だと感じます」(レコード業界関係者)

 かつてノンタイアップの新人の初回プレスというと、およそ3,000〜5,000枚というのが相場だった。しかし現在は、その1/100程度の枚数しか作らないというのだから、もはやインディーズどころか、路上アーティストの見本盤や、身内で交換するため作られたオリジナルCD-Rのような感覚だ。>

ご存知のようにソニー・ミュージックエンタテインメントといえば音楽会社でも大手になるけれど、「CDの初回プレス枚数はたった50枚」というのである。こんな枚数では見本として関係各位に送ったらおしまいではないか。これでどうやって広報宣伝を展開しようというのか。

そもそも大手のレコード会社からデビューするのは、大きな資本力と幅広い流通網や広報媒体が背景にあるからだ。しかしCDのプレス枚数がインディーズ並み、しかし経営方針は変わらず無意味でくだらないプロモーション活動を押しつけられるとしたら、もはや何のメリットもないだろう。しかしそれでも、ソニーから出たい!とか思うミュージシャンもいるに違いない。

しかし、そんなことを考えているうちに、

「あれ?これって音楽業界に限らず、どこの産業でも同じ状況では?」

という思いに至った。これは全ての衰退産業が辿る道ではないか、と。

ある企業の売上げが頭打ちになるとする。そうなったら経営陣が真っ先に考えることは各種経費の削減だ。儲かっている時は調子に乗って営業規模を拡大したものを縮小しようとする。支社や営業所を削減し生産量を少なくし、それにともない人員も切っていき、それでなんとか持ちこたえようとする。新しく打つ手がなければ、9割9分の会社はこうしたやり方をするだろう。

焦った経営陣が考えることは、ただ一つである。

「せめて現状維持を」

しかし、そうなると会社の中はどうなっていくか。まず、「経費削減ありき」で仕事をするため、業務内容もいきおい後ろ向きなものになっていく。新しいことをしようにも「経費がかかる」という理由で採用されない。

一番つらいのは、これは私がかつての職場でさんざん押しつけられた業務であるが「辞めたいけど辞められない業務」というものである。経費がかかるばかりで「不良債権」としかいいようのない業務だが、取引先との関係上(ひらたく言えば「お付き合い」というやつだ)続けざるをえない。ある程度の規模の企業になるとそういうわけのわからない仕事も存在するのである。

悲惨なのは、その現場担当者である。頑張って遂行しても全く評価のされない仕事を、しかも「経費を削ってやれ」と現状のわからない無能な上司(これも「不良債権」だ)に命令され、あとは全ての業務を現場担当者に丸投げする。これで上司の仕事はおしまい。

こうして私はつぶされました。めでたし、めでたし。

というのは全くの余談だが、そういう経験からいえばこの現在に大手企業へ志望することにはあまり賛成できない。待遇はどんどん悪くなるうえ、つまらない仕事しか残っていないだろうから。

しかし世の中がどんどん不安になっていけばいくほど、若い方にも安定志向、いや「安定幻想」といったものに取り憑かれているような印象を受ける。しかしさきほど取り上げたソニーの新人アーティストの現状を見ていると、現実には「安定」なんてもはや無いぞ、と繰り返し言いたくなってしまうのだ。

火曜日の午後11時からNHK-FMで放送されている佐野元春の「元春レイディオ・ショー」を最近は毎週聴いている。もともと音楽について情報を仕入れるのに熱心な人間ではないけれど、先月の特集「新春対談特集"音楽をもっと聴こう"」で小林克也氏ほかゲストとの昔話(FENとかロック喫茶とか)がとても楽しくて興味深く、自分の中で少しだけ音楽への興味がまた少し強くなってきたのである。

ただ、ネックになっているのは番組の放送時間だ。日付が変わるくらいまで起きていたら睡眠時間が全く足りなくなる。そこで、火曜日は仕事が終わって部屋を戻ったらすぐ仮眠をとっておいて番組開始に備えるのだ。そんな小さな努力というか工夫をしながらラジオを聴いてる。

昨日の放送では3月13日に発売される新作アルバム「ZOOEY」(ゾーイー)の中から、1月30日より先行配信されている”世界は慈悲を待っている”が初めて披露された。

佐野元春 & THE COYOTE BAND”世界は慈悲を待っている”
http://www.youtube.com/watch?v=HTlitMhwzTQ

正直いえば、新作は出たら出たで買うつもりだったけれど、とりたてて期待もしてなかった。それは色々な理由があるけれど、例えば前作「Coyote」(07年)の感想は書いたことがあるので参照していただければと思う。

佐野元春「Coyote」(07年)
http://30771.diarynote.jp/200710082027370000/

昨年からTHE COYOTE BANDとツアーをしているものの、足を運ぶような動機も自分にはなかった。しかし”世界は慈悲を待っている”を聴いてからその思いは一変する。佐野は私より20歳上であり、その一回り下の世代であるTHE COYOTE BANDの面々もそれなりの年齢を重ねている。しかしそういう顔ぶれに似つかわしくないほどに瑞々しいメロディと躍動感を持った楽曲である。そして本日、iTunes Storeでこの曲を買ってしまった(昨年の夏にすでに配信済みの”ラ・ヴィータ・エ・ベラ”も)。

「Coyote」の中で私が一番好きなのは”君が気高い孤独なら”という曲である。

佐野元春”君が気高い孤独なら”
http://www.youtube.com/watch?v=rReRPPAkjJU

アルバムの中でも疾走感がひときわ印象的だった。そして”世界は慈悲を待っている”にも同質の魅力があり、元春とTHE COYOTE BANDとの絡みがさらに深まっていることを感じさせる。これがアルバムの冒頭になるとは新作への期待ががぜん高まるではないか。

歌詞については直接聴きとるしかないけれど、

<ありふれた この1日を
かけがえのない 意味ある日にするために>

<新しい誰かと出会うために 新しい場所へと向かい始めた>

などといった一節がなんとなく印象に残っている。今の自分の心境にあっているような気がする。

それにしても、彼の楽曲を聴いてここまで心を動かされたのは本当に久しぶりだ。それこそデビュー時から共に活動したバンドであるザ・ハートランドの解散(94年)から初めてのことかもしれない。こういう時だからこそ言える本音である。

先日、音楽ソフトよりコンサート関係の売上げの方が上回ったというニュースがちょっとした話題になっていた。なんだか音楽産業も行き詰まって久しい印象だが、私の周囲はそんなことは関係ないというばかりにアーロン・ネヴィルに中島美嘉、そしてこの佐野元春など素晴らしい音楽があふれている。好きなミュージシャンが活動する限りそれを追いかける。私がするのはそれだけのことだ。

5月26日には大阪フェスティバルホールで佐野元春&THE COYOTE BANDが新作アルバムをともなったライブをおこなう。その前日25日はBONNIE PINKのファンクラブイベントが同じく大阪で開催されるけれど(私は会員ではないものの、同伴者として参加予定)、今回のライブは充実しそうな予感するので足を運びたいと思う。

早朝のカフェオレ
どんなに朝が早くても遅刻はまずしない。だからといって朝が強いというわけでもない。むしろ、パッと起きるのはものすごく苦手だ。

社会に出るまでは今以上に朝が苦痛で仕方なかった。生まれつきものすごい低血圧の体質で、上が100を切るほどであった。毎朝目を覚ますのがものすごく気分が悪い。しかし、会社勤めをしてしばらく経つうちに血圧も125くらいの数値になっていき、かつてほどには起きるのが辛くなくなった。

だが、現在でも起きるのは苦しいし、スッキリと目が覚めるという体験も自分の中ではあまり記憶がない。

「起きるのダルい。それだったら、ずっと寝ていたい」

こうして、休みの日は正午近くまで布団から起き上がらないこともしばしばだ。寒い冬の季節はこの傾向がさらに強くなる。そういうわけで、自分にとって冬の朝は最悪である。

しかし、である。新しい仕事は朝からけっこう体を動かしたり、細かいことも必要になってくる業務だ。頭がボーッとしている状態ではつまらないミスをする可能性も高くなってくる.元来ボヤッとしている人間であるから、このあたりはどうしても対策を立てないといけない。ここしばらくそんなことを思っていた。

だからといって何か対策をたてたかといえば、特に何もしてなかった。36年生きてきてずっと朝が弱かったのだから、これからも清々しい朝を迎えられるとも思えなかったのである。

だが先日、思いがけないことからこの問題の解決の糸口が見えてきた。仕事の帰りで買った牛乳とインスタント・コーヒーでなんとなくカフェオレを作って、翌朝にそれを飲んだ時のことである。しばらくすると、不思議と頭がスッキリしてきたのを自分でも感じとったのだ。別にカフェオレを飲もうとしたのは何の意図もなかったのだけど、この効果には驚いた。

そんなのコーヒーだって同じだろう、と思う方も多いだろう。しかし、コーヒーを飲んでスッキリした記憶も私には無いのである。よくよく考えてみれば、朝起きて空腹の状態でカフェインを胃袋に流し込むというのはなかなか刺激の強い行為な気がする。少なくとも、体に良いことはないだろう。朝にコーヒーを飲んでもちっとも目覚めない自分は間違っていないと思う。

そんなコーヒーと比べると、牛乳の入ったカフェオレの方がいくぶん刺激は弱いし味も優しくなっている。それでもカフェインが入ってるから目覚めの効果はある。ちなみに砂糖などの類は全く入れていない。市販のカフェオレがたいてい不必要なくらいベタベタに甘く味付けがされているけれど、それも目覚めには良くないような気がする。

なんだか講釈が多くなった気もするが、ともかく最近は毎朝カフェオレを作って飲んでいて目覚めも良くなっている。また仕事でミスらしきものもなく順調だ。別に仕事とカフェオレとの因果関係があるというつもりもないけれど、しばらく朝のお供に飲み続けるような気がする。

写真は私がそのカフェオレを入れているマグカップだ。07年にヴァン・モリソンを観るため渡英した際、ロンドン三越で買ったものである。ご存知の方も多いだろうが、セックス・ピストルズの唯一のアルバムのジャケットがプリントされている。

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