「2ちゃんねる」などの掲示板で、

「お前、ゆとりだろ」

という悪罵が飛ぶのを見かけたことがある。「ゆとり」とは「ゆとり教育を受けた世代」という意味で、頭が足りなそうなコメントに対してかけられる言葉だ。学習塾の日能研が電車の中吊り広告で展開した、

「ウッソー!?半径×半径×3」

という円周率の簡略化を始め、学校教育の内容がかなり薄っぺらになるということで「ゆとり教育」が世間に注目された。

1976(昭和51)年に生まれた私はもちろん円周率は「3.14」と教えられてきた。だからというわけでもないけれど、下の世代で出来の悪そうな人間を見つけたら「ゆとり」または「ゆとり風」と言ってバカにしていたものだ。しかし本書を読んで非常に衝撃的な事実を知った。それは「ゆとり教育」なるものが実施されたのは1981(昭和56)年にまでさかのぼるということだった。ということは1983(昭和58)年に小学校へ入った私も、すっかり「ゆとり教育」を受けていることになるではないか。

個人的には、「あの時代の人間は・・・」、などというような世代による分類の仕方はしていないつもりだが、今の20代で出来が悪いわりに生意気な奴(アイツとか、アイツとか)に対しては、「アレはゆとりだな」などと半分冗談、半分本気で言っている時がある。いや、そんなことをいってこみ上げる怒りを和らげようとしているのかもしれない。しかし自分も「ゆとり教育」の実施過程にいた世代だとしたら、下の連中をうかつにバカにできなくなってしまう。これは面白くない。

本書の「頭は必ず良くなる」というタイトルだけを見れば、学力はどのようにしたら伸びるか、というようなことが書かれた内容と思われるだろう。もちろんそうした話も出てくるけれど、日垣さんが脳科学者や長年教育現場にいた人などとの対談で構成したこの本は、「ゆとり教育」をはじめとした日本の教育政策がどのように失敗していったということが重大な話題になっているように私には読めた。

まず「ゆとり」という概念が生まれた背景を本書より紹介しよう。

<日垣 77年に全面改正された学習指導要領では、初めて「ゆとり教育」という言葉が出てきました。「受験戦争は悪であり、子どもを摩耗させる。受験戦争から子どもを救え!」という世論に押され、文部省(当時)の理論に「ゆとり」という発想が出てきたのです。77年の改正により、学校での学習内容が3割も減らされました。2002年には、学習内容がさらに3割も減った。現在では週休2日制が実施され、「総合学習(総合的な学習の時間)」という授業がスタートしています。70〜80年代に比べると、学校の授業はおよそ半分になってしまいました。例えば、中学英語では100個しか単語を覚えなくてよく、台形の面積など計算できなくても良いということになってしまった。>(P.223)

こうしてまず中学校では週4時間「ゆとり」の時間が新設され、英語の授業が週4時間から3時間となる。授業の削減はどんどん進み、20年の間に中学校の年間授業時間が1000時間(!)も少なくなってしまったのである。私が中学生だったのは89年4月から92年3月までの期間だが、この時点ではどれほど学習時間が減っていのだろうか。考えてみると嫌な話である。

学習時間や内容の細かいことを列挙するとキリがないけれど、当時の文部省の政策には、受験戦争や詰め込み教育が悪であるという考え方が根底にあった。だが「受験戦争」が子どもに悪い影響を与えているのだろうか。いやそもそも「受験戦争」なるもの自体がそもそも存在していたのだろうか。本書ではそのあたりに疑問を呈している。

<日垣 (中略)65〜75年には、文字どおり”受験戦争”がありました。ところがこの時期、実は少年犯罪が激減しています。受験戦争と少年犯罪の減少に、相関関係があると断言できません。しかし現実として、数字の上で少年犯罪は完全に減っています。>(P.214)

これを受けて精神科医の和田秀樹さんが、

<和田 60年代の中ごろから80年代の中ごろは、世界的に「子どもを自由にしよう」という機運がある時代でした。アメリカでは、「カフェテリア方式」といいまして、好きな科目だけをとって単位が足りたら卒業ができたり、校則をどんどんなくしたり、自主性を伸ばす勉強の仕方をどんどん導入していったのです。イギリスも同様です。日本で受験戦争が起こっていた時代に、欧米では逆に子どもを自由にしていた。そのときに不思議な現象が起こりました。ルールがゆるくなったのですから当然ですが、欧米で少年犯罪が増えてしまったのです。子どもの自殺率もものすごく増えました。アメリカでは15〜19歳の自殺率が、なんと3倍にも増えてしまいました。>(P.215)

皮肉な話だが、受験勉強の厳しかった時代の日本では少年犯罪が減少し、子どもを自由にさせた欧米は犯罪と自殺が激増したという歴史がある。この事実をどう受け止めたらいいのだろう。個人的には、まだ精神的に不安定な時期の子どもに何も方針を与えず野放しにして良い結果が出るというのはあまりにムシが良すぎる話だと感じる。子どもの自主性を尊ぶというならば、それを突き詰めると学校教育そのものが必要なくなるという話になってしまう。文部科学省が無くなるというなら、それはそれで結構かもしれないが。

そして、文部省がもう一つ決定的に見誤った点がある。それは、日本がアメリカの教育モデルを良いものとして手本にしてしまったことだ。宇多田ヒカルがコロンビア大学を入って中退した例など、アメリカの大学といえば「入るのは簡単で、出るのは難しい」というイメージで、日本の大学とは好対照で高いレベルの学力があると思われている。私もそう感じていたが、実際はそんな単純な話ではない。

<日垣 (中略)アメリカの大学生は毎週大量の本を読んでいるとか、入学は楽だけれども卒業は大変だということについて、日本ではすごく良いことのように受け止められてきました。しかし、実際はそういうことではありません。アメリカは初等中等教育に失敗したので、大学で大量の詰めこみをしなければならなかったのです。当時の日本は、初等中等教育で詰め込み教育をやったことによって、アメリカよりもずっと成功していました。それなのに「アメリカに学べ!」と学校教育のカリキュラムを減らし、子どもたちの思考力を奪ってしまった。>(P.236)

アメリカの初等教育の失敗は本当に酷いようで、読み書きのできない人が人口の13%もいるという。そういう国を日本は手本にしているのだ。

日垣さんは、

<人が何かを獲得するときに詰めこみなければ道は開けません>(P.222)

と指摘している。誰でもこれまで生きたことを振り返れば、自然とそういう結論が導かれるだろう。

現在の文部科学省は果たしてどのような観点で教育政策を考えているのかはわからない。ただ、あと1点だけ気になることを最後に指摘したい。92年に日本では「新学力観」というものが提唱された。簡単にいうと、点数で競争するのではなく、学習に取り組む姿勢を重要視するというものだ。これによって通知表のつけ方が変わり、たとえばテストの点数が良くても先生の話を聞いていないような生徒は評価が悪くなってしまう。教師の顔色をうかがうことも学習には重要になるわけだ。

また、文部科学省が押し進める「観点新評価」というものがある。生徒が先生からどう見られるか、友だちが多いかどうかといった側面まで重視されるという。友だちが多いかどうかといったら、私の評価は間違いなく「1」だろう(笑)。

それはともかく、こうしたものを眺めていると、文部科学省が子どもをどのように育てたいかがなんとなく見えてくる気がする。つまりは上に従順で協調性のある人間であろう。つくづく都合の良い話だと思う一方、学力や人間性などというものは簡単に作り出すことができないというのも一面の真実だろう。

日垣さんは、

<アメリカは、自分で物事を判断するのではなく、まわりの人に合わせる典型の社会だと思います。日本もアメリカ型の社会を目指しながら、なおかつ教育や子育ての中心に子どもの自立を置いてきました。現在、学校教育には子どもの歯止め効果がなくなり、家庭での躾(しつけ)の能力も落ちてしまった。確固たる自分をもたず、ものすごくわがままで、人に合わせることだけに長けた子どもが大量に生まれてしまっています。>(P.274-275)

私は子どもを持つこともないし、実のところ教育に対してそれほど関心があるわけではない。ただ、「確固たる自分をもたず、ものすごくわがままで、人に合わせることだけに長けた」人間は私の周囲にもちらほらいることを思うと、この国の将来ってどうなるのかなあと、ちょっとだけ暗澹たる気持ちにはなる。

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