7月23日にイギリスの歌手、エイミー・ワインハウスが自宅で亡くなった。まだ27歳の若さで、死因は薬物の過剰摂取とみられている。
と書いておきながら、この人の音楽をまともに聴いたことはこれまでなかった。奇行の多い人、という噂が耳に入っていたのでなんとなく遠ざかっていたのだと思う。だから,彼女についてあれこれ書く材料は私の中にはない。
しかし、ミュージシャンにとって27歳というのは鬼門なのだろうか。ロバート・ジョンソンからジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、カート・コバーンと、この歳で亡くなった伝説的ミュージシャンは多い。そしてエイミーのその中に加わってしまったわけだ。尾崎豊は享年26歳である。
こういう訃報に接したら悲しむのが当然ではあるものの、おかしなファン心理というのがあるもので、老いて醜い姿を晒すくらいなら輝いている時に死んでもらったほうが良い、などと考える輩も出てくる。例えばザ・キュアーのロバート・スミスは、デヴィッド・ボウイはアルバム「ロウ」(77年)が出た後に死んでしまえばよかった、などと言っていたらしい。自分も同じことを言われているかもしれないのに。
「Don’t Trust Over Thirty」(30歳を過ぎた連中は信じない)というのは、自分がその年齢に達することを念頭においていない発言である。調べてみるとこれは70年代のヒッピー文化の時に生まれた言葉らしい。なるほど、どうりで青臭いわけだ。
彼らの言い分はいちおう理解している。美しいものがボロボロに朽ち果てていく姿を見るのは辛い。しかし、そんなことを思っている自分だって同じ運命をたどっていくのだ。
そういえば、こういう運命に抗おうとする男について書いた小説がかつてあった。谷崎潤一郎の「春琴抄」(1933年)である。といっても私は小説そのものを読んでいないので、あらすじを引用したい。少し長いけれど、これをちゃんと読んだ人も少ないと思うので紹介させてもらう。
<大阪の商家の娘春琴はまれに見る美貌であったが、八歳の時失明し、以後琴の世界に生き、十五歳で春松検校門下の随一となった。その春琴には、佐助という青年が仕えていた。二人の関係は異常ともいえるものだった。
佐助はひたすら春琴に身を粉にして仕えていく。春琴は一時も佐助なしではいられない。化粧から、着替え、外出するときも、佐助が春琴の手を引いていく。
一つ象徴的な場面がある。
春琴が弟子の家に呼ばれて稽古をつけるとき、用を足したくなっても目が見えない。佐助がそっと彼女の表情からそれを察し、誰にも気づかれないようにそっと手を引き厠に連れて行く。
うっかり春琴の様子に気がつかないでいたら、春琴はいきなりバチで佐助の顔を切り、さっさと立ち上がり一人で便所へ向かっていく。後から、佐助があわてて追いかけるという按配である。
万事がこんな具合だった。
ある時、一人の放蕩息子の求婚を春琴が激しくはねつけたため、ある夜何者かが春琴の寝室に忍び込み、その美しい顔に熱湯を浴びせて逃げるという事件が起こった。
春琴の叫び声を聞きつけた佐助は、暗闇の中を両手で隠してうずくまっている春琴を見つけた。
春琴の顔はひどい火傷のため、包帯をぐるぐる巻き付けてある。彼女はその包帯を取る日をおびえた。佐助だけにはその顔を見られたくない。
佐助は春琴のそんな気持ちをくみ取り、一人鏡台の前に座り、鏡で自分の目を見ながら針で両目を一つずつつぶしていく。
これが「春琴抄」の世界だが、まさに谷崎文学の美の極致ではないだろうか。佐助にとって春琴はひたすら気高く、自分には手の届かない存在でなければならない。だからこそ、春琴は佐助に甘えたり、優しい言葉をかけてはならないのだ。ただの男女と成り下がるとき、この恋は終わる。お互い愛し、やがて、飽き、別れるだけではないか。
だが、佐助がどれほど春琴に恋い焦がれても、やがて人間は年を取り、いつまでもその美貌を留めることができなくなる。だから、春琴はまだ若く、一番美しいときに、偶然であっても、佐助は自ら自分の目をつぶした。
だから、佐助の脳裏には永遠に美しい春琴が住み着いたのである。>(出口汪「出口汪の頭がよくなるスーパー読書術」、05年、青春出版社。P212-214)
個人的にはもう要約だけで十分です、という内容だ。しかし、自分の目をつぶしてしまうという愛情は並大抵のものではないことだけは伝わってくる。ロバート・スミスの発言にはそのような思いは一欠片も感じられないし、目や耳をつぶすような覚悟もないだろう。
私の中でも、好きなミュージシャンはずっと格好良くいてほしい、という思いはゼロではない。実際、ヴァン・モリソンやニール・ヤングやルー・リードなど、いくつになっても凄いエネルギーを出している人たちは存在する。しかし彼らは本当に奇跡的な部類であろう。多くのミュージシャンは10年も活動すれば創造力も肉体も衰えてくる。音楽活動自体を止めてしまう人だっているだろう。それに対して難癖をつけるのは簡単だが、結局それは自分に返ってくるということを多くの音楽ファンはライターは気づいていない。そういう自分はどうなのか、と言われたら返す言葉もない人がほとんどだろう。
私がよくライブに行くミュージシャンの中にも、お世辞にも順風満帆といえない人はいる。再浮上するということも無い気がする。しかしそれでももがき苦しみながら音楽活動を続けている姿から学んだりすることも少なくない。長年にわたり第一線で活躍している人よりも何倍もリアリティを感じてしまうからだ。
いやもしかしたら、こうしたミュージシャンにもう一人の自分を見ているような、そんな気になってしまうのかもしれない。若くして人生が終わってしまうというのは、やはり損だと思う。
と書いておきながら、この人の音楽をまともに聴いたことはこれまでなかった。奇行の多い人、という噂が耳に入っていたのでなんとなく遠ざかっていたのだと思う。だから,彼女についてあれこれ書く材料は私の中にはない。
しかし、ミュージシャンにとって27歳というのは鬼門なのだろうか。ロバート・ジョンソンからジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、カート・コバーンと、この歳で亡くなった伝説的ミュージシャンは多い。そしてエイミーのその中に加わってしまったわけだ。尾崎豊は享年26歳である。
こういう訃報に接したら悲しむのが当然ではあるものの、おかしなファン心理というのがあるもので、老いて醜い姿を晒すくらいなら輝いている時に死んでもらったほうが良い、などと考える輩も出てくる。例えばザ・キュアーのロバート・スミスは、デヴィッド・ボウイはアルバム「ロウ」(77年)が出た後に死んでしまえばよかった、などと言っていたらしい。自分も同じことを言われているかもしれないのに。
「Don’t Trust Over Thirty」(30歳を過ぎた連中は信じない)というのは、自分がその年齢に達することを念頭においていない発言である。調べてみるとこれは70年代のヒッピー文化の時に生まれた言葉らしい。なるほど、どうりで青臭いわけだ。
彼らの言い分はいちおう理解している。美しいものがボロボロに朽ち果てていく姿を見るのは辛い。しかし、そんなことを思っている自分だって同じ運命をたどっていくのだ。
そういえば、こういう運命に抗おうとする男について書いた小説がかつてあった。谷崎潤一郎の「春琴抄」(1933年)である。といっても私は小説そのものを読んでいないので、あらすじを引用したい。少し長いけれど、これをちゃんと読んだ人も少ないと思うので紹介させてもらう。
<大阪の商家の娘春琴はまれに見る美貌であったが、八歳の時失明し、以後琴の世界に生き、十五歳で春松検校門下の随一となった。その春琴には、佐助という青年が仕えていた。二人の関係は異常ともいえるものだった。
佐助はひたすら春琴に身を粉にして仕えていく。春琴は一時も佐助なしではいられない。化粧から、着替え、外出するときも、佐助が春琴の手を引いていく。
一つ象徴的な場面がある。
春琴が弟子の家に呼ばれて稽古をつけるとき、用を足したくなっても目が見えない。佐助がそっと彼女の表情からそれを察し、誰にも気づかれないようにそっと手を引き厠に連れて行く。
うっかり春琴の様子に気がつかないでいたら、春琴はいきなりバチで佐助の顔を切り、さっさと立ち上がり一人で便所へ向かっていく。後から、佐助があわてて追いかけるという按配である。
万事がこんな具合だった。
ある時、一人の放蕩息子の求婚を春琴が激しくはねつけたため、ある夜何者かが春琴の寝室に忍び込み、その美しい顔に熱湯を浴びせて逃げるという事件が起こった。
春琴の叫び声を聞きつけた佐助は、暗闇の中を両手で隠してうずくまっている春琴を見つけた。
春琴の顔はひどい火傷のため、包帯をぐるぐる巻き付けてある。彼女はその包帯を取る日をおびえた。佐助だけにはその顔を見られたくない。
佐助は春琴のそんな気持ちをくみ取り、一人鏡台の前に座り、鏡で自分の目を見ながら針で両目を一つずつつぶしていく。
これが「春琴抄」の世界だが、まさに谷崎文学の美の極致ではないだろうか。佐助にとって春琴はひたすら気高く、自分には手の届かない存在でなければならない。だからこそ、春琴は佐助に甘えたり、優しい言葉をかけてはならないのだ。ただの男女と成り下がるとき、この恋は終わる。お互い愛し、やがて、飽き、別れるだけではないか。
だが、佐助がどれほど春琴に恋い焦がれても、やがて人間は年を取り、いつまでもその美貌を留めることができなくなる。だから、春琴はまだ若く、一番美しいときに、偶然であっても、佐助は自ら自分の目をつぶした。
だから、佐助の脳裏には永遠に美しい春琴が住み着いたのである。>(出口汪「出口汪の頭がよくなるスーパー読書術」、05年、青春出版社。P212-214)
個人的にはもう要約だけで十分です、という内容だ。しかし、自分の目をつぶしてしまうという愛情は並大抵のものではないことだけは伝わってくる。ロバート・スミスの発言にはそのような思いは一欠片も感じられないし、目や耳をつぶすような覚悟もないだろう。
私の中でも、好きなミュージシャンはずっと格好良くいてほしい、という思いはゼロではない。実際、ヴァン・モリソンやニール・ヤングやルー・リードなど、いくつになっても凄いエネルギーを出している人たちは存在する。しかし彼らは本当に奇跡的な部類であろう。多くのミュージシャンは10年も活動すれば創造力も肉体も衰えてくる。音楽活動自体を止めてしまう人だっているだろう。それに対して難癖をつけるのは簡単だが、結局それは自分に返ってくるということを多くの音楽ファンはライターは気づいていない。そういう自分はどうなのか、と言われたら返す言葉もない人がほとんどだろう。
私がよくライブに行くミュージシャンの中にも、お世辞にも順風満帆といえない人はいる。再浮上するということも無い気がする。しかしそれでももがき苦しみながら音楽活動を続けている姿から学んだりすることも少なくない。長年にわたり第一線で活躍している人よりも何倍もリアリティを感じてしまうからだ。
いやもしかしたら、こうしたミュージシャンにもう一人の自分を見ているような、そんな気になってしまうのかもしれない。若くして人生が終わってしまうというのは、やはり損だと思う。