橘玲(作家)さんが7月7日のブログに掲載した文章が様々な示唆に富んでいて非常に面白かった。「信なくば立たず」と題されたその文章は、橘さんが保護者面談のために夜の小学校を訪れるところから始まる。そこで十数人の母親が教室で若い女性を取り囲んでいる光景に出会う。あとで聞いた話では、その教師は生徒を管理できないためトラブルが絶えなかったというのだ。

<私が見たのは、クラスの母親たちが学級運営について教師に問い質している場面だった。いまなら“モンスターペアレント”ということになるだろうが、当時はそのような言葉もなく、親が教師を私刑(リンチ)するかのような光景に大きな衝撃を受けたことを覚えている。>

だが、昔の教師はこのような仕打ちを受けることなどありえなかった。なぜなら1960年代までは大卒の人間というのは地方にも稀少な存在だったからだ。よって教師は地域社会や親からは尊敬のまなざしの目に見られる存在でいられたのである(人間的魅力があるかどうかにかかわらず)。

しかし経済成長にともない日本の大学進学率がどんどん上がっていき大卒も珍しい存在ではなくなっていく。それに反比例して教師の権威は相対的に落ち込んでいった。

<ひとはみな平等であり、教師と生徒は“ひと”と“ひと”して対等である。だが教育という営みは、教師が生徒よりも“エラい”という階層性(差別)を前提としなければ成り立たない。ひとたび校門をくぐったら、「学校」という舞台の上で、教師は「教師」の役を、生徒は「生徒」の役を演じなければならないのだ。
ところが1970年代以降の消費大衆社会のなかで、教師と生徒の「差別」構造は解体してしまった(その象徴が「金八先生」だ)。生徒は、自分と「対等」の人間からなにかを学ぼうとは思わない。学校から教育が失われるのは当然だったのだ。>

そういえば、いわゆる「ゆとり教育」で学習内容が削減されたのも81年からであるが、こうした「教育改革」も教育現場が荒廃に拍車をかけたことも大きいに違いない。「校内暴力」と言われるようなものは減っていくものの、陰湿な「いじめ」が問題になっていくのも80年代あたりからだ。

この文章は最後で、

<最近の政治の迷走を見て、この古い記憶がよみがえった。夜の教室ですすり泣いていたあの女性教師は、いまごろどうしているだろうか。>

と締められている。おそらく、現在の政治家も権威を失った結果として国民からすっかり支持を失っている、というようなことを橘さんは暗に示したかったのだと私は解釈する。

教育(教師と生徒との関係)でも政治(政治家と国民との関係)でも、ある程度の権威がなければ機能しなくなる。それが失ってしまったら、たとえ小手先の処置をしたところで回復することはできないのだ。

ところで、この権威の崩壊というのは様々な現場でおきている現象だ。いま述べた教育現場や政治はもちろん、大学のようなアカデミズムの世界、官公庁、企業などなど。やはり、インターネットの発達によりいままでは隠されていた情報が多くの人に共有されたことが大きいのだろう。それによってかつては「なんだかよくわからないけど凄い人」と思われていた人たちが、実は私たちとたいして変わらない人だとバレてしまったのである。権威がなくなる、とはつまりそういうことだ。

IT化によってもたらされたものは大きい。プラスの面も多いことには違いないだろう。しかし一方でいろいろなものを破壊していったことも否定できない。そんな光景が教育現場という例で非常にわかりやすく書かれた文章だと思う。

原文はこちら。
http://www.tachibana-akira.com/2011/07/2834

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