現状を詳しく書く気もないけれど
2012年4月23日またしても日記を書く間隔が空いてしまった。部屋にいる間はずっとパソコンを立ち上げているので、数行をザッとキーボードで打つ時間を作るなどなんでもないはずだ。仕事が忙しかったのだろうか。いや、理由は逆である。つまり、働く仕事がなかったのだ。
現時点で詳しい書く気力が自分にはない。それでも敢えてザッと説明すると、今月の初めから働く場所のアテが外れてしまい、そのまま何もすることができず今日まで迎えてしまったのである。4月はもう20日を過ぎてしまったけれど、日雇いのバイトを1日しただけである。このままでは生活もままならなくなってしまう。
幸い、とはいえないけれど今日よりまた働き始めはした。しかしこの仕事だけで生活費を捻出するにはちょっと不可能な状態になっている。そこでもう一つ掛け持ちで仕事をしようと画策しているけれど、そこの面接が連休明けとかなり先送りになってしまった。
そもそも次も決まらないまま職場を逃げ出したのが間違いだろう、という声がガンガン聞こえてきそうだが、本人はもう限界だったのだから勘弁してほしい。
とりあえず、来月の中旬(具体的には5月15日)には身辺も落ち着いている、ような気がする。いや、落ち着いていないともうどうにもならないところまできている。そんな不安定な状態だったので日記も滞った、とご理解いただきたい。
しかし、飲み食いする元気があるので、哀れと思った方は声をかけていただければ幸いである。と、捨て台詞を吐いて久しぶりの日記を締めたいと思う。
現時点で詳しい書く気力が自分にはない。それでも敢えてザッと説明すると、今月の初めから働く場所のアテが外れてしまい、そのまま何もすることができず今日まで迎えてしまったのである。4月はもう20日を過ぎてしまったけれど、日雇いのバイトを1日しただけである。このままでは生活もままならなくなってしまう。
幸い、とはいえないけれど今日よりまた働き始めはした。しかしこの仕事だけで生活費を捻出するにはちょっと不可能な状態になっている。そこでもう一つ掛け持ちで仕事をしようと画策しているけれど、そこの面接が連休明けとかなり先送りになってしまった。
そもそも次も決まらないまま職場を逃げ出したのが間違いだろう、という声がガンガン聞こえてきそうだが、本人はもう限界だったのだから勘弁してほしい。
とりあえず、来月の中旬(具体的には5月15日)には身辺も落ち着いている、ような気がする。いや、落ち着いていないともうどうにもならないところまできている。そんな不安定な状態だったので日記も滞った、とご理解いただきたい。
しかし、飲み食いする元気があるので、哀れと思った方は声をかけていただければ幸いである。と、捨て台詞を吐いて久しぶりの日記を締めたいと思う。
SNSでは(たぶん)かなわないこと
2012年4月14日また日記を書く間隔が空いてしまった。別に自分は作家でもないし仕事で文章を書いてるわけでもないけれど、ちょくちょく覗いている方もいるようなので申し訳なく思う。
本当のことを言えば、書くようなネタはけっこう溜まっている。しかし今の自分が書くにはあまりに痛々しい内容になってしまってキーボードの打つ手が動かないのだ。特に昨日は「人生で最悪の日」と言いたいくらい辛い出来事も経験した。もう少し落ち着いて現状をもっと客観的に見られるようになってから事後報告をできたらと思っている。
ともかく昨日の夜は泣きたいくらいな状態に陥っていた。もう何もする気が起きなくなり、日記はおろかmixiやTwitterなどで何かメッセージを入れることもままならない。そんなことしても何も解決しないことがわかっているから。
その代わり、友人にメールを送ってたり、しばらく会ってない人に電話をしてみたた。人に悩みを打ち明けるような真似は意地でもするまいと昔は思っていたが、すっかり自分も気が弱ってしまったようだ。それとも、かつてより人間らしくなったと解釈したほうが良いのだろうか。
それはともかく、電話で話した一人から、明日西京極(運動公園)にいるから顔を出してよ、と言われる。こちらは何も予定がなかったし直接会って色々と喋ったほうが良いだろうと思い、天気が良かったら行きますと返事して電話を切った。いま降っている雨も明日の昼には上がるようだし、予報通りになることを祈りながら眠った。しかし気分はあまりすぐれず、寝付きの良い自分には珍しいほど眠りにつけなかった。
翌朝、目が覚めたのは午前8時過ぎたあたりだっただろうか。空模様はどんよりとしているけれど雨はあがっている。これなら大丈夫だろうと判断し自転車を40分ほどこいで西京極へ向かった。昨日と今日は陸上競技場のほうで「京都学生陸上競技対校選手権大会」が2日間にわたっておこなわれていた。私が会ったのはその手伝いをしているYさんである。関係者でもないのに図々しくも役員室に入ると、しばらく顔を見てなかった何人かと出会い、嬉しいやら恥ずかしいやらである。嫌らしい話になるけれど、名刺とか出せる身分だったらなあ、とこういう時は思ってしまう。やはり今の自分の立場は惨めだ。
とりあえずYさんに会ったら、弁当とお茶を差し出してきて一緒に食べようよと言う。私は別に何もしてないんだけどね。
弁当を食べながら、電話でも少し話をしていたが、自分の現状(詳しくは言わないが仕事のこと)を伝えた。
すると、
「渡部さん、英語はできる?僕の教え子はO(大企業)の専務でねえ。こないだ頼んで2人入れてもらったんだよ。そこが民間企業の良いとこだよね?公務員じゃそういうの無理だし」
と、今の私には頭がクラクラするような話をしてくれた。もっとも、すっかり自信喪失している自分にはそんな大企業を受ける自信など全くないけれど。英語は密かに特訓してるけれど、実践にはまだほど遠いレベルだし。
前からYさんは私が北海道出身なのを以前から気にしていた。というのも、彼は博多や北海道で保育園を経営しているという。北海道を気に入っているようで、3年後には家を建ててそっちに移住する予定だとか。そして話はとんでもない展開になっていく。
「渡部さん、40になったら北海道に帰りなよ。そして僕の園の副園長になってよ。ドカッて座ってるだけでいいから。給料も僕が決めるし」
と持ちかけてきたのである。彼は北海道に行くとしたら誰かと一緒に働きたいということだろうか。また、私だったら実家も北海道だし丁度いいということなのか。
自分が40歳になるといえば、4年後になるか。もう都会暮らしも飽きてきたし、ネットを接続すればたいがいのものは買えるし、北海道で暮らすのも悪くないかなと少し心がグラッときた。しかしYさんのことだから、家に帰って親の面倒見なよ長男なんだし、と絶対けしかけてくるに決まってる。実家にだけは戻りたくない自分にとってそれは最悪のパターンだ。
それはともかくYさんと色々と話しているうちに、空模様と同じく気持ちもかなり好転していることに気付く。
悩みを一人で抱えるのは実に辛い。しかしネットで不特定多数の人にそれを流したところでほとんど心情は伝わらないし、形式的な励ましの言葉が贈られる程度だ。いや下手をしたら傷口に塩を塗りつけるような真似をする輩も出てくることも大いにありうる。問題を打ち明ける相手は生身の人間、しかもそれなりに自分を理解してくれる人でなければ良い方向にはいかない。そういう面で西京極まで行ってYさんに会うのは正解だった。
現時点で自分の抱える問題は解決したわけではない。しかし、なんとかなりそうな気持ちになってきた。少なくとも、4年後の食い扶持は確保できたのだし。
本当のことを言えば、書くようなネタはけっこう溜まっている。しかし今の自分が書くにはあまりに痛々しい内容になってしまってキーボードの打つ手が動かないのだ。特に昨日は「人生で最悪の日」と言いたいくらい辛い出来事も経験した。もう少し落ち着いて現状をもっと客観的に見られるようになってから事後報告をできたらと思っている。
ともかく昨日の夜は泣きたいくらいな状態に陥っていた。もう何もする気が起きなくなり、日記はおろかmixiやTwitterなどで何かメッセージを入れることもままならない。そんなことしても何も解決しないことがわかっているから。
その代わり、友人にメールを送ってたり、しばらく会ってない人に電話をしてみたた。人に悩みを打ち明けるような真似は意地でもするまいと昔は思っていたが、すっかり自分も気が弱ってしまったようだ。それとも、かつてより人間らしくなったと解釈したほうが良いのだろうか。
それはともかく、電話で話した一人から、明日西京極(運動公園)にいるから顔を出してよ、と言われる。こちらは何も予定がなかったし直接会って色々と喋ったほうが良いだろうと思い、天気が良かったら行きますと返事して電話を切った。いま降っている雨も明日の昼には上がるようだし、予報通りになることを祈りながら眠った。しかし気分はあまりすぐれず、寝付きの良い自分には珍しいほど眠りにつけなかった。
翌朝、目が覚めたのは午前8時過ぎたあたりだっただろうか。空模様はどんよりとしているけれど雨はあがっている。これなら大丈夫だろうと判断し自転車を40分ほどこいで西京極へ向かった。昨日と今日は陸上競技場のほうで「京都学生陸上競技対校選手権大会」が2日間にわたっておこなわれていた。私が会ったのはその手伝いをしているYさんである。関係者でもないのに図々しくも役員室に入ると、しばらく顔を見てなかった何人かと出会い、嬉しいやら恥ずかしいやらである。嫌らしい話になるけれど、名刺とか出せる身分だったらなあ、とこういう時は思ってしまう。やはり今の自分の立場は惨めだ。
とりあえずYさんに会ったら、弁当とお茶を差し出してきて一緒に食べようよと言う。私は別に何もしてないんだけどね。
弁当を食べながら、電話でも少し話をしていたが、自分の現状(詳しくは言わないが仕事のこと)を伝えた。
すると、
「渡部さん、英語はできる?僕の教え子はO(大企業)の専務でねえ。こないだ頼んで2人入れてもらったんだよ。そこが民間企業の良いとこだよね?公務員じゃそういうの無理だし」
と、今の私には頭がクラクラするような話をしてくれた。もっとも、すっかり自信喪失している自分にはそんな大企業を受ける自信など全くないけれど。英語は密かに特訓してるけれど、実践にはまだほど遠いレベルだし。
前からYさんは私が北海道出身なのを以前から気にしていた。というのも、彼は博多や北海道で保育園を経営しているという。北海道を気に入っているようで、3年後には家を建ててそっちに移住する予定だとか。そして話はとんでもない展開になっていく。
「渡部さん、40になったら北海道に帰りなよ。そして僕の園の副園長になってよ。ドカッて座ってるだけでいいから。給料も僕が決めるし」
と持ちかけてきたのである。彼は北海道に行くとしたら誰かと一緒に働きたいということだろうか。また、私だったら実家も北海道だし丁度いいということなのか。
自分が40歳になるといえば、4年後になるか。もう都会暮らしも飽きてきたし、ネットを接続すればたいがいのものは買えるし、北海道で暮らすのも悪くないかなと少し心がグラッときた。しかしYさんのことだから、家に帰って親の面倒見なよ長男なんだし、と絶対けしかけてくるに決まってる。実家にだけは戻りたくない自分にとってそれは最悪のパターンだ。
それはともかくYさんと色々と話しているうちに、空模様と同じく気持ちもかなり好転していることに気付く。
悩みを一人で抱えるのは実に辛い。しかしネットで不特定多数の人にそれを流したところでほとんど心情は伝わらないし、形式的な励ましの言葉が贈られる程度だ。いや下手をしたら傷口に塩を塗りつけるような真似をする輩も出てくることも大いにありうる。問題を打ち明ける相手は生身の人間、しかもそれなりに自分を理解してくれる人でなければ良い方向にはいかない。そういう面で西京極まで行ってYさんに会うのは正解だった。
現時点で自分の抱える問題は解決したわけではない。しかし、なんとかなりそうな気持ちになってきた。少なくとも、4年後の食い扶持は確保できたのだし。
これのどこが「国民総背番号制」じゃ
2012年4月10日先日までいた職場を去る時、少なからず不安なことが一つあった。それは会社の発行した保険証を返すことである。多くの人が当然にように持っている免許証というものを所持していない私にとって保険証は数少ない貴重な身分証明書の一つだ。これを除いたら、それこそパスポートしか残されていないだろう。
持っていない立場から見れば、免許証というのは非常に便利なものだ。写真が付いているというのも心強い。昨年の6月に簿記2級の試験を受ける時は、会場に「写真付きの身分証明書」を机の上に置かなければならなかった。多くの人は免許証か学生証を並べている中でパスポートを出していたの少数派だったに違いない。
「次の保険証をもらうまでに他の身分証明を作ったほうがいいかなあ」
と考えるようになった。そして、何年かに前ある人から、住基カード(住民基本台帳カード)が身分証明になるぞ、と言われたことを思い出す。次の職場に住民票を写しを提出する必要があるから、区役所に行くついでに住基カードも作ってもらおうと決める。ネットで調べると、証明写真1枚と手数料500円、そして身分証明書(笑)が必要だという。身分証明書を作るにも身分証明書が必要だというわけか。ここでもパスポートが活躍する。実際に利用したのはイギリスに1度行った時だけなのに、ここまで二次利用をさせてもらうとは予想外である。
こうして私はめでたく新しい身分証明書を手にすることができた。カードの申請から交付までにかかった日数はわずか3日間ほどである。
しかしこれが本当に免許証やパスポートの同等の働きをするのか、という疑念が自分には少し残っていた。そこでネットで住基カードについてもう少し調べてみるとその疑念が実際のものとなってしまう。
住基カードは必ずしも身分証明書としては完璧なものではなかったのだ。
ウィキペディアでも書いてあることだが、住基カードには「12345」というようなそのカード固有の番号が入っていない。名前、顔写真、住所、果てはICチップまで搭載されているのに番号が振られていないのというのがかなり痛い。そしてそのような欠点があるため、身分証明としては使えない業者(ソフトバンクモバイル、楽天銀行、じぶん銀行など)もあるという。
かつて住民基本台帳が導入されるという時、「国民総背番号制」がうんぬんと結構な議論になっていた。私も何となくこの制度を不気味に感じていたし、実際に導入されてから封書で、あなたの番号はこれこれです、という文書が届いた時もなんだか気持ち悪かったことを覚えている。
あれから何年経ったかわからないけれど、かつてはこの制度を反対していた民主党が納税記録や社会保障情報を管理する「マイナンバー」を導入することをこの2月に閣議決定した。
私にはこれによって、何が良くなり何が悪くなるのか、判断がつかない。しかし法律が変わったからといってこの使えないカードが身分証明として今よりも機能が向上することはないような気がする。
持っていない立場から見れば、免許証というのは非常に便利なものだ。写真が付いているというのも心強い。昨年の6月に簿記2級の試験を受ける時は、会場に「写真付きの身分証明書」を机の上に置かなければならなかった。多くの人は免許証か学生証を並べている中でパスポートを出していたの少数派だったに違いない。
「次の保険証をもらうまでに他の身分証明を作ったほうがいいかなあ」
と考えるようになった。そして、何年かに前ある人から、住基カード(住民基本台帳カード)が身分証明になるぞ、と言われたことを思い出す。次の職場に住民票を写しを提出する必要があるから、区役所に行くついでに住基カードも作ってもらおうと決める。ネットで調べると、証明写真1枚と手数料500円、そして身分証明書(笑)が必要だという。身分証明書を作るにも身分証明書が必要だというわけか。ここでもパスポートが活躍する。実際に利用したのはイギリスに1度行った時だけなのに、ここまで二次利用をさせてもらうとは予想外である。
こうして私はめでたく新しい身分証明書を手にすることができた。カードの申請から交付までにかかった日数はわずか3日間ほどである。
しかしこれが本当に免許証やパスポートの同等の働きをするのか、という疑念が自分には少し残っていた。そこでネットで住基カードについてもう少し調べてみるとその疑念が実際のものとなってしまう。
住基カードは必ずしも身分証明書としては完璧なものではなかったのだ。
ウィキペディアでも書いてあることだが、住基カードには「12345」というようなそのカード固有の番号が入っていない。名前、顔写真、住所、果てはICチップまで搭載されているのに番号が振られていないのというのがかなり痛い。そしてそのような欠点があるため、身分証明としては使えない業者(ソフトバンクモバイル、楽天銀行、じぶん銀行など)もあるという。
かつて住民基本台帳が導入されるという時、「国民総背番号制」がうんぬんと結構な議論になっていた。私も何となくこの制度を不気味に感じていたし、実際に導入されてから封書で、あなたの番号はこれこれです、という文書が届いた時もなんだか気持ち悪かったことを覚えている。
あれから何年経ったかわからないけれど、かつてはこの制度を反対していた民主党が納税記録や社会保障情報を管理する「マイナンバー」を導入することをこの2月に閣議決定した。
私にはこれによって、何が良くなり何が悪くなるのか、判断がつかない。しかし法律が変わったからといってこの使えないカードが身分証明として今よりも機能が向上することはないような気がする。
昨年度のことを色々と振り返りながら過去を清算しようと当初は息巻いていたものの、いざ書くとなるとキーボードを打つ手が動かなくなってしまった。人間というのは、本当に辛いことに向き合うとこういう状態になるのだなと感じる。自分の身を切るような思いに駆られてしまうのだ。
何をいま書こうとしているのかといえば、この1年における就職活動の経過についてである。
去年の5月から先月(12年3月)に至るまで、おそらく応募した会社・団体は100に迫ったと思う。そして書類選考が通って面接まで進んだ(またはいきなり面接まで行った件)のが10件ほど、そして実際に採用されたのがたったの1件である。
この結果をそのまま数値化すれば、面接まで進む確率が10パーセント、内定するのは1パーセントだ。
なかなか現実は厳しいものだと感じたが、友人と飲みながらこのことを話すと、
「今はそんなもんでしょう」
としたり顔で言われてやや面食らった。世間でも内定率はそのようなものとどこかで聞いた気もするが、頭で理解するのと実際に体験するのではかなりの乖離があるだろう。本当に100社受けて99社からダメだしをくらうというのが相当に辛い経験である。
「社会における自分の価値ってこんなものなんだな」
そういうことが実際に客観的な数字で出てしまうのも就職活動であろう。ああ嫌だ。
話の流れのついでに、自分の存在が否定された経験をもう一つ紹介しよう。
この1年、各社が提供している求人サイトもかなり利用した。履歴書や職務経歴書はサイトに掲載し、受けたい企業にはサイトを通じてそれを送るから便利だ(気軽に送れる分、競争率も高くなるだろうが)。リクナビNEXT、DODA、en、@type、マイナビ(ここはリクルートを抜いていま一番勢いがあるらしい)など複数の求人サイトに登録し、自分が申し込めそうなものは片っ端から応募してみた。それが積み重なって「99件の企業からダメだしをくらった」ということになるのだが。
それから「転職支援サービス」というものも2回体験したことがある。これはサービスを提供している会社に出向いて担当者と面談し、そこから自分にあった求人を紹介してもらうというものだった。
ここでも本当に嫌な経験をしている。ある外資系のJ社という転職支援の会社に行った時のことである。私は別にここを登録するつもりはなかったが、どこかのサイトに載っている会社を応募したところ窓口がJ社だったのでそこに出向いた。
そこで出会った担当者が最悪だった。私は応募した会社のことを訊きたかったのに、関係ないことを根掘り葉掘り訊いてきた上で、
「前の会社に残った方が良かったんちゃいます?」
と、とんでもない暴言を吐いてきたのである。いくらなんでも、辞めた人間に対してこのセリフは禁句だろうが。
「会社が泥舟だったから、沈む前に辞めてやったんじゃ!」
と言いたかったけど、あまりに頭がカッとなって何も口から出てこなかった。
話を聞けばこのHという男、なんでも36歳にしてJ社が5社目というから、まともに積んだ実績など何も無いのだろう。J社も彼が何度も会社を変えてるから「何社も就職に内定した実績がある」とでも評価して採用したのだろうか。そんなバカな。
この後も、字が汚いだの、面接は場数を踏まないといけないから何度も受けるしかない、だのと、
「その程度の話だったら中学生でも言えるぞ!」
というようなレベルのアドバイス(?)を受けて、気分が悪いまま部屋を出たのを今でも覚えている。
冷静に話を戻せば、転職サービスの連中に過度の期待をするのは止めた方が賢明だ。このサービスによって採用された場合、採用した会社は新入社員の年収の2割くらいだったな、転職支援会社への手数料として支払うシステムになっている。連中はあくまで金をもらう側に目が向いているわけで、応募してくる人間は「商品」の候補に過ぎないのだ。そういう関係だけは頭に入れておいた方がよい。
非公開の求人を紹介してもらえるというメリットはあるにはあるものの、おかしな会社を紹介される可能性も否定できない。私だって、そこは嫌だというのに光通信の関連会社を何度も紹介された。この担当者は人の話を聞いてないなと感じた。さきほどのHのこともあるけれど、転職支援のアドバイザーもたいした能力があるわけでもないということも付け加えておこう。
しかしながら、こんなに文句ばかり言ってから書くのもどうかと思うが、光通信でもなんでも紹介してもらえるだけまだマシだったかもしれない。他の転職サイトでも転職支援サービスを申し込んでみたものの、紹介できるところがありません、というメールが届いて終わりだったから。ああ、辛い。
そういえば面談をした時、転職をする年齢が「32歳」が限度と教えられたことがある。35歳ではちょっと遅かったですねえ、と言われたのも結構ショックを受けたことも今も生々しく記憶に残っている。
となれば今年で36歳になる私は、また再び転職活動をするとしたらさらに厳しい道を歩まねばならないだろう。採用率は0.5パーセントくらいまで落ちるだろうか。それをカバーするためには何かスキルアップをしないといけないと思うが、さてどうしようかと思案している今日このごろである。
何をいま書こうとしているのかといえば、この1年における就職活動の経過についてである。
去年の5月から先月(12年3月)に至るまで、おそらく応募した会社・団体は100に迫ったと思う。そして書類選考が通って面接まで進んだ(またはいきなり面接まで行った件)のが10件ほど、そして実際に採用されたのがたったの1件である。
この結果をそのまま数値化すれば、面接まで進む確率が10パーセント、内定するのは1パーセントだ。
なかなか現実は厳しいものだと感じたが、友人と飲みながらこのことを話すと、
「今はそんなもんでしょう」
としたり顔で言われてやや面食らった。世間でも内定率はそのようなものとどこかで聞いた気もするが、頭で理解するのと実際に体験するのではかなりの乖離があるだろう。本当に100社受けて99社からダメだしをくらうというのが相当に辛い経験である。
「社会における自分の価値ってこんなものなんだな」
そういうことが実際に客観的な数字で出てしまうのも就職活動であろう。ああ嫌だ。
話の流れのついでに、自分の存在が否定された経験をもう一つ紹介しよう。
この1年、各社が提供している求人サイトもかなり利用した。履歴書や職務経歴書はサイトに掲載し、受けたい企業にはサイトを通じてそれを送るから便利だ(気軽に送れる分、競争率も高くなるだろうが)。リクナビNEXT、DODA、en、@type、マイナビ(ここはリクルートを抜いていま一番勢いがあるらしい)など複数の求人サイトに登録し、自分が申し込めそうなものは片っ端から応募してみた。それが積み重なって「99件の企業からダメだしをくらった」ということになるのだが。
それから「転職支援サービス」というものも2回体験したことがある。これはサービスを提供している会社に出向いて担当者と面談し、そこから自分にあった求人を紹介してもらうというものだった。
ここでも本当に嫌な経験をしている。ある外資系のJ社という転職支援の会社に行った時のことである。私は別にここを登録するつもりはなかったが、どこかのサイトに載っている会社を応募したところ窓口がJ社だったのでそこに出向いた。
そこで出会った担当者が最悪だった。私は応募した会社のことを訊きたかったのに、関係ないことを根掘り葉掘り訊いてきた上で、
「前の会社に残った方が良かったんちゃいます?」
と、とんでもない暴言を吐いてきたのである。いくらなんでも、辞めた人間に対してこのセリフは禁句だろうが。
「会社が泥舟だったから、沈む前に辞めてやったんじゃ!」
と言いたかったけど、あまりに頭がカッとなって何も口から出てこなかった。
話を聞けばこのHという男、なんでも36歳にしてJ社が5社目というから、まともに積んだ実績など何も無いのだろう。J社も彼が何度も会社を変えてるから「何社も就職に内定した実績がある」とでも評価して採用したのだろうか。そんなバカな。
この後も、字が汚いだの、面接は場数を踏まないといけないから何度も受けるしかない、だのと、
「その程度の話だったら中学生でも言えるぞ!」
というようなレベルのアドバイス(?)を受けて、気分が悪いまま部屋を出たのを今でも覚えている。
冷静に話を戻せば、転職サービスの連中に過度の期待をするのは止めた方が賢明だ。このサービスによって採用された場合、採用した会社は新入社員の年収の2割くらいだったな、転職支援会社への手数料として支払うシステムになっている。連中はあくまで金をもらう側に目が向いているわけで、応募してくる人間は「商品」の候補に過ぎないのだ。そういう関係だけは頭に入れておいた方がよい。
非公開の求人を紹介してもらえるというメリットはあるにはあるものの、おかしな会社を紹介される可能性も否定できない。私だって、そこは嫌だというのに光通信の関連会社を何度も紹介された。この担当者は人の話を聞いてないなと感じた。さきほどのHのこともあるけれど、転職支援のアドバイザーもたいした能力があるわけでもないということも付け加えておこう。
しかしながら、こんなに文句ばかり言ってから書くのもどうかと思うが、光通信でもなんでも紹介してもらえるだけまだマシだったかもしれない。他の転職サイトでも転職支援サービスを申し込んでみたものの、紹介できるところがありません、というメールが届いて終わりだったから。ああ、辛い。
そういえば面談をした時、転職をする年齢が「32歳」が限度と教えられたことがある。35歳ではちょっと遅かったですねえ、と言われたのも結構ショックを受けたことも今も生々しく記憶に残っている。
となれば今年で36歳になる私は、また再び転職活動をするとしたらさらに厳しい道を歩まねばならないだろう。採用率は0.5パーセントくらいまで落ちるだろうか。それをカバーするためには何かスキルアップをしないといけないと思うが、さてどうしようかと思案している今日このごろである。
会社を辞めて一番つらかったことは収入源が無くなったことなのは間違いない。だが、およそ12年ぶりにまた再び就職活動を始めるというのもそれに次ぐくらい苦しいものだった。会社を辞める踏ん切りのつかない方は、また就活をするのが嫌だ、というのも多いに違いない。いや、大半の人にとってはもう経験したくないことだろうか。
そもそも私は、自分がまたどこかで採用されるようなことなどあるのだろうか?という疑念を常に抱えたまま活動してきた。端から見ればとんでもなくネガティブな考え方だし、よくそれで会社を辞められたなあと呆れる方もいるだろう。
思い起こせば、12年前も同じような心境で就職活動をしていた。私は生まれつき(?)「働く」ということが好きではなかった。会社や社会に対して漠然とした不安を抱いていて、大学に入ったのも自分の将来を先延ばしするということが大きな目的だったのではないかと思う。
そうした思いもあり、大学4回になっても就職活動はほとんどしなかった。働きたくないので大学院に進もうと思ったからだ。しかし別に学業成績が良いわけでもなくそのような弱い意志の人間が試験を通るわけもなく、年に2回あった大学院試験を落ちて、その時点でもう3月だった。そのまま私は大学を出てしまうことになる。
大学を出たものの何のアテもない。その時の自分の選択肢は二つしかなかった。大学院の聴講生となって勉強をしながらまた受験をするか、スッパリ諦めて就職活動をするか。そのいずれかである。
大学院試験を2回落ちた時点でもう、自分の頭では大学院に通るのは無理だなと感じていた。恥をさらさせてもらえば、もはや何をどう勉強したら合格レベルに達するのかも見当がつかなかったくらいだ。
また、ゼミの担当だった教員にしても酷い指導をする人で、
「お前は頭が悪い。もっと勉強しろ」
という程度の抽象的なレベルのことしか言えないのだ。これは誇張でもなんでもない。彼から具体的な指導など受けたことは一度もないと断言できる。
「こりゃあ、たかが半年や1年勉強したところ受かるのは無理だな」
と私はこの時点でようやく諦めがついた。こうして私は社会を出る決意をかためることになる。そして後日、教員の部屋に入って大学院進学を諦め就職活動をすることを伝えた。劣等生の私が去ることに対して何も言わないだろうとタカをくくっていたら、教員は怪訝そうな顔をしてこんなことを口走った。
「うーん•••しかし、渡部君。君に何ができるというんだ?」
この野郎。人をバカバカ言っておいて、就職しますといったらこのセリフかい。
「お前は俺にどうしろというんだ?」
と言いたかったが、その場は黙って部屋を去った。彼と話しても何の生産性もないし。
それでも教員は私のことが心配だったらしく、しばらくしてメールが届いた。宇治にある黄檗病院で患者さんの世話をするアルバイトがあるから行ってみないかということだった。何もしないのもどうかと思っていたところなので、面接へ行ってみることにした。しかし、これがいけなかった。面接における私の態度が悪かったのか、後日に教員から電話がかかってきて、
「黄檗病院が、渡部君の採用を遠慮したいと連絡がきた。渡部君からやる気が全く感じられない。この仕事は患者を相手をするし、それでは困ると」
ここまでは、まあ仕方ないと思う。しかし教員はさらにこう続けてきたのである。
「僕が心配なのは、人がいなくて困っているところにも受からないんだったら、渡部君はもうどこも行くところがないんじゃないかと•••」
おいおい、そこまで言うかよ。俺はあんたに就職を面倒みてくれとも言ってないし、進路について相談もしてないぞ。そんなこと期待もしてないし。
ちなみにこの人、臨床心理士の資格を持っているというのだから恐ろしい。別に資格があるからどうとか言うつもりもないけれど、一応カウンセリングをしている人が他人の存在まで否定するような発言をするとは。これはまさにブラックジョークである。
この時点が2000年5月くらいだったろうか。そして残念なことに、この教員が予言したごとく、私は1年ほど仕事が見つからないまま過ごすことになった。その間ずっとこの教員の、お前はどこも受からない、というセリフに苦しめられることになる。カウンセラーに心の傷を植え付けられたわけだ。
長々と昔話をしてしまった。しかし昨年会社を辞めてまた就職活動をしているうちに、またこの古傷が痛みだしてしまったのだ。企業に履歴書を送っても通らない。運良く面接まで進んでも採用に至らない。こういう体験をするたび、
「お前なんかどこにも受からない」
という声が心の底から聞こえてくるのは非常に辛いものだった。そしてハッと気付いてしまった。
俺は12年前と同じ轍を踏んでいるのではないか、と。この間に死ぬほど働いたとか勉強をしたという自信はないけれど、それなりに色々と挑戦や努力はしたつもりだった。しかしこうして就職に苦労した自分を見ると、その根本は何にも変わっていないではないか。そう考えると背筋がゾッとした。
人間の能力は努力によって伸ばすことができる、という素朴な思い込みをすることは、今の自分にはもうできない。
人間はそう簡単に変われない。もしかしたら、何にも変わらないのかもしれない。
それは自分の経験から導いた結論である。
しかし、私たちはそれでも生きていかなければならない。
そもそも私は、自分がまたどこかで採用されるようなことなどあるのだろうか?という疑念を常に抱えたまま活動してきた。端から見ればとんでもなくネガティブな考え方だし、よくそれで会社を辞められたなあと呆れる方もいるだろう。
思い起こせば、12年前も同じような心境で就職活動をしていた。私は生まれつき(?)「働く」ということが好きではなかった。会社や社会に対して漠然とした不安を抱いていて、大学に入ったのも自分の将来を先延ばしするということが大きな目的だったのではないかと思う。
そうした思いもあり、大学4回になっても就職活動はほとんどしなかった。働きたくないので大学院に進もうと思ったからだ。しかし別に学業成績が良いわけでもなくそのような弱い意志の人間が試験を通るわけもなく、年に2回あった大学院試験を落ちて、その時点でもう3月だった。そのまま私は大学を出てしまうことになる。
大学を出たものの何のアテもない。その時の自分の選択肢は二つしかなかった。大学院の聴講生となって勉強をしながらまた受験をするか、スッパリ諦めて就職活動をするか。そのいずれかである。
大学院試験を2回落ちた時点でもう、自分の頭では大学院に通るのは無理だなと感じていた。恥をさらさせてもらえば、もはや何をどう勉強したら合格レベルに達するのかも見当がつかなかったくらいだ。
また、ゼミの担当だった教員にしても酷い指導をする人で、
「お前は頭が悪い。もっと勉強しろ」
という程度の抽象的なレベルのことしか言えないのだ。これは誇張でもなんでもない。彼から具体的な指導など受けたことは一度もないと断言できる。
「こりゃあ、たかが半年や1年勉強したところ受かるのは無理だな」
と私はこの時点でようやく諦めがついた。こうして私は社会を出る決意をかためることになる。そして後日、教員の部屋に入って大学院進学を諦め就職活動をすることを伝えた。劣等生の私が去ることに対して何も言わないだろうとタカをくくっていたら、教員は怪訝そうな顔をしてこんなことを口走った。
「うーん•••しかし、渡部君。君に何ができるというんだ?」
この野郎。人をバカバカ言っておいて、就職しますといったらこのセリフかい。
「お前は俺にどうしろというんだ?」
と言いたかったが、その場は黙って部屋を去った。彼と話しても何の生産性もないし。
それでも教員は私のことが心配だったらしく、しばらくしてメールが届いた。宇治にある黄檗病院で患者さんの世話をするアルバイトがあるから行ってみないかということだった。何もしないのもどうかと思っていたところなので、面接へ行ってみることにした。しかし、これがいけなかった。面接における私の態度が悪かったのか、後日に教員から電話がかかってきて、
「黄檗病院が、渡部君の採用を遠慮したいと連絡がきた。渡部君からやる気が全く感じられない。この仕事は患者を相手をするし、それでは困ると」
ここまでは、まあ仕方ないと思う。しかし教員はさらにこう続けてきたのである。
「僕が心配なのは、人がいなくて困っているところにも受からないんだったら、渡部君はもうどこも行くところがないんじゃないかと•••」
おいおい、そこまで言うかよ。俺はあんたに就職を面倒みてくれとも言ってないし、進路について相談もしてないぞ。そんなこと期待もしてないし。
ちなみにこの人、臨床心理士の資格を持っているというのだから恐ろしい。別に資格があるからどうとか言うつもりもないけれど、一応カウンセリングをしている人が他人の存在まで否定するような発言をするとは。これはまさにブラックジョークである。
この時点が2000年5月くらいだったろうか。そして残念なことに、この教員が予言したごとく、私は1年ほど仕事が見つからないまま過ごすことになった。その間ずっとこの教員の、お前はどこも受からない、というセリフに苦しめられることになる。カウンセラーに心の傷を植え付けられたわけだ。
長々と昔話をしてしまった。しかし昨年会社を辞めてまた就職活動をしているうちに、またこの古傷が痛みだしてしまったのだ。企業に履歴書を送っても通らない。運良く面接まで進んでも採用に至らない。こういう体験をするたび、
「お前なんかどこにも受からない」
という声が心の底から聞こえてくるのは非常に辛いものだった。そしてハッと気付いてしまった。
俺は12年前と同じ轍を踏んでいるのではないか、と。この間に死ぬほど働いたとか勉強をしたという自信はないけれど、それなりに色々と挑戦や努力はしたつもりだった。しかしこうして就職に苦労した自分を見ると、その根本は何にも変わっていないではないか。そう考えると背筋がゾッとした。
人間の能力は努力によって伸ばすことができる、という素朴な思い込みをすることは、今の自分にはもうできない。
人間はそう簡単に変われない。もしかしたら、何にも変わらないのかもしれない。
それは自分の経験から導いた結論である。
しかし、私たちはそれでも生きていかなければならない。
2011年度で学んだこと(1)お金を貯めることについて
2012年4月2日先日をもって半年勤めていた職場を去り、この7日からまた新しい場所で働くことになる。その間は特にすることもないので、自分の気持ちを整理するためにこの1年間を少し振り返ってみようと思う。そうすれば今年度の自分はどのような行動をとるべきか、そのあたりがボンヤリとでも出てくるのではという期待を込めながら。
昨年度で一番大きな出来事といえば、やはり10年近く在籍した会社を辞めたことである。次も決めないまま職場を去ったため、それから5ヶ月間も無職でフラフラする状態に陥った。そしてその経験から、お金って大事なんだな、と今更ながら痛感した次第である。
それまでの私はお金を貯蓄するという必然性が全く理解できなかった。「将来のため」とか「何かあった時のため」というのは貯金をするための常套句であるけれど、自分には全く説得力の欠ける理屈だ。1000万の貯金を築いたところで一生安泰に暮らせるのか?それだけでは絶対に無理だ。また最近は、先行き不明な時代なのを良い事に「老後は1億円は必要ですよ」などと不安を煽って投資話などを持ちかける連中もいるけれど、サラリーマンの生涯収入を考えればそれもまた実現不可能な話だ。
そもそもの話、私は浪費家の体質である。お金があればあるだけ使ってしまうタイプだ。たとえば、今の自分が欲しいものはオフィスのソフトが入ったノートパソコンである。最近だったら5万くらいで揃えられるらしい。ワードやエクセルをいじるくらいが目的ならそれで充分だろう。しかしもし予算が潤沢にあったとしたら、「レッツ•ノート(勝間和代さんなどが愛用しているパナソニッックのノート•パソコン)にしちゃおうかな?」などと思ってしまうような人間である。
会社の組織改編のため06年3月にも一度会社を辞めているけれど、その時に出た退職金も貯めることなく、「それなら死ぬ前にヴァン・モリソンのライブを観よう!」とイギリスへ行くのに使ってしまった。あれは50万くらい費用がかかっただろうか。1ポンドが250円ほどもした時代である。
それはともかく、お金を節約してその分を貯蓄に回す、という発想が私には皆無であった(実際のところ、今も行動パターンはそんなに変わっていない)。
そんな私がまがりなりにも現在生きていられるのも、退職金などいくばくかのお金があったからである。いや、そもそも退職金がなければ組織を離れる踏ん切りも就かなかったにちがいない。何も資金がなければそうした決断もできなかったことは否定できないだろう。
橘玲さんの著書「知的幸福の技術 自由な人生のための40の物語」(10年。幻冬舎文庫)にこんなことが書かれてある。
<経済的な基盤がなければ、人は自由には生きられない。こんな単純なことに気付くまでに、ずいぶんと回り道をした。そして、自分の人生がいかに多くのものに依存しているかを知って慄然(りつぜん)とした。>(本書P.22)
「こんな単純なことに気付くまでに、ずいぶんと回り道をした。」というのは自分もまさに同じであり、またこれからは同じ轍を踏んではなるまい、とは思っている。
お金を持つことの重要性はザッと3つあると今の自分は思っている。一つは橘さんが指摘されている通り、自由に生きるための基盤としてのお金である。転職するにしても生活するにしても資本主義の社会を生きるためには最低限のお金が必要である。そしてもし働く必要がないほどのお金ができれば、嫌な仕事をしなくても済むようにもなる。究極的にはそういうことだろう。
そして二つ目は、精神的な安定を得るための貯金である。これは有吉弘行氏の著書「「お前なんかもう死んでいる ~プロ一発屋に学ぶ50の法則~」(10年。双葉社)が大いに参考となる。彼のエピソードで貯金残高で「100万円」という金額を死守したというものがあった。100万円を切って桁が変わったら不安になり、家の物を売るなどして必死で100万円に戻したというのだ。本書の感想は、
http://30771.diarynote.jp/201111050934507277/
でも書いたけれど、貯金があることにより安心を得るという効果は思いのほか大きい。これは実際に貯金残高が減っていく恐ろしさを知っている自分にはよくわかる。
そして最後に言いたいのは、自分の人生を先延ばしするためのツール(道具)としての貯金である。大きな経済成長がこれからは望めないであろう日本において、収入が上がることはあまり期待できない。いや、消費税の増税などの負担もあって実質的収入は下がっていくと考えたほうが良いだろう。
もし自分の月収が3万とか5万とか減っていって生活に困っていくとしたら、その仕事を辞めるべきだろうか?現状のままでは他を探さなければならないだろうが(ただし、もっと収入のある他の仕事が見つかる保証などない)、減った収入を穴埋めできるくらいの貯蓄があれば働き続けられる。
正直いってこの5年後、10年後、20年後のこの国がどうなっているのか見当もつかない。現状から考えればあまり楽観的な材料は無い気がするが、それでも私たちはどうにかして生きていかなければならない。そして、この困難な時代をやりくりしてどうにか生きるためにお金が大きな助けになる。
書いていて実に平凡で面白くもない結論になったと自分でも思う。しかしこれは一般論でもなんでもなく、収入源を断った状態を5ヶ月続けた自分が実体験から導いた答えだ。少なくとも自分はこの経験を大事にしてこれからを生きていきたいと思う。
昨年度で一番大きな出来事といえば、やはり10年近く在籍した会社を辞めたことである。次も決めないまま職場を去ったため、それから5ヶ月間も無職でフラフラする状態に陥った。そしてその経験から、お金って大事なんだな、と今更ながら痛感した次第である。
それまでの私はお金を貯蓄するという必然性が全く理解できなかった。「将来のため」とか「何かあった時のため」というのは貯金をするための常套句であるけれど、自分には全く説得力の欠ける理屈だ。1000万の貯金を築いたところで一生安泰に暮らせるのか?それだけでは絶対に無理だ。また最近は、先行き不明な時代なのを良い事に「老後は1億円は必要ですよ」などと不安を煽って投資話などを持ちかける連中もいるけれど、サラリーマンの生涯収入を考えればそれもまた実現不可能な話だ。
そもそもの話、私は浪費家の体質である。お金があればあるだけ使ってしまうタイプだ。たとえば、今の自分が欲しいものはオフィスのソフトが入ったノートパソコンである。最近だったら5万くらいで揃えられるらしい。ワードやエクセルをいじるくらいが目的ならそれで充分だろう。しかしもし予算が潤沢にあったとしたら、「レッツ•ノート(勝間和代さんなどが愛用しているパナソニッックのノート•パソコン)にしちゃおうかな?」などと思ってしまうような人間である。
会社の組織改編のため06年3月にも一度会社を辞めているけれど、その時に出た退職金も貯めることなく、「それなら死ぬ前にヴァン・モリソンのライブを観よう!」とイギリスへ行くのに使ってしまった。あれは50万くらい費用がかかっただろうか。1ポンドが250円ほどもした時代である。
それはともかく、お金を節約してその分を貯蓄に回す、という発想が私には皆無であった(実際のところ、今も行動パターンはそんなに変わっていない)。
そんな私がまがりなりにも現在生きていられるのも、退職金などいくばくかのお金があったからである。いや、そもそも退職金がなければ組織を離れる踏ん切りも就かなかったにちがいない。何も資金がなければそうした決断もできなかったことは否定できないだろう。
橘玲さんの著書「知的幸福の技術 自由な人生のための40の物語」(10年。幻冬舎文庫)にこんなことが書かれてある。
<経済的な基盤がなければ、人は自由には生きられない。こんな単純なことに気付くまでに、ずいぶんと回り道をした。そして、自分の人生がいかに多くのものに依存しているかを知って慄然(りつぜん)とした。>(本書P.22)
「こんな単純なことに気付くまでに、ずいぶんと回り道をした。」というのは自分もまさに同じであり、またこれからは同じ轍を踏んではなるまい、とは思っている。
お金を持つことの重要性はザッと3つあると今の自分は思っている。一つは橘さんが指摘されている通り、自由に生きるための基盤としてのお金である。転職するにしても生活するにしても資本主義の社会を生きるためには最低限のお金が必要である。そしてもし働く必要がないほどのお金ができれば、嫌な仕事をしなくても済むようにもなる。究極的にはそういうことだろう。
そして二つ目は、精神的な安定を得るための貯金である。これは有吉弘行氏の著書「「お前なんかもう死んでいる ~プロ一発屋に学ぶ50の法則~」(10年。双葉社)が大いに参考となる。彼のエピソードで貯金残高で「100万円」という金額を死守したというものがあった。100万円を切って桁が変わったら不安になり、家の物を売るなどして必死で100万円に戻したというのだ。本書の感想は、
http://30771.diarynote.jp/201111050934507277/
でも書いたけれど、貯金があることにより安心を得るという効果は思いのほか大きい。これは実際に貯金残高が減っていく恐ろしさを知っている自分にはよくわかる。
そして最後に言いたいのは、自分の人生を先延ばしするためのツール(道具)としての貯金である。大きな経済成長がこれからは望めないであろう日本において、収入が上がることはあまり期待できない。いや、消費税の増税などの負担もあって実質的収入は下がっていくと考えたほうが良いだろう。
もし自分の月収が3万とか5万とか減っていって生活に困っていくとしたら、その仕事を辞めるべきだろうか?現状のままでは他を探さなければならないだろうが(ただし、もっと収入のある他の仕事が見つかる保証などない)、減った収入を穴埋めできるくらいの貯蓄があれば働き続けられる。
正直いってこの5年後、10年後、20年後のこの国がどうなっているのか見当もつかない。現状から考えればあまり楽観的な材料は無い気がするが、それでも私たちはどうにかして生きていかなければならない。そして、この困難な時代をやりくりしてどうにか生きるためにお金が大きな助けになる。
書いていて実に平凡で面白くもない結論になったと自分でも思う。しかしこれは一般論でもなんでもなく、収入源を断った状態を5ヶ月続けた自分が実体験から導いた答えだ。少なくとも自分はこの経験を大事にしてこれからを生きていきたいと思う。
本日より新たに2012年度が始まったが、その初日からいきなり厳しい出来事を経験することなる。
それは何かといえば、私がずっとお世話になっていたラーメン店「風花 御前三条店」(2010年5月25日開業)が本日をもって営業を終了するからだ。店長の仲本さんには前身のお店「kirari」(2007年3月6日〜2010年1月24日)からお世話になっていたから、5年ほどの付き合いになる。kirariは私の部屋から徒歩数分のところで営業していたので、毎日のようにいたような気がする。あまりに頻繁に店に来ていたため、厨房にも入っていた時期があったような気もするが、それはたぶん何かの勘違いだろう。
この間の仲本店長の歩みは端で見ていても困難なものだった。まずお世辞にも良いとはいえない立地において「kirari」がむりやり営業がスタートした。ほとんど休みも与えられぬまま朝から夜遅くまで働き通し、その努力が実ってお客が増えてきたと思ったら社長が店の移転(ここもあまり場所が良くなかった)を突然決める・・・。メチャクチャなことがまだまだあったような気がするが(店内にかける音楽をクラシックにする、など)、あまりに矛盾の多い経営方針に仲本さんが振り回されているのは見ていて辛かった。
また私としても、
「どんなに生活が困ったとしても、飲食店だけは絶対しないぞ!」
と心の中に深く刻まれてしまった。
そんな仲本さんがこのたび「風花」の営業を辞めて、こっちで知り合った奥さんと実家のある千葉へ帰ることになった。その理由は、上のような経営方針のところであるということからお察しいただければと思う。その先のことは決まっていないという。
「次が決まってから辞めたら良かったんですよ!」
などと叫びたいところだが、この3月11日に会社を辞めて3月25日に滑り込みで職場を確保した自分にそんなことが言えるわけがない。ただ、彼の近くにいた自分としては、もっと良い形で京都を離れる選択肢がなかったのかなあと自責の念にかられてしまうのだ。
この日はもう予定がなかったので、昼間は1人で夜は友人と二人でお店にお邪魔した。昨日(3月31日)は開業以来はじめてお客が100人を超えたという。御前三条という場所で100人を集めたというのはたいしたものだ。ちなみに昼は「鶏煮干し醤油らーめん」とチャーハンのセット、夜は天然塩らーめんを食べた。「鶏煮干し醤油らーめん」は仲本さんが独自に開発したレシピでこの店の看板メニューだ。作り方は社長には教えないという。そりゃそうだろうな。
これらのラーメンをもう食べられないということも残念ながら、私としては自分の部屋以外に唯一の居場所が無くなってしまうのが本当に辛い。しかしそれを嘆いているわけにはいかない。
最後に、仲本夫妻へ。
ネットでこのお店の評判はいくらでも紹介されているので、これを実績として示せば再就職もそれほど困難ではない、と思います。今の時代に生まれたメリットを活かして頑張ってください。京都から離れるという決断をしたからには、ここよりマシな生活を送れることを願っています。
いままで本当にありがとうごございました。
それは何かといえば、私がずっとお世話になっていたラーメン店「風花 御前三条店」(2010年5月25日開業)が本日をもって営業を終了するからだ。店長の仲本さんには前身のお店「kirari」(2007年3月6日〜2010年1月24日)からお世話になっていたから、5年ほどの付き合いになる。kirariは私の部屋から徒歩数分のところで営業していたので、毎日のようにいたような気がする。あまりに頻繁に店に来ていたため、厨房にも入っていた時期があったような気もするが、それはたぶん何かの勘違いだろう。
この間の仲本店長の歩みは端で見ていても困難なものだった。まずお世辞にも良いとはいえない立地において「kirari」がむりやり営業がスタートした。ほとんど休みも与えられぬまま朝から夜遅くまで働き通し、その努力が実ってお客が増えてきたと思ったら社長が店の移転(ここもあまり場所が良くなかった)を突然決める・・・。メチャクチャなことがまだまだあったような気がするが(店内にかける音楽をクラシックにする、など)、あまりに矛盾の多い経営方針に仲本さんが振り回されているのは見ていて辛かった。
また私としても、
「どんなに生活が困ったとしても、飲食店だけは絶対しないぞ!」
と心の中に深く刻まれてしまった。
そんな仲本さんがこのたび「風花」の営業を辞めて、こっちで知り合った奥さんと実家のある千葉へ帰ることになった。その理由は、上のような経営方針のところであるということからお察しいただければと思う。その先のことは決まっていないという。
「次が決まってから辞めたら良かったんですよ!」
などと叫びたいところだが、この3月11日に会社を辞めて3月25日に滑り込みで職場を確保した自分にそんなことが言えるわけがない。ただ、彼の近くにいた自分としては、もっと良い形で京都を離れる選択肢がなかったのかなあと自責の念にかられてしまうのだ。
この日はもう予定がなかったので、昼間は1人で夜は友人と二人でお店にお邪魔した。昨日(3月31日)は開業以来はじめてお客が100人を超えたという。御前三条という場所で100人を集めたというのはたいしたものだ。ちなみに昼は「鶏煮干し醤油らーめん」とチャーハンのセット、夜は天然塩らーめんを食べた。「鶏煮干し醤油らーめん」は仲本さんが独自に開発したレシピでこの店の看板メニューだ。作り方は社長には教えないという。そりゃそうだろうな。
これらのラーメンをもう食べられないということも残念ながら、私としては自分の部屋以外に唯一の居場所が無くなってしまうのが本当に辛い。しかしそれを嘆いているわけにはいかない。
最後に、仲本夫妻へ。
ネットでこのお店の評判はいくらでも紹介されているので、これを実績として示せば再就職もそれほど困難ではない、と思います。今の時代に生まれたメリットを活かして頑張ってください。京都から離れるという決断をしたからには、ここよりマシな生活を送れることを願っています。
いままで本当にありがとうごございました。
Crossroad,Again
2012年3月31日 とどめておきたこと、特記事項
2012年3月31日、2011年度も今日で終わりを迎える。
この1年はあまりに色々なことが起きた。10年近く勤めていたかつての職場を4月に去り5ヶ月間も無職の状態が続き、やむを得ず入った今の職場で半年は耐えたものの本日を持って終わりにした。そして来月の7日からまた新しい場所で働くこととなる。
1年を振り返ると、良いことといえる出来事はほぼ皆無だった。前の会社を辞めたため収入が激減し、次の職場が見つからない時期に貯金もほぼ使い果たしてしまった。また人間関係も色々とゴタゴタした部分も出てくる。半年いた職場は身体的に苦痛の多いところであったけれど、精神的な負担はさらに重たいところだった。
転職活動も険しい道であった。書類が通らない、面接も全く通らないの繰り返しが続き気が滅入る一方の状態が1年ちかく続いたのだから。自分の社会的価値ってこんなものなんだな、と嫌でも痛感せざるをえなかった。
しかし、嘆いてばかりいるわけにもいかない。私の友人も職場を辞めたりリストラをしたりと環境がめまぐるしく変わっていっている。苦しいのは自分だけではないのだ。
とりあえず現状をいったん清算して新しいスタートを切れるのだから、今年度よりは上向きな状態に持っていくしかない。
とはいいながら、来月以降どうなるのか、正直いって見当がつかない。もしまた仕事で辛い場面に出会ったら、この「十字路」の写真を見よう。半年した仕事場の一部の光景だ。
「この時の状況に比べたら今の方がいくらかはマシだろう」
と。そして、
「もう二度とここには戻ってくるまい」
と心を奮い立たせてまた仕事に向かうと思う。
それでは最後の勤務のため、部屋を出ます。
この1年はあまりに色々なことが起きた。10年近く勤めていたかつての職場を4月に去り5ヶ月間も無職の状態が続き、やむを得ず入った今の職場で半年は耐えたものの本日を持って終わりにした。そして来月の7日からまた新しい場所で働くこととなる。
1年を振り返ると、良いことといえる出来事はほぼ皆無だった。前の会社を辞めたため収入が激減し、次の職場が見つからない時期に貯金もほぼ使い果たしてしまった。また人間関係も色々とゴタゴタした部分も出てくる。半年いた職場は身体的に苦痛の多いところであったけれど、精神的な負担はさらに重たいところだった。
転職活動も険しい道であった。書類が通らない、面接も全く通らないの繰り返しが続き気が滅入る一方の状態が1年ちかく続いたのだから。自分の社会的価値ってこんなものなんだな、と嫌でも痛感せざるをえなかった。
しかし、嘆いてばかりいるわけにもいかない。私の友人も職場を辞めたりリストラをしたりと環境がめまぐるしく変わっていっている。苦しいのは自分だけではないのだ。
とりあえず現状をいったん清算して新しいスタートを切れるのだから、今年度よりは上向きな状態に持っていくしかない。
とはいいながら、来月以降どうなるのか、正直いって見当がつかない。もしまた仕事で辛い場面に出会ったら、この「十字路」の写真を見よう。半年した仕事場の一部の光景だ。
「この時の状況に比べたら今の方がいくらかはマシだろう」
と。そして、
「もう二度とここには戻ってくるまい」
と心を奮い立たせてまた仕事に向かうと思う。
それでは最後の勤務のため、部屋を出ます。
新しい食い扶持を見つけたよ
2012年3月27日とんでもなくネガティブな内容の日記を書いたまましばらく放置してしまった。相変わらず今月いっぱいは現在の職場でこき使われている(ただいま午前6時出勤6連チャンの4日目)ため、キーボードを打つ気になれなかったのである。
しかしそれから私の取り巻く状況が大きく変わった。結論からいうと、来月から働く場所を確保したのである。金曜日(3月23日)の夕方に職安で会社を1件見つけて申し込み、翌日(3月24日)の夕方に面接へ行き、来月から働きませんかとその場で言われてしまった。もうこちらは選択の無い余地もないし二つ返事で引き受けた次第である。
次のアテがあるわけでもないまま今の場所を辞めてしまったため、来月は橋の下で暮らすのだろうか?と半分本気で思っていた部分もある。しかしそれは恐ろしい話だし、意地でも生活費は確保しなければと人材派遣会社に登録もした。ただ、厳しいなあと感じたのは、人材派遣会社であってもまとまった期間働く場合は会社と面談のようなものを受けなければならない。日雇いの仕事とは事情が違うのだ。派遣ですら面接があるのか、と面接にはすっかり辟易している自分はガックリした。
そんな心境のところだったので、働く場所が見つかった時はかなり安堵した。しかし別に以前に比べて待遇が劇的に良くなるわけでもなく(むしろ、悪くなる部分も出てくる)、また一から仕事を覚えなければならないから油断はできない。日記のタイトルを「食い扶持を見つけた」という表現にしたのは、そういう思いを込めたかったからである。
とりあえず転職活動はいったんお休みとなる(またいつか始めるだろう)。この1年間を振り返ると色々なことが思い浮かんでしまい文章をまとめることもままならない。それは後日、細切れで書いていくとして本日は現状報告だけさせてもらった。
しかしそれから私の取り巻く状況が大きく変わった。結論からいうと、来月から働く場所を確保したのである。金曜日(3月23日)の夕方に職安で会社を1件見つけて申し込み、翌日(3月24日)の夕方に面接へ行き、来月から働きませんかとその場で言われてしまった。もうこちらは選択の無い余地もないし二つ返事で引き受けた次第である。
次のアテがあるわけでもないまま今の場所を辞めてしまったため、来月は橋の下で暮らすのだろうか?と半分本気で思っていた部分もある。しかしそれは恐ろしい話だし、意地でも生活費は確保しなければと人材派遣会社に登録もした。ただ、厳しいなあと感じたのは、人材派遣会社であってもまとまった期間働く場合は会社と面談のようなものを受けなければならない。日雇いの仕事とは事情が違うのだ。派遣ですら面接があるのか、と面接にはすっかり辟易している自分はガックリした。
そんな心境のところだったので、働く場所が見つかった時はかなり安堵した。しかし別に以前に比べて待遇が劇的に良くなるわけでもなく(むしろ、悪くなる部分も出てくる)、また一から仕事を覚えなければならないから油断はできない。日記のタイトルを「食い扶持を見つけた」という表現にしたのは、そういう思いを込めたかったからである。
とりあえず転職活動はいったんお休みとなる(またいつか始めるだろう)。この1年間を振り返ると色々なことが思い浮かんでしまい文章をまとめることもままならない。それは後日、細切れで書いていくとして本日は現状報告だけさせてもらった。
面接は「人間性」が否定される場所
2012年3月23日コメント (2)こないだ京都水族館について書いたせいか、日記のアクセス数がけっこう多い。そうなると、もっと更新しなければ、という気持ちになるのだが自分の取り巻く環境がこれ以上にないほど悪いので書く気力が起きなかった。しかし、閲覧してくれている方もいるので、リハビリがてら久しぶりに何か書いてみたい。
さる3月11日に今の職場を「辞めます」と言ったまでは良かったものの、来月からの行き先がまだ決まっていないという大問題に直面している。よくそんな状態で辞めたなと思う人が大半だろうが、個人的には限界にきていたのだから仕方ない。
この2ヶ月で面接まで進んだところが3件ほどあったけれど、ことごとく失敗してしまった。私が書類選考をくぐり抜けて面接まで行く確率は、良く見積もっても1割くらいである。10件申し込んで1件というところだ。
そして面接といえば、もうこれが通らない。いままで生きてきて「内定」なるものを獲得したのは1度だけである(今の職場はお世辞にも面接といえるようなものではなかったのでカウントしない)。そんな実績しかない人間なので、面接に対しては臨むのが恐怖を覚えるほどになっている。
橘玲さんの「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(幻冬舎。10年)に欧米と比べた日本の履歴書の特殊さが記されている。
<アメリカ人が日本の履歴書を見ていちばんびっくりするのは、生年月日を書かせることと、顔写真を貼らせることだ。生年月日欄は「年齢で差別します」と宣言するようなものだし(日本の会社は実際そうしている)、顔写真は性別や人種がひと目でわかる。
その一方で、採用や昇進を決めるためにはなんらかの基準でひとを評価しなくてはならない。この評価は差別になってはいけないのだから、あとは本人の努力によって変更可能なものしか残されていない。そういう公正な評価基準は、世の中にたったひとつしかないとされている。それが「能力」だ。
ではその能力は、いったいどうやって測ればいいのだろう。
外資系の会社に応募したひとは知っていると思うけれど、履歴書(レジュメ)に記載を求められるのは「学歴」「資格」「職歴(経験)」の三つだけだ。
学歴による差別は日本社会ではずっと大きな問題になっているけれど、一所懸命勉強しなければいい大学に入れないのも事実だ。この一点において、本人の努力ではいかんともしがたい人種や国籍・性別・年齢による差別よりも学歴差別の方がはるかにマシ、ということになる。>(本書P.65)
橘さんはこうした点を踏まえて「能力主義は道徳的に正しい」(P.56)という結論を導いている。確かに、能力で評価できなければ人間を何で測れば良いのか、という話になってしまう。そして、面接の場というのはその辺りで実に不可解な点が多いところだ。
私が先日に面接を受けた企業は、求人票において「必要な経験等」、「必要な免許・資格」、「年齢」、という項目のいずれもが「不問」であった(ハローワークを通じて応募した)。そして落ちてしまった私は、考え込んでしまう。
いったい私は何で落ちてしまったのだろう?
もしも求人票で書いてある通り経験も資格も年齢も評価の基準外だったとしたら、私の「人間性」とか「人柄」といったものがバツだった、と結論づけるしかない。そしてその点を踏まえると、もう自分は面接など受かることは永遠にできないのでは?と考えこんでしまうのだ。35年もかけて築かれた自分のキャラなどそうそう急に変えることはできないのだから。
私の心の師である出口汪先生の著書『奇跡の「話す」「書く」技術』(フォレスト出版。11年)で面接における実にイヤーな指摘をされている。
<今は就職難の時代で、大企業に就職しようとするには、大変困難な状況です。
私の周囲にも、書類選考、筆記試験と何千倍もの難関を潜り抜けながら、いつも最終選考である面接で落とされる学生がいます。
一次試験、二次試験に合格したわけですから、成績が優秀なことは明白です。おそらく一流大学の学生でしょう。
それなのに、面接試験となると必ず落とされる。それが繰り返されると、何だか自分の人格まで否定されているようで、これから社会に対してどう対処していいのか分からず、自信喪失に陥ってしまいます。
第一、何のために今まで苦労して一流大学に合格し、ひたすらまじめに授業に取り組み、好成績を維持してきたのか、すべてが無意味に思えてくるようです。
ですがやはり面接試験に落とされるには、それなりの理由があると考えなければなりません。その理由を突き止めないと、また次の面接でも同じ過ちを繰り返すことになります。
果たして何が悪かったのでしょうか?
私自身も、就職試験の面接をした経験がありますし、私の知人には大企業の面接をする人たちがたくさんいます。そうした人たちに聞くと、面白いように同じ答えが返ってきます。
面接の際、あなたの選考基準は何ですか?と聞くと、彼らは決まってこう答えます。
「一緒に仕事をしたいと思うかどうか、それだけです」
「同感。同感」と、私も思わず答えてしまいます。
面接を受ける学生は、なぜこんな単純なことが分からないのでしょうか。
それは自分の視点からのみで、物事を考えているからなのです。
多くの学生は面接の場で、自分がいかに優秀かをアピールしがちです。その結果、どうしても過度に自己主張してしまいます。そんな時は一度は立ち止まって、「メタ意識」を使ってみましょう。>(本書P.27-29)
キーボードで文章を打っていて本当に気分が滅入ってしまった。「一緒に仕事をしたいと思」える人間を面接官は採用するのである。
となると、私は「こいつとは一緒に働きたくない」と面接官に思われている、という結論に達してしまう。辛い話だが、現実を踏まえるとそう言わざるを得ない。
出口先生は「過度に自己主張」することにその原因を指摘しているけれど、私はもっと根本的に「キャラが悪いから」と言いたくなる。そして、これが本当ならもうどうしようもない。さきほど引用した橘さんの著書は、人間は努力しても変わらない、という結論を出している。そしてそれは非常に個人的に説得力があった。
自分の周囲を見渡すだけでも、こいつは他のところでは採用されないだろうなあ、と思う人はいる。しかし、自分もそういう人種なのかな、と鏡を見るたびに思うこともある。
それでも面接に臨まなければ、今の自分には未来がないのだ。日記を書く気力が起きなかった理由はその辺りをふまえていただければ幸いである。
さる3月11日に今の職場を「辞めます」と言ったまでは良かったものの、来月からの行き先がまだ決まっていないという大問題に直面している。よくそんな状態で辞めたなと思う人が大半だろうが、個人的には限界にきていたのだから仕方ない。
この2ヶ月で面接まで進んだところが3件ほどあったけれど、ことごとく失敗してしまった。私が書類選考をくぐり抜けて面接まで行く確率は、良く見積もっても1割くらいである。10件申し込んで1件というところだ。
そして面接といえば、もうこれが通らない。いままで生きてきて「内定」なるものを獲得したのは1度だけである(今の職場はお世辞にも面接といえるようなものではなかったのでカウントしない)。そんな実績しかない人間なので、面接に対しては臨むのが恐怖を覚えるほどになっている。
橘玲さんの「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(幻冬舎。10年)に欧米と比べた日本の履歴書の特殊さが記されている。
<アメリカ人が日本の履歴書を見ていちばんびっくりするのは、生年月日を書かせることと、顔写真を貼らせることだ。生年月日欄は「年齢で差別します」と宣言するようなものだし(日本の会社は実際そうしている)、顔写真は性別や人種がひと目でわかる。
その一方で、採用や昇進を決めるためにはなんらかの基準でひとを評価しなくてはならない。この評価は差別になってはいけないのだから、あとは本人の努力によって変更可能なものしか残されていない。そういう公正な評価基準は、世の中にたったひとつしかないとされている。それが「能力」だ。
ではその能力は、いったいどうやって測ればいいのだろう。
外資系の会社に応募したひとは知っていると思うけれど、履歴書(レジュメ)に記載を求められるのは「学歴」「資格」「職歴(経験)」の三つだけだ。
学歴による差別は日本社会ではずっと大きな問題になっているけれど、一所懸命勉強しなければいい大学に入れないのも事実だ。この一点において、本人の努力ではいかんともしがたい人種や国籍・性別・年齢による差別よりも学歴差別の方がはるかにマシ、ということになる。>(本書P.65)
橘さんはこうした点を踏まえて「能力主義は道徳的に正しい」(P.56)という結論を導いている。確かに、能力で評価できなければ人間を何で測れば良いのか、という話になってしまう。そして、面接の場というのはその辺りで実に不可解な点が多いところだ。
私が先日に面接を受けた企業は、求人票において「必要な経験等」、「必要な免許・資格」、「年齢」、という項目のいずれもが「不問」であった(ハローワークを通じて応募した)。そして落ちてしまった私は、考え込んでしまう。
いったい私は何で落ちてしまったのだろう?
もしも求人票で書いてある通り経験も資格も年齢も評価の基準外だったとしたら、私の「人間性」とか「人柄」といったものがバツだった、と結論づけるしかない。そしてその点を踏まえると、もう自分は面接など受かることは永遠にできないのでは?と考えこんでしまうのだ。35年もかけて築かれた自分のキャラなどそうそう急に変えることはできないのだから。
私の心の師である出口汪先生の著書『奇跡の「話す」「書く」技術』(フォレスト出版。11年)で面接における実にイヤーな指摘をされている。
<今は就職難の時代で、大企業に就職しようとするには、大変困難な状況です。
私の周囲にも、書類選考、筆記試験と何千倍もの難関を潜り抜けながら、いつも最終選考である面接で落とされる学生がいます。
一次試験、二次試験に合格したわけですから、成績が優秀なことは明白です。おそらく一流大学の学生でしょう。
それなのに、面接試験となると必ず落とされる。それが繰り返されると、何だか自分の人格まで否定されているようで、これから社会に対してどう対処していいのか分からず、自信喪失に陥ってしまいます。
第一、何のために今まで苦労して一流大学に合格し、ひたすらまじめに授業に取り組み、好成績を維持してきたのか、すべてが無意味に思えてくるようです。
ですがやはり面接試験に落とされるには、それなりの理由があると考えなければなりません。その理由を突き止めないと、また次の面接でも同じ過ちを繰り返すことになります。
果たして何が悪かったのでしょうか?
私自身も、就職試験の面接をした経験がありますし、私の知人には大企業の面接をする人たちがたくさんいます。そうした人たちに聞くと、面白いように同じ答えが返ってきます。
面接の際、あなたの選考基準は何ですか?と聞くと、彼らは決まってこう答えます。
「一緒に仕事をしたいと思うかどうか、それだけです」
「同感。同感」と、私も思わず答えてしまいます。
面接を受ける学生は、なぜこんな単純なことが分からないのでしょうか。
それは自分の視点からのみで、物事を考えているからなのです。
多くの学生は面接の場で、自分がいかに優秀かをアピールしがちです。その結果、どうしても過度に自己主張してしまいます。そんな時は一度は立ち止まって、「メタ意識」を使ってみましょう。>(本書P.27-29)
キーボードで文章を打っていて本当に気分が滅入ってしまった。「一緒に仕事をしたいと思」える人間を面接官は採用するのである。
となると、私は「こいつとは一緒に働きたくない」と面接官に思われている、という結論に達してしまう。辛い話だが、現実を踏まえるとそう言わざるを得ない。
出口先生は「過度に自己主張」することにその原因を指摘しているけれど、私はもっと根本的に「キャラが悪いから」と言いたくなる。そして、これが本当ならもうどうしようもない。さきほど引用した橘さんの著書は、人間は努力しても変わらない、という結論を出している。そしてそれは非常に個人的に説得力があった。
自分の周囲を見渡すだけでも、こいつは他のところでは採用されないだろうなあ、と思う人はいる。しかし、自分もそういう人種なのかな、と鏡を見るたびに思うこともある。
それでも面接に臨まなければ、今の自分には未来がないのだ。日記を書く気力が起きなかった理由はその辺りをふまえていただければ幸いである。
京都水族館が開館して
2012年3月15日今日も外で仕事をしていた。これで8日連続勤務である。明日はやっと1日休みが取れるということで今が疲れのピークに達していた。もう今月辞める人間をここまで酷使しないでほしい。
そんななか午後5時を10分ほど過ぎたあたりだろうか、初老の女性が私の横を通りすぎるときに、
「京都水族館が混んでるのは日曜だけやてなあ。平日はガラガラやって」
と笑顔で話しかけながら去っていったのである。
こちらも作り笑顔だけして何も答えなかったけれど、すぐに「あれ?」と思った。
京都水族館が開館したのは昨日、つまり3月14日(水)からだ。まだ土日の営業はおこなわれていないのである。
女性の言ってることが事実だとしたら、あの人は未来からやって来たのだろうか。外に突っ立っていると色々な人に出会う。もうたくさんだ。
そんななか午後5時を10分ほど過ぎたあたりだろうか、初老の女性が私の横を通りすぎるときに、
「京都水族館が混んでるのは日曜だけやてなあ。平日はガラガラやって」
と笑顔で話しかけながら去っていったのである。
こちらも作り笑顔だけして何も答えなかったけれど、すぐに「あれ?」と思った。
京都水族館が開館したのは昨日、つまり3月14日(水)からだ。まだ土日の営業はおこなわれていないのである。
女性の言ってることが事実だとしたら、あの人は未来からやって来たのだろうか。外に突っ立っていると色々な人に出会う。もうたくさんだ。
「3・11」から1年の日、京都では
2012年3月11日
午前9時過ぎ、自転車で平野神社の方へと向かう。日曜日にもかかわらず走っている車の数が明らかに少ない。それには理由がある。
今日は京都市内で約1万4000人のランナーが走る「京都マラソン」がおこなわれたからだ。
公式サイトはこちら。
http://www.kyoto-marathon.com/
42.195kmのフルマラソンのため、場所によっては5時間ほどの交通規制もかけられる。
大会前から、
「みんなで取り組もう!京都マラソン ノーマイカーデー」
と当日の車の使用を控えるよう広報を徹底的にしていた。それが奏功したのは間違いないだろう。個人的は車が少なかったおかげで仕事が楽に回った部分もあった。
実際にコースへ行ってみると、おびただしい数がランナーが西大路通を走っている。これが1万4000人も続くとなると気が重くなってくるし、近隣住民はさぞかし大変だ。
別に私はマラソン全般に興味はないけれど、たまたま仕事が昼過ぎから行けばよくなったので見学しようと思い立った。また、もしかしたら今回のマラソンは最初で最後かもしれない可能性もあるからだ。
大会の4日前に、大会にボランティアで関わる人と電話で話をする機会があった。まだ交通規制の方法について細部が詰まっていないと、困ったように彼は話していた。そして、死人が出たら次はないでしょう、このコースはきついから二人くらい死ぬんじゃないですか、などと話していた。現市長の門川大作氏がかなり意欲的になって開催に踏み切った大会だが大きな問題が起こったらこれで終わりである。
ちなみに来年は2月(確か10日だったと記憶している)に会場の西京極の陸上競技場を確保しているとか。京都マラソン事務局にいる人と極めて近い方からの情報なのでたぶんそうなるだろう。結果として大きな問題もなく終わったようだし、来年もほぼ確実におこなわれるから、中止してほしいと思った方は残念ながら諦めるしかない。
大会が終了し交通規制が解除されてからも京都市内の車の数はずっと少なかった。しばらくして雨が降り出し午後9時ごろには僅かであるが雪もちらつくほど寒くなる。最近は寒さも和らいできたと思って油断していたため、余計に寒く感じる。そういう状態で11時まで外で仕事をした。
そして勤務が終わり事務所に戻ってから直属の上司に、今月いっぱいで辞めさせてもらいます、と直接伝えて職場を去った。
今日は京都市内で約1万4000人のランナーが走る「京都マラソン」がおこなわれたからだ。
公式サイトはこちら。
http://www.kyoto-marathon.com/
42.195kmのフルマラソンのため、場所によっては5時間ほどの交通規制もかけられる。
大会前から、
「みんなで取り組もう!京都マラソン ノーマイカーデー」
と当日の車の使用を控えるよう広報を徹底的にしていた。それが奏功したのは間違いないだろう。個人的は車が少なかったおかげで仕事が楽に回った部分もあった。
実際にコースへ行ってみると、おびただしい数がランナーが西大路通を走っている。これが1万4000人も続くとなると気が重くなってくるし、近隣住民はさぞかし大変だ。
別に私はマラソン全般に興味はないけれど、たまたま仕事が昼過ぎから行けばよくなったので見学しようと思い立った。また、もしかしたら今回のマラソンは最初で最後かもしれない可能性もあるからだ。
大会の4日前に、大会にボランティアで関わる人と電話で話をする機会があった。まだ交通規制の方法について細部が詰まっていないと、困ったように彼は話していた。そして、死人が出たら次はないでしょう、このコースはきついから二人くらい死ぬんじゃないですか、などと話していた。現市長の門川大作氏がかなり意欲的になって開催に踏み切った大会だが大きな問題が起こったらこれで終わりである。
ちなみに来年は2月(確か10日だったと記憶している)に会場の西京極の陸上競技場を確保しているとか。京都マラソン事務局にいる人と極めて近い方からの情報なのでたぶんそうなるだろう。結果として大きな問題もなく終わったようだし、来年もほぼ確実におこなわれるから、中止してほしいと思った方は残念ながら諦めるしかない。
大会が終了し交通規制が解除されてからも京都市内の車の数はずっと少なかった。しばらくして雨が降り出し午後9時ごろには僅かであるが雪もちらつくほど寒くなる。最近は寒さも和らいできたと思って油断していたため、余計に寒く感じる。そういう状態で11時まで外で仕事をした。
そして勤務が終わり事務所に戻ってから直属の上司に、今月いっぱいで辞めさせてもらいます、と直接伝えて職場を去った。
終わりにしなければ、始まりもないのか?
2012年3月7日こんなことを書いても惨めさが増すだけだが、話の流れの都合書かせてもらう。
勤務地の人員が足りないため、今月は休みが3日間しかない。今日がその貴重な1日である。会社が人件費をギリギリまで削っていることも大きいが、仕事の厳しさのためバタバタと辞める人も絶えないので環境はさらに辛いものとなる。
去年の10月にこの職場に来てから、ずっと辞めることばかり考えていた。最悪でも半年、この3月いっぱいでここは終わりにしよう。そう心に決めて働いてきた。しかし現在のところ、次に働くところのメドは全く立っていない。正直いって、色々な面で困ったことになっている。
先週の初めに履歴書を送ったところから、本日の夕方携帯に連絡をもらった。面接に来ていただけますかということだった。もちろん駆けつけたいが、今の私は「いつでも行けます!」と言いきれる状態でない。
私「面接の日時は決まってますか?」
先方「13日の午後でお願いしたのですが」
私「あー・・・。あの、勤務地で人が足りてなくて、11日以降の日程がまだ出ていないですが・・・」
先方「では、面接は無理ということですか?」
私「いや、最悪10日には分かるとは思うのですが・・・」
先方「そうですか。では行けるかどうか決まったら連絡いただくとして、13日の午後3時でお願いできますか?」
私「あ・・・。早番だとしても、午後3時半にしか仕事が終わらないから無理なんですが・・・」
先方「そうですか。では・・・今回はご縁が無かったということでよろしいでしょうか?」
私「・・・はい・・・」
電話でのやり取りはこれで終わってしまった。せっかく書類選考が通っても面接の調整がつかなければ先に進めないのではないか。
さらに、たとえ面接に行けたとしても、また私にはまだ壁が立ちはだかっている。
「4月からすぐ働くことは可能ですか?」
と訊かれたら、
「日程がシフトで決まっているので、すぐに辞めるのはちょっと難しいかも・・・」
と言わざるを得ない。正味の話、現在の職場でその月の10日までに休みの希望日を受けつけている。ということは、それを元に上司は翌月のシフトを組んでいくわけだ。となれば、もし3月いっぱいで辞めるとすれば、10日までに報告するのが筋ということになる。シフトが決まってから人が抜ければ、その穴埋めは大変だ。私は現場の人間だからそれは痛いほどわかっている。
そのために、今週は本当に苦しんでいる。辞めるのを切り出さなければ4月いっぱいくらいは働かなければならない。しかし次に働くメドは全くたっていない。一方、今月に辞められる状態にしなければ4月に入ってパッと働ける状態にはならないのである。企業にそう言い切れないと内定もおぼつかないだろう。
以前の職場を辞める時はまだ状況が良かった。退職金や貯金などがいくらかあったので無収入でも多少は生活をやりくりすることができた。しかし、今はそうはいかない。
生きるためには最低限の生活費が必要だ。しかし今の私には、現在の職場を離れてもパッと稼げる方法を持っていないのである。逆にいえば、いまの仕事は生活費を稼ぐ手段以上のものではない。
千葉から京都に来てラーメン店を経営していた友人が来月、京都を去ることになった。話を聞けば私の現状と似ていて、前々から辞めたいと思ってもなかなか切り出すタイミングができず、ズルズルとここまできてしまったというのだ。彼も辞めた先がまだ決まっているわけではない。しかし、このままではどうしようもないところまで来てしまったのでこのたびの決断となったわけである。
始めるためには、終わらせることも必要なのではないか。ここ数日の私はそれについて苦悩するのだろう。今月で終わりにするべきか、はたまた来月も同じ場所で働くのか。
そういえば尾崎豊の1枚目のアルバム「十七歳の地図」(83年)の中に”はじまりさえ歌えない”という曲がある。どんな歌詞だったかなとネットで調べたら、中盤の歌詞が自分の現在の境遇と重なる場面があり苦笑してしまった。
勤務地の人員が足りないため、今月は休みが3日間しかない。今日がその貴重な1日である。会社が人件費をギリギリまで削っていることも大きいが、仕事の厳しさのためバタバタと辞める人も絶えないので環境はさらに辛いものとなる。
去年の10月にこの職場に来てから、ずっと辞めることばかり考えていた。最悪でも半年、この3月いっぱいでここは終わりにしよう。そう心に決めて働いてきた。しかし現在のところ、次に働くところのメドは全く立っていない。正直いって、色々な面で困ったことになっている。
先週の初めに履歴書を送ったところから、本日の夕方携帯に連絡をもらった。面接に来ていただけますかということだった。もちろん駆けつけたいが、今の私は「いつでも行けます!」と言いきれる状態でない。
私「面接の日時は決まってますか?」
先方「13日の午後でお願いしたのですが」
私「あー・・・。あの、勤務地で人が足りてなくて、11日以降の日程がまだ出ていないですが・・・」
先方「では、面接は無理ということですか?」
私「いや、最悪10日には分かるとは思うのですが・・・」
先方「そうですか。では行けるかどうか決まったら連絡いただくとして、13日の午後3時でお願いできますか?」
私「あ・・・。早番だとしても、午後3時半にしか仕事が終わらないから無理なんですが・・・」
先方「そうですか。では・・・今回はご縁が無かったということでよろしいでしょうか?」
私「・・・はい・・・」
電話でのやり取りはこれで終わってしまった。せっかく書類選考が通っても面接の調整がつかなければ先に進めないのではないか。
さらに、たとえ面接に行けたとしても、また私にはまだ壁が立ちはだかっている。
「4月からすぐ働くことは可能ですか?」
と訊かれたら、
「日程がシフトで決まっているので、すぐに辞めるのはちょっと難しいかも・・・」
と言わざるを得ない。正味の話、現在の職場でその月の10日までに休みの希望日を受けつけている。ということは、それを元に上司は翌月のシフトを組んでいくわけだ。となれば、もし3月いっぱいで辞めるとすれば、10日までに報告するのが筋ということになる。シフトが決まってから人が抜ければ、その穴埋めは大変だ。私は現場の人間だからそれは痛いほどわかっている。
そのために、今週は本当に苦しんでいる。辞めるのを切り出さなければ4月いっぱいくらいは働かなければならない。しかし次に働くメドは全くたっていない。一方、今月に辞められる状態にしなければ4月に入ってパッと働ける状態にはならないのである。企業にそう言い切れないと内定もおぼつかないだろう。
以前の職場を辞める時はまだ状況が良かった。退職金や貯金などがいくらかあったので無収入でも多少は生活をやりくりすることができた。しかし、今はそうはいかない。
生きるためには最低限の生活費が必要だ。しかし今の私には、現在の職場を離れてもパッと稼げる方法を持っていないのである。逆にいえば、いまの仕事は生活費を稼ぐ手段以上のものではない。
千葉から京都に来てラーメン店を経営していた友人が来月、京都を去ることになった。話を聞けば私の現状と似ていて、前々から辞めたいと思ってもなかなか切り出すタイミングができず、ズルズルとここまできてしまったというのだ。彼も辞めた先がまだ決まっているわけではない。しかし、このままではどうしようもないところまで来てしまったのでこのたびの決断となったわけである。
始めるためには、終わらせることも必要なのではないか。ここ数日の私はそれについて苦悩するのだろう。今月で終わりにするべきか、はたまた来月も同じ場所で働くのか。
そういえば尾崎豊の1枚目のアルバム「十七歳の地図」(83年)の中に”はじまりさえ歌えない”という曲がある。どんな歌詞だったかなとネットで調べたら、中盤の歌詞が自分の現在の境遇と重なる場面があり苦笑してしまった。
デマに振り回された夜
2012年3月6日コメント (2)この日の晩、私は行きつけのラーメン店に行くためバスに乗っていた。席に座ったまますることもないので、Facebookやmixiなどチェックしてみる。するとTwitterで思わぬツイートが目に飛び込んでくる。内田樹さんからのものだった。なんとローリング・ストーンズのキース・リチャーズが亡くなったというのだ。
<キースさん、ご逝去。ご冥福をお祈りします。1990年の最初の日本ツァーでお姿拝見しました。Brown sugar のリフがかっこよかったです。(ToT)/>
だが、どうも様子が変だ。その時間あたりのツイートを見てみると、キースの逝去について触れているのは内田さんの他に1件しかない。新聞社や通信社からニュースが発信されてもいない。ストーンズのギタリストが亡くなったという一大事なのに少し静かすぎるのでは、という違和感だけは抱いた。
ただ、情報源が内田さんだしそんな変なことは無いだろう、という勝手な思い込みのもとTwitter、mixi、Facebookで、
<え?キース•リチャーズ亡くなったの•••?>
とネットでつぶやいてしまった。ろくに事実関係を把握しないまま。
車中で、
「キースもいま70歳くらいだしなあ、死んでもおかしくないよなあ」
と、77歳にして新作アルバムを出して16カ国で1位を記録しているレナード・コーエンについて考えたり、敬愛するヴァン・モリソンやニール・ヤングは何歳まで頑張れるのかなあなどと思いを巡らしてもいた。
しかしラーメン店に行き店内でTwitterを追っていると、小田嶋隆さんが、
<キース・リチャーズ死亡の噂はガセだったそうです。たぶん100回目ぐらいの死亡説ですが、生きています。>
とツイートしているのを見つけ、この時点で「あれ?」と考え直すようになる。まさか、内田さんの情報はデマだったのか・・・。
そして、小田嶋さんのツイートを見た内田さんも、
<キースさん死去はガセだったようです。小田嶋さんによると「今年死にそうな有名人」ランクでつねに上位をしめてるから、そういう噂に信憑性があるんでしょうが、人の生き死にで嘘をつく奴にはゼウスの電撃が下るでありましょう。キース、勝手に殺してごめんよ。>
とツイートした。内田さんのツイートの履歴を見る限り、彼がフォローしている方のツイートで訃報のデマを知ったらしい。今この情報源はツイートを削除しているが。
それはともかく、ネットに流れている不確かな情報を広げる役割の一端を私自身も担ってしまったということにショックを受けてしまった。いままでも無意識にやっていた行為なのかもしれないが、「やってしまった」と思ったのはこれが初めてだった。
私のつぶやきに対して「いや。デマでしょ」とmixiでパッと返した方がいたけれど、これは情報リテラシーの差としかいいようがない。私もこのようにありたいと願うが。
しかし、このキースの話はどこから出てきたのだろう。「キース・リチャーズ 逝去」で検索すると「2ちゃんねる」に引っかかり、こんなのが出てきたが。
<【訃報】ギタリストのキース・リチャーズさん死去
1 :☆ばぐ太☆φ ★:2012/03/06(火) 14:18:23.34 ID:???0
ローリングストーンズの結成以来、ギタリストとして活躍してきた
キース・リチャーズさんが2月27日に休養中のイタリアのトリノ市内
で交通事故のため死亡していたことが、同氏の個人事務所の発表で
明らかになった。享年74歳。
キースさんはストーンズの楽曲の大半を作曲してきた。オートバイ
乗車中の自爆事故で全身を打撲し、即死状態だったという。葬儀の
日程などはまだ発表されていない。(APF 12/3/6) >
しかしキースの年齢(1943年12月18日生まれなので、いま亡くなったとしたら68歳)が間違っているという、なかなか杜撰なものである。
<キースさん、ご逝去。ご冥福をお祈りします。1990年の最初の日本ツァーでお姿拝見しました。Brown sugar のリフがかっこよかったです。(ToT)/>
だが、どうも様子が変だ。その時間あたりのツイートを見てみると、キースの逝去について触れているのは内田さんの他に1件しかない。新聞社や通信社からニュースが発信されてもいない。ストーンズのギタリストが亡くなったという一大事なのに少し静かすぎるのでは、という違和感だけは抱いた。
ただ、情報源が内田さんだしそんな変なことは無いだろう、という勝手な思い込みのもとTwitter、mixi、Facebookで、
<え?キース•リチャーズ亡くなったの•••?>
とネットでつぶやいてしまった。ろくに事実関係を把握しないまま。
車中で、
「キースもいま70歳くらいだしなあ、死んでもおかしくないよなあ」
と、77歳にして新作アルバムを出して16カ国で1位を記録しているレナード・コーエンについて考えたり、敬愛するヴァン・モリソンやニール・ヤングは何歳まで頑張れるのかなあなどと思いを巡らしてもいた。
しかしラーメン店に行き店内でTwitterを追っていると、小田嶋隆さんが、
<キース・リチャーズ死亡の噂はガセだったそうです。たぶん100回目ぐらいの死亡説ですが、生きています。>
とツイートしているのを見つけ、この時点で「あれ?」と考え直すようになる。まさか、内田さんの情報はデマだったのか・・・。
そして、小田嶋さんのツイートを見た内田さんも、
<キースさん死去はガセだったようです。小田嶋さんによると「今年死にそうな有名人」ランクでつねに上位をしめてるから、そういう噂に信憑性があるんでしょうが、人の生き死にで嘘をつく奴にはゼウスの電撃が下るでありましょう。キース、勝手に殺してごめんよ。>
とツイートした。内田さんのツイートの履歴を見る限り、彼がフォローしている方のツイートで訃報のデマを知ったらしい。今この情報源はツイートを削除しているが。
それはともかく、ネットに流れている不確かな情報を広げる役割の一端を私自身も担ってしまったということにショックを受けてしまった。いままでも無意識にやっていた行為なのかもしれないが、「やってしまった」と思ったのはこれが初めてだった。
私のつぶやきに対して「いや。デマでしょ」とmixiでパッと返した方がいたけれど、これは情報リテラシーの差としかいいようがない。私もこのようにありたいと願うが。
しかし、このキースの話はどこから出てきたのだろう。「キース・リチャーズ 逝去」で検索すると「2ちゃんねる」に引っかかり、こんなのが出てきたが。
<【訃報】ギタリストのキース・リチャーズさん死去
1 :☆ばぐ太☆φ ★:2012/03/06(火) 14:18:23.34 ID:???0
ローリングストーンズの結成以来、ギタリストとして活躍してきた
キース・リチャーズさんが2月27日に休養中のイタリアのトリノ市内
で交通事故のため死亡していたことが、同氏の個人事務所の発表で
明らかになった。享年74歳。
キースさんはストーンズの楽曲の大半を作曲してきた。オートバイ
乗車中の自爆事故で全身を打撲し、即死状態だったという。葬儀の
日程などはまだ発表されていない。(APF 12/3/6) >
しかしキースの年齢(1943年12月18日生まれなので、いま亡くなったとしたら68歳)が間違っているという、なかなか杜撰なものである。
義務教育の時点で留年するとどうなるだろう
2012年2月29日労働組合との対立やらガレキ問題やらで世間にいろいろと提言を投げ続けている橋下徹・大阪市長であるが、先日も教育問題について気になることをおこなっていた。
「毎日新聞」2012円2月22日配信のニュースによれば橋下市長は、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年も検討するよう大阪市教育委員会に指示を出したという。義務教育での留年は法的可能であるものの実際におこなわれた例はほとんどないらしい。
記事によれば、
<「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」
「留年は子供のため」>
などと橋下市長は教育委員会の幹部にメールを送ったというのである。
内田樹さんが先日の大阪市長選では橋下氏に批判的な立場をとり現職だった平松邦夫氏を応援した。仮に平松氏が当選したとしても何かしてくれたかという問題もあるけれど、橋下氏の教育に対する考え方には私も違和感を抱くことが多い。といっても教育についての考えは千差万別であるし、現在の私の経験から思うところを述べてみようと思う。
現在の私、といったのは今の自分は転職活動を続けていることに起因する。就職活動をするにあたり履歴書を提出しなければならないのが通例だ。履歴書には自分の生年月日、現住所、そして学歴・職歴などで構成されている。こうした情報を先方に渡さなければ就職活動はできない。
私には経歴で3回ほど空白期間がある。大学受験を失敗して浪人した1年間、大学卒業してから就職活動するまで1年3ヶ月、そして去年に会社を辞めて今の職場に入るまでの5ヶ月間だ。そして、これを見た企業はあまり良い印象を抱かないであろう。しかしそれは自分に一生つきまとうものであり、経歴詐称でもしない限りどうしようもないことだ。
ただ私の場合、結局は自分の責任でそういうブランクを作ってしまったと納得している部分はある。また、挽回できる程度のハンデであろうと思ってもいる。
しかしこれがもし小学校や中学校で留年していたとしたらどうだろう。企業が見る目はさらにグッと厳しいものとなるのは間違いない。なんでこの時期に留年したの?と訊かれて毅然と答えられるかと言われたら、たぶん無理であろう。
ましてや10代20代の若い人にこういう質問をされたらどんな気持ちになるだろう。いや、そもそも留年したという事実だけで精神的にも相当の傷は受けるのは想像するに難くない。小学校や中学校時代の1年間というのは成人した時のそれとは比べ物にならないほど差があるからだ。
さきの橋下市長の発言をもう一度確認してもらえたらと思うが、留年しなければならないほど義務教育の課程は大事なのだろうか。また、留年してしまった子どもの未来に対して国や自治体は何か保証してくれるのだろうか。
厳しい現実の一つとして、教育でも落ちこぼれる子たちといのは一定数は必ず出てくる。そして彼らにどんな政策をとったしても効果はそれほど上がらないだろう。私は義務教育というのは最低限度のものを与えることにとどめ、それ以上は首を突っ込むべきではないと思う。またせめて義務教育までの15年間、表向きにはみんな同じスタートラインで終われるという形にしたほうが望ましいと願っている。
能力主義の方は、それは悪平等だと言うかもしれない。しかし、留年を導入することによって新たな格差が生じてくる問題の方が遥かに大きいのではないだろうか。
「毎日新聞」2012円2月22日配信のニュースによれば橋下市長は、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年も検討するよう大阪市教育委員会に指示を出したという。義務教育での留年は法的可能であるものの実際におこなわれた例はほとんどないらしい。
記事によれば、
<「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」
「留年は子供のため」>
などと橋下市長は教育委員会の幹部にメールを送ったというのである。
内田樹さんが先日の大阪市長選では橋下氏に批判的な立場をとり現職だった平松邦夫氏を応援した。仮に平松氏が当選したとしても何かしてくれたかという問題もあるけれど、橋下氏の教育に対する考え方には私も違和感を抱くことが多い。といっても教育についての考えは千差万別であるし、現在の私の経験から思うところを述べてみようと思う。
現在の私、といったのは今の自分は転職活動を続けていることに起因する。就職活動をするにあたり履歴書を提出しなければならないのが通例だ。履歴書には自分の生年月日、現住所、そして学歴・職歴などで構成されている。こうした情報を先方に渡さなければ就職活動はできない。
私には経歴で3回ほど空白期間がある。大学受験を失敗して浪人した1年間、大学卒業してから就職活動するまで1年3ヶ月、そして去年に会社を辞めて今の職場に入るまでの5ヶ月間だ。そして、これを見た企業はあまり良い印象を抱かないであろう。しかしそれは自分に一生つきまとうものであり、経歴詐称でもしない限りどうしようもないことだ。
ただ私の場合、結局は自分の責任でそういうブランクを作ってしまったと納得している部分はある。また、挽回できる程度のハンデであろうと思ってもいる。
しかしこれがもし小学校や中学校で留年していたとしたらどうだろう。企業が見る目はさらにグッと厳しいものとなるのは間違いない。なんでこの時期に留年したの?と訊かれて毅然と答えられるかと言われたら、たぶん無理であろう。
ましてや10代20代の若い人にこういう質問をされたらどんな気持ちになるだろう。いや、そもそも留年したという事実だけで精神的にも相当の傷は受けるのは想像するに難くない。小学校や中学校時代の1年間というのは成人した時のそれとは比べ物にならないほど差があるからだ。
さきの橋下市長の発言をもう一度確認してもらえたらと思うが、留年しなければならないほど義務教育の課程は大事なのだろうか。また、留年してしまった子どもの未来に対して国や自治体は何か保証してくれるのだろうか。
厳しい現実の一つとして、教育でも落ちこぼれる子たちといのは一定数は必ず出てくる。そして彼らにどんな政策をとったしても効果はそれほど上がらないだろう。私は義務教育というのは最低限度のものを与えることにとどめ、それ以上は首を突っ込むべきではないと思う。またせめて義務教育までの15年間、表向きにはみんな同じスタートラインで終われるという形にしたほうが望ましいと願っている。
能力主義の方は、それは悪平等だと言うかもしれない。しかし、留年を導入することによって新たな格差が生じてくる問題の方が遥かに大きいのではないだろうか。
気持ちが切れるとき
2012年2月26日先日の休み(仮病)明けの朝、あぶなく遅刻する事態におちいった。いつも部屋を出るかなり前の時間に目覚まし時計を設定しているのだが、二度寝してしまったのである。気がついたのは勤務時間の40分ほど前だ。もっと早く目が起きられなかったのかと焦りながら、今出川通でタクシーを拾ってなんとか事なきを得る。ヒゲもそらずネクタイも締めずコンタクトレンズも着けぬまま仕事をしてしまったが、とりあえず遅刻しなくて良かった(もしも遅刻してしまえば、始末書が待っている)
今朝も目覚ましより1時間ほど遅れて起きてしまった。これは完全に気持ちが切れている証拠である。もう今の職場で働く気力が自分にはほとんど残っていないのだ。
時が経つのは残酷なほど早いもので、もう働いてから5ヶ月目が過ぎようとしている。最初の2ヶ月は叱責の連続で、この10年分は怒られたのではないだろうか。その辺りが一番辛くて、
「今年(2011年)中には辞めたい」
と心の中で叫び続けていたものの、それも空しく昨年中には何も決まらなかった。
しかし人間というのは意外と強い生き物で、3ヶ月経つ頃には怒られる回数もグッと減りなんとか仕事を回すことができるようになる。職場環境に自分がだんだんと慣れていったのだ。そうなっていくとなんだか逃げられなくなる気がしてきて、それも実に嫌な感覚ではあるが。
この1週間で、仮病も含めて3日も休みがあったのが決定的だった。この間に、もうあの勤務地に行きたくない、という気持ちがまた膨らみだしたのである。先日ある企業に面接へ行ったことも大きかった。もう違う環境に行きたい。そればかりである。
まだ来月のシフトは出ていないけれど、3月は人手が足りないため公休が3日くらいしか取れないのでは、という恐ろしい噂が流れている。それはもはや組織の体をなしていないのではないか。
現在の会社と私との契約は3月31日までとなっている。もともと、いても半年まで、と決めていた。年度を超えてまでいるつもりもない。何も決まらなくても辞めてしまいそうな、そういう心境まで追い込まれている。ここが正念場だろう。
今朝も目覚ましより1時間ほど遅れて起きてしまった。これは完全に気持ちが切れている証拠である。もう今の職場で働く気力が自分にはほとんど残っていないのだ。
時が経つのは残酷なほど早いもので、もう働いてから5ヶ月目が過ぎようとしている。最初の2ヶ月は叱責の連続で、この10年分は怒られたのではないだろうか。その辺りが一番辛くて、
「今年(2011年)中には辞めたい」
と心の中で叫び続けていたものの、それも空しく昨年中には何も決まらなかった。
しかし人間というのは意外と強い生き物で、3ヶ月経つ頃には怒られる回数もグッと減りなんとか仕事を回すことができるようになる。職場環境に自分がだんだんと慣れていったのだ。そうなっていくとなんだか逃げられなくなる気がしてきて、それも実に嫌な感覚ではあるが。
この1週間で、仮病も含めて3日も休みがあったのが決定的だった。この間に、もうあの勤務地に行きたくない、という気持ちがまた膨らみだしたのである。先日ある企業に面接へ行ったことも大きかった。もう違う環境に行きたい。そればかりである。
まだ来月のシフトは出ていないけれど、3月は人手が足りないため公休が3日くらいしか取れないのでは、という恐ろしい噂が流れている。それはもはや組織の体をなしていないのではないか。
現在の会社と私との契約は3月31日までとなっている。もともと、いても半年まで、と決めていた。年度を超えてまでいるつもりもない。何も決まらなくても辞めてしまいそうな、そういう心境まで追い込まれている。ここが正念場だろう。
はじめての かくていしんこく
2012年2月24日サラリーマンという立場しか知らない自分にとって確定申告というものは無縁だと勝手に思っていた。給与所得者は年末に書類を記入すれば企業が代わりに全ての手続きをしてくれるし税金も返ってくるからである。
しかし去年の私は会社を辞めて新しい場所に移ったため、2ヵ所以上の事業所から給与・賃金をもらった人間、となり確定申告をする必要が出てきた。いちおう今の職場に相談したものの、自分でしてください、と冷淡に言われたので公休である今日その手続きをしようと思った。
といっても、それほど面倒なことをするわけではない。書類については、国税庁のサイトにあるページに必要事項(自分の住所、事業所の住所、もらった給料の金額など)を入力すれば、PDFになって自動的に出てくるからだ。
http://www.nta.go.jp/tetsuzuki/shinkoku/shotoku/kakutei.htm
想像するよりずっと簡単にできてしまったので、これで本当にいいのか?と思いながらデータをUSBに入れて近くのローソンへプリントしに行く。
しかし、やはり物事は簡単に進まないものだ。このデータは対応してません、とかいった表示が出てプリントアウトができなかった。そこで近所の資産家に連絡をとって、その家でプリントアウトさせてもらおうとしたらここでも無理だった。
どうしたことだろう。しかしこの時点で昼過ぎだったので時間もまだまだある。もう現場で書類をもらって手書きをしようかと思い直し上京税務署に自転車で向かう。
その途中、提出するまえに源泉徴収の書類をコピーしておこうと思いセブンイレブンに立ち寄ることにする。コピー機を見るとUSBでプリントアウトができるようになっていた。
「もう一回、これで試してみようかな」
とUSBを差し込んでみた。するとあら不思議、書類が見事に出て来たのである。これを税務署に持っていきハンコを押して源泉徴収の書類を糊付けして出すと、ろくに確認もしないままハンコをバンバンと押される控えを渡される。そして、
「(戻ってくる税金は)3〜4週間くらいで口座に振り込まれますので」
と言われて手続きは終わってしまった。所要時間は1分ほどである。
これで本当に大丈夫なのか?と疑問に思いながら税務署を後にする。ちなみに戻ってくる金額は6460円だ。私にとっては小さい金額ではない。
しかし去年の私は会社を辞めて新しい場所に移ったため、2ヵ所以上の事業所から給与・賃金をもらった人間、となり確定申告をする必要が出てきた。いちおう今の職場に相談したものの、自分でしてください、と冷淡に言われたので公休である今日その手続きをしようと思った。
といっても、それほど面倒なことをするわけではない。書類については、国税庁のサイトにあるページに必要事項(自分の住所、事業所の住所、もらった給料の金額など)を入力すれば、PDFになって自動的に出てくるからだ。
http://www.nta.go.jp/tetsuzuki/shinkoku/shotoku/kakutei.htm
想像するよりずっと簡単にできてしまったので、これで本当にいいのか?と思いながらデータをUSBに入れて近くのローソンへプリントしに行く。
しかし、やはり物事は簡単に進まないものだ。このデータは対応してません、とかいった表示が出てプリントアウトができなかった。そこで近所の資産家に連絡をとって、その家でプリントアウトさせてもらおうとしたらここでも無理だった。
どうしたことだろう。しかしこの時点で昼過ぎだったので時間もまだまだある。もう現場で書類をもらって手書きをしようかと思い直し上京税務署に自転車で向かう。
その途中、提出するまえに源泉徴収の書類をコピーしておこうと思いセブンイレブンに立ち寄ることにする。コピー機を見るとUSBでプリントアウトができるようになっていた。
「もう一回、これで試してみようかな」
とUSBを差し込んでみた。するとあら不思議、書類が見事に出て来たのである。これを税務署に持っていきハンコを押して源泉徴収の書類を糊付けして出すと、ろくに確認もしないままハンコをバンバンと押される控えを渡される。そして、
「(戻ってくる税金は)3〜4週間くらいで口座に振り込まれますので」
と言われて手続きは終わってしまった。所要時間は1分ほどである。
これで本当に大丈夫なのか?と疑問に思いながら税務署を後にする。ちなみに戻ってくる金額は6460円だ。私にとっては小さい金額ではない。
嘘も方便だよ、と言い張れる結果を出したい
2012年2月22日昨日の午後からなんだか体が重たい。そして扁桃腺が腫れているのを感じる。私は扁桃腺が大きいため、風邪をひいたときは高熱が出る。これはまずい。明日に病院へ行って薬をもらってこよう。
しかし今の仕事はシフト制で配置が1ヶ月ガチガチに固まっている。急に休みが入るためには、他の誰かが代わりに入る(「補勤」という)必要が出てくる。
「体調管理はきっちりしろや」
と上司は苦々しい顔で無茶を言う。こんな酷い仕事を押しつけているくせに・・・。そして休みだった(病み上がりの)一人を出勤させ、もう一人にはシフト変更(勤務時間の延長をしてもらう)をしてもらった。そんな面倒な手続きを終えて私は今日、休みをもらって病院へ行くことになった。
しかし、この話にはいくつかの嘘がまぎれこんでいる。今日の私はなぜか病院へ行くことも薬をもらうこともなく、夕方は長岡京市へ向かっていた。
就職活動で面接を受けるためである。面接の時間は午後5時を指定されていたけれど、この日は午前10時から午後10時まで勤務となっていたのだ。それで仮病を使って休んだわけである。
当初、面接する企業には「ちょっとその日は無理なんですが」と返事をし、ではまた連絡します、と言われはした。しかし、こちらの都合だからもう連絡がないかもしれないと思い直し「調整しますので、行かせてください!」と相手に伝えてしまったのだ。この会社、というか職種で私のようなキャリアの人間が面接を受けられるチャンスはたぶんもう無いだろうと判断したことにもよる。そういう事情である。
上の文でも書いたけれど、こんなことをしたら多くの人に迷惑をかけることになる。しかし今回はそれを承知で仮病をつかったのだ。
今日の件の他に私が仕事上でこのような嘘をついたことは、過去に1回だけある。
それは今から11年前、2001年6月までさかのぼる。当時の私は大学を卒業するも仕事が見つからずフラフラしていた。そのころに深夜のコンビニで働くもその店がつぶれてしまうという悲惨な事態になった。だが道を歩いていると別のコンビニがバイトの募集の張り紙を出している。連絡をとってみると、経験者だしいいか、とすぐ採用になった。
しかし面接の際に店長から、就職活動はどうするの?と訊かれてはいた。その時は1社だけ応募していたけれど見込みがないと勝手に思っていたので、専門学校など通いながらしばらく就活をするつもりです、と適当に答えたのである。これが嘘となった。
しかし世の中は不思議なくらい思い通りにいかないもので、バイトを始めてからすぐその1社から内定が出てしまったのである。何もアテがなかった自分としては嬉しいと喜ぶ一方、バイトをどうしよう?という迷いも起きていた。会社は来月から来てもらうと言われたので、バイトはすぐ辞めなければならない。まだ入って間もないというのに。
少し躊躇したけれど、翌日くらいにはコンビニに行き店長のお母さんに辞める旨を伝えた。お母さんはあまり事情を知らなかったので、じゃあまたバイト募集を出さないといけませんねえ、で終わる。が、当の店長はさすがに黙ってはいなかった。
「話を聞かせてくれるか」
と店の裏で苦々しい顔をされながら事情を聞かれる。そりゃあ入ったとたんに、辞めます、では向こうの気分が悪いに決まっている。その店長はそんなに怖い人ではなかったので二言三言のイヤミを言われるくらいで終わったけれど。そういえば去って行く日も、頑張れよ、と言ってくれたような。
どう考えてもこちらに分がある話ではない。しかしアルバイトを辞めるのを怖がってサラリーマンの道を蹴ったとしたら、それはただのバカだろう。人生の節目節目では嘘でもついて事態を収拾しなければ前に進めない場面もあるのだ、と言いたい。
今日の件についても、そんな私のターニング・ポイントとなるのだろうか。この件については結果をまたお伝えしたいと思う。
しかし今の仕事はシフト制で配置が1ヶ月ガチガチに固まっている。急に休みが入るためには、他の誰かが代わりに入る(「補勤」という)必要が出てくる。
「体調管理はきっちりしろや」
と上司は苦々しい顔で無茶を言う。こんな酷い仕事を押しつけているくせに・・・。そして休みだった(病み上がりの)一人を出勤させ、もう一人にはシフト変更(勤務時間の延長をしてもらう)をしてもらった。そんな面倒な手続きを終えて私は今日、休みをもらって病院へ行くことになった。
しかし、この話にはいくつかの嘘がまぎれこんでいる。今日の私はなぜか病院へ行くことも薬をもらうこともなく、夕方は長岡京市へ向かっていた。
就職活動で面接を受けるためである。面接の時間は午後5時を指定されていたけれど、この日は午前10時から午後10時まで勤務となっていたのだ。それで仮病を使って休んだわけである。
当初、面接する企業には「ちょっとその日は無理なんですが」と返事をし、ではまた連絡します、と言われはした。しかし、こちらの都合だからもう連絡がないかもしれないと思い直し「調整しますので、行かせてください!」と相手に伝えてしまったのだ。この会社、というか職種で私のようなキャリアの人間が面接を受けられるチャンスはたぶんもう無いだろうと判断したことにもよる。そういう事情である。
上の文でも書いたけれど、こんなことをしたら多くの人に迷惑をかけることになる。しかし今回はそれを承知で仮病をつかったのだ。
今日の件の他に私が仕事上でこのような嘘をついたことは、過去に1回だけある。
それは今から11年前、2001年6月までさかのぼる。当時の私は大学を卒業するも仕事が見つからずフラフラしていた。そのころに深夜のコンビニで働くもその店がつぶれてしまうという悲惨な事態になった。だが道を歩いていると別のコンビニがバイトの募集の張り紙を出している。連絡をとってみると、経験者だしいいか、とすぐ採用になった。
しかし面接の際に店長から、就職活動はどうするの?と訊かれてはいた。その時は1社だけ応募していたけれど見込みがないと勝手に思っていたので、専門学校など通いながらしばらく就活をするつもりです、と適当に答えたのである。これが嘘となった。
しかし世の中は不思議なくらい思い通りにいかないもので、バイトを始めてからすぐその1社から内定が出てしまったのである。何もアテがなかった自分としては嬉しいと喜ぶ一方、バイトをどうしよう?という迷いも起きていた。会社は来月から来てもらうと言われたので、バイトはすぐ辞めなければならない。まだ入って間もないというのに。
少し躊躇したけれど、翌日くらいにはコンビニに行き店長のお母さんに辞める旨を伝えた。お母さんはあまり事情を知らなかったので、じゃあまたバイト募集を出さないといけませんねえ、で終わる。が、当の店長はさすがに黙ってはいなかった。
「話を聞かせてくれるか」
と店の裏で苦々しい顔をされながら事情を聞かれる。そりゃあ入ったとたんに、辞めます、では向こうの気分が悪いに決まっている。その店長はそんなに怖い人ではなかったので二言三言のイヤミを言われるくらいで終わったけれど。そういえば去って行く日も、頑張れよ、と言ってくれたような。
どう考えてもこちらに分がある話ではない。しかしアルバイトを辞めるのを怖がってサラリーマンの道を蹴ったとしたら、それはただのバカだろう。人生の節目節目では嘘でもついて事態を収拾しなければ前に進めない場面もあるのだ、と言いたい。
今日の件についても、そんな私のターニング・ポイントとなるのだろうか。この件については結果をまたお伝えしたいと思う。
「人口減少」は日本に何をもたらすか
2012年2月21日今朝Twitterを開いてみたら、
『これでは子や孫の世代に申し訳ない人口激減社会で「消えていくもの」一覧 ローンは組めない/宅配便は届かない テレビは映らない/プロ野球もJリーグもない』
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31829
という記事が「現代ビジネス」のところにあったので読んでみた。なかなか興味深いところもある一方、たぶんここでの指摘の大半は外れるだろうなとも思った。そのあたりのことを今日は触れてみたい。
記事の内容は題名で想像する通りで、これから日本が人口減少の道をたどっていくうちに、いろいろなもの(プロスポーツ、住宅需要、公共自治体の提供するサービス、風俗業など)が姿を消す、というものだ。
確かにここで指摘されているものは、ある程度の人口が維持されていなければ安定してサービスが受けられなくなるものばかりだ。そして日本に限らず先進国で人口減少はどこでも出ている傾向である。
しかし、である。果たして記事にあるような現象がこれからさき本当に起きるのか、とパッと直感で疑問に抱いた方も多いのではないだろうか。まさかここまで酷い未来にはならないでしょう、たぶん、とね。
実は私も同じような頭の持ち主だった。少なくとも、ここに書かれているほどの悲惨な未来は日本には訪れないだろう(別の理由で悲惨なことが起きるかもしれないが)。
単純に「日本人」だけが減少する、というならば現代ビジネスの論考もある程度は当たるかもしれない。しかし地球規模で考えれば人類は増加の一途をたどっている。お隣の中国などその典型だろう。いまの日本は鎖国状態ではないし、そうした国際問題にも何らかの対応を考えなければならない。移民の受け入れである。
外国人に選挙権を与えることにも否定的な意見が大半を占めるこの国であるから、移民受け入れなんてもってのほかだ!と息巻く人も多いに違いない。しかし「そんなこと言ってられる場合ではない」という声はこれから大きくなっていくだろう。それだけは間違いないと思う。
人類の歴史を大雑把に言うと、文明(輸入・輸出ができるもの。テレビ、自動車、ネット、携帯など)と文化(輸入・輸出ができないもの。冠婚葬祭や宗教的儀式など)とのせめぎ合いの歴史である。そしてこれまで文明の方が文化を圧倒してきたといえるよう。なぜなら文明は人の暮らしを便利なものにしているからだ。文化は逆に人を不便な方向にもっていく傾向が強い。人間というのは身勝手で楽をしたがる生き物だから、世の中が不便になっていくのを黙ってみているはずはないだろう。
在日韓国人3世の辛淑玉(実業家、評論家)さんはその出自のゆえに、小さい時に近所のお祭りでも神輿を担がせてもらえなかった。しかし過疎化によって担ぎ手も減ったために辛さんにも声がかかる。わたし朝鮮人だから、と答えると向こうは、いまは国際化だから、などと言ったらしい。
あまりのご都合主義で笑えるながらも悲しいエピソードであるけれど、人間の本質をえぐるような話ではないだろうか。こだわっても何のメリットもない「文化」なんて状況が変わってしまえば吹っ飛んでしまうのだ。
私はいま京都市という、どちらかといえば「文化」のほうが力のある珍しい地域に住んでいるけれど、徐々にそうもいってられない状況がおとずれるだろう。そうした変化を「よそもの」である自分は見届けていけたらと願う。
『これでは子や孫の世代に申し訳ない人口激減社会で「消えていくもの」一覧 ローンは組めない/宅配便は届かない テレビは映らない/プロ野球もJリーグもない』
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31829
という記事が「現代ビジネス」のところにあったので読んでみた。なかなか興味深いところもある一方、たぶんここでの指摘の大半は外れるだろうなとも思った。そのあたりのことを今日は触れてみたい。
記事の内容は題名で想像する通りで、これから日本が人口減少の道をたどっていくうちに、いろいろなもの(プロスポーツ、住宅需要、公共自治体の提供するサービス、風俗業など)が姿を消す、というものだ。
確かにここで指摘されているものは、ある程度の人口が維持されていなければ安定してサービスが受けられなくなるものばかりだ。そして日本に限らず先進国で人口減少はどこでも出ている傾向である。
しかし、である。果たして記事にあるような現象がこれからさき本当に起きるのか、とパッと直感で疑問に抱いた方も多いのではないだろうか。まさかここまで酷い未来にはならないでしょう、たぶん、とね。
実は私も同じような頭の持ち主だった。少なくとも、ここに書かれているほどの悲惨な未来は日本には訪れないだろう(別の理由で悲惨なことが起きるかもしれないが)。
単純に「日本人」だけが減少する、というならば現代ビジネスの論考もある程度は当たるかもしれない。しかし地球規模で考えれば人類は増加の一途をたどっている。お隣の中国などその典型だろう。いまの日本は鎖国状態ではないし、そうした国際問題にも何らかの対応を考えなければならない。移民の受け入れである。
外国人に選挙権を与えることにも否定的な意見が大半を占めるこの国であるから、移民受け入れなんてもってのほかだ!と息巻く人も多いに違いない。しかし「そんなこと言ってられる場合ではない」という声はこれから大きくなっていくだろう。それだけは間違いないと思う。
人類の歴史を大雑把に言うと、文明(輸入・輸出ができるもの。テレビ、自動車、ネット、携帯など)と文化(輸入・輸出ができないもの。冠婚葬祭や宗教的儀式など)とのせめぎ合いの歴史である。そしてこれまで文明の方が文化を圧倒してきたといえるよう。なぜなら文明は人の暮らしを便利なものにしているからだ。文化は逆に人を不便な方向にもっていく傾向が強い。人間というのは身勝手で楽をしたがる生き物だから、世の中が不便になっていくのを黙ってみているはずはないだろう。
在日韓国人3世の辛淑玉(実業家、評論家)さんはその出自のゆえに、小さい時に近所のお祭りでも神輿を担がせてもらえなかった。しかし過疎化によって担ぎ手も減ったために辛さんにも声がかかる。わたし朝鮮人だから、と答えると向こうは、いまは国際化だから、などと言ったらしい。
あまりのご都合主義で笑えるながらも悲しいエピソードであるけれど、人間の本質をえぐるような話ではないだろうか。こだわっても何のメリットもない「文化」なんて状況が変わってしまえば吹っ飛んでしまうのだ。
私はいま京都市という、どちらかといえば「文化」のほうが力のある珍しい地域に住んでいるけれど、徐々にそうもいってられない状況がおとずれるだろう。そうした変化を「よそもの」である自分は見届けていけたらと願う。
朝の大阪の空を見上げながら
2012年2月20日今日は仕事が入っておらず、実に貴重なお休みの日である。にもかかわらず、午前8時台に京阪電車で大阪へ向かっていた。こないだ履歴書を送った会社から面接の連絡があったので足を運んだのである。3日前に電話があったので、けっこう急な話ではあったけれど、もう自分にはそれほどチャンスもないだろうし受けられるだけ受けようとは思っている。
知人の一人に、面接に行くから、とメールを送ったら、
「また辞めるの?」
と返信があったので苦笑する。今いる場所は辞めるために働いているのだ!と言いたい。
10時に会社を訪問し面接は10分ほどで終わった。もうちょっと積極的に自分をアピールする部分が足りなかったかな、と反省しながら外を出る。
「こんなに早く終わって、これからどうしよう?せっかくだし街をふらついてみようか」
などと一瞬思ったけれど、今月は特にお金がないし(あったことはこれまで一度もないが)、そういう気分にはならなかった。とりあえず会社のあった本町から大阪駅まで歩くことにした。
考えてみれば、こんな早い時間に大阪の街中を歩くというのは初めてな気がする。ひたすら北上すると朝日新聞社があり、その横で新生「フェスティバルホール」が建設の途中であった。淀屋橋にあったホールがここに移転するのか。そういえば山下達郎のフェスティバルホール最後の公演を立ち会ったなあと思い出す。そして、新しいフェスティバルホールができたとしても、達郎氏はライブをしないだろうなあとも思う。
それにしても、大阪の街から見上げた青空はなんだか不思議と新鮮に感じた。なんだか日常から解放されたような、そんな気分にとらわれた。この半年ちかく厳しい状況が続き、ため息をつきながら空を見つめるような場面があまりにも多かったからかもしれない。この日記を書く間隔が空いてきているのも、そうした気分が原因の一つである(いや、寒い日が続いているのが最も大きいかな)。
良いか悪いかはわからないけれど、京都に比べて大阪の景色のほうが大きく変化している。街を歩いているだけでそれを実感した。
歩いているうちに、
「この辺りで働くという選択肢もありかな」
という気持ちにだんだんとなってくる。今日は面接で足を運んできたものの、これまでは大阪まで行こうという気持ちがそれほど高かったわけでない。あくまで京都市近郊にターゲットを絞って求職活動を続けていたのだ。だが京都の求人の絶対数がまず少ないし限界を感じてきている。
また、就職活動だけが問題でもない。ここ最近、自分を取り巻く人間関係も色々と変化がおとずれている。12年くらい前はほとんど知り合いもいなかった状態であったけれど、その頃に戻るような予感がある。なんだか時計が逆転して回っているような、そんな感覚に襲われる。こういう時はもっと怒ったり泣いたりしたらいいのではと思うのだが、不思議と私にはそんな人間らしい感情がおこらない。つくづく欠陥のある性格だと思うけれど、もはや自分ではどうにもならないのだろう。
つねづね天涯孤独を自認している自分であるから、周囲に知り合いがいなくなったとしても、元の鞘に戻るだけかもしれない。ただ別に望んでこんな生き方を望んでしているわけではない。結果としてそうなってしまうのだ。しかしもう35年以上も自分をやってきているわけで、その運命というか先行きはある程度予想がたつ。人並みの人生は歩めない。それならその事実を受け入れてこれからを生きるしかないだろう。
週間天気予報によれば、明日から気温も暖かくなっていくようだ。しかし、私の周りに果たして春は訪れるのだろうか。3月4月になっても冷たい春のまま、しかも夜明けもやって来ないような。そんな思いに囚われているこのごろである。
今日の昼前にある方から、日記を拝見してますよ、とメールをいただいたので書いてみることにした。が、なんじゃこの内容は、というものになってしまったなあ。
知人の一人に、面接に行くから、とメールを送ったら、
「また辞めるの?」
と返信があったので苦笑する。今いる場所は辞めるために働いているのだ!と言いたい。
10時に会社を訪問し面接は10分ほどで終わった。もうちょっと積極的に自分をアピールする部分が足りなかったかな、と反省しながら外を出る。
「こんなに早く終わって、これからどうしよう?せっかくだし街をふらついてみようか」
などと一瞬思ったけれど、今月は特にお金がないし(あったことはこれまで一度もないが)、そういう気分にはならなかった。とりあえず会社のあった本町から大阪駅まで歩くことにした。
考えてみれば、こんな早い時間に大阪の街中を歩くというのは初めてな気がする。ひたすら北上すると朝日新聞社があり、その横で新生「フェスティバルホール」が建設の途中であった。淀屋橋にあったホールがここに移転するのか。そういえば山下達郎のフェスティバルホール最後の公演を立ち会ったなあと思い出す。そして、新しいフェスティバルホールができたとしても、達郎氏はライブをしないだろうなあとも思う。
それにしても、大阪の街から見上げた青空はなんだか不思議と新鮮に感じた。なんだか日常から解放されたような、そんな気分にとらわれた。この半年ちかく厳しい状況が続き、ため息をつきながら空を見つめるような場面があまりにも多かったからかもしれない。この日記を書く間隔が空いてきているのも、そうした気分が原因の一つである(いや、寒い日が続いているのが最も大きいかな)。
良いか悪いかはわからないけれど、京都に比べて大阪の景色のほうが大きく変化している。街を歩いているだけでそれを実感した。
歩いているうちに、
「この辺りで働くという選択肢もありかな」
という気持ちにだんだんとなってくる。今日は面接で足を運んできたものの、これまでは大阪まで行こうという気持ちがそれほど高かったわけでない。あくまで京都市近郊にターゲットを絞って求職活動を続けていたのだ。だが京都の求人の絶対数がまず少ないし限界を感じてきている。
また、就職活動だけが問題でもない。ここ最近、自分を取り巻く人間関係も色々と変化がおとずれている。12年くらい前はほとんど知り合いもいなかった状態であったけれど、その頃に戻るような予感がある。なんだか時計が逆転して回っているような、そんな感覚に襲われる。こういう時はもっと怒ったり泣いたりしたらいいのではと思うのだが、不思議と私にはそんな人間らしい感情がおこらない。つくづく欠陥のある性格だと思うけれど、もはや自分ではどうにもならないのだろう。
つねづね天涯孤独を自認している自分であるから、周囲に知り合いがいなくなったとしても、元の鞘に戻るだけかもしれない。ただ別に望んでこんな生き方を望んでしているわけではない。結果としてそうなってしまうのだ。しかしもう35年以上も自分をやってきているわけで、その運命というか先行きはある程度予想がたつ。人並みの人生は歩めない。それならその事実を受け入れてこれからを生きるしかないだろう。
週間天気予報によれば、明日から気温も暖かくなっていくようだ。しかし、私の周りに果たして春は訪れるのだろうか。3月4月になっても冷たい春のまま、しかも夜明けもやって来ないような。そんな思いに囚われているこのごろである。
今日の昼前にある方から、日記を拝見してますよ、とメールをいただいたので書いてみることにした。が、なんじゃこの内容は、というものになってしまったなあ。