成海璃子の音楽趣味について思ったこと
2010年5月15日5月8日放送の「メレンゲの気持ち」(日本テレビ系)で、成海璃子の自室のCD棚が紹介され、その中身があまりにも凄かったことが話題になっている。
ネットで調べたところでは、このようなアーティストのCDが並んでいたらしい。
INU
スターリン
筋肉少女帯
村八分
はっぴいえんど
高田渡
奇形児
あぶらだこ
猛毒
など。はっぴいえんどや高田渡も渋い趣味だが、日本のパンクやニュー・ウェーブの分野で知られるマニアックな人たちの名前が目につく。
しかしながら何が一番とんでもないことかといえば、成海璃子がまだ1992年生まれの高校生という事実だろう。そんな年齢の彼女がこのようなCDを聴くきっかけはいったい何だったのか。本人もモゴモゴ言って理由を明らかにしなったようだが。
おそらく、きっかけはそれほどたいしたことではないと思う。何か1枚のCDが好きになったことが入口となり、その周辺の世界を広げていったらこのようなCD棚になってしまった。そんな感じの流れだったのではないだろうか。
自分の経験でも佐野元春を聴いて彼のルーツの英米ロックのCDを集めるようになったり、ジョイ・ディヴィジョンのCDをきっかけにパンクやニュー・ウェーヴのCDを買うようになったり、ということがこれまで何度かあった。そしてそれはあくまで「なんとなく」な感じであり、何かに駆り立てられるようにCDを集めていたというわけではない。
だから、周囲にどう思われようとも、いまだに私には「俺は音楽にくわしい」という心境にはなれないでいる。別にオタクだマニアだと思われるのは結構だが、「渡部さんって音楽にくわしいんですね」と言われたら「勘弁してくれ!」という心境になってしまう。確かにCDをたくさん持ってるしライブも100本以上観てるけれど、知識なんてほとんど無いんだから。
そもそも「自称音楽ファン」みたいな知り合いもいないし、そんな人たちと付き合っても長く会話が続かない気がする(知識がないからね)。mixiのミュージシャンのコミュニティにもヴァン・モリソン以外は入っていないのもその辺に理由がある。成海璃子は番組内で「同世代の友達と趣味が合わない」と嘆いたらしいが、彼女にとってはその方が良いと思う。
しかしCD棚を見てる限り、彼女は海外のパンクやニュー・ウェーブについてはくわしくなさそうだな。これらの音楽を手軽に聴くために、最近は部屋のパソコンにスロッビング・グリスルやポップ・グループ、ソフト・セルのCDを次々と放り込んでいたけれど、そんな最中に聞いた成海璃子の話であった。
ネットで調べたところでは、このようなアーティストのCDが並んでいたらしい。
INU
スターリン
筋肉少女帯
村八分
はっぴいえんど
高田渡
奇形児
あぶらだこ
猛毒
など。はっぴいえんどや高田渡も渋い趣味だが、日本のパンクやニュー・ウェーブの分野で知られるマニアックな人たちの名前が目につく。
しかしながら何が一番とんでもないことかといえば、成海璃子がまだ1992年生まれの高校生という事実だろう。そんな年齢の彼女がこのようなCDを聴くきっかけはいったい何だったのか。本人もモゴモゴ言って理由を明らかにしなったようだが。
おそらく、きっかけはそれほどたいしたことではないと思う。何か1枚のCDが好きになったことが入口となり、その周辺の世界を広げていったらこのようなCD棚になってしまった。そんな感じの流れだったのではないだろうか。
自分の経験でも佐野元春を聴いて彼のルーツの英米ロックのCDを集めるようになったり、ジョイ・ディヴィジョンのCDをきっかけにパンクやニュー・ウェーヴのCDを買うようになったり、ということがこれまで何度かあった。そしてそれはあくまで「なんとなく」な感じであり、何かに駆り立てられるようにCDを集めていたというわけではない。
だから、周囲にどう思われようとも、いまだに私には「俺は音楽にくわしい」という心境にはなれないでいる。別にオタクだマニアだと思われるのは結構だが、「渡部さんって音楽にくわしいんですね」と言われたら「勘弁してくれ!」という心境になってしまう。確かにCDをたくさん持ってるしライブも100本以上観てるけれど、知識なんてほとんど無いんだから。
そもそも「自称音楽ファン」みたいな知り合いもいないし、そんな人たちと付き合っても長く会話が続かない気がする(知識がないからね)。mixiのミュージシャンのコミュニティにもヴァン・モリソン以外は入っていないのもその辺に理由がある。成海璃子は番組内で「同世代の友達と趣味が合わない」と嘆いたらしいが、彼女にとってはその方が良いと思う。
しかしCD棚を見てる限り、彼女は海外のパンクやニュー・ウェーブについてはくわしくなさそうだな。これらの音楽を手軽に聴くために、最近は部屋のパソコンにスロッビング・グリスルやポップ・グループ、ソフト・セルのCDを次々と放り込んでいたけれど、そんな最中に聞いた成海璃子の話であった。
食べなきゃ死ぬでしょ、普通は
2010年5月12日本日の「京都新聞」朝刊紙面にうさん臭いニュースが載っていた。バンコクの共同通信の配信で「70年断食?ヨガ聖人」という見出しである。インドで70年以上も飲み食いをせず生き続けていると自称する老人が発見されたというのだ。インド国防省も調査に乗り出し15日間にわたり24時間態勢で調査をした。老人はその間、一滴の水も飲まずトイレにも行かなかったという。
新聞記事によれば、調査されたプララド・ジャニさん(85歳)は、「8歳の時、目の前に現れたヒンズー教の女神に舌を触られて以来、食欲を失い、食物をとらないでも生きていられるようになった」と言っているらしい。
「ロイター」の動画ニュースでも、「生存に必要な栄養はヒンズー教の神様からもらっている」と字幕スーパーの解説が出ているから、私のような凡俗の徒にはもはや理解の域を超えている。
先に触れたインド国防省はけっこう真面目に調査をしたようで、動画ニュースで会見していた国防省生理学研究所のギラバザガン医師は、「食料や水なしで生き延びる戦略を構築するのに役立つ可能性も」などと軍事利用への期待などを話していた。
このニュースを見てパッと思い浮かんだのは、98歳にして現役医師をしている日野原重明さん(聖路加国際病院理事長)だった。どこかのテレビで日野原さんの食事が紹介されていて、1日の基礎代謝ギリギリのカロリーを摂取をするのが健康の秘訣の一つと言っていた。長生きしている坊さんも粗食を薦めることが多いのもこうした理由からかもしれない。
ただ、このジャニさんの事例は極端にもほどがある。本当に飲まず食わずで70年以上も生きていけるとしたらはそれはもはや人間ではないし、もしかしたら生物かどうかも疑わしい。機械だって動くには電気とか石油とかが必要ではないか。
インド国防省がどれほど画期的な成果を出したとしても、われわれ人間には役に立たないような気がする。
新聞記事によれば、調査されたプララド・ジャニさん(85歳)は、「8歳の時、目の前に現れたヒンズー教の女神に舌を触られて以来、食欲を失い、食物をとらないでも生きていられるようになった」と言っているらしい。
「ロイター」の動画ニュースでも、「生存に必要な栄養はヒンズー教の神様からもらっている」と字幕スーパーの解説が出ているから、私のような凡俗の徒にはもはや理解の域を超えている。
先に触れたインド国防省はけっこう真面目に調査をしたようで、動画ニュースで会見していた国防省生理学研究所のギラバザガン医師は、「食料や水なしで生き延びる戦略を構築するのに役立つ可能性も」などと軍事利用への期待などを話していた。
このニュースを見てパッと思い浮かんだのは、98歳にして現役医師をしている日野原重明さん(聖路加国際病院理事長)だった。どこかのテレビで日野原さんの食事が紹介されていて、1日の基礎代謝ギリギリのカロリーを摂取をするのが健康の秘訣の一つと言っていた。長生きしている坊さんも粗食を薦めることが多いのもこうした理由からかもしれない。
ただ、このジャニさんの事例は極端にもほどがある。本当に飲まず食わずで70年以上も生きていけるとしたらはそれはもはや人間ではないし、もしかしたら生物かどうかも疑わしい。機械だって動くには電気とか石油とかが必要ではないか。
インド国防省がどれほど画期的な成果を出したとしても、われわれ人間には役に立たないような気がする。
石川幸憲「メディアを変える キンドルの衝撃」(10年。毎日新聞社)
2010年5月9日 読書
今年の日本は「電子書籍元年」だ。そんな声をどこからともなく聞いたような気がするが、今月28日に「iPad」の日本版が発売されるのを皮切りにその噂も現実となっていくだろう。
といってもiPadにおいては電子書籍は搭載機能の一つに過ぎない。また以前の日記でも書いているけれど、通信料がかかることもあるので私は今のところ所持する気になれない。ただ、電子書籍というものに対しては人並み以上に興味を抱いている。
そんな私のような人間が注目しているのは、年内には日本版が出るという噂もあるキンドル(Kindle)であろう。キンドルはかのアマゾン(Amazon)社が開発した電子書籍端末である。2007年11月19日に本国アメリカで世に出たが、発売開始5時間半で在庫が無くなったという。アマゾンは売り上げなどの情報を公開しない方針をとっているけれど、2009年のキンドルの販売数は200万台前後と推測されている。
キンドルの特徴は色々ある。「イー・インク」と呼ばれる紙と同じようなモノクロ画面の技術、電子消費量がLCD(液晶画面)の10分の1で済む省エネ設計、本1冊のダウンロードが60秒以下でできる3Gワイヤレス機能の搭載、キンドル1台で1500冊もの電子書籍の保存ができる、などなどだ。
しかしキンドル、というよりアマゾンの凄いところは、ネットワークの使用料を全て会社が負担するということである。ここがiPadと大きく違い、私がグラッときた点だ。だから日本版が出たら購入してみたいと思っている。
ただこの本は「読んでみてキンドルの発売が楽しみになってきた!」などと単純に楽しみになるような内容にはなっていない。本書の特徴はキンドルを取り巻くアメリカ新聞業界の変化についても触れられているからだ。第3章の「米メディア危機と生き残り戦略」では、
「09年に1・5万人が失職」
「ネットが奪った3行広告」
「トリビューンの経営破綻」
といった小見出しが続き、新聞業界の片隅のそのまた片隅で生きている人間からすれば実にイヤな話が盛りだくさんだ。
素人目から見ても紙媒体の電子化への流れは明らかである。そしてそれに伴い新聞業界は印刷の縮小、配達の縮小、人員の縮小、といろいろな分野に悪い面で影響が及んでいくのだろう。
しかしそうした流れが急激に進むのか、それとも10年20年かけて徐々に変化していくのかよくわからない。紙とコンピューターのいずれか、ということではなく両者が併存しながら世の中は動いていくからだ。
著者は最後の章でこのような表現を使っている。
ネットの書評を見ていると、アメリカの新聞業界のことしか触れていない、著者の定見がない、などという否定的な感想が目についた。しかし、今日のアメリカは明日の日本の姿、というケースはこれまで多くあったことである。それに日本のメディアがこれからどうなるかなど具体的な見通しなど誰が立てられるというのか。分かる方がいるならぜひ私にご教示していただきたい。場合によっては今後の身の振り方を本気で考えたいからだ。
本書で書いてあることだが、かのグーテンベルクが活版印刷技術を開発した当時、本人も周囲の人も誰一人として「印刷革命」の将来を見通せなかったというのだ。印刷文化がヨーロッパ社会に定着するのに実に100年を要したのである。コンピュータ(ENIAC)が米ペンシルベニア大学で開発されたのも1946年、いまから60年以上も前の話だ。文化の大きな変化というのは長い年月の積み重ねによって訪れるものなのかもしれない。
少なくとも私には、著者の定見が無いというよりも、彼が紙メディアに対して抱いている不安や危機感などが表れているように読み取った。それは著者も紙媒体の世界で仕事をしている人だからに他ならない。
といってもiPadにおいては電子書籍は搭載機能の一つに過ぎない。また以前の日記でも書いているけれど、通信料がかかることもあるので私は今のところ所持する気になれない。ただ、電子書籍というものに対しては人並み以上に興味を抱いている。
そんな私のような人間が注目しているのは、年内には日本版が出るという噂もあるキンドル(Kindle)であろう。キンドルはかのアマゾン(Amazon)社が開発した電子書籍端末である。2007年11月19日に本国アメリカで世に出たが、発売開始5時間半で在庫が無くなったという。アマゾンは売り上げなどの情報を公開しない方針をとっているけれど、2009年のキンドルの販売数は200万台前後と推測されている。
キンドルの特徴は色々ある。「イー・インク」と呼ばれる紙と同じようなモノクロ画面の技術、電子消費量がLCD(液晶画面)の10分の1で済む省エネ設計、本1冊のダウンロードが60秒以下でできる3Gワイヤレス機能の搭載、キンドル1台で1500冊もの電子書籍の保存ができる、などなどだ。
しかしキンドル、というよりアマゾンの凄いところは、ネットワークの使用料を全て会社が負担するということである。ここがiPadと大きく違い、私がグラッときた点だ。だから日本版が出たら購入してみたいと思っている。
ただこの本は「読んでみてキンドルの発売が楽しみになってきた!」などと単純に楽しみになるような内容にはなっていない。本書の特徴はキンドルを取り巻くアメリカ新聞業界の変化についても触れられているからだ。第3章の「米メディア危機と生き残り戦略」では、
「09年に1・5万人が失職」
「ネットが奪った3行広告」
「トリビューンの経営破綻」
といった小見出しが続き、新聞業界の片隅のそのまた片隅で生きている人間からすれば実にイヤな話が盛りだくさんだ。
素人目から見ても紙媒体の電子化への流れは明らかである。そしてそれに伴い新聞業界は印刷の縮小、配達の縮小、人員の縮小、といろいろな分野に悪い面で影響が及んでいくのだろう。
しかしそうした流れが急激に進むのか、それとも10年20年かけて徐々に変化していくのかよくわからない。紙とコンピューターのいずれか、ということではなく両者が併存しながら世の中は動いていくからだ。
著者は最後の章でこのような表現を使っている。
キンドルなどの電子書籍端末は、私たちにとってのルビコン川である。これを渡ってしまえば後戻りできなくなる。2010年は、紙を前提にして5世紀以上も発展した活字印刷の文化がペーパーレスになる時代の幕開けになるだろう。それは、メディアがデジタル時代へと飛翔する契機でもある。ペーパーレスになることで、メディアはルビコン川を渡ることになる。まさに自己革命の前夜を迎えている(P.171)
ネットの書評を見ていると、アメリカの新聞業界のことしか触れていない、著者の定見がない、などという否定的な感想が目についた。しかし、今日のアメリカは明日の日本の姿、というケースはこれまで多くあったことである。それに日本のメディアがこれからどうなるかなど具体的な見通しなど誰が立てられるというのか。分かる方がいるならぜひ私にご教示していただきたい。場合によっては今後の身の振り方を本気で考えたいからだ。
本書で書いてあることだが、かのグーテンベルクが活版印刷技術を開発した当時、本人も周囲の人も誰一人として「印刷革命」の将来を見通せなかったというのだ。印刷文化がヨーロッパ社会に定着するのに実に100年を要したのである。コンピュータ(ENIAC)が米ペンシルベニア大学で開発されたのも1946年、いまから60年以上も前の話だ。文化の大きな変化というのは長い年月の積み重ねによって訪れるものなのかもしれない。
少なくとも私には、著者の定見が無いというよりも、彼が紙メディアに対して抱いている不安や危機感などが表れているように読み取った。それは著者も紙媒体の世界で仕事をしている人だからに他ならない。
昼間の某インド料理店にて
2010年5月8日ゴールデンウイークを終えて木金と出勤してまた連休、といきたいところだが今日は昼間から仕事が入っていた。ただ時間に余裕があったので昼前に某所にある某インド料理店で食事をしようと思い立つ。
この店のランチはスープ、サラダ、カレー2種など一通りの料理が出て800円(税込)という安さだ。しかも味もなかなか良い。
しかし接客の面ではやや難ありという感じである。向こうから来た人と思しき店員は黙って料理を運ぶ以外は基本的に何もしない。注文を頼んだ時に少し話した限りでは日本語もそれほど達者ではなさそうだ。電話の問い合わせがきたら対応できるのだろうかと勝手に心配してしまう。水とかは出ないのかな?と思って周りを見てみると、テーブルの片隅にいつの間にか置いてあった。スプーン類やおしぼりもボンと1ヶ所にかためられている。
ランチの最後はチャイかコーヒーが出てくるとなっている。その確認くらいはしてくるだろうと待っていたら、しばらくして店員は無言でチャイを置いて去っていく。私は別にチャイでもコーヒーでも構わなかったけれど、メニューには「チャイorコーヒー」って書いてるでしょ?と指摘したくなる。
どうも「お客と話さなくても済む接客マニュアル」を作り上げているような気がする。飲み物についても、とりあえずチャイを持ってきてクレームがきたらコーヒーを出す、というやり方でもなっているのだろうか。そんな感じのこの店は京都市内でも7店舗あるのだからなんともすごい話だ。
この店のランチはスープ、サラダ、カレー2種など一通りの料理が出て800円(税込)という安さだ。しかも味もなかなか良い。
しかし接客の面ではやや難ありという感じである。向こうから来た人と思しき店員は黙って料理を運ぶ以外は基本的に何もしない。注文を頼んだ時に少し話した限りでは日本語もそれほど達者ではなさそうだ。電話の問い合わせがきたら対応できるのだろうかと勝手に心配してしまう。水とかは出ないのかな?と思って周りを見てみると、テーブルの片隅にいつの間にか置いてあった。スプーン類やおしぼりもボンと1ヶ所にかためられている。
ランチの最後はチャイかコーヒーが出てくるとなっている。その確認くらいはしてくるだろうと待っていたら、しばらくして店員は無言でチャイを置いて去っていく。私は別にチャイでもコーヒーでも構わなかったけれど、メニューには「チャイorコーヒー」って書いてるでしょ?と指摘したくなる。
どうも「お客と話さなくても済む接客マニュアル」を作り上げているような気がする。飲み物についても、とりあえずチャイを持ってきてクレームがきたらコーヒーを出す、というやり方でもなっているのだろうか。そんな感じのこの店は京都市内でも7店舗あるのだからなんともすごい話だ。
大阪公演の無い全国ツアー
2010年5月7日「ぴあ」から「【チケットぴあ】「山下達郎」チケット情報」という件名のメールが届いていた。前回の「Performance 2008-2009」に引き続き山下達郎が今年もライブをするという。
現時点では全国24ヶ所35公演が予定されているけれど、会場を見ていると異様なことに気づく。北海道から九州まで網羅しているにもかかわらず、大阪公演だけがスコーンと抜けているのだ。前回は4公演も入っていたのに。
その理由はファンなら承知の話で、長年にわたりライブ会場としていたフェスティバルホールが無くなったためである。そもそも「Performance 2008-2009」はフェスティバルホールで最後のライブをするために企画されたツアーだった。山下の思いはわからないけれど、もはや大阪で自分が演奏する場所は無いと思ったのだろうか。それとも、適当な場所を探したけれど見つからなかったのか。いずれにしても、このようなツアー日程を組むのは彼だけだろう。
しかし、となると私が行くとしたら、
9月18日(土)神戸国際会館こくさいホール
9月19日(日)神戸国際会館こくさいホール
9月22日(水)びわ湖ホール大ホール
あたりになってくる。ひとまずどれかを申し込むだろう。
ちなみに京都は適当な会場が無いようで、昔から日程には入っていない。確かライブのMCで、京都会館ではツアーの機材が入らなかった、というようなことを言っていたのを覚えている。
現時点では全国24ヶ所35公演が予定されているけれど、会場を見ていると異様なことに気づく。北海道から九州まで網羅しているにもかかわらず、大阪公演だけがスコーンと抜けているのだ。前回は4公演も入っていたのに。
その理由はファンなら承知の話で、長年にわたりライブ会場としていたフェスティバルホールが無くなったためである。そもそも「Performance 2008-2009」はフェスティバルホールで最後のライブをするために企画されたツアーだった。山下の思いはわからないけれど、もはや大阪で自分が演奏する場所は無いと思ったのだろうか。それとも、適当な場所を探したけれど見つからなかったのか。いずれにしても、このようなツアー日程を組むのは彼だけだろう。
しかし、となると私が行くとしたら、
9月18日(土)神戸国際会館こくさいホール
9月19日(日)神戸国際会館こくさいホール
9月22日(水)びわ湖ホール大ホール
あたりになってくる。ひとまずどれかを申し込むだろう。
ちなみに京都は適当な会場が無いようで、昔から日程には入っていない。確かライブのMCで、京都会館ではツアーの機材が入らなかった、というようなことを言っていたのを覚えている。
久しぶりにファミコンで遊んでいたら
2010年5月4日
5連休の4日目は広島県で30度を超えるなど非常に暑い日となった。京都は29度になると昨日の天気予報で知っていたので、どこに行く予定も立てなかった。といっても昼は自転車を10分ほどこいで御前三条までラーメンを食べに行ったが。自分の前には3人並んでいて、おかげで炎天下の中を10分ほど立って待つことになる。
ラーメンを食べ終わって部屋に戻るも、することが思いつかない。だからといってこんな日に外へ出歩く気ももちろん起きるはずもない。そこで部屋の片隅からファミリーコンピューターを引っ張りだして、大昔のゲームでしばらく遊んでいた。
「ドンキーコング」(任天堂)や「ディグダグ2」(ナムコ)などソフトをとっかえひっかえしたけれど、最も時間を費やしたのが「ハイドライド・スペシャル」(東芝EMI)というゲームだった。
「ハイドライド・スペシャル」はもともと1984年にパソコン用(PCー8800やMSX2など。時代を感じるな)として登場した「ハイドライド」(開発元はT&E SOFT)をファミコン用に移植したものである。かの「ドラゴンクエスト」(エニックス)の2ヶ月前の1986年3月18日に発売されており、「ファミコン初のRPG(ロール・プレイング・ゲーム)」と位置づけられてもいる。確かに敵を倒して経験値を積んだりアイテムを揃えたりしながら主人公を強くしていくシステムや、大ボスを倒してお姫様を救い出すという物語の展開は典型的なRPGの世界といえよう。
しかし最近のゲームと圧倒的に違う点は、その難易度であろう。ゲームを始めたら、主人公(名前はジム)はだだっ広い荒野にいきなり一人で放りだされ、敵に囲まれる。操作方法は続けているうちになんとかなるかもしれないが、このゲームは途中でいくつか「謎とき」があり、大半の人はそこで行き詰まってしまうのである。ヒントなど教えてくれる人など存在しない。今だったらクレームなどが殺到するかもしれないほど不親切な内容かと思われるが、当時のゲームなどそんなものは珍しくなかった。私も最後まで辿り着けず放り出したゲームは数えきれない。
このハイドライド・スペシャルにしても、以前はクリアした経験はあるものの、もうすっかり解き方を忘れてしまっていた。それでも、4時間ほど費やしただろうか、なんとか最後まで行くことができた。ネットで「ハイドライド・スペシャル」を検索すれば攻略方法が出てくるからだ。当時は攻略本を買うか(それでも肝心なことが書いてなくて解けない場合もあった)、実際にゲームをクリアした人に教えを乞うくらいしか方法はなかったのだから、便利な時代になったものである。
しかし久しぶりにファミコンをしてみて、改めて当時ゲームを作っていた人たちの創意工夫には驚かされる。先ほど少し触れた「ドンキーコング」はファミコン初のゲームであるが、容量はたったの「192K」である。しかも「キロバイト」ではなく「キロビット」なのだから、もう現在の尺度から見れば「ショボい」というしかない。
しかし、容量が少ないから内容も乏しい、かといえば必ずしもそうではないから面白い。画像の美しさや音楽などはもちろん今のゲーム機の方が優れてはいるだろう。ただ、ゲームの中に込められているアイデアの豊かさは、容量が潤沢であるばかりに何でもできる現在の環境では生まれてこない気がする。
「痛くない注射針」を開発したことでも知られる岡野工業代表社員の岡野雅行さんは、著書「学校の勉強だけではメシは食えない!」(07年、こう書房)でこんなことを書いている。
「以前、ベトナムにへ行ったときに高校生くらいの子どもから買った怪獣のおもちゃがある。よーく見ると、面白いことに気が付くよ。使っている部品は、全部そこら辺から拾ってきた部品なんだ。廃車になったスーパーカブやなんかから、部品を拾って組み立てているみたいなんだ。それをこんな立派な怪獣の形にして、それを売って稼ぐ。まったく、すごい発想力を持っているよ、途上国の子どもたちは。
俺が子どもだった時代の日本もそうだったよ。子ども時代はおもちゃなんて買ってもらえなかった。だからベトナムの子どもといっしょで、そこら辺にある鉄くずなんかをひろってきちゃ工夫していろんなものを作っていたよ。モノはなかったけれど、楽しい時代だったよ。
(中略)
大切なのは感性だ。今の子どもたちは何不自由なく育っているから、感性が育ちにいよな。だって、今の子どもたち、鉛筆1本削れないだろう。俺たちの子どものころは、鉛筆はもちろんベーゴマだって自分で削っていたよ。こうすればベーゴマがよくまわるようになるって、子どもながらに研究しながら削るんだ。そういうところで技術とか感覚が養われていたんだよな。」(P.164-165)
何不自由無く育つことそれ自体は良いことであるけれど、同時に失っているものも確実にあるということか。
ラーメンを食べ終わって部屋に戻るも、することが思いつかない。だからといってこんな日に外へ出歩く気ももちろん起きるはずもない。そこで部屋の片隅からファミリーコンピューターを引っ張りだして、大昔のゲームでしばらく遊んでいた。
「ドンキーコング」(任天堂)や「ディグダグ2」(ナムコ)などソフトをとっかえひっかえしたけれど、最も時間を費やしたのが「ハイドライド・スペシャル」(東芝EMI)というゲームだった。
「ハイドライド・スペシャル」はもともと1984年にパソコン用(PCー8800やMSX2など。時代を感じるな)として登場した「ハイドライド」(開発元はT&E SOFT)をファミコン用に移植したものである。かの「ドラゴンクエスト」(エニックス)の2ヶ月前の1986年3月18日に発売されており、「ファミコン初のRPG(ロール・プレイング・ゲーム)」と位置づけられてもいる。確かに敵を倒して経験値を積んだりアイテムを揃えたりしながら主人公を強くしていくシステムや、大ボスを倒してお姫様を救い出すという物語の展開は典型的なRPGの世界といえよう。
しかし最近のゲームと圧倒的に違う点は、その難易度であろう。ゲームを始めたら、主人公(名前はジム)はだだっ広い荒野にいきなり一人で放りだされ、敵に囲まれる。操作方法は続けているうちになんとかなるかもしれないが、このゲームは途中でいくつか「謎とき」があり、大半の人はそこで行き詰まってしまうのである。ヒントなど教えてくれる人など存在しない。今だったらクレームなどが殺到するかもしれないほど不親切な内容かと思われるが、当時のゲームなどそんなものは珍しくなかった。私も最後まで辿り着けず放り出したゲームは数えきれない。
このハイドライド・スペシャルにしても、以前はクリアした経験はあるものの、もうすっかり解き方を忘れてしまっていた。それでも、4時間ほど費やしただろうか、なんとか最後まで行くことができた。ネットで「ハイドライド・スペシャル」を検索すれば攻略方法が出てくるからだ。当時は攻略本を買うか(それでも肝心なことが書いてなくて解けない場合もあった)、実際にゲームをクリアした人に教えを乞うくらいしか方法はなかったのだから、便利な時代になったものである。
しかし久しぶりにファミコンをしてみて、改めて当時ゲームを作っていた人たちの創意工夫には驚かされる。先ほど少し触れた「ドンキーコング」はファミコン初のゲームであるが、容量はたったの「192K」である。しかも「キロバイト」ではなく「キロビット」なのだから、もう現在の尺度から見れば「ショボい」というしかない。
しかし、容量が少ないから内容も乏しい、かといえば必ずしもそうではないから面白い。画像の美しさや音楽などはもちろん今のゲーム機の方が優れてはいるだろう。ただ、ゲームの中に込められているアイデアの豊かさは、容量が潤沢であるばかりに何でもできる現在の環境では生まれてこない気がする。
「痛くない注射針」を開発したことでも知られる岡野工業代表社員の岡野雅行さんは、著書「学校の勉強だけではメシは食えない!」(07年、こう書房)でこんなことを書いている。
「以前、ベトナムにへ行ったときに高校生くらいの子どもから買った怪獣のおもちゃがある。よーく見ると、面白いことに気が付くよ。使っている部品は、全部そこら辺から拾ってきた部品なんだ。廃車になったスーパーカブやなんかから、部品を拾って組み立てているみたいなんだ。それをこんな立派な怪獣の形にして、それを売って稼ぐ。まったく、すごい発想力を持っているよ、途上国の子どもたちは。
俺が子どもだった時代の日本もそうだったよ。子ども時代はおもちゃなんて買ってもらえなかった。だからベトナムの子どもといっしょで、そこら辺にある鉄くずなんかをひろってきちゃ工夫していろんなものを作っていたよ。モノはなかったけれど、楽しい時代だったよ。
(中略)
大切なのは感性だ。今の子どもたちは何不自由なく育っているから、感性が育ちにいよな。だって、今の子どもたち、鉛筆1本削れないだろう。俺たちの子どものころは、鉛筆はもちろんベーゴマだって自分で削っていたよ。こうすればベーゴマがよくまわるようになるって、子どもながらに研究しながら削るんだ。そういうところで技術とか感覚が養われていたんだよな。」(P.164-165)
何不自由無く育つことそれ自体は良いことであるけれど、同時に失っているものも確実にあるということか。
本日5月2日は渡辺美里がシングル”I’m free”で「レコード・デビュー」した日である。
その年は1985年だから、そこから25年目を迎えたことになる。だからどうしたと言われたら正直にいって返答に窮するけれど。
私が彼女の7枚目のアルバム「lucky」(91年)初めて買ってからも19年の月日が経つわけだ。だからどうしたと言われたら、また返す言葉もないけれど、ともかくそれだけの年月を重ねてしまった。
あまり自慢できる話ではないけれど、中学3年から高校2年の前半くらいまでの私は明らかに彼女の「信者」だった。それは否定しない。
「この人に一生付いていこう」
そう心に決めたのは1992年8月18日、北海道は真駒内アイスアリーナで初めて彼女のライブを観た経験を抜きには語れない。あれで私の音楽観、いやもしかしたら人生観も決まったような気がする。それほどまでにあの日の体験はもの凄い経験だった。それだけは確信をもって言える。
ただ、もはや「信者」ではない私からの正直な感想を言わせてもらえば、シングル”いつかきっと”(93年)より後の彼女は迷走、いや露骨にいえば凋落の一途をたどっていくことになる。私のファン歴は、そんな姿を見続ける歴史といってもよい。しかしいまだにライブ会場に足を運んでいるというのも、不思議といえば不思議ではあるが。
98年のアルバム「ハダカノココロ」を聴いた時、
「この人は本当に終わったんだな」
と感じてしまったのをいまでもよく覚えている。彼女に対して一番失望したのはこの時期だった。
しかし、彼女のファンを辞めるという選択は私にはどうにもできない。98年から2000年くらいまでの時期の作品やライブは端から見ても辛かったけれど、それでも私はCDを買いライブ会場にも足を運んできた。
そんな中で私自身の人生もいろいろと面倒なことが起こってくる。大学を卒業するも進路がなく、そのまま社会に放り出されて路頭に迷いかけてもいた。初めて当時の「西武ドーム」(もはや西武球場にはドームがかかっていたが)のライブに行ったのもこの時だった。2000年8月5日、西武ライブ15年目の話である。この時のライブは、自分の中では本当に素晴らしかった。彼女が涙を浮かべながらに歌う”サンキュ”を聴いた時、やはりこの人を観てきて良かったと心の底から感じたものである。この時の思いを抱いてこれまで生きてきたような気もする。世間からの評価はどうか。それはもはや知る由もないが、彼女が自分に与えてくれたものはやはり大きかったとしか言うしかない。
今年はデビュー25周年ということもあり、昨日ニッポン放送でラジオ特別番組「渡辺美里のオールナイトニッポンGOLD」が放送された。らしくもなく私はメールで番組に投稿をした。その文章の中で雑誌「Quink Japan」(太田出版)で山下達郎の特集が組まれた時の彼の発言を引用している。
「右に行こうと左に行こうと、変化の時はいつでもそうやっていわれるものなんだ。たとえばあなたが小説を書いたり、映画やTVのシナリオを書いたりすればよく分かる。不特定多数の衆目に晒されると、自分が想像もしていなかった批判が登場する。始めのうちは迷ったり傷付いたりするけど、何度もそういうことに遭遇すると、結局自分のやりたいことで行くしかなくなるんだよ。一体どれくらいの比率の聴衆を代表しているのか分からないような意見に一喜一憂することをやめれば、やるべきことは自ずと見えてくるんだ。チャート1位になっても、片隅にいることから逃げられない。なら自分しかできないことをやろう、と。」
残念ながら番組では採用されなかったけれど(当たり前か)、果たして彼女はこのメッセージをどう読んでくれたのだろうか。10年経とうが20年経とうが、渡辺美里は渡辺美里を続けるしかない。良し悪しとかではなくて、もはやそれしかないと個人的には結論づけている。自分の意志の続く限りは彼女の行く末を追いかけていきたい。いまはそう考えている。
その年は1985年だから、そこから25年目を迎えたことになる。だからどうしたと言われたら正直にいって返答に窮するけれど。
私が彼女の7枚目のアルバム「lucky」(91年)初めて買ってからも19年の月日が経つわけだ。だからどうしたと言われたら、また返す言葉もないけれど、ともかくそれだけの年月を重ねてしまった。
あまり自慢できる話ではないけれど、中学3年から高校2年の前半くらいまでの私は明らかに彼女の「信者」だった。それは否定しない。
「この人に一生付いていこう」
そう心に決めたのは1992年8月18日、北海道は真駒内アイスアリーナで初めて彼女のライブを観た経験を抜きには語れない。あれで私の音楽観、いやもしかしたら人生観も決まったような気がする。それほどまでにあの日の体験はもの凄い経験だった。それだけは確信をもって言える。
ただ、もはや「信者」ではない私からの正直な感想を言わせてもらえば、シングル”いつかきっと”(93年)より後の彼女は迷走、いや露骨にいえば凋落の一途をたどっていくことになる。私のファン歴は、そんな姿を見続ける歴史といってもよい。しかしいまだにライブ会場に足を運んでいるというのも、不思議といえば不思議ではあるが。
98年のアルバム「ハダカノココロ」を聴いた時、
「この人は本当に終わったんだな」
と感じてしまったのをいまでもよく覚えている。彼女に対して一番失望したのはこの時期だった。
しかし、彼女のファンを辞めるという選択は私にはどうにもできない。98年から2000年くらいまでの時期の作品やライブは端から見ても辛かったけれど、それでも私はCDを買いライブ会場にも足を運んできた。
そんな中で私自身の人生もいろいろと面倒なことが起こってくる。大学を卒業するも進路がなく、そのまま社会に放り出されて路頭に迷いかけてもいた。初めて当時の「西武ドーム」(もはや西武球場にはドームがかかっていたが)のライブに行ったのもこの時だった。2000年8月5日、西武ライブ15年目の話である。この時のライブは、自分の中では本当に素晴らしかった。彼女が涙を浮かべながらに歌う”サンキュ”を聴いた時、やはりこの人を観てきて良かったと心の底から感じたものである。この時の思いを抱いてこれまで生きてきたような気もする。世間からの評価はどうか。それはもはや知る由もないが、彼女が自分に与えてくれたものはやはり大きかったとしか言うしかない。
今年はデビュー25周年ということもあり、昨日ニッポン放送でラジオ特別番組「渡辺美里のオールナイトニッポンGOLD」が放送された。らしくもなく私はメールで番組に投稿をした。その文章の中で雑誌「Quink Japan」(太田出版)で山下達郎の特集が組まれた時の彼の発言を引用している。
「右に行こうと左に行こうと、変化の時はいつでもそうやっていわれるものなんだ。たとえばあなたが小説を書いたり、映画やTVのシナリオを書いたりすればよく分かる。不特定多数の衆目に晒されると、自分が想像もしていなかった批判が登場する。始めのうちは迷ったり傷付いたりするけど、何度もそういうことに遭遇すると、結局自分のやりたいことで行くしかなくなるんだよ。一体どれくらいの比率の聴衆を代表しているのか分からないような意見に一喜一憂することをやめれば、やるべきことは自ずと見えてくるんだ。チャート1位になっても、片隅にいることから逃げられない。なら自分しかできないことをやろう、と。」
残念ながら番組では採用されなかったけれど(当たり前か)、果たして彼女はこのメッセージをどう読んでくれたのだろうか。10年経とうが20年経とうが、渡辺美里は渡辺美里を続けるしかない。良し悪しとかではなくて、もはやそれしかないと個人的には結論づけている。自分の意志の続く限りは彼女の行く末を追いかけていきたい。いまはそう考えている。
映画「月に囚(とら)われた男」を観る
2010年5月1日 CD評など5連休の初日は京都シネマでこの映画を観る。図らずも毎月1日は「映画の日」ということで1000円で観ることができた。
この映画に関心を持ったのは、試写会の仕事で配られたこの奇妙なデザインのチラシに惹かれてのことだった。渦巻きの背景に宇宙服を着た男が一人立っていて、そのチラシの左下には、
契約期間:3年
赴任地:月
労働人数:1人
このミッションは何か、おかしい。
とやはり怪しげなことが書かれている。
「月に囚われた男」は文字通り、地球から遠く離れた月面を舞台にしたSF作品だ。監督はかのデヴィッド・ボウイの息子であるダンカン・ジョーンズで、これが彼のデビュー作となる。
近未来の地球は月からエネルギーを供給する時代となっていた。その作業のため月へ送られたのが、主人公のサム・ベル(サム・ロックウェル)という男である。月面にいるのは彼一人であり、ガーティという人口知能ロボットがサムの散髪など身の回りの世話をしてくれる。
月面基地の外とは直接に通信することはできない。地球からビデオが送られてくるのを観るか、こちらから地球へビデオを送る方法だけである。サムの唯一の話し相手はガーティしかいない。
月にたった一人という孤独な任務もあと2週間を切ることになった。サムは地球から送られてきた妻子のビデオを観ながらそれを切望する。しかし、そんな中で彼に突然幻覚が見え始め、周囲に奇妙な出来事が起こり始める---。
チラシに、
低予算:500万ドル(4.5億円)
主要キャスト:1人
撮影日数:33日
とも書かれている通り、映像を観た時から「あまりお金がかかってないなあ」と私でもわかる作りとなっている。登場人物はエキストラ的な人を加えても10人ほどしかいない。映像も基地の中か、月の表面を映すくらいとけっこう単調でもある。こないだ「第9地区」を観たばかりだったから余計にそう感じたのかもしれない。
途中で寝てしまうかも、と予想したけれど結果として最後までつき合うことができた。さきほど言った通り映画の進行は割と淡々としているものの、話の流れの面白さのためかそれほど退屈せずに観ることができたようである。
サムは果たして無事地球に帰れるかと最初は心配したけれど、途中から映画の関心はかなり別の方向にいく。月面に一人で任務というおかしな作業の背景が徐々に明らかになっていくからだ。それは「第9地区」とはまた違った面で悲しい結末が待っている。しかしそれがこの映画の一番の売りかもしれない。
この映画に関心を持ったのは、試写会の仕事で配られたこの奇妙なデザインのチラシに惹かれてのことだった。渦巻きの背景に宇宙服を着た男が一人立っていて、そのチラシの左下には、
契約期間:3年
赴任地:月
労働人数:1人
このミッションは何か、おかしい。
とやはり怪しげなことが書かれている。
「月に囚われた男」は文字通り、地球から遠く離れた月面を舞台にしたSF作品だ。監督はかのデヴィッド・ボウイの息子であるダンカン・ジョーンズで、これが彼のデビュー作となる。
近未来の地球は月からエネルギーを供給する時代となっていた。その作業のため月へ送られたのが、主人公のサム・ベル(サム・ロックウェル)という男である。月面にいるのは彼一人であり、ガーティという人口知能ロボットがサムの散髪など身の回りの世話をしてくれる。
月面基地の外とは直接に通信することはできない。地球からビデオが送られてくるのを観るか、こちらから地球へビデオを送る方法だけである。サムの唯一の話し相手はガーティしかいない。
月にたった一人という孤独な任務もあと2週間を切ることになった。サムは地球から送られてきた妻子のビデオを観ながらそれを切望する。しかし、そんな中で彼に突然幻覚が見え始め、周囲に奇妙な出来事が起こり始める---。
チラシに、
低予算:500万ドル(4.5億円)
主要キャスト:1人
撮影日数:33日
とも書かれている通り、映像を観た時から「あまりお金がかかってないなあ」と私でもわかる作りとなっている。登場人物はエキストラ的な人を加えても10人ほどしかいない。映像も基地の中か、月の表面を映すくらいとけっこう単調でもある。こないだ「第9地区」を観たばかりだったから余計にそう感じたのかもしれない。
途中で寝てしまうかも、と予想したけれど結果として最後までつき合うことができた。さきほど言った通り映画の進行は割と淡々としているものの、話の流れの面白さのためかそれほど退屈せずに観ることができたようである。
サムは果たして無事地球に帰れるかと最初は心配したけれど、途中から映画の関心はかなり別の方向にいく。月面に一人で任務というおかしな作業の背景が徐々に明らかになっていくからだ。それは「第9地区」とはまた違った面で悲しい結末が待っている。しかしそれがこの映画の一番の売りかもしれない。
目が痛いのに気をとられ、
2010年4月30日一昨日あたりからなんとなく体の調子が悪い。喉が腫れているようでずっと痛むし、鼻水やせきもたまに出てくる。
そんな状態が今日も続いているうえ、いつのころか左目までなんだか違和感が生じてきた。今朝コンタクトレンズを新しいものに替えたばかりなのにどうしたことだろう。昼食でラーメン店に入った時、出てくるのを待っているあいだ本を読んでみようとするも、あまりにも目が痛くて集中することができない。
もはや限界と感じコンタクトレンズを外してみた。そして確認してみて愕然とする。レンズがパカッと割れていたのだ、まるでパックマンみたいに。これでは目が痛く感じるのも当然である。ともかく痛みの原因がわかってホッとしながら、出てきた「つけそば」を食べた。
しかし食べ終わってから、大事な事が発覚する。「つけそば」のトッピングに味玉を頼んでいたのが入っていなかったのだ。目が痛いのに気をとられて気づかなかったのだろう。しかしいまさら指摘するわけにもいかない。
会計の時に店員は、つけそば味玉入りで900円です、と当たり前のように言ってくる。仕方なく味玉の100円分も黙って支払った。
現在になっても目の調子はまだ今ひとつ回復していない。
そんな状態が今日も続いているうえ、いつのころか左目までなんだか違和感が生じてきた。今朝コンタクトレンズを新しいものに替えたばかりなのにどうしたことだろう。昼食でラーメン店に入った時、出てくるのを待っているあいだ本を読んでみようとするも、あまりにも目が痛くて集中することができない。
もはや限界と感じコンタクトレンズを外してみた。そして確認してみて愕然とする。レンズがパカッと割れていたのだ、まるでパックマンみたいに。これでは目が痛く感じるのも当然である。ともかく痛みの原因がわかってホッとしながら、出てきた「つけそば」を食べた。
しかし食べ終わってから、大事な事が発覚する。「つけそば」のトッピングに味玉を頼んでいたのが入っていなかったのだ。目が痛いのに気をとられて気づかなかったのだろう。しかしいまさら指摘するわけにもいかない。
会計の時に店員は、つけそば味玉入りで900円です、と当たり前のように言ってくる。仕方なく味玉の100円分も黙って支払った。
現在になっても目の調子はまだ今ひとつ回復していない。
映画「第9地区」を観る
2010年4月27日 CD評など
全米初登場1位にして今年のアカデミー賞に4部門がノミネートされたなどの話題作らしいが、個人的にほとんど関心がなかった。試写会の仕事でこの作品が上映されたこともあり観よう思っただけで、そうでなければ観る機会もなかっただろう。
「第9地区」は南アフリカ共和国を舞台にしたSF作品だ。ある日ヨハネスブルグの上空に正体不明の大きな宇宙船が現れた。中に入っていたのは多くの不気味なエイリアンであり、彼らは難民として地球で生活することとなる。その区域が「第9地区」と呼ばれたが、しかし言葉も通じない容姿の不気味なエイリアンと人間との間には紛争が絶えることがなかった。解決に乗り出したのは超国家機関のMNU(Mulit-National United)であり、エイリアンを人間の住むところとは離れた強制収容所に移住させる計画を立てる。
その困難な作業の白羽の矢を立てられたのがヴィカス(シャルト・コプリー)という1人の男で、彼が陣頭に立ってエイリアンの住む場所に戸別訪問して任務に当たる。ケガを負うなどしながらその日の仕事を終えて部屋に戻ってくると、家族たちから昇進の祝福を受ける。しかしその途中、ヴィカスは黒い血を吐き出して倒れてしまう。エイリアンに接触した彼の体にはいつの間にか恐ろしい変化が起きていたのだ。それによって彼自身の人生も大きく変わっていく・・・。
「ロード・オブ・ザ・リング」で知られるピーター・ジャクソンの名前はあるものの、他には監督も俳優陣も南アフリカで活動している無名な人たちばかりの作品だ。しかしながら、映画の世界は非常にスケールが大きく内容は濃い。南アフリカの広大な光景と、エイリアンや宇宙船がうろうろしている異様な環境の取り合わせは不思議なほど調和している。
後半の主人公ヴィカスやエイリアン、そして宇宙船の行く末を考えると悲しくもやりきれない余韻の残す結末は待っている。ただ最後まで飽きることのなくつき合える傑作であるのは間違いない。
特筆すべきは、地球にやってきたエイリアンの姿の気持ち悪さだろう。あの外見やしぐさはどうにも好きになれないように設計されているのは、おそらく意図的なものに違いない。難民として必死に生きている彼らの立場となって考えるとなんとも理不尽な扱いかもしれないが、そういう気持ちがそれほど起きなかった。やはり私は「人間」の立場で映画を観ていたということになるだろう。
それにしても、かすんだ空にボーッと浮かぶ宇宙船の姿は妙にリアルに映った。CGの技術って凄いなあと感じた次第である。
「第9地区」は南アフリカ共和国を舞台にしたSF作品だ。ある日ヨハネスブルグの上空に正体不明の大きな宇宙船が現れた。中に入っていたのは多くの不気味なエイリアンであり、彼らは難民として地球で生活することとなる。その区域が「第9地区」と呼ばれたが、しかし言葉も通じない容姿の不気味なエイリアンと人間との間には紛争が絶えることがなかった。解決に乗り出したのは超国家機関のMNU(Mulit-National United)であり、エイリアンを人間の住むところとは離れた強制収容所に移住させる計画を立てる。
その困難な作業の白羽の矢を立てられたのがヴィカス(シャルト・コプリー)という1人の男で、彼が陣頭に立ってエイリアンの住む場所に戸別訪問して任務に当たる。ケガを負うなどしながらその日の仕事を終えて部屋に戻ってくると、家族たちから昇進の祝福を受ける。しかしその途中、ヴィカスは黒い血を吐き出して倒れてしまう。エイリアンに接触した彼の体にはいつの間にか恐ろしい変化が起きていたのだ。それによって彼自身の人生も大きく変わっていく・・・。
「ロード・オブ・ザ・リング」で知られるピーター・ジャクソンの名前はあるものの、他には監督も俳優陣も南アフリカで活動している無名な人たちばかりの作品だ。しかしながら、映画の世界は非常にスケールが大きく内容は濃い。南アフリカの広大な光景と、エイリアンや宇宙船がうろうろしている異様な環境の取り合わせは不思議なほど調和している。
後半の主人公ヴィカスやエイリアン、そして宇宙船の行く末を考えると悲しくもやりきれない余韻の残す結末は待っている。ただ最後まで飽きることのなくつき合える傑作であるのは間違いない。
特筆すべきは、地球にやってきたエイリアンの姿の気持ち悪さだろう。あの外見やしぐさはどうにも好きになれないように設計されているのは、おそらく意図的なものに違いない。難民として必死に生きている彼らの立場となって考えるとなんとも理不尽な扱いかもしれないが、そういう気持ちがそれほど起きなかった。やはり私は「人間」の立場で映画を観ていたということになるだろう。
それにしても、かすんだ空にボーッと浮かぶ宇宙船の姿は妙にリアルに映った。CGの技術って凄いなあと感じた次第である。
尾崎豊「十七歳の地図」(83年)
2010年4月25日 CD評など
(1)街の風景
(2)はじまりさえ歌えない
(3)I LOVE YOU
(4)ハイスクールRock’n’Roll
(5)15の夜
(6)十七歳の地図
(7)愛の消えた街
(8)OH MY LITTLE GIRL
(9)傷つけた人々へ
(10)僕が僕であるために
いまから18年前の1992(平成4)年4月25日、高校に入学したばかりの私は北海道のとある山の中で新入生向けの合宿に参加していた。その夜に宿舎の中で誰からともなく、尾崎豊が死んだぞ、と伝わってきたことを今でもなんとなく覚えている。
その時の私にとって尾崎豊という人のイメージはほとんど白紙に近かった。知ってる曲といえば”I Love You”のみで、きれいなバラードを歌う人、というとんでもない思い込みをしていたほどだ。いや、そもそも生前の彼の認知度はそれほど高いものではなかった。最後のアルバム「放熱の証」(92年)の初回出荷分が即日完売でミリオンセラーになったり、過去のアルバムがチャートの上位に入ったりと社会現象になるほどの人気を獲得したのは、すべて彼がこの世を去ってからの話である。
”15の夜”や”卒業”などの曲を私が知ったのももちろん彼の死後のことである。彼に対して特に嫌悪感は抱かなかったが、バイクを盗んだり校舎のガラスを割ったりといった歌詞は自分の住む世界とは違うなと思い、特にのめりこむようなことはなかった。中学生や高校生の頃の私は、ただ単に家と学校との往復の連続であり、酒もタバコも薬もケンカも女も、何一つ縁の無い生活だった。
また社会や学校に対しての問題意識も皆無だった。要するに何も考えてなかったのだと思う。それに当時の自分にはそんなことを考える余裕もなかった気がする。あの頃のことを思い出すのはあまりにも辛い部分があるので、この話はこれくらいにしたい。ともかく、学生時代の私と尾崎豊には接点みたいなものはほとんどなかったことをここでは述べておきたいだけである。
ただそんな私も社会に出て仕事で「学校の先生」という人たちと関わって嫌な思いを幾度となく経験する。
そんな時にふと、
「今頃になって尾崎豊の気持ちもわかってくるなあ・・・」
などと思う時もあった。2001年に出た紙ジャケットCDの「十七歳の地図」を手にしたのもその頃だったのだろう。私が所持している彼のアルバムはこれ1枚限りである。今日は彼の命日ということもあるので、これを機会にアルバムについて色々と感想を書きたい。
まずはこのアルバムの概要を少しまとめてみよう。1965(昭和40)年11月29日生まれの尾崎豊は82(昭和57)年10月、青山学院高等部在学中にCBS・ソニー(現在のソニー・レコード)のオーディションに合格し、翌83(昭和58)年12月1日にシングル”15の夜”とアルバム「十七歳の地図」でデビューした。この作品を作っていた時、彼はタイトル通り若干17歳であったわけである。
尾崎豊というアーティストは音楽性においてそれほど革新的なことをしている人ではない。やはり彼の魅力といえば、そのヴォーカルの存在感と歌詞の世界感になるだろう。
その世界観についてであるが、「十七歳の地図」というのはつくづく象徴的なタイトルに思えてならない。この作品は、まだ社会の仕組みや現実を知らない十代の若者がその想像力の限りを尽くして力一杯に描いた地図なのである。その色は実に鮮やかである一方、「世間の常識」や「大人の論理」といった尺度に照らし合わせてみると様々な矛盾が出てくる世界でもある。平たく言えば、ケチをつけるところが満載の作品なのだ。
「大人や社会を嫌悪してるけど、あんたも間もなく大人になって社会に出るんでしょ?」
「金のためじゃないとか言っているけど、あんただってお金は必要でしょう?」
「盗んだバイクで走り出しても、いずれガソリンが無くなるでしょう?」
こんな感じである。
その「大人の論理」は正しくて筋は通っている。そしてその論理を実証するかのように、以降の彼は創作活動でも私生活においても行き詰まっていくことになる。しかしこのような「大人の論理」が尾崎の頭に少しでも入っていたとしたら、これほどの勢いのある鮮烈な作品は作れなかっただろう。この辺りが彼の魅力であり、また同時に限界にもなっている。
生前の尾崎は何度となく、ファースト・アルバムを越える作品が作れない、と発言していたという。確かにレコード・デビューを果たして、現実のさまざまな問題に直面するようになってからは、それ以前の気持ちで創作活動をすることはもはや無理だったのだろう。「世間の常識」や「大人の論理」というものから完全に解放されているという意味において、このアルバムは彼の最高傑作である。
(2)はじまりさえ歌えない
(3)I LOVE YOU
(4)ハイスクールRock’n’Roll
(5)15の夜
(6)十七歳の地図
(7)愛の消えた街
(8)OH MY LITTLE GIRL
(9)傷つけた人々へ
(10)僕が僕であるために
いまから18年前の1992(平成4)年4月25日、高校に入学したばかりの私は北海道のとある山の中で新入生向けの合宿に参加していた。その夜に宿舎の中で誰からともなく、尾崎豊が死んだぞ、と伝わってきたことを今でもなんとなく覚えている。
その時の私にとって尾崎豊という人のイメージはほとんど白紙に近かった。知ってる曲といえば”I Love You”のみで、きれいなバラードを歌う人、というとんでもない思い込みをしていたほどだ。いや、そもそも生前の彼の認知度はそれほど高いものではなかった。最後のアルバム「放熱の証」(92年)の初回出荷分が即日完売でミリオンセラーになったり、過去のアルバムがチャートの上位に入ったりと社会現象になるほどの人気を獲得したのは、すべて彼がこの世を去ってからの話である。
”15の夜”や”卒業”などの曲を私が知ったのももちろん彼の死後のことである。彼に対して特に嫌悪感は抱かなかったが、バイクを盗んだり校舎のガラスを割ったりといった歌詞は自分の住む世界とは違うなと思い、特にのめりこむようなことはなかった。中学生や高校生の頃の私は、ただ単に家と学校との往復の連続であり、酒もタバコも薬もケンカも女も、何一つ縁の無い生活だった。
また社会や学校に対しての問題意識も皆無だった。要するに何も考えてなかったのだと思う。それに当時の自分にはそんなことを考える余裕もなかった気がする。あの頃のことを思い出すのはあまりにも辛い部分があるので、この話はこれくらいにしたい。ともかく、学生時代の私と尾崎豊には接点みたいなものはほとんどなかったことをここでは述べておきたいだけである。
ただそんな私も社会に出て仕事で「学校の先生」という人たちと関わって嫌な思いを幾度となく経験する。
そんな時にふと、
「今頃になって尾崎豊の気持ちもわかってくるなあ・・・」
などと思う時もあった。2001年に出た紙ジャケットCDの「十七歳の地図」を手にしたのもその頃だったのだろう。私が所持している彼のアルバムはこれ1枚限りである。今日は彼の命日ということもあるので、これを機会にアルバムについて色々と感想を書きたい。
まずはこのアルバムの概要を少しまとめてみよう。1965(昭和40)年11月29日生まれの尾崎豊は82(昭和57)年10月、青山学院高等部在学中にCBS・ソニー(現在のソニー・レコード)のオーディションに合格し、翌83(昭和58)年12月1日にシングル”15の夜”とアルバム「十七歳の地図」でデビューした。この作品を作っていた時、彼はタイトル通り若干17歳であったわけである。
尾崎豊というアーティストは音楽性においてそれほど革新的なことをしている人ではない。やはり彼の魅力といえば、そのヴォーカルの存在感と歌詞の世界感になるだろう。
その世界観についてであるが、「十七歳の地図」というのはつくづく象徴的なタイトルに思えてならない。この作品は、まだ社会の仕組みや現実を知らない十代の若者がその想像力の限りを尽くして力一杯に描いた地図なのである。その色は実に鮮やかである一方、「世間の常識」や「大人の論理」といった尺度に照らし合わせてみると様々な矛盾が出てくる世界でもある。平たく言えば、ケチをつけるところが満載の作品なのだ。
「大人や社会を嫌悪してるけど、あんたも間もなく大人になって社会に出るんでしょ?」
「金のためじゃないとか言っているけど、あんただってお金は必要でしょう?」
「盗んだバイクで走り出しても、いずれガソリンが無くなるでしょう?」
こんな感じである。
その「大人の論理」は正しくて筋は通っている。そしてその論理を実証するかのように、以降の彼は創作活動でも私生活においても行き詰まっていくことになる。しかしこのような「大人の論理」が尾崎の頭に少しでも入っていたとしたら、これほどの勢いのある鮮烈な作品は作れなかっただろう。この辺りが彼の魅力であり、また同時に限界にもなっている。
生前の尾崎は何度となく、ファースト・アルバムを越える作品が作れない、と発言していたという。確かにレコード・デビューを果たして、現実のさまざまな問題に直面するようになってからは、それ以前の気持ちで創作活動をすることはもはや無理だったのだろう。「世間の常識」や「大人の論理」というものから完全に解放されているという意味において、このアルバムは彼の最高傑作である。
ペイヴメント「クルーキッド・レイン」(94年)
2010年4月24日 CD評など
(1) Silence Kit
(2) Elevate Me Later
(3)Stop Breathin’
(4)Cut Your Hair
(5)Newark Wilder
(6)Unfair
(7)Gold Soundz
(8)5-4=Unity
(9)Range Life
(10)Heaven Is a Truck
(11)Hit the Plane Down
(12)Fillmore Jive
この4月10日にペイヴメント(pavement)の11年ぶりの来日公演を観て以来、自分の周囲にあまり良い出来事が起こらなくなっている。しかし、
「あのライブを観て、今年の運を全て使い果たしたかな」
と妙に納得している自分がいる。2010年はもう良いことはないだろう。しかし、それで一向に構わない。そう思うほどにあの日のライブは素晴らしかった。そして、誰になんと言われようとペイヴメントは自分にとって史上最高のバンドである。今日はそんな彼らとの出会いについて書いてみたい。
最初のアルバム「スランティッド&エンチャンティッド」(92年)が発売された当時、アメリカのロックは「オルタナティヴ」という言葉で形容されるミュージシャンが出てきた。オルタナティヴは特定の音楽スタイルについての呼び名ではないので言葉の定義は難しいけれど、広い意味での「パンク・ロック」、それもアメリカのパンク・ムーブメントと思ってもらえたら良いだろう。グリーン・デイのアルバム「ドゥーキー」(94年)が1000万枚も売れたのもこの頃だが、このようなストレートなパンク・ロックがアメリカで大ヒットするということは今までなかった。
他にもニルヴァーナを筆頭に、ソニック・ユースやナイン・インチ・ネイルズなど、今までのヒット・チャートには見られないようなタイプのミュージシャンがどんどん出てきたのがこの時代だ。そして、ペイヴメントもそのような文脈の中で語られるバンドの1つであった。私がこれらのアーティストに興味を持ったのは90年代後半になってからのことである。しかし、なぜかペイヴメントの名前は94年あたりから知ってはいた。札幌にもライブにやって来ており、深夜のテレビでその告知CM(”Cut My Hair”のプロモーション・ビデオが使われていた)を何度も観ている。また音楽雑誌でも彼らの名前を見かけることも多かった気がする。当時はそれなりに注目されていたということか。
しかしながら、実際にアルバムを買って聴いてみようとは全く思わなかった。これらの音楽に対してどうにも興味が持てなかったからだ。例えばナイン・インチ・ネイルズの「ダウンワード・スパイラル」(94年)を初めて聴いた時も、こんなのがチャート2位になるなんて今のアメリカって殺伐としているなあ、という否定的な印象しか持てなかった。今ではどんなものを聴いても特に拒否反応を示すようなことは無くなったから、私の趣味嗜好もずいぶん変わってしまったとつくづく感じてしまう。
当のペイヴメントにしても「ローファイ」だの「脱力系」だのといった聴き手にろくな印象を与えないような形容をされていたため、アルバムを手に取ってみる気も起きなかった。ちなみに「ローファイ(Lo-Fi)」とは、高音質の「ハイ・ファイ(Hi-Fi)」の逆を意味する言葉で、例えばラジカセなどのような粗雑な環境で録音した音を指す。なんでそんなことをする必要があるんだと疑問を持つ方もいるだろうが、メジャーな音楽に対する反発とか、保守化してしまった音楽のリアリティを取り戻すためとか、それなりの意味があったのは間違いない。当時の私にはまったく関心の無い話ではあるが。
ペイヴメントを聴くきっかけは、「UKロックファイル」(97年。音楽之友社)というブリティッシュ・ロックのガイドブックであった。この本を監修した大鷹俊一さんがジョイ・ディヴィジョン(Joy Division)のイアン・カーティスについて書いた文章でペイヴメントのことを触れている箇所がある。ペイヴメントの魅力などは色々な人が語っていると思うけれど、この大鷹さんの文章は私にとって最も説得力があり、もしペイヴメントで検索してここに辿り着いた方は、少し長い引用であるがぜひ読んでいただきたい。
「ジョイ・ディヴィジョンの影響力の深さ、広さを改めてつくづく思い知らされたのは、初来日したペイヴメントにインタヴューしたときのことだった。
ヴォーカルのスティーヴはハイスクール時代をジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダー、キュアー、エコー&ザ・バニーメンなどイギリスのニュー・ウェイヴ・アーティストを聞いて過ごしたという。
ストックトンなんて聞いたこともない田舎町で眩しすぎるカリフォルニアの陽差しを受けながら、イギリスの湿った雨に何十年と打たれた壁の奥から染み出したような音を吐き出し続けたアーティストたちに共感したというのだから、それはさぞかし友だちも出来にくかったことだろうが、その話を聞いて最初にペイヴメントを聞いたときからどうしてあんなに彼らの音に惹かれてきだのだろうという疑問への一番明快な答えにぶちあたったような気がした。
たぶんそれは同じ”時代の感性”を時間や環境を越えて共有できたということなのだろう。もちろんマンチェスターの街や、パンク以降激しく展開していったイギリスのシーンを色濃く反映して生まれたジョイ・ディヴィジョンの音楽を東京やストックトンに住んでいる人間が軽々に共感と言うのは無茶と思われるかもしれないが、何ものかによって頭から押しつけられる閉塞感のリアリティの質はそうは変わりはしないはずだ。
だからこそその感覚を持てない人間にとっては、ヘタクソなバンドの自己満足的な音楽にしか聞こえなかったのだろう。信じられないでしょうが当時はホントにそんな批評があったのだ。その時代の恨み辛みは忘れることはないのだけれど、ペイヴメントのような連中に出会うと、そんな積年の胸のつかえが溶けていく。」(P.66)
当時の私はパンクやニュー・ウェイブのCDもよく集めていて、その過程で出会ったジョイ・ディヴィジョンに夢中だった。これについて書くとまた長くなるのでここでは詳しく書かないけれど、彼らの最後のアルバム「クローサー」(80年)は自分にとって生涯のベスト・アルバムの1枚であり「運命の出会い」を感じた数少ない作品である。それゆえ、ジョイ・ディヴィジョンに影響を受けていたペイヴメントに対して興味を抱くのも必然のことであった。CDショップでこの「クルーキッド・レイン」を買ったのは99年の前半のことだったと記憶している。
1曲目の” Silence Kit”のふざけたようなギターのイントロを聴いた時は、たしかに脱力系とか言われるようなけだるい印象を持った。曲調はヴェルヴェッド・アンダーグラウンドやルー・リードあたりに通じる感じかな、などと最初は感じたような気がする。しかし3曲目の”Stop Breathin’”の間奏に入ったあたりまで聴き進んでいくうちに、
「このアルバムはとんでもない代物なのでは・・・」
と直感した。それはジョイ・ディヴィジョンの「クローサー」を初めて聴いた時にも似た衝撃だった。だが具体的にそれが何かと表現するのは難しい。しかしペイヴメントに惹かれたのはローファイだのオルタナティヴだのといったスタイルに対してではなく、もっともっと根本的なところにおいてである。それだけは間違いない。
音楽のスタイルとか歌詞とかいろいろ分析するのも面白い対象のバンドではあるだろう。しかしジョイ・ディヴィジョンもそうだが、自分にとって彼らがどれほど重要な存在なのかを説明するためには、そのような批評のやり方では絶対に不十分なのである。先ほどの大鷹さんの文章は、ジョイ・ディヴィジョンそしてペイヴメントの魅力の核心を見事に突いたものでありここに引用させてもらった。これを読んで同じペイヴメントのファンの方がどこか共感してくれる部分があったとすればこれ以上嬉しいことはないのだが、果たしてどうだろう。
(2) Elevate Me Later
(3)Stop Breathin’
(4)Cut Your Hair
(5)Newark Wilder
(6)Unfair
(7)Gold Soundz
(8)5-4=Unity
(9)Range Life
(10)Heaven Is a Truck
(11)Hit the Plane Down
(12)Fillmore Jive
この4月10日にペイヴメント(pavement)の11年ぶりの来日公演を観て以来、自分の周囲にあまり良い出来事が起こらなくなっている。しかし、
「あのライブを観て、今年の運を全て使い果たしたかな」
と妙に納得している自分がいる。2010年はもう良いことはないだろう。しかし、それで一向に構わない。そう思うほどにあの日のライブは素晴らしかった。そして、誰になんと言われようとペイヴメントは自分にとって史上最高のバンドである。今日はそんな彼らとの出会いについて書いてみたい。
最初のアルバム「スランティッド&エンチャンティッド」(92年)が発売された当時、アメリカのロックは「オルタナティヴ」という言葉で形容されるミュージシャンが出てきた。オルタナティヴは特定の音楽スタイルについての呼び名ではないので言葉の定義は難しいけれど、広い意味での「パンク・ロック」、それもアメリカのパンク・ムーブメントと思ってもらえたら良いだろう。グリーン・デイのアルバム「ドゥーキー」(94年)が1000万枚も売れたのもこの頃だが、このようなストレートなパンク・ロックがアメリカで大ヒットするということは今までなかった。
他にもニルヴァーナを筆頭に、ソニック・ユースやナイン・インチ・ネイルズなど、今までのヒット・チャートには見られないようなタイプのミュージシャンがどんどん出てきたのがこの時代だ。そして、ペイヴメントもそのような文脈の中で語られるバンドの1つであった。私がこれらのアーティストに興味を持ったのは90年代後半になってからのことである。しかし、なぜかペイヴメントの名前は94年あたりから知ってはいた。札幌にもライブにやって来ており、深夜のテレビでその告知CM(”Cut My Hair”のプロモーション・ビデオが使われていた)を何度も観ている。また音楽雑誌でも彼らの名前を見かけることも多かった気がする。当時はそれなりに注目されていたということか。
しかしながら、実際にアルバムを買って聴いてみようとは全く思わなかった。これらの音楽に対してどうにも興味が持てなかったからだ。例えばナイン・インチ・ネイルズの「ダウンワード・スパイラル」(94年)を初めて聴いた時も、こんなのがチャート2位になるなんて今のアメリカって殺伐としているなあ、という否定的な印象しか持てなかった。今ではどんなものを聴いても特に拒否反応を示すようなことは無くなったから、私の趣味嗜好もずいぶん変わってしまったとつくづく感じてしまう。
当のペイヴメントにしても「ローファイ」だの「脱力系」だのといった聴き手にろくな印象を与えないような形容をされていたため、アルバムを手に取ってみる気も起きなかった。ちなみに「ローファイ(Lo-Fi)」とは、高音質の「ハイ・ファイ(Hi-Fi)」の逆を意味する言葉で、例えばラジカセなどのような粗雑な環境で録音した音を指す。なんでそんなことをする必要があるんだと疑問を持つ方もいるだろうが、メジャーな音楽に対する反発とか、保守化してしまった音楽のリアリティを取り戻すためとか、それなりの意味があったのは間違いない。当時の私にはまったく関心の無い話ではあるが。
ペイヴメントを聴くきっかけは、「UKロックファイル」(97年。音楽之友社)というブリティッシュ・ロックのガイドブックであった。この本を監修した大鷹俊一さんがジョイ・ディヴィジョン(Joy Division)のイアン・カーティスについて書いた文章でペイヴメントのことを触れている箇所がある。ペイヴメントの魅力などは色々な人が語っていると思うけれど、この大鷹さんの文章は私にとって最も説得力があり、もしペイヴメントで検索してここに辿り着いた方は、少し長い引用であるがぜひ読んでいただきたい。
「ジョイ・ディヴィジョンの影響力の深さ、広さを改めてつくづく思い知らされたのは、初来日したペイヴメントにインタヴューしたときのことだった。
ヴォーカルのスティーヴはハイスクール時代をジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダー、キュアー、エコー&ザ・バニーメンなどイギリスのニュー・ウェイヴ・アーティストを聞いて過ごしたという。
ストックトンなんて聞いたこともない田舎町で眩しすぎるカリフォルニアの陽差しを受けながら、イギリスの湿った雨に何十年と打たれた壁の奥から染み出したような音を吐き出し続けたアーティストたちに共感したというのだから、それはさぞかし友だちも出来にくかったことだろうが、その話を聞いて最初にペイヴメントを聞いたときからどうしてあんなに彼らの音に惹かれてきだのだろうという疑問への一番明快な答えにぶちあたったような気がした。
たぶんそれは同じ”時代の感性”を時間や環境を越えて共有できたということなのだろう。もちろんマンチェスターの街や、パンク以降激しく展開していったイギリスのシーンを色濃く反映して生まれたジョイ・ディヴィジョンの音楽を東京やストックトンに住んでいる人間が軽々に共感と言うのは無茶と思われるかもしれないが、何ものかによって頭から押しつけられる閉塞感のリアリティの質はそうは変わりはしないはずだ。
だからこそその感覚を持てない人間にとっては、ヘタクソなバンドの自己満足的な音楽にしか聞こえなかったのだろう。信じられないでしょうが当時はホントにそんな批評があったのだ。その時代の恨み辛みは忘れることはないのだけれど、ペイヴメントのような連中に出会うと、そんな積年の胸のつかえが溶けていく。」(P.66)
当時の私はパンクやニュー・ウェイブのCDもよく集めていて、その過程で出会ったジョイ・ディヴィジョンに夢中だった。これについて書くとまた長くなるのでここでは詳しく書かないけれど、彼らの最後のアルバム「クローサー」(80年)は自分にとって生涯のベスト・アルバムの1枚であり「運命の出会い」を感じた数少ない作品である。それゆえ、ジョイ・ディヴィジョンに影響を受けていたペイヴメントに対して興味を抱くのも必然のことであった。CDショップでこの「クルーキッド・レイン」を買ったのは99年の前半のことだったと記憶している。
1曲目の” Silence Kit”のふざけたようなギターのイントロを聴いた時は、たしかに脱力系とか言われるようなけだるい印象を持った。曲調はヴェルヴェッド・アンダーグラウンドやルー・リードあたりに通じる感じかな、などと最初は感じたような気がする。しかし3曲目の”Stop Breathin’”の間奏に入ったあたりまで聴き進んでいくうちに、
「このアルバムはとんでもない代物なのでは・・・」
と直感した。それはジョイ・ディヴィジョンの「クローサー」を初めて聴いた時にも似た衝撃だった。だが具体的にそれが何かと表現するのは難しい。しかしペイヴメントに惹かれたのはローファイだのオルタナティヴだのといったスタイルに対してではなく、もっともっと根本的なところにおいてである。それだけは間違いない。
音楽のスタイルとか歌詞とかいろいろ分析するのも面白い対象のバンドではあるだろう。しかしジョイ・ディヴィジョンもそうだが、自分にとって彼らがどれほど重要な存在なのかを説明するためには、そのような批評のやり方では絶対に不十分なのである。先ほどの大鷹さんの文章は、ジョイ・ディヴィジョンそしてペイヴメントの魅力の核心を見事に突いたものでありここに引用させてもらった。これを読んで同じペイヴメントのファンの方がどこか共感してくれる部分があったとすればこれ以上嬉しいことはないのだが、果たしてどうだろう。
コミュニティは残酷なバロメーター
2010年4月23日何度か日記で触れているかもしれないが、部屋でテレビのチャンネルは滅多に変えないのでブラウン管はいつも6チャンネル(ABC)が映っている。また番組自体もほとんど関心を持っていないため、何を放送しているのかも意識していない。
そんな私でも、テレビに何度か目にする「AD堀くん」のことがなんとなく気になってきた。今日の日記は彼について書くことが本筋でないので、関心のある方はネットで検索していただきたい。
たとえばウィキペディアを見ていたら、mixiのコミュニティは43000人、などと書いている。「シルシルミシルAD 堀くん」のコミュニティを覗いてみたら55000人以上も登録されている。5万人というのは尋常な数字ではない。堀くんって人気があるんだなあと一瞬は思ったけれど、参加者のコメントを見る限りでは事態はそれほど単純でもないようである。「かわいい」とか「携帯がエヴァ携帯」とかいったコメントに混じって、
「なんだかちょっとずつ人が減ってく…笑」
というのも見つけたからだ。番組が流れるたびにドバッと参加者が増える一方で、コミュニティを離れる人もけっこういるのだろう。
人気が落ち着いていくにつれ、いつか4万人、3万人、2万人と堀くんのコミュもだんだん縮小していくのだろうか。そういうことが如実に出てくるmixiのコミュニティはなかなか残酷に思えてくる。
そんな私でも、テレビに何度か目にする「AD堀くん」のことがなんとなく気になってきた。今日の日記は彼について書くことが本筋でないので、関心のある方はネットで検索していただきたい。
たとえばウィキペディアを見ていたら、mixiのコミュニティは43000人、などと書いている。「シルシルミシルAD 堀くん」のコミュニティを覗いてみたら55000人以上も登録されている。5万人というのは尋常な数字ではない。堀くんって人気があるんだなあと一瞬は思ったけれど、参加者のコメントを見る限りでは事態はそれほど単純でもないようである。「かわいい」とか「携帯がエヴァ携帯」とかいったコメントに混じって、
「なんだかちょっとずつ人が減ってく…笑」
というのも見つけたからだ。番組が流れるたびにドバッと参加者が増える一方で、コミュニティを離れる人もけっこういるのだろう。
人気が落ち着いていくにつれ、いつか4万人、3万人、2万人と堀くんのコミュもだんだん縮小していくのだろうか。そういうことが如実に出てくるmixiのコミュニティはなかなか残酷に思えてくる。
生まれ初めての交通指導
2010年4月21日今日は仕事を休んだ。せっかく天気も良いことだし何かしようと思い立ち、外食をして展覧会に行くことにした。
まず自転車を30分ほどこいで北白川にあるカレー専門店(インド料理と言ったほうが正確か?)「ガラムマサラ」へ2年ぶりくらいに訪問した。
その帰りに下鴨署の前を通ったら、前にいた警察官に呼び止められる。何かマズいことをしたか?と一瞬思ったが、自転車にはツーロックをしましょうというビラを受け取っただけであった。
その後は京都国立博物館で開催の長谷川等伯の展覧会に行く。問題は博物館を出た直後に起こった。近くにいた警察官にまたしても止められたのである。今度は「指導」だというから穏やかではない。
何が引っ掛かったかといえば、私がiPodを聴きながら自転車に乗っていたというのである。事情を聞けば、最近は自転車の事故が多いため取り締まりを強化したらしい。
音楽などを聴きながら自転車に乗るのが条例違反なのは、なんとはなしに知っていた。iPodに限らず携帯などの乗ってる人の集中力を削ぐようなものは、事故の要因になるかどうかといえば、なるに決まっている。
身分証明の提出を言われ、何かの書類に署名させられ、罰金でも取られるかと思いきゃそれで終了であった。
それからはイヤホンもせずひたすら自転車のペダルをこいで西陣に帰ったけれど、いつもより家路は遠いように感じた。
京都府警は、例えば無灯火運転なども取り締まりに動くのだろうか。私の自転車はライトが点かないのだが・・・。いろいろと不安を感じてしまう。
まず自転車を30分ほどこいで北白川にあるカレー専門店(インド料理と言ったほうが正確か?)「ガラムマサラ」へ2年ぶりくらいに訪問した。
その帰りに下鴨署の前を通ったら、前にいた警察官に呼び止められる。何かマズいことをしたか?と一瞬思ったが、自転車にはツーロックをしましょうというビラを受け取っただけであった。
その後は京都国立博物館で開催の長谷川等伯の展覧会に行く。問題は博物館を出た直後に起こった。近くにいた警察官にまたしても止められたのである。今度は「指導」だというから穏やかではない。
何が引っ掛かったかといえば、私がiPodを聴きながら自転車に乗っていたというのである。事情を聞けば、最近は自転車の事故が多いため取り締まりを強化したらしい。
音楽などを聴きながら自転車に乗るのが条例違反なのは、なんとはなしに知っていた。iPodに限らず携帯などの乗ってる人の集中力を削ぐようなものは、事故の要因になるかどうかといえば、なるに決まっている。
身分証明の提出を言われ、何かの書類に署名させられ、罰金でも取られるかと思いきゃそれで終了であった。
それからはイヤホンもせずひたすら自転車のペダルをこいで西陣に帰ったけれど、いつもより家路は遠いように感じた。
京都府警は、例えば無灯火運転なども取り締まりに動くのだろうか。私の自転車はライトが点かないのだが・・・。いろいろと不安を感じてしまう。
長旅に不向きな靴
2010年4月18日後日に感想を書く予定だが、ライブのため先日の金曜から日曜にかけて深夜バスで横浜へ行った。
横浜ではすることもないし、やたら街中を歩き回っていた。そのうちに両足の小指がやたら痛くなってくる。京都に戻って足を確認してみたら案の定、両方に大きな水ぶくれができていた。
原因は明らかで、靴のつま先部分が少し狭いためだ。いままではあまり感じなかったものの、こうやっと遠出をすると問題が出てくる。
長旅をする時は、この靴で行くのを止めよう。
横浜ではすることもないし、やたら街中を歩き回っていた。そのうちに両足の小指がやたら痛くなってくる。京都に戻って足を確認してみたら案の定、両方に大きな水ぶくれができていた。
原因は明らかで、靴のつま先部分が少し狭いためだ。いままではあまり感じなかったものの、こうやっと遠出をすると問題が出てくる。
長旅をする時は、この靴で行くのを止めよう。
ペイヴメント大阪公演(10年4月10日、Zepp Osaka)
2010年4月10日 ライブ・レポート朝から外の仕事が入っているため今日は午前5時30分に目を覚ました。そのまま部屋を出て午後6時前くらいまで勤務するべし、のはずだったけれど職場の人に無理を言って2時には帰らせてもらった。そして部屋を戻って着替えをしてバスで京阪出町柳駅まで向かう。この時期は言うまでもなく桜の季節であり、鴨川近辺は多くの花見の客でごった返していた。駅のホームも明らかにいつもより人が多い。大阪に行ってもそれは同じようなもので、通行人が邪魔で走ることがままならない。
いま思えば、あの時の私は間違いなく苛立っていた。俺は別に観光に来たわけじゃない、大阪に行きたいだけだ、と。そんな感じで急いで向かったものの、仕事の電話が途中で2件入ったことなどもあり会場のZepp Osakaに着くころには、整理番号で200番近くの人が既に入場しているところだった。とはいえ、私は756番という最後の方の番号だからほとんど問題がなかったが。チケットの発売が決まった時に「ぴあ」の先行予約で申し込めばもっと良い番号だったには違いない。しかし色々な理由があってチケットを買うのを直前まで見送っていたからである。しかしながら11年ぶりに再結成したこのバンドを観たいという思いは消えることがなく、やっぱり私はこの会場へ来てしまったわけだ。
このバンドに対する私の思いを簡潔にまとめることはできない。大好きなジョイ・ディヴィジョンの影響を受けたということを知って彼らに興味を持ち、99年に2枚目のアルバム「クルーキッド・レイン」(94年)を初めて聴いた時はとてつもない衝撃を受けたのを今でも覚えている。それからしばらくして出た「テラー・トワイライト」(99年)が自身の生涯ベスト5のアルバムとなり、その流れのまま心斎橋クラブクアトロで来日公演を観る(99年8月22日)。しかしその半年後にバンドは活動停止してしまった。それからしばらくして中心人物のスティーヴ・マルクマスはソロ・アルバム「スティーブ・マルクマス」(01年)を発表して再出発したものの、それにともなう来日公演(01年5月13日、心斎橋クラブクアトロ)が期待と実際の落差があまりにも激しい内容で、私の「生涯最低のライブ」と位置づけるものとなる。あの時はあまりのショックで部屋に帰るのも苦痛だったのも忘れられない思い出だ。
それからはたまにアルバムを引っ張りだして聴いていたものの、もはやこのバンドの音を生で再び体験できるなどとは夢にも思っていなかった。しかし去年の終わり、この2010年限定で活動を再開されるというニュースが飛び出すのだから、世の中というのは全くよくわからない。
チケットを買えたのは良かったものの、お客の入りは残念ながらそれほどでもなかった。東京公演を観た人がmixiの感想で、若いファンもたくさん見かけたなどと書いていたけれど、私が観る限りお客の年齢は20代後半か30代前半というのが大多数だったと思う。前回の来日公演は高校生くらいの女の子もたくさんいたことを思えば、若い聴き手が増えているというのは事実と少し遠い気がする。彼らに対して再評価の動きなどの話も聞いたことがないし、それはそれで仕方ないだろうが。ここに集まったのはたぶん、再結成を願っていたまではいかなくても、ペイヴメントのことをずっと忘れずにいた人たちなのだろう。
私はやや前方のど真ん中に陣取って開演を待つ。楽器などをチェックする人はなぜか阪神タイガースのハッピを着ていた。始まる時間はすこし遅れるかなと予測したが、意外にも午後6時になったらすぐ照明が落ちる。会場からはもの凄い歓声が起きた。そしてついに、11年ぶりに、あのペイヴメントが私たちの目の前に現れた。スティーヴは相変わらず顔が見えないほど前髪をボサボサにして、その巨体をユラユラとギターを揺らしながら舞台左手で演奏している。その姿を観ていると、そういえば11年前もこんな感じのライブだったなあ、などと99年のことを思い出し感慨にふけってしまった。
バンドの出す音は実に素晴らしい。彼らに対してローファイだの脱力系だのと、いかにも無気力そうなイメージを与えかねない評価を時々見かけるけれど、それはとんでもない誤解である。無駄にテンポが速かったり、雑音のようなノイズを出したりするような真似を排して見事にコントロールされているだけのことである。そしてそれは、ペイヴメントの音、というしか形容しようがないものだ。
私が今日のライブで願っていたことがただ一つだけあった。あの「クルーキッド・レイン」の曲を聴きたい。細かいことは色々あるけれど、ひとまずそれだけだった。もはや遠い記憶であまり確信は持てないけれど、99年の大阪公演ではこのアルバムからの曲が1つも演奏されなかったはずだ。いや本当はされていたかもしれないけれど、「1曲も聴けなかった。そのままバンドが解散されて悔しい」と私が11年間もずっと思い続けたのはまぎれもない事実である。
しかしながら”Silence Kit”のイントロが出た時、私の悲願はついに達成された。その他にも、”Rage Life”,、"Unfair"、”Cut Your Hair”、”Stop Breathin’”、”Gold Soudz”、”5-4=unity”と計7曲も演奏されるのだから、もはや何も言うことがなかった。これらの曲を聴いた時には、この11年で失ってしまった何かを取り戻したようなそんな思いに駆られた。演奏曲目は彼らのキャリアから満遍なく選曲された感じだが、「テラー・トワイライト」からは”Spit On A Stranger”が唯一だった。この曲は11年ぶりに聴けたわけで、そういう点でも非常に嬉しかった。
さらに自分でも驚いたのは、”Fight This Generation”が演奏された時である。この曲では実にドライブの効いた間奏が長く続くのだがそれが本当に素晴らしいもので、
「こんなバンド、他に観たことも聴いたこともない・・・」
と思っているうちに、涙がボロボロと出てしまったのである。こんなしみったれたバンドの音に感激する自分は我ながらおかしいと思う。それはともかく最初から最後までステージに釘付けの状態で楽しんだ。
それから、一つ特筆したいことがある。それはこの日の観客の反応であった。ライブの最初から最後までモッシュやダイブのような光景は一度としてなかったのである。無駄に騒ぐわけでなく、しかし盛り上がるべき時はしっかり盛り上がる、という送り手のバンドと受け手のお客とのやり取りが見事であった。その理由は単純に、ペイヴメントのファンの大多数の人に「分別」とか「良識」というものが備わっていたということであろう。そういう面でも私の理想のライブであった。こういう人たちとこの日のライブを共有できたことを光栄に思う。
あまり自分らしい表現ではない気もするけれど、これを観れたらあと10年くらいはなんとかやっていけるかな。今日のこの日まで11年も待ったのだから、そう思えてくる。今年のベスト・ライブなどという域を超えて、我が生涯最高のライブの一つであった。最後に曲目を記す。
【演奏曲目】
(1)In The Mouth A Desert
(2)Shady Lane
(3)Father To A Sister of Thought
(4)Perfume-V
(5)Silence Kit
(6)Grounded
(7)Rattled By The Rush
(8)Kennel District
(9)Zurich Is Stained
(10)Range Life
(11)Loretta’s Scars
(12)Starlings of The Slipstream
(13)Two States
(14)Fight This Generation
(15)Stereo
(16)Summer Babe
(17)Unfair
(18)Cut Your Hair
<アンコール1>
(19)Date With Ikea
(20)Debris Slide
(21)Stop Breathin’
(22)Here
<アンコール2>
(23)Box Elder
(24)Trigger Cut
(25)Spit On A Stranger
(26)Gold Soundz
(27)5-4=Unity
(28)Conduit For Sale!
いま思えば、あの時の私は間違いなく苛立っていた。俺は別に観光に来たわけじゃない、大阪に行きたいだけだ、と。そんな感じで急いで向かったものの、仕事の電話が途中で2件入ったことなどもあり会場のZepp Osakaに着くころには、整理番号で200番近くの人が既に入場しているところだった。とはいえ、私は756番という最後の方の番号だからほとんど問題がなかったが。チケットの発売が決まった時に「ぴあ」の先行予約で申し込めばもっと良い番号だったには違いない。しかし色々な理由があってチケットを買うのを直前まで見送っていたからである。しかしながら11年ぶりに再結成したこのバンドを観たいという思いは消えることがなく、やっぱり私はこの会場へ来てしまったわけだ。
このバンドに対する私の思いを簡潔にまとめることはできない。大好きなジョイ・ディヴィジョンの影響を受けたということを知って彼らに興味を持ち、99年に2枚目のアルバム「クルーキッド・レイン」(94年)を初めて聴いた時はとてつもない衝撃を受けたのを今でも覚えている。それからしばらくして出た「テラー・トワイライト」(99年)が自身の生涯ベスト5のアルバムとなり、その流れのまま心斎橋クラブクアトロで来日公演を観る(99年8月22日)。しかしその半年後にバンドは活動停止してしまった。それからしばらくして中心人物のスティーヴ・マルクマスはソロ・アルバム「スティーブ・マルクマス」(01年)を発表して再出発したものの、それにともなう来日公演(01年5月13日、心斎橋クラブクアトロ)が期待と実際の落差があまりにも激しい内容で、私の「生涯最低のライブ」と位置づけるものとなる。あの時はあまりのショックで部屋に帰るのも苦痛だったのも忘れられない思い出だ。
それからはたまにアルバムを引っ張りだして聴いていたものの、もはやこのバンドの音を生で再び体験できるなどとは夢にも思っていなかった。しかし去年の終わり、この2010年限定で活動を再開されるというニュースが飛び出すのだから、世の中というのは全くよくわからない。
チケットを買えたのは良かったものの、お客の入りは残念ながらそれほどでもなかった。東京公演を観た人がmixiの感想で、若いファンもたくさん見かけたなどと書いていたけれど、私が観る限りお客の年齢は20代後半か30代前半というのが大多数だったと思う。前回の来日公演は高校生くらいの女の子もたくさんいたことを思えば、若い聴き手が増えているというのは事実と少し遠い気がする。彼らに対して再評価の動きなどの話も聞いたことがないし、それはそれで仕方ないだろうが。ここに集まったのはたぶん、再結成を願っていたまではいかなくても、ペイヴメントのことをずっと忘れずにいた人たちなのだろう。
私はやや前方のど真ん中に陣取って開演を待つ。楽器などをチェックする人はなぜか阪神タイガースのハッピを着ていた。始まる時間はすこし遅れるかなと予測したが、意外にも午後6時になったらすぐ照明が落ちる。会場からはもの凄い歓声が起きた。そしてついに、11年ぶりに、あのペイヴメントが私たちの目の前に現れた。スティーヴは相変わらず顔が見えないほど前髪をボサボサにして、その巨体をユラユラとギターを揺らしながら舞台左手で演奏している。その姿を観ていると、そういえば11年前もこんな感じのライブだったなあ、などと99年のことを思い出し感慨にふけってしまった。
バンドの出す音は実に素晴らしい。彼らに対してローファイだの脱力系だのと、いかにも無気力そうなイメージを与えかねない評価を時々見かけるけれど、それはとんでもない誤解である。無駄にテンポが速かったり、雑音のようなノイズを出したりするような真似を排して見事にコントロールされているだけのことである。そしてそれは、ペイヴメントの音、というしか形容しようがないものだ。
私が今日のライブで願っていたことがただ一つだけあった。あの「クルーキッド・レイン」の曲を聴きたい。細かいことは色々あるけれど、ひとまずそれだけだった。もはや遠い記憶であまり確信は持てないけれど、99年の大阪公演ではこのアルバムからの曲が1つも演奏されなかったはずだ。いや本当はされていたかもしれないけれど、「1曲も聴けなかった。そのままバンドが解散されて悔しい」と私が11年間もずっと思い続けたのはまぎれもない事実である。
しかしながら”Silence Kit”のイントロが出た時、私の悲願はついに達成された。その他にも、”Rage Life”,、"Unfair"、”Cut Your Hair”、”Stop Breathin’”、”Gold Soudz”、”5-4=unity”と計7曲も演奏されるのだから、もはや何も言うことがなかった。これらの曲を聴いた時には、この11年で失ってしまった何かを取り戻したようなそんな思いに駆られた。演奏曲目は彼らのキャリアから満遍なく選曲された感じだが、「テラー・トワイライト」からは”Spit On A Stranger”が唯一だった。この曲は11年ぶりに聴けたわけで、そういう点でも非常に嬉しかった。
さらに自分でも驚いたのは、”Fight This Generation”が演奏された時である。この曲では実にドライブの効いた間奏が長く続くのだがそれが本当に素晴らしいもので、
「こんなバンド、他に観たことも聴いたこともない・・・」
と思っているうちに、涙がボロボロと出てしまったのである。こんなしみったれたバンドの音に感激する自分は我ながらおかしいと思う。それはともかく最初から最後までステージに釘付けの状態で楽しんだ。
それから、一つ特筆したいことがある。それはこの日の観客の反応であった。ライブの最初から最後までモッシュやダイブのような光景は一度としてなかったのである。無駄に騒ぐわけでなく、しかし盛り上がるべき時はしっかり盛り上がる、という送り手のバンドと受け手のお客とのやり取りが見事であった。その理由は単純に、ペイヴメントのファンの大多数の人に「分別」とか「良識」というものが備わっていたということであろう。そういう面でも私の理想のライブであった。こういう人たちとこの日のライブを共有できたことを光栄に思う。
あまり自分らしい表現ではない気もするけれど、これを観れたらあと10年くらいはなんとかやっていけるかな。今日のこの日まで11年も待ったのだから、そう思えてくる。今年のベスト・ライブなどという域を超えて、我が生涯最高のライブの一つであった。最後に曲目を記す。
【演奏曲目】
(1)In The Mouth A Desert
(2)Shady Lane
(3)Father To A Sister of Thought
(4)Perfume-V
(5)Silence Kit
(6)Grounded
(7)Rattled By The Rush
(8)Kennel District
(9)Zurich Is Stained
(10)Range Life
(11)Loretta’s Scars
(12)Starlings of The Slipstream
(13)Two States
(14)Fight This Generation
(15)Stereo
(16)Summer Babe
(17)Unfair
(18)Cut Your Hair
<アンコール1>
(19)Date With Ikea
(20)Debris Slide
(21)Stop Breathin’
(22)Here
<アンコール2>
(23)Box Elder
(24)Trigger Cut
(25)Spit On A Stranger
(26)Gold Soundz
(27)5-4=Unity
(28)Conduit For Sale!
iPadの素晴らしさはよくわかりました、が
2010年4月4日本国アメリカで4月3日午前9時、ついに新型携帯端末「iPad(アイパッド)」が発売された。朝のテレビ番組「サンデー・フロントライン」(テレビ朝日系列)でもその模様が映っていて、最初に手にした人など4日前から店の前に並んでいたという。番組で強調されていたのはやはり「電子書籍」の機能である。またその大きさも話題になっており、司会の小宮悦子や番組コメンテーターの一人である藤原帰一(政治学者)は、ちょっと大きいですね、というような感想を述べていた。日本は文庫本が普及しているから、という指摘も出てくる。
iPadの大きさについては私も同じ印象を持った。携帯端末というには少々かさばる大きさではないか。最初はそう感じた。しかしアップルの公式サイトでiPadの広告動画を観てみると、その大きさが「欠点」ではなく「強み」であることが強調されている。
まずディスプレイをあの大きさに設定すれば、本や新聞や雑誌と同じような感覚で文章を読むことができる。そして、アップルの提供している14万以上のアプリケーション・ソフトも全て利用できる。さらに、これは私が一番驚いた点だが、メールを打つ時はディスプレイにキーボード(ノートブックとほぼ同じ大きさ)が表示されるのだ、携帯のようには親指で打つのではなく、両手で文字を入力が可能となっている。これはやはりあれだけの大きさにしているからこそできる技術だ。
そしてアップルはその価格についても触れている。一番安いiPadは日本円にして約4万7000円だが、これは会社にとってかなりの英断だったようだ。新しいテクノロジーというのがは最初は高価で、それから段々と下がっていくのが常である。しかし最初から多くの人の手に行き渡るようにとこの価格にしたというのである。
アップル社がこのiPadにどれほど熱意を持っているかが伝わってくる宣伝だったし、性能も良いことづくめであるというのも理解できた。携帯と比べれば確かに大きいものの、ノートパソコンを持っていくことを考えればずっとコンパクトであるには違いない。そしてなにより電子書籍についての興味は尽きない。
しかし、である。これを観ても私はiPadの購入をどうにも踏み切れそうにない。私の中で引っかかる問題が全く解決されていないからだ。これは多くの人がぶつかると予測されるが、「通信料」の問題である。iPadが携帯端末であるからには、それ自身のための通信料も発生するのは当然だ。部屋のインターネットと携帯電話に加えて、iPadのための通信料まで負担するというのは正直いって苦しいのである。
かのiPhoneは「携帯電話」だったから、機種変更するだけの話で切り替えも簡単でであった。しかし今回のiPadの件については、いくら本体が手頃な価格とはいえ、資金に余裕の無い人にとってはなかなか手が出ないような気がする。
iPadの大きさについては私も同じ印象を持った。携帯端末というには少々かさばる大きさではないか。最初はそう感じた。しかしアップルの公式サイトでiPadの広告動画を観てみると、その大きさが「欠点」ではなく「強み」であることが強調されている。
まずディスプレイをあの大きさに設定すれば、本や新聞や雑誌と同じような感覚で文章を読むことができる。そして、アップルの提供している14万以上のアプリケーション・ソフトも全て利用できる。さらに、これは私が一番驚いた点だが、メールを打つ時はディスプレイにキーボード(ノートブックとほぼ同じ大きさ)が表示されるのだ、携帯のようには親指で打つのではなく、両手で文字を入力が可能となっている。これはやはりあれだけの大きさにしているからこそできる技術だ。
そしてアップルはその価格についても触れている。一番安いiPadは日本円にして約4万7000円だが、これは会社にとってかなりの英断だったようだ。新しいテクノロジーというのがは最初は高価で、それから段々と下がっていくのが常である。しかし最初から多くの人の手に行き渡るようにとこの価格にしたというのである。
アップル社がこのiPadにどれほど熱意を持っているかが伝わってくる宣伝だったし、性能も良いことづくめであるというのも理解できた。携帯と比べれば確かに大きいものの、ノートパソコンを持っていくことを考えればずっとコンパクトであるには違いない。そしてなにより電子書籍についての興味は尽きない。
しかし、である。これを観ても私はiPadの購入をどうにも踏み切れそうにない。私の中で引っかかる問題が全く解決されていないからだ。これは多くの人がぶつかると予測されるが、「通信料」の問題である。iPadが携帯端末であるからには、それ自身のための通信料も発生するのは当然だ。部屋のインターネットと携帯電話に加えて、iPadのための通信料まで負担するというのは正直いって苦しいのである。
かのiPhoneは「携帯電話」だったから、機種変更するだけの話で切り替えも簡単でであった。しかし今回のiPadの件については、いくら本体が手頃な価格とはいえ、資金に余裕の無い人にとってはなかなか手が出ないような気がする。
iTunes Storeで買えたら良かったのだが・・・
2010年3月31日 渡辺美里
3月26日より、渡辺美里の新曲”ぼくらのアーチ”がネット配信でのみ発売された。ネット配信だったら「iTunes Store」でパッと買えると最初は思ったけれど、買うことができなかった。曲を検索しても、”ぼくらのアーチ”どころか、彼女の曲すら1曲も見つからないからだ。
そこで「ソニー・ミュージック・オフィシャルサイト」の美里のページを見てみると、「ぼくらのアーチ」と書かれたバナーがあったのでクリックしてみる。すると「mora(モーラ)」という音楽配信サイトに飛んだ。確かにそこでは”僕らのアーチ”が「210円」で売っている。しかし、ここでも曲を買うことができなかった。私のパソコンはMacのため、そこのサイトには対応していなかったからである。
しかたないので次善の策として携帯から楽曲を「420円」でダウンロードして買うことにした。これでなんとか無事に購入することができたものの、携帯のスピーカーから出てくる音はやはり今ひとつなのは否めない。部屋のどこかにある携帯専用のイヤホンを探さなければそれなりの音質では聴けないだろう。ちなみにiPodなどのイヤホンでは携帯に差し込むことができない形状になっている。
iTune Storeから買えばiPodにも入れられるし都合が良いのだが、それはアップルと同業他社のソニーが許さないということなのだろう。ウォークマンで取り込んで聴け、ということか。
そこで「ソニー・ミュージック・オフィシャルサイト」の美里のページを見てみると、「ぼくらのアーチ」と書かれたバナーがあったのでクリックしてみる。すると「mora(モーラ)」という音楽配信サイトに飛んだ。確かにそこでは”僕らのアーチ”が「210円」で売っている。しかし、ここでも曲を買うことができなかった。私のパソコンはMacのため、そこのサイトには対応していなかったからである。
しかたないので次善の策として携帯から楽曲を「420円」でダウンロードして買うことにした。これでなんとか無事に購入することができたものの、携帯のスピーカーから出てくる音はやはり今ひとつなのは否めない。部屋のどこかにある携帯専用のイヤホンを探さなければそれなりの音質では聴けないだろう。ちなみにiPodなどのイヤホンでは携帯に差し込むことができない形状になっている。
iTune Storeから買えばiPodにも入れられるし都合が良いのだが、それはアップルと同業他社のソニーが許さないということなのだろう。ウォークマンで取り込んで聴け、ということか。
原因不明のパンクの末に
2010年3月28日たしか先々週あたりからの話だったと思う。ある朝、自転車に乗って出勤しようとした時になって後輪の空気がすっかり抜けていることに気づく。前日にパンクした覚えもなかったので、その日はポンプで空気を入れて出勤した。会社までは無事に着けたし問題はないとその時は思った。しかし仕事が終わってまた帰ろうとしたら、後輪の空気がまたけっこう抜けているのである。走れないほどでもなかったので、そのまま自転車をこいで部屋に戻る。帰ってからまた後輪に空気を入れておいた。
しかし翌朝になればまた後輪はスカスカの状態だ。これはおかしい。そこで休みの日に近所の自転車屋に持っていき調べてもらうことにした。するとやはりパンクしていたとのことだった。小さな穴が開いていたよ、とその店のご主人に言われる。その時の代金はパンク修理だけだったので1300円かかった。
その翌日は特に異常はなく1日は終わる。しかしその次の日の朝、またしても後輪の空気が抜けているではないか。わずか2日にしてパンクとは、もう本当に嫌になる。しかし自転車が無いと不便でならないので、その日の午後にまた同じ自転車屋に行ってみる。
今回の状態を訊ねると、
「こないだと10センチも変わらない場所でパンクしていたよ」
ということだった。しかし納得がいかない。こんなに頻繁にパンクなどするものなのだろうか。
「また同じような場所にパンクするなら、チューブごと換えないといけないかもね」
との忠告も受ける。私もそんな気がしてきたけれど、ひとまずこの日は修理した自転車で部屋に戻った。ちなみにこの時の代金は派生しなかった。
そして、その翌々日の朝だっただろうか。朝起きてすぐ後輪を触ってみると、やはりまた空気が抜けていたのである。もはやこれまでと観念した。
三たび同じ自転車屋に行き、
「また同じ症状でした。チューブを交換してください」
と伝える。そして1時間後、私の自転車の後輪はついに新しいものに替わられた。
「後輪はだいぶ擦り減っていたから、交換するのにちょうどいい時期だったかもね」
とご主人に言われたが、そう考えた方が良いかもしれない。
ちなみにチューブの交換は本来4700円の費用がかかるのだが、なぜか3400円で修理をしてくれた。何度も修理に来たので気の毒に思ってくれたのだろうか。ありがたい話だが、ここのご主人には恐縮するばかりである。
しかし翌朝になればまた後輪はスカスカの状態だ。これはおかしい。そこで休みの日に近所の自転車屋に持っていき調べてもらうことにした。するとやはりパンクしていたとのことだった。小さな穴が開いていたよ、とその店のご主人に言われる。その時の代金はパンク修理だけだったので1300円かかった。
その翌日は特に異常はなく1日は終わる。しかしその次の日の朝、またしても後輪の空気が抜けているではないか。わずか2日にしてパンクとは、もう本当に嫌になる。しかし自転車が無いと不便でならないので、その日の午後にまた同じ自転車屋に行ってみる。
今回の状態を訊ねると、
「こないだと10センチも変わらない場所でパンクしていたよ」
ということだった。しかし納得がいかない。こんなに頻繁にパンクなどするものなのだろうか。
「また同じような場所にパンクするなら、チューブごと換えないといけないかもね」
との忠告も受ける。私もそんな気がしてきたけれど、ひとまずこの日は修理した自転車で部屋に戻った。ちなみにこの時の代金は派生しなかった。
そして、その翌々日の朝だっただろうか。朝起きてすぐ後輪を触ってみると、やはりまた空気が抜けていたのである。もはやこれまでと観念した。
三たび同じ自転車屋に行き、
「また同じ症状でした。チューブを交換してください」
と伝える。そして1時間後、私の自転車の後輪はついに新しいものに替わられた。
「後輪はだいぶ擦り減っていたから、交換するのにちょうどいい時期だったかもね」
とご主人に言われたが、そう考えた方が良いかもしれない。
ちなみにチューブの交換は本来4700円の費用がかかるのだが、なぜか3400円で修理をしてくれた。何度も修理に来たので気の毒に思ってくれたのだろうか。ありがたい話だが、ここのご主人には恐縮するばかりである。
1億円以上の役員報酬は個別開示へ
2010年3月24日この3月期から、上場企業で1億円以上の報酬を得ている役員の氏名と金額を開示するよう義務づけられるという。「時事ドットコム」の記事には、「金融危機を境に株主による経営監視が厳しくなっていることを受け、財務状況にそぐわない『お手盛り支給』を一掃するのが狙い」と解説している。
これに対し経済界は反対の意思を表明していた。たとえば経済同友会の桜井正光・代表幹事は、日本の役員報酬は米国ほどは高くない、株主や投資家が知りたいのは役員報酬の総額であり個別の報酬額ではない、といった理由を述べている。経団連も強く反発していた。
しかしながら亀井静香金融相が「経済界が反対しても実施する」と発言していた通り、現在の3党連立政権はこうした団体と関係が希薄なため、今回の処置となったわけだ。
この話を知って、そういえば以前は高額納税者の上位者ランキングである「長者番付」というのがあったな、と思い出してしまった。正式には「高額納税者公示制度」と言われるこの制度は現在の日本ではおこなっていないけれど、以前は新聞やテレビで取り上げられみんなが話題にしていたものである。もっとも私などが見ていたのは、芸能人やミュージシャンの高額納税者だったが。
個別開示にどれほど効果があるかは想像もつかないけれど、長者番付と同じように世間から注目を浴びるような気がする。
これに対し経済界は反対の意思を表明していた。たとえば経済同友会の桜井正光・代表幹事は、日本の役員報酬は米国ほどは高くない、株主や投資家が知りたいのは役員報酬の総額であり個別の報酬額ではない、といった理由を述べている。経団連も強く反発していた。
しかしながら亀井静香金融相が「経済界が反対しても実施する」と発言していた通り、現在の3党連立政権はこうした団体と関係が希薄なため、今回の処置となったわけだ。
この話を知って、そういえば以前は高額納税者の上位者ランキングである「長者番付」というのがあったな、と思い出してしまった。正式には「高額納税者公示制度」と言われるこの制度は現在の日本ではおこなっていないけれど、以前は新聞やテレビで取り上げられみんなが話題にしていたものである。もっとも私などが見ていたのは、芸能人やミュージシャンの高額納税者だったが。
個別開示にどれほど効果があるかは想像もつかないけれど、長者番付と同じように世間から注目を浴びるような気がする。